2024年6月1日土曜日

随時更新中 ちょびコレ マッチング 並べて読みたい歌2024

まったく別々に詠まれた2首に、

もしかして本歌取り?と気になった、
歌合せだったらいい勝負じゃんと思えたり、
時を超えて応答しているみたいだったり、
歌人の個性の違いを感じておもしろかったり、
同じ作者の作なら進化や変化を感じたり、

することがあります。

とにかく並べて読むだけで〝批評マインド〟が刺激される。
そういうセットがときどきあるので、見つけたらとりあえずここに書きとめます。

ただし、私は、
優劣には興味がない。
歌を並べて優劣を決めたいわけではない。
そこのところ、よろしくおねがいします。




2024/5/31
■死を感じたときの血管の反応

現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
斎藤茂吉『赤光』

干網黒くはげしく臭ひわがうちにしんしんと網目ちぢめゐる肺
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

本歌取りかどうか知らないけれど、似通った要素を多く含みあう歌どうし。

前者:墓地(死者がいる場)で、生きている自分の血脈がしんしんと細る、という感覚。
後者:黒い干網がはげしく臭うのを見て、(それが腐乱死体の肺を連想させるのか)自分の身の内で、肺の網目が縮む、という感覚。

ね、響き合ってますよね。

▼2024/4/7
■ぴゅーんとすべる石鹸

掌を滑りタイルを打ちて己れ跳び身を隠したり固き石鹸
ルビ:掌【て】 己【おの】
奥村晃作『鴇色の足』

石鹸がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

「石鹸」を詠む歌はmyデータベースに80首ほどある。「泡」や「洗うこと」、そして「香」を詠む歌が圧倒的に多い。滑ってぴゅーんと走るところを詠むのは珍しい。
短歌は悲しいこととか深刻なこととかを詠む傾向があって、日常にあるこういう明るい出来事は歌に詠まれにくいようだ。

★剥く石鹸
ついでに、やや珍しいシチュエーションは、包み紙を剥きながら何か考える、というもの。4首あった。

アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜
穂村弘『ラインマーカーズ』

石鹸の紙を破れば或る島の或る安宿へ記憶は帰る
千種創一『千夜曳獏』

あの紅い職場に戻されたくはない十年前の石鹸を剥く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

石鹸を覆ふ薄紙破りつつ(ささやかに)きのふは消ゆるもの
田口綾子「詩客」2011年11月


なお、もともと珍しい行為(石鹸を食べるとか)を詠む歌は、少なくて当たり前だから
ここでは拾わず、別の機会に譲る。

★石鹸+心臓
もうひとつついでに、「石鹸+心臓」という取合せの歌が2首あったので書いておく。

首に掛けた紐付き石鹸弾むのを奪う心臓奪うみたいに
穂村弘『ドライ ドライ アイス』

心臓をさわってみたいあたらしい牛乳石鹸おろす夕刻
田丸まひる『ピース降る』

「石鹸+心臓」が2首あるなら、形状の類似から「たまご」に結びつける歌がけっこうあるだろう、と思ったが、それは1首しかなかった。

鳥の絵のゑがかれてゐる石鹸を使ひへらして棄つその鳥卵を
西王燦『バードランドの子守歌』

▼2024/3/16
■床屋の椅子に座った姿


理髪店の椅子に乗っている人の姿は、ちょっと独特で、シルエットにしたら何か別のものに見えそうだ。
そういうことを詠む歌はないかな、と思って探したところ(ゆきあたりばったりで探しただけですが、)以下2首を発見。

理髪師に髭そられつつうとうとと意識は妙義山の奇岩へとびぬ
ルビ:妙義山【めうぎ】
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

確かに! 
床屋の椅子に人が乗った姿は、シルエットが妙義山の奇岩(にょきにょきと大きな岩が生えている)に似ている気がします。

理髪屋の夏の白布につつまれてわたしは王のミイラであった
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

これも、ただただすごくわかる、って感じ。

★ポイントが2つ
①すごくありきたりな驚きですが、同じ床屋の椅子でも、人によって連想や見立てかたが違うもんだなあ、と感心した。
②どちらも、かすかながら厳かな連想で「死」のイメージを含んでいる。
たった2首見つけた段階で、たんなる偶然だと思いますが。
※杉崎の歌はミイラだし、渡辺のほうは直接的でなはないけれど、石といえばお墓っぽいし、にょきにょきの奇岩たちは石にされた人か、強い思いをいだく魂が石化したか、みたいな連想を促しますから。

■動物の移動

移動が当たり前の生物は多い。渡り鳥はその代表で、本能にプログラミングされているが、そうでない動物も、餌場など何かを求めて、ぞろぞろ移動することがあるようだ。
たまたま見かじったテレビで、ゾウの家族が季節で移動しているところを見たことがある。たぶん餌のためだろうけど、じっとしているのは退屈だから、という動機もあるのではなかろうか。

それはともかく、さっきの歌のついでに目に入ったこれも、おもしろいと思った。

ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び通過するとき富士透けてみゆ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

「ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び」というフレーズ。
人が雁の列を夢想しているのだろうか。でも、雁たちの夢のなかの飛行みたいにも思える。

先日、別のコーナーでとりあげたこの歌も
ちょっと共通点がありそうだ。

牛たちの立ち泳ぎのような 窓外の真夏の雲がギリシアへわたる
井辻朱美「かばん」2023・12

牛たちが立ち泳ぎしていく姿もおもしろいし、「ギリシアへわたる」という部分にもくすぐられる。そういえばギリシャ神話にはミノタウロスが出てくるなあとか、牛にしてみたら観光とか聖地巡礼とかしたくなるのではないかしら、とか。

 動物の移動には何らかの危険があるけれど(動かなくてもあるけれど)、
いつも何らかの理由・動機みたいなものを見つけては、何かを目指して移動しようとするサガというか、生きているということがイコールそれなのか、
みたいなことを感じた。

▼2024/03/06
■自分用の雲が一つ

桐咲きてわれのみに訃であるやうな雲とおもひぬひとつ浮雲
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけで、
言いたいことは特にないのですが、

ふと、
雲を詠む歌には「我」が詠み込まれやすい気がして、
(それもほぼ確信に近い感じで)
でも、念の為に調べてみたら……。

本日の闇鍋 短歌データ 127,830首
うち、「雲」という字を含む短歌 2,117首
「雲」と「我」(わたし、吾などの別表記に、僕、俺を加えた)を含む短歌は188首。
てことは、「雲」を詠む歌の8.9%に「我」が詠み込まれている。

一方、全短歌127,830首のうち「我」を含むのは15,174首。
てことは、全短歌のうち「我」は11.9%に含まれている! 
こっちのほうが多いじゃないの!!!

調べてみてよかった。くわばらくわばら。
結局、カンは、当てずっぽより多少マシ、程度のものなんですね。
どなたさまも気をつけよう。

■自分を産んだ母について

ひたすらに雪融かす肩 母よ 僕など産んでかなしくはないか
吉田隼人「早稲田短歌」43号 2014・3

母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした
伊舎堂仁『トントングラム』2014

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけですが、好対照。
このテーマの歌集めてみよう。おいおい。




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