2021年11月14日日曜日

満64 手に載せる

何かを手に載せる、ということを詠む短歌がときどきあるので、集めてみました。

まずは忙しい人のために、私の本日のお気に入りをピックアップ。

そのあとで、考察を加えたり分類したりします。

ピックアップ


生命さへ斷ちてゆかなければならぬときうつくしき野も手にのせて見る
ルビ:生命【いのち】・斷【た】
石川信雄『シネマ』1936

屋根のうへに働く人が手にのせて瓦をたたくその音きこゆ
佐藤佐太郎 『群丘』1962

てのひらに餌をのせつつ鳥を寄する老婆よ寺院のごとくに昏れぬ
葛原妙子 『薔薇窓』1978

旅行用シャンプーセット手のひらに載せて小さな旅人われは
俵万智『かぜのてのひら』1991

てのひらに頭痛薬載せわれに問ふすこしまじめに生きる方法
西田政史『ストロベリー・カレンダー』1993

運命線のない手のひらに落葉をこんもりと乗せ「あなたがきらい」
東直子『青卵』2001

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る 』2013

君に贈る青いビー玉ぼんやりと手に乗せしのちわがものとせり
花山周子『風とマルス』2014

春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて
大森静佳『カミーユ』2018

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
山崎方代(出典調査中)



興味のある方は以下本編も御覧ください。


何かを手に載せる歌

●抽出基準
 テキスト検索〈手orてのひらor掌 ✕ 載orのせor乗〉で抽出し、それから読んでみて該当する歌を絞り込む、という方法で集めました。

※このテキストを含まなくても、「手に何かを載せる/何かが乗る」という意味のことを詠む歌はたくさんありますが、この検索基準では対象外になってしまいます。
 例えば有名な
てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれ来る
大西民子『無数の耳』1966
は、情景としてはてのひらに花がのりそうですが、今回の検索では対象外です。

●詠まれる頻度

私の所持する短歌データ約12万首の中で約80首(約0.07%)が該当しました。
これはけっこう多い!
つまり「手に載せる」はけっこう好んで詠まれていると言えそうです。

※なお、同じ条件で頻度を比べると、俳句では0.03%、川柳では0.01%しか詠まれていませんでした。(あくまで私のデータベースの範囲内です。)
(短歌:81/118071 俳句:9/32638 川柳:2/13595)

Ⅰ 考察:手に載せるということ

 当初、いろんなものを手に載せてるなあと思い、載せる物を分類して楽しもうと思いました。
 が、途中から、詩歌の言葉として興味深いことを発見したので、前段にその考察を書きます。
 考察がうっとうしい場合は、歌だけ拾い読みしてください。。

日常場面の描写からはみだす表現

 詩歌の言葉、特に圧縮の強い短歌の言葉は、日常の言葉と違います。

 現実世界の場面において、「手に載せる」という行動というと、
 1 何らかのアクションの前段階
  ※食べる・渡す・捨てる・提示する等々
 2 大切に運ぶ
 3 手にとって観察したり、重さや分量を感じたりする(手秤)
というシチュエーションがほとんどだと思います。

 短歌には、そのような日常動作の描写として「手に載せる」場面を詠まれるケースがたくさんあります。

 ただし、詩歌の言葉、短歌の言葉は、現実を描写するだけにとどまりません。
とどめることができない、とも言えます。
 「手に載せる」ことになんだか事実描写以上のプラスアルファが添わずにいません。
 詩歌の言葉の本領は、そういうふうにはみ出した領域でこそ発揮されます。

1の例
芥子のたねひとり掌にのせきらきらと蒔けば心の五月忍ばゆ
ルビ:掌【て】・五月【さつき】
北原白秋『桐の花』1913
(種を蒔くために掌に載せる。でも、ただそれだけならことさらに「掌にのせ」などと無駄に字数を使いません。「五月を忍ぶ心」にとって、「掌に載せる、そして蒔く種のきらきら見る」ということが大切なプロセスである、と暗に示す表現です。)

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
山崎方代(出典調査中)
(危ういものを手に載せて運ぶ、そのものの性質に合わせて身体が適応し、バランスをとります。「手のひらに豆腐をのせて」と言っただけで、豆腐を運ぶ体感やしぐさが伝わってきます。)

芋頭手にのせ見ればひとところ青き力の芽ぐみいきほふ
馬場あき子『あさげゆふげ』2018
(「手にのせ」は何気なく思えますが、目を近づけ、上げ下げし、角度を変え、等の動作が目に浮かびます。これは、机に置いて観察する場合よりも、積極的に身体が関わった観察方法であり、芋頭が「芽ぐみいきほふ」さまを、目や手から吸収しそうに感じ取っているようです。)

このような歌を見ると、「手に載せる」と書くことで、具体的なその人のしぐさなども付随して表現され、意識させない隠し味程度にさりげない体感表現にもなりえることがわかります。

手秤で自分を計る という仮説

 そしてもうひとつ、前項の3の増幅効果らしいのですが、視覚効果に体感を加えたようなプラスアルファがあって、すごい表現がすでに獲得されているようなのです。

 現実世界でも「手秤」をすることがありますね。(料理のときに食材の分量や重さを「手に載せ」てざっと計るなど。)
 で、短歌の言葉のなかでは、その対象を心で吟味し、さらに自分とそれをつりあわせるかのような不思議なバランスで調整することがあるようです。

仮説ですが、

現象1 「手に載せる」=「秤に載せる」 秤となって心で計る→
現象2 「手に載せる」=「対象と同化する」 心の投影+身体の適応→
現象1+2  手に載せた対象に自分が同化し、自分自身を計る

というように関連付けられるのではないでしょうか。

 ウソー、と思うかもしれないのですが、実作に当たるとそういう歌がいっぱいあるのです。

身体や心の同化

 手に載せたものに身体が対応する--。
 短歌にはこの微妙さを詠むものがたくさんあるようです。

屋根のうへに働く人が手にのせて瓦をたたくその音きこゆ
佐藤佐太郎 『群丘』1962

 さっき引用した豆腐の歌では、手に載せて運ぶ豆腐に適応して体がふさわしい動きをする、その体感やしぐさが歌から伝わる、という意味のことを書きました。
 この歌も、「屋根のうへに働く人」が「手に載せて瓦を叩く」というのは、実に微妙な叩き加減・体感ですが、それを音として耳が聞くことを同時に味わう歌だと思います。
 この人は家の中にいる。とまで明記はしていませんが、家の中にいて、家屋の身体を通して間接的に音を受け取る、という位置関係の図を思い浮かべることで、この歌のすばらしさがMAXになります。

 短歌には事象に心情を投影して内省的な内容で仕上げるパターンが多いわけですが、「手に載せる」歌では、手に載せたものに身体が対応する→心身に同化する、という方向に転じていく傾向があるようです。

仰山な愛にはあらず掌にのせて重たきほどのこころにあらず
永井陽子『てまり唄』1995
(自分の心の重さを計るかのような表現。)

てのひらに粘土を載せて雨だつたり雲だつたりをゆつくり語る
古谷空色 「かばん」(掲載号調査中)
(手に載せているのが「粘土」でなく別のものだったら、語り方や語る内容が変わるのではないか。手に載せたものに主体が、支配されるほどではないが、影響を受ける。)

運命線のない手のひらに落葉をこんもりと乗せ「あなたがきらい」
東直子『青卵』2001
(手に載せたものに「きらい」という心理が投影されているらしい。「運命線がない」というのも、いかにも「あなたとは一切縁がない」という突き放し感がある。)

てのひらに餌をのせつつ鳥を寄する老婆よ寺院のごとくに昏れぬ
葛原妙子『薔薇窓』1978
(手に餌を載せて鳥を集める老婆=信仰で人を集めて暮れる寺院。視覚的にもなんだか似ているような気がしてくる。「手に餌を載せて鳥を集める」という行為と姿が、老婆と寺院との間で投影・同化されあっているような感じ。)

 こういうものと「秤」(手に載せること→秤)のイメージが組み合わさっていくと、後述の、自分自身を観察して計るような歌に仕上がるのではないかと思います。
 作者は意識していなくても、言葉がそういうことをやってくれるのです。

小動物の死を計る

 「手に載せること→秤」という系統には、手に載せて、命や生死を計るような歌群があります。
 なかでも、死にそうor死んだ小動物を手に載せる歌、つまり、「手に載せて死を見る・計る」かのような歌がすごく多い。
(歌人なら一生に一度は詠むネタじゃないかしらね。ーー良かった私はまだだった!ーーいや何べん詠んでもいいんだけど。)

秋ぼたる掌の窪にのせ嘆くとき蒼きひかりは指の間を洩る
河野裕子『河野裕子歌集』1991

新しき夏靴下を掌にのせる死んだカナリアの一羽のおもさ
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010

てのひらに凍った蜂をのせているフロアの奥に差す冬の陽は
加藤治郎『噴水塔』2015

てのひらに死んだふりする昆虫をのせて草生の陽に照らされる
齋藤史(出典調査中)

しあはせのおもみ九ぐらむぐらゐ目白の死体を掌にのせてゐた
渡辺松男(出典調査中)


自分の命を計る?

 小動物の命を詠むことのおそらく発展型のひとつと思えるのが、自分自身の命を計るかのような歌です。

生命さへ斷ちてゆかなければならぬときうつくしき野も手にのせて見る
ルビ:生命【いのち】・斷【た】
石川信雄『シネマ』1936

死にたくはないが生きたくない気分春の淡雪手にのせている
坪内稔典『豆ごはんまで』2000

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る 』2013


 堂園の「秋茄子」の歌は、いま短歌の世界ではとてもよく知られています。
 が、この歌が単独でいきなり自己の命を計るような表現として成功したわけではないでしょう。

 手に載せたものに自分を投影して同化し、自分の命を観察したり計ったりする。

 こんなにも複雑なイメージの歌が「いい歌」として広く受け入れられるのは、多くの「手に載せる」シチュエーションの歌が、有名無名を問わず詠み重ねられ、短歌の作者・読者双方の立場から無意識に慣れ親しんできて、もはや個でなく、短歌というジャンルの語彙として「手に載せる」が高度なイメージを獲得しているからだと思います。


 むろん、上記のようなことにあてはまらない内容の歌もたくさんあります。
 それらも多く詠み重なるうちに、なんらかのパラメータが満たされながら関わり合い、そこにまた新たなイメージが積もっていくのでしょう。

その他 相手に渡す歌

 やや関連して、自分の手でなく相手に渡す、あるいは人から渡される、という意味の「手に載せる」があります。

「手に載せる」ものと同化する、という幽かな暗示効果は、こういう歌群でも少しあてはまるようで、加えて、何か(特に食物)の手渡しは、手なづけるということに通じる場合があります。
 さらに、「手に載せたものに合わせて身体がバランスを取る」ことから、相手を一時的にそれとなく支配する、相手の優位に立つ、といったことにも通じるでしょう。

なんとなく片手に載せてさしだした豆菓子をきみはもらってくれた
阿波野巧也 「詩客」2017.05.06
(手渡すのでなく「手に載せてさしだ」すという形は、相手を尊重している形です。それはむろん「手なづける」というほどの策略ではなかったでしょうが、結果として「やった!」というような成功感はあるようです。)

「芸をしない熊にもあげる」と手の甲に静かにのせられた角砂糖
穂村弘『シンジケート』1990
(前半はサーカスの熊にごほうびを与えるようなセリフです。後半、不安定で落としやすい「手の甲」に載せるとあるのは、「手に載せたものに合わせて身体がバランスを取る」ことから考えて、不安定なぶん強く相手を支配する置き方です。すごく繊細な心理描写。)

てのひらに頭痛薬載せわれに問ふすこしまじめに生きる方法
西田政史『ストロベリー・カレンダー』1993
(薬を渡されお説教されている場面でしょうか。--自問の歌ととれなくもないけれど。)

 他にもこういう解釈が少し当てはまりそうな「渡す歌」を少しあげて、考察は終わりにします。

もぎとった氷柱をきみの手に乗せて乗せ返されてゆっくり溶けて
馬場めぐみ(出典調査中)

雪が死ぬ速度をはかる手のひらに裸の飴をのせてあげるね
平岡直子(出典調査中)


Ⅱ 手にはいろんなものが載る

手に載せるもので分類します。
考察はつけません。
なお、歌は、Ⅰに引用した歌と重複する場合があります。

1 そんなん載るんかい!?

まず目につくのは、普通なら手に載らないものを載せる歌です。

でかい

生命さへ斷ちてゆかなければならぬときうつくしき野も手にのせて見る
ルビ:生命【いのち】斷【た】
石川信雄『シネマ』

★「手乗り○○」とくればたいてい大きい

抽斗に隠した手乗りパンダらが囀り脱皮の合図をおくる
ゆきあやね「かばん新人特集号」1998

桃色の手乗り象たち小器用にピスタチオ割る午後十一時
植松大雄『鳥のない鳥籠』2000

表札と手乗り地蔵は硫黄ガス受けども朽ちず強き祈りで
酒井真帆「かばん新人特集号」2015


人間

遠景のものなりければ十月のわが小家族てのひらに載る
葛原妙子『朱霊』1970

てのひらに人間ふたり載せられてなぐさめあっていれば夕立
土井礼一郎 「かばん」201912


抽象的なもの・実体のないもの

空の風船の影を掌の上にのせながら走り行きつつ行方も知らぬ
ルビ:空【そら】・掌【て】・行方【ゆくへ】
斎藤史『魚歌』1940

気まぐれに乗せてみる雪溶けてゆく雪の時間がてのひらにあり
河野裕子『母系』2008

生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらに乗せ手を温める
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る 』2013

あの人はいつでもそうと言うときに手の上にのせられる万年
山階基「未来」2015年6月号 「風にあたる拾遺」

手に乗せてナイフを入れる十六夜の月の匂いは梨だとおもう
山階基「風にあたる拾遺2017-2019」(出典調査中)

ほんのりと好きだつたそのほんのりを掌にのせていまは撫づるひとりで
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

見渡せる町のひろさをてのひらに載せて記念写真を撮ろう
國森晴野『いちまいの羊歯』2017

春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて
大森静佳『カミーユ』2018

2 食物


手に載せるものとして食べものはよく詠まれるが、食べるためとは限りません。

果実

「手に載せる」もので特に多いのは食物で、そのなかでは果実が目に付きます。

太陽のあたたかいあさ掌にのせし果実のおもみに泪おとしぬ
加藤克巳『螺旋階段』1937

白きはな散りすぎしとき沙羅の木の青き木の實を手のひらに載す
ルビ:木【こ】
斎藤茂吉『白桃』1942

手のひらにのせればとろりと溶けそうなはまなすの実の赤の言い分
俵万智『かぜのてのひら』1991

桃一顆掌にのせ撫ずればみずみずと生れしばかりの吾子の匂いす
中川佐和子『海に向く椅子』1993

あんずの実わづかな傷を手にのせて一年ぶりの誕生日来ぬ
目黒哲朗『VSOP』2013

青胡桃の匂ふひとつを手にのせて囚はれやすきこころも寂し
大西民子『無数の耳』2014

あばかれてゆくかもしれぬ愛ゆえにレモン一顆を掌にのせており
江田浩司(出典調査中)

いろいろな食物

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る
山崎方代(出典調査中)

手のひらに豆腐ゆれゐるうす明かり 漂ふ民は吾かもしれず
川野里子『青鯨の日』1997

秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013

芋頭手にのせ見ればひとところ青き力の芽ぐみいきほふ
馬場あき子『あさげゆふげ』2018

手のひらに乗せたプリンをじゅるじゅると吸い上げてゆく蝶のくちばし
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

ふんわりとクリームパンを手にのせる寝ぼけ眼の朝のテーブル
ルビ:眼【まなこ】
蔵本瑞恵『風を剖(さ)く』2000

てのひらに卵をのせてひさしきにさわだてるべしとほき雪の原
葛原妙子 『原牛』

われらもよ愛し合うには不具なるを寒卵一つ掌に乗せてゆく
江田浩司(出典調査中)

3 日用品・小物

お金

お金を手に載せる歌のほとんどは受け渡し系です。

銭入にただひとつありし白銅貨てのひらに載せ朝湯にゆくも
ルビ:銭入【ぜにいれ】・白銅貨【はくどうくわ】
古泉千樫『青牛集』1933(没後)

南吉のかあさんぎつねのように子の手の上に載せる銀貨一枚
駒田晶子「詩客」2013.07.19

次の歌は直に手に載せていませんが。

レシートへ硬貨を乗せる 客の掌にわれの冷たき掌がふれぬよう
沼尻つた子『ウォータープルーフ』2016


芥子のたねひとり掌にのせきらきらと蒔けば心の五月忍ばゆ
ルビ:掌【て】・五月【さつき】
北原白秋 『桐の花』1913

手のひらに西瓜の種を載せている撃たれたような君のてのひら
山崎聡子『手のひらの花火』2013

手にのせる朝顔の種一粒の種より鳴れるパイプオルガン
小島なお『展開図』2020

いろいろな小物など

屋根のうへに働く人が手にのせて瓦をたたくその音きこゆ
佐藤佐太郎 『群丘』1962

てのひらに薄き茶碗を載せてゆくわれみづからに傅くごとく
ルビ:傅【かしづ
葛原妙子『鷹の井戸』1977

旅行用シャンプーセット手のひらに載せて小さな旅人われは
俵万智『かぜのてのひら』1991

てのひら頭痛薬載せわれに問ふすこしまじめに生きる方法
西田政史『ストロベリー・カレンダー』1993

てのひらに石の螢をのせながら大学図書館地下へ降りゆく
吉川宏志『新星十人』1998(書下ろし「鳥と淡雪』)

鬼灯を手のひらに乗せ鬼の字を落とさぬやうに日に透かし見る
岩井謙一『光弾』2001

唐びとの骨がほんのりにおうまでカップを載せたてのひら はだか
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006

あかいレゴブロックひとつ手にのせて想うは二人用の棺おけ
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

手のひらにいくつ乗せても楽しいよ茄子のかたちをした醤油挿し
五島諭『緑の祠』2013

君に贈る青いビー玉ぼんやりと手に乗せしのちわがものとせり
花山周子『風とマルス』2014

スターバックスコーヒーのふたに手を乗せる 冬の中には台形がある
永井祐『広い世界と2や8や7』2020

てのひらに粘土を載せて雨だつたり雲だつたりをゆつくり語る
古谷空色「かばん」誌(時期調査中)


4 手を乗せる


最後に、「手に」でなく「手をのせる」を少しだけ。
「手を載せる・乗せる」に比べるとものすごく少ないです。

犬とゐて犬の毛なみに光る風手をのせてわれもひかりて居らむ
小玉朝子『黄薔薇』1932

スターバックスコーヒーのふたに手を乗せる 冬の中には台形がある
永井祐『広い世界と2や8や7』2020


ついでなので「手を置く」も軽く検索。
これもそう多くはありませんでしたが、ざっと好みで絞って少しだけあげておきます。

廻診の医者の遅さよ!/痛みある胸に手をおきて/ かたく眼をとづ。
石川啄木『悲しき玩具』1912

手を置かむ外套の肩欲しけれど葱の匂える夕ぐれ帰る
寺山修司(出典調査中)

重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け
吉野秀雄(出典調査中)

テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥のひとみ
ルビ:海鳥【かもめ】
東直子『春原さんのリコーダー』1996

もう既に死んでいるのさどれくらい遠くに両手を置き去りにした
江田浩司(出典調査中)

両膝に両手を置きて立ち上がる長く書きたる午後の椅子より
岡井隆『銀色の馬の鬣』2014



短歌は以上。軽く絞り込んだだけで載せたので、全体としてひじょうに歌数が多くなってしまいました。

★追記
どうでもいい個人的な興味で、何色のものを手に載せるのかもカウントしました。
81首中、青5、赤3、白3、黒0、黄色0
青の勝ちー!
  

★追記 俳句と川柳

俳句と川柳は私のデータの中では該当句がとても少なかったので、絞らずに全部載せます。
果物や小動物が多いのは短歌と共通した傾向です。

俳句

空蝉をのせてすなほな掌 後藤比奈夫 『後藤比奈夫俳句集成』

てのひらにのせてくださる柏餅 後藤夜半『彩色』

手にのせて火だねのごとし一位の実    飴山實

ふるさとを語り掌に載す巴旦杏    伊藤京子

夜が二つ出逢へり朱欒手にのせて 渋川京子

てのひらに載りし林檎の値を言はる 日野草城

ひとの手の葉月ものいふ鳥を載せ 中嶋憲武 『祝日たちのために』2019

冬深し手に乗る禽の夢を見て 飯田龍太『山の木』

手に乗せて天使の重さほどの雪 鈴木伸一「吟遊」第46号より

川柳

汝が恋は蝶の屍を掌にのせあるく 中村冨二『千句集』

恋すてう 蝶の屍を掌に乗せ歩く 中村冨二『千句集』

2021年11月14日