ラベル 90虫食い式鑑賞 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 90虫食い式鑑賞 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年2月21日金曜日

虫食い式短歌鑑賞3

 虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。

※伏せ字「●」は1音を表しています。

  例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●

これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。

「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。


■12の扉 ●●●●●

今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。


1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空

2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴

3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み

4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

5 蓋ひらきたる●●●●●覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば

6 一つずつ落としこみおり●●●●●をポップコーンで埋めようとして

7 ●●●●●の蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
   ルビ:鞠【まり】 載【の】

8 ●●●●●の蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる

9 ●●●●●の五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり

10 ●●●●●の模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえる●●●●●
  ルビ:anywhere out of the world 【ここでないどこかへ】

12 ●●●●●にひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった



 いかがですか? 
〝詩的飛躍〟のせいでわかりにくいところもありますが、なんとなく見当がついたのでは?
 












以下、回答、考察と鑑賞です。




回答 マンホール


Ⅰ 考察(前半) 「マンホール」の普遍的イメージは?

 

普遍的なイメージのモチーフを予想

※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。
 本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
 
 まず、歌に詠まれる「マンホール」は何を表すのか。ある程度は普遍的かと思われるイメージモチーフを予想してみる。
 「どうして? 予想などせずに、ニュートラルに読めばいいじゃないの」と思うかもしれない。
 しかし、そもそも脳内環境はニュートラルではない。少なくとも私の脳はいつも、意識化できていない不審なものでどろどろ状態だ。
 そんな泥んこ脳をかき回しても、根拠の怪しい思い込みやあやふやな納得感しか得られない。
 多少なりとも確実性を高めるため、「普遍的と思われるもの」という受け皿を用意し、実際の歌にあたって検証する、という方法をとる。予測に縛られる面もあるかもしれないが、予測内容の妥当性を実際の歌を見て検証することも可能だし、足場が硬ければしっかり読み解くこともできるし、予測できなかった独自な要素も見落としにくくなるとも思う。

■というわけで、「マンホール」の普遍的なイメージモチーフの予想

a マンホールは地下領域(見えない国)への出入り口。
  覗き込んでも、深さ1,2メートル程度が垣間見えるだけ。
  この地下には計り知れない国がある、という印。

b マンホールの下は複雑な迷宮 だが人は気にかけていない。
  上下水道や電気ケーブル等、人間社会の血管みたいなものが埋設されている。
  そのことを、わたしたちは知識として薄々知っている。
  知っているが見えないから存在の実感が希薄で気にかけない。  

c 地下は不可侵の場所・忌避感
  ①下水管は暗くて汚なそう。
  ②地下は死者の国。
  ③深層にはマグマ。

d マンホールの蓋は地下を封じる
  忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
  遮断して忘れ去る

e 忘れられた存在
  地下には、忘れられたものがある
   (日陰者、たとえば皆から忘れられている窓際族。)
 
f 虫が旅立った痕跡
  地面にあいた穴は、セミなど昆虫が出た痕跡。
  そこから、「時が来れば、解放や脱出が可能」というシナリオが喚起され得る。
  「5」の、地下に忘られていたものもいつか時満ちて、地上へ空へと旅立っ等。

 以上が、鑑賞に向けて用意した「受け皿」のイメージモチーフである。

  歌にはいろいろな解釈が成り立つ。私はできる深読みは積極的にする。
 「詠む」と「読む」という二種の詩心が、繊細な指相撲のように楽しく攻防するような、エキサイティングかつ精密な鑑賞をこころがける。

Ⅱ 各歌の鑑賞

 さて、掲出歌は、myデータベースにあったマンホールの歌22首から、なんとなく好みでピックアップした12首で、歌の順番はランダムである。


1 マンホール閉づればマンホールのうへの明るくて これ 秋の大空
  渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023

 「閉づれば」が効いている。
 マンホールの蓋をしたとたん、それより下の世界が閉ざされる。そういう決定的瞬間みたいな感じだ。
 その上にあるのは明るい地上。さらに上には秋の大空だ。(とびきりの晴天だろう。)
 そして、このように上の世界を描くことで、「反転的な対称の位置に、閉ざされて暗い地下世界があり、更にその底には闇の天蓋がある」みたいな構造を提示し得ていると思う。

 「地上に対して地下は反転的構造」という構造把握を、私はいままであまり意識化してこなかった。が、無意識領域でなら思い浮かべたことがあったような気もして、これは「普遍的イメージモチーフ」の〝なりかけ〟段階かと思う。

 ★地上地下の反転的構造……
  

2 マンホールみしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
  渡辺松男『雨(ふ)る』2016


 地下の秘められたパワー。これは、「地下」が持つイメジャリー(心象を喚起する作用)の一つだ。そのパワーを、この歌は実に珍しい捉え方で表現している。
 誰でもなんらかの形で地下のパワーを感知する。暗闇を流れる水の気配、地中の死者の怨念、深層にたぎるマグマ等々もあり得るが、一般的に「マンホール」という題材は水音を聞く歌になりやすいと思う。(22首中4首あった。)
 ところがこの歌では、なんと、マンホールを見たとき変な気分になり、鼻血が出て「重力」を感じている。
 この場面がもし現実なら、具合が悪くなって鼻血も出て、心身ともに不安でうろたえている状況ではないだろうか。くずおれそうになり身体は、たまたま目にしたマンホールに地下からのパワー感じ取り、「ぢゆうりよく」を意識した。
 弱った身体はセンシティブだから、身体そのものの想像力が高まることがあると思う。地球の「重力」が高濃度で(まるで放射線とかみたいに)マンホールから染み出す。それに自分の身体が応答して、同じ穴である鼻から血が流れだす。ーーそういうふうに身体が空想的に感受している生々しさが、この歌の核心であると思う。

 ★体感/地下と身体とが呼応


3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびくマンホール踏み
  佐波洋子『時のむこうへ』2012

 マンホールで地下の水音を詠む歌は少なくないので、他との違いが重要だと思う。
 この歌で他と違う要素として注目したのは、この人物がいま坂を登りながら地下の水音を聞いている、という点だ。
 夜、家路の坂道で、足下の水音響くマンホールを踏む。
 ーーそこから何を読み取ろうか、と少し迷う。
 仕事などの疲れの仕上げのように坂を登っているのだろうか。そのときこの水音はどう聞こえるのか。その手がかりになる要素は提示されて無い。
 だから、例えば「たくましい水音に励まされるかな」とか、「坂を上り下りする水と自分の生活を重ねるのかな」とか、ありがちなシナリオに踏み込んでみると、「なーんか違う」と引っ込めたくなる。
 「水」が自分と並行して坂を上り下りしている、という事実を検知したのかもしれない。それはマンホールを踏んだとき一瞬重なっただけの、〝無縁寄りの縁〟※である。
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。

 感情移入したり自分に重ねたりせず、自分と水という二つの現象が、今たまたま並行しているという淡い無縁。この世界には、さまざまなものたちがそれぞれの有りようで、同時に無縁に存在する。自分と万象との縁も〝無縁寄りの縁〟であり、それが世界の一部としての自然な在り方だ、というような、ーーいや、踏み込みすぎましたね。

 ★淡い無縁、あるいは〝無縁寄りの縁〟

4 午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
   笹井宏之『てんとろり』2011

 ぶっ飛んでるなあ。
 地下の心は地上の人間の理解を越えている。そういう感じ、新しい捉え方だし、愉快だ。
 マンホールの蓋がひゅーんと飛び交い、がっちゃんと入れ替わる。
 派手なパフォーマンスだ。地霊のフォークダンス的ないたずらか。でも、意味不明すぎるし実害がないし、人々は、目にしなかったふりで通り過ぎるかもしれない。
  さっきの歌のところでも感じたことだが、このごろの短歌は、自分との無関係さのニュアンスを精密に捉えるし、同時に「読み方」もそういう点を味わいそこねないように注意するようになってきた。つまり、「無関係さ」というものが詩的に追求するテーマの一つに昇格※したのである。この歌はその辺境を示すフラッグのひとつだと思う。
 「無関係さ」が詩的に追求されていくなかで、「地下」もその出入り口の「マンホール」も新たな意味を帯びてくるだろう。
※かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
  
 ★「無関係」の辺境地帯

 

5 蓋ひらきたるマンホール覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば
   藤原龍一郎『19××』1997

 「レッドスネーク、カモン!」は、「東京コミックショウ」という夫婦芸人のコントで、赤青黄の蛇のパペットを使うもの。緩い芸風はほのぼのとした笑いを誘った。
※インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
 知っている者には懐かしい、今はないお笑いを、記憶の地層から呼び起こそうとする。
 末尾の「呼べば」という言いさしが気になる。呼んだらどうなるの?
 「何も起こらず、虚ろに声が響くのみ」ならいいが、「思い出の亡霊が、地下で成長し、マンホールの太さのとんでもない大蛇となって出て来ちゃう」というのもあり得る。なぜなら、物語(特にホラー系)でたまに見かけるモチーフに、「安易に呼びかけたり触ったりして、とんでもないものを呼び覚ましてしまう」というのがあるからだ。※
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
 また、星新一の「おーいでてこーい」※を思い出したのは私だけではなかろう。ーー穴に向かって「おーいでてこーい」と叫ぶと、それがああなりこうなり……、とにかく良くないことが起きてしまう話だ。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説。
 だが、この歌には、不吉さを中和する白魔法のようなものが働いている。あのまぬけ面のパペットが大蛇になったところで、たいして怖くない。緩い芸風への懐かしさがこの空想を安全化してくれていて、ワタシ的には、その中和感が、この歌の味わいどころだと思う。

 ★過去と現在混ぜるな危険!

6 一つずつ落としこみおりマンホールをポップコーンで埋めようとして
  飯田有子『林檎貫通式』2001

 穴を埋める、から連想したのが、その反転的イメージのモチーフ「空という大穴を、人間は夢や願いで埋めようとしている」をどこかで見た気がする。ーー「心の虚しさを投影して、空という虚ろを何かで埋めようとする。がそれは不可能で虚しい。」という感じのモチーフは、まだじゅうぶんに認知されていないかもしれないけれど、見たことがある。※
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。
地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
 この歌は、その「空を夢などで埋める」の「空」を「地下」に、「夢」を「ポップコーン」に反転したっぽく、うまく呼応していないだろうか。娯楽的場面に似合うポップコーンは夢がはじけたみたいな感じがしなくもない。
 そこには、地下は不要不都合なものをいれる場所(最悪は放射性廃棄物の埋設)だというイメージがほんの一滴ぐらいなくもない。が、しかし、この歌は不思議な明るさも備えていて、「最終処分」というほどの絶望には至らせない。
 ポップコーンは最終処分の汚物というほど禍々しくない。ーー天地反転の構図に重ねるなら、ちぎった白雲みたいだし。そういえばコーンは種だ。一度はじけちゃったからもう芽はでないだろうが……。そうしたことが歌をそれとなく救っていると思う。
 (さっきの「レッドスネーク」の歌にもこの種の作用があったっけ。)

 さらに深読みだが、救い要素としてもうひとつあえかなものがある。ポップコーンを穴に落とすことから、ちらりと「おむすびころりん」を想起しかかった。「食べ物を穴に落とす」のは、現実世界と違ってイメージの世界では「吉事」である。
 「おむすび」は地下のネズミたちと知り合うきっかけだったし、お爺さんのふるまいによっては結果は良くも悪くもなる……。つまり、ポップコーンはもう芽を出さないとしても、地下との新しい関係の可能性はある。

 ★イメージの世界には現実世界と違う「吉事」がある
 

7 マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
  ルビ:鞠【まり】 載【の】
  小池光 『草の庭』1996

 この歌のマンホールの蓋、なぜ「くるしく」濡れているのだろう。
 現実的にいって雨だろう。マンホールの蓋には雨水を受け入れる穴アキのものと、雨水を入れないものとがあるが、どっちにしろ地上と地下の境界を守る苦労をしている。「雨にも負けず」に。
 そして、若草色の軽い鞠と、地味な色で(たまにカラフルなものもあるが)すごく重たいマンホールの蓋という対比には、なにかほほえましさがある……。
 そのさまは、なんだか、苦労人のおじいちゃんにかわいい孫がちょこんと乗っかっているような……。
 で、おじいちゃんは、無表情だがちょっと幸福で、孫の軽さを味わっているような……。
 それと、この歌になんだか「めでたさ」のようなものも感じるのは、「マンホール蓋+鞠」のカタチが、少し「鏡餅」を思わせるからかもしれない。
 他の歌にもあったが、この歌も、マンホールのイメージを救うイメージをそっとしのばせていて、苦労をねぎらっているかのようだ。

 ★苦労人マンホール
 
 
8 マンホールの蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる
  佐藤涼子『Midnight Sun』2016

 「世界」が主体。「春」こそはこの世界の、いわば定期リフレッシュの季節である。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」のも「世界」。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」という作業を実際にするのは人間だろうが、人間も世界の一部であり、日々の行動も世界の摂理の一部である。
 「春は定期的に来るリフレッシュの季節」というのは、歌人なら誰でも一度は詠むと言っていいほど昔からのポピュラーなモチーフだ。
 それゆえ他に紛れない要素も大切で、この歌のそれは、自然界の定期リフレッシュに、人間が人工物「マンホール」に対して行う〝定期メンテナンス〟的な行為を含めている点だと思う。これは一味違う。
 古典では春の訪れを雪の変化で表すことがよくある。雪の下から草が現れる等だ。「マンホールの蓋の雪をどかす」ことは、そういう詠み慣らされた情景を現代に合わせて描き変えたように見える。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)
雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな
出羽弁『玉葉集』1312
 そしてこれは、単に新しいモノを詠み込んだだけではない。
 私が短歌をはじめた40年前(1980年代)、短歌の言葉の世界では、「自然」と「人工物」が対立関係で捉えられ、しかも「自然」は尊く「人工物」は卑しいという詩的身分差別(?)が当たり前のようにあった。しかし、家電やパソコンが普及した今では、頼もしい人工物たちに守られて(例えば冷房がなかったら死者が出る)暮らしている。必然的に「人工物」の詩的地位は向上し、貴賤感覚はずいぶん薄れてきた。
 この歌は、そうした意識の変化を反映し、「春の訪れ」という伝統的モチーフ※においても、詩的対立も貴賤もなく共存してみせている。

※季節の訪れと人工物
 さして古典に詳しくはないが、和歌における「春の到来」は、自然界の兆候を捉えて詠むのが普通だったようだ。雪解け、野の草、鶯、梅の臭いなど。
 そのため、「季節の変化は自然の変化を捉えて詠む」と拡大して決めつけそうになった。が、たまたま見つけた「法則」的なものは、なべてあやうい。
 例えば「夏の到来」は、とっくの昔の万葉集に「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」と、人が干す洗濯物(人工物)を「夏の到来」の指標にして詠まれてるもんね。

 ★短歌の世界にも「今はそうなってんのー!」がある
  ※タイムズカーのCM(「タイムズカー」という新システムに合わせて働き方を変える場面の叫び)


9 マンホールの五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり
  小島なお『展開図』

 春の到来の歌に続いて、こんどは「五月」到来の歌。
 こちらは、「事象をピックアップすることで全体を表す」という換喩※。目にした「マンホール」と「磨り硝子」と「卵サンド」だけで、「五月」がまんべんなくあらゆるものに来ていることを表す。
 (この種の換喩に触れた最初は、子供の時に聞いた、サトウハチローの「ちいさい秋みつけた」だ。)
 ちょうど目に入ったものを列挙しているさりげなさ。でもそれは、少ない例のピックアップで全体を表すために、あふれかえる万象の中から適切に選ばれたものである。
 「マンホール」「磨り硝子」「卵サンド」は、「さほど景色の良くない場所、たとえば会社の裏庭で昼食をとっている」と、驚くほどに場面を絞り込んでくれることに注目。
そして、「そんな場所でさえも別け隔てなく「五月」は来てくれる」というふうに、定番の(貧しい窓にも月光はさしこむ的な)おとしどころにきれいに着地している。
 なぜ景色が悪いのか、なぜ会社の裏庭か、と思う人もいるかもしれない。
 なぜなら、「磨り硝子」は、表側の窓ではなさそうで、事務所の奥の資料部屋など、外から見えず外光を入れたくないような窓を思わせるからだ。(マンホールがあるなら水回りのものが近い。炊事場や、トイレの窓の可能性も……。)
 また、戸外でお弁当とくれば「うららかな日差しのなか、小川のほとりの草地で」というシチュエーションがステレオタイプであろうに、そこにあるのは小川でなく「マンホール」であること。ステレオタイプは無意識であることが多いから、このサジェスチョンも無意識領域で、淡く意識化されないままの、いわば隠し味になっていると思う。

※換喩(かんゆ):メトニミー(英: metonymy)は、小難しく言えば「概念の隣接性あるいは近接性に基づいて語句の意味を拡張」なんだそうだが、このウザすぎる説明が無駄に敷居を高くして、必要な人に普及しないのだ。
 換喩は「赤ずきん型の喩」と呼ばれる。「赤ずきんをかぶった子」を「赤ずきんちゃん」と呼ぶ。そういうふうに一部の特徴で全体を表すものだ。「青い目」で「西洋人」を表したり、「鳥居」で「神社」を表すようなこと。「春雨やものがたりゆく蓑と笠(蕪村」も換喩だ。「一部で全体を表す」と平たく説明できる、これを「換喩」と言うんだよぅ。ったくもう。なお、類似を接点にする「比喩」は「白雪姫型の喩」という。王妃が「肌は雪のように白く云々」と望んで生まれた子だから。
 この「換喩」とい語を、短歌の批評用語に加えたくて、この40年、折に触れて意識的に使ってきた。「換喩」を知っていればあっさり読み解ける歌があるし、換喩を普通の比喩ととりちがえると解釈がとんちかんになっちゃうからだ。ところが、この言葉、なぜか全く普及しない。私はもはや古希。これからも「換喩」という言葉の必要を感じないような短歌鑑賞が続いてくのかしらね。めでたいな古希。

 ★ステレオタイプをこっそり隠し味に
 

10 マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
  鈴木ちはね『予言』

 天から降る水の一部は人の街や人体を巡り巡って海に至る……。
 マンホールの蓋のデザインは地域地域で異なっていて、地域地域のイメージを記号化したともいえそうだ。
 マンホールのあるところには下水管などが通っている。これは当たり前なのだが普通は意識しない。マンホールデザインとその地域性という話の最中も、水流とともに歩くという意識は希薄だったと思う。
 ところが、海に出ていきなり、この旅人(いや、ただの散歩かもしれないが、地域性の話でかすかに旅人意識が喚起され)たる歩みに地下水流のイメージがオーバーラップした。人と水管の水が同時に海に到着したかのような、いっしょに旅して来たかのような、そういうふうに少し遡って、かすかな一体感を、「感じそう」になっている。(「感じた」までは届かないぐらい。)
 ついでに、水の旅のイメージとの一体感は、話し相手との一体感にも及んで、こちらも少し遡る感じかな、などと思った。
 さっき、地下と体感でシンクロする歌があったけれども、この歌は、人が共有する観念世界と現実の地下の水管とがシンクロしかかったみたいでで、けっこう新感覚だと思う。
 
 ★足下の水の道と頭の中の観念世界が平行移動

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール
  ルビ:anywhere out of the world【ここでないどこかへ】
  佐藤弓生『薄い街』

 読んだとき、そういえば星マークのマンホールをよく見かける気がした。いや、それはよくかかる言葉の魔法だろう。現実のマンホールは、地域それぞれのデザインになっている。 (ちなみにうちの近所は花柄だ。)
 でもそんな事実は気にせず魔法にかかろう。ーーうんうん。マンホールには五芒星が描かれていそう。
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
 さて、五芒星は呪術的だ。何かが封印されていて、そいつが出たがって蓋を揺らしているのかもしれない。
 それだけでなく、五芒星には、封印した何かを遠く「ここでないどこかへ」と旅立たせるようなミラクルパワーがありそうな気もする。UFOとも縁がありそうな雰囲気だ。
 それとは全く別ジャンルだが「五」の仲間の「五輪塔」もちょっと連想した。
 うちのお墓は「五輪塔」というカタチ。子供の頃に住職に聞いた話では、「五輪塔は、自然界の5大要素(空、風、火、水、地)をかたどり、また人間の五体(足・胸・胸・顔・頭)の意味も兼ねていて、空と語り、発信する」とのことで、お墓がそういう装置であることに驚いた。ちょっとロケットに似てるし。
 というわけで、何物かが時満ちて、マンホールからどこか宇宙にでも旅立つのではないか。地中で幼虫時代を過ごした昆虫が羽化して飛びたつみたいな感じで、何がでてくるのかそそられる。

★神秘的な期待


12 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった
  藤本玲未『オーロラのお針子』2014

 この歌も、地中の虫が羽化して旅立つイメージが重なっていると思う。虫の羽化を描いたのではなくて、それは隠しアレゴリーみたいに、歌を裏付けていると思う。「ぬいぐるみ置いて」は、セミが抜け殻を残すことと重なる。
 このマッチング! この味わいだけでご飯が食べられそうだ。
 隠しアレゴリーは、叙述されていることが不可解でも、何か別の他のことで脳が体験したイメージが裏から補強する。読んで意味がよくわからくても、謎のまま立体的理解感(造語です)みたいなものが生じる。(私はこの「立体的理解感」がすごく好きだがこの感覚は人による。)
 立体的理解感の説明になるかどうか、ーーグラフィックソフトには「レイヤー」を重ねる機能がある。隠しアレゴリーというのは、別レイヤーの絵を、透過度10%程度に淡く重ねている感じだ。
※レイヤー=階層。グラフィックソフト等における、絵や設計図の仮想的なシート。複数のシートを重ねたり、別々に編集したりする。透過度も調節できる。
 
 何かが星を出ていってしまうらしいSF的な味付けもいい。(これもレイヤーの一つだ。) 
 彼らは地下都市に住んでいたが、何らかの理由、たとえば自然破壊とかで、星を脱出しなければならなくなった、みたいないきさつだろうか? 「ぬいぐるみ」は、自分たちが去っても星が淋しくないように置いていく「埴輪」(副葬品)のようなものだろうか? 地下を封じる重いマンホールの蓋は墓石に通じる。
 「だいすきだった」と言って〝ここ〟を去るというのは、ちょっと胸キュン(これ死語?)なアニメみたいで、深刻になりすぎないように調節された描写だとも思う。
 そうしたいろいろを総合して、この歌で、心の儀式みたいなものを体験した気がする。
 自分はまちがった場所にいるような、故郷はここではないような、そういう違和感を宥めたり鎮めたりするらしい歌が、2000年を少し過ぎた頃からときどき目に入るようになった。「ここを去る」という心の儀式もその一つだと思う。
 

 ★レイヤーで立体的理解感
  「レイヤー」を短歌の批評用語にしようよ。レイヤーを重ねてるような歌がけっこうあるんだから。


Ⅲ 考察(後半) 「マンホール」イメージの活用

歌を詳細に読む前に、予想したイメージモチーフはざっくり以下の6つだった。

a マンホールは地下領域への出入り口。
b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。
c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)
d マンホールの蓋で地下を封じる
e 地下に封じられ存在を忘れられる
f 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。

 さて、実際に読んでみたところ、上記は、ある程度は当たっていたと思う。
 しかし重要なのは、違いを感じた点や予想を超える展開だ。
 それでこそ予想をしたかいがある。
 詳細は、各歌の鑑賞に書いたので、以下、気づいたことのみを列挙する。

● 「反転世界」という図
 地下と地上を「反転」の位置関係で捉える。
 私の予想にはなかったもので、これは収穫だ。

● 「無関係」「無縁」を詩的に追求
 現実世界では、地下への無関心は、単なるそれにすぎない。
 しかし、いくつかの歌に見られた「無関係」「無縁」という感覚は、詩的に極める方向で詠まれている。

● 忌避感を体感で
 忌避感を詠む歌があることは予想していたが、体感で捉えるのは想定していなかった。

● 「地下」へのアプローチ&新式の蘇活
 予測中は「忌避感」を重視していたのだが、これは当たらなかった。
 「地下世界への出入り口」と「地下に封じる」は、おもしろ展開し、マンホールに向かって思い出のもの(スネーク)を呼んだり、食べ物(ポップコーン)を投げ込んだり、と、地下へ能動的にアプローチする歌が印象深かった。
 また、地下を「死者の場所」として忌避するのでなく、「思い出や夢が葬られている場所」という懐かしさのほうにシフトした「地下観」が出来かかっているかもしれない。
 そして、いったん葬られたものは、何らかの新しい方式でよみがえるかもしれない。そのわずかな可能性が生じているみたいである。
(死者を呼び起こすとゾンビになるが、思い出や夢のようなものは新しい方法があれば蘇活するかもしれない。)

● 旅立ち
 予測のひとつに、蓋をされて封じられる立場というのがあったが、私が想定した日陰者めいたメンタリティの歌はなかった。
 そのかわり、昆虫の羽化のようにマンホールから旅立つらしい歌があった。
  
● いわゆる「味変(あじへん)」
 「マンホール」という比較的新しい(まだ詠み尽くされていなくてイメージ開拓中の)題材を、伝統的な題材やステレオタイプ化したモチーフと組み合わせて、新感覚へと転換する。そういう使い方をしている歌もあった。

 というわけで、
 全体として、私の予想などいくら超えてもかまわないと思えるほど、歌たちには、たくましい表現意欲の裏付けが感じられた。

 考察の前編に、「詠む」と「読む」という二種の詩心の指相撲のような鑑賞をめざすと書いた。実際、格闘するように鑑賞文を書いた。

 鑑賞は言語化をする「読む」側が有利だが、二つの詩心の指相撲は、互いに手加減せずにせめぎ合ったすえ、「詠む」が煙に巻いて勝ち逃げするのが理想だ思った。
 まだ、そういう名勝負のような鑑賞が書けない。
 

2025・2・13

2025年1月20日月曜日

虫食い式短歌鑑賞2

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

「●●……」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 
 例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●
●●●
    文字数は5ですが音数は4


■20の扉 ●●●●●

今回の虫食いワード●●●●●は、短歌においてはけっこう人気の高い語です。
以下、20首をピックアップしました。
作者名も伏せてあります。
(答えと作者名、および高柳の詳細な鑑賞が下の方にあります。)


1 ●●●●●極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに


2 ●●●●●ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分


3 ●●●●●は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり


4 青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく●●●●●


5 「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」★★★★★★(談)


6 どうしても●●●●●が動いている様に見えない春の疲れであろう


7 闇の彼方に●●●●●青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり


8 まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に●●●●●点れり


9 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり●●●●●その役目を終えて


10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大●●●●●


11  銀河とは誰の●●●●●であろう回転をして止むことのなし


12 遠くても●●●●●だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬


13 ●●●●●のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】


14 ●●●●●の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ


15 無力なることを知るため一人きり●●●●●にて空をよぎれり


16 ●●●●●まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく●●●●●


18 吾という六十兆個の細胞を●●●●●に乗せのぼりゆくなり


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する●●●●●


20 ●●●●●回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 



いかがですか?
●●●●●に入る言葉はわかりましたか?


キーワードは、空・高い・ゆっくり・乗る・回る……。







回答 観覧車



以下、考察と鑑賞

 2024・7月に「観覧車」を含む歌を、闇鍋(myデータベース)の短歌約129,000首から抽出した抽出したところ、84首ありました。上記20首はそこからピックアップしたものです。

 ーーこの84首という数字はかなり多いと思います。遊園地の代表的乗り物で比較すると、ジェットコースターは2首しかない。回転木馬は14首で、別名メリーゴーランド9首と合わせても、観覧車には全くかないません。それだけ「歌に詠みたい」と思う〝引き〟が「観覧車」にあるということです。

※以下は、文体が書いた日によって、「ですます」だったり「であるだ」だったりします。気にしないでください。


 

1 観覧車極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに
 川野里子『青鯨の日』

◆空深く極まる→ゆっくり戻る

 観覧車が空高く極まるその高みにあるときの喜びは、深い畏れに似る。
 なるほど、頂点にいるときは、高さを考えるだけでも怖いし、それを「ふかき」と言い換えたとたん、空深く「沈む」イメージも少し喚起され、(潜水艦的に)ゴンドラに閉じ込められて出られない、という、物理的・体感的な恐れを感じるだろう。
 加えて、心理的にも、「畏れ」という文字が、慣れ親しんだ地上から遠いぶん、人間の領域を離れ本来いてはいけない場所に侵入しているための気後れのようなものを表している。

 だから、楽しく観覧車に乗る喜びには、畏怖が混じるのだと思うが、ふつう、喜びと畏怖は反対の心の働きのように認識されていて、それがなぜかいっしょになる状況であることを捉えた、というのがこの歌のコンセプトだろう。

 ところで、言葉は、あるものを別のものと区別する。「観覧車」といえば、「観覧車」でないものを除外する。すごく当たり前だけど、虫食いにしてみて、あらためて感じた。喜びと恐れが同時に高まるものは観覧車だけではない、と。

 ジェットコースターでも、そのへんの児童公園のぶらんこでも、そういう体験はできる。
 ただし、これらは極まりかたやそのあとが違う。
  観覧車は、ゆっくり上昇し極まったあとゆっくり日常に降りてくる。
  ジェットコースターはゆっくり登り、猛スピードで下降する。
  ぶらんこは揺れが反復して極まりを繰り返す。

 「観覧車」と書いてあるから、読者はひとりでに、観覧車の特性を踏まえて読み、楽しみといっしょに「畏怖」がゆっくり極まることだけでなく、そのあとそれがゆっくり緩んでいく体感・情感もコミで感受できる。虫食い状態だとこのあたりが難しかった。

  

2 観覧車ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分
 大谷雅彦『大谷雅彦集 』(セレクション歌人)

◆非日常の時間感覚と体感

 闇を「ゆつくり」引き上げてくるという描写が印象的。

 なんだか掛け布団をひっぱりあげるみたいな具体的な書きかたです。15分間のそのなまなましい時間感覚と体感を描くことに徹して、雑味がないゆえの迫力があると思います。

 遊園地の遊具の多くはスピードがありますが、観覧車は反対で、極端に遅い部類。
 あのゆっくりした、スローモーションのような時間の感覚や体感こそが、観覧車的な非日常の特性そのものである。
 なので、その非日常的感覚は、このように工夫をこらして描く価値があるんだなあ、と思いました。

 歌には全く書いてないことで、以下は詩心に詩心が応答した〝幻視的〟段階の感想にすぎず、「評」ではありません。
 この歌の時間感覚は妙になまなましい。「闇を引き上げてくる」というところで、なぜか連想のスクリーンに、巨大なかたつむりを見た気がしました。観覧車の形状が少しかたつむりに似ているせいだろうか。さっき「掛け布団をひっぱりあげるような」と書きましたが、その掛け布団が生きているような感じがします。

 

3 観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』 

◆屈託なく楽しげなたたずまいの観覧車

 比喩の一種に〝見立て〟というワザがあります。(というか、比喩はみんな見立てと言えるかもしれないけれども、〝見立て〟とわざわざ呼ぶにふさわしいのは、視覚的に大仕掛けなものです。)

 この歌も「二粒ずつの豆の莢」以下すべてが「観覧車」の見立てです。
 観覧車のゴンドラを「二粒ずつの豆の莢」と捉え、それが「陽に触れては透ける」という情景を詠んでいる。「観覧車」という人工物と、豆の木のような生命感あふれる植物のイメージが重なる、大胆で斬新な設計です。
 (ちなみにこの作者は〝見立てワザの巨匠〟です。)


 この視覚的魅力だけでもう十分に歌は成立すると思いますが、もう1点、そも観覧車というものの姿やありかたを、このように明るく楽しげに捉える屈託なさ、という点にも価値があるのではないでしょうか。描かれているのは「観覧車」自体の存在としての喜びみたいなもの。それは作者の主観で捉えたものですが、そこに人間の心情を託そうとせず、「観覧車」の存在としての本質を見ようとする描写になっています。

 短歌は、人の孤独や悲しみなどの心情を芯にして成立しがちで、観覧車を詠む歌も同じ傾向があります。それが悪いのではないけれど、このような明るい歌は、「観覧車」のイメージバランスを救っているとも思います。


4 青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく観覧車
 井辻朱美『クラウド』

◆水車のような装置

 この歌も〝見立て〟ワザを使っています。暗い心情を反映させていない、という点でも、ひとつ前の歌と共通しています。

 観覧車のゴンドラの動きを「空に〈囁き〉を差し入れて」と解釈していることにびっくり。そのあとの「ぷらぷら沈んでゆく」もなんだかかわいくて、ゴンドラたちは頑張って昇り、リラックスして降りてくる、ーーああ水車みたいだ。(「森の水車」っていう唱歌がありますね。コトコトコットン。)

 この歌の観覧車は、大理石の立派な空へとたゆみなく、地上の〈囁き〉を汲んで届ける、水車みたいな装置に見立てられている。連なって空へのぼる小さなゴンドラたちはその水車の部品の桶みたいなものらしい。
 (草木が地中から水分を汲み上げたり光合成したりする装置であることをちょっと連想した。観覧車をそうした装置のひとつに見立てているみたい。)

 役目を果たしたゴンドラたちが「ぷらぷら沈んでいく」という描写。仕事の緊張がゆるんだ人間っぽいしぐさは、観覧車という装置に生きもののようなニュアンスを添えています。

 「観覧車」という対象を、人間の心情表現の手段にしていない。ーーゴンドラの動きには人間臭さもあるけれど、心情を投影した、というほどではありません。
 観覧車というもののたたずまいそのものから感じたことが描写されていて、その視点は、人間も含めて万物は、等しくこの世界に屈託なく存在する事象である、というような開放感に繋がり得ると思います。


5 「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
秋月祐一『迷子のカピバラ』

◆擬人化・憑依・投影

 「ゆっくり」回るのは「観覧車」の個性そのもの。
 そんな観覧車が、「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」と語った。
 これは、「本当は早く回れるんだぞ」と、仲間のメーリーゴーラウンドたちに見栄をはった言葉でしょうか。

 それか、そういうパフォーマンスに憧れがある? ーーたとえば、「ひごろニコリともしない人が、生涯にたった一度だけ微笑んだ」的なサプライズをやってみたい、的な。
 (個人的にはこれに一票だ。)

 あるいは、擬人化的な心情投影というセンも。
「全力でものごとに取り組むチャンスのないまま人生の後半にさしかかって『いつか一花咲かせるさ」的なことを呟いている(=叶わぬ夢フラグたちました)」

 こういう感じで、つまり擬人化として受け止める人が多いかもしれないなあ・・・。

 

6 どうしても観覧車が動いている様に見えない春の疲れであろう
 渡辺良『日のかなた』

◆景色が静止画に

 動きがのろい、ということが観覧車という題材の重要な特徴であることは間違いないでしょう。

 おもしろいのは、「春の疲れ」が、観覧車を見ている主体者の疲れか、観覧車の疲れかが渾然としていること。
一般的な比喩関係は、例える側と例えられる側という一方通行の関係だが、この歌は一般的比喩ではない。自分の気分を対象に投影しているのか、対象の姿ありように影響されて自分がそういう気分になったのか、双方向に憑依・投影しあっているような、そういう素朴なシンクロ状態が表されている。

 
 ひとつ前の歌でも、この憑依・投影現象に触れた。
 この種の双方向状態は、詩歌イメージの中だけでなく、現実にもあると思う。何らかの事情で心身が弱まったとき、意識の輪郭が緩んで、主体と対象が相互的に混ざりやすくなる。「春の疲れであろう」は、内容も口調も、そうした〝心身の弱まり〟をそれとなく感じさせる。
 また、「春の疲れ」という語が抒情的で風流でさえあることに心奪われ、見落としそうになったが、景色が静止画になったかのようなこの描き方、「疲れ」の質の描写として、なんと繊細だろう。

 〝心身の弱まり〟を詠む歌は多いと思われる。そのなかで、スローなものを詠み込む※ことは、なんとなく実感として納得※※できる。そのスローの究極として、景色が静止画になる(=時間が止まる)イメージもすんなり受け入れられる。
  ※のろい動きと心の弱まりを結びつけた歌の例で、いまパッと思いつくのはこの歌。
   かたつむり枝を這ひゐる雨の日はわがこころ神のごとくに弱き(前川佐美雄)
  
 あ、またカタツムリ! さっきも別の歌のところでカタツムリを幻視した。
   カタツムリと観覧車は、直ではないが、間接的に縁があるみたいだ。

  ※※心身の疲労時や鬱傾向のときは、自分だけ時間が停滞し、朝やるべきことをやっと夕方に、
   今日済ませるべきことが明後日に、というふうになるのはよくあること。   


7 闇の彼方に観覧車青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり
 佐藤通雅『予感』

◆天地シンクロ

 夜に灯る遠い観覧車は、星が丸く集まったように見える。それがふと天界にある遊園地のように思われた、のだろう。

 最初、死の後も人のタマシイは「遊園地」を必要とする、という、人間の本質のようなものを洞察する歌かしら、と考えそうになったが、だんだん、それは考えすぎに思えてきた。

 「死者が、星になって地上を見守る」という伝承があるけれど、この空想には、「地上の生者が、天の星になった死者を思って天を仰ぐ」という鏡のような心情がセットになっている。これも、さきに書いた素朴な投影シンクロに通ずると思う。

 そして、このようなシンクロ的空想は、理屈でなく、お供えもののように優しく詠み出だされるのではないか、と思う。

【メモ:なんだかメメント・モリ】
 ここで脱線的に、なんとなく、「観覧車はどこかメメント・モリっぽい」と思いついてしまった。
 頭蓋骨がシンボルのメメント・モリは、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というイマシメなのだが、時代によって意味合いが「だから今を楽しめ」だったり「だから現世の楽しみや贅沢は虚しい」だったりする。

 「観覧車」はイマシメではない。が、概念を語るときの材料が似ているし、切実ではかない現世の希求のようなものを思い出させる。観覧車とメメントモリはカレーとハヤシぐらいに近縁のものだと思う。


8 まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に観覧車点れり
 魚村晋太郎『銀耳』

◆ガトリング砲の銃口のような瞳

 これはまた、……「悪意のごとき等距離」とは何だろうか。
 遠目に見る観覧車。ゴンドラの照明が等間隔で円形に点っている。ーーそこに「悪意」を感じ取っているようだが……。

 解釈は人それぞれだが、その円形に灯る光を「悪意のごとき」と感じたのなら、もしかして、ガトリング砲の丸く並んだ銃口みたいなものをイメージしたのかな、と思った。
 夕空はブルーとオレンジが変に混じり合うときがある。その少し気味の悪い空を背景にすると、建物やクレーンなど、巨大なものが怪獣みたいに見えることがある。
 観覧車もそんなふうに、こちらにロックオンした銃口のような瞳、を思わせることがあるだろう。
 ーーいや、現実が先行するとは限らない。私は、この歌を読んではじめてそのイメージがまざまざと思い浮かんだのであり、今後、もし夕空を背にした観覧車の明かりを見たら、これを思い浮かべるだろう、とも思う。

 「傾いた夕空」は、陳腐なポエム的軽さが漂いそうなフレーズだが、この歌の中では、実際には傾くはずのない空が、悪意の観覧車の傾きといっしょに傾いてしまっているかのように、言葉どおりの重みを備え得ていると思う。

 

9 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて
 久野はすみ『シネマ・ルナティック』

◆じゃんけんのパー、消える花火、その残像


 一読、この歌には、字数の数倍の情報が込められている、と感じた。 
 まずは「ゆうぐれのじゃんけんのごとく」。
 ここには、じゃんけんの手元がすこし暗くなり、遊ぶ熱意にも影がさしてくる頃合いの、あの儚さが漂っている。

 そこへ下の句の「観覧車」という文字が目に入るや、無意識領域の視覚効果が発動する。
ーーーじゃんけんの手、観覧車はやや形状が重なりやすい。重なる、と意識するほどではなく、歌を読んだままに思い浮かべれば、なんとなく勝手に重なる程度だ。それが、途中の「消えゆけり」の効果で、消えかかる大花火のイメージを呼びそうになるのだが、あくまで無意識化の効果、隠し味である。

  (これは、視覚的に思い浮かべないタイプの読者には効かない術だけれど。)

 結句の「その役目を終えて」は、観覧車が一日の役目を終える、というより少し意味が大きいような感じがして、その遊園地は閉園するのかなと、考えそうになる。このときも、消える花火を思い浮かべそうになった無意識の淡い残像が、効果を付加していると思う。

 「観覧車が一日の役目を終える」から「遊園地が閉園する」へと思考が進むと、その延長線上に「観覧車が人類を喜ばせることの終わり=人類の終末」が見えてくる。歌にはそこまで書いてないが、「観覧車」はそういう連想脈を備えている。 

10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大観覧車
 神崎ハルミ(伊波虎英)『観覧車日和』(私家版)作者HP

◆ガラガラポン

 あ、福引のガラガラポン※だ。そういえば観覧車に似てる。
  ※本当は「抽選器」という名称だそうです。

 こうした類似の発見はただそれだけで楽しい。
 無関係なものの形状の一致。視覚的だじゃれ。
 だじゃれは普通、無関係の言葉の音の偶然の一致を楽しむもので、その楽しさには少し神秘性があると思う。言葉でなく、形状など視覚的な偶然の一致にも、だじゃれ的な楽しさと神秘が宿る。
 「金色の玉でるまでを回りつづける」という、それが宿命であるかのような言い回しから、人類の尽きることなき希求が観覧車を発明したような、そしてそれはきりもなくただ回され続けるような、そういった空想へといつのまにか促される。

 別の歌のところでも述べたが、短歌に詠まれる「観覧車」は、人類の尽きることなき希求の象徴のように使われる傾向があるようだ。
 この歌では、「特等の金色の玉」という出るはずのないものを求めて、永遠に回されるのだろう、という意味が読み取れる。


11  銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
 松木秀『色の濃い川』


◆誰のものでもない・誰の手にも負えない

 観覧車の形はいろいろに見立てられる。さっきの歌では福引のガラガラポン(抽選器)だったが、この歌の「銀河」はおそらく最大級だろう。

 「観覧車」のイメージのなかには、〝神のみわざ〟的な神秘性がひそんでいる気がする。さっきの「抽選器」、また、別の歌のところに書いた「メメント・モリ」への連想も、人間を超越している。
 だから、「銀河とは誰の観覧車であろう」という問いに、「強いて言えば神かな」と答えそうになるわけだが、銀河は深く渦まいていて、神どころか何を問うても答えがなさそうな、虚無を覗き込む感がある。
 なんとなく逆転的に、観覧車は銀河を模したおもちゃであるかのように思えてくる、というおまけもある。

 

12 遠くても観覧車だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬
 北久保まりこ『音楽がおわる時』

◆支配し監視する

 出口のない冬のような状況で、遠くあこがれを抱き続ける、という意味だろうか?

 最初はそう思ったのだが、ニ度読んで考え直した。この歌のどこかに、見た目以上の強い絶望的な閉塞感がある。「街は観覧車の支配下にある」と言っている気がする。

 この観覧車は、遠くからでも「ぼくら」を支配している。ーーというか、この観覧車が見える範囲が「ぼくらの街」なんじゃないかしら?
 「ふるさとの山」など、高さのあるものや巨大なものを見ながら育てば、帰属意識が生じる。必ずしも実際に目にしなくてもいい。たとえば、富士山。日本人は(個人差はあるものの)、富士山が象徴する何かに淡い帰属意識を抱いている。
 ※ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木

 ただし、この歌の文脈における「観覧車」には、「富士山」や「ふるさとの山」のような精神的な支えになるようなありがたみが感じられず、収容所の監視塔を思わせる抗えないニュアンスが、10%ぐらいぼかし込んであると思う。

 なお、結句の「了らない」という表記は、「終わらない」に比べると、「決着がつかない」というニュアンスが強くて、この歌の重要な要素のひとつであると思う。


13 観覧車のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】
 光森裕樹『うづまき管だより』

◆人類の文明を偲ぶ?

 「コーヒーミル」にある「観覧車のやうなる部品」というと、ぐるぐるハンドルが轢き潰しの歯車につながっているような部品だろうか。
 (これって「その部品が余ったらぜんぜんコーヒーミルになってないじゃんか」とツッコミを入れるべきなのか?)

 この歌、「観覧車のやうなる部品」とカタチから入り、机の上に散らばる部品や組み立て手作業を目に浮かばせること、もうそれだけで、読む側には満足感がある、と思う。
 多くの歌は心情的シナリオを芯にするが、この歌には、「心情」というほどの心情的イキサツを探す必要はなさそうだ。
 そのかわり、静かな情熱がある。細かい手作業に集中し……、失敗に気付いて軽く落胆し、そしてまた集中……、みたいな、手作業特有の、純粋で持続的な静かな情熱が。

  (だから歌の鑑賞も、心情抜きで、「観覧車」というものが、観念の部品として脳に届き、
   そこから読み手の解釈・鑑賞という細かい作業として取り組める。)

  以下、この歌のオマケ要素を考察。
  何かを分解したり組み立てたり、それをやりなおしたり、という行為には、ほんのり〝神〟の気分があると言える。
  余った部品を「観覧車」みたいだと思ったその一瞬、作業者の神気分は増幅する。
 「コーヒーミル」だったものを組み立てなおす作業はふと、むかし滅びた人類の文明のミニチュアを組み立てるような気分なのかも。ーーそういうことをチラッと考えさせるのが、この歌のオマケ要素である。


14 観覧車の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ
 吉田竜宇『ロックン・エンド・ロール』

◆走馬灯というか輪廻というか

 「なんどもする同じこと」って何だろう?
 最初は、観覧車のゴンドラの中で何度もキスしよう、といった軽い意味に思えたが、その程度のことだけなら、こういう言い回しはしないだろう、と考え直した。

 おもしろいと思うのは、「楕円の影にかこまれて」が、八方からスポットライトをあてられている状態に似ていて、しかもこの歌では、それがライトでなく、「影」であることだ。
 ーー光を浴びることの対極として、影を浴び、影に消される状態、というものを想像してみる。ーーそういう状態にあてはまることもあるような気がする。

 もうひとつ、「観覧車の楕円の影にかこまれる」という言い回しには、「観覧車が醸し出す娯楽愉楽の誘惑から逃れられない」的なニュアンスも感じらる。

 また、観覧車が回るものであることから、〝回る影〟という連想が派生し、わずかだが「走馬灯」への連想脈が生じそうになる。観覧車の形をした走馬灯……。
 回るということからはさらに、「輪廻」への連想脈も生じ得る。観覧車の形をした輪廻……。
 思い浮かべるものは人それぞれかだろう。私は、こういう〝連想の可能性〟を混ぜ合わせ、人々の人生の「観覧車」の影に囲まれ、それを影踏みのようにいくつも、踏み越えたり乗り換えたりしていくさまを見る気がした。

 末尾の「しようよ」の微妙な肯定と誘い。含まれる自虐や皮肉の分量はちょっと測りかねるけれども、これは「丘を越えゆこうよ」という唱歌のノリじゃないかと思う。

「いろんな生き方に囲まれつつ、生まれてから死ぬまでを生きる、というおんなじことを、何度でもくりかえしていこうよ」
というような意味合いで読み取った。


15 無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり
 鶴田伊津『百年の眠り』

◆月みたいな無力

 最初、「一人きり+観覧車」という言葉の組み合わせから、なんとなくドラマ的な想像を促された。(ドラマでは二人で観覧車に乗るのが定番の絵ではないか?)
 例えば、
「約束していた相手が来なくて(=振られた)、他人の気持ちは自由にできないと痛感し、その学びを心にきざむため、あえて、二人で乗るはずだった観覧車に一人で乗った」的なシナリオか。
 いや振られたとかじゃなくても、「何かの対人的な問題に悩んで、あえて観覧車のゴンドラという地上を離れた個室に乗り込み、一人で「無力」をかみしめる」的なシナリオもありえる。

 しかし、こういう〝ありがちなストーリー〟による解釈では読み砕けない要素がこの歌にはある気がする。

  そもそも、「ドラマ読み」という解釈法を、私は〝要注意〟と位置づけている。
 「ドラマ読み」は、その場面の前後にありがちないきさつを補うものだが、そういう形の推理は、有効な場合もあるが弊害も大きい。ーー変な喩えだが、短歌は、
殺人事件の現場に似ている。現場のわずかな手がかりや印象から「これは痴情のもつれ」などと早々に決めつけると誤認逮捕をやらかしてしまう。
(ただし、「ドラマ読み」こそが妥当な読み方である場合もある。意図してドラマ性を生かすように歌が作られている場合とか。)

 だからドラマを消し、言葉からニュートラルに推理できる要素のみで解釈を再構築してみる。
 「無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり」という言葉を、シナリオ抜きに眺める。……すると、「あ、月みたいだな」と思った。

 「空をよぎる」というフレーズは、半円の軌跡を思い浮かべさせる。それは、ちょっと「月」みたいだし、観覧車という乗り物は、ひとたび乗ったら自由に乗り降りできず、空の高みに吊り下げられ、下界を見るだけである点も「月」っぽい。この歌の「無力」は、そういう「月」っぽい「無力」じゃないだろうか。

 「月」はやさしく地上を見守るものとして親しまれているが、しかし、人が月になって天にただひとり浮かんだら、とても孤独を感じるだろう。

 書いてないいきさつは知りようがなく考えても無駄。それがなくても、この孤独な「無力」感を純粋に感受すれば十分だと思う。

   

16 観覧車まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり
 工藤玲音『水中で口笛』


◆映像のレトリック・思い出化&時間圧縮

 さっきの歌のところで、「ドラマ読みは要注意」的なことを書いた。
 しかし、この歌は、「観覧車+ふたり」それも、いかにも最終回みたいな雰囲気。このあからさまなドラマっぽさは、むしろこのドラマ性を生かして読んでくれ、というサインだと思うので、身を委ねて読もう。

 ーーひと夏の恋が終わる。それぞれの放棄できない持ち場(戦場のような)に戻る。ーー

 「ドラマ読み」のいちばんの利点は、読者が無意識に、テレビや映画を見た映像のレトリックをあてはめて、複雑な視覚効果をかんたんに享受できる、ということだ。

 「まるく晩夏を切り取る」ーー昔の写真アルバムの、丸やハートに切り抜いて写真をコラージュしたページを思い浮かべさせる。ーー思い出を観覧車の丸い輪郭で切りとる。ーーその写真を貼ったアルバム、ーーを閉じる映像。これが時の経過をあらわし、〝思い出化〟とその〝圧縮〟ができてしまう。

・ふたりで観覧車に乗っている。(ふたりだけで過ごしたひと夏を象徴する)
・カメラが後ろに引いて、その思い出の観覧車を遠くから見ている二人の後ろ姿。
・その写真の貼られたアルバムが開かれる。
・年月を経てその記憶はひもとかれる。

 というふうに、「ドラマ読み」に身を任せれば、場面がつぎつぎ重なっていく。

 また、「観覧車」が「まるく晩夏を切り取る」は、夕空を背景に観覧車がシルエットになる絵としての効果もある。ーーどこにも「夕空」と書いてなくて、リクツでは日中でもいいが、視覚的には夕空が最適だろう。読者の視点は後ろに引いて、二人の後ろ姿はしだいに遠く、そして小さなシルエットになっていく。

 「まるく晩夏を切り取る」は、最初「観覧車」の映像であったものが、落日の赤くて丸い太陽とも重なって、しだいに太陽になってしまう、というような、思いっきりドラマ映像的な効果もあると思う。


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく観覧車
 二三川練『惑星ジンタ』2018

 
◆抒情的で美しい〝ぼやき〟&神仏の崩御っぽい厳かさ

 「心さえ無かったならば」は何を言おうとしているのか。

 錆びる大きな観覧車の姿があまりにも無惨。そこから、
「もしも『いっときの愉楽と知りつつも求めずにいられぬ人の心』というものがなかったら、遊園地は存在せず、こんな無惨がさらされることもなかっただろう。」

というふうに感じているのではないだろうか。

 これは、世の中に桜がなければ春はのんびり過ごせるだろうに、というあの有名な歌と論法が似ていて、美しい抒情的な〝ぼやき〟である。

 それに加えて、神仏の崩御っぽい厳かさが漂っていることにも注目。
 「閉園のしずかに……」のくだりは、観覧車がすこーし「目」に似ているせいか、「閉眼する」「瞑目する」という厳かなイメージになり、錆びて朽ちていく観覧車のさまが、神仏の崩御みたいに思い浮かぶ人もけっこういると思われる。

 

18 吾という六十兆個の細胞を観覧車に乗せのぼりゆくなり
 大滝和子『銀河を産んだように』


◆細胞レベルのリフレッシュ

 「自分」というものを、細胞の塊である物体として強く意識している。
 観覧車は地上を離れて高みにのぼるもの。この歌では、自分の身体を総合する感覚が細胞レベルにまで初期化され、その描写によって「上昇」の迫力を描写している。
「上昇」によって心身の感覚が平常と変わり、体感として強く意識されるかもしれず、「細胞」を意識することもあるか、という説得力(あくまでイメージのなかで)があると思う。

 なお、「のぼりゆくなり」は単なる叙述に見えるが、一寸法師の歌の「京へはるばるのぼりゆく」とか、鯉の滝登りとか、力強い文脈で使われることが多くないだろうか。そういう勇ましさをそれとなく感じさせるフレーズである。
 この効果で、上昇感覚は人によっては恐ろしいかもしれないものだが、この歌では、細胞レベルのリフレッシュとして描き得ているのだ。


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車
 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

◆ヒトとモノの区別を超越する

 「君は……」と振りかぶるこの言い回し。内容もさることながら、この振りかぶり方が、まずは歌の重要なコンセプトだと思う。

 とにかく、「君」の本質が透けて見えるかのような臨場感がものすごい。
 「君」の本質は、「観覧車のような人」(美しい胸の中に秘めた機械で駆動する、精密な大じかけで、人々を魅了するような人)であるのだろうか。
 いやまて、「君」は、胸に精密な機械を秘めた「人のような観覧車」かもしれない。そんなふうに、人物またはモノの存在感にうたれた瞬間らしい臨場感がある。
 私は、次の2点に注目した。

①「観覧車のような人」/「人のような観覧車」どちらともとれる

 これによって、単なる比喩的な擬人化と一線を画し、「観覧車のような人/人のような観覧車」という生き物か否かを最初に区別するようなふだんの視点をなんなく越える。人は人の枠を超え、モノはモノの枠を超え、存在の特徴を理解する場に読者を立たせる。そこはもはや、人間観覧車/観覧車人間などという呼び方でさえ、余計な区別の残滓と感じるような地点である。

 よく見かける短歌の批評鑑賞用語に「擬人化」というものがある。それを使う批評文のなかには、「擬人化」したから何なの? と聞き返したいような文章もある。「擬人化」の効果を語らなければ評にならない。
 擬人化その他の「比喩」的表現には、大雑把にとらえるとだいなしになるような繊細複雑な用法がある。とくに、この歌のように2つのものを重ねて
区別を超越するケースを、乱暴に「擬人化」と呼ぶのはいただけない。 

②表現という行為の愛というか独占欲というか、がほとばしる

 「君=観覧車/観覧車=君」が「胸にしまってある機械で駆動する」という絵も、語感も字面も、すべてがすごい大迫力である。 

 ところで、花を見て「あらきれい」とスマホで撮影する。(さらにはインスタにアップするとか。)ーーこの行為には、対象への親しみや愛があって、支配・独占は言い過ぎだが、対象を「自分のものにしよう」という素直な意図がある。
 対象に何かしらの感動を覚えて、思わず言葉なり何なりで表現をする行為も、思わず花を撮影することに似ているし、この歌のようにいきなり本質を見て言い当ててしまうことは、非常に強いアプローチだと思う。
 たとえば古代の人は、みだりに名前を教えなかった。名を知られると自分の魂を取られ相手に支配されると思っていたからだ。(逆に、恋人に名を告げることは相手を受け入れることを意味した。
 この歌のように〝対象の本質を見抜くような表現〟は、〝名前を言い当てる〟ことに似て、すごく大胆な(相手の受け止め方によっては強引な)求愛ではないだろうか。

 「君は……」と振りかぶり、「観覧車のような人/人のような観覧車」という在りかたを看破し、そう知ったことの喜びをほとばしらせている。
 これは、いきなりプロポーズぐらいの迫り方である。(念のために言うが、「君」という人間の誰かへのプロポーズではない。) 表現者として、表現対象との関わりがドラマチックだという意味だ。表現方法・言葉のしぐさが、クライマックスであり、究極のものなのである。


20 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 栗木京子『水惑星』


◆「二人の意識のズレ」というモチーフ

 有名な歌なので、虫食い部分がすぐわかってしまうため、最後に置いた。

 「君」と「我」と「観覧車」という組み合わせは、さっき別の歌のところで書いたように、ドラマ系の想像をかきたてずにいない。
 というか、ドラマのような場面を思い浮かべずに読むのは無理だろう。

 なんらかのイキサツがあって、ーーそれは知らされないが、とにかくクライマックスの場面であるらしい、と、読者は受け止める。
 同じ時を過ごしていても「想ひ出は君には一日我には一生」という、二人の意識のズレは大きいし、そのズレを感じているのは「我」だけ(とまで書いてないが)であるようだ。 この二人、別れるにしろ、まだ続くにしろ、この意識のズレはそのままだろう、と思える。
 この意識のズレというモチーフは、びっくりするほど抒情性がある。この抒情から寸劇のようなものが思い浮かび、その場面を味わうだけで、長いドラマを見たような満足感を味わえる。
 
 このとき、ドラマの重要なシーンのように二人の顔がアップになる。おそらくどちらもおだやかだ。「我」は、意識のズレを考えていることなどおくびにも出さずにいるのだろう……。
 このとき、ガランガランと鐘(聞こえない音)が鳴り響く気がするのは、君には一日我には一生」という反復的表現の効果だと思う。
 これが名歌とされる所以は、この反復する鐘の音ではないかしら。始まりの鐘と終わりの鐘みたいに、歌のなかで鳴り響きながら、それが鼓動と重なる感じさえする。
 ドラマ的な歌だが、ドラマの視覚効果にあまり頼っていないこと、言葉の表現効果で醸し出されたドラマ性であることに驚かされいる。








短歌のなかの「観覧車」というアイテム
(まとめ的に)

 いわゆる「イメージの飛躍」、特にいわゆる「詩的飛躍」という現象では、なんらかの特別なつながりが生じていると思う。つながりが見えないから「飛躍」と呼ぶのだろうが、そこには見えない〝赤い糸〟が生じているはず、と仮定して、それを可視化したい、というのが、私(歌読み>歌詠み)のこだわりである。

※〝赤い糸〟=別々の物事を飛躍しつつ強く結びつけるなんらかの縁。アナロジー、アレゴリー、メタファーその他、言葉の表現は赤い糸だらけだと思う。

 その〝赤い糸〟の結びつきは往々にして複雑だ。ときには、風が吹くと桶屋が儲かるぐらいの紆余曲折もありえて、さっぱりお手上げのこともある。上記20首は、〝赤い糸〟が私にとって比較的見つけやすいものを選んだ。

外見の類似
 さて、飛躍したイメージを結ぶ〝赤い糸〟として、もっとも多く、わかりやすいのは、「外見や形が似ている」というものだろう。全く別のものどうしで形が似ていれば、視覚的には無理なく重なるため、意味の上でのかなりの飛躍に耐えられる。
 
 じゃあ「観覧車」に外見や形が似ているものって何だろう?
 実作を見る前には次の5つを予想していた。
  瞳、花火、向日葵、扇風機、地球儀

 はたして、蓋をあけてみたら、予想どおりのものがあったりなかったり、そして予想できなかったものもあった。

 歌にそう書いてあるもの、直接的には書かずに暗示されているもの、読んだとき私が勝手に幻視したものを含め、
 銀河、福引のガラガラ、ガトリングの銃口みたいなもの、コーヒーミルの部品、かたつむり
は、予想していなかった。

観念などの類似・連想

 必ずしも視覚的類似ではなく、体感や状況のアナロジーや観念のアナロジーで生じる〝赤い糸〟もあった。
 空に沈む、という水中に似た体感。
 高い夜空をゆっくり通過することと「月」の孤独、みたいなもの。
 また、「観覧車」は、人工の遊興設備だから、現世ですごす時を愉楽で満たすものという、観念上の了解を共有しやすいとも思える。そこから、「廃園」の荒涼感などを飛び石に、滅んだ人類の夢の跡、みたいな終末感へと至るのも、比較的見つけやすい〝赤い糸〟だった。

ドラマ性と映像のレトリック

 「観覧車+人がふたり」はドラマ的な連想を喚起する、といったことは、既存の〝赤い糸〟である。それらをうまく組み合わせて引き寄せることで、ドラマ等を見て刷り込み済みの映像のレトリックを喚起し、本来ならなかなか飛べない飛距離を出すこともあるようだ。


さいごに

 どうでもいいことかもしれないが、当初私が観覧車に視覚的アナロジーがあると思ったもののうち、ひまわり、扇風機、地球儀に見立てた歌は見当たらなかった。

 カタチはかなり似てると思えるのに、イメージの世界では結びつきにくいのだろうか。
だとしたらなぜだろう。単に、まだ類似に気づいていないだけか?


2025・1・20





 

2024年5月25日土曜日

虫食い式短歌鑑賞 第1回

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

自分ならここにどんな言葉を使うだろうか、というふうに、普通の読み方より積極的に歌に参加できるかもしれません。
(歌を探してきて用意する私は、「虫食い鑑賞」を体験できないので、どんな感じかわからないのですが。)

以下の歌で「●●●」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 該当の語をひらがなで書いた文字数とは
拗音がある場合一致しません。


■以下7首の虫食い部分には
 どんな言葉が用いられているのでしょうか?

以下の虫食い歌は、同じ意味の3音or5音の語のいずれかを含んでいます。

虫食いでなく普通の状態で今すぐ読みたい方は、下の方へスクロールしてしてください。

 

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の●●●で話してるだけ

2 しろき糸ひいて●●●はわたしたちみな液体と思ひ出させる


3 たましいに●●●はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう


4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ●●●擦れあふ


5 なめくじのつどい闌なる庭に●●●●●ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】


6 冷え症の足をさすって物語る●●●の宇宙でのあたたかさ


7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを●●●に変えた










以下ネタバレ




いかがでしたか。
答えは「性器」「生殖器」です。


考察:「総称」の使いかた


 「性器」「生殖器」という語は、使いにくいような、でも使いやすいような、ちょっとフクザツな使用感だと思われます。
 myデータベースの短歌は本日約12900首
 うち、「性器」or「生殖器」という語を含む歌は37首
 これはけっこう多いほうです。

 他の「◯◯器」を探したら、「循環器」「消化器」「呼吸器」は、ほとんど短歌に使われていないようです。
 (myデータベースの短歌に「循環器」という語を用いた歌はありませんでした。
  「消化器」は1首あったけれど「消火器」の入力ミスみたいです。
  「呼吸器」は「人工呼吸器」を詠む歌しかなく、臓器の総称としての用例はありませんでした。)
 とにかく、「性器」or「生殖器」が37首もあるのはすごい。
 短歌って言語活動の場としてはお上品志向だと思うけれど、どうしちゃった?

仮説
 歌を見ると、循環器・消化器・呼吸器は、そういう総称は詠まないが、心臓、血管、胃、腸、肺などの具体的部位名を詠み込んでいる。
だから「循環器」「消化器」「呼吸器」は総称を用いる必要を感じない。
一方、「性器・生殖器」は具体的部位の名称使用を忌避する婉曲表現として総称を用いるのではないだろうか。

 この仮説は、まことしやかだが、いかにもリクツだけで考えたようなマヌケ感あり。
 じじつ、みるからに実作と違う。むらむらと反論がわきおこる。

反論1 総称には総称として、具体的部位名とは異なる使い道がある
 循環器・消化器等の総称が使われないのは、具体的名称を使えるから、でなく、まだ総称の使い道を歌人が見つけていないから、とも考えられる。

反論2
 「性器・生殖器」は具体的名称の婉曲表現とは限らず、総称として使いこなされている
 具体的部位の名称が使いにくいゆえに「性器・生殖器」と言い換えている歌もあるだろうが、実作を見ると、総称としての「性器・生殖器」という語が活かされ、具体的な部位を詠む必要のない歌がけっこうある。

ゆえに、「性器・生殖器」は「循環器」「消化器」よりも先んじて、短歌の中で総称としての用途を開拓しているのでは? つまり、言葉の「性器・生殖器」は、短歌の言葉の世界ではある意味〝すすんでる〟といえないか?

 それに、本気で具体的名称を詠みたければ、歌人たるもの、がんばって詠むと思う。じっさい、探してみたら、けっこうありました。少しだけピックアップしておく。

わが睾丸つよくつかまば死ぬべきか訊けば心がこけ笑ひする
ルビ:睾丸【ふぐり】 訊【き】
北原白秋
キッチンにココアを練れば不覚にもふぐりは揺れてをとこでありぬ
斎藤寛『アルゴン』2015
おれの亀頭とおまえの陰唇は運命的に出会ってそのあと心がちょっと出会った
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015
クリトリスほどのゆめありベランダで麻のバッグをがしがし洗う
雪舟えま『たんぽるぽる』
思い出の一つにダリの絵を語り馬の首出る陰唇を言う
江田浩司(出典調査中)
すいません。わたしもあるよ!
長考の父よあたしは宙ぶらりん 膣に小さな蝶うかばせる
高柳蕗子『あたしごっこ』

それぞれの歌の鑑賞


ま、そういうことを考えながら、以下、各歌を見てみます。

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の性器で話してるだけ
 白野
  2024/5 東京文フリ38フリーペーパー(「ひねもす創刊号」宣伝用)より

 これこれ。この「別の性器」という言い方は、まさに総称として機能していると思う。
 この「別の」は「別腹」に似ていると思う。「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」のような話をすることを、別腹の性交渉、的に捉えているらしい。
 じゃあ、「海を見たいとか……とか……」のどういう要素を「別腹の性交渉的なこと」に分類しているのか。
 以下、私の解釈。
 「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」
 これらに共通するのは人恋しさ的な文脈でベタに使われやすい感じであることだ。
では、「別の性器で話す」ことは、人恋しい気分を人と共有しようとすること、なのか。
いや、人恋しい気分を人とベタな言葉で共有しようとすることなのか。
 後者に1票。(性行為ってかなりベタですからね。)

(末尾の「だけ」を書いたとき、性器によらない会話を想ったはずですが、多くのことはベタですから、めったに実現しないかも……。)


2 しろき糸ひいて性器はわたしたちみな液体と思ひ出させる
 吉田隼人
『忘却のための試論』2015

 まず、「しろき糸ひいて性器は」。ここには2つの連想脈が共存していると思う。
 ひとつは、かたつむりやなめくじ。実際に白い糸を引くものらのなかで形状や質感が性器っぽいもの、という連想脈で。
 もうひとつは父系の繋がり。観念の連想脈。「しろき」と言われて、「白い糸というと、赤い血縁の絆ではなく、父系の繋がりか」と考えそうになること。
 しかし、その2つの連想脈は、すぐに、「わたしたちみな液体」という難所に行き当たる。ここはいわゆる〝詩的飛躍〟で、かなりのロングジャンプを覚悟しなければ。
 でも、そこには幽かな連想脈のあるかなきかの淡い虹がかかっている気がする。それをたぐって飛べと促されている気がする。読者各自が独自に蓄えているイメージを、その淡いところにあてがいながら、どうにか渡れるようにと。

 で、以下は私の個人的深読み。
 「しろき糸」から男性器と父系の絆を連想。(女系の絆は観念上血の絆だし、具体的にも、女性器の奥の子宮には、卵の着床のために毎月赤いベッドが設えられるのだし。)
 そして形状などから、「かたつむり」っぽい「白い墨壺」(すみつぼ=材木に直線を引くなどする建築用工具。普通は黒い墨だが。)を連想。つまり、「しろき糸」を出すのはほとんど水モノ。水の源を考えると海か、もっと遡って空か……という連想も、しないけれどありえる感じ。
 一般的通念では「生殖といえば赤い血縁」⇒ふつう「白い縁は忘れられている」が、白い糸がそれを「思ひ出させる」
 そういうふうに、私のなかではつながった。

3 たましいに性器はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう
 佐藤弓生    『薄い街』2010

 なるほど、この歌で重要なのは、たましいに「性別はない」①とせず、「性器はない」②としたことだ。似たようなことに見えるが、①と②では「どんな服でも似あう」の意味合いがものすごく違ってしまうと思う。

 「性別はない」だと観念的ニュアンスになり、「ユニセックスファッション」のように、「男女の区別という固定観念を覆す」というようなアンチとしての意味が濃くなるだろう。
 一方、「性器はない」は即物的で観念以前のベーシックなニュアンス※だ。余計なでっぱりやくぼみがない(つるつるみたいでかわいいし)、という単純な意味でどんな服でも着られると受け止め、天国の子どもの無垢な解放感も感じ取れる。

※即物的でベーシック、といえば、古事記のイザナギとイザナミの有名な場面。(伊邪那伎の命が伊邪那美の命に、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処在り。故 此の吾が身の成り余れる処を以ち、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむ」と提案した。)
★たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998
)の出だしを少しかすっていることは、当然意識して詠んだはずだが、本歌取り的なものでなく、似た言い回しから全く別のことを詠むおもしろさがあると思う。

4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ性器擦れあふ
 西田政史
『スウィート・ホーム』

 「亜細亜とふ思案」については、人によって思いうかべるものがだいぶ違うだろう。なにしろアジアは広い。気候いろいろ、宗教いろいろ。(なにしろヨーロッパを除くユーラシア大陸全般)
 しかし、
この歌に関連しそうなイメージは、以下の通り。
・古代には文明が栄えたが、現在はそうでもない。
・貧富の差が大きくて、貧しい人がひしめいている映像をよく見かける気がする。
・都市と田舎の暮らしの違いも大きい感じがしている。
・気候はさまざまなはずだが、なぜかじめじめっとした熱帯雨林で多様な命(虫とか蛇とか)が湧きやまぬイメージがある。(熱帯はアジアに限らないわけで、南米やアフリカにも熱帯雨林はある、と知っているのに。)
・加えて、私には、「亜細亜」(アジア)という字面や語感も重要に思える。
 字面も音も、底を打つ感じを体現していて、「思案の底」の「底」感がすんなりわかる。

 総合すると、「思案の底」で、夕闇の熱帯雨林の葉擦れのように性器が擦れ合い、人というか命というか、いろんなものが生じやまない、なんだかものすごいイメージになる。

5 なめくじのつどい闌なる庭に生殖器ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】
 佐藤弓生 『薄い街』

 2番の歌でも少し触れたが、生殖器は、形状や質感が、かたつむりやなめくじに似てる気がする。人前でそういうことは口に出さないから共通認識にはなっていないのだが、多くの人がひとりでに連想しやすいのではないだろうか。
 この歌はふと感じたことをそのまま述べる、という詠みぶりであり、確かになめくじははだかんぼだから寒そうだ。
 加えて、「寒そう」には、「性」そのもの、「生殖」そのもの、--行為でなく〝仕組みそのもの〟の雰囲気も凝縮されている気がする。ーー倫理や宗教など社会的な抑圧感は、湿った裏庭にひっそり集まる感じ、とまでは歌に書いてないが、「陰部」という表現もあるし、たしかに、暖かい陽のあたらない日陰のイメージだ。
 更に言うと、性は、暴力性とか苦しみとかの面もあるし、性欲に翻弄されて愚かしいことをしでかすことも多いにもかかわらず、その欲がないと世の中が成り立たない……という矛盾をはらんでいる。総合すると、「生殖器」は矛盾のなかで秘匿され、寒そうというか、冷遇されていると思う。
 循環器も消化器も、自動で働く仕組みであって、世話がやけない。それに対して性器は特殊である。なにしろ相手のある行為だ。欲求や意志には個人差があって調整が難しい。(なんてめんどくさいんだ!)無理を通せば暴力になるし、そうでなくとも、行為自体に変な激しさがあるし、そのうえ出産には危険と苦痛が伴う。(神とかがこのシステムを作ったんなら、大いに文句を言いたいよ。へたくそ! 責任をもって改善しろと。)

6 冷え症の足をさすって物語る性器の宇宙でのあたたかさ
 雪舟えま 『たんぽるぽる』2011

 あたたかい? やっとコメントを書き終えた4番の歌と真逆ではありませんか。
 しかし、この歌の性器が暖かかったのは宇宙でのこと、ですよね。

 冷え性の人(冷え性はたいてい女性)が冷えた足をさすりながら、「宇宙にいる時は性器が暖かい」と物語っている。--いやいやいや、その読み方だと、「宇宙飛行士だった女性の老後の昔語り」みたいな、なんか不自然ないきさつを用意しなければならなくなる。

 ここが地球だとかそういう小さい視点じゃなくて、地球だって宇宙、という視点にたってみようか。
 それなら、この宇宙においては、血液の循環する身体の仕組みも、生殖という繁殖方法もユニークである、という考え方ができる。そういうスタンスならば、冷えた足をさすりながら性器というものの温かさについて物語る、という地球の日常っぽいシチュエーションが生きてくる。だから、私はこの解釈を採用する。
 

7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを性器に変えた
 瀬戸夏子
『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

 こういう歌は、人それぞれの解釈がすごく違ってて、人の解釈が自分と違うと不快に思えるほど読者が入れ込んでしまうこともある。だからみだりに解釈をほどこさずにだまって読んでおくほうがいい、ーーと思いますか?
 そんなの嫌だ。
 人それぞれ解釈のあるなかの私のそれ、という位置づけで書いておく。
(ぜんぜん違うと感じて腹がたったら、「けっ、勝手に言ってろ」とツバをはいて通り過ぎてください。私はいつもそうしています。ツバは冗談ですが。)
  • 突風にくずれて是と答える:これは性行為の承諾の形のひとつだと思う。
  • 左手ばかりを:片手だけであること。それは左手で右手ではないことに、幽かに意味がある。右と左には、様々な用例から、「右は能動的・合理的・強い/左は消極的・情緒的・弱い」といった対比的イメージが蓄積している。
    よって、「左手ばかりを」は、この「是」が消極的・情緒的で弱いた態度であること、「右」的な能動的合理的な強さがくずれてしまったことを暗示している、と思う。
  • 性器に変える:身体の一部を交接用に変化させるのはフィナーレではないだろうか。何かの生物の不思議な生態、みたいな感じ。そういえば、交尾しながらメスに食われるオスだとか、昆虫には生殖がフィナーレになるものがある。
  • この歌には、そういう究極の変身を読み取るのが妥当だと思う。
    性器以外は塵に帰るという、なんかものすごい諸行無常感も備えている。
    「左手ばかり」の「ばかり」に、そうか、手が何本もあって性器がいっぱい、などと考えてみるのもありだろう。
    こういうものを読むと、煩悩の八割ぐらいから解脱できてしまう。

 いかがでしたか。