2023年8月26日土曜日

短歌による座談会4 鶴

同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 そこで、
「短歌さんたちに自発的に参加していただき、
 以下の三人半でお迎えする」
という実験的な趣向
で、この場を開設いたしました。

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない)
 ・アシスタント外見はアシカ。名前は公表されていない)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

♦ご注意

 歌自身が降臨して参加するという設定です。(作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加し、自解はしません
 上記三人半が、
歌が降臨した意味を受け止め、歌を解釈して座談会を運営する、
  という設定です

では、とざいとーざーい


■今回のお題 [鶴]


司会「ああ、なんたる暑さでしょう。

しかし、暑さにもめげず、上空には、短歌のみなさまがお集まりくださっているようです。今回のテーマは、[鶴]といたしました。」

(上空がざわめき、出番がないと思った短歌さんたちが去っていく気配。)

「鶴」には、美しくて理屈抜きで絵になるところにも惹かれます。
 どちらかといえば冬のイメージですが、だからなのか、ふと目にした鶴の画像になんとなく癒やされました。
 この暑さに、鶴はマッチするんじゃないでしょうか。」


■鶴は絵になる

司会「さて、鶴は短歌に詠まれたとき、いかにも絵になるという感じになりやすくないですか。
 鶴を詠んで、すごく絵になっているお歌はいらっしゃいませんか。」

▶真白羽を空につらねてしんしんと雪降らしこよ天の鶴群
 岡野弘彦『天の鶴群』1987

司会「早速にありがとうございます。ほんとうに、美しい動画を見るようなお歌ですね。」

アシ「鶴は日本に冬の訪れを告げる鳥。寒いシベリアなどから大群で飛来し、日本で冬を越すんだそうです。」

司会「[雪降らしこよ]はすごく絵になると思いましたが、なるほど、見た目の話だけではなくて、雪の季節を告げるという事実を述べてもいるんですね。」

▶根釧原野の霧の渦よりこぼれくる赤い鶴の頭泪のごとし
 ルビ:根釧【こんせん】 頭【づ】
 日高堯子『野の扉』 1988 

司会「こ、これはまたなんて美しい。
大群の鶴の飛来。その鶴の頭の赤が、霧の中から血の涙が湧き出て降るかのように描かれている。
これは実景の描写でしょうか。それとも心象が混じっているのでしょうか。」

アシ「結論から言って、心象だと思います。
鶴といえば代表は丹頂鶴。その名の通り、頭頂の赤は美しくて目立つ特徴です。
しかし、飛来する時に赤い涙がこぼれるように見えるほどかというと、動画をいくつか見てみたところ、頭頂の赤はそこまで目立たないようです。
遠目のせいもありますし、飛ぶときも舞い降りるときも、頭頂は天に向けているから、赤い部分は見えづらいんです。」

花子「事実かどうかじゃなくてさ、表現として、頭頂の赤が見える、と描写するのは、頭を下にしていることをそれとなく意味して、墜落を暗示してないかしら。
 つまり絶望感が付加されている。[こぼれくる]という言い方にもそれがうかがえる。」
 その一方でただならぬ美しさもあって、この美しさに釣り合う悲惨を思い浮かべたくなっちゃう。空襲とか特攻隊とか。
 --ま、あたしの空想よ。作者の意図は知らない。」

司会「ただならぬ美しさと悲壮感。
 たしかに、血の涙が降り注ぐ、というイメージから、地上に大きな災害があったのかな、と、ちょっと想像しました。」

鱶助「短歌は主体者(作者など)心情を対象物に投影して詠むことが多い。
この歌では、泪のごとく鶴がこぼれてきている。自分ひとりにとどまらず、地上の多数の悲しみを投影したのだろう。」

司会「泪の数だけ悲しみがある、ですか?」

花子「それってへんに軽くない?」

鱶助「鶴は定期的に訪問する渡り鳥。なじみの地に何らかの悲惨な状況になっていって、飛来した鶴たちが悲しんでくれている、ーーそういう慰めの要素もあるだろう。」

■鶴に同情を期待する?


アシ「そういう歌では有名なのがあります。鶴じゃなく雁だったような。えーと……。」

▶このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
 ルビ:雨夜【あまよ】
 斎藤茂吉『小園』1949

アシ「降臨ありがとうございます。
そう!! こういうふうに、地上の辛い状況を渡り鳥が悲しんでくれるんじゃないか、と期待する。そういう心理ってありますね。」

旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
 ルビ:鶴群【たづむら】
 遣唐使の母『万葉集』歌番1791

司会「わ!万葉集……奈良時代後半……。1200年以上前ですね。
そんな時空のかなたから、この座談会に聞き耳をたててくださっていたとは。ありがとうございます。」

アシ「地上のものに対する慈悲を鶴に期待した例、としておいでくださったんですね。
 旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の子を羽で守ってください、と空の鶴たちに願っている。
 遣唐使となって旅立つ息子の無事を祈る母の歌で、長歌とこの短歌とセットになってて、
万葉集の人気歌のひとつです。」

鱶助「[天の鶴群]というフレーズは、万葉集以来使われてきて、伝統的詩情をたっぷり含んでいる。
 [鶴の慈悲]という詩情は、現代にもかすかに受け継がれているのだろう。さっきの、鶴が赤い涙となってこぼれてくる、という歌にも、それが少しあるのかもしれない。」

■鶴の頭は悲しい?


司会「さて、鶴の頭の赤は目立つ特徴ですよね。
ただ、「鶴の頭が悲しい」という超有名な歌がありますよね。
それがなんだかとっても気になる歌で……。」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「ありがとうございます。そうです、この歌です。
でも、よく見たら、この歌には赤いなどとはちっとも書いてなかった……。」

アシ「この歌を含む一連は、動物園の場面で、いろいろな動物を詠んでいます。[くれなゐの鶴のあたま]が云々という歌もあり、鶴の出てこない歌にも[赤]が多く詠み込まれているので、[赤]にこだわった一連のようです。」

司会「ああ、だから、この歌に赤と書いてなくても赤い頭が思い浮かぶんですね。
 それにしても、不思議な歌です。鶴の頭を見て涙を流しているのは、いったいぜんたいなぜなのでしょう。」

アシ「一連には[くれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守【きやうじんもり】をかなしみにけり]という歌もあり、斎藤茂吉は精神科医だということが補足要素にはなりそうです。
 でも、それでもわからない要素が残るし、それこそがこの歌の価値だという気がします。」

花子「赤には痛々しさみたいな方面のイメージがあるとは思う。けど、鶴の頭の赤って、見た人が涙をながすようなもの?」

司会「それです。この歌を初めて読んだときからずっと、心ひそかに抱えている謎です。
 [わが目より涙ながれて]という他人事のような言い回しも気になるというか、ヒントかもしれないですが、とにかくみんなが名歌だといいますから、疑問は言いにくくて……。」

アシ「この歌は、なぜ悲しいのかをへたに説明をすると、矮小化してしまいそうです。だからみんな、無理に説明しないでおくんでしょうね。」

花子「この歌には何かあるとおもう。
 けど、近代の人って二言目には[かなしかりけり]とか言うじゃん。あれって軽くない? ぶっちゃけウザ、うぐぐ……。」

司会「君はひとこと多い。」(と花子の口を押さえる。)

▶腰高に頸ぶす鶴のあはれさよ紅き頭に雪すこしつけて
 ルビ:頸【うな】 紅【あか】
 ぶす=伏す?

 北原白秋『雀の卵』1921

司会「腰高に体から伸ばした首の先に赤い頭があって、そこに雪がついていて、その姿の描写とか寒さとか、繊細に描写されていますね。
 こちらの歌も[あはれさよ]と言っています。花子さんが変なことを言うから、安易に[あはれさよ]と付けたわけじゃない、という意味で降臨されたみたいですよ。」

花子「わかったわかった。その話はもう忘れて。
 で、この歌の[あはれさよ]は、寒さへの同情と美意識の混ざったような、ちゃんと納得のいく
[あはれさよ]なのよ。
 でも、さっきの歌の、涙がながれちゃうほど鶴のあたまは悲しきものを]は、そういうふうに納得させてくれない。つーまーりー、ぜーんぜん、ちがう!」

▶動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
 伊藤一彦 『月語抄』

司会「[悲しいという人もいるが、自分には、鶴は怒っているように見えるよ]
という意味あいで、来てくださったようですね。」

アシ「先発の歌に対して、後発の歌が、本歌取りや意図的な応答をする場合もありますし、作者が意図しなくても、ひとりでにそうなっていることがありますね」

司会「この鶴は、動物園にとじこめられているから怒っているのでしょうか?」

鱶助「高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩(動物園の狭い場所に閉じ込められた駝鳥を哀れんでいる)を想起しないでもない。
 しかし、この歌は、閉じ込める等でなくて、[鶴のものごしや表情などの全体に[怒り]を感じる。動物園にいくたびにその印象が強まった]と言っているように見える。。
 この歌は頭の赤に言及してないけれど、[やかん頭]という言葉もあるし、頭頂の赤は[怒り]のイメージに通じるだろう。」

アシ「ちょっと話を戻します。花子さんはさっき[何でも悲しがる]的なことを言いかけました。[かなし]は、一般に言う[悲しみ]とは限らなくて、昔から日本の詩歌の重要な情趣ですよね。」

▶奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
 猿丸大夫「小倉百人一首」(古今集では詠み人知らず)

アシ「ほら、こういう種類の情趣だと思うわけです。
 あ、でも、[声]といえば、鹿は発情期に甲高い声で鳴くことがあるんだった。
その点では鶴も、[鶴の一声]というやつで、けっこう大きい声で叫ぶらしいから、本当に悲しげに聞こえる場合もあるのかもですよねえ。
ですから、さっきの茂吉さまの歌は、悲しげに叫ぶ鶴の頭が赤いという意味合いも含むでしょうか?」

司会「なるほど。そういう意味を含むかどうかはわからないけれど、鶴の声も気になりますね。鶴の声の歌にもあとで触れましょうか。」

■血が透けてる色だって!!


アシ「脱線すみません。では頭の赤に戻って重大発表です。
 丹頂鶴の頭の赤い色は、羽毛じゃありません。
 あの赤は、皮下血管内の血液が透けて見えているんです。」

司会「えー!!」
鱶助「ほう!」
花子「ガラス蓋の鍋料理みたいね。」

▶丹頂の頭の赤は皮膚ですといふ表示ありてかなしみは来つ
 花鳥佰『しづかに逆立をする』2013

アシ「これは! まさにそのことを詠んだ歌ですね。」
鱶助「これはあきらかに、[わが目より涙ながれて]の歌を意識している歌だろう。
 鶴は頭頂に羽毛がなく赤く透けて無防備だから悲しいのかな、と。」

司会「脳内が文字通り赤裸々に透けちゃったらほんとに悲しいですね。」

■磁気レーダーを備えている


▶海わたる丹頂の頭にみちびきの地磁気影さす花のごとけむ
 小池光『廃駅』1982

司会「こ、これはまた、ぜんぜん違う着眼ですね。
ところで、地磁気って何でしたっけ?」

アシ「ざっくり言って地球により生じる磁場です。北極がN極、南極がS極。
鳥にはその地磁気が見えていて、遠距離をあやまたずに渡りができるんだそうです。」

司会「なるほど、この歌は、丹頂の頭の赤を、磁気レーダーっぽく見立ていて、そこに浮かびあがる地磁気の図を[花のごとけむ]と言っているんですね。」

花子「すごいじゃないの!鍋料理を超えたわ。」

司会「斎藤茂吉の歌の影響で、鶴の頭といえば[かなしい]って思っていましたが、こちらの歌はぜんぜん違う。
[かなし]という古来の情趣を離れ、高度な能力を備えた[たくましさ]みたいなものを見出している。かっこいいですね。」

アシ「あのー、水を差すようで申し訳ないんですが。
 さっきから、鶴は渡り鳥、と言っていますが、鶴の生態は種類によって異なり、渡りをしないこともあるそうです。
 映像などでよく目にする北海道の丹頂鶴は、なんとほとんどが北海道暮らし。道内での移動はするけれど、外国への渡りはしないそうです。」

花子「詩は必要とあらば遠慮なく事実を超えちゃう、っていうことね。」

■いつから鶴の頭が気になりだした??

アシ「なお、勅撰集のデータをざっと検索してみただけですが、」鶴の頭がどうこういう歌は、21代集の時代までは見当たらない気がします。頭の赤に触れた歌も同じです。
でも[絶対にない]と断言はできません。」

司会「じゃあ[鶴の頭]に詩情を見出したのは、近代歌人なのでしょうか?」

アシ「いえ、正直言うと、近代の前に、[近世]というよくわからない時代がありましてね。
あ、いや、わからないというのは、入手しやすいデータがないから自力ではわからない、調べにくい、という意味です。専門家ならわかるでしょう。」

▶千とせふる鶴のよはひにあやからんわれもあたまが赤うなるから
 養老館路芳

司会「おお! 
 って、えーと、こちらさまは?」

アシ「ちょ、ちょっとお待ち下さい。
 えーと、はい、こちらは、江戸時代の狂歌さまです。(汗)
 作者の養老館路芳という方は、「早よみの路芳」と称された狂歌師(1737~90)で、『狂歌言葉海』などの著書があるそうです。
 つまり、[少なくとも江戸時代の狂歌では、鶴の赤い頭は詠まれていたよ]と告げに来てくださったんですね。」

司会「はるばるのご参加ありがとうございます。
[酔っ払って頭が赤くなる自分は、千年生きるという鶴にあやかりたい]っていう歌でしょうか。飲み過ぎは体に悪いと注意されてこじつけで言い訳している。そんな場面ですね。」

アシ「江戸時代の前には戦国時代という混沌とした時代があります。
 鶴の頭を詠む例はもっと前からあったのかも。うわあ、上空がなんか混雑しすぎて怖い感じになってきましたが……。」

■ところで鶴が絵になるのは、既に絵になっていたから

司会「さてさて、[鶴を詠む歌は絵になる]から出発したんですが、横道にそれてきました。話を[絵になる]に戻しましょうか?」

アシ「ぜひ。(って私が話をそらしたかもしれませんが)[絵になる]の件では、以前からすごく気になっていることがあるんです。」

司会「ほう!」

アシ「鶴は、中国書画や日本画でときどき見かける題材です。ですから、鶴は[絵になる]というか、本当に[昔から絵になってきた]ものなのです。(いつからかははっきりしませんが。)

司会「そういえば花鳥画ってありますよね。紅梅と白鶴、みたいな絵をどこかで見たことがあるような。」

アシ「それです。
 で、短歌の鶴が[絵になる]と感じるケースには、次の二通りが有り得ると思うんです。

 ①その歌の視覚表現がすぐれていて、絵になる、と読者が感じる。
 ②どこかで見た花鳥画の既存イメージを読者に思い浮かばせる。

司会「なーるほど。」

アシ「和歌には、漢詩など中国の影響がある、とよく聞きます。しかし、いつ何がどう影響したか、まして花鳥画の鶴が和歌に反映した時期は、とうてい調べきれません。
 梅とのセットについては、二十一代集までの和歌にはどうも見当たらないので、少なくとも多くはなかったようですが、松とのセットは古くから見かけます。
 要するに、題材ごとに違うみたいで、調べきれませんから、コマカイことは軽く流してくださいね。」

花子「調べなくたって、該当する歌があれば、降臨してくださるのでは?」

司会「花子さん、そこは大人の事情ってことで了解してください。上空は混み合っていて、なかなか思うように降りてこられないんですからね。
 では、時代等にはあんまり深入りしないことにしましょう。
 そのうえで、花鳥画を思わせるような歌を、少し見てみたいですね。」

■梅と鶴 絵にかけないことを言葉が書く

春さむき梅の疎林をゆく鶴のたかくあゆみて枝をくぐらず
 中村憲吉『軽雷集』1931

司会「あ、近代のお歌ですね。
 たしかに花鳥画ふうです。本当にこういう絵があるのかどうかはわからないけれど。
 それと、[たかくあゆみて枝をくぐらず]という気品ただよう動作は、動画を見るようですね。」

花子「動く花鳥画。」

鱶助「絵にかけないことを言葉が描いている。
 たとえば[くぐる]は絵に描けるが、[くぐらず]は絵に描けない。」

▶白き羽の鶴のひとむら先づ過ぎぬ梅に夜ゆく神のおはすよ
 与謝野鉄幹『むらさき』

司会「こちらは、[白き羽の鶴のひとむら]というフレーズに少し花鳥画の雰囲気があると思えます。
 絵から出たような神々しい鶴がそばを通りすぎ、続いて神様も過ぎる気配がする。--そういうものたちとすれ違いながら散歩しているような……、思いうかべるとすごく不思議というか素敵というか、ものすごく風流でファンタジックな散歩ですね。」

花子「ぜいたくに風流しちゃってるー。風流にそぞろ歩くすてきなデートかもよ。
[犬も歩けば棒に当たる]ぐらい風流なものにい出会えそう。
与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」に通じる感じ。」

■言葉で描く〈赤白黒〉の配色


▶紅梅にみぞれ雪降りてゐたりしが苑のなか丹頂の鶴にも降れる
 ルビ:苑【その】
 前川佐美雄『捜神』1964

司会「絵になる歌は配色がきれいだと感じます。
 丹頂鶴は赤白黒。そこに[雪][紅梅]。鶴の美しい配色が背景に溶けこみますよね。」

花子「目で見る赤白黒もきれいだけど、言葉から思い浮かべる赤白黒には、目で見る以上にきれいだったりしない?」

アシ「赤白黒って、認識上で、何かベーシックな取り合わせ、だったりするでしょうか。
例えば白雪姫は、王妃が『雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように黒い髪をした子がほしいわ』と望んで生まれたんですよね。」

鱶助「実は、鶴と関係なくても赤白黒の配色のものを詠んだ歌は名歌になりやすい気がしていて、いま研究中。ここでは発表できないが。」

司会「では、今日は[赤白黒の配色はとにかく美しい]ってことで先へ進みましょう。
で、この歌は、[丹頂]の赤、[紅梅]の赤が、[みぞれ雪]のなかでフェイドアウトしながら幽かに見えているっていう、言葉の動画みたいな面もありますよね。」

鱶助「それと、生き物がそこにいてフェイドアウトしていく、という意味も加わる。
雪は、紅梅の赤も、そこにいる鶴の姿も、等しくそっとかき消していく。
[丹頂の鶴にも降れる]は、[この雪景色のなかに、生き物の鶴もいるんだよ]とそれとなくワンプッシュしている。
そう意識したとたん、生き物の体温のフェイドアウトも少し感じられる。」

司会「なるほど、体温。[みぞれ雪]は普通の雪より寒そうだし、色も体温もフェイドアウトって儚げな風情ですね。」

■松と鶴


アシ「あのう、鶴の絵といえば、花札の一月札など、[松と白鶴]の組み合わせも定番のひとつじゃないでしょうか。」

▶妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
 聖武天皇『万葉集』歌番1030

(待ってましたとばかりに降臨。)

司会「なんと!聖武天皇の御歌さまであらせられますか?」

アシ「万葉集の鶴の歌には、松とのセットがけっこうありそうです。
(カウントしていませんが、ざっと見ていくつか目に入りました。)」

鱶助「こちらの歌、メインは[妹に恋ひ](あの子が恋しくなって)という素朴な心情である。その思いにマッチする情景として、松原に鶴という美しくて絵になる情景を持ち出しているのであって、松と鶴は素敵でおしゃれな表現だったかもしれないが、花鳥画という感じで描いている雰囲気ではない。」

花子「鶴と松なんて、すっごく古くさ……うぐぐ。」
(司会が花子の口を押さえている)

アシ「松と鶴というと、現代では長寿のお祝いを連想しますが、聖武天皇といえば奈良時代。なんたって西暦が三桁。
 当時はきっと、新鮮で素敵な表現だったと思いますよ。」


■動く花鳥画

香青なる松の末葉に白妙の羽うちつけて鶴舞ひめぐる
 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』1878

司会「あ、橘曙覧さんのお歌。曙覧さんは近世の終わり頃の歌人ですね。
 さっきの聖武天皇のお歌から約千年を経て、こちらはいかにも松と鶴のめでたい図です。
 襖絵とか緞帳とか……、昔の結婚式の引出物のお茶碗でも見た気がします。」

鱶助「しかし、そういったおめでたい絵を、ただ描写しただけの歌ではない。
 [羽うちつけて鶴舞ひめぐる]という表現には、力強さと躍動感がある。
 つまり、[動く花鳥画]になっていると思う。」

司会「芸術作品を別の芸術ジャンルの表現で描写する場合、そういった何らかのプラスアルファが必要でしょうね。」

▶日盛りの光みなぎり松の梢の鶴の行ひけざやかに見ゆ
 木下利玄『紅玉』1919

司会「こちらの歌でも、[鶴の行ひけざやかに見ゆ]がひじょうに生き生きしていますね。
 一つ前の歌は、襖絵か屏風絵かを見てみごとさに感動しているような感じがしましたが、こちらは、そういう定番の絵柄でありながら、実景を双眼鏡でみているみたいな口ぶりで描いて臨場感を出していませんか。
 定番の絵をリフレッシュしてみせたんでしょうか。
 それとも、これってまさか実景だったりします?」

アシ「どうでしょうね。タンチョウは江戸時代までは日本各地で見られたそうですが、明治時代には激減したそうですよ。
 この歌を含む歌集は大正8年の出版ですから、もしかしたら、たまには見られたのかもしれません。あるいは、作者が子供のときに見たとか。」

鱶助「実景を見たかどうかは関係ない。
 この歌は屏風絵的なものを意識していることは確かであり、絵の鶴が動き出して実景になるような描き方をしている。
 つまり、実態を離れて絵として定番化したイメージに、臨場感ある動きをさせている。
 しかし、それをリフレッシュと言っていいかどうか……。」

花子「リフレッシュ……。でも、ナマに戻すのではない感じ。
人形に紐をつけて動かすような、次の段階への新たな変化ではあるけど。

▶夏掛けに鶴乱れ飛ぶあかつきのいんふるえんざは外国の風邪
 穂村弘『回転ドアは、順番に』

司会「むむ、これは、えー、どう受け止めましょう?」

花子「あのさー、いま動く絵の話をしてるよね。
 で、この鶴、動いてると思わない?」

司会「え、動いてますか?」

花子「インフルエンザで高熱で寝てたら、布団の図柄の鶴たちが乱れ飛び始めちゃった、みたいな。」

司会「ふうむ。」

花子「布団の布地はけっこう和柄が多くて、全体に図柄を繰り返して散りばめる感じよね。この夏掛けには、小さい鶴がいっぱい飛んでるんじゃないかしら
 で、さっき定番]っていう話が出たけど、布団の柄ともなれば、定番化、図案化・記号化のレベルでしょ。
 それでね、ワザアリなのは、[鶴が乱れ飛ぶ]と[いんふるえんざ]の取り合わせじゃないかと思う。」

鱶助「なるほど、[乱れ飛ぶ]は、鶴の表現として常套的すぎて、もはや臨場感を添えられそうもないフレーズだ。
 ところが、[インフルエンザのせいで図柄の鶴たちが乱れ飛びはじめちゃった]という使い方なら、熱に浮かされた実感の叙述だから、ある意味、言葉としてややナマの状態によみがえる。
 これは興味深い歌だ。言葉やイメージに対する根源的な批評性を備えた愛を感じる。」

花子「すごいわ。干し椎茸は水で戻す。ひからびた言葉は実感で戻す。

司会「(あんたたち、またなんか面倒なことを言ってるな。)
 じゃあ、[外国の風邪]っていうのは、どういう着地ですかね?」

鱶助「和柄の鶴を外国の風邪(風とかけてあり)が吹き乱している、という含みがあって、これも視覚的によく出来ている。
 なお、余計な深読みになるが、高熱状態の思考ですよ、という冗談めかした演出は、批評性の照れ隠しみたいなものではないだろうか。」

司会「なんで批評性を照れるんですか? さっぱりわかりませんけど。」

鱶助「批評に照れはデフォルトである。」

司会「ご勝手に。」

■夜の鶴は子煩悩


アシ「あのー、話を替えていいですか。
 古典和歌の定番モチーフのひとつに[夜の鶴=子を思う]というのがあるそうです。
 聞きかじった情報ですが、それは、白居易の『五絃弾(ごげんたん)』という詩のこのフレーズから来ているんだそうです。
   夜鶴憶子籠中鳴
    〈夜鶴(やかく)子を憶(おも)ひて籠(こ)の中(うち)に鳴く〉」

司会「子を思うのは、子育てをする動物なら普通のことでは? 鶴にかぎらず。」

アシ「そうですが、詩歌の世界では、白居易の詩を発端に、ことさらに鶴の子育てを詠むようになったらしいです。子を思う歌といえば、他の動物でなく鶴を引き合いに出す。そういう約束事になる。--詩歌の世界には、そういう現象がありますよね。」

司会「あー、そういうことですね。」

▶夜の鶴都の内にこめられて 子をこひつゝもなき明かすかな
 高階貴子
(通称、高内侍。儀同三司母とも)『詞花和歌集』 歌番340

アシ「このお歌、籠の夜鶴が鳴くように私も都から出られず我が子を思って泣き明かす、っていう悲しい内容です。」

司会「どういった事情で?」

アシ「作者は中関白藤原道隆の奥様。
 息子の伊周さんは道長さんとの政争に破れ、左遷されて明石に行っていた。母である貴子さんはそれを嘆いているのです。
伊周さんは翌年都に戻れることになりました。が、そのときにはもう彼女は亡くなっていたんですって。」

司会「それはまたお気の毒に。」

鱶助「[都]の[こ]と[籠]、そして[明かす]が[明石]にかけてある。心情表現にも技巧をこらす時代の歌だ。
 こういうふうに鶴に託して何かを詠む例はさぞや多いことだろう。」

アシ「うわー、なんか上空が暗くなった。
 千年以上いろいろ託されて詠まれた鶴の和歌のみなさんが、われもわれもと、すごい数で旋回してます。一気に降りてきちゃったら大変なことに……。」

司会「こ、古典和歌のみなさま、鶴と子の話題はここでおしまい。申し訳ありません。
それと、この先はなるべく、近現代の歌に絞らせていただきたく……。」

(しかし、上空の気配が収まらない。あきらめきれないように、無音のブーイングが渦巻いている。)

■鶴の声

アシ(声を落として目配せ)「いきなり古典をやめてしまわず、やんわりテーマに切り替えて絞込めば、対象が減りますよ。そこからやんわり近現代へと絞り込みましょうか。」

(司会--うんうんと頷く。)


アシ「えー、話変わって、[鶴が鳴く]っていう歌、近現代には少ないみたいですが、『万葉集』時代から、鶴が鳴くということを詠む歌があります。さっきの聖武天皇のお歌、
妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
も該当しますね。」

▶若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る
 山部赤人『万葉集』歌番919

司会「おお、山部赤人さんのお歌。こちらも、ご先祖様感がすごいです。

なるほど、何かの故事に基づくとか、いきさつがあるんでしょうが、古典の調べものは時間がかかりますから、そこは考えないこととしますね。
で、実のところ、鶴って鳴きながら渡るんでしょうか?」

アシ「ネットで軽く調べただけですが、飛びながら鳴くようです。つがいの相手と鳴き交わしながら飛ぶこともあるそうです。」

司会「では、[鳴き渡る]というフレーズのニュアンスは、仲間などへの情愛を感じ取っているわけですね。」

アシ「きっとそうですね。聖武天皇の歌も[妹(いも)]を思う歌でした。」

司会「近現代でも[鶴の声]って読まれていますか。」

(上空に動きがある。タメイキがいっぱい降ってくるが、待ってましたという気配もある。)

涯しなき草生の旅をかさねきて倦みし心に鶴鳴きわたる
 ルビ:倦【う たづ
 岡野弘彦『石打てば石』1976

司会「こちらは現代の歌ですね。ただし、雰囲気は和歌を踏襲しているようです。
 [旅]といえば人の一生をさすことがありますが、この歌のいう[旅]には、ふつうの一生に、和歌の言葉の世界を旅したイメージが添ってもいる気がします。--人は死ぬけれど、歌は死なない。そこに不老の鶴のイメージが重なっている。
 鶴の声の人恋しさも、個人としての人恋しさに加えて、時空を超えた和歌の世界における人恋しさなのかもしれませんね。」

黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声
 江田浩司『メランコリック・エンブリオ』

司会「あ、こちらには全く古典っぽさがありませんね。山部赤人さんの歌と同じく、鶴が海を鳴き渡る光景なのに。
 古典と近現代。同じことを詠んでも違う。その雰囲気を分ける要素って何なのでしょうね。
 いや、気になりますが、それはいま論じきれない。また今度にしましょう。」

▶今さっき鶴が鳴いたと告げられて夢のつづきのように抱かれる
 大田美和『きらい』

司会「ぎょ! こ、これは斬新。
 声だけ。いや、その声も間接的に伝えられるのみ。
 なのに、[鶴]と書いてあるだけで、鶴の姿がなくて、でも、なんだかゴージャスな美しい気配はあるような。」

▶鶴の息遠くまで飛ぶ明け方の夢のなかにはわたくしひとり
 加藤治郎『しんきろう』

司会「夢つながり。こちらは声ですらない。[息]だけでも[鳴き渡る]感じですね。鶴の存在感の強さに驚かされます。
孤独感は、さっきの[涯しなき草生の旅を]の歌に通じるものが感じられて、ひそかに古典を踏襲しているのかもしれません。」

昔日本に幻音ありきいつせいに鶴は楽音のごとく立ちにき
 葛原妙子『鷹の井戸』1977

司会「[幻音]! この歌では、[鳴く]とも[息]とも言っていない。
[鶴は楽音のごとく立ちにき]とはすてきですね。
これは独創的でありつつ、でも、伝統的なものの発展形でもあるわけですね。

……って、あれれ?
さっきから、私ばっかりしゃべっていますね。
みなさん、お疲れですか。勝手に休憩しちゃってます?」

鱶助「私はちょっと充電。(君のタフさにはAIのわたしも驚かされる。)
 充電しながら聞いていた。
 この歌は前から知っていたが、[鶴が鳴く]というテーマで読み比べたおかげで、この歌の[幻音]が、ただの個人的な独自イメージにとどまらないものだとわかった。
 歴史深くに根ざす重要なイメージは、歌人というニンゲンを使って発展することがある。ニンゲン(作者)が意図してもしなくても。」

■鶴の頸


花子「ちょっと脱線しちゃうかなあ。
 昔は知らないけど、現代の短歌には[鶴の首]を詠む歌がよくあると思わない? それがたいていか弱そうに描かれてる。
 で、首の脆弱性も鶴のイメージのひとつだと思うの。この機会に
ちょっとは触れておくべきじゃないかな。」

司会「そういえば、私も、鶴の首は私もちょっと気にはなっていました。
 実は、[鶴の頭が悲しい]という話のとき、ちらっと[首じゃなくて頭なのか]と気になったんですよ。細い首なら悲しいのもわかるけど、って。」

▶はろばろと空ゆく鶴の細き首あはれいづくに降りむとすらむ
 岡野弘彦『天の鶴群』

司会「この[あはれ]は、遠距離を飛ぶのは大変という意味でしょうか。あの細長い首をだらんとせずに飛び続けるなんて。
 え? わたしなんか間の抜けた感想をいってしまいましたか。」

花子「渡り鳥は長旅ができるよう、すごい筋肉を備えているんでしょうね。
 短歌は同情的に[あはれ]って詠むことが多いけど、鶴は
[あっぱれ]と言ってほしいかも。

鱶助「鶴は短歌を読まない。作者もそれは知っている。こうした詩情はニンゲンのものであり、対象の(鶴の)意見は求めていない。」

アシ「そうだけど、それを言ったらみもふたも……。」

花子「相手が読まないからって、好き放題にネクラなことばっか書いていいの? 
 悪意はなくとも
ニンゲンは、他の生き物への敬意を根っから欠いてるから、その口から言葉の出る綺麗事の同情は、植物の私から見たら〝あだ花〟ってやつよ。

司会「それは言い過ぎだし、短歌鑑賞そのものができなくなりますよ。
 とにかく次にいきましょう次に。」

蹴ろくろのまわりて秋陽のうずのなか壺の鶴首ふいに細るも
 ルビ:蹴【け】
 蹴ろくろ=足で蹴って回転運動を起こす方式のろくろ

 玉井清弘 『久露』

司会「壺を作っているところですね。口が鶴の首のように細長い壺。
 ふいに細くなることに季節感を見出しているのはめずらしい捉え方。繊細な指の加減とか、心の集中とか、いろいろなことが読み取れて素敵です。」

アシ「細い部分だから、ちょっとした力の加減を誤れば、くにゃくにゃってなってしまいそうに危ういですね。」

誰もみな悪くないのというひとも鶴の首なら折ったはずです
 藤本玲未 『オーロラのお針子』

司会「え? あ、折り鶴でしょうね、これは。」

花子「誰も悪人ではない、的なことを言うような善人も、折り鶴の首を折るというかすかな暴力には自ら気づかずに実行するだろう、という意味かしらね。」

司会「結句の「はずです」という、主張のような弁明のような抗弁のような口調が気になります。」

花子「自分が善人であることに安心している人にも危険因子はあるのよ、ってことさらに言わなきゃならないシチュエーションを描いていると思うわよ。」
(棘で司会をつんつんする。)

司会「えーと、それはもしかして、私を皮肉ってます?」

花子「やだー、シカちゃんたら。その通りよー。笑」

春の鶴の首打ちかはす鈍き音こころ死ねよとひたすらに聴く
 米川千嘉子『夏空の櫂』1988

司会「こ、これはまた。さっきの[声]や[音]の話にも関係あるのかどうか、でも、はるかに恐ろしいです。
 [首]は細くて弱そうだから逆に、暴力とか残虐とか、そういった方面の連想を引き寄せるんでしょうか。」

アシ「その意味では[春]も、普通は新しい命の芽生える明るい季節です。だから真逆の[死]にも連想が働くんじゃないでしょうか。」

▶春はもうやさしく 鶴もこまやかに折りて最後に頸そっとねじり
 石井浩かばん」新人特集号2010・12

司会「やはり春と鶴の首には残酷さへの連想脈があるようですね。
[もうやさしく]が怖い。きびしい冬のあとに来る春が、繊細に仕上げをするみたいな口ぶりです。」

春の日はしずかなりけりつぎつぎと鰌は鶴の喉くだりゆく
 山崎方代『右左口』

司会「こちらの残酷はちょっと違いますね。鶴でなく鶴に飲まれる魚にとっての残酷。鶴の細長い首が、テーマパークの絶叫アトラクションみたいです。」

遠くから飛び来て遠く去るものの一つか恋も首細き鶴も
 松平盟子『うさはらし』


司会「こちらの歌は、残酷というか、喪失の悲しみでしょうか。
 恋は渡り鳥みたいにいっとき訪れて去ってしまうものだ、という意味で、[首細き鶴=恋]ですよね。細い首は、恋における繊細な心の紆余曲折を指していると思われます。
 [めくるめく恋]なら、さっきの歌のアトラクションにも少し重なるような……。」

■古典的美意識をはなれる

司会「あれ? さっきからまた私だけしゃべってますよね。みなさんお疲れですか?
 花鳥画的な美意識を含む歌とそうでない歌とがありますね。それと、古典ふうの詩情を継承する歌とそうでない歌。
 いちど定番化したイメージをどのように離れるのか。過渡的な歌はあるのかどうか。そういったことを知りたいんですが。」

▶秋晴れに野を飛びわたる鶴むらのいつまでも見ゆる空のさやけさ
 正岡子規

司会「近代のはじめの頃のお歌ですね。
 [飛びわたる]鶴を見るシチュエーションは古典の歌に通じますね。でも、松や梅がない。」

鱶助「古典に通じるシチュエーションだが、野原で見かけたそのへんの鳥みたいに描写している。古典和歌的情景のワンマイル化とでも言うべきか。」

一輪とよぶべく立てる鶴にして夕闇の中に莟のごとし 
 佐佐木幸綱『金色の獅子』

司会「[一輪とよぶべく立てる]は日本画ふうな鶴の立ち姿を思わせますが、花鳥画ではないですね。」

花子「花鳥画の花と鳥が一体化しちゃったみたい。花鳥画の脱却、というか内包しちゃった、消化しちゃったみたいな。」

▶ゆくりなく枯野へと鶴まひおりて風景が鶴一羽へちぢむ
 渡辺松男『きなげつの魚』2014

司会「こ、これもまた斬新で美しい。
 この鶴一羽が風景の主役。鶴めがけて収束してくる、という迫力ある存在感。どうしようもなく美しくて絵になっちゃってますね。」

アシ「[風景がちぢむ]のところは、劇画みたいなコマカイ線が思い浮かびますね。
 これはもう、歌を読む私の側に花鳥画の残像があるだけかもしれませんが、花鳥画の鶴を違う理論と画材で描きなおしたか、っていうぐらいのかすかな痕跡を感じます。」

■美意識の飛び火

▶しののめのさくらが描く円環のなかを一羽の鶴の身が燃えのぼる
 ルビ:円環【わ】
 永井陽子
『樟の木のうた』

司会「花鳥画では梅と鶴がありましたが、桜と鶴の組み合わせは、あんまり見かけない気がしますが、どうなんでしょ。
それに鶴が燃えるっていうのに、なぜかあまり残酷さを感じない。
私は、不老不死のイメージから不死鳥のイメージへと、連想脈が開通しちゃいました。」

鱶助「言われてみれば、鶴には不老不死のイメージがあるのに、なぜいままで不死鳥のイメージと繋がっていなかったのだろう。」

花子「ワタシ的には、この歌を読んでも、[]と[不死鳥]が結びつかないなあ。
不老不死の鶴]と[不死鳥]のイメージは、理屈の上では似てるけど、なんだが異質な気がする。
つまり、この歌の鶴は
[不死鳥]として燃えてるんではない気がするのよ。

鱶助「鶴に限らず[美しく燃えるもの]を詠む歌は案外多い。人々が意識していないだけで、[何かが美しく燃える]は、けっこう人気のモチーフなのだ。
(その話もいつか機会があればしたいが)で、そのモチーフが鶴にも飛び火してきたのではないだろうか。[美意識]はしばしばこういうパフォーマンスをする。」

花子「なんにしても、焼き鳥のイメージじゃなくて良かったわね。」

■言葉やイメージになった鶴の終末ケア


夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
 塚本邦雄『閑雅空間』1977

鱶助「[ことばとはいのちを思ひ出づるよすが]とは、[ことば]がもとは[実在のもの]だったということだろう。
 [夢の沖に鶴立ちまよふ]は、鶴舞う不老不死の[めでたい]イメージを遠景に見るステージを思わせる。それはつまり〝いのちの劇場〟ではないだろうか。」

司会「劇場といえば、こどものとき、舞台の緞帳に描かれた鶴を見たことがありますよ。」

▶今宵、月にシルバーベッドの影が見え老いたる鶴がひとりづつ臥す
 日高堯子 『振りむく人』2014

司会「シルバーベッドって何でしょう。」

鱶助「月光はよく銀色と言われるし、銀色と言えばシルバー、シルバーといえばシルバーシートなど高齢者関連に冠する語。
 つまり、この歌は、千年生きるという長命の鶴(のイメージ)をねぎらい、看取るためのベッドが月にある、ということを詠んでいると思われる。」

花子「言葉もターミナルケアか。」

▶千年のよはひをかさねて松も青しすでにいつしか鶴飼ひにける
 前川佐美雄『大和』

司会「あ、わかった。こちらの歌は、松に鶴はつきものということをもはや常識として、松が鶴を飼う、と言っている。レトリックですね。」

アシ「鮫が一人前に大きくなるとパイロットフィッシュを従える。そういうノリで、松も千年で一人前の[老松]になって鶴を飼う、みたいな。
定番化していることを更に覚めて受け止めている。」

花子「鶴の飼育! [シニアにイチオシの趣味]っていう題詠ならイチオシよ。」

司会「し!」

■〝はきだめに鶴〟効果


司会「[はきだめに鶴]という言葉がありますよね。それもなんだか美しい。
 花鳥画は背景も美しいわけですが、あえて背景が美しくない場所に鶴を置いて絵にしちゃう、っていうのもありだったりしませんか?」

▶日曜の工事現場はさみしくて大きな鶴と空を見ている
 吉野裕之『空間和音』

司会「おお! これはまさしく。
 背景は工事現場。工事のクレーンは鶴という意味で(crane=鶴)、そこから発想した歌でしょう。工事現場のクレーンが巨大な鶴に差し替わっている。絵としておもしろいです。」

花子「でもさ、他のものでも巨大化して場違いなところに置けば、絵になっちゃうんじゃないかな?
 鶴が特別[絵になる]のかどうか、その点をちゃんとあばいちゃってね。」

司会「あばいちゃって、ってなんだかなあ。
 でも確かに、この絵の鶴をダチョウに置き換えても、絵にはなると思えます。生き物ならみんなキングコングっぽく絵になりそうですね。
 いや、生き物じゃなくてもいい。例えばバナナでも、ボールペンでも、何であれ場違いなものを巨大化してここに置けば、なんかシュールな絵にはなるでしょう。」

アシ「でも、鶴は巨大化しても、キングコング的モンスターとは違うと思いませんか。シュールではあるけれど、他の物にはない高貴さが絵を支配すると思います。
 花鳥画に美しく描かれてきた経歴と、不老不死の神聖なイメージは、工事現場にすごくミスマッチ。[工事現場に鶴]は[はきだめに鶴]そのものですよ。」

▶夕暮れの皮膚科に鶴が舞ひ降りてピアスをしてといひにけるかも
 池田はるみ『ガーゼ』

司会「むむむ、これはまたシュールな。
 夕暮れの白昼夢っていう色合いなど、とても美しいし、皮膚科・鶴・ピアスという取り合わせのでたらめ感もなんだかおもしろい……、いや、どう鑑賞したらいいのか。」

アシ「蕁麻疹の痒みで白昼夢を見ちゃったとか? いや、それは無理な解釈だし、鶴にはピアスをつけるような耳がないし……。」

花子「ブブーー! 
 この白昼夢みたいな歌は、実はまともな理由があるにちがいないわ。
 
皮膚科の待合に居る人は、命に別状はないけど何か辛い症状(痛みやカイカイ)で鬱屈してるのが普通。そこへピアス用の穴あけに来た人(若い女性でしょうね)がいたら?
 ほら、皮膚科ならピアス用に耳に穴をあけに来る人もいるでしょ。
雰囲気が明るくて、服装も皮膚の露出が多いとか、とにかくすごく場違いな人。
 その
違和感をこういうふうに捉えて詠んだ、っていう解釈に一票。」

司会「そう言われたら、もうそうとしか……。
 その解釈ならこの歌も[はきだめに鶴]系になりますね。
 [はきだめに鶴]系はだいたいシュールな感じになるようですね。」

▶荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし
 小島ゆかり憂春』

司会「こちらも、なんかすごくシュールな絵になっちゃってますよね。
 梅雨の終わりの豪雨の夜、バスから降りる[わたし]に鶴の嘴が??
 けっこう衝撃的な絵です。夢に見そう……。
 だけど[はきだめに鶴]っていうわけではなさそうな……。」

鱶助「絵として面白いだけではなく、この歌は理が通ってもいる。鶴の嘴は[ツルハシ]の語源だ。どしゃ降り→災害という連想脈があるだろう……、」

司会「え、さ、災害?」

鱶助「いや、バスが動いてるから、実際は災害っていうほどではないのだろう。
しかし、豪雨のなかでバスを降りるとなれば、誰しも〝それなりの覚悟〟をもつだろう。
その〝それなりの覚悟〟のことを、こういうふうに表現しているのではなかろうか。
だから、[はきだめに鶴]という状況ではない。」

司会「災害に立ち向かうぐらいの覚悟で豪雨の中へ出ていく。その覚悟の心象が[鶴のくちばし]だと……。
 そう言われたら、そう思えてきてしまいましたが。
 結局のところ、[はきだめに鶴]に限らず、鶴をコラージュしちゃえば、勝手にシュールな絵になっちゃう、ってことですかね。」

アシ「それはちょっと決めつけすぎ……。司会さん、だいぶお疲れですね。」

■鶴を詠んで絵にならない歌は?


司会「[鶴]を詠めば絵になりやすい。シュールな絵になることもある、ということですね。
 では最後の最後、鶴を詠んで絵にならない歌、なんてあるでしょうか。
 絵にならないという自信のあるお歌さん、いらっしゃいませんか?」

(しーん)

司会「なるほどー。いませんよねー。
 ではそろそろ、このへんで今回は終わりにします。
 みなさま、ごきげ……」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「え、 ええ?」

花子「言われてみればこの歌は、鶴を詠んでいる割には、あんまり[絵になる]っていう感じの満足感がないわね……。」

アシ「美意識が積極的に働く感じはしません。--でも美しくなくはない。
 頭の赤い鶴と並んで泣いている人、という図もおもしろいし、〝シュールな絵〟と言って言えなくはない、と思えますが、どうなんでしょう?」

司会「さっきの、[荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし]は、シュールな絵になると思いました。こちらも同じぐらいシュールな絵として楽しめます。両方とも読後に[謎]が残るところも共通してますし。」

鱶助「いやいや、微妙に違う。
[荒梅雨]の歌は、[絵になる]というか、[わたくしにある鶴のくちばし]という結句で視覚的にぎょっとさせる構造になっている。視覚に訴えるパフォーマンス性が強く、[謎]も、その視覚パフォーマンスから直接生じている。
 それに比べると、こちらの[わが目より]の歌は、鶴の頭や涙という絵になる可能性を帯びた具象的視覚情報を含むにもかかわらず、[悲しきものを]という、視覚情報がどう関わるのかわからない結句に至り、[この悲しさは何だろう]と探らせ続ける。
 つまり、この歌は絵になって読者の気が済んだらだいなしになる。この[絵にならない]は、単にならないのではなくて、あえての手法である。」

花子「やっぱ、へんな歌だー。うぐっ。」


司会「そ、そうなのかな。(わかった気がしないけど)いろんな意味で特別な歌だったんですね。
 この歌については、これだという解釈ができないままでしたが、最後の最後にこの特別さが判明しましたね。いや判明というほどわかっていないけれど、……。」

アシ「この歌の特別さについては、まだ解明が必要な気がします。」

司会「期限のない宿題といたします。
 では、あらためて、みなさま、さようなら。」





  *  *  *

アシ「個人的には、[折り鶴]の歌にもっともっと触れたかったんです。
今回ちょっと出てきただけですが、[折り鶴]には[鶴]と違う独自な面もあると思うんです。」

司会「[折り鶴]ですか。近いうちにやりたいですね。」