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2024年9月1日日曜日

ちょびコレ33 『義弟全史』その2 お迎え方式マッチング

 「お迎え方式マッチング」とは?

 ときどき並べて読みたい歌というのがあります。

 題材とテーマが似ている歌を、別の作者が別の場所で別の発想で詠む。そんな偶然がしょっちゅうあって、新しく詠まれた歌を、同類や家族のような仲間が出迎えるんだったらいいな、と想像したくなります。

 ところで防災の日は、訓練で、親や保護者が学校へ児童を迎えにいきますよね。
いちど孫を迎えに行ったことがあります。
 学年・クラスごと担任の先生のもとに子どもたちが集まっている。保護者たちは、先生に名を告げて子どもを連れて帰るのです。

 「短歌さんたちがめぐりあう場」として、前回までは「交霊場」という設定にしましたが、今回は、新しく出た歌集の歌を先輩歌が迎えに来る、という設定にしてみます。

(どーだっていいだろ? いえいえ、設定によって発想が根本から変わり、新しい考えが生じることがあると思いますよ。)

そして、担任の先生役は以下の三人半です。
まちがって他人に子どもを渡してはいけないから、迎えにきた歌と迎えられる歌との類縁関係を吟味します。

 その際、彼らはいろいろぶっ飛んだことを言うかもしれません。作者の意図や一般通念とかけ離れる解釈を加えるかもしれませんが、その点は適当に聞き流してください。

【世話役たち】書体を変えています

 ・担任(外見は鹿。このシリーズではふだん司会役をしているため花子はシカちゃんと呼んでいる。)
 ・アシ(副担任。アシスタント。外見はアシカ。)
 ・鱶助(ふかすけ 短歌深読みサポートAI)
    +鱶助のマスコットである花子(棘バラ。非常に口が悪い。)

【ご注意】 
 
歌自身が降臨する、という設定です。(歌の作者は無関係。参加しません。)
 歌自身が自解することはありません。
歌はそれ自身の言葉以外を語れない。ここではそういう設定になってます。

 では、とざいとーざーい


■やかましい自我がほどよく休止


▲わが屋戸のいささ群竹吹く風の音もかそけきこの夕べかも
ルビ:屋戸【やど】
大伴家持『万葉集』

担任「はい。え!  驚きました。はるかなる万葉時代よりお見えのようです。
 えーと、どのお子さんのご先祖様でしょうか。」

▼頬杖をついて居眠るアパートの外に小さな世界が集う
土井礼一郎『義弟全史』

担任「な、なるほど。雰囲気が似ています。しかし、静かに過ごす窓辺のシチュエーションはすごく多くの歌に詠まれてますよね。短歌以外でも『蛍の光窓の雪』とか。」

鱶助「[いささ群竹]を吹く風は、普通ならほとんど関知しないほどにかそけきもの。それは、脳内のやかましい自我がほどよく休止していなければ感知できない。
土井の歌では、[頬杖をついて居眠る]というニュートラルな待ち受け状態になった一瞬、[小さな世界が集う]ことを感受可能な〝自然体〟になったのだ。

アシ「頬杖をついて居眠る、は、ふと弥勒菩薩を思わせますよね。静かな窓辺というのは、人を少し神仏に近づける。この風格、大伴家持さまの血を受け継いでおいででしょう。」

花子「あのね、土井さんは虫好きなんですって。それで土井短歌にはときどき『虫詠み』というおまけステージがあるのよ。
秋の虫の音を聞いてるような感じ。虫たちはそれぞれの種族ごとに世界を持っている。それをうつらうつらしながら聞いている。なかなか風情があるじゃないの。」

担任「では『わが屋戸のいささ』さま。どうぞ『頬杖をついて』ちゃんをお連れください。よろしくお願いします。」

■幸せは内臓に宿る?


▲アンパンの幸福感をふくらます三分の空気と七分のアンコ
杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』2010

担任「はい。どのお子さんをお迎えに?」

▼はらわたを開けばピンポン球ほどの水胞としてしあわせはある
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「こ、これは確かにそっくりな。
でも土井さんの歌のほうはとてつもなく不気味です。他人の空似ってことはないでしょうか。」

鱶助「この二首は、どちらも[しあわせが身の内側にあり、視認できる」というレアな着想をしている。この点はもうイメージの遺伝子レベルの一致と思って良い。」

アシ「土井さんの歌は魚を思わせるから、どちらも食べ物を詠んでいますね。
で、違うのは、杉崎さんの歌の[しあわせ]は、アンパンを食べる人も味わうことができるけれど、土井さんの歌の[しあわせ]の水疱は、捌いた段階で消えてしまい、食べる人には届かない、ということです。」

担任「その違いは重要ですが、イメージの遺伝子レベルの一致は変わらないと思います。どうぞ、『はらわたを開けば』ちゃんをお連れください。」

■詩情のビフォー・アフター

▲海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
寺山修司『われに五月を』1957

担任「こ、これはまた超有名な……。お探しはどの子ですか。」

▼どうしても泣くならここで 海ほどにひろい帽子をかぶってみせる

土井礼一郎『義弟全史』2023


担任「たしかに、ところどころ掠っていますね。」

アシ「『海を知らぬ少女』も『どうしても泣くなら』も、二人の登場人物がいて(たぶん男女で)すよね。
で、前者の方は、
少女に海を説明するために、[こーんな]とか言って手を広げて話している初々しい場面の回想かと思いますが、この歌は非常に知られ、詩情セット[帽子+海+広い+少年少女の初々しさ]的に、短歌の世界で咀嚼・消化されてきたと思うんです。そして、」

花子「そして、土井さんの歌のほうは、その少年も少女ももう大人になってるみたい。
男の人が、泣いている女の人を慰めるために、少年少女みたいな無邪気を演出して、麦藁帽子をかぶってみせてる。そういう場面みたい。」

鱶助「ただし、これは約70年の時を経た詩情のビフォー・アフターだ。人のビフォー・アフターではない。
[帽子+海+広い+少年少女]の詩情が既存のものとして確立したから、『海ほどにひろい帽子をかぶってみせる』という演出によって、少年少女時代の初々しさの詩情を喚起できる。そういう種類のビフォーアフターだ。」

担任「なるほど。それも詩歌的血縁のひとつでしょうね。では、『どうしても泣くなら』ちゃんをお連れください。」

■ビフォー・アフター その2

▲星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ
杉崎恒夫『パン屋のパンせ』

担任「はい。どの子の保護者さまですか?」

▼もうなにも見えなくなった僕の住む家に小さな蛍飛び交う
土井礼一郎『義弟全史』

担任「えーと、どのようなご縁なのでしょう?」

アシ「まず雰囲気が似ています。
『星空が』の歌はまだいちおうこの世界が残っていますけど、『もうなにも』のほうは世界がほぼ終わってしまった感じ。星空が、わずかなホタルになっちゃった。
つまり、これもビフォーアフター的なご縁でしょうね。
」

担任「それだけでは、他人の空似かもしれませんよ。」

鱶助「どちらも、終焉を静かに受け入れていて、情によるエネルギーを使わずに詠んでいるところも通じ合う。」

担任「そうですか。では、『もうなにも』ちゃんをお連れください。

花子「ついでに言うと、土井さんのこの歌は、最初に帰った『頬杖をついて居眠る』の歌の数年後ってかんじでもあるわよ。」

担任「家系図のどこかでつながるかも。門を出て右に行ってみてください。追いつけますよ。」


■家がこわれるとき


▲家ひとつこわれてのちを空中に浮かびつづけるしかくいひかり
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006

担任「はい。お探しはどの子でしょうか。」

▼壊されてゆくとき家の内臓が空に呑まれているのが見える
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「内容はほんとに似ています。昇天する感じも共通してて、トシの離れた双子というか。」

アシ「トシの離れた双子? それなんか変。」

花子「この二つの歌は、別の日にした同じケーキの食レポみたい。」

鱶助「『家ひとつこわれ』の方は魂的なものがしばらく漂う、そういった余韻を詠んでいる。
『壊されてゆくとき』のほうは、『内臓』と言うことで家が生き物化する。『内臓』だから気味悪いはずなのに、なぜか気味悪さよりも、昇天するらしいことに救いを感じてほっとする。その一方、空は『昇天』を受け入れているのでなく、ただ何でも回収する究極の穴のような、そういう意識のズレもおもしろいと思う。」

担任「えーと、とにかくもう、すごい血縁者ですよね。どうぞお連れください」

■殺しと成長

▲男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる
平井弘『前線』1976

担任「はい。こ、これはまた、よく知れ渡ったお歌ですね。どのお子さんをお探しですか?」

▼だれしもが早くおとなになりたきにごきぶり殺せいいから殺せ
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「あー、なるほど。」

アシ「平井さんは戦時下の銃後の世界の恐ろしさを描くことで知られてて、不気味なこの歌『男の子なる』はあまりにも有名です。」

花子「どちらも銃後の世界なんだと思う。でもこの二つから想像される戦時下の性質が違う、感じ……。」

アシ「変なことを言いますが、土井さんの方は普通に言う戦時下ではないのかも。目に見える戦争はしていない。だから戦時下じゃないが、戦時下より心が荒れるような状況下にあるのかも。」

鱶助「とにかく、この2首は同じ遺伝子を備えている。それはもう疑えない。」

担任「なるほど。では『男の子なる』さま。『だれしもが早く』ちゃんをお連れください。お気をつけて。」

■ぜんぜん違うぞ!

▲眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す
ルビ:誦(よ)
岡井隆『斉唱』1956

担任「はい。どの子の保護者さんですか。」

▼ねむるということばばかりを振りかざし童話のなかの人は死にゆく
土井礼一郎『義弟全史』

担任「こ、これは。
材料は重なっていますが、どうなんでしょう。内容はすごく違うような。」

花子「見た目はあきらかに同族。だけど極端につっぱっている。まさかと思うがやっぱり同族。みたいなことをおっしゃりたくておいでになったのでは?」

司会「そういうお迎えもありでしょうか。」

アシ「『眠る』『童話』『死』という三枚のイメージカードセットをシャッフルして、繋ぎ直して歌を詠みなさい、という課題で作ったら、こういうふうなり得ますよね。
 なんていうか、そうだ! 遺伝子をちょっと組み替えた新種。」

鱶助「つまり、他人の空似とは違う。家族だが似ていない。」

花子「家族のそらにず、かな。」

担任「わかりました。そういうこともある、ということで、どうぞお連れくださいませ。」

■植物に加害する

▲雨つぶを散らしてきみは力ある葡萄の房をひきおろしたり
加藤治郎『昏睡のパラダイス』1998

担任「おやおや、どのお子さんの保護者さんでしょう。」

▼ぴかぴかの顔であなたは園庭のヤブガラシさえほどいてしまう
 土井礼一郎『義弟全史』

担任「縁は強い。でもキャラはずいぶん違いますね。
『雨つぶを散ら』す『きみ』はちょっとワイルドで魅力的な女性。それに対して、『ぴかぴかの顔でヤブガラシさえほどく』は、……これはどういうキャラでしょうか。」

アシ「ヤブガラシといえば、絡みついて蔓延する困った雑草ですよね。
でも、普通の雑草退治、除草剤をまくとか焼き払うとかでなく、『ほどく』というすごく知的な対処法をとることが新しいです。」

担任「そうですね。環境に優しいし、なんというか、この方法だと、ヤブガラシをメンタルで打ち負かして面目を失わせるような……。」

花子「普通に考えれば申し分のない対処なんだけど、でもこの歌は、手放しに肯定してはいないのよ。
『ぴかぴかの顔であなたは……ほどいてしまう』には、ほんの微かに、『ぴかぴか得意げだね』っていうのニュアンスがある。
 絡むヤブガラシは庭園にとってまさにカラミティー(calamity・惨禍)。で、ほどくという方法は逆カラミティー。毒をもって毒を制す、みたいに、相手と同じ力で退治したことに、ちょっと引っかかりを感じている気がするの。」


担任「なるほど。ま、違いはあっても、個性の異なるご家族でしょう。ということで、どうぞお連れください。」



担任「さて、今日はここまでとしましょうか。
 また次の機会もあると思います。ではでは。」


2024・8・31


なお『義弟全史』その1も、こことはやや異なりますが、歌を比較しながら深く詠み込んでいく方式です。よろしかったら御覧ください。

2024年8月27日火曜日

ちょびコレ32  『義弟全史』その1 短歌交霊マッチング

「短歌交霊」とは?
「降霊」じゃなくて「交霊」です。

ときどき並べて読みたい歌というのがあります。
題材とテーマが似ている歌を、別の作者が別の場所で別の発想で詠む。そんな偶然がしょっちゅうあります。
そのなかには、互いに相手の存在を知らない織姫と彦星みたいな、潜在的に相手を求めているかのようなセットがあるのではないか。
 そこで、
「短歌さんたちがめぐりあう場」(交霊場)というのを空想してみました。

織姫がここで待っていると、彦星が降臨する
。逆でもいい。そういう感じの設定です。

そして、以下の三人半の世話役がお迎えする。
なぜなら、歌はそれ自身の言葉以外を語れない(そういう設定です)から、
その歌どうしが、どういう点で共通しどのように惹かれ合うのかを、世話役たちが考えるわけです。

 世話役たちはまじめですが、作者の意図を超えることをものともせず、深読みすることがあります。


【世話役】書体を変えています

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない。花子はシカちゃんと呼んでいる。)
 ・アシスタント(調べ物担当だが意見も言う。外見はアシカ。名前は公表されていない。)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

【ご注意】 
 
歌自身が降臨するという設定です。(歌の作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加。歌自身が自解することはありません。

 では、とざいとーざーい


鱶助「いま『義弟全史』という歌集のデータを吸収しているのだが、父母兄弟姉妹が出てくる歌が多い。タイトルには「義弟」とあるし。
 そも、短歌には父母兄弟等を詠む歌が多い。それらは、現実の家族、空想の家族、抽象的な意味での父母兄弟など、いろいろな心情・思考の結果として短歌の中に登場する。短歌に詠まれるあらゆる言葉は、短歌の言葉の国に所属になるわけだが、父母兄弟などの語も、歌に詠まれるたびに、短歌の言葉の世界の既に詠まれた父母兄弟の用例の中に混じっていくことになる。そのなかで、特に響き合う歌というのがあるはずだと思う。
 『義弟全史』の歌は、どれも〝言うに言われぬ〟フシギを帯びているが、似ている要素を備えた先輩歌が名乗り出てくれれば、少しわかりやすくなり〝言うに言われぬ〟でなく、〝少し語れる〟部分がでてくると思う。

■空想の兄弟と丘


司会「では、『義弟全史』の歌の中から、どなたか?」

▼てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる
土井礼一郎『義弟全史』

司会「むむ! 手のひらに丘がある? ってことは、空間がねじれてますね。
 ふと、西遊記のお釈迦様と孫悟空※を想像しました。あ、いや、変なこと言っちゃった。忘れてください。」
※お釈迦様に「私の手のひらから逃げられたら天界の主にしてやろう」と言われ、孫悟空は、筋斗雲を駆って世界の果てらしい場所の柱に「斉天大聖」と書き立ちションして得意顔で帰ってきたが、その柱、実はお釈迦様の指だった。悟空はお釈迦様との力の差を思い知る。

花子「あら、シカちゃんにしてはいいセンかも。
 つまり、
この人(兄?〉と「弟」の力関係が、そのお釈迦様と孫悟空みたいだってこと。

司会「力関係。」

花子「で、『手を叩こうとすれば手をふる』も気になるのよ。
 手を振るのは普通は友好的な仕草。だけど、そんなに力の差があるんなら、
『叩くのをやめて』という意味かしら、って思わせる。そういうニュアンスを10%ぐらい含んでないかしら。『やれ打つな』のハエみたいな。」

アシ「そうも思えますし、これは見る角度によって表情を変える表現ですよね。
 で、私はもう一つ、5%ぐらいの淡いニュアンスを見つけました。この『手をふる』っていう言い方が妙にフツーで、そのフツー感に、〈弟の方からは案外普通の位置関係でこちらが見えているのではないか。だから、叩かれるなどと思わず、単純に小さい方が極端に無邪気なら、そういう認識の大きなズレもありえます。」

花子「それそれ! それも感じる!
 
この人(兄?〉は弟に対してすごく強い立場にいる。でも弟はそれに気づいていない。支配されていると思っていない。そこからもうひとつ枝分かれして、2%ぐらいだけど、特殊なニュアンスもあるわよ。
〈この弟は手
の中の虫みたいなもの、そしてこの人(兄?)は、虫を覗き込んで観察している人間。虫の方は、兄弟どころか、『捕われた』などという関係性はおそらく認識せず、プログラミングに従って、餌と交尾できる相手のいる場所へ行こうとして足を動かしているだけ。そのぐらいに、認識が噛み合わない状態で、この人(兄?)は、その虫みたいなものを一方的に支配しつつ、「弟」と呼んでいる。〉
ね。そういう感じもするでしょ。2%ぐらい。」

鱶助「パーセンテージの低いニュアンスほど、深読み感が強まるが、実は重要である。
深読み的ニュアンスは2%+5%+10%=17%に過ぎず、83%はもっとも普通の解釈なのだが、こうしたバランスも意味がある。要するに、詩はみつけにくい。ーー見つけにくい状態で潜んでいる。その微弱感も味わい。」

司会「何ですかそれ。大事なことはすぐ見つかるところに置いといてほしい。
 ところで『丘』と兄弟は、よくいっしょに詠まれるのでしょうか。見晴らしがいいから、離れている血縁者を想いうかべやすい、みたいな詩的連想脈がありそうな気がしますが。
あ、一首降臨されるようです。」

▲ひとりっ子のわたしがときどき来る丘のむこうにまんがの妹がすむ
杉山モナミ「かばん」98年3月

司会「よくいらっしゃいました。位置関係はやや違うけれども『丘』がある。そして『弟』じゃなくて『妹』。なんだか雰囲気も似ているし。」

アシ「異次元というか別世界というか、そういう場所にいる兄弟を空想する。そこは似ていますね。距離では語れない種類の遠さ。」

花子「空想の家族を詠む歌って、空想のママゴトみたいよね。
『ひとりっ子』の歌のほうは、『ひとりっ子』ですから当然妹はいない。この世界には自分と同じ立場の係累はいない。その孤独感が〈まんがの妹〉というママゴトに誘うのかな、と思わせる。
〈まんがの妹〉という異世界のものを想定すれば、それと表裏になって補強されるような感じるのかも。だから力関係は対等。その点は〈てのひらの弟〉と大違いね。」

司会「どちらも『丘』を含みますが、その意味合いも違うんですよね。」

鱶助「〈まんがの妹〉が見える『丘』は、普通に『丘』は見晴らしが良くて、登れば別の街を見晴らせる、という境界のような場。順当な暗示であると思われる。
〈てのひらの弟〉の『丘』には、お釈迦様の手ほどに空間的なねじれがある。」

司会「2つの歌は、材料がとても似ていて、でもけっこう違いがあるんですね。」

アシ「共通する要素があったとして、それが意味のある共通点なのか、ただの偶然か、きちんと気にしたほうがいいと思うんですが……。」

鱶助「短歌データベース約13万首から、[丘(or岡)]かつ[兄弟姉妹(ひらがな表記あり)]を含む歌を検索したところ、該当歌はたった3首。上記2首をのほかもう1首あった。」

●雲ひくき峠越ゆれば/(いもうとのつめたきなきがほ)/丘と野原と
 宮沢賢治『宮沢賢治全集』

司会「あ、降臨ありがとうございます。
こちらの歌も雰囲気が少し似ていますが、この歌の場合、『丘』じゃなくて『峠』が境界の役目をはたし、『丘と野原』は見渡す土地の起伏を表していると思います。
 で、その起伏が、『(いもうとのつめたきなきがほ)』に見える……、ということだと思います。
 実は一瞬、『なきがほ』を『なきがら』と読みそうになり、丘と野原の起伏が人の形なのかとまで思ってしまいました。宮沢賢治といえば『永訣の朝』という詩もありますから、『いもうと』は亡くなっている感じがして。余計なことをすみません。」

花子「またまたシカちゃん、鋭いわよ。
『永訣の朝』を知らなくても、『峠』という境界を越えるということを意味するし、〈いもうとは異世界にいる〉という淡い暗示になってるし、『丘と野原と』が『いもうとのつめたきなきがほ』である構文も、シカちゃんのような解釈へと誘導してるわよ。」

鱶助「ただし、『丘』や『峠』の境界としての役割は、もう少し検証が必要である。
『丘』などの語を含まずに遠方に住む弟や妹を思い浮かべる内容の歌と見比べたいのだが、かなりの数がありそうで、探しにくい……。」

司会「わぁ、探さなくてもたくさんおいでくださいましたよ。」

●ベランダに風 遠く住むいもうとの家族は持てり海辺の時間
●遠洋のオレンジのブイ この夏は高知で暮らすいもうとの家族
 小島なお『展開図』

●弟は入間で一人で暮らしてる 電話を持たずに携帯電話を持つ
 ルビ:入間【いるま】 携帯電話【けいたい】
 千葉聡『微熱体』2000

●チベットに住むおとうとの悪筆をうぶ毛のような春に待ちつつ
 東直子『春原さんのリコーダー』

●妹は遥かな部屋に恋人と木を育てゆくように暮らせり
 鯨井可菜子『タンジブル』

司会「歌のみなさま。ありがとうございます。
『遠い』と書いたり、具体的地名を入れたりすれば、隔たりは感じますね。ただ、同じ世界の遠い場所であって、異世界っていう感じはしないようですね。」
 
花子「やっぱり『丘』にはそれとなく〈遠くて近い異世界〉感を付与する効果があって、〈てのひらの弟〉とか〈まんがの妹〉とかの、非現実的表現を受け入れやすくしていると思うわ。」

アシ「〈まんがの妹〉の歌としっかり見比べさせていただいたおかげで〈てのひらの弟〉の特殊性がわかりやすくなった気がします。ばらばらに読んだら、どちらも『ふしぎな味わいの歌』ぐらいで済ませてしまったかもしれません。」

司会「そろそろ次に行ってよろしいでしょうか。」

■マッチ箱の中の父母


▼ひとつだけほんとの父を入れてあるマッチ箱からとりだすマッチ
土井礼一郎『義弟全史』

司会「ありがとうございます。こ、これはまた、なんともおもしろい、というか、なぜかハラハラもしますね。まるで、まるで……。」

花子「ルシアンルーレットみたい!
いつのまにか本物の父を燃やしちゃいそうだもの。
『入れてある』んだから、わざとそうしてある。意識することなく父を葬りたいのかしら。」


アシ「父との葛藤は、古くからあって、ちっとも古びない重要テーマです。ついでのように語れるテーマではありません。
が、この歌ほど優位な位置取りで、「意識することなく父を葬れるシステム」を描いた歌はあんまり見たことがないような……。
 でも、現実にはこういう思考ってよくあるのかもしれません。決定的な〈執行〉を意識しないでいつのまにか済ませられたら、みたいな。」

司会「あ、いらっしゃいましたよ。」

▲偽物のわたしを抱いて偽物のママが眠っているマッチ箱
木村友 2017・11東京文フリ:フリーペーパー

司会「これはまた何と、共通点が多いですね。
マッチ箱・母、そして本物じゃなくて偽物というのは表裏一体みたいだし。
歌合でもなかなかこうは共通しません。」

アシ「どちらも、マッチ箱は棺みたい、というか、まだ死んでないけれど、近い将来に燃える。死が予定されている。そこが共通ですね。」

鱶助「動詞を見比べて、誰が能動的なことをしているのかを見た。
 父の歌のほうの動詞は子(主体)の行動の「入れる」「取り出す」である。〈子〉は〈本物の父〉をマッチ箱(ルシアンルーレット的で、いずれ確実に死ぬ装置みたいな棺)に入れた。
 母の歌の方は、出てくる動詞「抱く」「眠る」はママの行動である。ママの能動性が大きい。ただし、『見ている』と書いてないけれど、全体として、子(主体)は、〈偽物のママ〉の能動性を『見ている』。」

花子「そのせいかしら。この〈偽物のママ〉はなんか子を道連れに親子心中をしようとしてるみたいなじゃないかしら。〈偽物の母子〉はもろともに燃えてしまうのよ。ーーそういえば、マッチってたまに二本くっついてるじゃない。あの道連れ感よ。」

アシ「ママが偽物で良かった、と、ちょっと救われますよね。」

花子「そこよ。その、噛み切れないグミみたいなニュアンス。本物のママにもそういう怖いところ、危ういところがあるわよね。そのことを思い出させるの。」

司会「え?ママが怖い?」

花子「怖いわよ。私ら植物から見ると、だって人間は危うい。母親だってそれ以前に普通の人間でしょ。いろいろな弱さが合って、そこに愛とか責任とかいろいろな負荷がかれば……」

司会「そんなのレアケースでしょ。」

アシ「そのレアケースは誰にでも起こり得る。母親はみんな危険性を孕んでいる、とは思いますね。」

司会「そ、そういうふうに考えることが嫌なんですよ。母親になったらもう普通の人じゃなくなる、と思いませんか?」

アシ「ぜーんぜん思いませんし、そういう考えかたこそが母親を追い詰めるんです。」

花子「まあまあまあ。
 ママゴトって、お人形もおもちゃの食器もみんな偽物だけど、けっこう現実を投影しているでしょ。
 空想の家族詠であることが明確な場合は、〈偽物の〉と断る必要はないのよ。
 でもこの歌の場合は、ほんの少しの現実味が怖いから、悪夢にならないように、いわば呪術的発想で、〈偽物の〉とはっきり打ち消してあるんじゃないかしら。そのぶん怖さを薄めつつ、でも詩的濃度も高めている。そんな感じ。」

アシ「で、〈父をマッチ箱に入れる〉歌も、現実との関係は心のママゴトであり、〈ほんとの〉と言わなければ父は完全に空想の父です。それを〈ほんとの父〉と言うことで、現実とママゴトの関連性が強まります。〈マッチ箱入れる・取り出す〉というママゴトは、現実面に投影できる可能性が強まっていると思います。」

花子「空想の世界に現実が投影されるのは、ま、当たり前よね。
その逆に、空想の世界、イメージ領域のことが現実に投影して、現実に影響を与えることもあるよね。フツーにあるけど、こちらは認知度がやや不足してるわ。」

司会「現実面に投影とは、たとえば?」

花子「たとえば、親を介護施設に入所させる時とか、この歌を思い出しそう。」

アシ「あ、でも、現実に具体的に介護施設だのの個別ケースまでは、いま考えないでいいと思います。
だいじなのは、主体が、『父』に対して支配的であること。さっきの〈てのひらの弟〉と同じで、この〈ほんとの父〉も、主体の手中にあります。
とにかく、父親にたいしてここまで極端な優位性を詠む歌はあんまり見かけないかもしれません。」

花子「あのさ、虫を捕まえてマッチ箱に入れることってあるよね。」

アシ「ははぁ、他の歌人には適用できないけど、この作者なら『虫』とイメージが重なるのってあるでしょうね。」

花子「それそれ。なにかの菓子で、箱を切り抜いて組み立てるとおもちゃになる、というのがあったでしょ。この作者の歌は、『これって虫だったりしないかなもしかして』と考えるおまけつき。考えた人は三文の得。」

司会「え?」

花子「ま、いーからいーから。
じゃあ次! もういっこ空想の家族の歌。おいでー。」

■死にやすい姉


▼姉の足裏が地面につくたびに姉すこしずつ死んでしまえり
 土井礼一郎『義弟全史』

司会「おお! これはなんというか、ガガンボみたいな。
 あ、君がさっき虫がどうとか言うから、ふと変なことを考えたじゃないですか。」

花子「シカちゃんて、ほんとはけっこう鋭いのに、わざとやぼったいふりをしてるんじゃないの?」

司会「いやいや」

花子「歌にはガガンボと書いてないけど、ガガンボって地面とか壁とかにそってふんわりふんわり足をつくように飛ぶのよ。
 どでかい蚊みたいな外見だけど、刺さないんだって。」

アシ「昆虫はだいたい短命で、脆弱な体のものが多いですよね。
 ガガンボは二週間ぐらい生きるらしいけれど、体の作りがとにかく脆弱で、足なんかすぐもげちゃうそうです。そういえばバレリーナに例えた歌もありましたよ。」

●バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

司会「おお、いらっしゃい。ガガンボにはたしかにこういう儚さと女性らしさがあると感じます。〈足裏が地につくたびに少しずつ死ぬ姉〉というイメージの元に、ガガンボ、あるいはカゲロウとか、儚げにふわふわ飛ぶような虫のイメージがあります。」

鱶助「空想の家族にも人気不人気が多少ある。『姉』は兄弟姉妹のなかではいちばん短歌に詠まれにくい。つまり歌数が少なめである。また、きちんとカウントしたわけではないが、歌の中で死んでいるものとして詠まれることが、兄弟妹より多めであるようだ。(といっても大差ではない。姉の歌を100首集めたら2首か3首ある程度にすぎない。)
 ちなみに兄弟姉妹のなかで『妹』は最もたくさん詠まれている。が、なぜか
歌の中ではめったに死なないようだ。」

▲鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
 寺山修司『月蝕書簡』(未発表歌集)2008

司会「いらっしゃい。似ているかというと似ていないけれども、海で夜ごとに溺死、っていうのは、足を地面につくたびにすこしずつ死ぬことと、同じではないけれど、少し近いかとも思えますね。『姉』のイメージにはそういうタイプの悲劇性があるのでしょうか。」

鱶助「確かにどちらも、一気に終わらない。じわじわ長引く感じだ。」

花子「でも、わためとソフトクリームぐらいに死の質感が違う。」

鱶助「『兄』にはウエットな悲劇性があって悲しんでもらえるが、『姉』の悲劇は人しれぬところでじわじわ続くような……。
 しかし、多くの例歌を読んでからでないと、そのニュアンスを語りにくいので、姉の悲劇性の話は別の機会にしよう。」

アシ「で、虫は進化の系統樹ですごく遠い種族ですが、「姉の足裏が……」の作者は、『虫』に特別な思い入れのある歌人です。そんなにも遠い種族に「姉」とか「弟」とかの血縁意識を抱くようです。」

司会「では次。」

■きょうだいと指(+たたかい)

▼弟のてのひらに手を託すときなかゆび同士の奏でる軍歌
土井礼一郎『義弟全史』

▲きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』

司会「あ、ソッコー降臨。」

花子「高柳というのはこのブログの管理者。そのコネで出てきたんじゃないでしょうね。」

司会「いやまさか、二つの歌にはちゃんと共通点があるじゃないですか。
 兄弟であること、指を触れ合っていること、そして『軍歌』と『ちゃんばら』。
 ここまで重なれば、見比べる意味はじゅうぶんあるでしょう。」

花子「どっちの歌もなんかエロい!」

司会「ちょっと言い方がどぎつい。マイルドに。」

花子「やだ。」

アシ「エロくはないでしょう。兄弟は日常的に触れ合って遊ぶ仲。その親密さが表されていると思います。」

司会「『ちゃんばら』は兄弟の遊びとして自然ですが、『奏でる軍歌』って何のことでしょう。あ、軍国主義の時代のことを詠んだとか?」

鱶助「いや、そういうふうに現実を描写しているのでないだろう。
兄弟はよく喧嘩するが、対外的には結束する。軍歌を奏でるというのはそういう味方同士だぞという結束を意味しないだろうか。」

アシ「どういう解釈にしろ、『弟のてのひらに手を託す』というのは珍しいですよね。弟のほうが手が小さい。幼児とか赤ん坊とかの弱い小さな手に、自分の手を委ねる。そのときの指のふれあいから、味方同士になって軍歌を奏でるということでしょうか。」

花子「これも虫として読んでみる価値があるんじゃない?
トンボや甲虫のいる虫かごに指を入れると、虫が人の指にしがみつくことがあるでしょ。あの小さな力ときたら。
 で、昆虫って機械っぽいでしょ。ミニチュアの軍隊を手に入れたような気分っていう解釈も成り立ちそう。」

司会「ところで、『義弟全史』には父母兄弟姉妹はみんな詠まれているんですか?」

鱶助「兄と妹はでてこないようだ。」

司会「ほう! じゃあ父母の歌をもっと呼んでみますか。」

アシ「え、でも、父母の歌は世の中にいっぱいあって、だからその……。」

■利いた風なことを言う父


▼ひと幕に役者はふたりってまだなにも知らないくせに父はつぶやく
土井礼一郎『義弟全史』

花子「〈なんか効いた風なことを言う父〉ね。
 これって短歌ではけっこうレア物じゃないかしら。」

司会「確かに。現実にはいっぱいいますが、短歌ではあまり……。」

▲人間はちっぽけなものだと五合目で言うな父さん富士山顔で
山下一路『スーパーアメフラシ』

司会「おお、これは感覚的に近いですね。昔なら『父』の欠点など詠まなかったけれど、このごろ人間臭くなってきて、こういう詠み方もあるんですね。
ところで、なんだか頭上が暗くなってきたような……。」

アシ「歌人はみんな父や母を詠みますから、父母は歌数が多いんですよ。『父母を詠む歌』というのを聞きつけて何千何万が押し寄せて来てしまったのです。
父母に関する歌は条件を絞り込まないと収拾がつかなくなっちゃいますよ。」

司会「わあ。すみませーん、父母の歌のみなさーん。お騒がせして申し訳ありませんでした。日を改め、条件を絞り込んでお呼びしますので、今日は解散してください。すみませーん、すみませーん、すみませーん。」

ーー上空がざわめき、ごうごうと鳴ったが、やがて静まった。

司会「やれやれ、今日はここまでにしましょうか。」

全員 賛成

2024・08・26




ざつだん

アシ「『姉』は家族の犠牲になる、っていうシナリオがありませんか? 身売りして花魁になる的なモチーフがあるような。
ーー貧しさゆえに身売りした姉が、妹がそうならないように心配するーーみたいなのが何かの歌詞にあったし、映画でも花街の女がそういう話をするのを見たような……。」

花子「現実のじゃなくて、あくまでイメージの話だけど、兄と弟の関係より、なぜだか姉と妹ってなんかどろっとしてるわねー。」

司会「もうよしましょうね!」

2023年10月15日日曜日

短歌による座談会5 ザリガニ

 

同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 そこで、
「短歌さんたちに自発的に参加していただき、
 以下の三人半でお迎えする」
という実験的な趣向
で、この場を開設いたしました。

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない)
 ・アシスタント(外見はアシカ。名前は公表されていない)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

♦ご注意

 歌自身が降臨して参加するという設定です。(作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加し、自解はしません。
 上記三人半が、
歌が降臨した意味を受け止め、歌を解釈して座談会を運営する、
  という設定です。

では、とざいとーざーい


■教室にザリガニ


司会「9月も後半、夏休みはとっくに終わったというのに、まだ暑くてたまりません。
夏といえば、以前の「夏」は、子どもたちがいきものを捕まえる季節でした。
ある日はセミやトンボ、次の日にはザリガニやおたまじゃくし。
今思えば残酷な所業です。命のはかなさを学んだともいえますが、彼らの末路はみんな哀れなものでした。」

アシ「虫かごや水槽に入れて飼うんですよね。」

司会「そうそう。さんざんいじくりまわして寝る。翌朝、動かなくなっている。死んじゃったんだなあと思う。かすかにもやもやっとする。--そういう感じでしたね。」

花子「でもさ、ザリガニは強くて、けっこう長く生きてなかった?」

アシ「教室の水槽。誰かが持ってきたザリガニがいましたね。
 夏休み中は先生が世話をしていたのでしょうか。

ざりがにが三匹減った水槽を指をまるめて見ているばかり
加藤治郎(出典調査中)

司会「そうそう。こういうこと、ありますね。
[指をまるめて]という表現がなんとも繊細。
握りしめるでなく開くでなく、対処の難しい事態を目の当たりにしているのを、手の表情で描いている。」

アシ「歌に書いてないことは考えても無駄ですが、このザリガニが減ったのは、自然死でしょうか。それとも共食い?」

司会「歌の中の人が、指をまるめて考えているのは、まさにそのことでしょう。
つまり、争って共食いしたのか、自然死か。
自然死だとしても、死骸を片付けたのは先生か、それともザリガニたちか、って。」

アシ「[共食い]はザリガニのメインイメージのひとつですよね。」

■ザリガニといえば共食い


ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

司会「さっきの歌と好対照ですね。
シビアな現実を目の当たりにしているのは同じ。
しかし、さっきの場面は、目にした事実が[三匹減った]という婉曲なものでしたが、
こちらが直面しているのは、[一匹半]という露骨な事実です。」

花子「表現以前に、事実段階にも婉曲と露骨があるのね。
それって、すごくおもしろい着眼だわ。シカちゃんにしてはね。」

司会「(花子を無視し)
さっきの歌の事実は[数が減る]という婉曲な事実でしたが、こちらの歌の事実は露骨で、[一匹半]という見るからに衝撃的なものですね。
そこは違う。でも、あとの心の〝じわじわ感〟は少し似ていると思います。
さっきの歌では、子どもか誰かの理解のじわじわを、[指をまるめて見ているばかり]と表した。
こちらの歌でも、[半]となった残骸を見て、同じようなことをじわじわ考えているわけで、それを[バケツは匂う夏の陽の下]と表している、と思います。」

花子「ザリガニといえば夏なのに、それとなく、[バケツは匂う夏の陽の下]と[夏]を強調してある。これはかすかな示唆。戦いのあとの虚しさと言えば、やっぱ芭蕉の[夏草や兵どもが夢の跡]よ。
(くだらない反論は聞きたくないから言うけど、字数合わせに季節名をいれるのは初心者だけ。この作者はそんなことをしないわよ。)」

司会「花子さん、[夏]と[戦い]のイメージセットの話、しょっちゅう言いますよね。(ナントカのひとつおぼえ。)」

花子「しかたないでしょ。外国語ではどうなのか知らないけど、日本語で戦いの虚しさのイメージといったら[夏]なのよ。戦いに関係する内容で[夏]を入れたら、たとえ作者が意図しなくとも、言葉の世界にある既存の連想脈が刺激されちゃう。
多くの歌人が無意識にその詩的効果に促されて歌を詠む。逆にもしその既存の連想脈を常套的で嫌だと思うなら、何らかの回避要素をちゃんと添えておかなきゃいけないわよ。」

鱶助「話変わって、この歌の[一匹半になる]は、衝撃的であるだけではない。
[ひとりになる]や[ふたりになる]は、既に多くの詩歌に、さまざまな心情表現で詠まれてきているから、その間隙を縫う、という面白さもあると思う。
以下の白秋の詩はそのかなり上流に位置するだろう。
 二人デ居タレドマダ淋シ/一人ニナツタラナホ淋シ/
 シンジツ二人ハ遺瀬【ヤルセ】ナシ/ジンジツ一人ハ堪ヘガタシ
[ひとりになる]や[ふたりになる]は、対人的な心のありようや複雑さを詠むことが多いようで、[一匹半になる]は、そういうテーマとしても注目に値する。」

アシ「(別々に詠まれた同じ題材の歌を読みくらべると、共通点と相違点を考えるから、テーマの理解が深まるなあ。勝ち負けを競うものと思われている歌合は、実は詩歌鑑賞の理解を深める一つの方法なのかもだなあ。)
--あ、独り言です。失礼しました。」

司会「もし人間が[一人半]になると言ったら、オメデタです。
 だのに、ザリガニといえば共食いなんですね。なんだかなぁ。」

■共食いさせる


共食いでザリガニ釣りしあの夏の爆弾池はいまもゆうやけ
小高賢『耳の伝説』2013


司会「おお、こちらの歌は、共食いはザリガニが自発的にするだけではない、と言うために降臨されたんでしょうね。
言われてみて思い出しましたが、ザリガニ釣りはザリガニに共食いをさせるんですよ。
--最初は煮干しやスルメで釣って、次は、釣れたザリガニ自体を餌にする。
年上の子が得意そうに、ザリガニをへし折るようにして白い肉を出し、糸の先にくくりつけて見せたっけ。ああ、思い出した……。」

アシ「うわー、嫌ですね。
でもなぜ、その記憶が[いまもゆうやけ]なんでしょう?」

花子「(ニマーっとして)ふふん、それはね……。うぐぐっ。」

司会「(花子の口を押さえた。これは、花子がイケナイことを言いそうなときのお決まりのリアクション。)
き、君、いま、なんかすごくダークな皮肉を言おうとしてるね。だめだめ。」

アシ「[ゆうやけ]といえば夕焼小焼の歌など、子どもが遊びを終える頃合いですよね。
この記憶は、その場面で絵として焼きついた、っていう意味ではないでしょうか。」

司会「なるほど、残酷な行為ですが、ゆうやけを背景にした一枚の絵として心に刻まれている、という感じで、成長のステップとして、[ゆうやけ]で抒情的に仕上げているようですね。」

花子「ぶはー、ケホッ、ケホッ。
なによ! 誤解しないでよね。私もそれを言いたかったんだし、もっと続きがあるんだからね。--って、あれ? 忘れちゃったじゃないの、ケホッ、ケホッ。」

司会「花子さんの言いそうなことは想像できますよ。
例によって、この歌の[夏]と[爆弾]は戦争の縁語だとか言いたいでしょ。」

花子「それのどこが悪いの?」

司会「問題は、そのあとで言うであろうダークすぎる皮肉です。」

花子「はぁ? 私はどんなイケナイことを言うはずなんですか?」

司会「私からは言えません。」

花子「なにそれー。
私はただ、[爆弾池]は爆弾でできた池だろうし、[夏」といえば、太平洋戦争終戦だし、さっきの芭蕉の句もあるし、日本語には、[夏=戦いの終わり]という連想脈があるっていう、すごくまっとうなことを言おうとしただけよ。」

アシ「シカさんは、花子さんなら、
[戦争をゆうやけの抒情で安易に美化していいのか]
とかって、シンラツにケチをつけそうな気がしたんでしょうよ。くすくす」

花子「そのシンラツはあんたらが思ってることでしょ。私でなくて。」

アシ「いやいや、私は違います。
この作者は終戦の前年の生まれですからね、戦争への問題意識でなくて、単に子供時代の記憶を懐かしんで書いただけ、ではないかと思っていますよ。」

司会「はいはいはい。問題意識も鑑賞も人それぞれ。この話はおしまい。
とにかく、ザリガニは共食いをする。共食いには戦争への連想脈がある、っていうことで、次のお歌を待ちましょう。」

花子「ちっ!」

■ともぐいの比喩


まだあひこのままザリガニのはさみが用水に食べのこされてゐる
平井弘『遣らず』2021

喰ひのこされるまでゐてどうだつたのかザリガニらの鋏のぴいす
平井弘「楽座」第60号 2010

司会「こ、これは。
どちらも共食いの結果を描いていますね。
もしかすると戦争の比喩か、と思うと、もっと恐ろしい歌になります。戦争は人間の共食い……みたいなものですよね。
なんというキツい比喩でしょう。
食べ残されている形が[あいこのまま]とか[ぴいす]とかっていうのもぞっとします。」

アシ「[あいこのまま]っていうのは休戦だ休戦だっていいながら、結局、体がなくなるまで戦っちゃったみたいで、なんといっていいかわからない。」

花子「[ぴいす]の歌も、私たちが当然のように思っている今のこの[平和]が、共食いの結果であるわけで。」

司会「話題を変えるのが申し訳ないような気がするほど、これは真に迫ってしまいましたね……。」

■食物連鎖を外れた所業

しばられて白くなったヨッちゃんの赤酢イカにアメリカザリガニ
山下一路 『スーパーアメフラシ』2017

司会「これもザリガニ釣りの歌。さっきは共食いさせる話でしたが、こちらは[ヨッちゃんの赤酢イカ]で釣っていますね。[餌にされる]ことがテーマで、ザリガニは捕食者の役で登場しています。」

アシ「この作者は社会詠の多い人です。
 ただし、この作者は必ずしも具体的な時事を詠むわけでなく、大きく把握して普遍化する傾向が強いです。
 それでも、単にザリガニでなく、[アメリカザリガニ]と言っているのが気になります。大国を釣るための餌として小国が差し出される、的な具体的事例があったかなあ。」

司会「発表時期は?」

アシ「「かばん」誌2012年9月号の「ワンス・アポン・ア・タイム」という一連に似た歌がありますが、歌集収録の時文言を変えたようです。一連のタイトルも昔話風にとぼけていますし、具体的事例はわからなかったんですが、ぴんと来る人もいるのかも。」

花子「時事詠かどうかはわからないけど、せめて私たちが詩歌の言葉としてわかることは、ちゃんと見るべき。--それは、赤い色よ!
 [アメリカザリガニ]は赤いでしょ。[ヨッちゃんの赤酢イカ]も赤い。」

アシ「たしかに、両方赤い。」

花子「でも、そもそも[ヨッちゃんイカ]は、人間に捕獲され人間の餌食となるべく捕まったイカが赤酢漬けにされたもの。そのうえ[よっちゃんイカ]という愛称なんかで呼ばれちゃってさ、もとのイカの姿も尊厳も失ってた哀れなもの。
 この歌では更に、人間が食べるんじゃなくてザリガニ釣りの餌に使われて、人間の味覚に合わせた赤酢の赤さえも失い、ただの白いタンパク質になってる。これって、とことん失いつくした姿よね。」

司会「とことん失う……。花子さんの言う通りかもですね。
 さっきの[共食いさせる]にも何か道に外れる感がありましたが、こちらも例も、順当な食物連鎖から外れた究極ですね。」

■食物連鎖に戻ったら


田んぼに落ちて笑いあうふたりには巨大すぎるアメリカザリガニ
山下一路 『スーパーアメフラシ』2017

司会「えーと、同じ作者の歌ですが、さっきのと少し違いますね。
 二人で落ちるものといえば普通は恋。それがうっかり田んぼに落ちて、それでも面白がって笑っていたら、予想もしないアメリカザリガニという怪物に出会ってしまった。
 映画みたいに絵になってて、でもシリアスな歌。さっきの[ヨッちゃんイカ]をまた一歩進めたら、人間が外れていた食物連鎖に戻っちゃって、これもまた怖いです。」

アシ「今は田んぼがだいぶ減ったけど、かつて田んぼに落ちるってことは、偶発的で、わりとありえたことだと思います。
 命の危険はないけど泥だらけになる。だから笑い話のはずが、モンスターが現れた。」

司会「田んぼじゃなくて池だけど、偶発的に落ちて何かに出会うのは、ドングリコロコロもあります。
 ドングリは運良く親切などじょうに出会いましたが、この歌では恐ろしい巨大ザリガニに遭遇する。そういう点もおもしろいと思いました。」

鱶助「私はAIだが、今のところその社会派のデータが不足しており、十分な読み解きができない。
 とりあえず、大きく一般化して捉えるなら、謳歌している平和がいきなり失われる、というようなことも読み取れると思う。」

花子「[平和がいきなり失われる]ということが読み取れるけど、この歌はその警告ではない感じ。すでにそこここで起きてしまっていることを悲しんでいる感じがして、だからいっそう怖い。」

■はんぶんこ?

ザリガニをちぎってかっこいいほうをあげるからまだ帰らないでよ
木下龍也 「胎動短歌」vol.3 2023/5

司会「ひょえ? なんだこりゃ。」

鱶助「残酷な行為の手を汚す方は自分がやってあげる。しかも、そのワケマエは君に多くあげる。--実にダークなインセンティブだ。」

花子「たとえばフライドチキンとか、それっぽいものを半分コするとき、こういうふうに言ったら、ちょっとダークな王子様っぽくてさ、魅力を感じる相手もいるでしょうよ。
 ダークで子供っぽい無邪気さ残酷でセンスアップされた〝殺し文句〟っていう感じ。」

司会「あ、そうか、つまりこれは、[君を幸せにする]の変形なんですね。」

花子「さっきの歌みたいに、食物連鎖を外れて、命ある生物のからだを弄ぶ、っていう系統のどこかにも位置づけられる。」

アシ「じゃあこの歌は、社会詠ではなくて、戦争とかと関係づけないほうがいいのでしょうか。」

花子「そのイメージはむろん重要で、政治的な交渉を戯画化したような感じも受ける。
作者の意図は知らないけど(作者が詞書をつけて説明しない限り、すべての歌は作者の意図を超越しちゃうわけで)、そういう解釈もこの歌を生かす気がする。
 だけど、それは既に書いている人がいて既存のモチーフだ、ってことが、ここまで読んでわかったわよね。
で、ザリガニをはんぶんこすることと[君を幸せにするよ]というシチュエーションを結びつけるのは、すごく斬新であって、この要素を読み落としちゃいけない、って思うわ。」

司会「ある地域を挟んで二国がこういう口説き文句でワケマエ交渉をしている。そういう皮肉にもなり得るダークファンタジーってことですね。」

■ザリガニって十字架と重なる?


花子「ダークファンタジーっていえばさ、ちょっと話変わるけど、ザリガニって十字架っぽくない?」

司会「うーん、まあ。」

花子「磔刑のキリスト……、まな板の鯉……。意見を言えない当事者。
(ちょっと脱線だけど、日露サケマス交渉って、サケやマスの意見は聞かないわよね。)
ザリガニも、歌の中で、そういう役割をしてないかしら。」


アシ「磔刑のザリガニ?
磔刑じゃなくても、酷い状況の象徴として提示されるとか……? 
うーーん、ありそうな気がしてきました。」

あすはきょうの続きではなく太陽がアメリカザリガニ色して落ちる
虫武一俊『羽虫群』

司会「太陽がザリガニの色で落ちる。
こちら、磔刑とは言っていないけれど、でも近い気はします。
読んでいて一瞬、太陽とザリガニの姿が重なり、その色は、明日に続く感じがしない。燃え尽きてしまうような感じでしょうか。」

花子「磔刑じゃないけど、燃え尽きるまでさらされている。そういう悲壮感を感じる。」

■青インク!


バットに落とした青いインクがザリガニのエラの呼吸をしずかに示す
入谷いずみ『海の人形』

司会「むむ、これは、学校の理科の授業じゃないでしょうか。
ほら、葉脈をみるために、青いインクをまぜた水に葉っぱを刺して観察、しましたよね。」

花子「まさか、葉脈実験のザリガニバージョン?
エラ呼吸の視覚化だなんて、学校でやるには残酷すぎるでしょ。」

司会「以前の理科の時間は、カエルや魚の解剖とか残酷なことをやっていましたから、こういう実験もやっていたのかも。」

アシ「ネットで検索してみたところ、青インクでザリガニに何かする、というのは見当たりませんでした。
 餌や環境によってザリガニの色が変わるという話はあり、青くなる餌の話はありましたが、青インクなんて書いてません。」

鱶助「詩歌表現として鑑賞するなら、これが事実かどうかはさほど意味がない。
[青インクで葉脈の視覚化 → ザリガニのエラ呼吸の視覚化]
というイメージシフトだけでも価値がある。
 実際の理科の実験でも、短歌のイメージ内の実験でも、
エラ呼吸は、人間に見られることを想定していないものだが、それを人間が工夫して可視化し、見守っている場面だ。
衝撃・畏怖・罪悪感・興味のまざった感覚は、葉脈の実験よりはるかに強い。」

司会「[しずかに示す]のところ、何か厳粛なものを見守る感じですね。[しずかに示]されて見守る人たちも無言で、鼻息が強まったり、息を飲んだりするんだろうなあ。」

花子「人はともかく、このザリガニさんのご気分はサイアクだと思うわ。」

司会「抵抗できず生きながら標本にされているザリガニ。その哀れさも読み取れますよ。
さっきの磔刑の話にもちょっとつながるような気もしますし。」

鱶助「注目したいのは、この状況が、加害者と被害者という単純な構図ではないことだ。
 理科授業のこういう実験は、先生も生徒も好きでやってるわけではない。
 また、[実験]と呼んでいるが、もう結果はわかっている。生徒にエラ呼吸の仕組みを学ばせるために、[実演]して見せ、見せられている。
 そうした状況の複雑さも歌は伝えてきていると思う。」

アシ「あのう、歌がどうこうでなくて、これって、CTやMRI検査の造影剤検査を思わせませんか。胃のレントゲンのバリウムも造影剤ですし、脳の血管を見るため血液に造影剤を入れてする検査もあるそうです。
 人体に造影剤を入れて、見えないところを視覚化しようという怖い発想。脳に造影剤を入れて血管を見る検査なんかもあるそうです。」

司会「なんか背筋が凍ってしまいました。このさきはどうかあんまり怖くないお歌を……。」

■怨念・わだかまり


水底の朽木を抱いていろあかきざりがに一つ動かずに居り
高野公彦『水木』

司会「赤い、ということは、見る者に、ちょっと特別な意味を帯びて見えます。
重要な思い、忘れられないこと、怨念とか、わだかまりとか、そういった不変の激しい心情を具現化したように見えます。」

アシ「キリストは磔刑のあと蘇ることで原罪を贖うという意味がありますが、こちらはそういうことじゃなくて、個人的な心情だと思えます。[朽木を抱いて]も、古い出来事へのこだわり、を表すのでしょうね。」

花子「作者はそうだったかもだけど、意識しないほどかすかに[ザリガニ→磔刑]という連想脈が通じていたりしないかしら。」

司会「この歌で磔刑は考えすぎですって。」

花子「あらそ。」

生ぐさき水の中にて冬越せるアメリカザリガニ春に腐れり
花山多佳子 『続 花山多佳子歌集』(現代短歌文庫)2007

アシ「さっきの[水底の朽木]の歌の数カ月後、っていう感じです。
冬を越し、雪が溶け、春という新たな命の芽吹く季節が来たというのに、ザリガニは腐った。」

司会「ザリガニに付託した、怨念みたいな激しい心情が、解決せずに腐ってしまった=もっと悪い状態になった、ということでしょうね。」

花子「何かの悲惨な出来事のあとのイメージが、季節によって違うわよね。
[夏]は欲望や戦いの痕跡プラス虚しさ。
[秋]は、癒やし、そして実り。
[冬]は雪が覆い隠す。冷凍保存的にストップする。
[春]は雪解けとともにこういうふうに腐る。
どう?」

司会「どう?って言われても、それを今ここで考えると収拾がつかなくなりますよ。」

花子「あらそ。」

■死の気配


なっている目覚めればアメリカザリガニの見据える暗い泥のくずれに
我妻俊樹 Twitter 我妻俊樹(短歌)@agtm_bot 2021年5月29日

司会「[解決せずに腐って]という雰囲気は、さっきの歌にちょっと通じますが、立ち位置の違う歌ですね。
朝目覚めたら[ザリガニの見据える暗い泥のくずれ]になっていた。
ザリガニを見る歌が多いなか、この歌では自分がザリガニに見据えられています。」

アシ「朝目覚めたら云々は、カフカの『変身』を思わせなす。
が、『変身』では人が巨大毒虫になるんだけど、この歌の場合、[泥のくずれ]というすごくむなしい……死骸よりもっとむなしさの進んだ段階のものになってしまっていますね。」

鱶助「[犬も食わない]という言い方があるが、くずれた泥になったら、共食いをするようなザリガニでさえ食わないだろう。」

花子「今までの歌とは立場が逆転して、ザリガニに見られている、ということも、その徹底的な無力さの表現かしらね。
つまりこの歌は、物体としての死、究極のどうしようもないものに成り果てた状態を詠んだ、独自表現のひとつなのかしらね。」

ザリガニのにおいがすると思えども思うのみにてバケツの仏花
小島なお『展開図』

司会「こちらの歌でも、ザリガニと死が、イメージのどこかで繋がっていることを表していますね。」

アシ「仏花は、供えるまえにバケツにたてておくことがありますね。花の量が多いからなのか。
そのバケツが、ザリガニ釣りで使ったもので、匂いがしそうな気がするが、考えないようにしている、という意味の歌、ですよね。」

花子「仏花といえば菊で、強い匂いがする。
で、菊って、死の匂いを消すことが期待されている、的なことを連想させそうになってるところが鑑賞のポイントではないかしら。」

鱶助「ザリガニには共食いなど生々しい死骸のイメージがある。
一方、[仏花]は葬儀という、生々しさの対極の儀式で使うもの。
だから、イメージにおいてもザリガニの気配を打ち消、みたいなことが、心理の表層をふと這うことがある。
心理は深層だけでなく、こういうふうに表層を這うものを捉える歌もある。ちゃんと読み解きたい。」

*  *  *


司会「さて、ザリガニというものにまつわる深刻なテーマにすっかりおどろかされました。そろそろお開きにして休養しましょうか。」

花子「いいけど、シカちゃんにしてはめずらしいわね。」

アシ「疲れましたよ。お祈りして眠りたい気分です。」

鱶助「じゃあ充電開始。」

司会「あなた今日はあまり喋っていないのに充電ですか?」

鱶助「今日は花子にしゃべってもらった。花子にエネルギーを譲ったんだ。」

司会「そういう仕組だったんですか。つまり、あなたは二人分の枠を持っている。」

鱶助「小さいことは気にするな。」














2023年8月26日土曜日

短歌による座談会4 鶴

同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 そこで、
「短歌さんたちに自発的に参加していただき、
 以下の三人半でお迎えする」
という実験的な趣向
で、この場を開設いたしました。

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない)
 ・アシスタント(外見はアシカ。名前は公表されていない)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

♦ご注意

 歌自身が降臨して参加するという設定です。(作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加し、自解はしません。
 上記三人半が、
歌が降臨した意味を受け止め、歌を解釈して座談会を運営する、
  という設定です。

では、とざいとーざーい


■今回のお題 [鶴]


司会「ああ、なんたる暑さでしょう。

しかし、暑さにもめげず、上空には、短歌のみなさまがお集まりくださっているようです。今回のテーマは、[鶴]といたしました。」

(上空がざわめき、出番がないと思った短歌さんたちが去っていく気配。)

「鶴」には、美しくて理屈抜きで絵になるところにも惹かれます。
 どちらかといえば冬のイメージですが、だからなのか、ふと目にした鶴の画像になんとなく癒やされました。
 この暑さに、鶴はマッチするんじゃないでしょうか。」


■鶴は絵になる

司会「さて、鶴は短歌に詠まれたとき、いかにも絵になるという感じになりやすくないですか。
 鶴を詠んで、すごく絵になっているお歌はいらっしゃいませんか。」

▶真白羽を空につらねてしんしんと雪降らしこよ天の鶴群
 岡野弘彦『天の鶴群』1987

司会「早速にありがとうございます。ほんとうに、美しい動画を見るようなお歌ですね。」

アシ「鶴は日本に冬の訪れを告げる鳥。寒いシベリアなどから大群で飛来し、日本で冬を越すんだそうです。」

司会「[雪降らしこよ]はすごく絵になると思いましたが、なるほど、見た目の話だけではなくて、雪の季節を告げるという事実を述べてもいるんですね。」

▶根釧原野の霧の渦よりこぼれくる赤い鶴の頭泪のごとし
 ルビ:根釧【こんせん】 頭【づ】
 日高堯子『野の扉』 1988 

司会「こ、これはまたなんて美しい。
大群の鶴の飛来。その鶴の頭の赤が、霧の中から血の涙が湧き出て降るかのように描かれている。
これは実景の描写でしょうか。それとも心象が混じっているのでしょうか。」

アシ「結論から言って、心象だと思います。
鶴といえば代表は丹頂鶴。その名の通り、頭頂の赤は美しくて目立つ特徴です。
しかし、飛来する時に赤い涙がこぼれるように見えるほどかというと、動画をいくつか見てみたところ、頭頂の赤はそこまで目立たないようです。
遠目のせいもありますし、飛ぶときも舞い降りるときも、頭頂は天に向けているから、赤い部分は見えづらいんです。」

花子「事実かどうかじゃなくてさ、表現として、頭頂の赤が見える、と描写するのは、頭を下にしていることをそれとなく意味して、墜落を暗示してないかしら。
 つまり絶望感が付加されている。[こぼれくる]という言い方にもそれがうかがえる。」
 その一方でただならぬ美しさもあって、この美しさに釣り合う悲惨を思い浮かべたくなっちゃう。空襲とか特攻隊とか。
 --ま、あたしの空想よ。作者の意図は知らない。」

司会「ただならぬ美しさと悲壮感。
 たしかに、血の涙が降り注ぐ、というイメージから、地上に大きな災害があったのかな、と、ちょっと想像しました。」

鱶助「短歌は主体者(作者など)の心情を対象物に投影して詠むことが多い。
この歌では、泪のごとく鶴がこぼれてきている。自分ひとりにとどまらず、地上の多数の悲しみを投影したのだろう。」

司会「泪の数だけ悲しみがある、ですか?」

花子「それってへんに軽くない?」

鱶助「鶴は定期的に訪問する渡り鳥。なじみの地に何らかの悲惨な状況になっていって、飛来した鶴たちが悲しんでくれている、ーーそういう慰めの要素もあるだろう。」

■鶴に同情を期待する?


アシ「そういう歌では有名なのがあります。鶴じゃなく雁だったような。えーと……。」

▶このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
 ルビ:雨夜【あまよ】
 斎藤茂吉『小園』1949

アシ「降臨ありがとうございます。
そう!! こういうふうに、地上の辛い状況を渡り鳥が悲しんでくれるんじゃないか、と期待する。そういう心理ってありますね。」

▶旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
 ルビ:鶴群【たづむら】
 遣唐使の母『万葉集』歌番1791

司会「わ!万葉集……奈良時代後半……。1200年以上前ですね。
そんな時空のかなたから、この座談会に聞き耳をたててくださっていたとは。ありがとうございます。」

アシ「地上のものに対する慈悲を鶴に期待した例、としておいでくださったんですね。
 旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の子を羽で守ってください、と空の鶴たちに願っている。
 遣唐使となって旅立つ息子の無事を祈る母の歌で、長歌とこの短歌とセットになってて、
万葉集の人気歌のひとつです。」

鱶助「[天の鶴群]というフレーズは、万葉集以来使われてきて、伝統的詩情をたっぷり含んでいる。
 [鶴の慈悲]という詩情は、現代にもかすかに受け継がれているのだろう。さっきの、鶴が赤い涙となってこぼれてくる、という歌にも、それが少しあるのかもしれない。」

■鶴の頭は悲しい?


司会「さて、鶴の頭の赤は目立つ特徴ですよね。
ただ、「鶴の頭が悲しい」という超有名な歌がありますよね。
それがなんだかとっても気になる歌で……。」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「ありがとうございます。そうです、この歌です。
でも、よく見たら、この歌には赤いなどとはちっとも書いてなかった……。」

アシ「この歌を含む一連は、動物園の場面で、いろいろな動物を詠んでいます。[くれなゐの鶴のあたま]が云々という歌もあり、鶴の出てこない歌にも[赤]が多く詠み込まれているので、[赤]にこだわった一連のようです。」

司会「ああ、だから、この歌に赤と書いてなくても赤い頭が思い浮かぶんですね。
 それにしても、不思議な歌です。鶴の頭を見て涙を流しているのは、いったいぜんたいなぜなのでしょう。」

アシ「一連には[くれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守【きやうじんもり】をかなしみにけり]という歌もあり、斎藤茂吉は精神科医だということが補足要素にはなりそうです。
 でも、それでもわからない要素が残るし、それこそがこの歌の価値だという気がします。」

花子「赤には痛々しさみたいな方面のイメージがあるとは思う。けど、鶴の頭の赤って、見た人が涙をながすようなもの?」

司会「それです。この歌を初めて読んだときからずっと、心ひそかに抱えている謎です。
 [わが目より涙ながれて]という他人事のような言い回しも気になるというか、ヒントかもしれないですが、とにかくみんなが名歌だといいますから、疑問は言いにくくて……。」

アシ「この歌は、なぜ悲しいのかをへたに説明をすると、矮小化してしまいそうです。だからみんな、無理に説明しないでおくんでしょうね。」

花子「この歌には何かあるとおもう。
 けど、近代の人って二言目には[かなしかりけり]とか言うじゃん。あれって軽くない? ぶっちゃけウザ、うぐぐ……。」

司会「君はひとこと多い。」(と花子の口を押さえる。)

▶腰高に頸ぶす鶴のあはれさよ紅き頭に雪すこしつけて
 ルビ:頸【うな】 紅【あか】
 ぶす=伏す?

 北原白秋『雀の卵』1921

司会「腰高に体から伸ばした首の先に赤い頭があって、そこに雪がついていて、その姿の描写とか寒さとか、繊細に描写されていますね。
 こちらの歌も[あはれさよ]と言っています。花子さんが変なことを言うから、安易に[あはれさよ]と付けたわけじゃない、という意味で降臨されたみたいですよ。」

花子「わかったわかった。その話はもう忘れて。
 で、この歌の[あはれさよ]は、寒さへの同情と美意識の混ざったような、ちゃんと納得のいく
[あはれさよ]なのよ。
 でも、さっきの歌の、涙がながれちゃうほど[鶴のあたまは悲しきものを]は、そういうふうに納得させてくれない。つーまーりー、ぜーんぜん、ちがう!」

▶動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
 伊藤一彦 『月語抄』

司会「[悲しいという人もいるが、自分には、鶴は怒っているように見えるよ]
という意味あいで、来てくださったようですね。」

アシ「先発の歌に対して、後発の歌が、本歌取りや意図的な応答をする場合もありますし、作者が意図しなくても、ひとりでにそうなっていることがありますね」

司会「この鶴は、動物園にとじこめられているから怒っているのでしょうか?」

鱶助「高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩(動物園の狭い場所に閉じ込められた駝鳥を哀れんでいる)を想起しないでもない。
 しかし、この歌は、閉じ込める等でなくて、[鶴のものごしや表情などの全体に[怒り]を感じる。動物園にいくたびにその印象が強まった]と言っているように見える。。
 この歌は頭の赤に言及してないけれど、[やかん頭]という言葉もあるし、頭頂の赤は[怒り]のイメージに通じるだろう。」

アシ「ちょっと話を戻します。花子さんはさっき[何でも悲しがる]的なことを言いかけました。[かなし]は、一般に言う[悲しみ]とは限らなくて、昔から日本の詩歌の重要な情趣ですよね。」

▶奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
 猿丸大夫「小倉百人一首」(古今集では詠み人知らず)

アシ「ほら、こういう種類の情趣だと思うわけです。
 あ、でも、[声]といえば、鹿は発情期に甲高い声で鳴くことがあるんだった。
その点では鶴も、[鶴の一声]というやつで、けっこう大きい声で叫ぶらしいから、本当に悲しげに聞こえる場合もあるのかもですよねえ。
ですから、さっきの茂吉さまの歌は、悲しげに叫ぶ鶴の頭が赤いという意味合いも含むでしょうか?」

司会「なるほど。そういう意味を含むかどうかはわからないけれど、鶴の声も気になりますね。鶴の声の歌にもあとで触れましょうか。」

■血が透けてる色だって!!


アシ「脱線すみません。では頭の赤に戻って重大発表です。
 丹頂鶴の頭の赤い色は、羽毛じゃありません。
 あの赤は、皮下血管内の血液が透けて見えているんです。」

司会「えー!!」
鱶助「ほう!」
花子「ガラス蓋の鍋料理みたいね。」

▶丹頂の頭の赤は皮膚ですといふ表示ありてかなしみは来つ
 花鳥佰『しづかに逆立をする』2013

アシ「これは! まさにそのことを詠んだ歌ですね。」
鱶助「これはあきらかに、[わが目より涙ながれて]の歌を意識している歌だろう。
 鶴は頭頂に羽毛がなく赤く透けて無防備だから悲しいのかな、と。」

司会「脳内が文字通り赤裸々に透けちゃったらほんとに悲しいですね。」

■磁気レーダーを備えている


▶海わたる丹頂の頭にみちびきの地磁気影さす花のごとけむ
 小池光『廃駅』1982

司会「こ、これはまた、ぜんぜん違う着眼ですね。
ところで、地磁気って何でしたっけ?」

アシ「ざっくり言って地球により生じる磁場です。北極がN極、南極がS極。
鳥にはその地磁気が見えていて、遠距離をあやまたずに渡りができるんだそうです。」

司会「なるほど、この歌は、丹頂の頭の赤を、磁気レーダーっぽく見立ていて、そこに浮かびあがる地磁気の図を[花のごとけむ]と言っているんですね。」

花子「すごいじゃないの!鍋料理を超えたわ。」

司会「斎藤茂吉の歌の影響で、鶴の頭といえば[かなしい]って思っていましたが、こちらの歌はぜんぜん違う。
[かなし]という古来の情趣を離れ、高度な能力を備えた[たくましさ]みたいなものを見出している。かっこいいですね。」

アシ「あのー、水を差すようで申し訳ないんですが。
 さっきから、鶴は渡り鳥、と言っていますが、鶴の生態は種類によって異なり、渡りをしないこともあるそうです。
 映像などでよく目にする北海道の丹頂鶴は、なんとほとんどが北海道暮らし。道内での移動はするけれど、外国への渡りはしないそうです。」

花子「詩は必要とあらば遠慮なく事実を超えちゃう、っていうことね。」

■いつから鶴の頭が気になりだした??

アシ「なお、勅撰集のデータをざっと検索してみただけですが、」鶴の頭がどうこういう歌は、21代集の時代までは見当たらない気がします。頭の赤に触れた歌も同じです。
でも[絶対にない]と断言はできません。」

司会「じゃあ[鶴の頭]に詩情を見出したのは、近代歌人なのでしょうか?」

アシ「いえ、正直言うと、近代の前に、[近世]というよくわからない時代がありましてね。
あ、いや、わからないというのは、入手しやすいデータがないから自力ではわからない、調べにくい、という意味です。専門家ならわかるでしょう。」

▶千とせふる鶴のよはひにあやからんわれもあたまが赤うなるから
 養老館路芳

司会「おお! 
 って、えーと、こちらさまは?」

アシ「ちょ、ちょっとお待ち下さい。
 えーと、はい、こちらは、江戸時代の狂歌さまです。(汗)
 作者の養老館路芳という方は、「早よみの路芳」と称された狂歌師(1737~90)で、『狂歌言葉海』などの著書があるそうです。
 つまり、[少なくとも江戸時代の狂歌では、鶴の赤い頭は詠まれていたよ]と告げに来てくださったんですね。」

司会「はるばるのご参加ありがとうございます。
[酔っ払って頭が赤くなる自分は、千年生きるという鶴にあやかりたい]っていう歌でしょうか。飲み過ぎは体に悪いと注意されてこじつけで言い訳している。そんな場面ですね。」

アシ「江戸時代の前には戦国時代という混沌とした時代があります。
 鶴の頭を詠む例はもっと前からあったのかも。うわあ、上空がなんか混雑しすぎて怖い感じになってきましたが……。」

■ところで鶴が絵になるのは、既に絵になっていたから?

司会「さてさて、[鶴を詠む歌は絵になる]から出発したんですが、横道にそれてきました。話を[絵になる]に戻しましょうか?」

アシ「ぜひ。(って私が話をそらしたかもしれませんが)[絵になる]の件では、以前からすごく気になっていることがあるんです。」

司会「ほう!」

アシ「鶴は、中国書画や日本画でときどき見かける題材です。ですから、鶴は[絵になる]というか、本当に[昔から絵になってきた]ものなのです。(いつからかははっきりしませんが。)」

司会「そういえば花鳥画ってありますよね。紅梅と白鶴、みたいな絵をどこかで見たことがあるような。」

アシ「それです。
 で、短歌の鶴が[絵になる]と感じるケースには、次の二通りが有り得ると思うんです。

 ①その歌の視覚表現がすぐれていて、絵になる、と読者が感じる。
 ②どこかで見た花鳥画の既存イメージを読者に思い浮かばせる。

司会「なーるほど。」

アシ「和歌には、漢詩など中国の影響がある、とよく聞きます。しかし、いつ何がどう影響したか、まして花鳥画の鶴が和歌に反映した時期は、とうてい調べきれません。
 梅とのセットについては、二十一代集までの和歌にはどうも見当たらないので、少なくとも多くはなかったようですが、松とのセットは古くから見かけます。
 要するに、題材ごとに違うみたいで、調べきれませんから、コマカイことは軽く流してくださいね。」

花子「調べなくたって、該当する歌があれば、降臨してくださるのでは?」

司会「花子さん、そこは大人の事情ってことで了解してください。上空は混み合っていて、なかなか思うように降りてこられないんですからね。
 では、時代等にはあんまり深入りしないことにしましょう。
 そのうえで、花鳥画を思わせるような歌を、少し見てみたいですね。」

■梅と鶴 絵にかけないことを言葉が書く

▶春さむき梅の疎林をゆく鶴のたかくあゆみて枝をくぐらず
 中村憲吉『軽雷集』1931

司会「あ、近代のお歌ですね。
 たしかに花鳥画ふうです。本当にこういう絵があるのかどうかはわからないけれど。
 それと、[たかくあゆみて枝をくぐらず]という気品ただよう動作は、動画を見るようですね。」

花子「動く花鳥画。」

鱶助「絵にかけないことを言葉が描いている。
 たとえば[くぐる]は絵に描けるが、[くぐらず]は絵に描けない。」

▶白き羽の鶴のひとむら先づ過ぎぬ梅に夜ゆく神のおはすよ
 与謝野鉄幹『むらさき』

司会「こちらは、[白き羽の鶴のひとむら]というフレーズに少し花鳥画の雰囲気があると思えます。
 絵から出たような神々しい鶴がそばを通りすぎ、続いて神様も過ぎる気配がする。--そういうものたちとすれ違いながら散歩しているような……、思いうかべるとすごく不思議というか素敵というか、ものすごく風流でファンタジックな散歩ですね。」

花子「ぜいたくに風流しちゃってるー。風流にそぞろ歩くすてきなデートかもよ。
[犬も歩けば棒に当たる]ぐらい風流なものにい出会えそう。
与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」に通じる感じ。」

■言葉で描く〈赤白黒〉の配色


▶紅梅にみぞれ雪降りてゐたりしが苑のなか丹頂の鶴にも降れる
 ルビ:苑【その】
 前川佐美雄『捜神』1964

司会「絵になる歌は配色がきれいだと感じます。
 丹頂鶴は赤白黒。そこに[雪][紅梅]。鶴の美しい配色が背景に溶けこみますよね。」

花子「目で見る赤白黒もきれいだけど、言葉から思い浮かべる赤白黒には、目で見る以上にきれいだったりしない?」

アシ「赤白黒って、認識上で、何かベーシックな取り合わせ、だったりするでしょうか。
例えば白雪姫は、王妃が『雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように黒い髪をした子がほしいわ』と望んで生まれたんですよね。」

鱶助「実は、鶴と関係なくても赤白黒の配色のものを詠んだ歌は名歌になりやすい気がしていて、いま研究中。ここでは発表できないが。」

司会「では、今日は[赤白黒の配色はとにかく美しい]ってことで先へ進みましょう。
で、この歌は、[丹頂]の赤、[紅梅]の赤が、[みぞれ雪]のなかでフェイドアウトしながら幽かに見えているっていう、言葉の動画みたいな面もありますよね。」

鱶助「それと、生き物がそこにいてフェイドアウトしていく、という意味も加わる。
雪は、紅梅の赤も、そこにいる鶴の姿も、等しくそっとかき消していく。
[丹頂の鶴にも降れる]は、[この雪景色のなかに、生き物の鶴もいるんだよ]とそれとなくワンプッシュしている。
そう意識したとたん、生き物の体温のフェイドアウトも少し感じられる。」

司会「なるほど、体温。[みぞれ雪]は普通の雪より寒そうだし、色も体温もフェイドアウトって儚げな風情ですね。」

■松と鶴


アシ「あのう、鶴の絵といえば、花札の一月札など、[松と白鶴]の組み合わせも定番のひとつじゃないでしょうか。」

▶妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
 聖武天皇『万葉集』歌番1030

(待ってましたとばかりに降臨。)

司会「なんと!聖武天皇の御歌さまであらせられますか?」

アシ「万葉集の鶴の歌には、松とのセットがけっこうありそうです。
(カウントしていませんが、ざっと見ていくつか目に入りました。)」

鱶助「こちらの歌、メインは[妹に恋ひ](あの子が恋しくなって)という素朴な心情である。その思いにマッチする情景として、松原に鶴という美しくて絵になる情景を持ち出しているのであって、松と鶴は素敵でおしゃれな表現だったかもしれないが、花鳥画という感じで描いている雰囲気ではない。」

花子「鶴と松なんて、すっごく古くさ……うぐぐ。」
(司会が花子の口を押さえている)

アシ「松と鶴というと、現代では長寿のお祝いを連想しますが、聖武天皇といえば奈良時代。なんたって西暦が三桁。
 当時はきっと、新鮮で素敵な表現だったと思いますよ。」


■動く花鳥画

▶香青なる松の末葉に白妙の羽うちつけて鶴舞ひめぐる
 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』1878

司会「あ、橘曙覧さんのお歌。曙覧さんは近世の終わり頃の歌人ですね。
 さっきの聖武天皇のお歌から約千年を経て、こちらはいかにも松と鶴のめでたい図です。
 襖絵とか緞帳とか……、昔の結婚式の引出物のお茶碗でも見た気がします。」

鱶助「しかし、そういったおめでたい絵を、ただ描写しただけの歌ではない。
 [羽うちつけて鶴舞ひめぐる]という表現には、力強さと躍動感がある。
 つまり、[動く花鳥画]になっていると思う。」

司会「芸術作品を別の芸術ジャンルの表現で描写する場合、そういった何らかのプラスアルファが必要でしょうね。」

▶日盛りの光みなぎり松の梢の鶴の行ひけざやかに見ゆ
 木下利玄『紅玉』1919

司会「こちらの歌でも、[鶴の行ひけざやかに見ゆ]がひじょうに生き生きしていますね。
 一つ前の歌は、襖絵か屏風絵かを見てみごとさに感動しているような感じがしましたが、こちらは、そういう定番の絵柄でありながら、実景を双眼鏡でみているみたいな口ぶりで描いて臨場感を出していませんか。
 定番の絵をリフレッシュしてみせたんでしょうか。
 それとも、これってまさか実景だったりします?」

アシ「どうでしょうね。タンチョウは江戸時代までは日本各地で見られたそうですが、明治時代には激減したそうですよ。
 この歌を含む歌集は大正8年の出版ですから、もしかしたら、たまには見られたのかもしれません。あるいは、作者が子供のときに見たとか。」

鱶助「実景を見たかどうかは関係ない。
 この歌は屏風絵的なものを意識していることは確かであり、絵の鶴が動き出して実景になるような描き方をしている。
 つまり、実態を離れて絵として定番化したイメージに、臨場感ある動きをさせている。
 しかし、それをリフレッシュと言っていいかどうか……。」

花子「リフレッシュ……。でも、ナマに戻すのではない感じ。
人形に紐をつけて動かすような、次の段階への新たな変化ではあるけど。」

▶夏掛けに鶴乱れ飛ぶあかつきのいんふるえんざは外国の風邪
 穂村弘『回転ドアは、順番に』

司会「むむ、これは、えー、どう受け止めましょう?」

花子「あのさー、いま動く絵の話をしてるよね。
 で、この鶴、動いてると思わない?」

司会「え、動いてますか?」

花子「インフルエンザで高熱で寝てたら、布団の図柄の鶴たちが乱れ飛び始めちゃった、みたいな。」

司会「ふうむ。」

花子「布団の布地はけっこう和柄が多くて、全体に図柄を繰り返して散りばめる感じよね。この夏掛けには、小さい鶴がいっぱい飛んでるんじゃないかしら。
 で、さっき[定番]っていう話が出たけど、布団の柄ともなれば、定番化、図案化・記号化のレベルでしょ。
 それでね、ワザアリなのは、[鶴が乱れ飛ぶ]と[いんふるえんざ]の取り合わせじゃないかと思う。」

鱶助「なるほど、[乱れ飛ぶ]は、鶴の表現として常套的すぎて、もはや臨場感を添えられそうもないフレーズだ。
 ところが、[インフルエンザのせいで図柄の鶴たちが乱れ飛びはじめちゃった]という使い方なら、熱に浮かされた実感の叙述だから、ある意味、言葉としてややナマの状態によみがえる。
 これは興味深い歌だ。言葉やイメージに対する根源的な批評性を備えた愛を感じる。」

花子「すごいわ。干し椎茸は水で戻す。ひからびた言葉は実感で戻す。」

司会「(あんたたち、またなんか面倒なことを言ってるな。)
 じゃあ、[外国の風邪]っていうのは、どういう着地ですかね?」

鱶助「和柄の鶴を外国の風邪(風とかけてあり)が吹き乱している、という含みがあって、これも視覚的によく出来ている。
 なお、余計な深読みになるが、高熱状態の思考ですよ、という冗談めかした演出は、批評性の照れ隠しみたいなものではないだろうか。」

司会「なんで批評性を照れるんですか? さっぱりわかりませんけど。」

鱶助「批評に照れはデフォルトである。」

司会「ご勝手に。」

■夜の鶴は子煩悩


アシ「あのー、話を替えていいですか。
 古典和歌の定番モチーフのひとつに[夜の鶴=子を思う]というのがあるそうです。
 聞きかじった情報ですが、それは、白居易の『五絃弾(ごげんたん)』という詩のこのフレーズから来ているんだそうです。
   夜鶴憶子籠中鳴
    〈夜鶴(やかく)子を憶(おも)ひて籠(こ)の中(うち)に鳴く〉」

司会「子を思うのは、子育てをする動物なら普通のことでは? 鶴にかぎらず。」

アシ「そうですが、詩歌の世界では、白居易の詩を発端に、ことさらに鶴の子育てを詠むようになったらしいです。子を思う歌といえば、他の動物でなく鶴を引き合いに出す。そういう約束事になる。--詩歌の世界には、そういう現象がありますよね。」

司会「あー、そういうことですね。」

▶夜の鶴都の内にこめられて 子をこひつゝもなき明かすかな
 高階貴子
(通称、高内侍。儀同三司母とも)『詞花和歌集』 歌番340

アシ「このお歌、籠の夜鶴が鳴くように私も都から出られず我が子を思って泣き明かす、っていう悲しい内容です。」

司会「どういった事情で?」

アシ「作者は中関白藤原道隆の奥様。
 息子の伊周さんは道長さんとの政争に破れ、左遷されて明石に行っていた。母である貴子さんはそれを嘆いているのです。
伊周さんは翌年都に戻れることになりました。が、そのときにはもう彼女は亡くなっていたんですって。」

司会「それはまたお気の毒に。」

鱶助「[都]の[こ]と[籠]、そして[明かす]が[明石]にかけてある。心情表現にも技巧をこらす時代の歌だ。
 こういうふうに鶴に託して何かを詠む例はさぞや多いことだろう。」

アシ「うわー、なんか上空が暗くなった。
 千年以上いろいろ託されて詠まれた鶴の和歌のみなさんが、われもわれもと、すごい数で旋回してます。一気に降りてきちゃったら大変なことに……。」

司会「こ、古典和歌のみなさま、鶴と子の話題はここでおしまい。申し訳ありません。
それと、この先はなるべく、近現代の歌に絞らせていただきたく……。」

(しかし、上空の気配が収まらない。あきらめきれないように、無音のブーイングが渦巻いている。)

■鶴の声

アシ(声を落として目配せ)「いきなり古典をやめてしまわず、やんわりテーマに切り替えて絞込めば、対象が減りますよ。そこからやんわり近現代へと絞り込みましょうか。」

(司会--うんうんと頷く。)


アシ「えー、話変わって、[鶴が鳴く]っていう歌、近現代には少ないみたいですが、『万葉集』時代から、鶴が鳴くということを詠む歌があります。さっきの聖武天皇のお歌、
妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
も該当しますね。」

▶若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る
 山部赤人『万葉集』歌番919

司会「おお、山部赤人さんのお歌。こちらも、ご先祖様感がすごいです。

なるほど、何かの故事に基づくとか、いきさつがあるんでしょうが、古典の調べものは時間がかかりますから、そこは考えないこととしますね。
で、実のところ、鶴って鳴きながら渡るんでしょうか?」

アシ「ネットで軽く調べただけですが、飛びながら鳴くようです。つがいの相手と鳴き交わしながら飛ぶこともあるそうです。」

司会「では、[鳴き渡る]というフレーズのニュアンスは、仲間などへの情愛を感じ取っているわけですね。」

アシ「きっとそうですね。聖武天皇の歌も[妹(いも)]を思う歌でした。」

司会「近現代でも[鶴の声]って読まれていますか。」

(上空に動きがある。タメイキがいっぱい降ってくるが、待ってましたという気配もある。)

▶涯しなき草生の旅をかさねきて倦みし心に鶴鳴きわたる
 ルビ:倦【う】 鶴【たづ】
 岡野弘彦『石打てば石』1976

司会「こちらは現代の歌ですね。ただし、雰囲気は和歌を踏襲しているようです。
 [旅]といえば人の一生をさすことがありますが、この歌のいう[旅]には、ふつうの一生に、和歌の言葉の世界を旅したイメージが添ってもいる気がします。--人は死ぬけれど、歌は死なない。そこに不老の鶴のイメージが重なっている。
 鶴の声の人恋しさも、個人としての人恋しさに加えて、時空を超えた和歌の世界における人恋しさなのかもしれませんね。」

▶黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声
 江田浩司『メランコリック・エンブリオ』

司会「あ、こちらには全く古典っぽさがありませんね。山部赤人さんの歌と同じく、鶴が海を鳴き渡る光景なのに。
 古典と近現代。同じことを詠んでも違う。その雰囲気を分ける要素って何なのでしょうね。
 いや、気になりますが、それはいま論じきれない。また今度にしましょう。」

▶今さっき鶴が鳴いたと告げられて夢のつづきのように抱かれる
 大田美和『きらい』

司会「ぎょ! こ、これは斬新。
 声だけ。いや、その声も間接的に伝えられるのみ。
 なのに、[鶴]と書いてあるだけで、鶴の姿がなくて、でも、なんだかゴージャスな美しい気配はあるような。」

▶鶴の息遠くまで飛ぶ明け方の夢のなかにはわたくしひとり
 加藤治郎『しんきろう』

司会「夢つながり。こちらは声ですらない。[息]だけでも[鳴き渡る]感じですね。鶴の存在感の強さに驚かされます。
孤独感は、さっきの[涯しなき草生の旅を]の歌に通じるものが感じられて、ひそかに古典を踏襲しているのかもしれません。」

▶昔日本に幻音ありきいつせいに鶴は楽音のごとく立ちにき
 葛原妙子『鷹の井戸』1977

司会「[幻音]! この歌では、[鳴く]とも[息]とも言っていない。
[鶴は楽音のごとく立ちにき]とはすてきですね。
これは独創的でありつつ、でも、伝統的なものの発展形でもあるわけですね。

……って、あれれ?
さっきから、私ばっかりしゃべっていますね。
みなさん、お疲れですか。勝手に休憩しちゃってます?」

鱶助「私はちょっと充電。(君のタフさにはAIのわたしも驚かされる。)
 充電しながら聞いていた。
 この歌は前から知っていたが、[鶴が鳴く]というテーマで読み比べたおかげで、この歌の[幻音]が、ただの個人的な独自イメージにとどまらないものだとわかった。
 歴史深くに根ざす重要なイメージは、歌人というニンゲンを使って発展することがある。ニンゲン(作者)が意図してもしなくても。」

■鶴の頸


花子「ちょっと脱線しちゃうかなあ。
 昔は知らないけど、現代の短歌には[鶴の首]を詠む歌がよくあると思わない? それがたいていか弱そうに描かれてる。
 で、首の脆弱性も鶴のイメージのひとつだと思うの。この機会に
ちょっとは触れておくべきじゃないかな。」

司会「そういえば、私も、鶴の首は私もちょっと気にはなっていました。
 実は、[鶴の頭が悲しい]という話のとき、ちらっと[首じゃなくて頭なのか]と気になったんですよ。細い首なら悲しいのもわかるけど、って。」

▶はろばろと空ゆく鶴の細き首あはれいづくに降りむとすらむ
 岡野弘彦『天の鶴群』

司会「この[あはれ]は、遠距離を飛ぶのは大変という意味でしょうか。あの細長い首をだらんとせずに飛び続けるなんて。
 え? わたしなんか間の抜けた感想をいってしまいましたか。」

花子「渡り鳥は長旅ができるよう、すごい筋肉を備えているんでしょうね。
 短歌は同情的に[あはれ]って詠むことが多いけど、鶴は
[あっぱれ]と言ってほしいかも。」

鱶助「鶴は短歌を読まない。作者もそれは知っている。こうした詩情はニンゲンのものであり、対象の(鶴の)意見は求めていない。」

アシ「そうだけど、それを言ったらみもふたも……。」

花子「相手が読まないからって、好き放題にネクラなことばっか書いていいの? 
 悪意はなくとも
ニンゲンは、他の生き物への敬意を根っから欠いてるから、その口から言葉の出る綺麗事の同情は、植物の私から見たら〝あだ花〟ってやつよ。」

司会「それは言い過ぎだし、短歌鑑賞そのものができなくなりますよ。
 とにかく次にいきましょう次に。」

▶蹴ろくろのまわりて秋陽のうずのなか壺の鶴首ふいに細るも
 ルビ:蹴【け】
 蹴ろくろ=足で蹴って回転運動を起こす方式のろくろ

 玉井清弘 『久露』

司会「壺を作っているところですね。口が鶴の首のように細長い壺。
 ふいに細くなることに季節感を見出しているのはめずらしい捉え方。繊細な指の加減とか、心の集中とか、いろいろなことが読み取れて素敵です。」

アシ「細い部分だから、ちょっとした力の加減を誤れば、くにゃくにゃってなってしまいそうに危ういですね。」

▶誰もみな悪くないのというひとも鶴の首なら折ったはずです
 藤本玲未 『オーロラのお針子』

司会「え? あ、折り鶴でしょうね、これは。」

花子「誰も悪人ではない、的なことを言うような善人も、折り鶴の首を折るというかすかな暴力には自ら気づかずに実行するだろう、という意味かしらね。」

司会「結句の「はずです」という、主張のような弁明のような抗弁のような口調が気になります。」

花子「自分が善人であることに安心している人にも危険因子はあるのよ、ってことさらに言わなきゃならないシチュエーションを描いていると思うわよ。」
(棘で司会をつんつんする。)

司会「えーと、それはもしかして、私を皮肉ってます?」

花子「やだー、シカちゃんたら。その通りよー。笑」

▶春の鶴の首打ちかはす鈍き音こころ死ねよとひたすらに聴く
 米川千嘉子『夏空の櫂』1988

司会「こ、これはまた。さっきの[声]や[音]の話にも関係あるのかどうか、でも、はるかに恐ろしいです。
 [首]は細くて弱そうだから逆に、暴力とか残虐とか、そういった方面の連想を引き寄せるんでしょうか。」

アシ「その意味では[春]も、普通は新しい命の芽生える明るい季節です。だから真逆の[死]にも連想が働くんじゃないでしょうか。」

▶春はもうやさしく 鶴もこまやかに折りて最後に頸そっとねじり
 石井浩「かばん」新人特集号2010・12

司会「やはり春と鶴の首には残酷さへの連想脈があるようですね。
[もうやさしく]が怖い。きびしい冬のあとに来る春が、繊細に仕上げをするみたいな口ぶりです。」

▶春の日はしずかなりけりつぎつぎと鰌は鶴の喉くだりゆく
 山崎方代『右左口』

司会「こちらの残酷はちょっと違いますね。鶴でなく鶴に飲まれる魚にとっての残酷。鶴の細長い首が、テーマパークの絶叫アトラクションみたいです。」

▶遠くから飛び来て遠く去るものの一つか恋も首細き鶴も
 松平盟子『うさはらし』


司会「こちらの歌は、残酷というか、喪失の悲しみでしょうか。
 恋は渡り鳥みたいにいっとき訪れて去ってしまうものだ、という意味で、[首細き鶴=恋]ですよね。細い首は、恋における繊細な心の紆余曲折を指していると思われます。
 [めくるめく恋]なら、さっきの歌のアトラクションにも少し重なるような……。」

■古典的美意識をはなれる

司会「あれ? さっきからまた私だけしゃべってますよね。みなさんお疲れですか?
 花鳥画的な美意識を含む歌とそうでない歌とがありますね。それと、古典ふうの詩情を継承する歌とそうでない歌。
 いちど定番化したイメージをどのように離れるのか。過渡的な歌はあるのかどうか。そういったことを知りたいんですが。」

▶秋晴れに野を飛びわたる鶴むらのいつまでも見ゆる空のさやけさ
 正岡子規

司会「近代のはじめの頃のお歌ですね。
 [飛びわたる]鶴を見るシチュエーションは古典の歌に通じますね。でも、松や梅がない。」

鱶助「古典に通じるシチュエーションだが、野原で見かけたそのへんの鳥みたいに描写している。古典和歌的情景のワンマイル化とでも言うべきか。」

▶一輪とよぶべく立てる鶴にして夕闇の中に莟のごとし 
 佐佐木幸綱『金色の獅子』

司会「[一輪とよぶべく立てる]は日本画ふうな鶴の立ち姿を思わせますが、花鳥画ではないですね。」

花子「花鳥画の花と鳥が一体化しちゃったみたい。花鳥画の脱却、というか内包しちゃった、消化しちゃったみたいな。」

▶ゆくりなく枯野へと鶴まひおりて風景が鶴一羽へちぢむ
 渡辺松男『きなげつの魚』2014

司会「こ、これもまた斬新で美しい。
 この鶴一羽が風景の主役。鶴めがけて収束してくる、という迫力ある存在感。どうしようもなく美しくて絵になっちゃってますね。」

アシ「[風景がちぢむ]のところは、劇画みたいなコマカイ線が思い浮かびますね。
 これはもう、歌を読む私の側に花鳥画の残像があるだけかもしれませんが、花鳥画の鶴を違う理論と画材で描きなおしたか、っていうぐらいのかすかな痕跡を感じます。」

■美意識の飛び火

▶しののめのさくらが描く円環のなかを一羽の鶴の身が燃えのぼる
 ルビ:円環【わ】
 永井陽子
『樟の木のうた』

司会「花鳥画では梅と鶴がありましたが、桜と鶴の組み合わせは、あんまり見かけない気がしますが、どうなんでしょ。
それに鶴が燃えるっていうのに、なぜかあまり残酷さを感じない。
私は、不老不死のイメージから不死鳥のイメージへと、連想脈が開通しちゃいました。」

鱶助「言われてみれば、鶴には不老不死のイメージがあるのに、なぜいままで不死鳥のイメージと繋がっていなかったのだろう。」

花子「ワタシ的には、この歌を読んでも、[鶴]と[不死鳥]が結びつかないなあ。
[不老不死の鶴]と[不死鳥]のイメージは、理屈の上では似てるけど、なんだが異質な気がする。
つまり、この歌の鶴は
[不死鳥]として燃えてるんではない気がするのよ。」

鱶助「鶴に限らず[美しく燃えるもの]を詠む歌は案外多い。人々が意識していないだけで、[何かが美しく燃える]は、けっこう人気のモチーフなのだ。
(その話もいつか機会があればしたいが)で、そのモチーフが鶴にも飛び火してきたのではないだろうか。[美意識]はしばしばこういうパフォーマンスをする。」

花子「なんにしても、焼き鳥のイメージじゃなくて良かったわね。」

■言葉やイメージになった鶴の終末ケア


▶夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
 塚本邦雄『閑雅空間』1977

鱶助「[ことばとはいのちを思ひ出づるよすが]とは、[ことば]がもとは[実在のもの]だったということだろう。
 [夢の沖に鶴立ちまよふ]は、鶴舞う不老不死の[めでたい]イメージを遠景に見るステージを思わせる。それはつまり〝いのちの劇場〟ではないだろうか。」

司会「劇場といえば、こどものとき、舞台の緞帳に描かれた鶴を見たことがありますよ。」

▶今宵、月にシルバーベッドの影が見え老いたる鶴がひとりづつ臥す
 日高堯子 『振りむく人』2014

司会「シルバーベッドって何でしょう。」

鱶助「月光はよく銀色と言われるし、銀色と言えばシルバー、シルバーといえばシルバーシートなど高齢者関連に冠する語。
 つまり、この歌は、千年生きるという長命の鶴(のイメージ)をねぎらい、看取るためのベッドが月にある、ということを詠んでいると思われる。」

花子「言葉もターミナルケアか。」

▶千年のよはひをかさねて松も青しすでにいつしか鶴飼ひにける
 前川佐美雄『大和』

司会「あ、わかった。こちらの歌は、松に鶴はつきものということをもはや常識として、松が鶴を飼う、と言っている。レトリックですね。」

アシ「鮫が一人前に大きくなるとパイロットフィッシュを従える。そういうノリで、松も千年で一人前の[老松]になって鶴を飼う、みたいな。
定番化していることを更に覚めて受け止めている。」

花子「鶴の飼育! [シニアにイチオシの趣味]っていう題詠ならイチオシよ。」

司会「し!」

■〝はきだめに鶴〟効果


司会「[はきだめに鶴]という言葉がありますよね。それもなんだか美しい。
 花鳥画は背景も美しいわけですが、あえて背景が美しくない場所に鶴を置いて絵にしちゃう、っていうのもありだったりしませんか?」

▶日曜の工事現場はさみしくて大きな鶴と空を見ている
 吉野裕之『空間和音』

司会「おお! これはまさしく。
 背景は工事現場。工事のクレーンは鶴という意味で(crane=鶴)、そこから発想した歌でしょう。工事現場のクレーンが巨大な鶴に差し替わっている。絵としておもしろいです。」

花子「でもさ、他のものでも巨大化して場違いなところに置けば、絵になっちゃうんじゃないかな?
 鶴が特別[絵になる]のかどうか、その点をちゃんとあばいちゃってね。」

司会「あばいちゃって、ってなんだかなあ。
 でも確かに、この絵の鶴をダチョウに置き換えても、絵にはなると思えます。生き物ならみんなキングコングっぽく絵になりそうですね。
 いや、生き物じゃなくてもいい。例えばバナナでも、ボールペンでも、何であれ場違いなものを巨大化してここに置けば、なんかシュールな絵にはなるでしょう。」

アシ「でも、鶴は巨大化しても、キングコング的モンスターとは違うと思いませんか。シュールではあるけれど、他の物にはない高貴さが絵を支配すると思います。
 花鳥画に美しく描かれてきた経歴と、不老不死の神聖なイメージは、工事現場にすごくミスマッチ。[工事現場に鶴]は[はきだめに鶴]そのものですよ。」

▶夕暮れの皮膚科に鶴が舞ひ降りてピアスをしてといひにけるかも
 池田はるみ『ガーゼ』

司会「むむむ、これはまたシュールな。
 夕暮れの白昼夢っていう色合いなど、とても美しいし、皮膚科・鶴・ピアスという取り合わせのでたらめ感もなんだかおもしろい……、いや、どう鑑賞したらいいのか。」

アシ「蕁麻疹の痒みで白昼夢を見ちゃったとか? いや、それは無理な解釈だし、鶴にはピアスをつけるような耳がないし……。」

花子「ブブーー! 
 この白昼夢みたいな歌は、実はまともな理由があるにちがいないわ。
 
皮膚科の待合に居る人は、命に別状はないけど何か辛い症状(痛みやカイカイ)で鬱屈してるのが普通。そこへピアス用の穴あけに来た人(若い女性でしょうね)がいたら?
 ほら、皮膚科ならピアス用に耳に穴をあけに来る人もいるでしょ。
雰囲気が明るくて、服装も皮膚の露出が多いとか、とにかくすごく場違いな人。
 その
違和感をこういうふうに捉えて詠んだ、っていう解釈に一票。」

司会「そう言われたら、もうそうとしか……。
 その解釈ならこの歌も[はきだめに鶴]系になりますね。
 [はきだめに鶴]系はだいたいシュールな感じになるようですね。」

▶荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし
 小島ゆかり『憂春』

司会「こちらも、なんかすごくシュールな絵になっちゃってますよね。
 梅雨の終わりの豪雨の夜、バスから降りる[わたし]に鶴の嘴が??
 けっこう衝撃的な絵です。夢に見そう……。
 だけど[はきだめに鶴]っていうわけではなさそうな……。」

鱶助「絵として面白いだけではなく、この歌は理が通ってもいる。鶴の嘴は[ツルハシ]の語源だ。どしゃ降り→災害という連想脈があるだろう……、」

司会「え、さ、災害?」

鱶助「いや、バスが動いてるから、実際は災害っていうほどではないのだろう。
しかし、豪雨のなかでバスを降りるとなれば、誰しも〝それなりの覚悟〟をもつだろう。
その〝それなりの覚悟〟のことを、こういうふうに表現しているのではなかろうか。
だから、[はきだめに鶴]という状況ではない。」

司会「災害に立ち向かうぐらいの覚悟で豪雨の中へ出ていく。その覚悟の心象が[鶴のくちばし]だと……。
 そう言われたら、そう思えてきてしまいましたが。
 結局のところ、[はきだめに鶴]に限らず、鶴をコラージュしちゃえば、勝手にシュールな絵になっちゃう、ってことですかね。」

アシ「それはちょっと決めつけすぎ……。司会さん、だいぶお疲れですね。」

■鶴を詠んで絵にならない歌は?


司会「[鶴]を詠めば絵になりやすい。シュールな絵になることもある、ということですね。
 では最後の最後、鶴を詠んで絵にならない歌、なんてあるでしょうか。
 絵にならないという自信のあるお歌さん、いらっしゃいませんか?」

(しーん)

司会「なるほどー。いませんよねー。
 ではそろそろ、このへんで今回は終わりにします。
 みなさま、ごきげ……」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「え、 ええ?」

花子「言われてみればこの歌は、鶴を詠んでいる割には、あんまり[絵になる]っていう感じの満足感がないわね……。」

アシ「美意識が積極的に働く感じはしません。--でも美しくなくはない。
 頭の赤い鶴と並んで泣いている人、という図もおもしろいし、〝シュールな絵〟と言って言えなくはない、と思えますが、どうなんでしょう?」

司会「さっきの、[荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし]は、シュールな絵になると思いました。こちらも同じぐらいシュールな絵として楽しめます。両方とも読後に[謎]が残るところも共通してますし。」

鱶助「いやいや、微妙に違う。
[荒梅雨]の歌は、[絵になる]というか、[わたくしにある鶴のくちばし]という結句で視覚的にぎょっとさせる構造になっている。視覚に訴えるパフォーマンス性が強く、[謎]も、その視覚パフォーマンスから直接生じている。
 それに比べると、こちらの[わが目より]の歌は、鶴の頭や涙という絵になる可能性を帯びた具象的視覚情報を含むにもかかわらず、[悲しきものを]という、視覚情報がどう関わるのかわからない結句に至り、[この悲しさは何だろう]と探らせ続ける。
 つまり、この歌は絵になって読者の気が済んだらだいなしになる。この[絵にならない]は、単にならないのではなくて、あえての手法である。」

花子「やっぱ、へんな歌だー。うぐっ。」


司会「そ、そうなのかな。(わかった気がしないけど)いろんな意味で特別な歌だったんですね。
 この歌については、これだという解釈ができないままでしたが、最後の最後にこの特別さが判明しましたね。いや判明というほどわかっていないけれど、……。」

アシ「この歌の特別さについては、まだ解明が必要な気がします。」

司会「期限のない宿題といたします。
 では、あらためて、みなさま、さようなら。」





  *  *  *

アシ「個人的には、[折り鶴]の歌にもっともっと触れたかったんです。
今回ちょっと出てきただけですが、[折り鶴]には[鶴]と違う独自な面もあると思うんです。」

司会「[折り鶴]ですか。近いうちにやりたいですね。」