2024年5月2日木曜日

随時更新 ちょびコレ8

 なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。

ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。


2024年5月1日 海岸線という線


 すごく詠まれていそうだと思って探してみたら意外に少ない感じがした。本日の「闇鍋」短歌データ128,830首中13首だった。
 いろんな捉え方があるのが楽しい。少しピックアップ。


美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を
ルビ:忠敬【ただたか
吉野亜矢『滴る木』2004

 見ている地図に伊能忠敬が生じ、いきいきと旅をするような感じ。そして、RPG等のゲーム画面で、地図上を移動するキャラを見るような視点がおもしろい。
 ゲームでは、攻略した場所だけ地図がはっきり表示されるし、達成することでキャラが成長する。伊能忠敬が地形を攻略していく能動的な明るさが感じられる。

神の手が海岸線をなぞるように男鹿半島はやさしく走れ
柴田瞳(出典調査中)

 こちらの歌では、主体は海岸線にそって車で走っているらしい。
 つまり実際の地形のなかにいて、鳥瞰した地形を思い浮かべながら、いわば、神の指先になって、体感として海岸線をなぞっている。この点に注目した。
 
ひるがほがまひるの海岸線となり輝りぬればうみへうみへ死者たち
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

 「ひるがほ」が連なって咲き輝いて「海岸線」のように見える。その光景は美しいけれど、線を引くということは、何かと何かを隔てることだ。生命感あふれる「ひるがほ」たちの連なりは、「死者」を海の側へ追い立てる。--というふうに私は読んだ。

あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

  「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
 そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
 この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
 (そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
 そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。 
 そういう光景だと思われるが、いかが?

トンネルを数へつつゆく海岸線途中から海を数へてしまふ
小林真代『Turf』2020

 列車に乗っていて、トンネルと海が交互に目に入るような体験を、いつかどこかでしたことがある。トンネルだトンネルだとはしゃいでいたのが、いつのまにか海だ海だになっている。関心の対象が変わる。そういうふうに心境は往々にして、自然に変化・逆転することがある。
 楽しい歌であると同時に、こういうふうにいつのまにか目的を取り違えて突き進んでいることがあるなあという深読みも可能な歌だと思う。

海岸線長しかぎりもなく長し少年素手もて迎え撃たむとき
岡井隆『眼底紀行』

 さまざまに解釈ができる歌だが、「少年」という言葉について、少し絞り込んでみよう。
 「少年」という語には、セットとなるイメージがあって、排除しない限り寄り添っている。
 例えば、「父」や「大人の男」はセットである。少年はこれから、それら手強いものに立ち向かいながら成長せねばならない。
 それとは別に、「少女」というのも、これから出会って関係を構築していくべき存在として、セットイメージとして機能する。
 だから、普通はどちらかに絞り込む詠みかたをするわけで、この歌の「少年」が「素手にて迎え撃」つのは前者のほうか、と、いちおう思う。
 相手は「迎え撃」たねばならないほど攻撃的みたいだし、同じ歌集に「父」が多く登場するからでもある。たとえばこれ。
  父親がそびえて空をかくすときおさなき舌は歌詞を忘れて
 しかし、この歌は、「少女」のほうにもかすかに連想の〝引き〟がある気がする。脳内を探ると、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」がチラっと浮かんだ。この歌も解釈は多様だが、私は、「手を広げる」のは海の大きさを示す動作を思わせると同時に、「少女」への対応に不慣れで戸惑いがある雰囲気も含まれていると感じている。
 掲出歌、「少年」との代表的セットイメージの2つが融合する歌、というふうに捉えると、私の中で価値を増す気がする。

春休み関節外し放しにて地図の海岸線を旅する
ルビ:外【はづ ぱな
高野公彦『水苑』2000

現実には関節を外したら旅どころか動くこともできないが、観念上ならば、それに似た状態があるだろう。
 学校の「春休み」は、学年の境目の何年生でもない期間で、身分の〝タガ〟が外れている状態である。その解放感を少し身体感覚にスライドしたのが「関節外し放し」だろう。その開放的脱力的な観念の身体感覚で、「海岸線」という海と陸の境目を、地図上で旅する。そういうことを詠んでいると思われる。

灰色の画面のなかに横たわる海岸線が病だという
木村友 第35回(2023)歌壇賞候補作「記念日」より

 病院で何かの検査を受けてモニターを見ているのか。「灰色の画面」に表示されたグラフの線を、健康と病気の海岸線と捉えているらしい。まるで、足もとの不確かな夜の海岸線のようで、不安を伝えてくる表現である。
 病気の海岸線が「横たわる」というのも、動かない障壁のように重い語感として効果的。
 また、末尾の「だという」も重要だと思う。今まさにそのように説明されていること、心のリアクションがない段階、どころか、意味を理解する手前の段階の、実感のない事実である、ということが、この結句から推定されるからだ。
 なお、現在はあまり〝縁語〟は重視されていないようだが、「横たわる」は病気の〝縁語〟であり、目立たないけれど、語感の調和効果(あるいは不調和がない効果)があると思う。

 上記にあげた歌のどれもが、単なる景色の描写を超えて感覚的な刺激を含んでいると思う。「海岸線」という言葉にそれを可能にする力が潜んでいるのだろう。

 「海岸線」という言葉

 1 視覚:海岸線と聞いて思い浮かぶのは美しい景色である。

 2 体感:車窓から海岸線を見ながら走ると、目だけでなく体感でも感じ取れる。

 3 抽象的な刺激

:海岸線は海と陸の境目である海岸線は、そういう観念としての感覚も認識をくすぐる。観念上の刺激は、現実に海岸線を見たり、沿って移動したりする場合だけでなく、思い浮かべるだけでも、無意識な脳内に微妙な影響を及ぼす。

 4 本能的な刺激 

:また、海岸線は、海と陸との自然のなりゆきから生じただけのものだが、人間にはカタチに意味を感じる性質がある。(猫が動くものを追わずにいられぬような、本能に近い反応ではないだろうか。)線状のものに特別に惹かれ、想像をかきたてられ、ことさらに抽象化する傾向もあるとも思う。

 

2024年4月18日 ~のまにまに(随に)


「波のまにまに漂う」などと使われる「まにまに」は、
死語ではないが、文語っぽくて、普段着のコトバとしては気取った感じになる。
そういえば、百人一首に
 このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき神のまにまに
 菅原道真
というのがあったっけ。
この歌の「まにまに」には、「神のご意思のままに」という意味に加えて、多くの紅葉が揺れるの擬態語のような効果もあるようだ。

こういう有名な用例もあることだし、短歌の言葉の領域なら、文語っぽさはもとよりあまり気にならない。さりげなく上品なこの響きは、歌人ならほっとかない魅力があると思う。
(あらやだ、私ったらまだ使ったことがない!)

myデータベースで検索してみたら、128672首のなかの32首に使われている。
これはまあまあ多いと思う。
(ちなみに俳句は1句、川柳はナシだった。俳句川柳は短歌より総収録数が少ないとはいえこの差は大きい。)

「まにまに」の意味や用例
 もし試験で「まにまに」を使った例文を作りなさいという問題が出たら、
「流されたボールが波のまにまに漂う」
と書くだろう。
ネット検索してみると、「波のまにまに」「風のまにまに」は歌詞にしばしば使われているようだ。なるほど、風まかせ波まかせという気分は歌になりそう。

 念のため辞書を見た。知ってるつもりでも以外な意味があるかもしれない。
●デジタル大辞泉
 1 他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
 2 ある事柄が、他の事柄の進行とともに行われるさま。…につれて。…とともに。
●学研全訳古語辞典
 ①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。
 ②…とともに。▽物事が進むにつれての意。

なるほど。私の解釈はほぼこんな感じではあったが、ちょっと足りないとも思った。
の辞書の説明をはみだす用例もあると思いませんか。
●見え隠れするような感じ。
つまり「間に間に」のような感じで使っていることがあると思う。

 本来の意味にないとしても、そういう使い方をする理由はわかる。
 例えば、「ボールが波のまにまに漂う」には、波まかせという意味に加えて、擬態語的な効果もある。波の意のままにゆらゆら漂う感じや、波の間に見え隠れするかのような視覚効果が。
 だから、軸足をこの視覚効果のほうに移して用いるケースがあっても違和感は少ない。

いろんなもののまにまに?

 では、私のデータベースのなかにあった「まにまに」短歌は、何のまにまにを詠んでいるだろう。
カウントしてみた。

1 10首 風
2 4首 霧(靄含む) 
3 3首 生(命含む)/波(潮含む)
4 2首 揺れ
5 1首 雲/指示/皺/負け/成り/まばたき/群れ/医師/君/鳥

「風」が圧倒的に多かったが、珍しいもののまにまにもあった。
内容を見ると、「風」のような順当なものもちょっとひねりが効いていたりして、おもしろかった。
以下、少しピックアップしておく。


鳥のため樹は立つことを選びしと野はわれに告ぐ風のまにまに
大塚寅彦 『ガウディの月』2003

右岸左岸ひとしく今日を捨てていく風のまにまに 元気をだして
北山あさひ 「詩客」2013年9月27日

そよろそよろと風のまにまにゆれやまぬ池の辺三本小杉の穂先
加藤克巳『游魂』

村道の靄のまにまにかたむいて杭はかがやく乗物を待つ
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』 (現代短歌クラシックス04)

霧のまにまに釣り人みえしぬまべりに霧晴れたれば釣り人をらず
渡辺松男 『時間の神の蝸牛』2023

うつせみの生のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ
斎藤茂吉『ともしび』

海月らが波のまにまに愛し合う氷菓窓辺でくずれる夕べ
天道なお『NR』2013

この大地震避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る
北原白秋『風隠集』1944

つひに還らず空の神兵、銀蝿を連れておほきみの負けのまにまに
塚本邦雄「短歌研究」平成8年11月

まばたきのまにまにこの身に冬の陽の黄なる光の入り溜まるかも
稲葉京子(出典調査中)

山川の成りのまにまに険しきを踏み通りつつ狭霧に濡れぬ
ルビ:険(こご)
斎藤茂吉『あらたま』

 飼猫をとぢこめしかどいつしかや葬のまにまに猫の居りけり
森岡貞香 『百乳文』

 冬山の寺の木ぬれになつめの實はつかに殘り鳥のまにまに
ルビ:冬山(ふゆやま) 木(こ)
斎藤茂吉 『連山』 

気づけばアバの♪マニマニマニー(ABBA:Money Money Money)を鼻歌で歌ってた。


2024年4月7日日曜日

随時更新 ちょびコレ7

 なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。

ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。


2024年4月7日 40

所属誌「かばん」が40周年をむかえるので、
「40」(四〇、四十、四拾、よんじゅう)
を含む短歌を探してみた。
 思いのほか多いので、ありがちな(たとえば「四〇歳になった感慨」みたいな)歌は少なくしました。

ことだまの80bytesは全角で40文字まで空爆無料
鈴木有機 「かばん」2003/5

真っ直ぐに尾鰭のばして浮上する鯉の仰角約四十度
杉崎恒夫

石鹸がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
 ※モーツァルト 交響曲第40番 ト短調 K. 550 

小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす
土屋文明『山谷集』
 ※東京都江東区に昔あった地名。今も通りの名として残っている。

ネクタイと海を間違う砂浜の平均気温四十度強
笹井宏之『ひとさらい』

少年のしぐさのように吸われゆく四十度ほど左翼を下げて
三枝昻之『農鳥』

スプーン一杯に満たざる蜜を集めたる四十日ののちに死ぬとぞ
稲葉京子『忘れずあらむ』

四十になっても抱くかと問われつつお好み焼きにタレを塗る刷毛
吉川宏志『青蝉』

四十トンあまりの鯨つぎつぎに跳びたる海はしばらくゆらぐ
秋葉四郎

満月の四十階のバーに飲む酔ってまだ飲むドライマティーニ
佐佐木幸綱

にんげんは地中せいぶつ大江戸線地下四十メートルの六本木駅
鈴木良明「詩客」2013-06-28

杉垣をあさり青菜の花をふみ松へ飛びたる四十雀二羽
正岡子規『竹の里』

死のきはの猫が嚙みたる指の傷四十日経てあはれなほりぬ
小池光『梨の花』

四十年使ひなれたる塗椀に汁盛る朝の夏至の葱の香
馬場あき子『あさげゆふげ』

事務所まで戻れば四十円安い愛のスコール駅で飲み干す
山川藍『いらっしゃい』

千葉君は四十過ぎてもときどきはT先生に怒られている
千葉聡『グラウンドを駆けるモーツァルト』

呑むための器ばかりが増えてゆく四十半ばの白い白い闇
ルビ:四十【しじふ】
大松達知『ぶどうのことば』

四十路びと面さみしらに歩みよる二月の朝の洎芙藍の花
ルビ:面【おも】 洎芙藍【さふらん】
北原白秋『桐の花』

2024年4月5日 言葉のなかのダムとダムの歌


私の短歌データベースで、何の気無しに、「ダム」という語で検索をかけたら、ばかにたくさん(63首も)出てきてしまった。
しかし、よく見ると「マダム」「ランダム」なども抽出してしまっている。

そこで、除外する語を思いつく限り入力。

マダム、ランダム、アダム、ノートルダム、ノートル・ダム、
ノストラダムス、サダム、ガンダム、ポツダム

おお、言葉のなかのダムたちよ。

こんなにいっぱい除外してようやく、「ダム」(水をせき止めるあれ)の歌だけに絞り込んだ。(21首になった。)

言葉のダムだけでなんだか満足感が大きくて失念しそうになったが、
ダムを詠み込んだ歌を少しピックアップ。


せつなさの一切を目にあらはして熊はおよぎてゐたりダム湖を
渡辺松男『牧野植物園』

太い喉が上下に動く わたしもそのダムが欲しい雨季の体に
櫻井朋子『ねむりたりない』

人去りし村にて仰ぐ上空のどこまでダムに抱かるるだらう
黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

眼底を覗かれており隠されていたわたくしのダム湖の昏さ
遠藤由季『鳥語の文法』

あまえびの手をむしるとき左胸ふかくでダムの決壊がある
笹井宏之『ひとさらい』

この世から逃れられない 山奥のダムの底には無数の標識
伊波真人「かばん」新人特集2010/12

コロラドの生態系を変へるやうな激烈なダムは寝室にはない
岡井隆『ET』

ダムに落とした一滴の悪の味がするハーブのお茶を飲み干したあと
ルビ:
悪(を)
林和清『匿名の森』

谷と谷出会うところにダムがあり地図はみな暴かれた折り紙
西藤定『蓮池譜』

 ダムというものは、かつては陸地だったところを湖にすることがあり、人がすんでいた場所が水底に沈めていることなど、かなり詩的な刺激(歌に詠んでくださいよっていう感じの)がある。

 しかし、その誘いは、「ダム」という語に含まれているといっていいぐらいに強いから、ストレートに受けて詠むのでは、素材そのままでしかない。だから、ストレートに受けずにそれとなくイメージを活かす、的な歌がたくさんあるのだろう。

 ところで、最後の歌、読んだ途とたんに「マップまっぷたつ! 」というフレーズがうかんできちゃった。ムダ事だと思ってまた笑いそうになった。 

2024年3月16日土曜日

随時更新 短歌マッチング 並べて読みたい歌

まったく別々に詠まれた2首に、

もしかして本歌取り?と気になった、
歌合せだったらいい勝負じゃんと思えたり、
時を超えて応答しているみたいだったり、
歌人の個性の違いを感じておもしろかったり、
同じ作者の作なら進化や変化を感じたり、

することがあります。

とにかく並べて読むだけで〝批評マインド〟が刺激される。
そういうセットがときどきあるので、見つけたらとりあえずここに書きとめます。

ただし、私は、
優劣には興味がない。
歌を並べて優劣を決めたいわけではない。
そこのところ、よろしくおねがいします。

▼2024/4/7
■ぴゅーんとすべる石鹸

掌を滑りタイルを打ちて己れ跳び身を隠したり固き石鹸
ルビ:掌【て】 己【おの】
奥村晃作『鴇色の足』

石鹸がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

「石鹸」を詠む歌はmyデータベースに80首ほどある。「泡」や「洗うこと」、そして「香」を詠む歌が圧倒的に多い。滑ってぴゅーんと走るところを詠むのは珍しい。
短歌は悲しいこととか深刻なこととかを詠む傾向があって、日常にあるこういう明るい出来事は歌に詠まれにくいようだ。

★剥く石鹸
ついでに、やや珍しいシチュエーションは、包み紙を剥きながら何か考える、というもの。4首あった。

アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜
穂村弘『ラインマーカーズ』

石鹸の紙を破れば或る島の或る安宿へ記憶は帰る
千種創一『千夜曳獏』

あの紅い職場に戻されたくはない十年前の石鹸を剥く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

石鹸を覆ふ薄紙破りつつ(ささやかに)きのふは消ゆるもの
田口綾子「詩客」2011年11月


なお、もともと珍しい行為(石鹸を食べるとか)を詠む歌は、少なくて当たり前だから
ここでは拾わず、別の機会に譲る。

★石鹸+心臓
もうひとつついでに、「石鹸+心臓」という取合せの歌が2首あったので書いておく。

首に掛けた紐付き石鹸弾むのを奪う心臓奪うみたいに
穂村弘『ドライ ドライ アイス』

心臓をさわってみたいあたらしい牛乳石鹸おろす夕刻
田丸まひる『ピース降る』

「石鹸+心臓」が2首あるなら、形状の類似から「たまご」に結びつける歌がけっこうあるだろう、と思ったが、それは1首しかなかった。

鳥の絵のゑがかれてゐる石鹸を使ひへらして棄つその鳥卵を
西王燦『バードランドの子守歌』

▼2024/3/16
■床屋の椅子に座った姿


理髪店の椅子に乗っている人の姿は、ちょっと独特で、シルエットにしたら何か別のものに見えそうだ。
そういうことを詠む歌はないかな、と思って探したところ(ゆきあたりばったりで探しただけですが、)以下2首を発見。

理髪師に髭そられつつうとうとと意識は妙義山の奇岩へとびぬ
ルビ:妙義山【めうぎ】
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

確かに! 
床屋の椅子に人が乗った姿は、シルエットが妙義山の奇岩(にょきにょきと大きな岩が生えている)に似ている気がします。

理髪屋の夏の白布につつまれてわたしは王のミイラであった
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

これも、ただただすごくわかる、って感じ。

★ポイントが2つ
①すごくありきたりな驚きですが、同じ床屋の椅子でも、人によって連想や見立てかたが違うもんだなあ、と感心した。
②どちらも、かすかながら厳かな連想で「死」のイメージを含んでいる。
たった2首見つけた段階で、たんなる偶然だと思いますが。
※杉崎の歌はミイラだし、渡辺のほうは直接的でなはないけれど、石といえばお墓っぽいし、にょきにょきの奇岩たちは石にされた人か、強い思いをいだく魂が石化したか、みたいな連想を促しますから。

■動物の移動

移動が当たり前の生物は多い。渡り鳥はその代表で、本能にプログラミングされているが、そうでない動物も、餌場など何かを求めて、ぞろぞろ移動することがあるようだ。
たまたま見かじったテレビで、ゾウの家族が季節で移動しているところを見たことがある。たぶん餌のためだろうけど、じっとしているのは退屈だから、という動機もあるのではなかろうか。

それはともかく、さっきの歌のついでに目に入ったこれも、おもしろいと思った。

ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び通過するとき富士透けてみゆ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

「ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び」というフレーズ。
人が雁の列を夢想しているのだろうか。でも、雁たちの夢のなかの飛行みたいにも思える。

先日、別のコーナーでとりあげたこの歌も
ちょっと共通点がありそうだ。

牛たちの立ち泳ぎのような 窓外の真夏の雲がギリシアへわたる
井辻朱美「かばん」2023・12

牛たちが立ち泳ぎしていく姿もおもしろいし、「ギリシアへわたる」という部分にもくすぐられる。そういえばギリシャ神話にはミノタウロスが出てくるなあとか、牛にしてみたら観光とか聖地巡礼とかしたくなるのではないかしら、とか。

 動物の移動には何らかの危険があるけれど(動かなくてもあるけれど)、
いつも何らかの理由・動機みたいなものを見つけては、何かを目指して移動しようとするサガというか、生きているということがイコールそれなのか、
みたいなことを感じた。

▼2024/03/06
■自分用の雲が一つ

桐咲きてわれのみに訃であるやうな雲とおもひぬひとつ浮雲
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけで、
言いたいことは特にないのですが、

ふと、
雲を詠む歌には「我」が詠み込まれやすい気がして、
(それもほぼ確信に近い感じで)
でも、念の為に調べてみたら……。

本日の闇鍋 短歌データ 127,830首
うち、「雲」という字を含む短歌 2,117首
「雲」と「我」(わたし、吾などの別表記に、僕、俺を加えた)を含む短歌は188首。
てことは、「雲」を詠む歌の8.9%に「我」が詠み込まれている。

一方、全短歌127,830首のうち「我」を含むのは15,174首。
てことは、全短歌のうち「我」は11.9%に含まれている! 
こっちのほうが多いじゃないの!!!

調べてみてよかった。くわばらくわばら。
結局、カンは、当てずっぽより多少マシ、程度のものなんですね。
どなたさまも気をつけよう。

■自分を産んだ母について

ひたすらに雪融かす肩 母よ 僕など産んでかなしくはないか
吉田隼人「早稲田短歌」43号 2014・3

母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした
伊舎堂仁『トントングラム』2014

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけですが、好対照。
このテーマの歌集めてみよう。おいおい。

▼2023/12/04
■乗せてくれない列車の拒絶感


3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって
中澤系『uta0001.txt』2004

特快はもうありません酸素ボンベわすれた人は帰ってください
山下一路『スーパーアメフラシ』2018

山下の歌、中澤の歌を意識して詠まれた可能性があります。
でもまったく偶然に、共通性のある歌が詠まれることもあるし、
あるいは、世の中の変化が必然的に歌人にこういう歌を詠ませることもある、とも思えます。
とにかく、
作者が意識しようがしまいが、偶然だろうが必然だろうが、
似た題材・似たテーマで詠まれた歌どうしは応答する。

このことが重要です。

【ついでにちょっと考察】
 乗車中の列車内の事象を詠む歌なら、一般列車も含めてたくさんありますが、「特急・特快・快速・急行」niは、「乗れない列車」の「通過待ち」ということがあります。
 乗れない特快などに通過され見送る、という物理的体感や心理体験は、どのように詠まれているか気になって、特急・特快・快速・急行のいずれかを含む歌を検索しました。
 該当歌は63首あり、内容を車内か車外かでざっと分けてみると、
(内外の区別が微妙なものもありますが)
以下のようになりました。

 ・列車の体感や視覚表現と思われる歌 22首
 ・列車の体感や視覚表現と思われる歌 31首
  ★うち「乗れない列車」を詠む歌
 ・その他(内外の区別なしor不明) 10首

 列車外に身をおいて詠む歌にも、外観を詠んだり遠景として詠んだりとさまざまあって、「乗れない列車」として拒絶的な感覚を詠む歌は少数でした。(意外でした。)
 しかし、「乗れない列車」という屈折は既に意識されており、「乗る」「乗っている」ことを詠む歌も、「乗れない」場合があることが無意識にも踏まえられている感じを受けるものがあります。

けものみちは優しくわらう三鷹駅快速電車におとなしく乗る
風野瑞人「かばん」2018・2
 「おとなしく乗る」には、かすかに、屈折した駆け引き感があります。
 列車に乗る乗らないは普通ならこちらの自由ですが、この「おとなしく乗る」は、乗せてくれない場合があること、列車側に主導権がある場合があることを踏まえての駆け引きだと思います。

あたたかき自分の髪に顔を入れ快速電車に眠り続ける
前田康子『窓の匂い』2018
 こちらの歌の「快速電車に眠り続ける」には、目的地までの長距離を乗り降りなしでまとまった時間安心して眠れる、という安心感がある思います。
 この安心感は、乗れなかった人には得られないものであって、屈折と呼ぶにはかぎりなく薄いけれど、乗れた乗れないのコントラスト感を、わずかにかすめていると思います。


▼2021/12/22
■そのとき青いものがこぼれる……


よあけぼくらのシーツのうへに真青の魚が一匹こぼれてゐたか
塚本邦雄『透明文法』1975

ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうです
東直子『青卵』2001

2022・4・17追記
青いものがこぼれる歌

「そのとき」じゃなく青いものがこぼれる歌もときどきあります。セットじゃないけど書いておきます。

銀行の窓の下なる/舗石《しきいし》の霜《しも》にこぼれし/青インクかな
石川啄木『一握の砂』

死もて師はわれを磨かむ秋天の青こぼれたるごとき水の辺
大塚寅彦『夢何有郷』2011

青きミルク卓にこぼれて妹が反戦をいう不可思議な朝
大野道夫『秋階段』1995


こういうのも。
信号としての役目を終えてからこぼれるような青、赤、黄色
伴風花 『イチゴフェア』


★赤いものがこぼれる
赤いものがこぼれたら血みたいだし、黄色いものだったら……、なんて思わなくもないので、ついでにちょっと探してみた。
セットではないけれどピックアップ。

根釧原野の霧の渦よりこぼれくる赤い鶴の頭泪のごとし
ルビ:根釧【こんせん】 頭【づ】
日高堯子(出典調査中)

草の実の赤くこぼれて原稿を夢の中では夢のように書く
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013

★黄色いものがこぼれる
 赤と同様
こころもち黄なる花粉のこぼれたる薄地のセルのなで肩のひと
北原白秋『桐の花』1913

前をゆく中年男女離れつつ添いつつこぼれくる黄のひかり
東直子『十階』

▼2021/12/20
■鳥のむくろと人体

以下2首、内容は違うんだけど。

我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す
ルビ:鳥骸【てうがい】・生【あ】
斎藤史

ねむりゆく私の上に始祖鳥の化石のかたち重ねてみたり
杉崎恒夫『パン屋のパンせ』


▼2021/12/20
■目を閉じて自らに

存在維持発電だけをするために目蓋を閉じて自分に沈む
九螺ささら『ゆめのほとり鳥』2018

眼球をうずめるように閉ざしつつ自慰をするときだけを信じる
石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』2017

▼2021/12/5

■食物連鎖の上位者

あまえびの手をむしるとき左胸ふかくでダムの決壊がある
笹井宏之『ひとさらい』2011

次々と蟹をひらいてゆく指の濡れて匂えり胸の港も
北山あさひ 『崖にて』2020


生物を食べることについて、新たな詩情が開拓されている気がする。
魚などを食物連鎖の上位者として食べる場面をときどき見かけるようになった。エビやカニは手足があるぶん、食べ方の残酷さが強まるようだ。
(鶏の唐揚げも、弱肉強食的な感覚をほんの少し暗示する傾向がある。)

▼2021/12/03

■胸の中の桜


わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ
河野裕子『桜森』1980

君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013

■洗濯機のなかでまわるもの

ドラム式洗濯機のなか布の絵本舞はせて夏をうたがはずあり
光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』

洗濯機のなかにはげしく緋の布はめぐりをり深淵のごときまひるま
真鍋美恵子『真鍋美恵子全歌集』


■「桜」と「君」

君の内部の青き桜ももろともに抱きしめにけり桜の森に
佐佐木幸綱『アニマ』

君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013

■金魚すくい

夏の夜のすべての重力受けとめて金魚すくいのポイが破れる
伊波真人『ナイトフライト』2017

飲み込んだ夢にふくれる縁日の金魚すくいの袋のように
山階基「風にあたる拾遺2015-2016」(出典調査中)

■青インキと他人

本当か嘘かはひとが決めること紙にインクはあおくにじんで
松村正直『風のおとうと』

青きインク吸ひたる紙がなまなまと机【き】にあり人はわれを妬めり
 ルビ:机【き】
真鍋美恵子

■冷蔵庫の気分

冷蔵庫はよく詠まれる題材。冷蔵庫の音などに気分を投影することがよくあります。

生み落とす氷の音をひびかせてほがらかなりき夜の冷蔵庫
三井ゆき『天蓋天涯』

春暁にほのぐらく浮く冷蔵庫唸りあげをり鶏卵を抱き
黒瀬珂瀾『空庭』2009


■冷蔵庫の卵置き場

冷蔵庫の卵に生と死を洞察するような感慨を添えるのもよく見かけます。卵の置き場が決まっていることを特に意識した歌も数ありますが、この2首をあげておきます。

はじめから孵らぬ卵の数もちて埋めむ冷蔵庫の扉のくぼみ
林和清(出典調査中)

冷蔵庫には卵のための指定席秋のコンサートが始まるらしい
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010

冷蔵庫の卵は生まれず食べられるものだがら、多く憐れむ感じで詠まれますが、杉崎の歌はその上で、むしろ「そんな卵たちだから特等席」みたいな、救いのあるイメージで捉えてあげている気がします。


■夏冬のだいこん

夏大根に家中の口しびれつつ今日終る 国歌うたはず久し
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』2012


■仰向けに寝て空を見る

不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
 ルビ:不来方【こずかた】/十五【じふご】
石川啄木 『一握の砂』

Tシャツを脱いで暮れゆく空を見て寝ころぶ レゴのかけらのように
千葉聡『微熱体』2000

もしかすると歌人なら一生に一度は詠むんじゃないか、と思えるほど好まれて詠まれているシチュエーション。それだけに自分らしさを大切に詠まれていると思います。

他にもいくつも見つけてしまったので、少しだけ書いておきます。

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる
中城ふみ子『乳房喪失』
さくらさくさくらさくさく仰向けに寝て手を空へ差し出すように
木下龍也『つむじ風、ここにあります』2013

2023・7・28

■君もしくはあなたがちょっと乱暴(植物などに対して)を働くのを見ている

ありそうで意外に少ないシチュエーションです。

ぴかぴかの顔であなたは園庭のヤブガラシさえほどいてしまう
土井礼一郎『義弟全史』

雨つぶを散らしてきみは力ある葡萄の房をひきおろしたり
加藤治郎『昏睡のパラダイス』


2024年3月6日水曜日

ミニ63 ・・・と数える

2022年3月24日

一つ二つ「と数える」短歌を探してみた。

ただ数える歌ではなく「と」が重要。

「を数える」は対象外として、「と数え」「とかぞえ」「とかぞへ」というテキストで検索した。

他のいいかたをしたものは抽出できていない。


秋の雲「ふわ」と数えることにする 一ふわ二ふわ三ふわの雲

吉川宏志『曳舟』


母を一疋二疋とかぞえやるせなしこの山毛欅の蝉かの楢の蝉

渡辺松男(出典調査中)    ※山毛欅=ぶな


きみたちも1鳩2鳩とかぞへなさい溶けてしまつてゐてもです

平井弘『遣らず』2021


人の死をひとつふたつと数えきて童の歌のななつで終わる

関野裕之『石榴を食らえ』2016


闇だろう 湯船に沈む悲鳴さえ一つ、二つと数えることは

鈴木智子『砂漠の庭師』2018


友の歯をひとつふたつとかぞへつつ白木の箸にひろふ火葬場

小熊秀雄(出典調査中)


数える歌にはおもしろいものが多いし、変わったものを数える歌もあるが、今回は「と数える」のみとした。他の数える歌も別の機会に集めてみたい。



2023年10月18日追記

【1・2と】

人間をいちまいにまいと数へをりフリーキックの撃たるる先の
大松達知『アスタリスク』

砂潜るわれが貝ならあふぎみて鯨は一羽二羽と数へむ
睦月都 短歌・2018年10月号


【ほか】

原発も棺も一基と数へゐるこの世の夜をひたに眠りぬ
飯田彩乃『リヴァーサイド』2018

一隻と数えたくなる雨の日のカラスはふいに首伸ばし喚ぶ
富田睦子『風と雲雀』2020

春ならば抱きしめていいことにする玉と数える野菜のことを
山階基『風にあたる』2019


2024年3月6日追記
【ちがうけど近い】

電柱はそっとかぞえてゆきましょう それがメッセージとなるまえに
杉山モナミ「かばん」2004・6







2024年2月21日水曜日

随時更新 ちょびコレ6

なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。
ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。


2024年2月20日 太郎と次郎

誰しもがなにかの広告塔になる 太郎は家電 治郎は菓子屋
土井礼一郎「かばん」2023年12月号

水もどり風もどりたり蛙田の太郎どぜう田の次郎やいづこ
平井弘『振りまはした花のやうに』

太郎次郎は一歩世界を変えなむか風よ風よと鯉泳ぐ空
三枝昻之(出典調査中)

太郎次郎三郎四郎泣いていたかもしれなくて山の道行く
東直子『十階』

次郎子に乳あたふれば寄りて来し太郎子ははや寝息たてをり
秋山佐和子『空に響る樹々』

ディスク・ジョッキー流れて行かん低き町 太郎の妻あり次郎の妻あり
前田透『煙樹』


2024年2月12日 指をたてる

「指を立てる」ということを詠み込んだ歌を探したところ、7首みつけた。

中指を立てる千年先からも空色の爪がよく見えるやうに
魚村晋太郎『銀耳』

望むまま世界は歪む中指を立てて眼鏡を押し上ぐるたび
光森裕樹『鈴を産むひばり』

小野さんが中指たてて風向きをはかるしぐさでじっとしている
藤田千鶴『白へ』

中指のあらん限りを立てている松のさびしき武装蜂起は
吉岡太朗『世界樹の素描』2019

杉の木を指とおもへば寒の指一本立ててゐるさみしさや
渡辺松男『時間

気の弱い奴のはずだが指立てて指に風呼ぶ今朝のあいつは
坪内稔典『豆ごはんまで』

鳶の尾の乱れぬさまを言うならば指をするどく斜めに立てよ
依田仁美『異端陣』2005

ご覧の通り7首中の4首は「中指」である。
世間では、「中指を立てる」のは「ファックサイン」であって、相手を侮辱する品のない仕草である。
短歌の中ではどうなのか。
その気で読むと、「ファックサイン」の含みもあるように見えてくる歌もある。

なお、「立てる」と書いてないけれど、次の歌の指はいかにも立っている。

たくさんの空の遠さにかこまれし人さし指の秋の灯台
杉崎恒夫『食卓の音楽』1987


2024年1月20日 万華鏡


「万華鏡」という語を含む短歌を検索してみたところ、この題材は、(今のところ)ステレオタイプなイメージが形成されていないみたいである。

 言い換えるなら、たぶんしばらくの間は、自分の発想を信じて詠めば新領域にあなたのフラッグを立てることができる可能性が高い。

 ただし、現時点では、すでに詠まれている歌はある意味とっても独自なものが多いので、偶然の類想は絶対避けたいところ。
以下の、イメージをゆさぶらずにおかない歌たちを読んでおいて損はない。


■本日のお気に入り 万華鏡と体感2首

花の破片うまれてやまぬ万華鏡のつめたい腕をつかんで生きる
井辻朱美『クラウド』2014


 万華鏡の中の美しいものを描写する歌は多いが、美を生み出し続ける万華鏡のパワーのほうを詠む歌は珍しいし、それにあやかるような表現をとっていること、それも「つめたい腕をつかんで生きる」と言ってのけている迫力は、おそらく追随をゆるさないものだと思う。
 言葉の姿構成も、生け花のようにすみずみまでしっかり意図をゆきわたらせて造形されているようだ。1字も動かせない完成度だと思う。


わたくしを万華鏡に澄ますとき一方の目は闇を見てゐる
森山緋紗「かばん」2023年12月号

 「わたくしを万華鏡に澄ます」という部分に、万華鏡とつながるような体感がある。
 この特殊な言い回しは、「『わたし』という部品をカチッとセットすることで万華鏡が完成する」というふうに、いつのまにか読者に感じとらせる。
 そして、万華鏡にセットしたとき使わないほうの目が「闇を見てゐる」というのも、「見てゐる」にあるそれとない能動性が、「気が散らぬように使わない部分の機能を停止させている」ことをそれとなく伝えてくる。
 すべての語が協力し合っている歌だと思う。

万華鏡の歌を調べているうちに、「ちょびコレ」とはいえないほど集まって、書きたいことも増えてしまったが、このままここに書いてしまおう。

■万華鏡内部の光景

夏の果て花火師たちを閉じ込めた万華鏡売る夜店をさがす
神﨑ハルミ(出典調査中)


もうこれきり動かないほどすばらしい景色を見せている万華鏡
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012

万華鏡におほき熊ん蜂閉ぢこめて見むとしたれどいまに見るなし
小池光「時のめぐりに」2004



(複眼レンズ系?)

 ※万華鏡には、内部に小さな欠片を入れるもののほか、複眼レンズを使うものがある。

万華鏡もて都市の夜みるときを曼荼羅めける極彩の満つ
大塚寅彦「詩客」2013-02-08

露店より買う万華鏡たわむれに街を破片にしてみる日暮れ
toron*『イマジナシオン』2022

ショッピング・カートに眠る子らのまなうらにバーコードの万華鏡
岡野大嗣『サイレンと犀』

覗き込む僕を模様にする君は悪夢のような万華鏡以て
Please keep me keen to kiss a knight of knowledge in a Kafkaesque Kaleidoscope.
中島裕介『Starving Stargazer』2008


(外側)

今日という日は晴れていてやさしくてどうしようもなく万華鏡の外
平井美奈子「早稲田短歌」44号



■覗く人

中腰の人々がいて口々に「はぁ」「ほぉ」漏らす万華鏡館
本多忠義『禁忌色』

たらちねの睡眠不足の母の目に吸収されてゆく万華鏡
木村友「かばん」2018/5

■その他

万華鏡みたいで人はおもしろい関わりあうと面倒だけど
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015

6月のきみの国には万華鏡とかありますか? 走れ! ありますよ。 
杉山モナミ 作者ブログ「b軟骨」2007/5

誰しもの心にひとつあるという万華鏡へと夕陽を落とす
五十子尚夏『The Moon Also Rises』

でも触れてあなたを噛んでわたくしを残す日の万華鏡のかたむき
立花開『ひかりを渡る舟』










2024年2月17日土曜日

レア鍋日記2024年 (随時更新しています)

レア鍋日記とは

こちらはたまに更新しています。

■2024年2月17日 すごろく【レア鍋賞】

わけあって「すごろく」の歌をさがしたら、以下3首しかなかった。

すごろくのように突然ふりだしに戻りたくなる日曜の夜
本多忠義『禁忌色』

振り出しにダダもこねずに回帰した双六の駒褒めてあげなきゃ
久保芳美『金襴緞子』

飴をくちにいれたまま寝て飴味のよだれをたらす すごろくしたい
橋爪志保『地上絵』

■2024年2月17日 あらま・あらまし【ワン鍋賞】

たて笛の高いドに指をあわせて「あらまあ二月あらまあ五月」
北川草子『シチュー鍋の天使』

あらましは黄色い本に書かれていたのだ オリンピックのまえに
詞書:Where is the emergency shelter?(避難場所はどこですか?)
山下一路『スーパーアメフラシ』  

「あらまし」(概略)を探すつもりで「あらま」という文字列で検索したところ、「あらまし」(であればよいのに)が7首、「あらまほし」が4首あり、「あらまし」(概略)は1首だけ、そしてオマケ的に「あらまあ」の歌が見つかりました。

■2024年2月8日 三千世界【レアじゃなかった賞

「三千世界」だなんて、現代短歌ではレアで当たり前だと思えるのだが、そのわりには詠まれている気がする。
こういうケースは「レアじゃない賞」としてここに取り上げようと思う。

先行して有名な歌などがあると、いまあまり使わない語も、短歌の世界には生き残りやすい。「三千世界」といえば良寛の

あわ雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

という、すごく迫力があって美しい歌が存在する。
そして、高杉晋作の、おそらく歴史ドラマなどで耳にして一般に知られている都々逸。

三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい

「三千世界のカラス」がこれまた印象的。
良寛の雪の白と晋作のカラスの黒は、三千世界に舞うものとして対照的であることも、無意識のうちにイメージが重ね合わさる効果もあるような気がする。

とにかく、こういう先行作品のおかげで、仏教用語である「三千世界」が、なんとなく知られており、かつ詩的なパワーをも帯びてきたのだと思う。

うなだれた花花のそばを歸るとき三千世界にただわれひとり
前川佐美雄『白鳳』

花虻はホトケノザに来てとまりたり三千世界のここがまん中
小谷博泰『河口域の精霊たち』

銀紙に歯をあつる瞬スパークす歯にあつまれる三千世界
渡辺松男『時間の神の蝸牛』


上記のなかでは渡辺松男の歌には特に驚かされる。衝撃の比喩に使うとは。
あの銀紙を噛んだときの独特の衝撃的な感覚を三千世界の存在感に例えるという、唯一無比でありながら、あの衝撃を表すならもうこの比喩にまさるものはなかろうと思えてしまう。

実は私にも「三千世界」を詠んだ歌があるけれど、「須弥山大運動会」という仏様の運動会を詠んだ連作のなかにあるので、「三千世界」という仏教用語が出てくるのは当然で、そういう意味では面白みが足りない。
休止する三千世界のすむずみに届け仏のはずむ息づかい
高柳蕗子『回文兄弟』

川柳にも、発想の近いおもしろい句があった。

三千世界にくちびるが切れた音
湊圭伍『そら耳のつづきを』


冬に荒れた唇がぴりっと裂ける。小規模で無音だが、意外な衝撃がある。

なお、短歌にも俳句にも川柳にも、より普通の取り上げ方で「三千世界」を詠む例は他にもあった。




ちょび研 歌人は「以前」が気になりがち?

 

短歌ちょびっと研究

「以前」「以後」「以来」の使用頻度


2019年の春頃に、「以前」「以後」「以来」という語の使用頻度を調べたら、短歌俳句川柳で大きな違いがあった。
あれからデータが増えたので、再度カウントしてみたところ、
あまり傾向が変わっていないことがわかった。

短歌には「以前」が多く、
俳句川柳では「以後・以来」が多い。
ジャンルの違いでこんなにあからさまな差がつくものだろうか。

ただ、俳句川柳のデータはあまり持っていないので、あまり強気では言えない。
特に川柳は、たった14000句程度しか持っていないため、精度が低い。

そこで、川柳「おかじょうき」のデータベース(74,000余収録)で検索してみたところ、
「以前」2句、「以後」11句、「以降」2句という結果だった。つまり、「以前」は少なくて「以後」が圧倒的に多い。これは確かなことのようである。

なら俳句も、というわけで、現代俳句協会のデータベースも調べてみた。
「以前」4句、「以後」45句、「以来」11句で、やっぱり「以前」はとっても少ない。
(このデータベースは総数が書いてないけれども、5万以上はあると思われる。)

伝統の定型詩の仲間なのに、どうしてでしょう。
なぜだかわからないが、なまはんかな推測はやめておこう。
少なくとも、調べてみなければわからない偏りを発見した、というだけで今はよしてしよう。