2023年1月26日木曜日

雑件摘録3★語感の素敵 2022年後半~2023年前半

 語呂や語感はばかにできない。その効果は説明し難くて、微妙です。

ことばことばと何回も言っていると、脳裏のそのまた裏あたりに「小鳩」がちらっとよぎります。ませんか?

語呂の良し悪しは、声に出し耳で聞いて、自分の言葉のセンスにまかせて味わうもので、良し悪しの感覚には個人差もあるようです。

それでも、同じ母国語(私は日本語)の下地を共有している人の多くに、一定の語感効果をもたらす現象はある。

といったことに関連する雑感を、ときどき書き留めます。



■横書きにしないほうがいい 2023・1・26

語感じゃないけど、こういうのは横書きにしないほうがいい。

冬の日は墜ちーぽんの葦のこる
富澤赤黄男

つい「ちーぽん」と読んでしまう。


■「うつしみ」といえば 2022・11・10


「うつしみ」は、現在生きている身、という意味。

ただ、はじめて耳にしたのは小学生のときで、当時、駄菓子屋さんで売っていた「うつし絵」みたいなものかと思いこんだ。

だって、古典の勉強をしていなければ、「うつし」という語は「移す」「写す」としか聞こえないでしょ。

移し絵=糊を塗った台紙に絵が印刷してあり、水にぬらして物にはりつけてそーっと紙をはがすと絵が転写される。(なお、透ける紙を使って絵を写し描く遊びも「うつし絵」と言っていた。)

小学生のときは文意を理解していなかったと思うが、その前後にもはかない雰囲気が漂っていたのだろう、
「この世界にあるのはその投影された「影」であり(=本体がどこかにある)、
 私もみんなもその「影」であり、
死んだら次のからだにしんみりしんみりのりうつっていく」
みたいな感じで、それを視覚化して思い描いた。

さて、あとから正しい意味を知ったわけだが、その後も、「うつしみ」というと同じ絵が思い浮かび、その不思議な儚さを切り離すことはできない。
が、無理に切り離す必要を感じないほどしっくり来る。これって私だけなのだろうか。
「うつろう」という語とも語感の親和性が高いし。

うつしみのうつろひ繁したとふれば肺腑沛然(はいぜん)たる雨の中
塚本邦雄『黄金律』1991


みたいな感じ。

ついでに、なぜか、「雨」とセットになりやすい感じ、だったりしますか?

雨季ゆゑに濃く太き雨そそぐときうつしみ吾の憂ひは消えよ
佐藤佐太郎『群丘』

気のせいかも。
うつしみの歌をもう少しあげておこう。

うつしみの吾(わ)がなかにあるくるしみは白(しら)ひげとなりてあらはるるなり
斎藤茂吉『ともしび』

うつしみの人皆さむき冬の夜の霧うごかして吾(わ)があゆみ居(を)る
佐藤佐太郎『帰潮』

うつしみという語うかびてよぎりたり眠りの中にまだ街はあり
三枝浩樹『時禱集』2017

うっすらとインクの染み うつしみのわたしをうつすことのない空
北川草子『シチュー鍋の天使』


影絵より影をはずししうつしみはひかり籠れる紙に向きあう
内山晶太『窓、その他』

うつしみを滝落つるなりきみあらぬこのうつしみを華厳の落つる
水原紫苑『武悪のひとへ』


■枕詞の一方通行 2022・11・2

枕詞は言葉の不思議ちゃんだ。そう思える要素がいくつかあるが、そのひとつが一方通行であることだ。

どういう意味かというと、「『ぬばたまの』は闇や黒にかかる、『ひさかたの』は光や日にかかる」などと覚えるけれど、

逆に、「○○にかかる枕詞って何かないか?」なんて考えてもほぼ無駄である。こちらの都合で探してもたいていは、無い。

いや、「逆引き」できるサイトは一応ある。だから「『秋』にかかる枕詞ってあるかな」というふうに探すことはできる。(「露霜の」だって。)

でも、枕詞は人が意図して作ったわけではない。
だから「『ぬばたま』が黒にかかるなら、赤にかかる枕詞もあってしかるべき」と思っても、そもそも、そういう具合にいろんなことをカバーしようという意図から用意されたものではないのだ。

冗談で、「しろたえの詩論ぬばたまの句論」と書いてみて、いい対句だと思ったのもつかのま、「『しろたえの』は『ころも』とかにかかるものじゃんか!」と気づいてしまった。

ここは「たくづのの詩論」などとすべきだろうが、それだと語感的にはいまいちになる。

でもね、それでも、枕詞にはなんだか魅力があってそそられ続けてしまいませんか。

しろたえの殺し文句と人乳は薄いからすすり続けてしまう
高柳蕗子 「かばん」2015・6


■意味がわからないとモンスター化 2022・10・27

医学か何かの論文のタイトルでこういうものがありました。

「血中に一過性に出現した易動度が速い小腸型アルカリ性ホスファターゼ」

なんか血管の中に青いナメクジが生じて意外な速さで前進を巡るような恐ろしさだ。


■偶然の出会い とんとんトモダチ 2022・10・27

急に寒くなったので、そろそろと思って手袋を探し出し、テーブルにちょっと置いたところ、
近くにトントンつながりのトモダチがいた!!

ミトン・クルトン・レキシントンで記念撮影しました。

「とん」がつくものはいろいろありますが、この組み合わせは総合的に語呂が良いし、ジャンルのバラバラ具合も絶妙だと思います。

●最初の「ミトン」を「布団」にかえてみる。アクセントが変わる。

ミトン・クルトン・レキシントン ↘ ↘ ↷

フトン・クルトン・レキシントン ↗ ↘ ↷ こころなしか弾みが悪くなる。


●レキシントンをバドミントンにしてみると?

ミトン・クルトン・バドミントン

アクセントは同じだが、「レキシントン」のクリアーな響きが、「バドミントン」では濁って重くなり、魅力激減。


●「クルトン」が「リプトン」だったらどうかなあ?

ミトン・リプトン・レキシントン

アクセントは同じだけれど、口があまり動かない「クル」のおとなしさに比べて「リプ」はシャープな刺激的な語感。


というわけで、この先、もし忘れなければ、

ミトン・リプトン・レキシントン

を超える組み合わせを探し続けたいと思います。


■挙動不審 2022・10・19

「挙動」はほぼ「挙動不審」という形で使われる。

単独なら、立ち居ふるまい、動作というだけの意味だが、「挙動」だけでも、きょろきょろするような落ち着かない不審なふるまいを想起させる。


■同音の脳内変換と語感  2022・9・22

同音異義語はおもしろい。

全く異なるものが同音という縁で脳内で出会う。意識することなく取り違えることもあるし、ダジャのようにわざと混乱させて楽しむこともある。

語感に関わるのは、完全な同音として意識しやすい場合ではなくて、曖昧に似た言葉だと思う。

完全な同音でない場合は、「似ている」と意識されないままに、言葉Aに言葉Bのイメージが重なりそうになることが多い。

重なるのではなくて、重なりそうになるのだ。
つまり脳内に変換候補としていくつかの言葉が想起され、「これかな?こっちかな?」と吟味する過程でそれが起きる。

たとえば、「ノウゼンカヅラ」という花の名前は、最初の「ノウ」がなんだかすごく重い。

「ノウ」は、「脳」「濃」「能」「悩」という、比較的重い(少なくとも軽くない)イメージの語に変換されそうになる。


■コロナ感染症の名称  2022・9・15

「新型コロナ感染症」っていまだに言っていますが、いつまで新型って言うつもりでしょう。

適切にネーミングする余裕がなく話題になっちゃうと、もうそのまま使い続ける、っていう例ですね。

変異株の名前も、地名だったりギリシャ文字だったり、数字だったり、一貫させられなず不揃いなのもやむを得ないと思います。


■略称スマホ 2022・9・13

最近は商品やイベントなどなど、何でもネーミングの時には略称まで考えるのが普通らしいですが、以前はそうでもなかったと思います。

スマートフォンがみるみる世の中に行き渡ったころ、略称を考える機会がないまま、しかたなくスマホになっていったように感じました。

「スマートフォン」は長すぎる。
でも、「スマフォ」や「スマフォン」はなんだか言いにくい。
「スマホ」「スマホン」なら言いやすいけれど、「フォ」を「ホ」にすることにちょっと抵抗があり、しかも、「スマ」はなんだか「須磨」に通じ、そこに「ホ」をつけると「穂」か「帆」を連想しやすくて、それはモロ日本画的な和風のひびきだから、新しい電子機器に少し似合わないじゃないの、もっとこう、キリっとピカっとした略称にならないのかしら。

--と世のひとびとは無意識にかるーく悩んでいなかったか?

でも、誰かがテレビとかで「スマホ」と言い放ち、それを聞いて「ま、いいや、スマホでも、気の利く和風の秘書さんみたいで」というふうに一気に傾いた気がしている。
(完全に私見)


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