2024年2月21日水曜日

随時更新 ちょびコレ6

なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。
ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。


2024年2月20日 太郎と次郎

誰しもがなにかの広告塔になる 太郎は家電 治郎は菓子屋
土井礼一郎「かばん」2023年12月号

水もどり風もどりたり蛙田の太郎どぜう田の次郎やいづこ
平井弘『振りまはした花のやうに』

太郎次郎は一歩世界を変えなむか風よ風よと鯉泳ぐ空
三枝昻之(出典調査中)

太郎次郎三郎四郎泣いていたかもしれなくて山の道行く
東直子『十階』

次郎子に乳あたふれば寄りて来し太郎子ははや寝息たてをり
秋山佐和子『空に響る樹々』

ディスク・ジョッキー流れて行かん低き町 太郎の妻あり次郎の妻あり
前田透『煙樹』


2024年2月12日 指をたてる

「指を立てる」ということを詠み込んだ歌を探したところ、7首みつけた。

中指を立てる千年先からも空色の爪がよく見えるやうに
魚村晋太郎『銀耳』

望むまま世界は歪む中指を立てて眼鏡を押し上ぐるたび
光森裕樹『鈴を産むひばり』

小野さんが中指たてて風向きをはかるしぐさでじっとしている
藤田千鶴『白へ』

中指のあらん限りを立てている松のさびしき武装蜂起は
吉岡太朗『世界樹の素描』2019

杉の木を指とおもへば寒の指一本立ててゐるさみしさや
渡辺松男『時間

気の弱い奴のはずだが指立てて指に風呼ぶ今朝のあいつは
坪内稔典『豆ごはんまで』

鳶の尾の乱れぬさまを言うならば指をするどく斜めに立てよ
依田仁美『異端陣』2005

ご覧の通り7首中の4首は「中指」である。
世間では、「中指を立てる」のは「ファックサイン」であって、相手を侮辱する品のない仕草である。
短歌の中ではどうなのか。
その気で読むと、「ファックサイン」の含みもあるように見えてくる歌もある。

なお、「立てる」と書いてないけれど、次の歌の指はいかにも立っている。

たくさんの空の遠さにかこまれし人さし指の秋の灯台
杉崎恒夫『食卓の音楽』1987


2024年1月20日 万華鏡


「万華鏡」という語を含む短歌を検索してみたところ、この題材は、(今のところ)ステレオタイプなイメージが形成されていないみたいである。

 言い換えるなら、たぶんしばらくの間は、自分の発想を信じて詠めば新領域にあなたのフラッグを立てることができる可能性が高い。

 ただし、現時点では、すでに詠まれている歌はある意味とっても独自なものが多いので、偶然の類想は絶対避けたいところ。
以下の、イメージをゆさぶらずにおかない歌たちを読んでおいて損はない。


■本日のお気に入り 万華鏡と体感2首

花の破片うまれてやまぬ万華鏡のつめたい腕をつかんで生きる
井辻朱美『クラウド』2014


 万華鏡の中の美しいものを描写する歌は多いが、美を生み出し続ける万華鏡のパワーのほうを詠む歌は珍しいし、それにあやかるような表現をとっていること、それも「つめたい腕をつかんで生きる」と言ってのけている迫力は、おそらく追随をゆるさないものだと思う。
 言葉の姿構成も、生け花のようにすみずみまでしっかり意図をゆきわたらせて造形されているようだ。1字も動かせない完成度だと思う。


わたくしを万華鏡に澄ますとき一方の目は闇を見てゐる
森山緋紗「かばん」2023年12月号

 「わたくしを万華鏡に澄ます」という部分に、万華鏡とつながるような体感がある。
 この特殊な言い回しは、「『わたし』という部品をカチッとセットすることで万華鏡が完成する」というふうに、いつのまにか読者に感じとらせる。
 そして、万華鏡にセットしたとき使わないほうの目が「闇を見てゐる」というのも、「見てゐる」にあるそれとない能動性が、「気が散らぬように使わない部分の機能を停止させている」ことをそれとなく伝えてくる。
 すべての語が協力し合っている歌だと思う。

万華鏡の歌を調べているうちに、「ちょびコレ」とはいえないほど集まって、書きたいことも増えてしまったが、このままここに書いてしまおう。

■万華鏡内部の光景

夏の果て花火師たちを閉じ込めた万華鏡売る夜店をさがす
神﨑ハルミ(出典調査中)


もうこれきり動かないほどすばらしい景色を見せている万華鏡
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012

万華鏡におほき熊ん蜂閉ぢこめて見むとしたれどいまに見るなし
小池光「時のめぐりに」2004



(複眼レンズ系?)

 ※万華鏡には、内部に小さな欠片を入れるもののほか、複眼レンズを使うものがある。

万華鏡もて都市の夜みるときを曼荼羅めける極彩の満つ
大塚寅彦「詩客」2013-02-08

露店より買う万華鏡たわむれに街を破片にしてみる日暮れ
toron*『イマジナシオン』2022

ショッピング・カートに眠る子らのまなうらにバーコードの万華鏡
岡野大嗣『サイレンと犀』

覗き込む僕を模様にする君は悪夢のような万華鏡以て
Please keep me keen to kiss a knight of knowledge in a Kafkaesque Kaleidoscope.
中島裕介『Starving Stargazer』2008


(外側)

今日という日は晴れていてやさしくてどうしようもなく万華鏡の外
平井美奈子「早稲田短歌」44号



■覗く人

中腰の人々がいて口々に「はぁ」「ほぉ」漏らす万華鏡館
本多忠義『禁忌色』

たらちねの睡眠不足の母の目に吸収されてゆく万華鏡
木村友「かばん」2018/5

■その他

万華鏡みたいで人はおもしろい関わりあうと面倒だけど
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015

6月のきみの国には万華鏡とかありますか? 走れ! ありますよ。 
杉山モナミ 作者ブログ「b軟骨」2007/5

誰しもの心にひとつあるという万華鏡へと夕陽を落とす
五十子尚夏『The Moon Also Rises』

でも触れてあなたを噛んでわたくしを残す日の万華鏡のかたむき
立花開『ひかりを渡る舟』










2024年2月17日土曜日

レア鍋日記2024年 (随時更新しています)

レア鍋日記とは

こちらはたまに更新しています。

■2024年2月17日 すごろく【レア鍋賞】

わけあって「すごろく」の歌をさがしたら、以下3首しかなかった。

すごろくのように突然ふりだしに戻りたくなる日曜の夜
本多忠義『禁忌色』

振り出しにダダもこねずに回帰した双六の駒褒めてあげなきゃ
久保芳美『金襴緞子』

飴をくちにいれたまま寝て飴味のよだれをたらす すごろくしたい
橋爪志保『地上絵』

■2024年2月17日 あらま・あらまし【ワン鍋賞】

たて笛の高いドに指をあわせて「あらまあ二月あらまあ五月」
北川草子『シチュー鍋の天使』

あらましは黄色い本に書かれていたのだ オリンピックのまえに
詞書:Where is the emergency shelter?(避難場所はどこですか?)
山下一路『スーパーアメフラシ』  

「あらまし」(概略)を探すつもりで「あらま」という文字列で検索したところ、「あらまし」(であればよいのに)が7首、「あらまほし」が4首あり、「あらまし」(概略)は1首だけ、そしてオマケ的に「あらまあ」の歌が見つかりました。

■2024年2月8日 三千世界【レアじゃなかった賞

「三千世界」だなんて、現代短歌ではレアで当たり前だと思えるのだが、そのわりには詠まれている気がする。
こういうケースは「レアじゃない賞」としてここに取り上げようと思う。

先行して有名な歌などがあると、いまあまり使わない語も、短歌の世界には生き残りやすい。「三千世界」といえば良寛の

あわ雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

という、すごく迫力があって美しい歌が存在する。
そして、高杉晋作の、おそらく歴史ドラマなどで耳にして一般に知られている都々逸。

三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい

「三千世界のカラス」がこれまた印象的。
良寛の雪の白と晋作のカラスの黒は、三千世界に舞うものとして対照的であることも、無意識のうちにイメージが重ね合わさる効果もあるような気がする。

とにかく、こういう先行作品のおかげで、仏教用語である「三千世界」が、なんとなく知られており、かつ詩的なパワーをも帯びてきたのだと思う。

うなだれた花花のそばを歸るとき三千世界にただわれひとり
前川佐美雄『白鳳』

花虻はホトケノザに来てとまりたり三千世界のここがまん中
小谷博泰『河口域の精霊たち』

銀紙に歯をあつる瞬スパークす歯にあつまれる三千世界
渡辺松男『時間の神の蝸牛』


上記のなかでは渡辺松男の歌には特に驚かされる。衝撃の比喩に使うとは。
あの銀紙を噛んだときの独特の衝撃的な感覚を三千世界の存在感に例えるという、唯一無比でありながら、あの衝撃を表すならもうこの比喩にまさるものはなかろうと思えてしまう。

実は私にも「三千世界」を詠んだ歌があるけれど、「須弥山大運動会」という仏様の運動会を詠んだ連作のなかにあるので、「三千世界」という仏教用語が出てくるのは当然で、そういう意味では面白みが足りない。
休止する三千世界のすむずみに届け仏のはずむ息づかい
高柳蕗子『回文兄弟』

川柳にも、発想の近いおもしろい句があった。

三千世界にくちびるが切れた音
湊圭伍『そら耳のつづきを』


冬に荒れた唇がぴりっと裂ける。小規模で無音だが、意外な衝撃がある。

なお、短歌にも俳句にも川柳にも、より普通の取り上げ方で「三千世界」を詠む例は他にもあった。




ちょび研 歌人は「以前」が気になりがち?

 

短歌ちょびっと研究

「以前」「以後」「以来」の使用頻度


2019年の春頃に、「以前」「以後」「以来」という語の使用頻度を調べたら、短歌俳句川柳で大きな違いがあった。
あれからデータが増えたので、再度カウントしてみたところ、
あまり傾向が変わっていないことがわかった。

短歌には「以前」が多く、
俳句川柳では「以後・以来」が多い。
ジャンルの違いでこんなにあからさまな差がつくものだろうか。

ただ、俳句川柳のデータはあまり持っていないので、あまり強気では言えない。
特に川柳は、たった14000句程度しか持っていないため、精度が低い。

そこで、川柳「おかじょうき」のデータベース(74,000余収録)で検索してみたところ、
「以前」2句、「以後」11句、「以降」2句という結果だった。つまり、「以前」は少なくて「以後」が圧倒的に多い。これは確かなことのようである。

なら俳句も、というわけで、現代俳句協会のデータベースも調べてみた。
「以前」4句、「以後」45句、「以来」11句で、やっぱり「以前」はとっても少ない。
(このデータベースは総数が書いてないけれども、5万以上はあると思われる。)

伝統の定型詩の仲間なのに、どうしてでしょう。
なぜだかわからないが、なまはんかな推測はやめておこう。
少なくとも、調べてみなければわからない偏りを発見した、というだけで今はよしてしよう。