加賀田優子 「なんたる星」2016年12月号
ブルーシート=日常世界との絶縁
「ブルーシート」は近年短歌に詠まれるようになって用例が増えている。
現物は、防水防塵のため工事現場などで使われるほか、レジャーシートなど、用途は広い。
短歌の中の「ブルーシート」は、事実を超えて、強い遮断、絶縁のシンボルとして使われるようだ。
日常で実際に目にするであろう工事現場のそれはほとんど詠まれない。
印象が強いのは、ニュースで目にする事故や事件の現場を覆うブルーシートだ。記者が「あちらのブルーシートのあたりが現場です」などと言う。
あそこに日常的ではない死があった、という目印のように、あざやかなブルーが日常から浮き出て見える。
日常からの遮断、絶縁のイメージは、そういう映像からきているのかもしれない。
この歌のように、死者を覆う「ブルーシート」に言及したり暗示したりする歌もぽつぽつとある。
(「ブルーシート」で人をくるむとなれば、そうとうに尋常でない死を思わせる。
死者は生者と隔てるけれど、一般的な死者なら、白装束と顔のうえにかける白布程度である。)
そんな状態の死を目にすることなどまずないだろうが、そういうふうに絶縁される死を思い浮かべる必要が、現在の世の中に生じているのだろう。
生と死にはもとより隔たりがある。
が、「ブルーシート」は普通の死を絶縁するのではない。日常世界で普通の扱いができない死を、とりあえずブルーシートで覆って絶縁する。
「ブルーシート」は建設現場などでよく見かける万能シートだが、印象が強いのは、ニュースの映像ではなかろうか。
(花見のブルーシートもなかなか興味ぶかい。長くなるので別項で書く。)
からあげ=弱肉強食
というわけで、この加賀田の歌の「友達がブルーシートにくるまれた可能性」とは、普通の死に方ではなさそうな訃報がもたらされた、という意味だろうが、注目したのは、そのことと「からあげ」との関係である。
この場面は、就職が決まって友人たちと居酒屋で乾杯しているところではないだろうか。そんな場面での定番である「からあげ」を頬張っていると、友達の一人が、何か普通でない死に方をしたらしい、と知らされる。
普通でない死に方というのは、自殺や他殺。社会の犠牲とか悪人の餌食とか……である。
声を落として話すような微妙な配慮が感覚を繊細にする。「からあげ」がなんだか弱肉強食的なことを想起させないだろうか。
春は明暗を分ける季節だ。
自分はいま仲間や同僚と居酒屋にいて鶏を食べる「明」の側にいるのだが、いつ「暗」の側になるかわからない。
「ブルーシート」で絶縁するもされるも紙一重である。
「からあげ」の味を、そういう弱肉強食の味としてを記憶した瞬間を詠んでいる。
一読でこのように感じたが、再読すると「解釈はご勝手に。ただし自己責任で」と突き放されるような曖昧さも絶妙だ。
安易な鎮魂ではない
人の死を詠む歌は安易に鎮魂の響きを帯びやすいが、この歌はそうなっていないところが秀逸だと思う。
鎮魂の言説の多くは、死者をなぐさめるよりも、自分側の「いたたまれない気持ち」「心苦しさ」を和らげる効果のほうが強い気がする。
「からあげ」がふさわしい (「えだまめ」じゃダメ)
弱肉強食だなんて考える必要はない、という人も多いと思うが、これがもし植物性のもの、例えば同じ字数の「えだまめ」だったらどうだろう?
「からあげ」なら弱肉強食のようなきびしい摂理をそれとなくプッシュして、勝ち残っていく冷酷を意識させる。
「えだまめ」だったら、同じ莢から出た豆の明暗を感じさせる効果はあるけれど、昔からあるような抒情化された境地※に落着してシビアにならない。
※例えば、「梅の花 おなし根よりは 生ひながら いかなる枝の 咲き遅るらむ」 藤原清輔
この歌は、いちおう現世の生存競争みたいなものを詠んでいる。自分が兄弟よりも出世が遅れているとそれとなくうったえたこの歌で同情をひくことに成功し、清輔は昇格できたらしい。
清輔さんは「牛と見し世ぞ」 もとい! 「憂しと見し世ぞ」の作者。
動物系の食物
なお、今、「からあげ」だけでなく魚を食べる歌など、動物系の食物を詠む歌が増えてぐんぐんイメージを吸着している。
便覧には載らじと思ふわが生にからあげクンを購ひ帰る
田口綾子『かざぐるま』
生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る
木下龍也『つむじ風、ここにあります』
死んでいるいわしがのどをとおるとき頭のなかにあらわれる虹
笹井宏之『ひとさらい』
伊勢海老のやうにぷりぷり働きて流されてゆく一日もいい
田村元『北二十二条西七丁目』
ご馳走のお礼に歌う 胃のなかの海老とわたしのほのおをうたう
雪舟えま『たんぽるぽる』
天ぷらになりかけのえびすみませんえびグラタンになってください
木下龍也『つむじ風、ここにあります』
食物に見出す抒情が、昔は自然の恵みを体に取り込むところに重点があったが、このごろ違ってきているようだ。
世の中の要請に応じて自分が食材として料理されていく、という方面の抒情を獲得しつつあるかもしれない。
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