2024年5月25日土曜日

虫食い式短歌鑑賞 第1回

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

自分ならここにどんな言葉を使うだろうか、というふうに、普通の読み方より積極的に歌に参加できるかもしれません。
(歌を探してきて用意する私は、「虫食い鑑賞」を体験できないので、どんな感じかわからないのですが。)

以下の歌で「●●●」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 該当の語をひらがなで書いた文字数とは
拗音がある場合一致しません。


以下7首の虫食い部分には
 どんな言葉が用いられているのでしょうか?

以下の虫食い歌は、同じ意味の3音or5音の語のいずれかを含んでいます。

虫食いでなく普通の状態で今すぐ読みたい方は、下の方へスクロールしてしてください。

 

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の●●●で話してるだけ

2 しろき糸ひいて●●●はわたしたちみな液体と思ひ出させる


3 たましいに●●●はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう


4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ●●●擦れあふ


5 なめくじのつどい闌なる庭に●●●●●ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】


6 冷え症の足をさすって物語る●●●の宇宙でのあたたかさ


7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを●●●に変えた










以下ネタバレ




いかがでしたか。
答えは「性器」「生殖器」です。


考察:「総称」の使いかた


 「性器」「生殖器」という語は、使いにくいような、でも使いやすいような、ちょっとフクザツな使用感だと思われます。
 myデータベースの短歌は本日約12900首
 うち、「性器」or「生殖器」という語を含む歌は37首
 これはけっこう多いほうです。

 他の「◯◯器」を探したら、「循環器」「消化器」「呼吸器」は、ほとんど短歌に使われていないようです。
 (myデータベースの短歌に「循環器」という語を用いた歌はありませんでした。
  「消化器」は1首あったけれど「消火器」の入力ミスみたいです。
  「呼吸器」は「人工呼吸器」を詠む歌しかなく、臓器の総称としての用例はありませんでした。)
 とにかく、「性器」or「生殖器」が37首もあるのはすごい。
 短歌って言語活動の場としてはお上品志向だと思うけれど、どうしちゃった?

仮説
 歌を見ると、循環器・消化器・呼吸器は、そういう総称は詠まないが、心臓、血管、胃、腸、肺などの具体的部位名を詠み込んでいる。
だから「循環器」「消化器」「呼吸器」は総称を用いる必要を感じない。
一方、「性器・生殖器」は具体的部位の名称使用を忌避する婉曲表現として総称を用いるのではないだろうか。

 この仮説は、まことしやかだが、いかにもリクツだけで考えたようなマヌケ感あり。
 じじつ、みるからに実作と違う。むらむらと反論がわきおこる。

反論1 総称には総称として、具体的部位名とは異なる使い道がある
 循環器・消化器等の総称が使われないのは、具体的名称を使えるから、でなく、まだ総称の使い道を歌人が見つけていないから、とも考えられる。

反論2
 「性器・生殖器」は具体的名称の婉曲表現とは限らず、総称として使いこなされている
 具体的部位の名称が使いにくいゆえに「性器・生殖器」と言い換えている歌もあるだろうが、実作を見ると、総称としての「性器・生殖器」という語が活かされ、具体的な部位を詠む必要のない歌がけっこうある。

ゆえに、「性器・生殖器」は「循環器」「消化器」よりも先んじて、短歌の中で総称としての用途を開拓しているのでは? つまり、言葉の「性器・生殖器」は、短歌の言葉の世界ではある意味〝すすんでる〟といえないか?

 それに、本気で具体的名称を詠みたければ、歌人たるもの、がんばって詠むと思う。じっさい、探してみたら、けっこうありました。少しだけピックアップしておく。

わが睾丸つよくつかまば死ぬべきか訊けば心がこけ笑ひする
ルビ:睾丸【ふぐり】 訊【き】
北原白秋
キッチンにココアを練れば不覚にもふぐりは揺れてをとこでありぬ
斎藤寛『アルゴン』2015
おれの亀頭とおまえの陰唇は運命的に出会ってそのあと心がちょっと出会った
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015
クリトリスほどのゆめありベランダで麻のバッグをがしがし洗う
雪舟えま『たんぽるぽる』
思い出の一つにダリの絵を語り馬の首出る陰唇を言う
江田浩司(出典調査中)
すいません。わたしもあるよ!
長考の父よあたしは宙ぶらりん 膣に小さな蝶うかばせる
高柳蕗子『あたしごっこ』

それぞれの歌の鑑賞


ま、そういうことを考えながら、以下、各歌を見てみます。

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の性器で話してるだけ
 白野
  2024/5 東京文フリ38フリーペーパー(「ひねもす創刊号」宣伝用)より

 これこれ。この「別の性器」という言い方は、まさに総称として機能していると思う。
 この「別の」は「別腹」に似ていると思う。「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」のような話をすることを、別腹の性交渉、的に捉えているらしい。
 じゃあ、「海を見たいとか……とか……」のどういう要素を「別腹の性交渉的なこと」に分類しているのか。
 以下、私の解釈。
 「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」
 これらに共通するのは人恋しさ的な文脈でベタに使われやすい感じであることだ。
では、「別の性器で話す」ことは、人恋しい気分を人と共有しようとすること、なのか。
いや、人恋しい気分を人とベタな言葉で共有しようとすることなのか。
 後者に1票。(性行為ってかなりベタですからね。)

(末尾の「だけ」を書いたとき、性器によらない会話を想ったはずですが、多くのことはベタですから、めったに実現しないかも……。)


2 しろき糸ひいて性器はわたしたちみな液体と思ひ出させる
 吉田隼人
『忘却のための試論』2015

 まず、「しろき糸ひいて性器は」。ここには2つの連想脈が共存していると思う。
 ひとつは、かたつむりやなめくじ。実際に白い糸を引くものらのなかで形状や質感が性器っぽいもの、という連想脈で。
 もうひとつは父系の繋がり。観念の連想脈。「しろき」と言われて、「白い糸というと、赤い血縁の絆ではなく、父系の繋がりか」と考えそうになること。
 しかし、その2つの連想脈は、すぐに、「わたしたちみな液体」という難所に行き当たる。ここはいわゆる〝詩的飛躍〟で、かなりのロングジャンプを覚悟しなければ。
 でも、そこには幽かな連想脈のあるかなきかの淡い虹がかかっている気がする。それをたぐって飛べと促されている気がする。読者各自が独自に蓄えているイメージを、その淡いところにあてがいながら、どうにか渡れるようにと。

 で、以下は私の個人的深読み。
 「しろき糸」から男性器と父系の絆を連想。女系の絆は観念上血の絆だし、具体的にも、女性器の奥の子宮には、卵の着床のために毎月赤いベッドが設えられるのだし。)
 そして形状などから、「かたつむり」っぽい「白い墨壺」(すみつぼ=材木に直線を引くなどする建築用工具。普通は黒い墨だが。)を連想。つまり、「しろき糸」を出すのはほとんど水モノ。水の源を考えると海か、もっと遡って空か……という連想も、しないけれどありえる感じ。
 一般的通念では「生殖といえば赤い血縁」⇒ふつう「白い縁は忘れられている」が、白い糸がそれを「思ひ出させる」
 そういうふうに、私のなかではつながった。

3 たましいに性器はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう
 佐藤弓生    『薄い街』2010

 なるほど、この歌で重要なのは、たましいに「性別はない」①とせず、「性器はない」②としたことだ。似たようなことに見えるが、①と②では「どんな服でも似あう」の意味合いがものすごく違ってしまうと思う。

 「性別はない」だと観念的ニュアンスになり、「ユニセックスファッション」のように、「男女の区別という固定観念を覆す」というようなアンチとしての意味が濃くなるだろう。
 一方、「性器はない」は即物的で観念以前のベーシックなニュアンスだ。余計なでっぱりやくぼみがない(つるつるみたいでかわいいし)、という単純な意味でどんな服でも着られると受け止め、天国の子どもの無垢な解放感も感じ取れる。

※即物的でベーシック、といえば、古事記のイザナギとイザナミの有名な場面。伊邪那伎の命が伊邪那美の命に、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処在り。故 此の吾が身の成り余れる処を以ち、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむ」と提案した。)
★たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998
)の出だしを少しかすっていることは、当然意識して詠んだはずだが、本歌取り的なものでなく、似た言い回しから全く別のことを詠むおもしろさがあると思う。

4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ性器擦れあふ
 西田政史
『スウィート・ホーム』

 「亜細亜とふ思案」については、人によって思いうかべるものがだいぶ違うだろう。なにしろアジアは広い。気候いろいろ、宗教いろいろ。(なにしろヨーロッパを除くユーラシア大陸全般)
 しかし、
この歌に関連しそうなイメージは、以下の通り。
・古代には文明が栄えたが、現在はそうでもない。
・貧富の差が大きくて、貧しい人がひしめいている映像をよく見かける気がする。
・都市と田舎の暮らしの違いも大きい感じがしている。
・気候はさまざまなはずだが、なぜかじめじめっとした熱帯雨林で多様な命(虫とか蛇とか)が湧きやまぬイメージがある。(熱帯はアジアに限らないわけで、南米やアフリカにも熱帯雨林はある、と知っているのに。)
・加えて、私には、「亜細亜」(アジア)という字面や語感も重要に思える。
 字面も音も、底を打つ感じを体現していて、「思案の底」の「底」感がすんなりわかる。

 総合すると、「思案の底」で、夕闇の熱帯雨林の葉擦れのように性器が擦れ合い、人というか命というか、いろんなものが生じやまない、なんだかものすごいイメージになる。

5 なめくじのつどい闌なる庭に生殖器ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】
 佐藤弓生 『薄い街』

 2番の歌でも少し触れたが、生殖器は、形状や質感が、かたつむりやなめくじに似てる気がする。人前でそういうことは口に出さないから共通認識にはなっていないのだが、多くの人がひとりでに連想しやすいのではないだろうか。
 この歌はふと感じたことをそのまま述べる、という詠みぶりであり、確かになめくじははだかんぼだから寒そうだ。
 加えて、「寒そう」には、「性」そのもの、「生殖」そのもの、--行為でなく〝仕組みそのもの〟の雰囲気も凝縮されている気がする。ーー倫理や宗教など社会的な抑圧感は、湿った裏庭にひっそり集まる感じ、とまでは歌に書いてないが、「陰部」という表現もあるし、たしかに、暖かい陽のあたらない日陰のイメージだ。
 更に言うと、性は、暴力性とか苦しみとかの面もあるし、性欲に翻弄されて愚かしいことをしでかすことも多いにもかかわらず、その欲がないと世の中が成り立たない……という矛盾をはらんでいる。総合すると、「生殖器」は矛盾のなかで秘匿され、寒そうというか、冷遇されていると思う。
 循環器も消化器も、自動で働く仕組みであって、世話がやけない。それに対して性器は特殊である。なにしろ相手のある行為だ。欲求や意志には個人差があって調整が難しい。(なんてめんどくさいんだ!)無理を通せば暴力になるし、そうでなくとも、行為自体に変な激しさがあるし、そのうえ出産には危険と苦痛が伴う。(神とかがこのシステムを作ったんなら、大いに文句を言いたいよ。へたくそ! 責任をもって改善しろと。)

6 冷え症の足をさすって物語る性器の宇宙でのあたたかさ
 雪舟えま 『たんぽるぽる』2011

 あたたかい? やっとコメントを書き終えた4番の歌と真逆ではありませんか。
 しかし、この歌の性器が暖かかったのは宇宙でのこと、ですよね。

 冷え性の人(冷え性はたいてい女性)が冷えた足をさすりながら、「宇宙にいる時は性器が暖かい」と物語っている。--いやいやいや、その読み方だと、「宇宙飛行士だった女性の老後の昔語り」みたいな、なんか不自然ないきさつを用意しなければならなくなる。

 ここが地球だとかそういう小さい視点じゃなくて、地球だって宇宙、という視点にたってみようか。
 それなら、この宇宙においては、血液の循環する身体の仕組みも、生殖という繁殖方法もユニークである、という考え方ができる。そういうスタンスならば、冷えた足をさすりながら性器というものの温かさについて物語る、という地球の日常っぽいシチュエーションが生きてくる。だから、私はこの解釈を採用する。
 

7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを性器に変えた
 瀬戸夏子
『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

 こういう歌は、人それぞれの解釈がすごく違ってて、人の解釈が自分と違うと不快に思えるほど読者が入れ込んでしまうこともある。だからみだりに解釈をほどこさずにだまって読んでおくほうがいい、ーーと思いますか?
 そんなの嫌だ。
 人それぞれ解釈のあるなかの私のそれ、という位置づけで書いておく。
(ぜんぜん違うと感じて腹がたったら、「けっ、勝手に言ってろ」とツバをはいて通り過ぎてください。私はいつもそうしています。ツバは冗談ですが。)
  • 突風にくずれて是と答える:これは性行為の承諾の形のひとつだと思う。
  • 左手ばかりを:片手だけであること。それは左手で右手ではないことに、幽かに意味がある。右と左には、様々な用例から、「右は能動的・合理的・強い/左は消極的・情緒的・弱い」といった対比的イメージが蓄積している。
    よって、「左手ばかりを」は、この「是」が消極的・情緒的で弱いた態度であること、「右」的な能動的合理的な強さがくずれてしまったことを暗示している、と思う。
  • 性器に変える:身体の一部を交接用に変化させるのはフィナーレではないだろうか。何かの生物の不思議な生態、みたいな感じ。そういえば、交尾しながらメスに食われるオスだとか、昆虫には生殖がフィナーレになるものがある。
  • この歌には、そういう究極の変身を読み取るのが妥当だと思う。
    性器以外は塵に帰るという、なんかものすごい諸行無常感も備えている。
    「左手ばかり」の「ばかり」に、そうか、手が何本もあって性器がいっぱい、などと考えてみるのもありだろう。
    こういうものを読むと、煩悩の八割ぐらいから解脱できてしまう。

 いかがでしたか。

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