2024年1月31日水曜日

気まぐれピックアップ 「かばん」2023年12月号

歌集句集、短歌誌俳句誌川柳誌。たくさんいただいているが、ろくに読まぬも、シッカリ読むも、全くの気まぐれである。
目にとまったものを書き留めて、ちょっとコメントしてもいいじゃないか、と、かねがね思っていた。

やってみようかな。三日坊主になるかもだけど。



■「かばん」2023年12月号よりピックアップ

 手始めは所属誌「かばん」。
「かばん」は6月と12月が特別号だ。特集を組み、会員作品もふだんより多い。熟読しきれないが、本日の気分でピックアップする。
 なお、私の主義として、〝普通のいい歌〟※には触れず、〝普通じゃない良さ〟に注目したい。〝普通じゃない良さ〟にもいろいろあるが、いま入れ込んでいるのは「これはレトリックだ」と認知されていないレトリックで、なかでも「暗示とわからない淡い暗示」に特に注目したいと思う。

※〝普通のいい歌〟と私が呼ぶのは、もちろん〝いい歌〟なのだが、その歌の生成過程で、既存の価値観を司る妖精が作者の耳元で「これはいい歌になる。この抒情はグッとくる」などと祝福した形跡のある歌である。祝福済みの歌には私の出番はないと感じる。 


◯「すごろくの一回休みを永久に」とーんととんと遠い未来で
屋上エデン p5

 オノマトペの効果は、意識化しきれない。それを無理に意識化すると、無理な説明になってしまうのだが、まず「とーんととんと」に太鼓を連想。「とーんと」は、祭り太鼓のバチを振り上げたところのようだ。昔話の「とんとむかし」の「とんと」(=全く、きれいさっぱり)のような超越的なニュアンスや、東京五輪音頭の「ととんとととんと」みたいな促進的なニュアンスもまざりあった、複雑な味わいのオノマトペだと思う。

 こう書いてしまうとすごくこじつけめいてしまうが、太鼓のような「とーんととんと」は「永久」という語と合わさることで、なんだか古代からの時の流れを脈打つようなニュアンスも帯びそうになる。
 また、「永久」は昔話の「とんとむかし」とも時間感覚として相乗効果を起こす。(五輪音頭も「時間」に関係がある。はるか古代のギリシャに発祥し、いまでは定期的に開催している。)淡い関連性だが、脳内では理屈を超えて響き合う。

 ゆえに、この歌は、太古から「とーんととんと」脈打ってきた時間感覚に、「すごろくの一回休みを永久に」という異変が起きる未来、という奇妙な味を提示しかかっていると感じる。

 私の妄想的解釈と言われればそれでもいいという程度の、すごくあえかなイメージ効果。しかし、詩歌の読者には、それでも十分、いやその程度こそが良い、とする人も一定程度いると思うので、臆せずここに書いておく。

関係ないが、さっきたまたま見つけた歌。
あけましておめでとんと打ち誤つてしづかにひらく令和六年
荻原裕幸 2024年1月1日 X(旧twitter)に作者がポスト

 

◯岩を割る人のかたちの星座から届く光に照らされるほと
青木俊介 p8

 「砕石位」とは、主に泌尿器科や産婦人科での診察や治療のために患者が取る体位。仰向けになって足を抱え膝を胸に近付ける。
 砕石位という名の由来は、炭鉱で石を砕く人の姿で、狭い穴に仰向けの状態で潜り込み、広げた足でバランスを取りながら採掘を行う様子に似ているからだそうだ。

 でも、そこまで詳しく知らなかった私は、誤解して、医師が砕石者、患者が砕かれる石、という図を思い浮かべ、なんてひどいネーミングかと長いあいだあきれていた。

 さて、この歌も、図としては私と同じ解釈に基づいていないか。この「ほと」は割られる側の石として思い浮かべられていると思う。

 にもかかわらず、この歌はちっともひどくない。星の光のもと、この「ほと」からは宝石の原石のような星がざくざく掘り出されそうではないか。
 この材料から良い意味でのめでたさをこんなふうに描き当てるとは、なんとも稀有な歌だと思う。


◯「あの人」と遺書に記せばどの人が自分のことと思うだろうか
島坂準一 p6

 この歌で始まる一連には、日々のむなしさを死への念慮で埋めて、なんとか日々を送っているかのような心境が描かれている、と思う。
 一連全体は、「どうしてそうまで思いつめるのか」と思わせるような極端さが感じられて(=普遍化要素が不足しているのか)、結果として他人事のようにしか感じられないとっつきにくさが少し感じられた。
 しかし、この冒頭歌は別。この歌だけは、「必死な理屈が説く普遍性」という鬼気迫る手品みたいな感じで、他人事と通り過ぎそうな人の足を止めさせる。同じ心境ではない人、思いつめていない人との接点を開く。ーーそういう役割を果たして、この歌が一連を成立させていると思った。


◯雨の日の頼りは骨皮丸右衛門あっし風にはやわでやんすが
北瀬昏 p10

 このごろ注目しているのが、このナゾナゾ風レトリック。
「背が高くて赤黄青の三つ目のモンスター(信号機)」とか「上は洪水、下は大火事(お風呂)」のように原始的なトンチがほほえましい。
 「傘」を詠む歌は多いが、その一角に、こういう歌の場所があったと思い出させて居場所を作るような感じ。
 このレトリックは、センスで勝負する歌の姿そのものを見る楽しさがあるし、対象へのアプローチの方法の一つとしてまだまだ可能性を期待できそうだ。
 もうひとつ。
 くっついて困らせてくる八月のつめたいきみをはがせば熱い
 北瀬昏 p10
 恋人との別れを別のことにだぶらせて比喩的に語るのは普通の方法だが、「これって何に例えたんだろう」と考えさせますよね。
 こういうナゾナゾ的な比喩って、比喩のなかの一ジャンルじゃないかしら。で、この歌の場合は、「ひんやりシート」が答えになるんじゃないでしょうか。


◯小説の好きなところはどの顔も書かれていながら見えないところ
とみいえひろこ p14

 むむ。これに対して「そうだね、映画やドラマにしちゃうとだめだよね。」と相槌を打ってしまうと外しちゃう感じがする。
 そういうふうに答えたときにこぼれ落ちちゃったもの……があるような。この歌の言葉には、直接書かれていない、見えない大事なものがであるような、不思議レトリック※だ。
※書いてあることに対して普通のリアクションを思い浮かばせ、同時に「あれ、これだと何か足りないような、はみだすような」などと感じさせる。その不足というか余剰というかは説明がつかず、しばしば「不思議な余韻がある」といった評におちつく。
 短歌にひそむ説明しにくい要素を説明するのが私の使命(勝手にそう思っている)である。
 この歌の場合、そのひとつは、「ことばの身振りみたいなものを幻視させる」ということだ。くるっと回ってスカートがひらんとするような、歌の姿を見たような気がする。
 ふたつめはなんとなく小声で言わないと壊れてしまいそうにあえかな効果なのだが、のっぺらぼうが見えそうになることである。
 置いてけぼりの話の最後に、「旦那、そいつはこういう顔ですかい」と蕎麦屋がつるんと顔を撫でる場面。あれが脳裏に浮かびかけ、でも浮かぶのをよして引っ込んじゃうような、ーーそういう、うんとかすかなかすかな効果があると思える。


◯文字列も声も確かにそれとなく北を指さす私の在りか
雛河麦 p16

 北をさすといえば方位磁石である。で、私はどこに在るのか?
 文字列や声が「私」が北の方角に在ると示している、という歌だろうか。いやそれにしてはなんだか言い回しが妙だ。そも、磁石を使って方角を確認するという行為は、行く手の方角の確認もあるだろうが、自分の位置の確認でもあるだろう。そこから解釈をし直してみよう。
 この歌は、「自分が発した言葉(「文字列」「声」)などがそれとなく方位磁石の役目をしてくれる。それによって、自分が存在する位置を推し量ることができる」ということを詠んでいると思われる。これは珍しい着眼だ。

 それとは別のこと。「北」はなぜか詩歌では望郷の方角として詠まれる事が多くて、屈折した思いをいで詠まれる傾向があることも、ほぼ定番※と言ってもいいだろう。
※南国出身の人だって望郷の思いはあるだろうに、たまたま東北の方の歌人が優れた望郷の歌を詠んでしまってそうなってしまった、のかどうか?ーー短歌だけではない。歌謡曲でも故郷といえば北が多いようだ。そして、故郷には帰りたいが帰れないとか、一大決心で帰るとか、「北」には屈折した思いを抱きがちである。
 北をさす特別な理由やいきさつが示唆されていれば別だが、この歌にはそれがない。そういう場合は、定番イメージである「屈折した望郷」を鍵にして読み解いてもいいだろう。
 その読み筋ならば、「自分が発する文字や声には、無意識に、心の故郷のようなものへの屈折した志向があり、それが自分の存在の確認になり、裏付けにもなる」というようなことを読み取れるのではないだろうか。


◯栗拾いここ数年を会えていない兄を思い出しつつ栗拾い
ユノこずえ p17

 妹と兄……。そして、「栗拾い」という行為。
 一読、直接書かれていないイメージの情報量が、それもうんと間接的に淡いものがしっかり含まれている、と感じた。
 まず、妹と兄。ふつうなら兄が妹を守る、という関係だと思うが、妹と兄が出てくる物語などではたいてい、兄が何か困難な状況にあり、妹は心を痛め、ときに兄を助けるために苦難を乗り越えたりするのだ。
 ※例えばグリムの、白鳥になってしまった兄たちを助けるために末の妹が自己犠牲を払う話。
 「通常なら守られる立場の妹だが、兄を救うために行動する」という、この逆転の抒情的モチーフは、広くうっすら共有されていないだろうか。
 「兄を思い出しつつ栗拾い」には、そのモチーフの気配があって、この栗拾いが兄のために功徳を積む行為であるかのような感じがちらりとする。兄の生死は歌ではわからないが、「拾う」という語には「骨を拾う」への連想脈があって、生きていたとしても、例えば「黙殺され不遇な兄」みたいなことも思い浮かべそうになるし、さらには、賽の河原の石集めの「一つ積んでは母のため」的な絵が、読者が気づかない程度に密かに淡く、重なりそうになるのである。
 このレトリックには、従来のあからさまな暗示、「暗示してますよ」といううざい感じがない。「そのモチーフの気配がちらりと」「読者が気づかない程度に密かに淡く」という幽かさが重要なのである。


◯牛たちの立ち泳ぎのような 窓外の真夏の雲がギリシアへわたる
井辻朱美 p18

 牛たちの立ち泳ぎ? なんだそりゃ。それがギリシアへわたる? なんだそりゃ。ーーただそれだけでこの光景に目が釘付けだ。
 雲の描写の歌にはかわった描写も少なくないが、「牛たちの立ち泳ぎ」は珍しい。ニュートラルな頭じゃないと、こういう把握はできない。ユーモラスな動きまで感じられるこの絵、センスがなければこうは描けないとも思った。
 「ギリシアへわたる」という部分もおもしろい。そういえばギリシャ神話にはミノタウロスが出てくる。牛にしてみたら観光とか聖地巡礼とかしたくなるのではないかしら。
 もうひとつ面白いのは、ほんものの牛が泳いでギリシャにいくのでなく、牛の形の雲が空を泳いでギリシャにいく点だ。イメージは人々の空想が重なり共有されて生成する。その現象は、雲が水滴が集まって形成することと似ている。かくして、牛のイメージたちが雲になり、古代ギリシアをめざして泳ぐ。 ーーというのが私の解釈である。
 それと、ほんの一滴程度だが、牛たちは無事にギリシアまでいけるのか、これはハッピーエンドになるのか、という不安もあると思う。
 陸生の動物が海をわたるのはそもそも危険なのだし、「牛たち」が行列を作っている絵には、気づかぬ程度だがレミングの集団自殺みたいな不吉なものへの連想脈だってなくはない。因幡の白兎はるんるん海を渡ったが、後でワニザメたちに皮を剥かれてしまう。
 そうした展開の可能性もほんの少し隠し味的に含まれている歌だと思う。


◯何周も生きてしあわせ木の幹の蝉を手につかんでみたくなる
沢茱萸 p20

 長い地中の幼虫時代を終えて羽化した蝉が木の幹を登る。命がくりかえしくりかえし生まれ出るたくましいサイクル。同じ蝉が生まれ出てくるわけではないが、そういうふうに個を意識するのは人間だけだ。
 そういうたくましさは他の生物にも共通するが、蝉の仲間には「周期蝉」(17年とか13年とか長い周期で定期的に揃って生まれる)もいるから、特に周期を感じさせられるのかもしれない。
 で、命のたくましさは人間という生物にもあるのだが、人間は命を謳歌するよりも個として死を恐れ悲しむことに熱心だよなあ、とも思えてくる。
 そして、末尾の「つかんでみたくなる」という曖昧なニュアンス。これが絶妙だ。命への純粋さに触れたい、という衝動みたいだが、「つかんでみたくなる」にはかすかな暴力性もあるだろう。
 人間は同じ命のサイクルの仕組みを持ちながら、なんとなく他のみんなの仲間にはなれない。そのかすかな屈折のぶんが、かすかな暴力性になり、でも、実際に掴むわけじゃなくて、「つかんでみたくなる」と自分を観察する冷静さもある。ーーそういう微妙なニュアンスの混ざり具合が絶妙だと思った。

※昆虫はなべて生死に関わる歌が多いが、特に「蝉」にはその傾向が強い。以下ご参考まで。
宇宙にはバオバブの根がみなぎって幾度も生まれてくるゆめの蝉
井辻朱美『クラウド』
蝉たちを拾ってあるくそのような九月生まれのぼくの天職
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』
生きている蝉の数より落ちている蝉の数のが多い不思議
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

 


◯ポイフルのピンクを避けて踏み下ろす新宿駅の階段に夢
 紺野くらげ p21

 駅の階段にはよく何か落ちている。でも、大勢が並んで昇降しているから、その動きを乱さぬよう、転ばぬよう、なんとか踏まずに通過するだけだ。
(御茶ノ水駅のホームの階段に、なんとブラジャーが落ちてたことがある。え?と思って、とっさに踏まぬように避け、一瞬で通り過ぎた。)
 さて、ポイフルというのは小粒のカラフルなお菓子。踏んだら滑るかもしれないし、靴の裏にべったり付くかもしれないし、だから踏まぬように避けるのは現実面から考えて当然の動作である。
 が、加えて、ポイフルは見た目が小さな卵みたいにかわいい、ということも重要だ。子供がこぼしていったピンクの夢の卵みたいで踏み潰すにしのびない、という気持ちも、あまり意識にのぼらないが幽かにあると思う。現実面の思考では説明しにくいようなそういう要素も、行動を決める要素として無意識でありながら重要だったりする。
 また、目に付きやすいポイフルならばかろうじて踏まずに避けるのだが、大勢が通る都会の駅の階段には、もしかすると目に見えない夢やなにかも、誰かがこぼしているかも、と空想を進めたくなり、見えないそれらを気づかずに踏みつけているかも、などと考えそうにもなる。


◯ねずみ色、黒、茶、紫 抽斗に残されていた古い折り紙
 茂泉朋子 p34

 一読、明るい色が残されていない、と思う。
 そのむかし、子どもたちが、鶴やらやっこさんやら、さまざまなものを作った。そのとき、明るい色の紙ばかりが選ばれ、暗い色の紙は結果として残ったのだろう。
 ーーその場面、こどもたちの無意識な心の形跡というか、がしのばれる。
 これって、こっくりさんの逆みたいな感じでおもしろくないですか。
 こっくりさんは、みんなの無意識がめざすところを指すのだが、これは無意識に避けたものたちだ。
 選ばれなかった不要の紙は、なぜ捨てられなかったかといえば、現実的にはおそらく深い意味はなく、単に捨てるにはもったいなくて、その後存在を忘れただけ、なのだろう。
 けれど、詩歌のイメージの世界なら、なにやら大切そうに抽斗に残されていた、というニュアンスを増幅し、読者が思い思いに深読みしてもいいと思う。
 私は、古いタンスがはるか昔の空気とともに保管していた、というふうに感じてそこから深読みした。
 うんと古いものは古い空気のなかで保存しなければならず、それゆえに掘り返すことができずそっとしてある遺跡もあるという。新しい空気に触れたとたんに風化しちゃうらしい。その連想で、この折り紙たちが現代の空気の中で変色しちゃうところを想った。


◯案内所に吊り下げられていた地図が夜にゆらゆらさせてた全土
小川まこと p22

 地図も全土も揺れるのは地震かな。でも、夜風で揺れる地図を見て、全土が揺れることを想像した、ということもある。
 それは、どちらでもいい。どういうきっかけで詠まれたのであろうと、この歌で重要なのは、地図と全土がシンクロしているらしいこと、それも、地図のゆらめきが実際の地面を揺らすみたいな言い回しをしていることなのだ。
 そも地図とは、現実の地形や街などを記号化したもので、この記号化の方向(現実→記号)は不可逆のもの※である。
※ただし、楽譜はそのとおりに演奏すれば音楽を再生できる。そういう可逆の記号化もある。
 地図(全土の一部を不可逆の記号化であらわしたもの)がゆらゆらしたからって、全土がゆれることは、ないはずである。いちおう、ないことになっている。
 ーーしかし、記号化されたものが先行し、あとから現実が追いかけて、不可逆の変化をする現象(記号→現実)がある。それをわたしたちはなんとなく知っていて、そのあたりの認識がくすぐられるところがおもしろい。
 例えば、といわれるとすぐには思い浮かばないけれど、新しい造語、スローガンみたいなものがまず出現し、それを具体化するかたちで現実が追いかける、みたいな順序で現実が変化していくことって、ありますよね。
 私たちは自分が思う以上に「現実」というものを拠り所にしていているために、建前として、現実が出発点であるというふうに考える。現実の地道な変化に基づかない変化(イメージとか記号とか言葉とかが先行する変化)を少し恐れていて、意識にのぼらせないでいないかしらね。そんな気がする。


◯確か、私は広がってるのにチヂミ行く。体のような何かが
柳谷あゆみ p24

 この歌もさっき書いたナゾナゾ風味の歌の仲間。
「大きくなればなるほど小さくなるものなーんだ(服・靴)」みたいなナゾナゾを思わせる。
 ただし、この歌は、一般的なトンチみたいなオチはなさそうだ。はっきりした答えを見つけるものではなくて、「こういう感覚はどういうときのものだろうか」と考えることが大事なのだと思う。
 ・幽体離脱のときの感覚かしら?
 ・ナメクジの身体感覚かしら?
 ・きのこを食べて体の大きさが変わるときのアリスの体感だとか?
 ・人への影響力が拡大するとき自我が萎縮する、という心のありようを、「体のような」と体感でとらえているんじゃないかな?

 これはトンチではないから、答えは人それぞれとしか言えない。だが、何かのとき「これか」と思い当たりそうな気もする。
 答えを考えるのが好きな人は、なかなか答えの出ない良質の謎を求める。謎の中には一生モノもあるかもしれない。この歌が一生モノかどうかはともかく、良質の謎を愛するような読者におすすめである。


◯列車の窓とこっちの窓の距離五米 対峙していた一時間
 笠井烏子 p24

 事故か何かで列車が停まる。並んで停まればこういう現象が起きる。ふつうなら顔も見えない無関係な人となんとなく目が合ったりして、非日常感があるかな。
 ーーただそれだけのことと思ったが、何か目立たないプラスアルファがある気がして再読。
 時間が列車という棒状のものになって、並んで固まってしまっている。そんなことはちっとも書いてないが、一瞬そういうイメージを抱いた。
 乗客は、互いに時の囚人として顔を見あわせている……。
 そうか。この歌は、時間を棒状のもの、列車に見立てそうになっているところが魅力であるようだ。逆方向ですれ違うべき時間……。想像がふくらんで、どんどんおもしろくなってきた。
 短歌の褒め言葉によく「余韻がある」というけれど、それは抒情的な余韻のことだ。
それとは違って「連想がとまらなくなる」という種類のおもしろい余韻にも、何か3音か4音ぐらいの名称をつけて、批評に使えるようになるほど行き渡るなら、この余韻も共有したすくなるのに、と思う。
 用語がない(あっても小難しくて一般にとっつきにくい)ばっかりに、みんなが意識化出来ないでいるステキな要素が、短歌にはまだいっぱいあると思う。
 

◯みつばちの羽音が背骨から響くわたしが寄生する雪のへや
藤本玲未 p26
 
 「響く」で切れるのか、それとも「……が背骨から響くわたしが寄生する……」というひとつながりの構文なのか?
 おそらく現実に近くて理屈もとおるのは、前者だ。
 ①「雪のへや」といえばカマクラ。
 ②その狭い中に入った体感から、ミツバチの巣を連想。
 ③ミツバチの巣の体感から、自分が寄生者と想像→だから背後にハチが来る。
 ただし、こういう構文は、数種の異なる文脈の意味をあいまいに束ねる効果もあるだろう。だから、
 ④「雪のへや」に寄生している「わたし」の背骨には「みつばち」が寄生している、という異文脈だってかすかに通うような気もする。
 そのかすかな通い路は、これって連鎖的な寄生かしら、という可能性を探しに迷い込みたくなる程度に思わせぶりである。こういう思わせぶりって、ゲームのサービスステージみたいなものかもしれない。
 「みつばち」にとって「わたし」は「花の部屋」かしら?(雪から花を連想)そして、連鎖しているとすれば、「雪のへや」とみえるここも実は何かの内側なのかも、なんぞと深読みがとまらないことが楽しい。
 「輪廻」が縦の糸だとすれば、この歌の連鎖は横の糸よね。
 と、そんな壮大な図まで思い浮かんできてしまい、いやいくらなんでもそんなことまで書いてなかったよね、と歌を再読。ほんとに、そんなことはちっとも書かれていなかった。


◯大量のごみを連日出した後あいさつもなく隣が消えた
Akira p27

 この描写。いろいろあったであろう経緯も省略し、隣家の消え去り方の勢いみたいなものだけに絞って、いきいきと描写したところを買う。そのいきいき具合がすぐれているのだ。
 ①墨を吐いて逃げるタコとか、なにか海洋生物生物の世にも珍しい逃げ方だとか、そういった動物的な必死さがある。
 ②いろいろ捨てて身軽になるのは、ロケットの発射みたいでもある。
 ③「消えた」は、忍術を使って「どろん」と消えたみたいで、別な何かに転身して雲隠れしたかのようでもある。
 この歌、そういったニュアンスが短い言葉にうまい具合に収まっていて、ひとくち食べたらやみつきのお弁当みたいだ。


◯あ、服に人がついてる 間違えたアリだわ待ってもう取れたから
斎藤美咲子 p28

 この歌、通り過ぎそうになって、いや何かある、と引き返して読んだ。
 人とアリを取り違えている点に、何か立ち止まらせる要素があるようだ。

 アリを人に見間違えるのは珍しいと思うが、その逆、登山道をゆく人をアリの行列に例える等ならありがちな表現だ。そのありがちなぶん、アリとヒトとは、イメージ領域で混同がおきる。
 この歌では、人のからだを登っていたアリが、発話人物によって排除(手で払い落とすとか)されている。現実にはただ虫を払っただけ。でもイメージ領域では、[ヒトのようなアリ≒アリのようなヒト]が払い落とされる場面を、ほんの一瞬見たような気がする。
 従来の「暗示」は、「暗に示しましたよ」と露骨に示す(ちっとも〝暗に〟ではない)ことが多かった。が、このごろ、そういう暗示よりもっと幽かで、ほのめかしですらなく、無意識に感じ取らせるぐらいの、こういう淡い暗示表現をよく見かける。
 それのどこがいいのか、わかりにくいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、こちらの認識に入ってくる経路が従来と違っていて、見えない魔球をキャッチするみたいな感じが楽しい。このキャッチング、練習して会得しておくことをおすすめする。


◯一反もめんジュニアの墓場みたいだな整理しきれず溜まるレシート
深海泰史 p28

 「◯◯の墓場」といえば、「ウルトラマン」(昔の特撮ヒーロー番組)に、いままで倒してきた怪獣たちの霊が漂う〝怪獣墓場〟を発見した、という回があったっけ。物悲しさが印象に残っている。
 この歌は「一反もめんジュニアの墓場」という言い方がおもしろいわけだが、これには〝見立て〟が二つ組み合わさっている。
 ①レシートの形状外見を「一反もめんジュニア」と見立てている。
 ②レシートがたまっていくのを墓場に例えている。
 レシートの四角と墓は形状として矛盾しないことも重要。※
※「イメージが視覚的に矛盾しない」ということは、レトリック効果があるというよりも、矛盾があると歌の完成度が微妙に落ちる、という意味で重要である。
 「日々の消費がレシートに姿を変えてたまる」ことと、「人々が墓石になって墓場を形成する」ことを、「役目を終えたものが姿を変えてたまっていく」という現象として重ね合わせている。

 それだけでなく、①と②には、対比的要素があることも重要である。
 かたや[宙を舞う一反もめん]、かたや[重たく動かない墓石]。ーー日々の生活はぴらぴら儚い紙切れになっていく。人間は最終的に墓石になるけれど、さて、墓石はそんな儚い日々の集大成なのだろうか、どうかな……、と、この対比要素のおかげで考えそうになるのだ。


◯「心臓をペロリと召されぐっすりと休まれました」を額で飾る
水庭まみ p29

 この歌、わからないままではあるが、連想のすごい引鉄を引かれてしまい、考えるのがとびきり楽しかった。
 「連想のすごい引鉄」というのは、一読、瞬間的に「臥薪嘗胆」的な暮らしをしてきたのかな、と思ってしまったことである……。
※「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」は目的のために労苦を自身に課すことで、もとは、仇討ちのために薪の上に寝て苦いキモをなめるという話から来ている。
 そして、連想は一瞬だが、話せば長くなる。

 額装するなら普通は俳句とか詩とか教訓とか、何かしらけっこうなお言葉を毎日見るためだ。「心臓をペロリと召されぐっすりと休まれました」を毎日見たいと思うのは、どういう状況なのだろう? ーーと考えた瞬間に思い浮かんでしまったのが「臥薪嘗胆」だ。
 今まで額装の「臥薪嘗胆」という言葉を見上げて〝臥薪嘗胆な日々〟を送ってきた人が、ついに仇討ちなど目的を果たし、これからはその勝利気分をあじわおうというのだろうか。あるいは目的を果たす機会が目前に迫り、額の言葉をかけ変えて、ラストスパート的に自分を鼓舞しようというのかしら、と。
 この連想の根拠は、「心臓をペロリ」から「嘗胆」を、そして「ぐっすりと休む」から真逆の「臥薪」を連想という、危ういものでしかない。
 でも、危うさは承知だ。このイメージの飛躍は後戻りしたくなかった。そのまま楽しまずにいられなかったのだ。

 なお、山猫軒(宮沢賢治の『注文の多い料理店』に出てくる山猫のレストラン)になら、こういう額がかざってあってもおかしくない。人を捕獲して食べる山猫の心で日々を送る人かしら?なんてこともちょっと考えたが、こちらは理屈が通るぶんつまらない。
※レストランの客のつもりの人間に、さももてなすような微妙な言い回しで言葉をかける。人間は自分が料理になって食べられる側であることになかなか気づかない。

でも、これらの解釈はまるっきりハズレかもしれない
この「心臓を……」は、世の動向に疎い私が知らないだけで、何かアニメとかゲームとかで有名なフレーズだったりしないかな……だったらがっかりだなあ。


◯400円のケーキ皆で食べたあと値段聞いて父怒る
ゆすらうめのツキ p30

 「ただごと歌」というジャンル(?)があると思う。
 で、「ただごと歌」のほとんどは内容がただごとである。
  しかし、内容だけでなく〝詠みぶり〟が、「ただごと」というものの本質を支える場合がある、と私は思う。
 この作者は、いわゆる「ただごと歌」以上に歌にならない些末事を詠むことが多い、とかねがね思っている。私が注目するのは内容でなく、事象を、歌に詠まれることに無防備なまんまで詠む作風※である。普通の「ただごと歌」には歌に詠む価値のあるただごとが書かれている、あるいはただごとに歌に詠む価値を見いだしてしまっている。が、この作者の〝詠みぶり〟にはそれが少ない。箸にも棒にもかからない無防備な味わい。これを〝ただごと詠み〟とここでは呼ぼう。
※事実を詠むタイプの短歌の多くは、歌に詠まれる準備をして出てきたようなかすかなよそゆき感があり、特に文語ではそれが強まってしまう。そういうよそゆき的味わいも、短歌として決して悪くはない。魅力になりうることもある。でも、そうした種類の「良さ」に私の出る幕はない。
 団欒を詠んだ12月号の一連は、お茶の間感・普段着感120%。かつ、ドラマの常套性を通り越し、撮影されていないときの緩んだしょーもない感じがおもしろい。
 さて掲出歌。「400円のケーキ……」に捉えられているのは実に身も蓋もない出来事だ。(この一連のなかでは姿よくまとまっており、はからずも上手に詠めてしまったんじゃないか、と思わぬでもないけれど。)
 「400円」ケーキをみんなで食べたらいくらの出費なのかわからないが、10人で4千円程度の話である。それを父は、高すぎるから怒っているのだろうか。(安すぎて怒る、ってこともあり得る?)
 「食べ終わったケーキの値段を聞いて怒る」なんて、男らしくなくてカッコ悪いが、家族だけだから取り繕う必要もない。若いころ苦労した倹約家なのだろうか。この家族はそういう「父」に慣れていて、「やだお父さん」と笑って受け流してくれるのだろう。
 一方、詩歌のなかの「父」はステレオタイプで厳格なことが多い。結句の「父怒る」は非常に効いている。ほんのかすかに芝居がかった言い回しは、菊池寛の戯曲『父帰る』〈大6〉を思わせ、あの厳格な父のイメージをかすり、それとは真逆の、かっこ悪い父、それでも家族にまあまあ慕われているフツーの父の姿をしっかり伝えてくる。

 もう1首、もっとピンボケで箸にも棒にもかからない、という感じの歌もあげておく。
 油絵をまたしたいなと心で唱えるピアノの上に母新しいのを欲す
 ゆすらうめのツキ p30
 一般的にいえばこういう詠みぶりは、詠むべきことに焦点が絞られていない、とか、カタコト感がある、とか言われそうだ。が、ホンモノの日常空間って、出来事も思念もこんなふうに雑雑として、しょーもなくピンボケではなかろうか。
 普通なら無意識に何かしら「歌に詠む価値のあること」を芯に歌をまとめあげるものだが、この人はそれをしないでも詠もうとしている。(それは私の勝手な推理でしかないけれど。)

 〝普通のいい歌〟は練習すれば書ける。それじゃ飽き足らないとか、自分に合わないとか、何らかの理由やこだわりから定石を避ける人がいる。
 どうなればアガリなのかわからない。作者もわかっていないのかもしれないが、成功すればそれは新しいアガリ手になるだろう。
 そういうのって応援したくなりませんか?

 
◯刈り込んだうしろがっけが柴犬のようで何度も自分を撫でた
神丘風 p33

 自分をケアする歌が世にあふれかえっている。和歌には古来、心のケアという実用性があり、それは短歌も同じが、薬の「耐性ができる」という現象に似て、多ければ効きが鈍る。
ーーだから読者には、いつも新しい要素を求めるというわがままが許されている。
 この歌の場合、メンタルじゃなくて、自分を物理的に撫でている。それも、具体的に、「柴犬のよう」という新しい手触りが珍しくて、自分の後頭部を何度も撫でている。
 そういうことを、意味付けせずそのまま歌に詠んでいるのが効果的。だから読者も意味など考える前に「自分を慰撫する」新鮮な体験ができる。

 ※なお、この歌のある一連には、「こぼれたら芽吹いてしまうものだからこらえて丹田に注ぎ込むという歌もある。
 こちらの歌は、ことばつきなど短歌としてとても良く見えるのだが、柴犬の歌と比べると、〝普通の良い歌にとどまる。「自分の可能性をみだりに開花させずに、東洋医学でいうところの『気』をあつめる部位『丹田』に注いでためておこう」という、何か悟ったようなスタンスによって自分をケアしている。この〝悟り感〟は、精神的には有効だろうが、短歌にはありがちだという点で〝普通の良い歌〟なのである


◯「眠り薬つむじにサーサーふりかけてさし上げましょう」「お願いします」
杉山モナミ p36

 睡眠薬を詠む歌はけっこうあって、それらにはステレオタイプ感※がなくもない。
睡眠には「死」への連想があり、「睡眠薬」はそのぶんかすかに危うさを含む題材である。そのかすかな危うさをストレートに使うと、ちっとも「暗」でない暗示になってしまう。
 そのなかで、この歌のニュートラルな「つむじにサーサー」という質感体感はそのステレオタイプを飛び越えて目をひく。
 睡眠障害の人に魔法の眠りの粉をかけるような、肩たたきやマッサージのようなケアサービスみたいな口調。この語りかけに相手が素直に応じている場面。
 じゃあこの眠り薬は本当に安全なのだろうか。そうともいえない。わからない。
 世の多くのものは、善悪の見分けがつかない。勧善懲悪では処理できない。この「睡眠施術師」は善なのか悪なのか、施術師の善悪に関係なく、この薬はニセ薬だったり麻薬だったりする可能性もある。さらにニセ薬なのにプラシーボ効果で眠れることもある。
 この歌はそういったもろもろをふまえた上で、「お願いします」と言っているひとはいま、期待と不安がまざり(効くかもしれないが、怪しい。ニセ薬か、悪くすれば有害かも)、そこにはバクチのようなほんの幽かなときめきがあるとも思える。
 未来は見えないのだから、どの瞬間も、ほんの少しバクチである。そういう意味で、こういう種類のバクチには、ベーシックな生きる手応え感覚が含まれるだろう。
 この歌には、そういうもやもやっとしたときめきが感じられる。

 
◯廃盤のねむり薬で夢をみる うつくししかった五輪憲章
小野田光 p35

 これも「ねむり薬」の歌。
 こちらは「廃盤の」という語に、特に強い批評マインドが感じられる。が、他の要素を先に読み解かないと、どういう批評なのかわからない。
 ①まずは結句の「五輪憲章」
 「五輪憲章」といえば、これでもかというほど長々と美しい理想が述べたてられているアレ※だ。
 ※例:オリンピズムの根本原則の1番目「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値と社会的な責任、さらに国際的に認知されている人権、およびオリンピック・ムーブメントの権限の範囲内における普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。」(根本原則は7まであるが、以下略)

 理想というもの自体は悪いものではなく、常に意識される必要がある。だが、往々にして〝きれいごと〟には睡眠誘発効果があるし、大量に理想を浴びせると、世間の判断力を眠らせることもできるだろう。東京2020(2021年実施)は、実施後に五輪委員の疑惑だの汚職だのが暴かれて、「五輪憲章」のご立派な言葉がだいなしになった。

②次に「廃盤」
「廃盤」といえばこの場合レコードで、東京五輪関連の楽曲だろう。
 廃盤という語には、「古い、すたれた」というマイナス要素と、「骨董品としての価値が出た」というマイナスがプラスに転じる要素がある。

①②を考え合わせて「廃盤のねむり薬で夢をみる」を読み直そう。
 JOCの不祥事が暴かれ、五輪のかかげた理想はもはやぼろぼろだが、それでも、かつては純粋に追った夢でもあった。
「廃盤の……」というフレーズは、その純粋さに骨董品として価値が出てきた、という意味合いが読み取れると思う。

※以下、私の個人的な感覚。東京五輪のとき私は小学校4年生で、演歌や民謡をかっこわるいと思っていたが、にもかかわらず三波春夫の「東京五輪音頭」は内心ちょっと好きだったのだ。いま聞いても、明るく純粋なめでたさにあふれた名曲に思えるし、「ととんとととんと」という掛け声には日本語の楽しさを感じる。


◯自己愛が強すぎるため折り鶴を折らずにただの紙で終わらす
 来栖啓斗 p33

 なんだか強烈なものを読んだ気がする。何がどう強烈なのだろう。
 比較するものがあればいいな、と思ったら、さっき「刈り込んだ……」の歌の小さい字の部分に掲出した歌「こぼれたら芽吹いてしまうものだからこらえて丹田に注ぎ込む(神丘風)」があった。「自分をセーブする・こらえる」という点で少し共通する。
 読み比べてみると、「自己愛が……」の歌でこらえている要素の中にかすかな怒りが交じっている気がする。内向的な歌に見えるが、かすかに対外的な要素がかくれていそうで、それが香辛料になっていないか。

(当然、複数の読み筋があり、私の以下の解釈を人に押し付けはしませんよ。)
「折り紙」はいろいろなものを作れる。その事をキーにして解釈してみたところ、「なんらかの理由で、鶴を折らぬまま、まっさらな紙のままにしておくことが自己愛である」という、特殊な心境が詠まれているのかな、と思えてくる。
 では、折らずにおく理由はなんだろう? ぶかっこうな鶴を折ってしまうなどの失敗を恐れてだったら、ただの臆病を自嘲する歌ということになる。まあ、そうともとれる。
 しかし、この歌には、その解釈に収まらないような強い抵抗の感情、自嘲という自分へ向かう感情に収斂しきれない感情がある気がする。それは、鶴を折る状況に追い込んだ何かへの抵抗……ではないかな。
 その抵抗感を探りながら解釈を進めてみる。
ーーこれは千羽鶴を折らされる場面だろうか。あるいは、各自が鶴になれといわれるような、社会的要請を感じてる場面だろうか……。
 「ここで鶴を折るぐらいなら、いっそ折り筋のないただの紙のままでいてやる」
と、「自己愛の強すぎる」ゆえに抵抗するこの人は、自己愛が普通ゆえに従順に鶴を折る人たちに囲まれている。
 この社会に生きて順応していくことは鶴を折ることに似ていないだろうか。
 千羽鶴計画という聞こえの良いプロジェクトに取りこまれ、人々は折り方を教わって鶴を折っている。一人ひとり千羽鶴の一羽一羽に置き換えられ、一人ひとりの物語がステレオタイプの一話一話の鶴に折り直させられる……。「強すぎる自己愛」ゆえに、その気配を感知し得たけれども、有効な抵抗はできず、「折らない」という選択しかできない……。

 そういえば子どものころは「学校という仕組みは大人の陰謀」と信じていて、強い反発心からテストを白紙で出していた時期がある。一度でも従えば陰謀に加担して自分が穢れると思っていたっけ。いやこれは私の話であり、この歌にはそんなことは書いてない。誤解なきよう。

 なお、千羽鶴というものには、悲壮な魂を鎮める的なイメージがあるし、加えて「鶴」は空を飛ぶ美しい白い鳥であり、白い鳥には詩歌その他で多くのイメージを負わされているが、いちばん古い例のひとつがヤマトタケルだ。

 そんなこんな、連想の飛び石を無意識に飛んで、この歌の「折り鶴を折る」行為から、なんとなく戦争を想起しそうになるのは、私だけかもしれないけれど。
 
◯わたくしを万華鏡に澄ますとき一方の目は闇を見てゐる
森山緋紗 p38

 「わたくしを万華鏡に澄ます」という部分に、万華鏡とつながるような体感がある。
 この特殊な言い回しが、「『わたし』という部品をカチッとセットすることで万華鏡が完成する」というふうに、いつのまにか感じとらせた。
 そして、使わない万華鏡にセットしたとき使わないほうの目が「闇を見てゐる」というのも、「見てゐる」にあるそれとない能動性が、「気が散らぬように使わない部分の機能を停止させている」ことをそれとなく伝えてきて、すべての語が協力し合っている歌だと思う。

※「万華鏡」という題材は、(今のところ)ステレオタイプなイメージが形成されていないみたいである。言い換えるなら、自分の発想を信じて詠めば、たぶんしばらくは新領域にあなたのフラッグを立てられる可能性が高い。なお、万華鏡を詠んだ歌は、「ちょびコレ6」で2024年1月20日に取り上げたので、興味のある方はぜひ御覧ください。

◯エスカレーターの下から上が存外に遠くて雪が降り継いでいる
雨野時 p36

 作者は意識していないと思うが、この歌には、古代から詩歌で捉えられた普遍的イメージと、エスカレーターという新しい事象とが、うまく重ねられている。
 古くから詠み重ねられたイメージは、日本語を用いて暮していればひとりでにインプットされるものだ。だからありふれているわけだが、この歌は、新しいものとの組み合わせによって、新鮮に蘇らせている。

 この歌にひそむ古代から詩歌で捉えられた普遍的イメージとは、「雪」と「長い坂を登ること」の組み合わせによる「時間感覚」である。
 み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に
 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零(ふ)りける 
 その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如
 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
        天武天皇 万葉集巻一 (歌番号25)
(吉野連山の耳我の山には、時しれず雪が降りしきるという。間断なく雨が降るという。その雪や雨の絶え間ないように、道を曲るごとに物思いを重ねながら辿って来たことだ。その山道を。
ーー間なく時なくただただ降り続く雨雪のなかくねくね山道を考え事をしながら歩く。この歌では、「間なく」「時なく」を繰り返し使い、雨雪が切れ目なく降ることを強調しているが、その強調ゆえに、イメージの世界では、降り雨雪と時間という降り止まぬものとが重なる※のである。
※この重なりは後世にも継承されており、例えば「花の色はうつりにけりな」の歌では、降雨を見ることと人生の時間の経過が、掛詞で重ねられている。雨雪と時間のイメージは、この有名な歌のおかげか、あるいはそもそも人間の普遍的な感覚として親和性が高いのか、雨雪と時間感覚の結びつきは現代の歌においてもわりあいよく見かける。

 私がこの歌で特に目を留めたのは、エスカレーターである。「下から上が存外に遠くて雪が降り継いで」という部分に、すごく凝縮された時間感覚が感じられる。
 雨雪と時間を結びつける歌は実に多いのだが、この歌はそのいろいろな類歌を飛び越えて、天武天皇の雨雪降りしきる山道の歌と呼応する。そのため、1300年さかのぼるエスカレーターのように超越的な思えてくるのである。
 そんなことまで作者が意識したかどうかはしらないが、この呼応感覚は、歴史ある詩型だからこその現象だと思う。

   *  *  *

 もたもたしてたら1月号が届き、慌てて書き進んだけれど、1月ももうおわりになってしまう。
 コメントをつけるつもりで抜き出しておいた歌がまだまだあるのだが、12月号の歌についてはここまでにする。

短歌って、読者のキャパを超えた量が詠まれていないかしらね。
需要と供給……。そんなことかまわず詠みまくってるよね。

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なんとなくの考察

 短歌は、一般論として、歌人それぞれが何事かを「詠もう」という意志をもって、そこから生み出されるものである。
 でも、こういうことを書くと作者が気を悪くするかもしれないのだが、この詩型には、言葉の世界の意志なき意志みたいなものが、〝歌人をして歌に詠み出される〟という面もある。言葉を従えることはできない。歌人は言葉と協力して、ウインウイン的に、自分の表現をしながら言葉の世界の要請に応えているのではないかと思う※。
 そして、歌は歌人が詠んだだけでは言葉の世界に貢献しなくて、インプット・アウトプット、両方がバランスよくあることで効率よく言葉の世界に吸収されていくはずだけど、……歌を詠む人はそんなの知ったこっちゃなく、詠みまくってるよね……。

 
※後者の感覚は、近世までの歌人には普通だったのではないだろうか。人間が言葉を支配して自己表現をするというのは近代の発想である。近世までの歌人には、「和歌」という詩型を敬っていて、歌人は歌を授かって詠ませていただく、という感覚もあったようだ。昔の歌論書や和歌にまつわる説話などの言葉の端々に、そうした思いがにじみ出ている。