2024年6月4日火曜日

ちょびコレ24 海岸線という線

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


2024年5月1日 海岸線という線

 すごく詠まれていそうだと思って探してみたら意外に少ない感じがした。本日の「闇鍋」短歌データ128,830首中13首だった。
 いろんな捉え方があるのが楽しい。少しピックアップ。


美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を
ルビ:忠敬【ただたか
吉野亜矢『滴る木』2004

 見ている地図に伊能忠敬が生じ、いきいきと旅をするような感じ。そして、RPG等のゲーム画面で、地図上を移動するキャラを見るような視点がおもしろい。
 ゲームでは、攻略した場所だけ地図がはっきり表示されるし、達成することでキャラが成長する。伊能忠敬が地形を攻略していく能動的な明るさが感じられる。

神の手が海岸線をなぞるように男鹿半島はやさしく走れ
柴田瞳(出典調査中)

 こちらの歌では、主体は海岸線にそって車で走っているらしい。
 つまり実際の地形のなかにいて、鳥瞰した地形を思い浮かべながら、いわば、神の指先になって、体感として海岸線をなぞっている。この点に注目した。
 
ひるがほがまひるの海岸線となり輝りぬればうみへうみへ死者たち
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

 「ひるがほ」が連なって咲き輝いて「海岸線」のように見える。その光景は美しいけれど、線を引くということは、何かと何かを隔てることだ。生命感あふれる「ひるがほ」たちの連なりは、「死者」を海の側へ追い立てる。--というふうに私は読んだ。

あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

  「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
 そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
 この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
 (そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
 そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。 
 そういう光景だと思われるが、いかが?

トンネルを数へつつゆく海岸線途中から海を数へてしまふ
小林真代『Turf』2020

 列車に乗っていて、トンネルと海が交互に目に入るような体験を、いつかどこかでしたことがある。トンネルだトンネルだとはしゃいでいたのが、いつのまにか海だ海だになっている。関心の対象が変わる。そういうふうに心境は往々にして、自然に変化・逆転することがある。
 楽しい歌であると同時に、こういうふうにいつのまにか目的を取り違えて突き進んでいることがあるなあという深読みも可能な歌だと思う。

海岸線長しかぎりもなく長し少年素手もて迎え撃たむとき
岡井隆『眼底紀行』

 さまざまに解釈ができる歌だが、「少年」という言葉について、少し絞り込んでみよう。
 「少年」という語には、セットとなるイメージがあって、排除しない限り寄り添っている。
 例えば、「父」や「大人の男」はセットである。少年はこれから、それら手強いものに立ち向かいながら成長せねばならない。
 それとは別に、「少女」というのも、これから出会って関係を構築していくべき存在として、セットイメージとして機能する。
 だから、普通はどちらかに絞り込む詠みかたをするわけで、この歌の「少年」が「素手にて迎え撃」つのは前者のほうか、と、いちおう思う。
 相手は「迎え撃」たねばならないほど攻撃的みたいだし、同じ歌集に「父」が多く登場するからでもある。たとえばこれ。
  父親がそびえて空をかくすときおさなき舌は歌詞を忘れて
 しかし、この歌は、「少女」のほうにもかすかに連想の〝引き〟がある気がする。脳内を探ると、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」がチラっと浮かんだ。この歌も解釈は多様だが、私は、「手を広げる」のは海の大きさを示す動作を思わせると同時に、「少女」への対応に不慣れで戸惑いがある雰囲気も含まれていると感じている。
 掲出歌、「少年」との代表的セットイメージの2つが融合する歌、というふうに捉えると、私の中で価値を増す気がする。

春休み関節外し放しにて地図の海岸線を旅する
ルビ:外【はづ ぱな
高野公彦『水苑』2000

現実には関節を外したら旅どころか動くこともできないが、観念上ならば、それに似た状態があるだろう。
 学校の「春休み」は、学年の境目の何年生でもない期間で、身分の〝タガ〟が外れている状態である。その解放感を少し身体感覚にスライドしたのが「関節外し放し」だろう。その開放的脱力的な観念の身体感覚で、「海岸線」という海と陸の境目を、地図上で旅する。そういうことを詠んでいると思われる。

灰色の画面のなかに横たわる海岸線が病だという
木村友 第35回(2023)歌壇賞候補作「記念日」より

 病院で何かの検査を受けてモニターを見ているのか。「灰色の画面」に表示されたグラフの線を、健康と病気の海岸線と捉えているらしい。まるで、足もとの不確かな夜の海岸線のようで、不安を伝えてくる表現である。
 病気の海岸線が「横たわる」というのも、動かない障壁のように重い語感として効果的。
 また、末尾の「だという」も重要だと思う。今まさにそのように説明されていること、心のリアクションがない段階、どころか、意味を理解する手前の段階の、実感のない事実である、ということが、この結句から推定されるからだ。
 なお、現在はあまり〝縁語〟は重視されていないようだが、「横たわる」は病気の〝縁語〟であり、目立たないけれど、語感の調和効果(あるいは不調和がない効果)があると思う。

 上記にあげた歌のどれもが、単なる景色の描写を超えて感覚的な刺激を含んでいると思う。「海岸線」という言葉にそれを可能にする力が潜んでいるのだろう。

 「海岸線」という言葉

 1 視覚:海岸線と聞いて思い浮かぶのは美しい景色である。

 2 体感:車窓から海岸線を見ながら走ると、目だけでなく体感でも感じ取れる。

 3 抽象的な刺激

:海岸線は海と陸の境目である海岸線は、そういう観念としての感覚も認識をくすぐる。観念上の刺激は、現実に海岸線を見たり、沿って移動したりする場合だけでなく、思い浮かべるだけでも、無意識な脳内に微妙な影響を及ぼす。

 4 本能的な刺激 

:また、海岸線は、海と陸との自然のなりゆきから生じただけのものだが、人間にはカタチに意味を感じる性質がある。(猫が動くものを追わずにいられぬような、本能に近い反応ではないだろうか。)線状のものに特別に惹かれ、想像をかきたてられ、ことさらに抽象化する傾向もあるとも思う。

 
2024・6・4


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