2022年1月10日月曜日

青015 若き死の理不尽なれば悲歌となりこの卵殻の鈍き蒼白 藤原龍一郎

若き死の理不尽なれば悲歌となりこの卵殻の鈍き蒼白
 藤原龍一郎 『ジャダ』2009年



この歌を読んで末尾の「蒼白」に至るとき、眼光を失った死者の瞳の色のようなものが目に浮かぶとしたら、もろもろの淡い状況証拠が指し示しているからである。


状況証拠1 一般的な鶏卵は白いが、この歌では「蒼白」と言っている。
状況証拠2 「若き死」や「卵殻」(命が脱いだ殻)という生死の関連語句たちがひしめいている。
状況証拠3 卵の丸い形状が眼球に通じる。

これらの淡い状況証拠が、この「蒼白」を、眼光を失った死者の瞳を思わせるようにプッシュしている。

状況証拠ばっかりで鑑賞を組み立てると「深読み」になるが、そういう深読みはしてみる勝ちがある。

■〈青〉+眼

なお、〈青〉の歌には、青い目 、青い瞳、青いまなざしを詠む歌がよくある。

「目」などと組み合わさった〈青〉のイメージには、
①〔青い目≒幼い〕(子猫の目が青いことなどから、弱々しく幼い感じに通じる)
②〔青い目≒衰弱〕(元気なうちは目が黒く、死が近づいて眼光が弱まるイメージ)
があり、それら①幼さと②死のイメージが混ざった結果か、
③〔青い目≒生死や時間を超越〕
というイメージにも転じる可能性がある。

水に沈む羊のあをきまなざしよ散るな まだ、まだ水面ぢやない
山田航 『水に沈む羊』2016

 シャガールの青青青瞳孔を見開いたまま一生を見た 
天道なお 『NR』2013

〔青い目≒幼い〕〔青い目≒衰弱〕〔青い目≒生死や時間を超越〕というイメージモチーフは、明確な共通認識されるところには至らないが、おぼろげには広く了解され得る段階に来ている。
掲出歌のように「目」は出てこない歌でも、若さや死といった要素が状況証拠となって、卵殻が目に似た青っぽいものという役割をこっそり果たさせるのは、イメージがおぼろげに共有される、そのぎりぎりのところで詩を成立させることである。


青014 コップ越しに青澄む世界亡き母の入れ歯洗浄剤を落とせば 大野道夫

生きる意欲から解放する!


コップ越しに青澄む世界亡き母の入れ歯洗浄剤を落とせば
 大野道夫 『秋意』2015年

〈青〉のイメージの裾野は広いが、そのなかのかなりベーシックなイメージとして〔鎮静〕というのがあると思う。この「青澄む世界」の〈青〉はそこに分類できそうだ。「亡き母」に安らぎを与えてくれる。

「入れ歯」は生きる意欲を具現化したものだ。
(食事という生命維持の基本を維持するために身体の老化に抵抗するから。)

一方、死は、命のあらゆる重荷をおろすことである。
この洗浄剤の〈青〉は、入れ歯から生きる意欲を洗浄して、生きるという重荷から解放している。


これが〈父〉だったら、癒やされ方の印象が違ってくるのかどうか。

あまり違わないような気もするけれど、〈青〉は短歌のなかでなんとなく「父系」のイメージカラーである。(誰も申し合わせていないが結果としてそうなっている。)
そのため、これはもし〈父〉だったら、〈父〉という役目からの解放だけでなく、〈父〉として純化されるイメージもかすかに交じる気がする。




2022年1月9日日曜日

青016  赤青の蛇口をまわし冬の夜の湯をつくりおり古きホテルに 吉川宏志

「赤」「青」は対極のような位置づけで用いられることもあるが、両方あることで「完全」を表す場合もある。

 この歌には、その特性がうまく生かされていると思う。

 赤青の蛇口をまわし冬の夜の湯をつくりおり古きホテルに
吉川宏志 『石蓮花』

「赤青の蛇口をまわし」てちょうどよい温かさの「湯をつく」る。

 そんなちょっとした場面描写なのに、その事実以上の何かが添っているようだ。

 赤と青を混ぜるということ、根源的なものを混ぜ合わせてほどよい環境を手作りするということ、それははるか〝あめつちのはじまり〟に通じそうな感じだ。

〈赤・青〉のセットの〔対極〕+〔完全〕に加えて、「つくる」という語を用いたこともあり、歌のなかの人物は意識していないだろうが、かすかな神様気分のここちよい湯気が漂っている。


赤と青の歌についてはこちらもごらんください

ミニ61 父母と似ているもの

 何かが父母に似ている、あるいは、父母が何かに似ている、ということを詠む歌を集めてみました。

抽出日2022年1月1日

データ総数165,848歌句 うち短歌119,033首

うち父母と似るものを詠む歌 75首


■そういうものと似てますか!

親子が似るのは当然ですが、まずは、父母が珍しいものと似ている歌をピックアップ。


神仏・人形

田に遊び野草に遊ぶの背が父に似ている やがてさみだれ
永井陽子『なよたけ拾遺』

かがまりて向かえばかなし父に似るつめたきのまなじりぬぐう
玉井清弘 『麹塵』

は母似こそなつかしき春ごとにわれは老い若き母はほほゑむ
馬場あき子『あさげゆふげ』


鳥獣植物・自然

ドードーに似ていた父の足の指ほろびたものに貸せ風の喉
井辻朱美『水晶散歩』

朝靄の中でぼーつと立つてゐた父だよ アスパラガスに似てゐた
時田則雄『エゾノギシギシ』

木材でしきられた空間を住み処とし母は手長き蜘蛛に似ている
安藤美保『水の粒子』

人工物

木の床のところどころが擦り切れていてこんなにも父に似たバス
中沢直人『極圏の光』

人物

父に似し腹話術師の去りしあと街のかたちにたそがれも消ゆ
寺山修司『月蝕書簡』(未発表歌集)2008

桜の日父に似るあらはれてさなりわれ駅馬(はゆま)使ひといひたり
米川千嘉子(出典調査中)

そのほか

父といふ恋の重荷に似たるもの失ひて菊は咲くべくなりぬ
馬場あき子『阿古父』

漢字は父、ひらがなは母に似る文字が縦に並びて短歌面せり
ルビ:短歌面【たんかづら】
田口綾子『かざぐるま』2018


■子が父母に似る 自分が父母に似る

親に似るといえば、普通は子ども。ですから、自分自身が父母に似ることを詠む歌がたくさんあります。少し拾います。


説明はまわりくどいが父親と腎臓の形態似ているらしい
高瀬一誌(出典調査中)

父に子の似ていく季節嘆かへば山羊の額かたく孤独に立つ
額【ぬか】
前登志夫『子午線の繭』

父のいない居間では私がいつもより父に似ているような気がする
木村友 201711文フリペーパー(第63回角川短歌賞予選通過作「オフライン」より)

亡母に似ると言はれし口をいろどるに又似る娘など持ちてもみたし
富小路禎子 『未明の調べ』

姉は母にわたしは姉にそろそろと似てゆきいつか縫い合わされむ
道浦母都子

母親の声に似ているわがくしゃみ身体のなかに母いるごとし
北辻一展『無限遠点』

〈きれいな眼、お母さん似〉羽虫とのキスで始まる春の静けさ
望月裕二郎 『ひらく』2009『あそこ』2013

吾児がわが母にほのかに似てくるを九月の朝のさざなみとなす
黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

青013 ものみなの青きふるさと老いてなほ親いますゆゑかなしきふるさと 岡野弘彦

ものみなの青きふるさと老いてなほ親いますゆゑかなしきふるさと
岡野弘彦『石打てば石』1976

無音の迫力!

ぱっと見、ふるさとの自然の中で親が年老いてかなしい、という歌に見える。
だが、「かなしき」と思う理由の中心はそこではないだろう。
青々と元気な自然(永遠)にとり囲まれて、親(限りある命)が老いて吸収されていく無音の迫力がすごくて、単に親が老いることがかなしいということでは釣り合わない。

「老いてなほ親います」というフレーズは、巨大な〈青〉のなかに縮んで縮んでもうじき呑み込まれるいく小さな命を描き、生死の摂理そのものを具現化している。
〈ふるさと〉とは命を得て育った場であるけれど、全うした命を呑み込んで回収する場でもあるようで、そういうこと全体を「かなしき」と言っているように感じられる。
「青」という色にはその呑み込むような激しさがある。


なお、近代以降、存在は「青」とせめぎあう、ということが無意識なテーマになっているというのが私の持論であり、その観点に立つと、圧倒的な青に呑み込まれずにいる、という意味で、この歌は牧水の白鳥の歌にほんの少し通じるところも、個人的には興味深い。

ついでに「ものみな」


「ものみなの」と振りかぶると厳粛な感じ。衆生がけなげに生きる世界、的な詠嘆がプラスされる。「ものみな」の他の用例で確認しておこう。

ものみなの饐(す)ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞(きこ)ゆ 
ルビ:饐【す】 聞【きこ】
斎藤茂吉『赤光』

ものみなに水のみなぎる秋を在り然も絶えざる渇きを歩む
須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

ものみなは性器のごとく浄められ都市の神話の生まるると言へ
ルビ:浄きよ
前登志夫『子午線の繭』

ものみなの像は影につつまれて歌ごころのみのこる黄昏
ルビ:像かたち 黄昏たそがれ
江田浩司『孤影』