虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?
短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。
--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。
自分ならここにどんな言葉を使うだろうか、というふうに、普通の読み方より積極的に歌に参加できるかもしれません。
(歌を探してきて用意する私は、「虫食い鑑賞」を体験できないので、どんな感じかわからないのですが。)
以下の歌で「●●●」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。
※「●」の数は音数を表しています。
該当の語をひらがなで書いた文字数とは拗音がある場合一致しません。
■以下7首の虫食い部分には
どんな言葉が用いられているのでしょうか?
以下の虫食い歌は、同じ意味の3音or5音の語のいずれかを含んでいます。
虫食いでなく普通の状態で今すぐ読みたい方は、下の方へスクロールしてしてください。
1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の●●●で話してるだけ
考察:「総称」の使いかた
myデータベースの短歌は本日約12900首
他の「◯◯器」を探したら、「循環器」「消化器」「呼吸器」は、ほとんど短歌に使われていないようです。
(myデータベースの短歌に「循環器」という語を用いた歌はありませんでした。
「消化器」は1首あったけれど「消火器」の入力ミスみたいです。
仮説
一方、「性器・生殖器」は具体的部位の名称使用を忌避する婉曲表現として総称を用いるのではないだろうか。
この仮説は、まことしやかだが、いかにもリクツだけで考えたようなマヌケ感あり。
じじつ、みるからに実作と違う。むらむらと反論がわきおこる。
反論1 総称には総称として、具体的部位名とは異なる使い道がある
循環器・消化器等の総称が使われないのは、具体的名称を使えるから、でなく、まだ総称の使い道を歌人が見つけていないから、とも考えられる。
反論2 「性器・生殖器」は具体的名称の婉曲表現とは限らず、総称として使いこなされている
それに、本気で具体的名称を詠みたければ、歌人たるもの、がんばって詠むと思う。じっさい、探してみたら、けっこうありました。少しだけピックアップしておく。
わが睾丸つよくつかまば死ぬべきか訊けば心がこけ笑ひするルビ:睾丸【ふぐり】 訊【き】北原白秋キッチンにココアを練れば不覚にもふぐりは揺れてをとこでありぬ斎藤寛『アルゴン』2015おれの亀頭とおまえの陰唇は運命的に出会ってそのあと心がちょっと出会ったフラワーしげる『ビットとデシベル』2015クリトリスほどのゆめありベランダで麻のバッグをがしがし洗う雪舟えま『たんぽるぽる』思い出の一つにダリの絵を語り馬の首出る陰唇を言う江田浩司(出典調査中)
すいません。わたしもあるよ!長考の父よあたしは宙ぶらりん 膣に小さな蝶うかばせる高柳蕗子『あたしごっこ』
それぞれの歌の鑑賞
1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の性器で話してるだけ
白野 2024/5 東京文フリ38フリーペーパー(「ひねもす創刊号」宣伝用)より
これこれ。この「別の性器」という言い方は、まさに総称として機能していると思う。
この「別の」は「別腹」に似ていると思う。「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」のような話をすることを、別腹の性交渉、的に捉えているらしい。
じゃあ、「海を見たいとか……とか……」のどういう要素を「別腹の性交渉的なこと」に分類しているのか。
以下、私の解釈。
「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」
これらに共通するのは人恋しさ的な文脈でベタに使われやすい感じであることだ。
では、「別の性器で話す」ことは、人恋しい気分を人と共有しようとすること、なのか。
いや、人恋しい気分を人とベタな言葉で共有しようとすることなのか。
後者に1票。(性行為ってかなりベタですからね。)
(末尾の「だけ」を書いたとき、性器によらない会話を想ったはずですが、多くのことはベタですから、めったに実現しないかも……。)
2 しろき糸ひいて性器はわたしたちみな液体と思ひ出させる
吉田隼人 『忘却のための試論』2015
ひとつは、かたつむりやなめくじ。実際に白い糸を引くものらのなかで形状や質感が性器っぽいもの、という連想脈で。
でも、そこには幽かな連想脈のあるかなきかの淡い虹がかかっている気がする。それをたぐって飛べと促されている気がする。読者各自が独自に蓄えているイメージを、その淡いところにあてがいながら、どうにか渡れるようにと。
「しろき糸」から男性器と父系の絆を連想。(女系の絆は観念上血の絆だし、具体的にも、女性器の奥の子宮には、卵の着床のために毎月赤いベッドが設えられるのだし。)
一般的通念では「生殖といえば赤い血縁」⇒ふつう「白い縁は忘れられている」が、白い糸がそれを「思ひ出させる」
そういうふうに、私のなかではつながった。
「性別はない」だと観念的ニュアンスになり、「ユニセックスファッション」のように、「男女の区別という固定観念を覆す」というようなアンチとしての意味が濃くなるだろう。
一方、「性器はない」は即物的で観念以前のベーシックなニュアンス※だ。余計なでっぱりやくぼみがない(つるつるみたいでかわいいし)、という単純な意味でどんな服でも着られると受け止め、天国の子どもの無垢な解放感も感じ取れる。
★たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998)の出だしを少しかすっていることは、当然意識して詠んだはずだが、本歌取り的なものでなく、似た言い回しから全く別のことを詠むおもしろさがあると思う。
西田政史 『スウィート・ホーム』
しかし、この歌に関連しそうなイメージは、以下の通り。
字面も音も、底を打つ感じを体現していて、「思案の底」の「底」感がすんなりわかる。
5 なめくじのつどい闌なる庭に生殖器ってみんな寒そう
佐藤弓生 『薄い街』
2番の歌でも少し触れたが、生殖器は、形状や質感が、かたつむりやなめくじに似てる気がする。人前でそういうことは口に出さないから共通認識にはなっていないのだが、多くの人がひとりでに連想しやすいのではないだろうか。
この歌はふと感じたことをそのまま述べる、という詠みぶりであり、確かになめくじははだかんぼだから寒そうだ。
加えて、「寒そう」には、「性」そのもの、「生殖」そのもの、--行為でなく〝仕組みそのもの〟の雰囲気も凝縮されている気がする。ーー倫理や宗教など社会的な抑圧感は、湿った裏庭にひっそり集まる感じ、とまでは歌に書いてないが、「陰部」という表現もあるし、たしかに、暖かい陽のあたらない日陰のイメージだ。
あたたかい? やっとコメントを書き終えた4番の歌と真逆ではありませんか。
しかし、この歌の性器が暖かかったのは宇宙でのこと、ですよね。
瀬戸夏子 『かわいい海とかわいくない海 end,』2016
そんなの嫌だ。
人それぞれ解釈のあるなかの私のそれ、という位置づけで書いておく。
(ぜんぜん違うと感じて腹がたったら、「けっ、勝手に言ってろ」とツバをはいて通り過ぎてください。私はいつもそうしています。ツバは冗談ですが。)
- 突風にくずれて是と答える:これは性行為の承諾の形のひとつだと思う。
- 左手ばかりを:片手だけであること。それは左手で右手ではないことに、幽かに意味がある。右と左には、様々な用例から、「右は能動的・合理的・強い/左は消極的・情緒的・弱い」といった対比的イメージが蓄積している。
よって、「左手ばかりを」は、この「是」が消極的・情緒的で弱いた態度であること、「右」的な能動的合理的な強さがくずれてしまったことを暗示している、と思う。 - 性器に変える:身体の一部を交接用に変化させるのはフィナーレではないだろうか。何かの生物の不思議な生態、みたいな感じ。そういえば、交尾しながらメスに食われるオスだとか、昆虫には生殖がフィナーレになるものがある。
- この歌には、そういう究極の変身を読み取るのが妥当だと思う。
性器以外は塵に帰るという、なんかものすごい諸行無常感も備えている。
「左手ばかり」の「ばかり」に、そうか、手が何本もあって性器がいっぱい、などと考えてみるのもありだろう。
こういうものを読むと、煩悩の八割ぐらいから解脱できてしまう。
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