ルビ:蒼穹(おほぞら)
藪内亮輔 第58回角川短歌賞受賞作「花と雨」より
蒼穹は便器かい!
現実世界には、し尿で海を汚染する事例があるが、この歌では、神までもが「蒼穹」に「ゆばり」を流し込んで汚している。
(倒置の「神も」がどこにかかるかで歌意が異なるのだが、ここでは「流しこんでる」にかかる、と解釈する。)
「それでいいんだ」は、神が手本だから人間がやったっていいんだろ、という揶揄的な言い回しだろう。
古典和歌には空を人の心情が立ちのぼる空間として詠むものがあったが、この歌は、現代の人が思い思いの夢を垂れ流し、蒼穹を心の便器としかねない、ということを言っているようだ。
蒼穹には浄化槽機能もありそうだが、「ゆばり」を流すろくでなしが多ければ、浄化処理がおいつかない。
空を汚染するということは、あとから自分たちに降りかかってくる、という含みもある。それはきっと取り返しのつかない事態だろうが、誰も、神さえも、責任を負わない。
――という、こんな解釈は深読みだろうか。
世界を水が循環している。人は水を飲んでおしっこを出すことで、その一部を担う。
そういった発想の歌が急増している気がする。
おしっこよ いつか海へと流れつきぼくの膀胱に戻っておいで
世界を循環する水としてのおしっこ
そういった発想の歌が急増している気がする。
おしっこよ いつか海へと流れつきぼくの膀胱に戻っておいで
寺井奈緒美『アーのようなカー』2019年
小便を仲立ちにしていま俺は便器の水とつながっている
相原かろ『浜竹』2019年
おしっこではないが、これも同じ発想だ。
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって
望月裕二郎 『あそこ』2013
玉川上水は飲み水用の人工の川で、見方を変えるなら、人体もその支流である。
(この歌は『あそこ』2013に先立って私家版『ひらく』2009年に収録されていた。望月はこの発想に先鞭をつけた一人といえると思う。)
おまけ おしっこの歌コレクション
好みで少しピックアップしておく。
小便をして犬は寂しく飛びゆけり火の如く野菜をかきわくる見ゆ
北原白秋『雲母集』1915
照る月の黄のわかものの尿道のカテーテル*** 聖母哀傷曲
ルビ:聖母哀傷曲(スタバト・マーテル)
塚本邦雄『綠色研究』1965
長身の父在りしかな地の雪に尿もて巨き花文字ゑがき
塚本邦雄『綠色研究』1965
放尿をさびしくしている草いきれ世界は今神話のように遠い
佐藤通雅『薄明の谷』1971
おしっこの終わりあたりは誰だって震えるものよ 消すよ 好きよ
飯田有子『林檎貫通式』2001
ここはひとつ順接でよろしからう春のひかりへむけるおしつこ
平井弘『振りまはした花のやうに』2006
赤んぼの頃から俺のおしっこはおむつを宣伝するために青い
嵯峨直樹『神の翼』2008
うちで一番いいお茶飲んでおしっこして暖かくして面接ゆきな
雪舟えま『たんぽるぽる』2011
山崎聡子『手のひらの花火』2013
新しい歌がわかるかわからないか尿試験紙のような反応
杉崎恒夫(出典調査中)
いづこにかナイフをやどす朝霧と知れどゆまりす遊びながらに
水原紫苑(出典調査中)
以上
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