2021年2月17日水曜日

レア鍋賞 2020年

2020年は出版でいそがしく、レア鍋を少ししか探しませんでした。


■すっぽかす

2020年9月20日

「すっぽかす」という語を含んだ歌は以下の1首しかなかった。


あと戻りできないフロアまで行ってそれでもすっぽかしたことがある
虫武一俊『羽虫群』


■金太郎飴

2020年3月26日

「金太郎飴」という語を含んだ短歌は以下2首しかなかった。


ぼたん園に巡査が四人自転車をひいてゆくなり金太郎飴
こずえユノ「かばん新人特集号」2010・12


金太郎飴の断面ひしゃげてる断ち切って断ち切って過去たち
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』


これ以前のレア鍋はこちらを御覧ください。

ワン鍋・ニャン鍋・レア鍋賞とは?

ワン鍋・ニャン鍋・レア鍋とは?

  データベース闇鍋を使って短歌などを検索していると、「え、こんなフツーの言葉があんまり短歌に使われていない?」と驚くことがあります。

そこで、用例が一首しかない場合を「ワン鍋賞」、二首しかない場合を「ニャン鍋賞」として讃えることにしました。

また、用例が3首以上でも、普通はよく使う語なのに、そのわりには歌にはあまり詠まれていない、という場合も、「レア鍋賞」として、ここにご紹介することにします。

ナイ鍋(または空鍋)も

ついでに、一般に使う語なのに短歌にまだ使われていないような単語をみつけたら書き留めておきます。


短歌はまだ幼くてカタコト

  短歌という定型詩は、一三〇〇年以上の伝統を背負う円熟した詩型だと思われがちですが、実は短歌はまだ幼く、日本語を使いこなせていない。実はカタコト状態なのです。  

  日本語の言語活動の現場を見渡すと、短歌はほんの一角を占めているだけであり、そこで使える語彙がかたよっているし、単語レベルで見ても、ある単語に意味がいくつもある場合に、短歌に用いられているのはその一部だけ、というふうに偏っていることが少なくないのです。

   短歌は、古典時代から少しずつ、ほんとに少しずつ、使える言葉や意味を増やしてきていていますが、まだまだ「完成された詩型」ではないのです。

安易に敬っちゃダメ! 

 それなのに、短歌という詩型は、完成されたものとして敬われてしまう面があります。

 江戸時代には「歌道」として敬われ、当時の新ジャンル、俳諧や川柳の基礎的教養と位置づけられました。(ゆえに過去を踏襲することが重視され短歌は何百年も停滞した、と学校で習った。)

 今でも、短歌に冠する言説において、伝統など、あたかも短歌には堂々とふりかぶる権威があるかのような言い回しを見かけますが、過去の成果がどんなにたくさんあったって、まだまだ足りない。過去を地固めしつつ、あくまで謙虚に、新しいことを取り入れることが大事であると思います。

2021年2月16日火曜日

ミニ36 ホッチ・キス! ホチキスの身体性


魚の腹にぎっしり詰まる卵みたいだな。

ホチキスに針を入れていて卵巣を思い浮かべた。

こういうふうに無機質のものが生体と結びつくと、ちょっと詩情をそそられる。短歌に詠まれやすいんじゃないか、と思って、データベースを検索してみた

そのなかから本日の好みで少しピックアップする。


ピックアップ


窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごときくちづけ
穂村弘『回転ドアは、順番に』2003

おとな海老ミソで壊れホチキスが針を吐くのだ五月の怒涛
和合亮一 作者ブログ2015・10・27

ためせどもやはりとほらぬホチキスの針をぬくときゆびのふかづめ
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010

ホッチキスはづして二枚捨てたりき海を見て海に触れざりし夜
大松達知『ぶどうのことば』2017

真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ
やすたけまり『ミドリツキノワ』2012

新年の一枚きりの天と地を綴じるおおきなホチキスがある
服部真里子『行け広野へと』2014

ホチキスが紙にくひこむ感触が春立つけさの指に伝ひ来
大辻隆弘『抱擁韻』1998
※「辻」の点は一つ
ホチキスの針千本は二十連 みどりの箱に詰められてあり
大森益雄『水鳥家族』2001

あのひとがわたしの名前にルビをふるホッチキスはホッチキス語しゃべる
杉山モナミ 「かばん」2015.3

   *   *   *

ホチキスの身体性 特に注目した歌


機関銃乱射ふう


 上記のなかで、私が最初にホチキスに対して考えた「無機質のものが生体と結びつく」という着想に一番近い、というか、より過激にぶっ飛んだな感があるのはこの歌だ。

おとな海老ミソで壊れホチキスが針を吐くのだ五月の怒涛 和合亮一


 何がどうしたと散文のように読むことが出来ない歌だ。歌が冒頭からそういう読み方を拒否している。そのかわり、この文字数では通常言い切れないことが盛られているようだ。

 海老ミソは風味豊かな珍味、子どもも食べるだろうが、どちらかといえば大人の味である。
 また、海老の脳味噌みたいで(実は内臓で肝臓のような場所だが)、脳を食べるということには、ごく微かに背徳的な気味悪さや恐ろしさがないでもない。実際、人や動物の脳を食べることで感染する神経疾患があるそうだ。

 「おとな」「海老ミソ」「壊れ」まではそういう連想でつながるが、ここでいきなり出てくるのが「ホチキス」だ。生身の生き物とは対極の物体である。
 事務用品だが、その体には針がぎっしり装填され、卵巣、否、弾倉のようだ。壊れた「おとな」たちのオフィスでは、ホチキスが機関銃みたいに乱射しながらあばれまくる。

 その混乱は人の世の中に蔓延したあと、ついに地球を覆う海にまで拡大、大荒れになる。

 「五月の怒涛」の「五月」にも注目。五月晴れの明るさは絵としての歌の背景を語るし、「ごがつのどとう」の「ご、が、ど」の語感のさわがしさも効果的だ。
 併せて、冬の鍋物、春の職場、初夏の海というような時間経過もなんとなく感じ取った。病いが潜伏期間を経て拡大するような感じだ。
 まあ、その点は、気のせいとか邪推とか言われればそれまでだが。


「ホッチ」と抱き寄せ「キス」でキス


 短歌というジャンルは幸福感を詠むことが苦手である。
 そもそも「幸福」は繊細なものだ。
 ちゃちな表現、陳腐な表現では、「幸福」という大切なものを貶めかねない。下手な書き方をすると、読者がしらけたり疎外感を味わったりして、「あっそう、しあわせで良かったね」と(むろん口には出さないが、)冷たく受け止める場合さえある。

 でも、まれに幸福感を詠むことに長けた人がいる。
 穂村弘だ。
 影響を受けている歌人は多いが、彼ほどに、幸福感をさりげなく、それも極まってMAXであるような場面を詠んで、読者を魅了できてしまう歌人はそうそういない。


窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごときくちづけ   穂村弘


 月光が祝福するかのようであり、「窓という窓」から注ぐといえば、スポットライトが集中するかのようでもある。
 月といえば古くから人々を見守ってくれる存在でもあるから、それが普通の部屋だったとしても、月という神聖な観客だけに見守られている小さな舞台みたいにステキな場所になり得る。

 「ホッチキスのごときくちづけ」は、ガチャッとくっつくような斬新なくちづけ表現だ。

 読者は月の視点からうんと小さな一室を覗き込む。フシギなアングルだ。
 それと、この歌を読んではじめて気づいたが、「ホッチキス」には「キス」が含まれているし、「ホッチキス」って掛け声みたいじゃないだろうか。
 その部屋には、小さな人形みたいな人がいて、「ホッチ」と抱き寄せ「キス」でキスする、みたいな、奇妙なノリもこの歌には仕掛けてある気がする。
 
 そのあたり、ホチキスと身体イメージの関係がすごくレアなところを狙っていると思う。

ピュアでけなげなホチキスさん


 短歌はどういう題材でも、ウエットな雰囲気とか、虚しい気分を漂わせるとか、ざっくり言えばシケ(湿気)た感じを詠む歌が多く詠まれる傾向がある。

 しかし、「ホチキス」という題材はやや新しいのか、シケ率はそんなに高くない。
 次の歌はややウエットと言い得る内容だが、捉え方が新鮮だ。

真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ
やすたけまり

 夜更けまでホチキスを使うような事務仕事をしている人。--それはそうなんだろうが、ニュアンスに少し新しさがあって、それを見落とさないように気をつけて解釈したい。

 人が寝静まった真夜中にコビトさんが働く童話があったが、「つめたいせなかちいさなくしゃみ」というくだりは、ピュアであり、けなげであり、コビトさんふうではなかろうか。

 夜遅くまで仕事をしていると、もう人間ではなくなり精霊化する。
 ホチキスを使っていればホチキスさんになる。
 カシャっという音も言われてみれば「ちいさなくしゃみ」みたいでほほえましい。

 というわけで、ホチキスの身体性を詠む例として、この歌も注目すべき点があると思う。

  *  *  *

本日の闇鍋短歌総数 111,431首

うちホチキスを詠む歌 21首

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検索文字列:ホチキス・ホッチキス・ステープ(ステープル・ステープラー)

 ホチキス 14、ホッチキス 7、ステープは該当なし