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2022年1月10日月曜日

青015 若き死の理不尽なれば悲歌となりこの卵殻の鈍き蒼白 藤原龍一郎

若き死の理不尽なれば悲歌となりこの卵殻の鈍き蒼白
 藤原龍一郎 『ジャダ』2009年



この歌を読んで末尾の「蒼白」に至るとき、眼光を失った死者の瞳の色のようなものが目に浮かぶとしたら、もろもろの淡い状況証拠が指し示しているからである。


状況証拠1 一般的な鶏卵は白いが、この歌では「蒼白」と言っている。
状況証拠2 「若き死」や「卵殻」(命が脱いだ殻)という生死の関連語句たちがひしめいている。
状況証拠3 卵の丸い形状が眼球に通じる。

これらの淡い状況証拠が、この「蒼白」を、眼光を失った死者の瞳を思わせるようにプッシュしている。

状況証拠ばっかりで鑑賞を組み立てると「深読み」になるが、そういう深読みはしてみる勝ちがある。

■〈青〉+眼

なお、〈青〉の歌には、青い目 、青い瞳、青いまなざしを詠む歌がよくある。

「目」などと組み合わさった〈青〉のイメージには、
①〔青い目≒幼い〕(子猫の目が青いことなどから、弱々しく幼い感じに通じる)
②〔青い目≒衰弱〕(元気なうちは目が黒く、死が近づいて眼光が弱まるイメージ)
があり、それら①幼さと②死のイメージが混ざった結果か、
③〔青い目≒生死や時間を超越〕
というイメージにも転じる可能性がある。

水に沈む羊のあをきまなざしよ散るな まだ、まだ水面ぢやない
山田航 『水に沈む羊』2016

 シャガールの青青青瞳孔を見開いたまま一生を見た 
天道なお 『NR』2013

〔青い目≒幼い〕〔青い目≒衰弱〕〔青い目≒生死や時間を超越〕というイメージモチーフは、明確な共通認識されるところには至らないが、おぼろげには広く了解され得る段階に来ている。
掲出歌のように「目」は出てこない歌でも、若さや死といった要素が状況証拠となって、卵殻が目に似た青っぽいものという役割をこっそり果たさせるのは、イメージがおぼろげに共有される、そのぎりぎりのところで詩を成立させることである。


青014 コップ越しに青澄む世界亡き母の入れ歯洗浄剤を落とせば 大野道夫

生きる意欲から解放する!


コップ越しに青澄む世界亡き母の入れ歯洗浄剤を落とせば
 大野道夫 『秋意』2015年

〈青〉のイメージの裾野は広いが、そのなかのかなりベーシックなイメージとして〔鎮静〕というのがあると思う。この「青澄む世界」の〈青〉はそこに分類できそうだ。「亡き母」に安らぎを与えてくれる。

「入れ歯」は生きる意欲を具現化したものだ。
(食事という生命維持の基本を維持するために身体の老化に抵抗するから。)

一方、死は、命のあらゆる重荷をおろすことである。
この洗浄剤の〈青〉は、入れ歯から生きる意欲を洗浄して、生きるという重荷から解放している。


これが〈父〉だったら、癒やされ方の印象が違ってくるのかどうか。

あまり違わないような気もするけれど、〈青〉は短歌のなかでなんとなく「父系」のイメージカラーである。(誰も申し合わせていないが結果としてそうなっている。)
そのため、これはもし〈父〉だったら、〈父〉という役目からの解放だけでなく、〈父〉として純化されるイメージもかすかに交じる気がする。




2022年1月9日日曜日

青016  赤青の蛇口をまわし冬の夜の湯をつくりおり古きホテルに 吉川宏志

「赤」「青」は対極のような位置づけで用いられることもあるが、両方あることで「完全」を表す場合もある。

 この歌には、その特性がうまく生かされていると思う。

 赤青の蛇口をまわし冬の夜の湯をつくりおり古きホテルに
吉川宏志 『石蓮花』

「赤青の蛇口をまわし」てちょうどよい温かさの「湯をつく」る。

 そんなちょっとした場面描写なのに、その事実以上の何かが添っているようだ。

 赤と青を混ぜるということ、根源的なものを混ぜ合わせてほどよい環境を手作りするということ、それははるか〝あめつちのはじまり〟に通じそうな感じだ。

〈赤・青〉のセットの〔対極〕+〔完全〕に加えて、「つくる」という語を用いたこともあり、歌のなかの人物は意識していないだろうが、かすかな神様気分のここちよい湯気が漂っている。


赤と青の歌についてはこちらもごらんください

青013 ものみなの青きふるさと老いてなほ親いますゆゑかなしきふるさと 岡野弘彦

ものみなの青きふるさと老いてなほ親いますゆゑかなしきふるさと
岡野弘彦『石打てば石』1976

無音の迫力!

ぱっと見、ふるさとの自然の中で親が年老いてかなしい、という歌に見える。
だが、「かなしき」と思う理由の中心はそこではないだろう。
青々と元気な自然(永遠)にとり囲まれて、親(限りある命)が老いて吸収されていく無音の迫力がすごくて、単に親が老いることがかなしいということでは釣り合わない。

「老いてなほ親います」というフレーズは、巨大な〈青〉のなかに縮んで縮んでもうじき呑み込まれるいく小さな命を描き、生死の摂理そのものを具現化している。
〈ふるさと〉とは命を得て育った場であるけれど、全うした命を呑み込んで回収する場でもあるようで、そういうこと全体を「かなしき」と言っているように感じられる。
「青」という色にはその呑み込むような激しさがある。


●
なお、近代以降、存在は「青」とせめぎあう、ということが無意識なテーマになっているというのが私の持論であり、その観点に立つと、圧倒的な青に呑み込まれずにいる、という意味で、この歌は牧水の白鳥の歌にほんの少し通じるところも、個人的には興味深い。

ついでに「ものみな」


「ものみなの」と振りかぶると厳粛な感じ。衆生がけなげに生きる世界、的な詠嘆がプラスされる。「ものみな」の他の用例で確認しておこう。

ものみなの饐(す)ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞(きこ)ゆ 
ルビ:饐【す】 聞【きこ】
斎藤茂吉『赤光』

ものみなに水のみなぎる秋を在り然も絶えざる渇きを歩む
須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

ものみなは性器のごとく浄められ都市の神話の生まるると言へ
ルビ:浄【きよ】
前登志夫『子午線の繭』

ものみなの像は影につつまれて歌ごころのみのこる黄昏
ルビ:像【かたち】 黄昏【たそがれ】
江田浩司『孤影』


2021年8月17日火曜日

ミニ54 青い胸(+他の部位)

ピックアップ

駆けてくる髪の速度を受けとめてわが胸青き地平をなせり
永田和宏『メビウスの地平』1975

いにしへは鳥なりし空 胸あをく昼月つひに孵らぬを抱く
ルビ:孵【かへ】/抱【だ】
水原紫苑『びあんか』1989

たった一つの希いを容れた胸蒼くかたかたと飲むアーモンド・オ・レ
東直子『春原さんのリコーダー』1996

ふわふわの白いサソリを逃がしやるこの青穹㝫の胸のうちから
井辻朱美『クラウド』2014

群青の胸をひらいて空はあるかけがえないよさみしいことも
北山あさひ『崖にて』2014

自転車が走る不思議が降ってくるわたしの青く薄かった胸
山崎聡子『青い舌』2021

興味がおありでしたら、以下本編を御覧ください。


青い胸(+青い身体の部位)

「赤い顔」とか「白い目」とか、身体と色が結びつく表現があります。

「赤い顔」「青い顔」、「青い目」「黒い目」「白い目」など、多くは実際にある色を言います。
が、現実にはない「青い胸」(胸青く…等も)などの表現もあり、短歌ではときどき目にします。

よし、集めてみよう。

・魚などは除き、なるべく人間の身体と思われるものを選びました。
・「青」を好んで、効果的に使う作者がいます。同じ作者の歌が複数出てくるのはそのためです。


■青い胸(直接的)


駆けてくる髪の速度を受けとめてわが胸青き地平をなせり
永田和宏『メビウスの地平』1975

扇風機に青白き胸を吹かせおり去りたるものの跡形もなく
上野久雄『夕鮎』1992

いにしへは鳥なりし空 胸あをく昼月つひに孵らぬを抱く
ルビ:孵【かへ】/抱【だ】
水原紫苑『びあんか』1989

たった一つの希いを容れた胸蒼くかたかたと飲むアーモンド・オ・レ
東直子『春原さんのリコーダー』1996

ふわふわの白いサソリを逃がしやるこの青穹㝫の胸のうちから
井辻朱美『クラウド』2014

群青の胸をひらいて空はあるかけがえないよさみしいことも
北山あさひ『崖にて』2014

自転車が走る不思議が降ってくるわたしの青く薄かった胸
山崎聡子『青い舌』2021



「青い胸」って、十代のポエムっぽい純な感じだなあ、などと他人事のようにコメントしようとしたら、自分も書いていた……。

くんくんいう子犬を抱いて胸固く青くいっそう婦警たるべし
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』2000


■青い胸2(間接的/青い空や海が胸に入る・同化する)


眼下はるか紺青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐結ぶ
福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969

ねむりから醒めないロボット鋼青の胸うすぐもるように秋空
井辻朱美『クラウド』2014

鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり
吉川宏志『鳥の見しもの』2016

ラウル・デュフィの青い海はいま胸に沁むわが知らざりし生きるよろこび
小池光『草の庭』

取り外しできる胸なら青空にいま心ごと置き去りにする
小島なお『展開図』

胸郭に海を沈めた僕たちは息もわすれて群青のなか
入瀬翠「早稲田短歌」44号

胸郭に次の青空 手錠して凧あげている次の恋人
高柳蕗子「潮汐性母斑通信』


■胸に何か青いものがある


うら若き青八千草の胸の野は日の香さびしみ百鳥を呼ぶ
若山牧水『海の声』1908

胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし
ルビ:空【から】
前川佐美雄『植物祭』1930

人に示すあたはざりにしわが胸のおくどに青き草枯れてをり
葛原妙子『原牛』1959

抱擁をしらざるいもうとの胸のくぼみに青きレモンを置かう
喜多昭夫『青夕焼』1989

花ことば「さびしい」という青い花一輪胸に咲かせて眠る
俵万智『かぜのてのひら』1991

蒼いマフラー小さく胸におしこんで go went gone good good girl
東直子『青卵』2001 

うつしみを抱く蒼穹よ胸中に農鳥岳があれば帰らず
三枝昻之『遅速あり』2019

蒼すぎて傷つきやまぬ胸そこの深さよサファイアのかたき翳りよ
日置俊次『ラヴェンダーの翳り』2019


その他の部位が青い


身体の他の部位を「青い」と詠む歌もあり、集めてみました
「青い胸」ほど多くはありません。

●青い背

沼はあとから私についてきた。背なかが青くそまるのを感じた
前田夕暮『青樫は歌ふ』1940

鏡面に映る背骨と腰骨のあいだに羽の青痣を見た
鈴木晴香『夜にあやまってくれ』2016

いっしんに背骨は蒼く燃えながら何から逃れようとする線
大森静佳『カミーユ』2018


(背の青を詠む歌をみると、魚や爬虫類のことが多いようです。
「くさまくら父の背中に青空は逃散をやめぬ陽を吊る荒野(江田浩司)」のように、「青空を背にする」「背後の青空」を詠む歌はいくつもありました。)

●青い頭

 ・頭上の青空を詠む歌は多けれど、頭そのものが青いとする歌は見当たらなかった。

●青い腹

 ・「青い腹」は魚や爬虫類を詠む歌しかなかった。

●青い尻

 ・「青い臀」とか、さもありそうな気がしたけれど、ありませんでした。

●青い肩

・肩に青いものが触れる等の歌はいくつかあったが、「青い肩」はなかった。
 
肩の辺に青き昆虫が来てとまるやさしい季節もいつてしまふ
斎藤史(出典調査中)


●青い腕

青じろきながれのなかにひとびとは青ながき腕をひたうごかせり
宮沢賢治
(出典調査中)

・青銅は必ずしも青くないけれど・・・
青銅の腕に抱かるる一瞬の暗さのありて湖は暮れたり
ルビ:腕【かひな】/湖【うみ】
楠誓英『禽眼圖』2020


●青い手

がんばってるひとのうすあおい手のなかで 宙 銃声 レタスはじける
ルビ:宙【そら】
杉山モナミ

蕗の薹てのひら青む光さしたのしき土に遊ぶひととき
坪野哲久『北の人』1958

てのひらが青くてふっと立ちすくむいつからここは四階なのか
藤本玲未『オーロラのお針子』2014

風は舞台の奥より吹いて少女たち青い手足を夢につなげる
東直子「かばん」2001年12月

・青い手ではないが近い
うす青いゴム手袋のさきっぽがのびきってめちゃくちゃになれ、俺
加藤治郎『雨の日の回顧展』2008

・手が青いのでなく、青いものを手に持つ、青空に手をのばすといった歌はすごくたくさんあります。

●青い爪

足の爪赤く塗りたる姉むすめ青く塗りたる妹むすめああ
小池光『梨の花』2019


・人間じゃないけれど
薔薇の刺のやうなる青き爪研ぎて出でゆけば猫は深夜のけもの
真鍋美恵子『真鍋美恵子全歌集』


●青い指

指さきのあるかなきかの青き傷それにも夏は染みて光りぬ
ルビ:傷【きず】/染【し】
北原白秋『桐の花』1913

●青い足


「手」のところにも載せましたが、
風は舞台の奥より吹いて少女たち青い手足を夢につなげる
東直子「かばん」2001年12月


・足が青いものに触れる、青いものの上を歩く、青いものを履く、といった歌はたくさんありました。

足もとがふいにさみしい冬河の青にまみれて鉄橋わたる
杉崎恒夫(出典調査中)


●青い舌

青ざめし舌ひらめきてどろどろの影の背後に散る花粉かな
江田浩司(出典調査中)

いちまいのものすごく蒼い舌のように海が太陽をねぶっている午後
井辻朱美『水晶散歩』2001

真っ青な舌をみせあい笑ってたアイス・キャンデー溶けるのわすれ
ルビ:舌【べろ】
神﨑ハルミ(出典調査中)

ある日埃を喰らひし明恵【みやうゑ】その舌に紺鼠といふ錆たる青を
ルビ:明恵【みやうゑ】
林和清「短歌往来」2007年12月


・舌に青いものがある
根の国を泳ぎゆく人おもうとき舌先の塩にわかに青む
佐藤弓生(出典調査中)


●青い額

蒼ざめし額にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
若山牧水『海の声』1908

秋の空酒を顰めて飲む人の青き額に顫ひそめぬる
ルビ:顰【しが】/額【ひたひ】
北原白秋『桐の花』1913

●青い鼻

鼻そのものが青いという歌は見当たらなかったけれど、鼻に青いものがつく歌はありました。

流行の言葉に胡座をかいて危機 青いペンキを鼻につけてさ
江田浩司

尿せるわが鼻の先ぺつとりと碧とけむとして雨蛙ひとつ
ルビ:尿【いばり】/碧【あを】
稲森宗太郎『水枕』1930

●青い頬

あをじろき頬涙を光らせて
死をば語りき
若き商人
ルビ:頬【ほほ】/商人【あきびと】
石川啄木『一握の砂』1910

紅薔薇見し眼を移す白百合のそのうす青さ君が頬に見る
木下利玄(出典調査中)

月に引かるる女体の痛みはてもなし蒼白き頬の仮死者となりて
有沢螢『致死量の芥子』2000

憤怒というあかるい筋肉 群青の剥げのこりたる仁王の高頬
井辻朱美『クラウド』2014

●青い耳

しんきらり鬼は見たりし菜の花の間に蒼きにんげんの耳
河野裕子『ひるがほ』1975

橋落つるとも紫陽花の帆とおもうまで耳蒼ざめてはりつめていよ
正岡豊『四月の魚』1990


・耳に青いものがついている例

牧場より緑玉集め真空より青玉奪い耳に飾らむ
野間亜太子『額縁のない絵』1974

耳たぶに低く唸れる青い石よなんてさびしい人なのだろう
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012


●青い髪

わが家をふかく見おろす窓ありて趨る家族の髪蒼く見ゆ
ルビ:家【いえ】/趨【はし】
岡井隆『人生の視える場所』1982

青空の青に髪の毛染めたんだ? もう仲直りしなくていいんだ?
植松大雄

予言者の闇には時の星座あれ蒼き髪より蝶を発たしむ
江田浩司『メランコリック・エンブリオ』1996

青髪のおまえは星も凍る夜クラッカーより弾け生まれた
小林真実(雪舟えま)「かばん新人特集号」1998・2

黒髪が濃青(こあを)の髪に見ゆるまで夜深かりきあぢさゐの道
ルビ:濃青【こあを】
高野公彦『水苑』2000

●青い臓器

臓器を青いとする歌はとても少ないです。

・心臓
人間のはありませんでした。

狂い飛ぶつばめの青い心臓が透けてわたしに痛いのだった
大森静佳『カミーユ』


・肺

嬉々として芽生える思想幼くて海の碧さは肺につづけり
江田浩司(出典調査中)

片肺のその蒼い傘ぱっとひらく あなたの扉を忘れないでね
杉山モナミ「かばん」1999・5


・胃 ナシ

・腸 ナシ

 
やれやれ、今日はここまで。

2021年4月10日土曜日

青012 うざいだろ? それでいいんだ蒼穹にゆばりを流しこんでる。神も   藪内亮輔

うざいだろ? それでいいんだ蒼穹にゆばりを流しこんでる。神も

ルビ:蒼穹(おほぞら)
藪内亮輔  第58回角川短歌賞受賞作「花と雨」より



蒼穹は便器かい!


 現実世界には、し尿で海を汚染する事例があるが、この歌では、神までもが「蒼穹」に「ゆばり」を流し込んで汚している。

(倒置の「神も」がどこにかかるかで歌意が異なるのだが、ここでは「流しこんでる」にかかる、と解釈する。)

「それでいいんだ」は、神が手本だから人間がやったっていいんだろ、という揶揄的な言い回しだろう。

 古典和歌には空を人の心情が立ちのぼる空間として詠むものがあったが、この歌は、現代の人が思い思いの夢を垂れ流し、蒼穹を心の便器としかねない、ということを言っているようだ。

 蒼穹には浄化槽機能もありそうだが、「ゆばり」を流すろくでなしが多ければ、浄化処理がおいつかない。

 空を汚染するということは、あとから自分たちに降りかかってくる、という含みもある。それはきっと取り返しのつかない事態だろうが、誰も、神さえも、責任を負わない。

――という、こんな解釈は深読みだろうか。

世界を循環する水としてのおしっこ


世界を水が循環している。人は水を飲んでおしっこを出すことで、その一部を担う。
そういった発想の歌が急増している気がする。

おしっこよ いつか海へと流れつきぼくの膀胱に戻っておいで
寺井奈緒美『アーのようなカー』2019年

小便を仲立ちにしていま俺は便器の水とつながっている
相原かろ『浜竹』2019年

おしっこではないが、これも同じ発想だ。

玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって
望月裕二郎 『あそこ』2013

玉川上水は飲み水用の人工の川で、見方を変えるなら、人体もその支流である。
(この歌は『あそこ』2013に先立って私家版『ひらく』2009年に収録されていた。望月はこの発想に先鞭をつけた一人といえると思う。)

おまけ おしっこの歌コレクション


水の循環とは関係なく、おしっこを詠む歌はときどきある。
好みで少しピックアップしておく。

小便をして犬は寂しく飛びゆけり火の如く野菜をかきわくる見ゆ
北原白秋『雲母集』1915

照る月の黄のわかものの尿道のカテーテル*** 聖母哀傷曲
ルビ:聖母哀傷曲(スタバト・マーテル)
塚本邦雄『綠色研究』1965

長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『綠色研究』1965

放尿をさびしくしている草いきれ世界は今神話のように遠い
佐藤通雅『薄明の谷』1971

おしっこの終わりあたりは誰だって震えるものよ 消すよ 好きよ
飯田有子『林檎貫通式』2001

こ‌こ‌は‌ひ‌と‌つ‌順‌接‌で‌よ‌ろ‌し‌か‌ら‌う‌春‌の‌ひ‌か‌り‌へ‌む‌け‌る‌お‌し‌つ‌こ
平井弘『振りまはした花のやうに』2006

赤んぼの頃から俺のおしっこはおむつを宣伝するために青い
嵯峨直樹『神の翼』2008

うちで一番いいお茶飲んでおしっこして暖かくして面接ゆきな
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

さようならいつかおしっこした花壇さようなら息継ぎをしないクロール
山崎聡子『手のひらの花火』2013

新しい歌がわかるかわからないか尿試験紙のような反応
杉崎恒夫(出典調査中)

いづこにかナイフをやどす朝霧と知れどゆまりす遊びながらに
水原紫苑(出典調査中)

以上


青011 目覚めたら顔のむこうが青だった 世界は顔と青だけだった 谷川電話

目覚めたら顔のむこうが青だった  世界は顔と青だけだった
谷川電話『恋人不死身説』

生まれ変わったみたいな初期化感覚


■人生を新しくスタートする感じ

恋人とはじめて迎えた朝を詠んでいる。目覚めたら眼前に恋人の顔があり、その向こうに青空が見える。

解釈はいろいろあろうが、私が思いつくなか※でもっとも順当と思う解釈はこれだ。

「世界は顔と青だけ」という図の単純さ。および「青」という語が持つ「初期化」のイメージ※※によって、いまこの人物の中でいろんなものが初期化され、人生を新しくスタートする気分なのだろう、と思わせる。

ポイント1 なぜ恋人か?

「恋人」とすることで、〈青〉という語が持つ「初期化」というイメージの詩的効果が発動しやすくなる。
「初期化」にもいろいろあるが、「恋人」ならば幸福感を伴う「初期化」になりえるし、一般的で、想像したり経験したりしやすい。

他のシチュエーションを考えてみよう。
 目覚めたらそこに医師の顔があった。(死にかけて蘇生した)
 目覚めたら強盗の顔があり「金を出せ」と言った。
 目覚めたら愛猫が覗き込んでいて「朝ニャ」と鳴いた。

おもしろいが、特殊でありすぎる。歌の中にこういう状況を示唆する要素がなければわざわざ思い浮かべる必要はない。
自然に詩的効果が発動するようなすんなりした解釈が妥当なのだと思う。

でも、こういう解釈は、道草的なツッコミの一種として、愉しみながら本筋を確認できるので、鑑賞ついでに大いにやらかしてみる価値がある。

ポイント2 幸福感の表現は難しい

そも短歌は幸福感を詠む歌が少ない。
意識されていない何かの制約があるようで、幸福感を詠むことが許容されるネタが限定されている。
しかも、ストライクゾーンが狭くて、安易に書いても、読者が「いい歌だ」と思ってくれない。

幸福感を詠むことにあまり抵抗のない数少ないネタのひとつが「恋愛」だ。
が、なかなか掲出歌のようには成功しない。
なぜだろう。

「幸福」は必要なものだ。
「幸福」そのものだけでなく、「幸福」のイメージというものも必要である。
期待したりあこがれたりするときに思い浮かべるためだ。
つまり、イメージストックとして良質なものには需要がある。
単に個々の幸福の報告しただけでは、必ずしもその品質に達しない。(笑)



この歌の幸福感は、その点もクリアした高品質なものだと思う。



「青」+「顔」の歌コレクション

上記の歌とは関係ないけれど、「青」+「顔」の歌を少しピックアップしておく。


酒のめば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ
 ルビ:鬼(おに)
 石川啄木『一握の砂』1910

山みちにこんなさびしい顔をして夏草のあをに照らされてゐる
前川佐美雄『植物祭』1930

青白色 青白色 とぞ朝顔はをとめ子のごと空にのぼりぬ
ルビ:青白色(セルリーアン)
葛原妙子 未刊歌集『をがたま』(『葛原妙子全歌集』2002)

青空がふわりと顔を覆いきてもうこれ以上のものは要らない
早崎ふき子『カフカの椅子』2006

声深くねむる湖ひたひたと細胞の顔あおくあふれて
東直子『青卵』2001

向日葵です。日に顔向けて暖取ります。何色かわからない青です。
沼谷香澄「Tongue」第4号 2004・1

飛べさうな青空なれどむづかしき顔を作りて机にむかふ
小島ゆかり『馬上』2016

ひまわりの顔からアリがあふれてる漏斗【ろうと】のようなあおぞらの底
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

以上


※
 他の解釈:顔の内側で目覚めるという全く別系統の解釈。
 個人的にはその種の空間の歪みのほうが好みだが、上記の解釈のほうが一般的で自然。奇妙な解釈は自分で勝手に空想するだけにしておく。

※※
 「青」に「初期化」のイメージがあるか、という点については、共通認識になるほどには意識化されていないが、「青」を詠む短歌を集めてみると、そういうイメージで詠まれている歌が一定程度の割合を占めている。
 「青」という語のイメージは多岐にわたり、本を一冊書いて(拙著『青じゃ青じゃ』沖積舎2020年)まだ書き足りないぐらいだが、そのイメージ領域の一つに「初期化」がある。

2020年8月23日日曜日

青010 ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり 斎藤真伸

ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり
斎藤真伸『クラウン伍長』2013

腰から下の無い幽霊みたい


もとになっているのは花見の光景だと思う。

実景として、海と見まがうほどブルーシートを敷き詰めるとしたら、代表的なのは花見風景だろう。

(本当の花見の実景では、普通のレジャーシートなど他の色も混じっているのが普通であり、「ブルーシートの海原」は実景ではなかろう。
この歌は花見の場面に通じることは確かだけれど、かなり心象寄りであるはずだ。)

幻想的で美しい桜のもと、いわゆる「ハメを外し」て酔っぱらう人々のへんな勇ましさ。それは、喫水線の下部分のない艦隊みたいな感じ、ではないだろうか。

そして、この艦隊には、腰から下の無い幽霊みたいな心もとなさがある。
足下、というか喫水線以下は「ブルーシートの海原」になってしまって、本来ならその下にあるもの(地面や地下)と絶縁されてしまっているからだ。

ブルーシート≒絶縁


ブルーシートは、防水防塵のために工事現場などで用いるが、ニュースでは「あのブルーシートのあたりが事件現場です」などと、平和や安全が破られた目印のように目に入る。

その印象からだろう、短歌に出てくる〝言葉の「ブルーシート」〟は、水や塵を防ぐのでなく、「日常からの絶縁」を示すことが多いようだ。

 ★ブルーシートについてはこちらも御覧ください。


桜の木には腰から下がある

喫水線の下には深い海があるべきである。海には太古からの命の歴史がある。
「喫水線より下をもたざり」を地上に置き換えるなら、いわゆる「地に足のつかない」状態だ。

さっきこの艦隊を「腰から下のない幽霊」と書いた。一方、桜の木には腰から下がある。

花見というものには、日常のストレスを忘れる享楽的な面があるが、桜の木は、地に足がついている。太い根が強く地を掴んで、地から養分を吸い上げ、花を咲かせ、降らせる。そういう装置だ。

足下には、天からの恵みの受け皿としての大地があり、その地下には死者の国もある。
花見は、そういう天地のありかた、摂理を忘れない。享楽的ではあっても、生者のおごりをたしなめる要素を捨てていない。

この歌の、ブルーシートで地面から絶縁された人々の享楽は、喫水線から下がない。この歌は、花見より一段階すすんだ危うい享楽状態を捉えていると思う。


青009 友達がブルーシートでくるまれた可能性とその春のからあげ 加賀田優子

友達がブルーシートでくるまれた可能性とその春のからあげ
加賀田優子  「なんたる星」2016年12月号

ブルーシート=日常世界との絶縁


「ブルーシート」は近年短歌に詠まれるようになって用例が増えている。
現物は、防水防塵のため工事現場などで使われるほか、レジャーシートなど、用途は広い。

短歌の中の「ブルーシート」は、事実を超えて、強い遮断、絶縁のシンボルとして使われるようだ。
日常で実際に目にするであろう工事現場のそれはほとんど詠まれない。
印象が強いのは、ニュースで目にする事故や事件の現場を覆うブルーシートだ。記者が「あちらのブルーシートのあたりが現場です」などと言う。
あそこに日常的ではない死があった、という目印のように、あざやかなブルーが日常から浮き出て見える。
日常からの遮断、絶縁のイメージは、そういう映像からきているのかもしれない。

この歌のように、死者を覆う「ブルーシート」に言及したり暗示したりする歌もぽつぽつとある。
(「ブルーシート」で人をくるむとなれば、そうとうに尋常でない死を思わせる。
死者は生者と隔てるけれど、一般的な死者なら、白装束と顔のうえにかける白布程度である。)

そんな状態の死を目にすることなどまずないだろうが、そういうふうに絶縁される死を思い浮かべる必要が、現在の世の中に生じているのだろう。

生と死にはもとより隔たりがある。
が、「ブルーシート」は普通の死を絶縁するのではない。日常世界で普通の扱いができない死を、とりあえずブルーシートで覆って絶縁する。
「ブルーシート」は建設現場などでよく見かける万能シートだが、印象が強いのは、ニュースの映像ではなかろうか。
(花見のブルーシートもなかなか興味ぶかい。長くなるので別項で書く。)

からあげ=弱肉強食


というわけで、この加賀田の歌の「友達がブルーシートにくるまれた可能性」とは、普通の死に方ではなさそうな訃報がもたらされた、という意味だろうが、注目したのは、そのことと「からあげ」との関係である。

 この場面は、就職が決まって友人たちと居酒屋で乾杯しているところではないだろうか。そんな場面での定番である「からあげ」を頬張っていると、友達の一人が、何か普通でない死に方をしたらしい、と知らされる。

普通でない死に方というのは、自殺や他殺。社会の犠牲とか悪人の餌食とか……である。

声を落として話すような微妙な配慮が感覚を繊細にする。「からあげ」がなんだか弱肉強食的なことを想起させないだろうか。

春は明暗を分ける季節だ。
自分はいま仲間や同僚と居酒屋にいて鶏を食べる「明」の側にいるのだが、いつ「暗」の側になるかわからない。
「ブルーシート」で絶縁するもされるも紙一重である。

「からあげ」の味を、そういう弱肉強食の味としてを記憶した瞬間を詠んでいる。

一読でこのように感じたが、再読すると「解釈はご勝手に。ただし自己責任で」と突き放されるような曖昧さも絶妙だ。

安易な鎮魂ではない


人の死を詠む歌は安易に鎮魂の響きを帯びやすいが、この歌はそうなっていないところが秀逸だと思う。
鎮魂の言説の多くは、死者をなぐさめるよりも、自分側の「いたたまれない気持ち」「心苦しさ」を和らげる効果のほうが強い気がする。

「からあげ」がふさわしい    (「えだまめ」じゃダメ)


弱肉強食だなんて考える必要はない、という人も多いと思うが、これがもし植物性のもの、例えば同じ字数の「えだまめ」だったらどうだろう?

「からあげ」なら弱肉強食のようなきびしい摂理をそれとなくプッシュして、勝ち残っていく冷酷を意識させる。
「えだまめ」だったら、同じ莢から出た豆の明暗を感じさせる効果はあるけれど、昔からあるような抒情化された境地※に落着してシビアにならない。

※例えば、「梅の花 おなし根よりは 生ひながら いかなる枝の 咲き遅るらむ」  藤原清輔
  この歌は、いちおう現世の生存競争みたいなものを詠んでいる。自分が兄弟よりも出世が遅れているとそれとなくうったえたこの歌で同情をひくことに成功し、清輔は昇格できたらしい。
  清輔さんは「牛と見し世ぞ」  もとい!  「憂しと見し世ぞ」の作者。

動物系の食物


なお、今、「からあげ」だけでなく魚を食べる歌など、動物系の食物を詠む歌が増えてぐんぐんイメージを吸着している。

便覧には載らじと思ふわが生にからあげクンを購ひ帰る
田口綾子『かざぐるま』

生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
木下龍也『つむじ風、ここにあります』

死んでいるいわしがのどをとおるとき頭のなかにあらわれる虹
笹井宏之『ひとさらい』

伊勢海老のやうにぷりぷり働きて流されてゆく一日もいい
田村元『北二十二条西七丁目』

ご馳走のお礼に歌う 胃のなかの海老とわたしのほのおをうたう
雪舟えま『たんぽるぽる』

天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
木下龍也『つむじ風、ここにあります』


食物に見出す抒情が、昔は自然の恵みを体に取り込むところに重点があったが、このごろ違ってきているようだ。
世の中の要請に応じて自分が食材として料理されていく、という方面の抒情を獲得しつつあるかもしれない。

青007 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり 宮沢賢治

背後から追い立てる青空システム??


うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
宮沢賢治 歌稿(『宮沢賢治全集3』ちくま文庫)

■青空かな?

「青きもの」とは何だろう。何が「われら」を睨んでいるのか。
個別の人はさまざまなものに睨まれ得るが、「われら」という不特定の人、つまりすべての人を等しく睨むものみたいだ。これは、厳しい眼差しの背後霊みたいな「青空」かもしれない。
この歌にもし「青き」がなかったら、「われらをにらむ」ものは太陽だと解釈する人が多いだろう。
「お天道さまが見ている」という言い回しがあるからだ。その太陽は瞳であってその背後に「青」が控えているわけだ。

■背後から追い立てる―― 青空推進システム?

これは完全に私の深読みであり、宮沢賢治の意図とはかけ離れてしまうかもしれないのだが、この「青」が青空だとすれば、前後左右ぜんぶいっしょのはずの空の、後方からの睨みのまなざしにことさら言及したという点が重要だと思う。

前後がある、という捉え方は、
前方の未踏の未来の「青」へと、後方から追い立て続け、立ち止まることを許さない、
みたいな、「青空システム」とでもいうべきものを感じさせるからだ。

ばくぜんと空への畏怖を詠む歌はたくさんあるが、こういう畏怖を詠む歌は珍しい。

★オマケ 背後の青空

背後の青空を詠む歌を少し拾ってみた。
空は爽快感があって無敵の背景だが、脅威や畏怖が味付けや隠し味になっている。

空色を背景にして川べりにそら開きたくなるわなカフェを
谷じゃこ『ヒット・エンド・パレード』

無防備の背がかがむときふんわりと投げとばされる青空の暈
井辻朱美

掃除機をかけつつわれは背後なる冬青空へ吸はれんとせり
小島ゆかり 『ヘブライ暦』

崩れゆくビルの背後に秋晴れの青無地の空ひろがりてゐき
栗木京子『夏のうしろ』

人体はあからさまなる楽器にて青空を背に来るパパゲーノ
永井陽子『ふしぎな楽器』







2020年8月18日火曜日

青008 この人はあなたが産んだ人ですか うつろな青空の瞳たち 東直子


うつろだらけ







この人はあなたが産んだ人ですか    うつろな青空の瞳たち
東直子 角川「短歌」2017年9月号

■解釈1

すごく虚無的な雰囲気の人物に出会う。
まるで空のうつろから生まれた人みたいだ、
と感じ、おもわず心の中で
「この人はあなたが産んだ人ですか」
と空に問いかけた。
見上げたら、その人に似たうつろな瞳が空にたくさんあるような感じがした。

しかし、空といえば、自分の心を投影しやすいものの代表だ。
そのため、「うつろな青空の瞳たち」は、自分の精神状態が青空から見つめ返しているようにも感じられる。
「この人」だけでなく自分もうつろ、みんなうつろ、というふうに、ビリヤードの玉のようにうつろだらけになる感じもする。

■解釈2

上記の解釈は順当だと思うけれども、「この人はあなたが産んだ人ですか」
というフレーズには、読んだ瞬間、もっと深く撹乱された気がする。

それを説明するのがめんどうなので解釈1のほうを採用しているが、
実は。読後、最初に感じたのは、これが誰かが誰かに言ったり思ったりしたセリフでなく、
ある種のぼんやり状態になって、生きた人たちが歩く地上をゆくときに生じた思念のようなものではないか、ということだった。

こういう思念は他者に届かない。
自分の内側にあるのだが、外に投影して、解釈1に書いたようなビリヤードの玉みたいな乱反射効果で、あたりにも空に充満する。それは結局自分の内部を拡大しただけで、そのぼんやりの中を歩いているような感じ、だと思う。

ある種のぼんやり状態とは?

「この人はあなたが産んだ人ですか」

普通は言わない言い回しだが、心が他者と絶縁しているようなぼんやり状態だと、こういう言葉が出てきそうだ。

周囲の人や事象と関係を結べないような、そういう種類のぼんやり状態というのがあると思う。(ありませんか? ない人は以下を飛ばしてください。)

そんなときは普通の言葉が出てこない。
「あら、お子さんですか、かわいいですね、おいくつですか。」
みたいな、社交辞令的に使い慣らした表現ができなくなる。

ーー例えて言うなら、言語中枢には「普通の言葉」の棚があって、ふだんなら、コンビニの棚からおにぎりを選ぶように、手軽に「普通の言葉」を取り出せるのに、その棚がすべて品切れのからっぽみたいな感じになってしまうような感じだ。
でも何か言わなければ、と思って、なんとか目前の相手に関心を持とうと努力をすると、
「この人はあなたが産んだ人ですか」だなんて、すごく変な、手作りの言い回しになってしまう。
ーーいかにも、そういう感じのセリフではないだろうか。

青空はただあるがままに青くて、地上になにが起きようと青いままだ。
だから、果てしなくうつろな、虚無的なたたずまいとして捉える歌は実に多い。

多く詠まれてくれば、ただ虚無というだけでは満足できなくなってくる。
虚無にもいろいろあるから、更に、どんな虚無感か絞り込みがほしくなる。

この歌では、単に空の虚無感を描いただけでなく、関係性を見失うたぐいのぼんやり系の虚無感、として絞り込み得ているとも思う。

※こういうぼんやり、ありませんか。私はしょっちゅうです。
 「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
という「普通の言葉」が出てこなくて、かんたんな返信メールに1時間以上かかる、とか。

2020年7月27日月曜日

青006 ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇―〇〇四四 松木秀

氷のサイコロをふるみたい

いろいろパネー!と感心しちゃう歌だ。



ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇―〇〇四四
松木秀『RERA』


■本歌取り

「ゼロか死か」とはどういう意味かと考えさせられるけれど、その前に、お気づきと思うが、これは本歌取りをしている。
知らなくても読める歌だが、知っているほうがいい。
本歌はこれだ。
 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花         石川啄木『一握の砂』
ルビ:函館(はこだて)    青柳町(あをやぎちやう)    恋歌(こひうた)

■実在の町、本当にある郵便番号

 函館の青柳町は実在の町だ。「青柳町」という言葉自体、しっとりしてしなやかな風情が漂うし、啄木は実際そこに居住していたことがある。それとは別に、「柳」は啄木にとって、故郷への郷愁をかきたてるものだったらしい。
※啄木の故郷岩手県盛岡市に近い北上市にも青柳町があり、同じ歌集にこれまた有名な「やはらかに柳あをめる/北上(きたかみ)の岸辺(きしべ)目に見ゆ/泣けとごとくに」がある。
※「青柳町」という地名は函館だけでなく各地にあるが、松木の歌の「〇四〇―〇〇四四」は、本物の函館の青柳町の郵便番号だった。

■氷のサイコロ?

さて、「ゼロか死か」の歌、「青柳町こそかなしけれ」は啄木の本歌取りで、青柳ゆれる春の風景に郷愁を重ねる抒情として機能するはずの要素である。
ところが「ゼロか死か」と始まるこの歌では、抒情を阻む文脈を冒頭から開始しているわけで、郷愁をとっとと通り越した先で、透明な氷のサイコロを振らせるがごとき二択を迫るのだ。

■本歌との関係は対比的

「青柳」という語は、古典和歌には多く詠まれて、おもに春の景物として青春のオーラのような風情を表していたが、近代の短歌では激減。現代の短歌ではめったに見かけない。
由緒あるやさしい抒情+啄木の歌の郷愁。啄木の「悲しけれ」に対して「こそ悲しけれ」と言い、「ゼロか死か」というきびしい状況をつきつけている。

■「ゼロか死か」とは?

「ゼロか死か」は不思議な二択である。「生か死か」に似ているようで異なる。
ううむ、ゼロと死とは、始まりと終わりのことだろうか。ゼロが起点で死は終点だとすれば、ゼロクリアで再挑戦するか、リタイアして終了するか、という二択になるけれど、この歌はもっと絶望的な感じがする。

「もうこの先は、何もプラスのない『ゼロ』の日か、それが終わる『死』の日か、そのどちらかの日しか来ない。」
そういうような意味合いではなかろうか。


★事実だから歌に詠むわけではない
私の上記のような読み解き方に対して「考えすぎだ、単に事実を詠んだだけかもしれない」という意見をいただくことがある。
だが、事実だからといって安易に歌に詠むわけではない。
啄木が実際に青柳町に住んでいたとか、040-0044が本当に青柳町の郵便番号であるとか、だけでなく、歌に詠み込む要素はすべて、その歌に詠み込む価値があるから詠み込むのである。「青柳町」という地名も、この歌に詠み込む情報として価値があるから詠んだはずである。
住んでいたのがもっと無粋な名の町だったら、啄木は歌に詠み込まなかったか、詠み込んだにしても、雰囲気の異なる歌に仕上げただろう。そうなれば、この本歌取りもなされなかっただろう。

★赤柳町、黄柳町だったら?
余計なことだが、「青柳町」を「赤柳町」か「黄柳町」に替えてみたら
「ゼロか死」のニュアンスはどう変わるだろう。
  赤や黄色は、生きようとする人間の熱意に通じやすく、なんらかの〝いきさつ〟を感じさせる状況(痴情だのうらぶれだの)に、詩情の軸足が置かれやすいと思う。

 「赤柳町」だったなら、痴情のもつれの末の「ゼロか死か」みたいだし、「黄柳町」だったなら、うらぶれて「ゼロか死」の問いを枕に日々を過ごしていそうだ。
その場合、「こそかなしけれ」の「こそ」も単なる強調でしかなくなるだろう。

2020年7月1日水曜日

青005 夏のまんなか素足は体をすこしだけほうり投げる あおびょうたーん  杉山モナミ

「たーん」は「ターン」(turn)?


夏のまんなか素足は体をすこしだけほうり投げる あおびょうたーん
杉山モナミ 『ヒドゥン・オーサーズ 』2017

足が体を「あおびょうたーん」と「ほうり投げる」。
おもしろい歌だが、特に、「あおびょうたーん」の伸ばす部分の効果がすごいと思う。
その効果について仮説を書こう。

「あおびょうたん」とは未熟なひょうたんのことだが、隠語として、痩せて顔色が悪い人のことをさすほうが多い。この歌ではひ弱な自分を鼓舞するニュアンスも含むようだ。

それがただの鼓舞にとどまらない。「あおびょうたん」は自分自身のことなのだろうが、空も「あおびょうたん」なのかな、という感じがちょっとしないだろうか。

なぜかというと、「あおびょうたーん」がオノマトペ的に働いて、体が空中で「ターン」する感じがするからだ。
体がひるがえって裏返って空になる、とでも言ったらいいのか。

このように書くと、そんなことはどこにも書いてない。と思う。
こういうふうに、明確化させずに無意識領域で、ちょっとそう思わせるにとどめておくような表現があるのだ。

空の無限が妖怪みたい


ひるがえる……、うらがえる……。

「あおびょうたーん」の「ターン」は、そういう瓢箪空間を裏返して内側をさらけ出しそうな、空間をゆがめる効果があると思う。

ひょうたんといえば、『西遊記』に、呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう恐ろしい瓢箪が出てくる。
空の無限を詠む人はいくらでもいるが、こういうふうに、空の無限を裏返された妖怪みたいに描く歌は、ものすごく珍しい。

以上




青004 コレクション 青+淋しい 

「青」と「淋しい」は好まれる組み合わせだ。


両方を含む歌はものすごくたくさんあり、まだまだいっぱい詠まれるだろう。
単独で取り上げている他にも紹介したい歌がある。
現時点で知る限りのなかから、これは、と思う歌をピックアップした。

ここより見やすい「ふれたん」にコーナーを作って随時更新することにしました。

山みちにこんなさびしい顔をして夏草のあをに照らされてゐる
前川佐美雄『植物祭』1930年

あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め
前田夕暮『水源地帯』1932年

病身の眼ばかり青き火になして空翔ける鳥のさびしさとなり
小玉朝子『黄薔薇』1932年

濫觴にかかる寂しき青ありき湖見しのちの寒き薄荷酒
ルビ:湖(うみ)
安永蕗子『魚愁』1962年

花ことば「さびしい」という青い花一輪胸に咲かせて眠る
俵万智『かぜのてのひら』1991年

舞はぬ日の扇さびしも夢に来てみづからひらくその身紺青
水原紫苑『うたうら』1992年

昭和ののちとふ無辺の青のさびしさをこゑ上げながらゆく凧
ルビ:凧(いかのぼり)
米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998年

あおぞらからひとつまみずつのさびしさを絞りだしたる桜のさかずき
井辻朱美『クラウド』2014年

耳たぶに低く唸れる青い石よなんてさびしい人なのだろう
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012年

なぜここに青いすべり台があるのだろう こんなさびしい雪の野原に
宮地しもん『f字孔』2014年

ひとりきてひとりたたずむ硝子戸の中の青磁の色のさびしさ
湯川秀樹『湯川秀樹歌文集』2016年

以上
2020・7・1







2020年6月30日火曜日

青003 一人して留守居さみしら青光る蠅のあゆみをおもひ無に見し  斎藤茂吉

一人して留守居さみしら青光る蠅のあゆみをおもひ無に見し
ルビ:無(な)
斎藤茂吉『赤光』1913年


「青光る蝿」じゃなかったら、あんまりいい歌にならなかっただろうなあ。
一人でいるさみしさ、何も思わず蠅を注視することは、重要なのだがありがちである。
どうでもいいはずの蝿の色に「青光る」と5音も使ったことで、歌は価値をあげている。

◆茂吉の蠅の歌

茂吉は蠅の歌をすごくたくさん詠んでいる。

まもりゐの縁の入り日に飛びきたり蠅が手をもむに笑ひけるかも
『赤光』

昼過ぎて電車のなかの梅雨いきれ人うつり飛ぶ蠅の大きさ
『あらたま』

蠅多き食店にゐてどろどろに煮込みし野菜くへばうましも
ルビ:食店(しよくてん)
『遠遊』

◆青+淋しい

なお、〈青+淋しい〉の取り合わせは非常に多くの歌人がしばしば詠んでいる人気セットだが、茂吉にもこれがけっこうある、という印象がある。
でも、これは、厳密にデータを解析していなくて、あくまで私の感覚でしかない。

しかも、近代の人は二言目には淋しい悲しいと詠む傾向があるわけで(言い過ぎ?)、茂吉が特別そうだとは言えないだろうが、少し歌を拾っておく。

さびしさに堪ふるといはばたはやすし命みじかし青がへるのこゑ
『あらたま』

昼の野(ぬ)にこもりて鳴ける青蛙ほがらにとほるこゑのさびしさ
『あらたま』

山こえて片山かげの青畑ゆふげしぐれの音のさびしさ
『あらたま』

こもり波あをきがうへにうたかたの消えがてにして行くはさびしゑ
『ともしび』

夜おそく青山どほりかへり来て解熱のくすり買ふもさびしき
『あらたま』

なお、「夜おそく」の歌の「青山」は地名だから〈青+淋しい〉とは関係ないのでは、とも思えるのだが、しかし、もし「赤坂」だったら、歌に詠み込んだだろうか。
地名の字面や語感や由来などが心情が合わなかったら歌に詠み込まないだろう。
「青山」といえば青山墓地があるし、「人間(ジンカン)到る処(ところ)青山(セイザン)あり」も「淋しさ」と響き合いそうだし、やはり「青」のイメージもそこにフィットしていると思う。

名歌を多く詠む歌人は、無意識にも語句を適切に選び、その一首のなかで緊密に協力しあうように配置できる。

◆オマケ 近代歌人の蠅の歌を少し

祭過ぎて窓の障子のあかるきに蠅も目につく今日のさびしさ
古泉千樫

おとろへし蝿の一つが力なく障子に這ひて日はしづかなり
伊藤左千夫

人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蝿殺すわれは
正岡子規

ひさしぶりに、
 ふと声を出して笑ひてみぬ―
蠅の両手を揉むが可笑しさに。
石川啄木『悲しき玩具』

なまぐさき塩釜港の裏小路【うらこうぢ】釣道具店に冬の蠅飛ぶ
ルビ:裏小路【うらこうぢ】
結城哀草果『群蜂』

以上

青002 白昼の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に 若山牧水


糸電話みたいだね


白昼の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
ルビ:白昼【ひる】
若山牧水 『海の声』1908年

海が胸に響くだけなら驚かないけれど、「古びし青き糸のごとたえだえ」っていう響き方の表現、手作り感がすごい。
これは普通の〝いい歌〟なんかじゃない。

※ちなみに〝普通のいい歌〟はこういうもの。
あら野来てさびしき町を過ぎしかば津軽の海は目に青く見ゆ  古泉千樫

普通の〝いい歌〟を超える歌を迎えうつのが鑑賞の醍醐味だ


『海の声』にはたくさん海が詠まれている。
有名な〝いい歌〟がたくさん含まれているが、私は〝いい歌〟にあまり興味がない。
個人的に注目しているのは、この「糸」である。
海と自分が糸電話で結ばれているかのようではないか。

自分と海とを糸電話的に結びつけるのは、かなり独自で、普通の〝いい歌〟をひそかに超えるスペシャルな要素だ。
通りの良い抒情に収まりにくいものを、怖じず臆せず、自分を信じて書き放っている。


しかも、この青い「糸」は人と海を結ぶにとどまらず、天に通じ、風にも交じり、世界をめぐるものへと、イメージが発展する可能性をも胚胎していたようだ。

わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ糸鳴る

一すぢの糸の白雪富士の嶺に残るが哀し水無月の天

聳やげる皐月のそらの樹の梢に幾すぢ青の糸ひくか風
(すべて『海の声』より)

現在の短歌には、人や地上の事象が空との青い血縁で結ばれているかのようなイメージを前提にして(そうと意識はされていないようだが)、詠まれている歌がしばしばある。

その始まりは牧水かもしれない。
以下の歌は、この系譜のどこかに位置づけられないだろうか。
深読みであることは承知しているが、普通の〝いい評〟なんかもう見飽きてない?

青水泡こととふごとくうるはしきゑまいぞ過ぎし遠き電話に
ルビ:青水泡(あをみなわ)
山中智恵子『青章』

眼下はるか紺青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐結ぶ
福島泰樹

湖からぼくに届いた一通の青い手紙が流れはじめる
俵万智『チョコレート革命』

ではまた。

青001 冬空の澄み極まりし青きより現はれいでて雪の散り来る 窪田空穂


冬空の澄み極まりし青きより現はれいでて雪の散り来る
窪田空穂『泉のほとり』1917

天界の〈青〉が澄み極まり、そこから雪が地上に散ってくる。晴天の空から雪が散ってくる「風花」という現象を詠んでいるのだと思う。

だが、単なる深読みかもしれないが、この歌には、天地の大がかりな仕掛けを暗示しそうになる、以下の要素がひそんでいると思えてならない。

「散る」は雪を桜に見立てる言い方だ。
そして、樹木である桜は、地から吸収したものを樹上に運び花に咲かせて降らせる仕組みである。

そのように、地上という決して極まることのない場から排出されるものを空が汲み上げ、澄み極まるまで浄化して地上に返してくる……。
そんなシステムを、うんと淡く(サブリミナルなみのひそかさで)暗示しそうになっている。