2024年5月2日木曜日

随時更新 ちょびコレ8

 なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。

ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。


2024年5月1日 海岸線という線


 すごく詠まれていそうだと思って探してみたら意外に少ない感じがした。本日の「闇鍋」短歌データ128,830首中13首だった。
 いろんな捉え方があるのが楽しい。少しピックアップ。


美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を
ルビ:忠敬【ただたか
吉野亜矢『滴る木』2004

 見ている地図に伊能忠敬が生じ、いきいきと旅をするような感じ。そして、RPG等のゲーム画面で、地図上を移動するキャラを見るような視点がおもしろい。
 ゲームでは、攻略した場所だけ地図がはっきり表示されるし、達成することでキャラが成長する。伊能忠敬が地形を攻略していく能動的な明るさが感じられる。

神の手が海岸線をなぞるように男鹿半島はやさしく走れ
柴田瞳(出典調査中)

 こちらの歌では、主体は海岸線にそって車で走っているらしい。
 つまり実際の地形のなかにいて、鳥瞰した地形を思い浮かべながら、いわば、神の指先になって、体感として海岸線をなぞっている。この点に注目した。
 
ひるがほがまひるの海岸線となり輝りぬればうみへうみへ死者たち
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

 「ひるがほ」が連なって咲き輝いて「海岸線」のように見える。その光景は美しいけれど、線を引くということは、何かと何かを隔てることだ。生命感あふれる「ひるがほ」たちの連なりは、「死者」を海の側へ追い立てる。--というふうに私は読んだ。

あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

  「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
 そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
 この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
 (そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
 そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。 
 そういう光景だと思われるが、いかが?

トンネルを数へつつゆく海岸線途中から海を数へてしまふ
小林真代『Turf』2020

 列車に乗っていて、トンネルと海が交互に目に入るような体験を、いつかどこかでしたことがある。トンネルだトンネルだとはしゃいでいたのが、いつのまにか海だ海だになっている。関心の対象が変わる。そういうふうに心境は往々にして、自然に変化・逆転することがある。
 楽しい歌であると同時に、こういうふうにいつのまにか目的を取り違えて突き進んでいることがあるなあという深読みも可能な歌だと思う。

海岸線長しかぎりもなく長し少年素手もて迎え撃たむとき
岡井隆『眼底紀行』

 さまざまに解釈ができる歌だが、「少年」という言葉について、少し絞り込んでみよう。
 「少年」という語には、セットとなるイメージがあって、排除しない限り寄り添っている。
 例えば、「父」や「大人の男」はセットである。少年はこれから、それら手強いものに立ち向かいながら成長せねばならない。
 それとは別に、「少女」というのも、これから出会って関係を構築していくべき存在として、セットイメージとして機能する。
 だから、普通はどちらかに絞り込む詠みかたをするわけで、この歌の「少年」が「素手にて迎え撃」つのは前者のほうか、と、いちおう思う。
 相手は「迎え撃」たねばならないほど攻撃的みたいだし、同じ歌集に「父」が多く登場するからでもある。たとえばこれ。
  父親がそびえて空をかくすときおさなき舌は歌詞を忘れて
 しかし、この歌は、「少女」のほうにもかすかに連想の〝引き〟がある気がする。脳内を探ると、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」がチラっと浮かんだ。この歌も解釈は多様だが、私は、「手を広げる」のは海の大きさを示す動作を思わせると同時に、「少女」への対応に不慣れで戸惑いがある雰囲気も含まれていると感じている。
 掲出歌、「少年」との代表的セットイメージの2つが融合する歌、というふうに捉えると、私の中で価値を増す気がする。

春休み関節外し放しにて地図の海岸線を旅する
ルビ:外【はづ ぱな
高野公彦『水苑』2000

現実には関節を外したら旅どころか動くこともできないが、観念上ならば、それに似た状態があるだろう。
 学校の「春休み」は、学年の境目の何年生でもない期間で、身分の〝タガ〟が外れている状態である。その解放感を少し身体感覚にスライドしたのが「関節外し放し」だろう。その開放的脱力的な観念の身体感覚で、「海岸線」という海と陸の境目を、地図上で旅する。そういうことを詠んでいると思われる。

灰色の画面のなかに横たわる海岸線が病だという
木村友 第35回(2023)歌壇賞候補作「記念日」より

 病院で何かの検査を受けてモニターを見ているのか。「灰色の画面」に表示されたグラフの線を、健康と病気の海岸線と捉えているらしい。まるで、足もとの不確かな夜の海岸線のようで、不安を伝えてくる表現である。
 病気の海岸線が「横たわる」というのも、動かない障壁のように重い語感として効果的。
 また、末尾の「だという」も重要だと思う。今まさにそのように説明されていること、心のリアクションがない段階、どころか、意味を理解する手前の段階の、実感のない事実である、ということが、この結句から推定されるからだ。
 なお、現在はあまり〝縁語〟は重視されていないようだが、「横たわる」は病気の〝縁語〟であり、目立たないけれど、語感の調和効果(あるいは不調和がない効果)があると思う。

 上記にあげた歌のどれもが、単なる景色の描写を超えて感覚的な刺激を含んでいると思う。「海岸線」という言葉にそれを可能にする力が潜んでいるのだろう。

 「海岸線」という言葉

 1 視覚:海岸線と聞いて思い浮かぶのは美しい景色である。

 2 体感:車窓から海岸線を見ながら走ると、目だけでなく体感でも感じ取れる。

 3 抽象的な刺激

:海岸線は海と陸の境目である海岸線は、そういう観念としての感覚も認識をくすぐる。観念上の刺激は、現実に海岸線を見たり、沿って移動したりする場合だけでなく、思い浮かべるだけでも、無意識な脳内に微妙な影響を及ぼす。

 4 本能的な刺激 

:また、海岸線は、海と陸との自然のなりゆきから生じただけのものだが、人間にはカタチに意味を感じる性質がある。(猫が動くものを追わずにいられぬような、本能に近い反応ではないだろうか。)線状のものに特別に惹かれ、想像をかきたてられ、ことさらに抽象化する傾向もあるとも思う。

 

2024年4月18日 ~のまにまに(随に)


「波のまにまに漂う」などと使われる「まにまに」は、
死語ではないが、文語っぽくて、普段着のコトバとしては気取った感じになる。
そういえば、百人一首に
 このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき神のまにまに
 菅原道真
というのがあったっけ。
この歌の「まにまに」には、「神のご意思のままに」という意味に加えて、多くの紅葉が揺れるの擬態語のような効果もあるようだ。

こういう有名な用例もあることだし、短歌の言葉の領域なら、文語っぽさはもとよりあまり気にならない。さりげなく上品なこの響きは、歌人ならほっとかない魅力があると思う。
(あらやだ、私ったらまだ使ったことがない!)

myデータベースで検索してみたら、128672首のなかの32首に使われている。
これはまあまあ多いと思う。
(ちなみに俳句は1句、川柳はナシだった。俳句川柳は短歌より総収録数が少ないとはいえこの差は大きい。)

「まにまに」の意味や用例
 もし試験で「まにまに」を使った例文を作りなさいという問題が出たら、
「流されたボールが波のまにまに漂う」
と書くだろう。
ネット検索してみると、「波のまにまに」「風のまにまに」は歌詞にしばしば使われているようだ。なるほど、風まかせ波まかせという気分は歌になりそう。

 念のため辞書を見た。知ってるつもりでも以外な意味があるかもしれない。
●デジタル大辞泉
 1 他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
 2 ある事柄が、他の事柄の進行とともに行われるさま。…につれて。…とともに。
●学研全訳古語辞典
 ①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。
 ②…とともに。▽物事が進むにつれての意。

なるほど。私の解釈はほぼこんな感じではあったが、ちょっと足りないとも思った。
の辞書の説明をはみだす用例もあると思いませんか。
●見え隠れするような感じ。
つまり「間に間に」のような感じで使っていることがあると思う。

 本来の意味にないとしても、そういう使い方をする理由はわかる。
 例えば、「ボールが波のまにまに漂う」には、波まかせという意味に加えて、擬態語的な効果もある。波の意のままにゆらゆら漂う感じや、波の間に見え隠れするかのような視覚効果が。
 だから、軸足をこの視覚効果のほうに移して用いるケースがあっても違和感は少ない。

いろんなもののまにまに?

 では、私のデータベースのなかにあった「まにまに」短歌は、何のまにまにを詠んでいるだろう。
カウントしてみた。

1 10首 風
2 4首 霧(靄含む) 
3 3首 生(命含む)/波(潮含む)
4 2首 揺れ
5 1首 雲/指示/皺/負け/成り/まばたき/群れ/医師/君/鳥

「風」が圧倒的に多かったが、珍しいもののまにまにもあった。
内容を見ると、「風」のような順当なものもちょっとひねりが効いていたりして、おもしろかった。
以下、少しピックアップしておく。


鳥のため樹は立つことを選びしと野はわれに告ぐ風のまにまに
大塚寅彦 『ガウディの月』2003

右岸左岸ひとしく今日を捨てていく風のまにまに 元気をだして
北山あさひ 「詩客」2013年9月27日

そよろそよろと風のまにまにゆれやまぬ池の辺三本小杉の穂先
加藤克巳『游魂』

村道の靄のまにまにかたむいて杭はかがやく乗物を待つ
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』 (現代短歌クラシックス04)

霧のまにまに釣り人みえしぬまべりに霧晴れたれば釣り人をらず
渡辺松男 『時間の神の蝸牛』2023

うつせみの生のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ
斎藤茂吉『ともしび』

海月らが波のまにまに愛し合う氷菓窓辺でくずれる夕べ
天道なお『NR』2013

この大地震避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る
北原白秋『風隠集』1944

つひに還らず空の神兵、銀蝿を連れておほきみの負けのまにまに
塚本邦雄「短歌研究」平成8年11月

まばたきのまにまにこの身に冬の陽の黄なる光の入り溜まるかも
稲葉京子(出典調査中)

山川の成りのまにまに険しきを踏み通りつつ狭霧に濡れぬ
ルビ:険(こご)
斎藤茂吉『あらたま』

 飼猫をとぢこめしかどいつしかや葬のまにまに猫の居りけり
森岡貞香 『百乳文』

 冬山の寺の木ぬれになつめの實はつかに殘り鳥のまにまに
ルビ:冬山(ふゆやま) 木(こ)
斎藤茂吉 『連山』 

気づけばアバの♪マニマニマニー(ABBA:Money Money Money)を鼻歌で歌ってた。