2023年5月5日金曜日

短歌による座談会2 お相撲さん

 同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 司会
 アシスタント
 鱶助くん
(ふかすけ 深読みサポートAI)
という架空の三人を置き、
「短歌和歌たちが自発的に参加する座談会」
というコンセプトで編成してみました。

作者の歌人が参加するのでなく、歌自身が参加するという、ちょっと変わった趣向です。

追記:今回については、「スタッフが喋りすぎて、短歌の座談会になってない」とのご批判を短歌のみなさまよりいただきました。次回から改善いたします。

では、
とざいとーざーい


◆お題 お相撲さん 

司会「[お相撲さん]って短歌にときどき詠まれていますよね。すごくいっぱい、というほどではないけれど、ああ、見たことある、と思いませんか。そしてそれは、けっこう印象深い歌ではありませんか。

というわけで、来たれ お相撲さんの歌!」


■身体の存在感(肉感・質感・体積・重量など)


司会「お相撲さんといえば、なんといっても身体の大きさ、重量感。」

エレベーターに乗らむとすれば現身の相撲取りひとりが先に乗りゐる
ルビ:現身【げんしん】
小池光『時のめぐりに』

司会「おお早速にありがとうございます。
 そう! お相撲さんの体積は何人分の空間を占めるか、重量はだいじょうぶか。エレベーターにあとから乗る者としてはいろいろ気になります。
 現身を[げんしん]と読ませるのも、体積感と重量感の強調表現でしょうか。[うつしみ]じゃなんだかひょろひょろ弱々しいからあえてこう読むんだな、と思いました。」

お相撲さんとすれちがう度にんげんについてハッと考えてきた
杉山モナミかばん」2003・1

司会「むむむ。わかる気がします。でも、私は何をわかったんだろう……。」

鱶助「肉体感の強さによって、通常の[にんげん]イメージがハッとリセットされ、把握し直すのではなかろうか。[にんげん]というひらがな表記は、漢字よりも裸な感じがするし、[にんげん]というものを一字一字確認するような心の課程に添ってもいる。
 この歌の飛躍はそういうものを足下に見ながら一気に飛び越すものであり、読者はそれをうすうす感じる。
その[うすうす]効果が、[わかる気がするけれど、何をわかったかわからない]なのである。歌のタイプのひとつだ。」

司会「うすうす効果。歌のタイプのひとつ……。じゃあ、つまり、わかった気がする、という感想は適切なんですね。」

淡雪をあるけば臍があたらしい 空と抱きあう力士に出会う
ルビ:臍【ほぞ】
東直子青卵』2001

司会「あ、この歌も、何かを勝手にわかってしまった気がして、でもそれが何なのかわからない、っていう感じ。さっきと同じタイプでしょうか。」

鱶助「ほぼ似ている。
 まずは上の句の[淡雪をあるく]。なんとなくリフレッシュ感がある。
 淡雪の日の空気感、踏んだ感触、ほんのりつく足跡などに対する、人間のベーシックな感覚としてのリフレッシュ感だろう。これは主に身体が、呼吸器や肌で感知するものだが、[淡雪]という言葉の語感やイメージも加わっている。
[淡雪]=[雪](世界を塗り替えるイメージ)
        +[淡](そのかすかな始まりのイメージ)
 この歌の非凡な点は、そのリフレッシュ感を、呼吸器や肌でなく[臍]で感受したとしたことだ。[臍]は母体とつながるものだから、身体がゼロの部位から新鮮な世界と繋がり直す、という方向にイメージを誘導する効果がある。読者はそれを明確に意識化しなくても、[うすうす]受け取ることができる。」

司会「うわー、上の句だけでそんなに長い説明が……。」

鱶助「さよう。短歌は奥が深い。
 さて、下の句。[空と抱きあう力士]は、そんな感じの力士と実際に出会ったのか、はたまた[淡雪]から生じたまぼろしなのか、わからないがいずれにせよ重要なのは、[空と抱きあう力士]というフレーズが、以下2点でイメージを適切に増幅した心象表現であることだ。
 ①力士といえば腹(臍)を突き出す独特の体型だが、それを[空と抱きあう]と表現することで、[身体が、臍というゼロの部位で、新鮮な世界と繋がり直す]というイメージで捉えられている。
 ②また、相撲は[四つに組んで格闘する]ものだが、それを[抱き合う]と言い換えることで、[臍]イメージとも合わさって、母子のイメージも重なってくる
 この歌全体の構造を見ると、上の句は自身の(あるいは普通の人の)体が感じることを書き、下の句は、それを言葉の力で増幅して味わっている、といえる。」

アシ「増幅にもいろいろタイプがあると思うんです。淡雪のリフレッシュ感を力士の身体で味わう、というこの増幅は、ーー人間にとってもおいしいおかかご飯だけど、真のおいしさは猫になって味わわなきゃ、ーーみたいなタイプですよね。」

司会「は? おかかご飯、にゃんだそれは。ちゅーるじゃにゃいのか?」

アシ「だめにゃん。ちゅーるはにゃんげんのたべものじゃにゃいからにゃ。」

司会「(うう……。短歌のヘソの奥で変な猫に遭っちゃったよ。どうか早く次の歌、来てください。)」

雨あがりの茸のやうにぬきぬきとならぶ力士らももいろの四股
日高堯子『雲の塔』2011

司会「(ほっ。)お次の歌が来てくださいました。
 こちらは素肌感・肉体の質感がすごい。[にょきにょき]でなく[ぬきぬき]にしてあり、その語感の微妙な違いも、感覚的に、すごくよくわかります。説明の必要な含みとかはなさそうで、(鱶助くんはちょうど充電に入ったし、)素直に受け止めて読めばいい歌でしょう。すなおーに、すとれーとに。」

晩秋の光のなかに街をゆく力士がつくる影のしづけさ
前川佐重郎『孟宗庵の記』2013

司会「いらっしゃい。おや、お相撲さんの歌といえば肉体の力強さを詠むことが多いと思っていましたが、こちらの歌は[影のしづけさ]を詠んでいる。レアですね。ポジとネガが連れ立っているような捉え方も珍しい味わいがあると思います。」

しらじらと力士らの肉たゆたふをテレビはうつすひとなき部屋に
坂野信彦『銀河系』1982

司会「人のいない部屋のテレビに力士が映っている。ーーテレビの中には力士の肉体があって、こちら側には人がいない。
 質量のアンバランス。天秤だったら思いっきり傾くような感じ。ーーそういうふうに不在感を詠んでいるのでしょうか。
 あ、もしかしたら、どなたか相撲が好きだった方が亡くなったのかな。その不在感の強調、だったらわかりやすいんだけれど。」

鱶助「(充電中だが薄目を開き)
 [天秤だったら思いっきり傾くような感じ]は言い得て妙だと思う。テレビのむこうは肉体MAXでこちら側はゼロ。そういうアンバランスが詠まれている、と思う。アンバランスというのは、普通なら危ういわけで、たとえばイカダなら転覆する。けれども、テレビごしの別世界どうしのアンバランスでは何も起きない。そういう境界の特質みたいなことも味わえると思う。
 ただ、そういう抽象的な感覚のみで歌が成立すると思う読者と、それでは物足りない読者とがいる。後者なら、誰かが亡くなった不在、というシナリオを補って鑑賞する。それでもいいと思う。
 それに、これが連作のなかの歌なら、本当にそういう事情である可能性もある。もとの歌集を見ないとわからない。要確認だが、アシさんはどこへ行った?」
 
司会「アシさんは休憩みたいでいないんですよ。
なるほど。自分としては、後者の解釈のほうが好きかな。」

洋傘の黒きかさなりが埋みゐるテレヴィジョンに力士輝きてゐき
田谷鋭『乳鏡』1957

司会「あ、こちらの歌も、テレビの中の力士を詠んでいます。テレビの内と外の世界が接していて、そのコントラストなのかしら。テレビという憧れの家電を通して輝く力士を見ていた、っていう。?? 当時をよーく思い出してみよう。
 えーと、テレビ放送の開始は1953年。この歌を含む歌集が出版されたのは1957年。
そのころ私は4歳でした。相撲は大人気でしたが、テレビが家にあるのはお金持ちだけで、街頭テレビの相撲放送には人が群がっていました。
 雨ふりの灰色の街で人々は、黒傘のすきまから、遠い小さなテレビ画面の力士を見ている。(……黒傘だからほとんど男性か。)で、かたや画面の中は、肌色かがやくお相撲さん???
ーーじゃないよ! 違う! だって当時のテレビは白黒だったんだ!
 (カラー放送の本格化は1960年。)
 いや危ない危ない。作者がこの歌を詠んだ頃ならば、雨ふりの灰色の街とテレビの中とは、同じ色調だった。色はコントラストじゃなかった。そういや画像も荒くて、白い線が入って、雨降りっぽかった!
 現実にはそういうシンクロ要素もあったはずだけれど、それでも、憧れの家電だから、力士が輝いて見えたんでしょうね。」

下町の鉄塔からの波に乗りうすもも色の力士が届く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

司会「え? ええ? なにこれー。うすももいろのお相撲さんがひらーんと飛んでくる? なんだかモモンガみたいでおもしろいけど……。
(鱶助くんは充電中、アシさんは……まだ離席中か。)
あ、わかったー! これって、電波に乗って力士の映像が届くことじゃないですか? そうだ、そうに違いない!!」

多様性いわれるなかに今どきの力士らほぼほぼ鮟鱇形なり
fuu031937
(Instagramのアカウント 気ままに短歌を詠む86歳との自己紹介あり)

司会「お相撲さんはカタチも独特。よく聞くアンコ型のアンコは鮟鱇だったんですね。「アンコ型」と耳にするたび、アンコがずっしり詰まった大福餅を思い浮かべそうになっていました。」

アシ「(手を拭きながら戻ってきた)ちなみに、筋肉質の体型はソップ型と言いまして、ソップはスープ。出汁をとった鶏ガラのイメージらしいです。」

司会「ソップ。聞いたことがあります。そういう意味でしたか。」

器用なる小兵力士の感じして佐賀は九州の腋の下なり
松木秀『親切な郷愁』2013


司会「おお! こちらもカタチですが、なんとも珍しい着眼です。地図を見たらピンときました。佐賀県が[小兵力士]に見えてきたし、[九州の腋の下]というのもおもしろい見立てですね。」


■お相撲さんのイメージを活用する

司会「ところで、さっきの[淡雪]の歌のときに思ったのですが、お相撲さんの描写に言葉を多くさいたとしても、必ずしもお相撲さんを詠んでいるわけではないですよね。お相撲さんを何かの比喩として使うことがある。思いがお相撲さんの姿をとる、みたいなのもありますよね。」

とうめいな力士を押して戸を開き今年の春をごうごうと行く
東直子「短歌研究」2016・3

司会「むむむ、何か閉じこもるような状況だったけれど、春がきて、今年こそはと[戸を開]いて歩きはじめる。それは[とうめいな力士を押]すかのような心のエネルギーを要することなのでしょう。
 [ごうごう]というと強風の擬音みたいですね。春のごうごう吹く強風を、こちらも強い決意でごうごうと押し戻していく。そういう歌でしょうか。」

加速するお相撲さんを抱きとめてああああわたしあああかなしい
笹井宏之『ひとさらい』2011

司会「こちらは逆方向。押すんじゃなくて抱きとめている。どすっと悲しみが来て、それは[加速するお相撲さんを抱きとめ]たような衝撃だった。[ああああ]は、持ちこたえられずにだんだん土俵際へ押されていく悲鳴でしょうか。」

悲しみに似た関取があらわれてひたすら塩を舐めている夜
笹井宏之『てんとろり』2011

司会「こちらも同じ作者で、お相撲さんのイメージを使って[悲しみ]を詠んでいますが、全く種類の違う悲しみみたいです。
 この歌では、[関取]が巨大な妖怪アカナメみたいに塩(傷口に塗られた塩?)を舐めている。水木しげるの絵で思い浮かべてしまうような心象で、この絵の迫力に釣り合うような悲しみの質や量を想像させられます。」

おすもうさん、トイおすもうさん、ティーカップおすもうさんで三連勝や
谷じゃこ『クリーン・ナップ・クラブ』2020

司会「あちゃー、難しい。私の苦手分野です。鱶助くんはこういうの好きなんだけど、まだ充電中ですか。じゃあ頑張ってみます。
 えーと、三段跳びっぽい構造ですね。ひょっと、ゲームキャラの進化で見かける[R・SR・SSR]が思い浮かびました。おすもうさんのイメージが三段跳び的に進化していく?うーん……どうなんだろ。私には歯が立ちません。」

アシ「それそれ、その進化論、大当たりかもしれないですよ。
[トイおすもうさん]とはたぶんカプセルトイの小さなおすもうさん、そして[ティーカップおすもうさん]とは、カップにプリントされたおすもうさんの絵とか、そういうのあるじゃないですか。
カップじゃなくて、ティーパックにお相撲さんの絵がついているのを見たことがありますよ。カップにセットしてお湯を注ぐと、お相撲さんがお風呂に浸かっているように見える、という趣向でした。)
 で、鱶助くんならたぶんこう言うと思います。
[この三段跳びは、本物のお相撲さん→人形の→絵の、と、イメージが実物を離れて進化していくものである。]って
(さっきのおかかご飯とは別のタイプの増幅ですよ。)」

鱶助 (充電中)

司会「な、なるほど。現物からイメージへの三段跳び変化。それはわかりました。
でも、だとして、結句の[三連勝や]はどう解釈しましょうか。」

(アシさんは、両ヒレで「さあね」のポーズをして、また席を立ってしまった。)

司会「えー、末尾の「や」は関西弁らしい。
 (ーー関西弁はよく知らないですけど、思い切って深読みしちゃいます。)
 おそらくこれは、商魂たくましくイメージ進化させながら賞品化していくことを言っている。関西弁には、明るく世間を勝ち進む感じがありますからね。えーい、当たるも八卦や!」

リリィ、リリィ、ビキニ力士に意味必死 ビキニ力士に意味必死
ナイス害「うたつかい」2015年秋号

司会「ひー!! またまたこういう歌だ。参ったな。
さっきと同じ三段跳び構造だけど、うーむ。」

(アシさんの席には、すぐ戻りますとのメモが置いてある。)

司会「えー、まずは[リリィ、リリィ]。
 リフレイン。ーー[リリィ]といえば百合だから、おそらく女性ファッションみたいな方向にイメージ展開をすべく、リフレインで力を溜めた。(闘牛の牛の前足が2回地面を掻くみたいにね。)
 →だのになぜだか、ビキニ姿の力士という変なものを作ってしまった。
 →それは、なんでこうなった? と誰もが突っ込みたくなるたぐいの変異であり、
 →だから意味付けが必至であり、
 →その意味付けはおそらく必死のこじつけになるだろう。
 と、そういったドタバタが凝縮されているんじゃないでしょうか。
 展開がスピーディで、どんどんやったれという業界のやぶれかぶれ感みたいなものも感じ取れ、ますよね。どうかな。ぜーはー、ちょっと休憩。」

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■紙相撲のお相撲さん

(司会は元気回復。鱶助くんはまだ充電中、アシさんまだ不在。)

司会「さあ続いていきますよ。
 紙相撲ってありますよね。紙のお相撲さんは実際のお相撲さんと質感が違うから、詠まれ方も違うのではないでしょうか。」

お互いの鋭利なつま先ながめつつ横たわっている紙の力士ら
佐佐木定綱 『月を食う』2019

司会「そうか、紙の力士は勝った方も倒れることが多い。勝っても負けても、[お互いの鋭利なつま先]を[ながめつつ横たわ]ることになる。お互い苦い思いでしょうね。
 私は教訓的に解釈する傾向があって、鱶助くんに[あんたイソップかい]とよく言われちゃうんですけどね。(とカマをかけてみた。)」

鱶助(タヌキ充電)

また負けてきたる力士は名を変へて戦はすのみ紙相撲ゆゑ
吉岡生夫『続・草食獣』1983

司会「なるほど、紙の力士は遊びの中で使いまわしをしますから、何度でもいろんなものに憑依され得ますね。
 えー、憑依といえば、流し雛って紙人形に病気や災難を負わせて流す、みたいな、人間の身勝手というか、紙人形の宿命というか、チラっと連想しちゃいました。
 それと、[紙相撲ゆえ]ってところも気になります。紙相撲だからいいけれど、っていう含みははないでしょうか。たとえば、不祥事を起こした政府の団体が、名称を変えて存続する、みたいなこと。
ーーそんなことまでは言っていませんかね。

さて、アシさんも鱶助くんも今日はもう駄目みたいです。読者のみなさんもお疲れでしょうし、そろそろ終わりにしたいと思います。」

(すると、ななめ上空に、がっかりしてためいきをつく気配が。)

司会「出番を待っていた短歌のみなさま、ごめんなさい、またこんど。」

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司会「ねえ、ふたりとも、終わりましたよ。起きて。」

アシさん 鱶助くん(……)

司会「実はもうひとつだけ気になることがあるんですよ。横綱など、地位の名称を詠み込むケースってどういうふうに詠まれているのかなあって。」

(と、小声で言ったにもかかわらず、すかさず歌が飛来した。)

大関も関脇もゐる天の雲われら地上の前頭なり
伊藤一彦『遠音よし遠見よし』2017

司会「えっ、わっ、ほらほら歌が来てくれましたよ。
 これはおもしろい見立てじゃないですか。人が天地に所属する感じをあらわす歌は、実にさまざまありますが、相撲の番付に対応させるなんて珍しい。[大関]や[関脇]のような雲といえば、入道雲でしょうね。」

アシ(うんとかすんとか曖昧に返事。)
鱶助(ランプをチカチカ点滅)

司会「それって同意ですよね?
 世界の天地。人間は[前頭]という位置づけで、地上にどっしり足をつけて立つ。この身体感覚、新鮮ですよねー。」

(そこに歌の一団がどどっと舞い降りた!!)

夢に来て金の乳首のちからびと清めの塩を撒きにけるかも
「前頭九枚目より五枚目をただちに前線へ派遣せよ」
降りそそぐ清めの塩のきらきらと横綱戦場派遣審議委員会
「前頭四枚目より筆頭をただちに前線へ派遣せよ」
清めの塩を回し喰いする天使たち、式守伊之助、木村庄之助
「小結及び関脇及び大関をただちに前線へ派遣せよ」
雲龍型、不知火型のミサイルを担いで金剛力士は吠えよ
「外国籍の横綱の髷切り落とし所属の部屋に幽閉すべし」
二階級特進により横綱となりて煌めく不知火型は
戦場にいま燃えあがる天使たち、式守伊之助、木村庄之助

以上10首 穂村弘『ラインマーカーズ』(手紙魔まみ イッツ・ア・スモー・ワールド)より

司会「え? うわー、これは……。
 むろんフィクションでしょうが、なんだか、なぜか、生々しくて……。
 どこかの戦争。その戦況が悪くて、力士をどんどん前線に送っているらしい。そんな内容にも驚きますし、相撲番付で戦況の逼迫度合を表現していて、これってかなり珍しい使いかたではないですか。
 ねえ、私一人じゃだめです。アシさん、起きて情報くださいよ。鱶助くんも、何か言いたいんじゃないの? 」

アシ「うるさいなあ。ほんとにもうこれで最後ですからね。
 これらの歌は[手紙魔まみ イッツ・ア・スモー・ワールド]という一連にあります。このタイトルは言うまでもなく、ディズニーランドのアトラクション[イッツ・ア・スモール・ワールド]から1字消したものです。
 この10首は一連の後半にありますが、前半は相撲や戦争には直接的には関わらない内容です。そして、この10首は、次の2首に挟まれているのです。
嘗めかけの飴をティッシュの箱に置き眠ってしまう、世界のなかで
嘗めかけの飴がティッシュの箱にある世界へもどる道をおしえて
 つまり、一連の主人公的存在である[まみ]が眠って、こういう夢にワープした、という設定です。」

司会「えーと、じゃあ、一連全部を意識しないといけないですね。」

鱶助「ディズニーランドの[イッツ・ア・スモール・ワールド]というアトラクションは、いろいろなワールドを楽しく巡るものだ。そして、この連作にもそれとなく、世界間を行き来するとか、同じ場所にいても別の存在へと変化して所属が変わるとか、そういうことが書いてある。例えば一連最初はこの歌だ。
天国から電話がかかってきたように眠ってるのに震える兎
 最初は気づかないが、次第に、[天国]も存在が移行する先のひとつなのだと思えてくる。
摘み取られたことにこの子は気づかない、まだ夢みてる苺を囓る
 この[苺]は、摘み取られたことで植物から食物へと転じたが、そのことに気づかず夢をみたまま食べられていて、そのまま誰かの体内で更なる変化をとげるのだろう。
つけものたちは生の野菜が想像もつかない世界へゆくのでしょうね
[生の野菜]が[つけもの]になる変化も、同じ場所にいながら所属する世界が変化する、という把握である。
 また、一連の前半には、ウサギが出てくる歌が多い。ウサギといえば『不思議の国のアリス』への連想脈があって、これも別世界を巡るイメージをそれとなく支えていると思う。この流れから考えて、一連後半に出てくる[スモー・ワールドの夢も、別領域への移行の一つのかたちとして位置づけていいと思う。
 この10首だけを見ると、戦争が強く意識されていて反戦歌かとも思えるが、それはそれで重要な要素として、連作全体の世界観のなかで捉えておくべきでもある。」

司会「この一連に描かれている並行世界は、アトラクション的である一方で、現実世界のシビアなところにも通じる気がしますね。」

アシ「[スモー・ワールド]には、かつて実際に行われた徴兵検査を想起させる面もありますよ。(今は徴兵制度がないからやっていませんね。)男性たちはまっぱだかで身体を計測され、甲乙丙丁の格付けがなされたんだそうです。[男性だけ][裸][格付け]という3点が[相撲]と重なります。」

司会「それは気づきませんでした。
 なにしろ、戦況の逼迫を相撲の番付で暗示する、という独創だけで驚いちゃって。
 例えば、登山の行程単位の[合目]を[プロジェクトは五合目にさしかかった]みたいに使いますが、この歌では[前頭○枚目]などの番付を使っている。それだけでぶっとんじゃいました。」

鱶助「注目点はもっともっとある。
[スモー・ワールド]は主に、銃後の世界の心理を描いている、ということ。
それと、最初の方で君は、何か生々しい、と言ったが、表現自体は生々しくない方法をとっているのにそう感じさせるということも、[生々しさとは何か]と考えさせられる。
[戦争]といえば普通思い浮かぶのは戦闘だが、この一連には戦闘の描写は少ししかないし、それは全く生々しくない歌だ。
雲龍型、不知火型のミサイルを担いで金剛力士は吠えよ
これには、ガンダムみたいなかっこよさがある。軍国主義時代の[国威発揚のための愛国詩]、あるいは、銃後から戦地を空想して詠む[戦火想望]作品みたいなもの。あえてそういう種類の[現実離れ]ふうに書いてある。それがある意味生々しい、と言えないだろうか。
 むろん解釈はひとそれぞれだが、少なくともステレオタイプの戦争ではなく、安易に[戦争を詠んでいる]と決めてかかれば、本意から外れるかもしれない。
 [銃後]は[戦争]だけにあるわけではない。[戦争のような何か深刻な状況]にも[銃後]はある。そういうものも包含し、て、ぴぴーー……。」

司会「ううー、聞いてて私も充電したくなってきた。」

鱶助「ぴきぴー、[まみ]は、夢見る頭のなかのピューロンのぴと粒で……ピたしたちも、ここのピカイをピキピキ生きるピューロンでピーヒャラピーヒャラ、ぴきーーーーーーー。」

司会「うわあ、もういい、どうか安らかに充電して。」

アシ「(窓から逃げようとしている。なんと、すぐそこまで海が迎えに来ているのだ。) 
 関係ないと思いますが、最後に、いちおう補足しておきます。
 力士はいかにも強そうですが、身体が大きすぎて、太平洋戦争当時の徴兵検査では[丙種合格]という最低ランクになることが多かったとか。招集される可能性が高いのはふつうなら最高ランク[甲種合格]の人なのでしたが、戦況悪化に伴い、ランクの低い人も招集されるようになり、戦士した力士もいたそうです。
 それと、戦時中、野球や競馬は中止されても大相撲は継続していて、召集中の力士の番付地位は守られていたそうです。
(海……もう海に帰るんだ……さいなら。ちゃぽん)」

司会「わ、わかりました。私も限界です。
まだまだ考えたいことがいっぱいあるけれど、本日はこれにて打ち止めー打ち止めー。
短歌のみなさん、人間のみなさん、このへんでさようなら。」

(2023・5・4)

※短歌による座談会の第一回は、会話に加わるのが作者なのか短歌たちなのか、という点があいまいでした。
今回は、作者の参加でなく、短歌たちが自主的に飛んでくる、と、明確にしました。