2020年8月23日日曜日

青010 ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり 斎藤真伸

ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり
斎藤真伸『クラウン伍長』2013

腰から下の無い幽霊みたい


もとになっているのは花見の光景だと思う。

実景として、海と見まがうほどブルーシートを敷き詰めるとしたら、代表的なのは花見風景だろう。

(本当の花見の実景では、普通のレジャーシートなど他の色も混じっているのが普通であり、「ブルーシートの海原」は実景ではなかろう。
この歌は花見の場面に通じることは確かだけれど、かなり心象寄りであるはずだ。)

幻想的で美しい桜のもと、いわゆる「ハメを外し」て酔っぱらう人々のへんな勇ましさ。それは、喫水線の下部分のない艦隊みたいな感じ、ではないだろうか。

そして、この艦隊には、腰から下の無い幽霊みたいな心もとなさがある。
足下、というか喫水線以下は「ブルーシートの海原」になってしまって、本来ならその下にあるもの(地面や地下)と絶縁されてしまっているからだ。

ブルーシート≒絶縁


ブルーシートは、防水防塵のために工事現場などで用いるが、ニュースでは「あのブルーシートのあたりが事件現場です」などと、平和や安全が破られた目印のように目に入る。

その印象からだろう、短歌に出てくる〝言葉の「ブルーシート」〟は、水や塵を防ぐのでなく、「日常からの絶縁」を示すことが多いようだ。

 ★ブルーシートについてはこちらも御覧ください。


桜の木には腰から下がある

喫水線の下には深い海があるべきである。海には太古からの命の歴史がある。
「喫水線より下をもたざり」を地上に置き換えるなら、いわゆる「地に足のつかない」状態だ。

さっきこの艦隊を「腰から下のない幽霊」と書いた。一方、桜の木には腰から下がある。

花見というものには、日常のストレスを忘れる享楽的な面があるが、桜の木は、地に足がついている。太い根が強く地を掴んで、地から養分を吸い上げ、花を咲かせ、降らせる。そういう装置だ。

足下には、天からの恵みの受け皿としての大地があり、その地下には死者の国もある。
花見は、そういう天地のありかた、摂理を忘れない。享楽的ではあっても、生者のおごりをたしなめる要素を捨てていない。

この歌の、ブルーシートで地面から絶縁された人々の享楽は、喫水線から下がない。この歌は、花見より一段階すすんだ危うい享楽状態を捉えていると思う。


0 件のコメント:

コメントを投稿