ひさしぶりに再開です。
2023・9・14
いかにも、虚しさやけだるさを安易に書きました、という歌になってしまいそうで、使いにくいフレーズだと思う。
この「いかにも感」を「手放しな表現」に転じるとか、「……だけの一日」がベタであるぶん、奇抜な表現を工夫するとか……。
そう思えて、検索してみた。
なかなかおもしろかった。
出典のあやしいもの等を除いてアップしておく。
小麦粉を無限に食べていくだけの動画のような一日でした。
土岐友浩『ナムタル』
早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
石井僚一 第57回短歌研究新人賞受賞作2014
ルビ:家【うち】、一日【いちにち】
筏井嘉一『荒栲』
山階基「風にあたる拾遺2010-2012」
山階基「風にあたる拾遺」(「未来」2016・6)
千葉聡『飛び跳ねる教室』
藤原龍一郎『切断』
藤原龍一郎『19××』
荻原裕幸『デジタル・ビスケット』(『永遠青天症』)
植松大雄『鳥のない鳥籠』
木下こう『体温と雨』
永井陽子『てまり唄』
西田政史『ストロベリー・カレンダー』
これをタイプBとし、さっき上の方にあげたような虚しさを表すものをタイプAとしよう。
しかし、考察には次のステップがあった。
両極が重なることこそが肝であるような歌が存在する。これをタイプCとしよう。
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
長谷川径子『固い麺麭』
荻原裕幸『あるまじろん』
ゆびさしたほうにかならず星がある それだけがよく、それだけの日々
笹井宏之『てんとろり』
タイプCの存在に気づいてから読み直したら、上の方に並べたタイプAの歌にも、微弱なタイプCがあるような気がしてきた。
いずれにせよ、タイプCの発見が、今日の収穫である。
「だけ」「のみ」という語を使わないが、同じような意味合いの歌は、ほかにもいくらでもある。たまたま見つけたので追記しておく。
2023・7・21
赤い靴は詠まれていそうだが、黒い靴も多少ありそうだと思って探してみた。
多少あった。
本日の闇鍋短歌総数125320首
うち黒い靴に言及している歌は、以下の7首。
ただし、「靴」という語を使わず「黒いパンプス」などと書いてある場合は抽出されていない。
一足の黒靴がならぶ真上より大きな足が下りて来たる
山崎方代『こんなもんじゃ』
旧臘ふたり明けて三たりの弔いに行きし黒靴かぜに当ておく
※旧臘=前年の十二月
久々湊盈子『鬼龍子』2007
芭蕉の墓割れて接着されてをり黒き革靴にてわれは立ちをり
渡辺松男『雨(ふ)る』2016
湖にこれから入るかのようにあなたは黒い靴を脱ぎ、寝る
千種創一『千夜曳獏』
カブトの靴クハガタの靴黒と茶のおほき革靴荷をはみ出しぬ
米川千嘉子『吹雪の水族館』
アカシアの木下に待っている父の海石のごとき黒い革靴
ルビ:海石【いくり】
小島なお『展開図』
父は老いをしずかに踏みぬ黒き靴光らせながら曲がる踊り場
中山洋祐「詩客」2012-09-07
それぞれに良さは感じる。
しかし、
「黒靴」のイメージ(あまり意識化していなかったが漠然とある既存のイメージ)を、
「思いっきりつゆだく」に感じさせたり、「超えた!」と驚かしたり、のどちらも見当たらない。
「そこそこ良い」っていうのは、私が詩歌に求めるものではないけれど。むろん「良い」ほうに位置づけられるだろう。
ファッションの通販の冊子をみていたら、「きれいめ」という言葉に遭遇した。
この社会には「きれいめ」程度の服装がふさわしい場面があるだろう。
で、短歌にも「良いめ」程度の歌がふさわしい場面が、たぶんあるのだろう。
なお、赤い靴も、思ったほどには詠まれていないようだ。
「靴」と言わずスニーカーなどと言っているケースは抽出されない。
赤い靴の丸いつまさき海を向く深くにごりてブイの浮く海
東直子『青卵』
人身御供にされた少女の赤い靴葬るように靴を包んだ
東直子「短歌研究」2015・3
脱ぎ散らす赤いミュールの靴底に貼りついていた蝶の片羽
入谷いずみ『海の人形』
どろんこの水はねあげる長靴はツヤツヤ赤くお気に入りなの
榎田純子『リズムみそひと』
切り捨てて憧れだけが遠ざかる二本の脚よ赤き靴履け
有沢螢『致死量の芥子』
赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が
中津昌子『むかれなかった林檎のために』
赤イ靴ノオトコ入要アリタリア桜ノ季節ニチルドデ送レ
蔦きうい「レ・パピエ・シアン」75号2005.4
赤と青の子供の靴が落ちてゐる旧き館の格子のまへに
服部崇『ドードー鳥の骨』2017
おんぶしてやれば膝から下だけではね回る魔法の赤い靴
原浩輝「かばん」2000・6
なお、青い靴を詠んだ歌はこれ一首だった。
イタリイといふうす青き長靴のもう片方を片手に提げて
紀野恵『フムフムランドの四季』
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佐藤弓生 『眼鏡屋は夕ぐれのため』
壊されてゆくとき家の内臓が空に呑まれているのが見える
土井礼一郎 『義弟全史』
わが家を壊す朝に散りたまる玻璃あり青き空を映して
佐伯裕子 (出典調査中)
壊さるる空き家のなかの落書きの麒麟があふぐ初めての空
渡辺南央子 『天空のかすみ草』
屋根や天井がなくなるから、空が見える。
今まで屋内にあったものが空にさらされる。
家は生き物に準ずる感じ。魂が昇天する。
とりまとめると、そういう感じであるようです。
「空」と言っていないけれど、次の2首もその仲間。
はじめてのそして最後の夕日浴び解体家屋はからだを開く
勺禰子『月に射されたままのからだで』
空き屋なる家を毀てるふる雨に昭和残像の便器がのぞく
池田裕美子 『時間グラス』
そうなると気になるのは、家を壊す歌で「空」が出て来ない歌です。
どんなことを書くんでしょう?
路地奥の家なれば機械入れられず解体は人の手もて行う
奥村晃作『キケンの水位』
どつしりと大樹のやうに建つ家を壊さむとする重機に礼す
ルビ:礼【ゐや】
大西久美子『イーハトーブの数式』
雲の崖ゆ風なだれ来よ家毀す犯意にわれの革るべし
ルビ:革【あらたま】る
春日井建『青葦』
家ひとつ取り毀された夕べにはちひさき土地に春雨くだる
小池光『日々の思い出』
けふにかけてとり毀す家から忘れずにもちだされる死者のもの
平井弘『振りまはした花のやうに』
壊れたる家を素手もてなほ壊すあの日の父の怖ろしかりき
逢坂みずき『まぶしい海』
なるほどなあ。
いろいろあるけれど、「家」を壊すことに「加害」であるような感じを抱いている歌がいくつか。
2023・07・07 追加
においごと家屋は解体されてゆく記録されない巣穴の記憶
雛河麦「かばん」202306
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