2025年2月21日金曜日

虫食い式短歌鑑賞3

 虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。

※伏せ字「●」は1音を表しています。

  例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●

これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。

「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。


■12の扉 ●●●●●

今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。


1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空

2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴

3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み

4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

5 蓋ひらきたる●●●●●覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば

6 一つずつ落としこみおり●●●●●をポップコーンで埋めようとして

7 ●●●●●の蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
   ルビ:鞠【まり】 載【の】

8 ●●●●●の蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる

9 ●●●●●の五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり

10 ●●●●●の模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえる●●●●●
  ルビ:anywhere out of the world 【ここでないどこかへ】

12 ●●●●●にひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった



 いかがですか? 
〝詩的飛躍〟のせいでわかりにくいところもありますが、なんとなく見当がついたのでは?
 












以下、回答、考察と鑑賞です。




回答 マンホール


Ⅰ 考察(前半) 「マンホール」の普遍的イメージは?

 

普遍的なイメージのモチーフを予想

※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。
 本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
 
 まず、歌に詠まれる「マンホール」は何を表すのか。ある程度は普遍的かと思われるイメージモチーフを予想してみる。
 「どうして? 予想などせずに、ニュートラルに読めばいいじゃないの」と思うかもしれない。
 しかしそもそも脳内環境はニュートラルではない。少なくとも私の脳はいつも、意識化できていない不審なものでどろどろ状態だ。
 そんな泥んこ脳をかき回しても、根拠の怪しい思い込みやあやふやな納得感しか得られない。
 多少なりとも確実性を高めるため、「普遍的と思われるもの」という受け皿を用意し、実際の歌にあたって検証する、という方法をとる。予測に縛られる面もあるかもしれないが、予測内容の妥当性を実際の歌を見て検証することも可能だし、足場が硬ければしっかり読み解くこともできるし、予測できなかった独自な要素も見落としにくくなるとも思う。

というわけで、「マンホール」の普遍的なイメージモチーフの予想

a マンホールは地下領域(見えない国)への出入り口。
  覗き込んでも、深さ1,2メートル程度が垣間見えるだけ。
  この地下には計り知れない国がある、という印。

b マンホールの下は複雑な迷宮 だが人は気にかけていない。
  上下水道や電気ケーブル等、人間社会の血管みたいなものが埋設されている。
  そのことを、わたしたちは知識として薄々知っている。
  知っているが見えないから存在の実感が希薄で気にかけない。  

c 地下は不可侵の場所・忌避感
  ①下水管は暗くて汚なそう。
  ②地下は死者の国。
  ③深層にはマグマ。

d マンホールの蓋は地下を封じる
  忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
  遮断して忘れ去る

e 忘れられた存在
  地下には、忘れられたものがある
   (日陰者、たとえば皆から忘れられている窓際族。)
 
f 虫が旅立った痕跡
  地面にあいた穴は、セミなど昆虫が出た痕跡。
  そこから、「時が来れば、解放や脱出が可能」というシナリオが喚起され得る。
  「5」の、地下に忘られていたものもいつか時満ちて、地上へ空へと旅立っ等。

 以上が、鑑賞に向けて用意した「受け皿」のイメージモチーフである。

  歌にはいろいろな解釈が成り立つ。私はできる深読みは積極的にする。
 「詠む」と「読む」という二種の詩心が、繊細な指相撲のように楽しく攻防するような、エキサイティングかつ精密な鑑賞をこころがける。

Ⅱ 各歌の鑑賞

 さて、掲出歌は、myデータベースにあったマンホールの歌22首から、なんとなく好みでピックアップした12首で、歌の順番はランダムである。


マンホール閉づればマンホールのうへの明るくて これ 秋の大空
  渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023

 「閉づれば」が効いている。
 マンホールの蓋をしたとたん、それより下の世界が閉ざされる。そういう決定的瞬間みたいな感じだ。
 その上にあるのは明るい地上。さらに上には秋の大空だ。(とびきりの晴天だろう。)
 そして、このように上の世界を描くことで、「反転的な対称の位置に、閉ざされて暗い地下世界があり、更にその底には闇の天蓋がある」みたいな構造を提示し得ていると思う。

 「地上に対して地下は反転的構造」という構造把握を、私はいままであまり意識化してこなかった。が、無意識領域でなら思い浮かべたことがあったような気もして、これは「普遍的イメージモチーフ」の〝なりかけ〟段階かと思う。

 ★地上地下の反転的構造……
  

マンホールみしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
  渡辺松男『雨(ふ)る』2016


 地下の秘められたパワー。これは、「地下」が持つイメジャリー(心象を喚起する作用)の一つだ。そのパワーを、この歌は実に珍しい捉え方で表現している。
 誰でもなんらかの形で地下のパワーを感知する。暗闇を流れる水の気配、地中の死者の怨念、深層にたぎるマグマ等々もあり得るが、一般的に「マンホール」という題材は水音を聞く歌になりやすいと思う。(22首中4首あった。)
 ところがこの歌では、なんと、マンホールを見たとき変な気分になり、鼻血が出て「重力」を感じている。
 この場面がもし現実なら、具合が悪くなって鼻血も出て、心身ともに不安でうろたえている状況ではないだろうか。くずおれそうになり身体は、たまたま目にしたマンホールに地下からのパワー感じ取り、「ぢゆうりよく」を意識した。
 弱った身体はセンシティブだから、身体そのものの想像力が高まることがあると思う。地球の「重力」が高濃度で(まるで放射線とかみたいに)マンホールから染み出す。それに自分の身体が応答して、同じ穴である鼻から血が流れだす。ーーそういうふうに身体が空想的に感受している生々しさが、この歌の核心であると思う。

 ★体感/地下と身体とが呼応


丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびくマンホール踏み
  佐波洋子『時のむこうへ』2012

 マンホールで地下の水音を詠む歌は少なくないので、他との違いが重要だと思う。
 この歌で他と違う要素として注目したのは、この人物がいま坂を登りながら地下の水音を聞いている、という点だ。
 夜、家路の坂道で、足下の水音響くマンホールを踏む。
 ーーそこから何を読み取ろうか、と少し迷う。
 仕事などの疲れの仕上げのように坂を登っているのだろうか。そのときこの水音はどう聞こえるのか。その手がかりになる要素は提示されて無い。
 だから、例えば「たくましい水音に励まされるかな」とか、「坂を上り下りする水と自分の生活を重ねるのかな」とか、ありがちなシナリオに踏み込んでみると、「なーんか違う」と引っ込めたくなる。
 「水」が自分と並行して坂を上り下りしている、という事実を検知したのかもしれない。それはマンホールを踏んだとき一瞬重なっただけの、〝無縁寄りの縁〟※である。
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。

 感情移入したり自分に重ねたりせず、自分と水という二つの現象が、今たまたま並行しているという淡い無縁。この世界には、さまざまなものたちがそれぞれの有りようで、同時に無縁に存在する。自分と万象との縁も〝無縁寄りの縁〟であり、それが世界の一部としての自然な在り方だ、というような、ーーいや、踏み込みすぎましたね。

 ★淡い無縁、あるいは〝無縁寄りの縁〟

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
   笹井宏之『てんとろり』2011

 ぶっ飛んでるなあ。
 地下の心は地上の人間の理解を越えている。そういう感じ、新しい捉え方だし、愉快だ。
 マンホールの蓋がひゅーんと飛び交い、がっちゃんと入れ替わる。
 派手なパフォーマンスだ。地霊のフォークダンス的ないたずらか。でも、意味不明すぎるし実害がないし、人々は、目にしなかったふりで通り過ぎるかもしれない。
  さっきの歌のところでも感じたことだが、このごろの短歌は、自分との無関係さのニュアンスを精密に捉えるし、同時に「読み方」もそういう点を味わいそこねないように注意するようになってきた。つまり、「無関係さ」というものが詩的に追求するテーマの一つに昇格※したのである。この歌はその辺境を示すフラッグのひとつだと思う。
 「無関係さ」が詩的に追求されていくなかで、「地下」もその出入り口の「マンホール」も新たな意味を帯びてくるだろう。
かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
  
 ★「無関係」の辺境地帯

 

蓋ひらきたるマンホール覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば
   藤原龍一郎『19××』1997

 「レッドスネーク、カモン!」は、「東京コミックショウ」という夫婦芸人のコントで、赤青黄の蛇のパペットを使うもの。緩い芸風はほのぼのとした笑いを誘った。
インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
 知っている者には懐かしい、今はないお笑いを、記憶の地層から呼び起こそうとする。
 末尾の「呼べば」という言いさしが気になる。呼んだらどうなるの?
 「何も起こらず、虚ろに声が響くのみ」ならいいが、「思い出の亡霊が、地下で成長し、マンホールの太さのとんでもない大蛇となって出て来ちゃう」というのもあり得る。なぜなら、物語(特にホラー系)でたまに見かけるモチーフに、「安易に呼びかけたり触ったりして、とんでもないものを呼び覚ましてしまう」というのがあるからだ。※
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
 また、星新一の「おーいでてこーい」※を思い出したのは私だけではなかろう。ーー穴に向かって「おーいでてこーい」と叫ぶと、それがああなりこうなり……、とにかく良くないことが起きてしまう話だ。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説
 だが、この歌には、不吉さを中和する白魔法のようなものが働いている。あのまぬけ面のパペットが大蛇になったところで、たいして怖くない。緩い芸風への懐かしさがこの空想を安全化してくれていて、ワタシ的には、その中和感が、この歌の味わいどころだと思う。

 ★過去と現在混ぜるな危険!

一つずつ落としこみおりマンホールをポップコーンで埋めようとして
  飯田有子『林檎貫通式』2001

 穴を埋める、から連想したのが、その反転的イメージのモチーフ「空という大穴を、人間は夢や願いで埋めようとしている」をどこかで見た気がする。ーー「心の虚しさを投影して、空という虚ろを何かで埋めようとする。がそれは不可能で虚しい。」という感じのモチーフは、まだじゅうぶんに認知されていないかもしれないけれど、見たことがある。※
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。
地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
 この歌は、その「空を夢などで埋める」の「空」を「地下」に、「夢」を「ポップコーン」に反転したっぽく、うまく呼応していないだろうか。娯楽的場面に似合うポップコーンは夢がはじけたみたいな感じがしなくもない。
 そこには、地下は不要不都合なものをいれる場所(最悪は放射性廃棄物の埋設)だというイメージがほんの一滴ぐらいなくもない。が、しかし、この歌は不思議な明るさも備えていて、「最終処分」というほどの絶望には至らせない。
 ポップコーンは最終処分の汚物というほど禍々しくない。ーー天地反転の構図に重ねるなら、ちぎった白雲みたいだし。そういえばコーンは種だ。一度はじけちゃったからもう芽はでないだろうが……。そうしたことが歌をそれとなく救っていると思う。
 (さっきの「レッドスネーク」の歌にもこの種の作用があったっけ。)

 さらに深読みだが、救い要素としてもうひとつあえかなものがある。ポップコーンを穴に落とすことから、ちらりと「おむすびころりん」を想起しかかった。「食べ物を穴に落とす」のは、現実世界と違ってイメージの世界では「吉事」である。
 「おむすび」は地下のネズミたちと知り合うきっかけだったし、お爺さんのふるまいによっては結果は良くも悪くもなる……。つまり、ポップコーンはもう芽を出さないとしても、地下との新しい関係の可能性はある。

 ★イメージの世界には現実世界と違う「吉事」がある
 

マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
  ルビ:鞠【まり】 載【の】
  小池光 『草の庭』1996

 この歌のマンホールの蓋、なぜ「くるしく」濡れているのだろう。
 現実的にいって雨だろう。マンホールの蓋には雨水を受け入れる穴アキのものと、雨水を入れないものとがあるが、どっちにしろ地上と地下の境界を守る苦労をしている。「雨にも負けず」に。
 そして、若草色の軽い鞠と、地味な色で(たまにカラフルなものもあるが)すごく重たいマンホールの蓋という対比には、なにかほほえましさがある……。
 そのさまは、なんだか、苦労人のおじいちゃんにかわいい孫がちょこんと乗っかっているような……。
 で、おじいちゃんは、無表情だがちょっと幸福で、孫の軽さを味わっているような……。
 それと、この歌になんだか「めでたさ」のようなものも感じるのは、「マンホール蓋+鞠」のカタチが、少し「鏡餅」を思わせるからかもしれない。
 他の歌にもあったが、この歌も、マンホールのイメージを救うイメージをそっとしのばせていて、苦労をねぎらっているかのようだ。

 ★苦労人マンホール
 
 
マンホールの蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる
  佐藤涼子『Midnight Sun』2016

 「世界」が主体。「春」こそはこの世界の、いわば定期リフレッシュの季節である。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」のも「世界」。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」という作業を実際にするのは人間だろうが、人間も世界の一部であり、日々の行動も世界の摂理の一部である。
 「春は定期的に来るリフレッシュの季節」というのは、歌人なら誰でも一度は詠むと言っていいほど昔からのポピュラーなモチーフだ。
 それゆえ他に紛れない要素も大切で、この歌のそれは、自然界の定期リフレッシュに、人間が人工物「マンホール」に対して行う〝定期メンテナンス〟的な行為を含めている点だと思う。これは一味違う。
 古典では春の訪れを雪の変化で表すことがよくある。雪の下から草が現れる等だ。「マンホールの蓋の雪をどかす」ことは、そういう詠み慣らされた情景を現代に合わせて描き変えたように見える。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)
雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな
出羽弁『玉葉集』1312
 そしてこれは、単に新しいモノを詠み込んだだけではない。
 私が短歌をはじめた40年前(1980年代)、短歌の言葉の世界では、「自然」と「人工物」が対立関係で捉えられ、しかも「自然」は尊く「人工物」は卑しいという詩的身分差別(?)が当たり前のようにあった。しかし、家電やパソコンが普及した今では、頼もしい人工物たちに守られて(例えば冷房がなかったら死者が出る)暮らしている。必然的に「人工物」の詩的地位は向上し、貴賤感覚はずいぶん薄れてきた。
 この歌は、そうした意識の変化を反映し、「春の訪れ」という伝統的モチーフ※においても、詩的対立も貴賤もなく共存してみせている。

※季節の訪れと人工物
 さして古典に詳しくはないが、和歌における「春の到来」は、自然界の兆候を捉えて詠むのが普通だったようだ。雪解け、野の草、鶯、梅の臭いなど。
 そのため、「季節の変化は自然の変化を捉えて詠む」と拡大して決めつけそうになった。が、たまたま見つけた「法則」的なものは、なべてあやうい。
 例えば「夏の到来」は、とっくの昔の万葉集に「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」と、人が干す洗濯物(人工物)を「夏の到来」の指標にして詠まれてるもんね。

 ★短歌の世界にも「今はそうなってんのー!」がある
  ※タイムズカーのCM(「タイムズカー」という新システムに合わせて働き方を変える場面の叫び)


マンホールの五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり
  小島なお『展開図』

 春の到来の歌に続いて、こんどは「五月」到来の歌。
 こちらは、「事象をピックアップすることで全体を表す」という換喩※。目にした「マンホール」と「磨り硝子」と「卵サンド」だけで、「五月」がまんべんなくあらゆるものに来ていることを表す。
 (この種の換喩に触れた最初は、子供の時に聞いた、サトウハチローの「ちいさい秋みつけた」だ。)
 ちょうど目に入ったものを列挙しているさりげなさ。でもそれは、少ない例のピックアップで全体を表すために、あふれかえる万象の中から適切に選ばれたものである。
 「マンホール」「磨り硝子」「卵サンド」は、「さほど景色の良くない場所、たとえば会社の裏庭で昼食をとっている」と、驚くほどに場面を絞り込んでくれることに注目。
そして、「そんな場所でさえも別け隔てなく「五月」は来てくれる」というふうに、定番の(貧しい窓にも月光はさしこむ的な)おとしどころにきれいに着地している。
 なぜ景色が悪いのか、なぜ会社の裏庭か、と思う人もいるかもしれない。
 なぜなら、「磨り硝子」は、表側の窓ではなさそうで、事務所の奥の資料部屋など、外から見えず外光を入れたくないような窓を思わせるからだ。(マンホールがあるなら水回りのものが近い。炊事場や、トイレの窓の可能性も……。)
 また、戸外でお弁当とくれば「うららかな日差しのなか、小川のほとりの草地で」というシチュエーションがステレオタイプであろうに、そこにあるのは小川でなく「マンホール」であること。ステレオタイプは無意識であることが多いから、このサジェスチョンも無意識領域で、淡く意識化されないままの、いわば隠し味になっていると思う。

※換喩(かんゆ):メトニミー(英: metonymy)は、小難しく言えば「概念の隣接性あるいは近接性に基づいて語句の意味を拡張」なんだそうだが、このウザすぎる説明が無駄に敷居を高くして、必要な人に普及しないのだ。
 換喩は「赤ずきん型の喩」と呼ばれる。「赤ずきんをかぶった子」を「赤ずきんちゃん」と呼ぶ。そういうふうに一部の特徴で全体を表すものだ。「青い目」で「西洋人」を表したり、「鳥居」で「神社」を表すようなこと。「春雨やものがたりゆく蓑と笠(蕪村」も換喩だ。「一部で全体を表す」と平たく説明できる、これを「換喩」と言うんだよぅ。ったくもう。なお、類似を接点にする「比喩」は「白雪姫型の喩」という。王妃が「肌は雪のように白く云々」と望んで生まれた子だから。
 この「換喩」とい語を、短歌の批評用語に加えたくて、この40年、折に触れて意識的に使ってきた。「換喩」を知っていればあっさり読み解ける歌があるし、換喩を普通の比喩ととりちがえると解釈がとんちかんになっちゃうからだ。ところが、この言葉、なぜか全く普及しない。私はもはや古希。これからも「換喩」という言葉の必要を感じないような短歌鑑賞が続いてくのかしらね。めでたいな古希。

 ★ステレオタイプをこっそり隠し味に
 

10 マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
  鈴木ちはね『予言』

 天から降る水の一部は人の街や人体を巡り巡って海に至る……。
 マンホールの蓋のデザインは地域地域で異なっていて、地域地域のイメージを記号化したともいえそうだ。
 マンホールのあるところには下水管などが通っている。これは当たり前なのだが普通は意識しない。マンホールデザインとその地域性という話の最中も、水流とともに歩くという意識は希薄だったと思う。
 ところが、海に出ていきなり、この旅人(いや、ただの散歩かもしれないが、地域性の話でかすかに旅人意識が喚起され)たる歩みに地下水流のイメージがオーバーラップした。人と水管の水が同時に海に到着したかのような、いっしょに旅して来たかのような、そういうふうに少し遡って、かすかな一体感を、「感じそう」になっている。(「感じた」までは届かないぐらい。)
 ついでに、水の旅のイメージとの一体感は、話し相手との一体感にも及んで、こちらも少し遡る感じかな、などと思った。
 さっき、地下と体感でシンクロする歌があったけれども、この歌は、人が共有する観念世界と現実の地下の水管とがシンクロしかかったみたいでで、けっこう新感覚だと思う。
 
 ★足下の水の道と頭の中の観念世界が平行移動

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール
  ルビ:anywhere out of the world【ここでないどこかへ】
  佐藤弓生『薄い街』

 読んだとき、そういえば星マークのマンホールをよく見かける気がした。いや、それはよくかかる言葉の魔法だろう。現実のマンホールは、地域それぞれのデザインになっている。 (ちなみにうちの近所は花柄だ。)
 でもそんな事実は気にせず魔法にかかろう。ーーうんうん。マンホールには五芒星が描かれていそう。
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
 さて、五芒星は呪術的だ。何かが封印されていて、そいつが出たがって蓋を揺らしているのかもしれない。
 それだけでなく、五芒星には、封印した何かを遠く「ここでないどこかへ」と旅立たせるようなミラクルパワーがありそうな気もする。UFOとも縁がありそうな雰囲気だ。
 それとは全く別ジャンルだが「五」の仲間の「五輪塔」もちょっと連想した。
 うちのお墓は「五輪塔」というカタチ。子供の頃に住職に聞いた話では、「五輪塔は、自然界の5大要素(空、風、火、水、地)をかたどり、また人間の五体(足・胸・胸・顔・頭)の意味も兼ねていて、空と語り、発信する」とのことで、お墓がそういう装置であることに驚いた。ちょっとロケットに似てるし。
 というわけで、何物かが時満ちて、マンホールからどこか宇宙にでも旅立つのではないか。地中で幼虫時代を過ごした昆虫が羽化して飛びたつみたいな感じで、何がでてくるのかそそられる。

★神秘的な期待


12 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった
  藤本玲未『オーロラのお針子』2014

 この歌も、地中の虫が羽化して旅立つイメージが重なっていると思う。虫の羽化を描いたのではなくて、それは隠しアレゴリーみたいに、歌を裏付けていると思う。「ぬいぐるみ置いて」は、セミが抜け殻を残すことと重なる。
 このマッチング! この味わいだけでご飯が食べられそうだ。
 隠しアレゴリーは、叙述されていることが不可解でも、何か別の他のことで脳が体験したイメージが裏から補強する。読んで意味がよくわからくても、謎のまま立体的理解感(造語です)みたいなものが生じる。(私はこの「立体的理解感」がすごく好きだがこの感覚は人による。)
 立体的理解感の説明になるかどうか、ーーグラフィックソフトには「レイヤー」を重ねる機能がある。隠しアレゴリーというのは、別レイヤーの絵を、透過度10%程度に淡く重ねている感じだ。
※レイヤー=階層。グラフィックソフト等における、絵や設計図の仮想的なシート。複数のシートを重ねたり、別々に編集したりする。透過度も調節できる。
 
 何かが星を出ていってしまうらしいSF的な味付けもいい。(これもレイヤーの一つだ。) 
 彼らは地下都市に住んでいたが、何らかの理由、たとえば自然破壊とかで、星を脱出しなければならなくなった、みたいないきさつだろうか? 「ぬいぐるみ」は、自分たちが去っても星が淋しくないように置いていく「埴輪」(副葬品)のようなものだろうか? 地下を封じる重いマンホールの蓋は墓石に通じる。
 「だいすきだった」と言って〝ここ〟を去るというのは、ちょっと胸キュン(これ死語?)なアニメみたいで、深刻になりすぎないように調節された描写だとも思う。
 そうしたいろいろを総合して、この歌で、心の儀式みたいなものを体験した気がする。
 自分はまちがった場所にいるような、故郷はここではないような、そういう違和感を宥めたり鎮めたりするらしい歌が、2000年を少し過ぎた頃からときどき目に入るようになった。「ここを去る」という心の儀式もその一つだと思う。
 

 ★レイヤーで立体的理解感
  「レイヤー」を短歌の批評用語にしようよ。レイヤーを重ねてるような歌がけっこうあるんだから。


Ⅲ 考察(後半) 「マンホール」イメージの活用

歌を詳細に読む前に、予想したイメージモチーフはざっくり以下の6つだった。

a マンホールは地下領域への出入り口。
b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。
c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)
d マンホールの蓋で地下を封じる
e 地下に封じられ存在を忘れられる
f 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。

 さて、実際に読んでみたところ、上記は、ある程度は当たっていたと思う。
 しかし重要なのは、違いを感じた点や予想を超える展開だ。
 それでこそ予想をしたかいがある。
 詳細は、各歌の鑑賞に書いたので、以下、気づいたことのみを列挙する。

● 「反転世界」という図
 地下と地上を「反転」の位置関係で捉える。
 私の予想にはなかったもので、これは収穫だ。

● 「無関係」「無縁」を詩的に追求
 現実世界では、地下への無関心は、単なるそれにすぎない。
 しかし、いくつかの歌に見られた「無関係」「無縁」という感覚は、詩的に極める方向で詠まれている。

● 忌避感を体感で
 忌避感を詠む歌があることは予想していたが、体感で捉えるのは想定していなかった。

● 「地下」へのアプローチ&新式の蘇活
 予測中は「忌避感」を重視していたのだが、これは当たらなかった。
 「地下世界への出入り口」と「地下に封じる」は、おもしろ展開し、マンホールに向かって思い出のもの(スネーク)を呼んだり、食べ物(ポップコーン)を投げ込んだり、と、地下へ能動的にアプローチする歌が印象深かった。
 また、地下を「死者の場所」として忌避するのでなく、「思い出や夢が葬られている場所」という懐かしさのほうにシフトした「地下観」が出来かかっているかもしれない。
 そして、いったん葬られたものは、何らかの新しい方式でよみがえるかもしれない。そのわずかな可能性が生じているみたいである。
(死者を呼び起こすとゾンビになるが、思い出や夢のようなものは新しい方法があれば蘇活するかもしれない。)

● 旅立ち
 予測のひとつに、蓋をされて封じられる立場というのがあったが、私が想定した日陰者めいたメンタリティの歌はなかった。
 そのかわり、昆虫の羽化のようにマンホールから旅立つらしい歌があった。
  
● いわゆる「味変(あじへん)」
 「マンホール」という比較的新しい(まだ詠み尽くされていなくてイメージ開拓中の)題材を、伝統的な題材やステレオタイプ化したモチーフと組み合わせて、新感覚へと転換する。そういう使い方をしている歌もあった。

 というわけで、
 全体として、私の予想などいくら超えてもかまわないと思えるほど、歌たちには、たくましい表現意欲の裏付けが感じられた。

 考察の前編に、「詠む」と「読む」という二種の詩心の指相撲のような鑑賞をめざすと書いた。実際、格闘するように鑑賞文を書いた。

 鑑賞は言語化をする「読む」側が有利だが、二つの詩心の指相撲は、互いに手加減せずにせめぎ合ったすえ、「詠む」が煙に巻いて勝ち逃げするのが理想だ思った。
 まだ、そういう名勝負のような鑑賞が書けない。
 

2025・2・13