2025年1月29日水曜日

ちょびコレ25 レジ袋

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

レジ袋

(この項、2024年9月に公開しましたが、加筆して
 2025年1月に公開し直しました。)


最初にいちばんのお気に入り1首

この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋

(題詠「塵も積もれば」)
山下一路 「かばん」2020.3
『世界同時かなしい日に』2024に収録

 私のデータベースの短歌中、もっとも美しく悲しく詠まれたレジ袋である。

 この歌は、「かばん」恒例の新春題詠イベントで、「塵も積もれば」という題に対して詠まれたもので、そこに込められた皮肉もポイントが高い。(イベントでは54首出詠された中で1位の得票だった。)


 なにやら哀切で美しい歌だが、山下一路には社会詠が多い、と知っていればピンと来る。この歌は、「塵も積もれば」という題に、「レジ袋による海洋汚染」で応えていると。海中に沈んでゆくレジ袋を「投身をする少女」という哀切なものに見立てて描くのは、婉曲かつ強烈な皮肉なのである。

 こういう詠み筋の歌はめったにないと思う。一般に海洋汚染を述べる文脈において、レジ袋は海を汚すプラスチックごみ、つまり悪なのだ。しかし、この歌は物質の側から見ている。もとは地球のまっとうな成分だったのに、人の都合で自然界に相容れない素材に加工され使い回され、そのあげく、粗末に捨てられた。レジ袋のそんな無念を表したのが「投身をする少女」という見立てなのである。

 この歌は、「塵も積もれば」という題に、二種類の積もるものを提示している。

土にも海にも還れないレジ袋は、「汚染物質」として海に蓄積する。

こんな物質に誰がしたかといえば人間だ。が、個々の人間の罪は小さくて、それが積もった海洋汚染という大罪を、個々人には贖えないこと。これが最も深刻な「チリツモ」だろう。

 「レジ袋」と「投身をする少女」という結びつきは、一見美しいけれども、その結び目を解けば、右のような含意が涙のようにあふれ出てくる。山下一路を「社会派」とヒトコトで片付けたくないのは、社会悪を糾弾しその犠牲を悲しむだけでなく、人々が罪を小さくして分け持っていることも悲しんでいるからだ。これは山下一路の大きな特徴だと私は思っている。

 故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。  まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。


さて、では、いろいろなレジ袋の歌をみてみよう。

●レジ袋を持って

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵万智 『サラダ記念日』

レジ袋を詠む歌の中で比較的多い取り上げ方は、レジ袋を下げて歩くシチュエーションだ。それはたいてい、日々の食料や必需品を買って帰るところであって、日常の平穏、ささやかな幸福感を描く。

スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに
沖ななも『白湯』
ちょっと奮発してメロンなどを買ったかな?

スーパーの薄い袋を柑橘で充たして運ぶ春の自転車
嵯峨直樹『半地下』

二人で持つシチュエーションは、二人の関係などを表す。

感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』

さみしさを二等分してレジ袋あなたの方がわずかに重い
toron*『イマジナシオン』


こういう歌もあった。
二種類のインスリンも入るレジ袋柿の実色づく道を帰りぬ
足立晶子『はれひめ』2021

「インスリンも」の「も」には、「いつもなら夕飯の食材など楽しみなものが入っているのに」という気持ちの省略が込められている。

毛色の違う歌を見つけた。

レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015


 神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。--これも日常場面を詠む歌だが、なんだか記述以上のことを感じる。
 上の句では左右の手の動きを述べ、下の句では遠い視点からの絵に切り替わるという、ふたコマの絵になっていることがミソだと思う。  
 スーパーの袋(食料などが入っている)を下げて歩くヒト。その手が疲れたか、ちょっと持ち替えてまた歩き出す。(「右手から左手に」の字余りは、持ち替える動作を感じさせて効果的だ。)
 それは、神社の前、樹齢何百年の大樹の前だ。命を超越する神、タイムスパンの長い大楠、そしてせいぜい百年しか生きない人間、という、異質な存在の3者がたまたま重なる。
 そういういわば概念の奥行きのある構図の中で、ヒトが手の疲れというとても小さな問題を解決する。そんなささいな音もない一瞬の命の現場、という実にさりげない臨場感。
 非常に精密な歌であると思う。 

●半透明

レジ袋の多くは半透明だが、まだ「半透明」という特徴を詠む人は少ないようだ。

半透明レジ袋ゆゑうつすらと中身の見えてこれはアボガド
喜多昭夫
『青夕焼』

アボカドの濃すぎる緑とパプリカの黄に紗をかけているレジ袋
喜多昭夫『いとしい一日』2017

※「紗(しゃ)をかける」という言葉を知らなかったので調べました。
紗とは生糸の織物の一種、透過性のある細い糸で荒く織り込まれた布。レンズに被せて被写撮影し
写真のイメージをソフトにすること。


●レジ袋が生き物などに見える

兎ひとつ座れる形にレジ袋ベンチにありて夕暮れてゆく
小潟水脈『時時淡譚』

枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった
千種創『砂丘律』2015

ワタシ的あるあるは白猫。
足元に白猫がいて、踏まないように跨いだらレジ袋とか、
白猫が阿波おどりしてると驚いたがレジ袋だったとか。


●先行きの不安

レジ袋が生き物にみえることに関係すると思うが、風に翻弄されてふと命を帯び、舞い踊りながら飛ばされていく姿は、先行きの不安を感じさせることもある。

風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか
従順なレジ袋たち河口まで運ばれふいに惑いはじめる
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015

秋の道ひかりを抱いてぱるぽるとレジ袋ひとつ転がりてゆく
千葉弓子@ちば湯「かばん」2025年1月号新春題詠「袋」
※作者名は1月号にはなく、後日明かされた。

 この歌は、一見幸福感を詠んでいるように見える。が、今は期待に膨らんで「ぱるぽる」と楽しげに転がっていくレジ袋には、悲しい末路しかない。じきに希望の光は消えて残酷な未来が来てしまう。つまり、現在の「明」のみを書いて、未来の「暗」を暗示するというレとリカルな歌であると思う。
 未来のわからなさはときにトリックかとさえ思えるが、この歌のレトリックはそのトリックを体現しているようにも思える。

●レジ袋の要不要を告げる

レジ袋いりませんってつぶやいて今日の役目を終えた声帯
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013

世界とのあいだにいつも「あ」を挟む あ レジ袋つけてください
まるやま(『短歌ください 君の抜け殻篇』2016より)

レジ袋断り牛乳素手で握る2020を生きているきみ
伊藤紺 (「短歌「いま」」2020年7・8月 特集:癒やしながら より)


●レジ袋有料化

レジ袋は2020年7月1日有料化された。
時事ネタのためか、世間話のような感じ。

ともかくも今の幸せ享受するレジ袋代五円を払って
蒼井杏『瀬戸際レモン』

西友のレジ袋(M)2円なり買うとき今日は怒りが湧いた
染野太朗 「詩客」2013-02-22



 レジ袋の歌は今のところこんな感じ。
 数年後にまた様子をみたい。


2025年1月29日


2025年1月20日月曜日

虫食い式短歌鑑賞2

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

「●●……」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 
 例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●

    文字数は5ですが音数は4


20●●●●●

今回の虫食いワード●●●●●は、短歌においてはけっこう人気の高い語です。
以下、20首をピックアップしました。
作者名も伏せてあります。
(答えと作者名、および高柳の詳細な鑑賞が下の方にあります。)


1 ●●●●●極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに


2 ●●●●●ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分


3 ●●●●●は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり


4 青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく●●●●●


5 「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」★★★★★★(談)


6 どうしても●●●●●が動いている様に見えない春の疲れであろう


7 闇の彼方に●●●●●青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり


8 まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に●●●●●点れり


9 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり●●●●●その役目を終えて


10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大●●●●●


11  銀河とは誰の●●●●●であろう回転をして止むことのなし


12 遠くても●●●●●だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬


13 ●●●●●のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】


14 ●●●●●の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ


15 無力なることを知るため一人きり●●●●●にて空をよぎれり


16 ●●●●●まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく●●●●●


18 吾という六十兆個の細胞を●●●●●に乗せのぼりゆくなり


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する●●●●●


20 ●●●●●回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 



いかがですか?
●●●●●に入る言葉はわかりましたか?


キーワードは、空・高い・ゆっくり・乗る・回る……。







回答 観覧車



以下、考察と鑑賞

 2024・7月に「観覧車」を含む歌を、闇鍋(myデータベース)の短歌約129,000首から抽出した抽出したところ、84首ありました。上記20首はそこからピックアップしたものです。

 ーーこの84首という数字はかなり多いと思います。遊園地の代表的乗り物で比較すると、ジェットコースターは2首しかない。回転木馬は14首で、別名メリーゴーランド9首と合わせても、観覧車には全くかないません。それだけ「歌に詠みたい」と思う〝引き〟が「観覧車」にあるということです。

※以下は、文体が書いた日によって、「ですます」だったり「であるだ」だったりします。気にしないでください。


 

1 観覧車極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに
 川野里子『青鯨の日』

◆空深く極まる→ゆっくり戻る

 観覧車が空高く極まるその高みにあるときの喜びは、深い畏れに似る。
 なるほど、頂点にいるときは、高さを考えるだけでも怖いし、それを「ふかき」と言い換えたとたん、空深く「沈む」イメージも少し喚起され、(潜水艦的に)ゴンドラに閉じ込められて出られない、という物理的・体感的な恐れを感じるだろう。
 加えて、心理的にも、「畏れ」という文字が、慣れ親しんだ地上から遠いぶん、人間の領域を離れ本来いてはいけない場所に侵入しているための気後れのようなものを表している。

 だから、楽しく観覧車に乗る喜びには、畏怖が混じるのだと思うが、ふつう、喜びと畏怖は反対の心の働きのように認識されていて、それがなぜかいっしょになる状況であることを捉えた、というのがこの歌のコンセプトだろう。

 ところで、言葉は、あるものを別のものと区別する。「観覧車」といえば、「観覧車」でないものを除外する。すごく当たり前だけど、虫食いにしてみて、あらためて感じた。喜びと恐れが同時に高まるものは観覧車だけではない、と。

 ジェットコースターでも、そのへんの児童公園のぶらんこでも、そういう体験はできる。
 ただし、これらは極まりかたやそのあとが違う。
  観覧車は、ゆっくり上昇し極まったあとゆっくり日常に降りてくる。
  ジェットコースターはゆっくり登り、猛スピードで下降する。
  ぶらんこは揺れが反復して極まりを繰り返す。

 「観覧車」と書いてあるから、読者はひとりでに、観覧車の特性を踏まえて読み、楽しみといっしょに「畏怖」がゆっくり極まることだけでなく、そのあとそれがゆっくり緩んでいく体感・情感もコミで感受できる。虫食い状態だとこのあたりが難しかった。

  

2 観覧車ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分
 大谷雅彦『大谷雅彦集 』(セレクション歌人)

◆非日常の時間感覚と体感

 闇を「ゆつくり」引き上げてくるという描写が印象的。

 なんだか掛け布団をひっぱりあげるみたいな具体的な書きかたです。15分間のそのなまなましい時間感覚と体感を描くことに徹して、雑味がないゆえの迫力があると思います。

 遊園地の遊具の多くはスピードがありますが、観覧車は反対で、極端に遅い部類。
 あのゆっくりした、スローモーションのような時間の感覚や体感こそが、観覧車的な非日常の特性そのものである。
 なので、その非日常的感覚は、このように工夫をこらして描く価値があるんだなあ、と思いました。

 歌には全く書いてないことで、以下は詩心に詩心が応答した〝幻視的〟段階の感想にすぎず、「評」ではありません。
 この歌の時間感覚は妙になまなましい。「闇を引き上げてくる」というところで、なぜか連想のスクリーンに、巨大なかたつむりを見た気がしました。観覧車の形状が少しかたつむりに似ているせいだろうか。さっき「掛け布団をひっぱりあげるような」と書きましたが、その掛け布団が生きているような感じがします。

 

3 観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』 

◆屈託なく楽しげなたたずまいの観覧車

 比喩の一種に〝見立て〟というワザがあります。(というか、比喩はみんな見立てと言えるかもしれないけれども、〝見立て〟とわざわざ呼ぶにふさわしいのは、視覚的に大仕掛けなものです。)

 この歌も「二粒ずつの豆の莢」以下すべてが「観覧車」の見立てです。
 観覧車のゴンドラを「二粒ずつの豆の莢」と捉え、それが「陽に触れては透ける」という情景を詠んでいる。「観覧車」という人工物と、豆の木のような生命感あふれる植物のイメージが重なる、大胆で斬新な設計です。
 (ちなみにこの作者は〝見立てワザの巨匠です。)


 この視覚的魅力だけでもう十分に歌は成立すると思いますが、もう1点、そも観覧車というものの姿やありかたを、このように明るく楽しげに捉える屈託なさ、という点にも価値があるのではないでしょうか。描かれているのは「観覧車」自体の存在としての喜びみたいなもの。それは作者の主観で捉えたものですが、そこに人間の心情を託そうとせず、「観覧車」の存在としての本質を見ようとする描写になっています。

 短歌は、人の孤独や悲しみなどの心情を芯にして成立しがちで、観覧車を詠む歌も同じ傾向があります。それが悪いのではないけれど、このような明るい歌は、「観覧車」のイメージバランスを救っているとも思います。


青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく観覧車
 井辻朱美『クラウド』

◆水車のような装置

 この歌も〝見立て〟ワザを使っています。暗い心情を反映させていない、という点でも、ひとつ前の歌と共通しています。

 観覧車のゴンドラの動きを「空に〈囁き〉を差し入れて」と解釈していることにびっくり。そのあとの「ぷらぷら沈んでゆく」もなんだかかわいくて、ゴンドラたちは頑張って昇り、リラックスして降りてくる、ーーああ水車みたいだ。(「森の水車」っていう唱歌がありますね。コトコトコットン。)

 この歌の観覧車は、大理石の立派な空へとたゆみなく、地上の〈囁き〉を汲んで届ける、水車みたいな装置に見立てられている。連なって空へのぼる小さなゴンドラたちはその水車の部品の桶みたいなものらしい。
 (草木が地中から水分を汲み上げたり光合成したりする装置であることをちょっと連想した。観覧車をそうした装置のひとつに見立てているみたい。)

 役目を果たしたゴンドラたちが「ぷらぷら沈んでいく」という描写。仕事の緊張がゆるんだ人間っぽいしぐさは、観覧車という装置に生きもののようなニュアンスを添えています。

 「観覧車」という対象を、人間の心情表現の手段にしていない。ーーゴンドラの動きには人間臭さもあるけれど、心情を投影した、というほどではありません。
 観覧車というもののたたずまいそのものから感じたことが描写されていて、その視点は、人間も含めて万物は、等しくこの世界に屈託なく存在する事象である、というような開放感に繋がり得ると思います。


「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
秋月祐一『迷子のカピバラ』

◆擬人化・憑依・投影

 「ゆっくり」回るのは「観覧車」の個性そのもの。
 そんな観覧車が、「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」と語った。
 これは、「本当は早く回れるんだぞ」と、仲間のメーリーゴーラウンドたちに見栄をはった言葉でしょうか。

 それか、そういうパフォーマンスに憧れがある? ーーたとえば、「ひごろニコリともしない人が、生涯にたった一度だけ微笑んだ」的なサプライズをやってみたい、的な。
 (個人的にはこれに一票だ。)

 あるいは、擬人化的な心情投影というセンも。
「全力でものごとに取り組むチャンスのないまま人生の後半にさしかかって『いつか一花咲かせるさ」的なことを呟いている(=叶わぬ夢フラグたちました)」

 こういう感じで、つまり擬人化として受け止める人が多いかもしれないなあ・・・。

 

どうしても観覧車が動いている様に見えない春の疲れであろう
 渡辺良『日のかなた』

◆景色が静止画に

 動きがのろい、ということが観覧車という題材の重要な特徴であることは間違いないでしょう。

 おもしろいのは、「春の疲れ」が、観覧車を見ている主体者の疲れか、観覧車の疲れかが渾然としていること。
一般的な比喩関係は、例える側と例えられる側という一方通行の関係だが、この歌は一般的比喩ではない。自分の気分を対象に投影しているのか、対象の姿ありように影響されて自分がそういう気分になったのか、双方向に憑依・投影しあっているような、そういう素朴なシンクロ状態が表されている。

 
 ひとつ前の歌でも、この憑依・投影現象に触れた。
 この種の双方向状態は、詩歌イメージの中だけでなく、現実にもあると思う。何らかの事情で心身が弱まったとき、意識の輪郭が緩んで、主体と対象が相互的に混ざりやすくなる。「春の疲れであろう」は、内容も口調も、そうした〝心身の弱まり〟をそれとなく感じさせる。
 また、「春の疲れ」という語が抒情的で風流でさえあることに心奪われ、見落としそうになったが、景色が静止画になったかのようなこの描き方、「疲れ」の質の描写として、なんと繊細だろう。

 〝心身の弱まり〟を詠む歌は多いと思われる。そのなかで、スローなものを詠み込むことは、なんとなく実感として納得※※できる。そのスローの究極として、景色が静止画になる(=時間が止まる)イメージもすんなり受け入れられる。
  のろい動きと心の弱まりを結びつけた歌の例で、いまパッと思いつくのはこの歌。
   かたつむり枝を這ひゐる雨の日はわがこころ神のごとくに弱き(前川佐美雄)
  
 あ、またカタツムリ! さっきも別の歌のところでカタツムリを幻視した。
   カタツムリと観覧車は、直ではないが、間接的に縁があるみたいだ。

  ※※心身の疲労時や鬱傾向のときは、自分だけ時間が停滞し、朝やるべきことをやっと夕方に、
   今日済ませるべきことが明後日に、というふうになるのはよくあること。   


闇の彼方に観覧車青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり
 佐藤通雅『予感』

◆天地シンクロ

 夜に灯る遠い観覧車は、星が丸く集まったように見える。それがふと天界にある遊園地のように思われた、のだろう。

 最初、死の後も人のタマシイは「遊園地」を必要とする、という、人間の本質のようなものを洞察する歌かしら、と考えそうになったが、だんだん、それは考えすぎに思えてきた。

 「死者が、星になって地上を見守る」という伝承があるけれど、この空想には、「地上の生者が、天の星になった死者を思って天を仰ぐ」という鏡のような心情がセットになっている。これも、さきに書いた素朴な投影シンクロに通ずると思う。

 そして、このようなシンクロ的空想は、理屈でなく、お供えもののように優しく詠み出だされるのではないか、と思う。

【メモ:なんだかメメント・モリ】
 ここで脱線的に、なんとなく、「観覧車はどこかメメント・モリっぽい」と思いついてしまった。
 頭蓋骨がシンボルのメメント・モリは、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というイマシメなのだが、時代によって意味合いが「だから今を楽しめ」だったり「だから現世の楽しみや贅沢は虚しい」だったりする。

 「観覧車」はイマシメではない。が、概念を語るときの材料が似ているし、切実ではかない現世の希求のようなものを思い出させる。観覧車とメメントモリはカレーとハヤシぐらいに近縁のものだと思う。


まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に観覧車点れり
 魚村晋太郎『銀耳』

◆ガトリング砲の銃口のような瞳

 これはまた、……「悪意のごとき等距離」とは何だろうか。
 遠目に見る観覧車。ゴンドラの照明が等間隔で円形に点っている。ーーそこに「悪意」を感じ取っているようだが……。

 解釈は人それぞれだが、その円形に灯る光を「悪意のごとき」と感じたのなら、もしかして、ガトリング砲の丸く並んだ銃口みたいなものをイメージしたのかな、と思った。
 夕空はブルーとオレンジが変に混じり合うときがある。その少し気味の悪い空を背景にすると、建物やクレーンなど、巨大なものが怪獣みたいに見えることがある。
 観覧車もそんなふうに、こちらにロックオンした銃口のような瞳、を思わせることがあるだろう。
 ーーいや、現実が先行するとは限らない。私は、この歌を読んではじめてそのイメージがまざまざと思い浮かんだのであり、今後、もし夕空を背にした観覧車の明かりを見たら、これを思い浮かべるだろう、とも思う。

 「傾いた夕空」は、陳腐なポエム的軽さが漂いそうなフレーズだが、この歌の中では、実際には傾くはずのない空が、悪意の観覧車の傾きといっしょに傾いてしまっているかのように、言葉どおりの重みを備え得ていると思う。

 

ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて
 久野はすみ『シネマ・ルナティック』

◆じゃんけんのパー、消える花火、その残像


 一読、この歌には、字数の数倍の情報が込められている、と感じた。 
 まずは「ゆうぐれのじゃんけんのごとく」。
 ここには、じゃんけんの手元がすこし暗くなり、遊ぶ熱意にも影がさしてくる頃合いの、あの儚さが漂っている。

 そこへ下の句の「観覧車」という文字が目に入るや、無意識領域の視覚効果が発動する。
ーーーじゃんけんの手、観覧車はやや形状が重なりやすい。重なる、と意識するほどではなく、歌を読んだままに思い浮かべれば、なんとなく勝手に重なる程度だ。それが、途中の「消えゆけり」の効果で、消えかかる大花火のイメージを呼びそうになるのだが、あくまで無意識化の効果、隠し味である。

  (これは、視覚的に思い浮かべないタイプの読者には効かない術だけれど。)

 結句の「その役目を終えて」は、観覧車が一日の役目を終える、というより少し意味が大きいような感じがして、その遊園地は閉園するのかなと、考えそうになる。このときも、消える花火を思い浮かべそうになった無意識の淡い残像が、効果を付加していると思う。

 「観覧車が一日の役目を終える」から「遊園地が閉園する」へと思考が進むと、その延長線上に「観覧車が人類を喜ばせることの終わり=人類の終末」が見えてくる。歌にはそこまで書いてないが、「観覧車」はそういう連想脈を備えている。 

10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大観覧車
 神崎ハルミ(伊波虎英)『観覧車日和』(私家版)作者HP

◆ガラガラポン

 あ、福引のガラガラポンだ。そういえば観覧車に似てる。
  ※本当は「抽選器」という名称だそうです。

 こうした類似の発見はただそれだけで楽しい。
 無関係なものの形状の一致。視覚的だじゃれ。
 だじゃれは普通、無関係の言葉の音の偶然の一致を楽しむもので、その楽しさには少し神秘性があると思う。言葉でなく、形状など視覚的な偶然の一致にも、だじゃれ的な楽しさと神秘が宿る。
 「金色の玉でるまでを回りつづける」という、それが宿命であるかのような言い回しから、人類の尽きることなき希求が観覧車を発明したような、そしてそれはきりもなくただ回され続けるような、そういった空想へといつのまにか促される。

 別の歌のところでも述べたが、短歌に詠まれる「観覧車」は、人類の尽きることなき希求の象徴のように使われる傾向があるようだ。
 この歌では、「特等の金色の玉」という出るはずのないものを求めて、永遠に回されるのだろう、という意味が読み取れる。


11  銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
 松木秀『色の濃い川』


◆誰のものでもない・誰の手にも負えない

 観覧車の形はいろいろに見立てられる。さっきの歌では福引のガラガラポン(抽選器)だったが、この歌の「銀河」はおそらく最大級だろう。

 「観覧車」のイメージのなかには、〝神のみわざ〟的な神秘性がひそんでいる気がする。さっきの「抽選器」、また、別の歌のところに書いた「メメント・モリ」への連想も、人間を超越している。
 だから、「銀河とは誰の観覧車であろう」という問いに、「強いて言えば神かな」と答えそうになるわけだが、銀河は深く渦まいていて、神どころか何を問うても答えがなさそうな、虚無を覗き込む感がある。
 なんとなく逆転的に、観覧車は銀河を模したおもちゃであるかのように思えてくる、というおまけもある。

 

12 遠くても観覧車だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬
 北久保まりこ『音楽がおわる時』

◆支配し監視する

 出口のない冬のような状況で、遠くあこがれを抱き続ける、という意味だろうか?

 最初はそう思ったのだが、ニ度読んで考え直した。この歌のどこかに、見た目以上の強い絶望的な閉塞感がある。「街は観覧車の支配下にある」と言っている気がする。

 この観覧車は、遠くからでも「ぼくら」を支配している。ーーというか、この観覧車が見える範囲が「ぼくらの街」なんじゃないかしら?
 「ふるさとの山」など、高さのあるものや巨大なものを見ながら育てば、帰属意識が生じる。必ずしも実際に目にしなくてもいい。たとえば、富士山。日本人は(個人差はあるものの)、富士山が象徴する何かに淡い帰属意識を抱いている。
 ※ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木

 ただし、この歌の文脈における「観覧車」には、「富士山」や「ふるさとの山」のような精神的な支えになるようなありがたみが感じられず、収容所の監視塔を思わせる抗えないニュアンスが、10%ぐらいぼかし込んであると思う。

 なお、結句の「了らない」という表記は、「終わらない」に比べると、「決着がつかない」というニュアンスが強くて、この歌の重要な要素のひとつであると思う。


13 観覧車のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】
 光森裕樹『うづまき管だより』

◆人類の文明を偲ぶ?

 「コーヒーミル」にある「観覧車のやうなる部品」というと、ぐるぐるハンドルが轢き潰しの歯車につながっているような部品だろうか。
 (これって「その部品が余ったらぜんぜんコーヒーミルになってないじゃんか」とツッコミを入れるべきなのか?)

 この歌、「観覧車のやうなる部品」とカタチから入り、机の上に散らばる部品や組み立て手作業を目に浮かばせること、もうそれだけで、読む側には満足感がある、と思う。
 多くの歌は心情的シナリオを芯にするが、この歌には、「心情」というほどの心情的イキサツを探す必要はなさそうだ。
 そのかわり、静かな情熱がある。細かい手作業に集中し……、失敗に気付いて軽く落胆し、そしてまた集中……、みたいな、手作業特有の、純粋で持続的な静かな情熱が。

  (だから歌の鑑賞も、心情抜きで、「観覧車」というものが、観念の部品として脳に届き、
   そこから読み手の解釈・鑑賞という細かい作業として取り組める。)

  以下、この歌のオマケ要素を考察。
  何かを分解したり組み立てたり、それをやりなおしたり、という行為には、ほんのり〝神〟の気分があると言える。
  余った部品を「観覧車」みたいだと思ったその一瞬、作業者の神気分は増幅する。
 「コーヒーミル」だったものを組み立てなおす作業はふと、むかし滅びた人類の文明のミニチュアを組み立てるような気分なのかも。ーーそういうことをチラッと考えさせるのが、この歌のオマケ要素である。


14 観覧車の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ
 吉田竜宇『ロックン・エンド・ロール』

◆走馬灯というか輪廻というか

 「なんどもする同じこと」って何だろう?
 最初は、観覧車のゴンドラの中で何度もキスしよう、といった軽い意味に思えたが、その程度のことだけなら、こういう言い回しはしないだろう、と考え直した。

 おもしろいと思うのは、「楕円の影にかこまれて」が、八方からスポットライトをあてられている状態に似ていて、しかもこの歌では、それがライトでなく、「影」であることだ。
 ーー光を浴びることの対極として、影を浴び、影に消される状態、というものを想像してみる。ーーそういう状態にあてはまることもあるような気がする。

 もうひとつ、「観覧車の楕円の影にかこまれる」という言い回しには、「観覧車が醸し出す娯楽愉楽の誘惑から逃れられない」的なニュアンスも感じらる。

 また、観覧車が回るものであることから、〝回る影〟という連想が派生し、わずかだが「走馬灯」への連想脈が生じそうになる。観覧車の形をした走馬灯……。
 回るということからはさらに、「輪廻」への連想脈も生じ得る。観覧車の形をした輪廻……。
 思い浮かべるものは人それぞれかだろう。私は、こういう〝連想の可能性〟を混ぜ合わせ、人々の人生の「観覧車」の影に囲まれ、それを影踏みのようにいくつも、踏み越えたり乗り換えたりしていくさまを見る気がした。

 末尾の「しようよ」の微妙な肯定と誘い。含まれる自虐や皮肉の分量はちょっと測りかねるけれども、これは「丘を越えゆこうよ」という唱歌のノリじゃないかと思う。

「いろんな生き方に囲まれつつ、生まれてから死ぬまでを生きる、というおんなじことを、何度でもくりかえしていこうよ」
というような意味合いで読み取った感じた。


15 無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり
 鶴田伊津『百年の眠り』

◆月みたいな無力

 最初、「一人きり+観覧車」という言葉の組み合わせから、なんとなくドラマ的な想像を促された。(ドラマでは二人で観覧車に乗るのが定番の絵ではないか?)
 例えば、
「約束していた相手が来なくて(=振られた)、他人の気持ちは自由にできないと痛感し、その学びを心にきざむため、あえて、二人で乗るはずだった観覧車に一人で乗った」的なシナリオか。
 いや振られたとかじゃなくても、「何かの対人的な問題に悩んで、あえて観覧車のゴンドラという地上を離れた個室に乗り込み、一人で「無力」をかみしめる」的なシナリオもありえる。

 しかし、こういう〝ありがちなストーリー〟による解釈では読み砕けない要素がこの歌にはある気がする。

  そもそも、「ドラマ読み」という解釈法を、私は〝要注意〟と位置づけている。
 「ドラマ読み」は、その場面の前後にありがちないきさつを補うものだが、そういう形の推理は、有効な場合もあるが弊害も大きい。ーー変な喩えだが、短歌は、
殺人事件の現場に似ている。現場のわずかな手がかりや印象から「これは痴情のもつれ」などと早々に決めつけると誤認逮捕をやらかしてしまう。
ただし、「ドラマ読み」こそが妥当な読み方である場合もある。意図してドラマ性を生かすように歌が作られている場合とか。)

 だからドラマを消し、言葉からニュートラルに推理できる要素のみで解釈を再構築してみる。
 「無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり」という言葉を、シナリオ抜きに眺める。……すると、「あ、月みたいだな」と思った。

 「空をよぎる」というフレーズは、半円の軌跡を思い浮かべさせる。それは、ちょっと「月」みたいだし、観覧車という乗り物は、ひとたび乗ったら自由に乗り降りできず、空の高みに吊り下げられ、下界を見るだけである点も「月」っぽい。この歌の「無力」は、そういう「月」っぽい「無力」じゃないだろうか。

 「月」はやさしく地上を見守るものとして親しまれているが、しかし、人が月になって天にただひとり浮かんだら、とても孤独を感じるだろう。

 書いてないいきさつは知りようがなく考えても無駄。それがなくても、この孤独な「無力」感を純粋に感受すれば十分だと思う。

   

16 観覧車まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり
 工藤玲音『水中で口笛』


映像のレトリック・思い出化&時間圧縮

 さっきの歌のところで、「ドラマ読みは要注意」的なことを書いた。
 しかし、この歌は、「観覧車+ふたり」それも、いかにも最終回みたいな雰囲気。このあからさまなドラマっぽさは、むしろこのドラマ性を生かして読んでくれ、というサインだと思うので、身を委ねて読もう。

 ーーひと夏の恋が終わる。それぞれの放棄できない持ち場(戦場のような)に戻る。ーー

 「ドラマ読み」のいちばんの利点は、読者が無意識に、テレビや映画を見た映像のレトリックをあてはめて、複雑な視覚効果をかんたんに享受できる、ということだ。

 「まるく晩夏を切り取る」ーー昔の写真アルバムの、丸やハートに切り抜いて写真をコラージュしたページを思い浮かべさせる。ーー思い出を観覧車の丸い輪郭で切りとる。ーーその写真を貼ったアルバム、ーーを閉じる映像。これが時の経過をあらわし、〝思い出化〟とその〝圧縮〟ができてしまう。

・ふたりで観覧車に乗っている。(ふたりだけで過ごしたひと夏を象徴する)
・カメラが後ろに引いて、その思い出の観覧車を遠くから見ている二人の後ろ姿。
・その写真の貼られたアルバムが開かれる。
・年月を経てその記憶はひもとかれる。

 というふうに、「ドラマ読み」に身を任せれば、場面がつぎつぎ重なっていく。

 また、「観覧車」が「まるく晩夏を切り取る」は、夕空を背景に観覧車がシルエットになる絵としての効果もある。ーーどこにも「夕空」と書いてなくて、リクツでは日中でもいいが、視覚的には夕空が最適だろう。読者の視点は後ろに引いて、二人の後ろ姿はしだいに遠く、そして小さなシルエットになっていく。

 「まるく晩夏を切り取る」は、最初「観覧車」の映像であったものが、落日の赤くて丸い太陽とも重なって、しだいに太陽になってしまう、というような、思いっきりドラマ映像的な効果もあると思う。


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく観覧車
 二三川練『惑星ジンタ』2018

 
◆抒情的で美しい〝ぼやき〟&神仏の崩御っぽい厳かさ

 「心さえ無かったならば」は何を言おうとしているのか。

 錆びる大きな観覧車の姿があまりにも無惨。そこから、
「もしも『いっときの愉楽と知りつつも求めずにいられぬ人の心』というものがなかったら、遊園地は存在せず、こんな無惨がさらされることもなかっただろう。」

というふうに感じているのではないだろうか。

 これは、世の中に桜がなければ春はのんびり過ごせるだろうに、というあの有名な歌と論法が似ていて、美しい抒情的な〝ぼやき〟である。

 それに加えて、神仏の崩御っぽい厳かさが漂っていることにも注目。
 「閉園のしずかに……」のくだりは、観覧車がすこーし「目」に似ているせいか、「閉眼する」「瞑目する」という厳かなイメージになり、錆びて朽ちていく観覧車のさまが、神仏の崩御みたいに思い浮かぶ人もけっこういると思われる。

 

18 吾という六十兆個の細胞を観覧車に乗せのぼりゆくなり
 大滝和子『銀河を産んだように』


細胞レベルのリフレッシュ

 「自分」というものを、細胞の塊である物体として強く意識している。
 観覧車は地上を離れて高みにのぼるもの。この歌では、自分の身体を総合する感覚が細胞レベルにまで初期化され、その描写によって「上昇」の迫力を描写している。
「上昇」によって心身の感覚が平常と変わり、体感として強く意識されるかもしれず、「細胞」を意識することもあるか、という説得力(あくまでイメージのなかで)があると思う。

 なお、「のぼりゆくなり」は単なる叙述に見えるが、一寸法師の歌の「京へはるばるのぼりゆく」とか、鯉の滝登りとか、力強い文脈で使われることが多くないだろうか。そういう勇ましさをそれとなく感じさせるフレーズである。
 この効果で、上昇感覚は人によっては恐ろしいかもしれないものだが、この歌では、細胞レベルのリフレッシュとして描き得ているのだ。


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車
 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

◆ヒトとモノの区別を超越する

 「君は……」と振りかぶるこの言い回し。内容もさることながら、この振りかぶり方が、まずは歌の重要なコンセプトだと思う。

 とにかく、「君」の本質が透けて見えるかのような臨場感がものすごい。
 「君」の本質は、「観覧車のような人」(美しい胸の中に秘めた機械で駆動する、精密な大じかけで、人々を魅了するような人)であるのだろうか。
 いやまて、「君」は、胸に精密な機械を秘めた「人のような観覧車」かもしれない。そんなふうに、人物またはモノの存在感にうたれた瞬間らしい臨場感がある。
 私は、次の2点に注目した。

①「観覧車のような人」/「人のような観覧車」どちらともとれる

 これによって、単なる比喩的な擬人化と一線を画し、「観覧車のような人/人のような観覧車」という生き物か否かを最初に区別するようなふだんの視点をなんなく越える。人は人の枠を超え、モノはモノの枠を超え、存在の特徴を理解する場に読者を立たせる。そこはもはや、人間観覧車/観覧車人間などという呼び方でさえ、余計な区別の残滓と感じるような地点である。

 よく見かける短歌の批評鑑賞用語に「擬人化」というものがある。それを使う批評文のなかには、「擬人化」したから何なの? と聞き返したいような文章もある。「擬人化」の効果を語らなければ評にならない。
 擬人化その他の「比喩」的表現には、大雑把にとらえるとだいなしになるような繊細複雑な用法がある。とくに、この歌のように2つのものを重ねて
区別を超越するケースを、乱暴に「擬人化」と呼ぶのはいただけない。 

②表現という行為の愛というか独占欲というか、がほとばしる

 「君=観覧車/観覧車=君」が「胸にしまってある機械で駆動する」という絵も、語感も字面も、すべてがすごい大迫力である。 

 ところで、花を見て「あらきれい」とスマホで撮影する。(さらにはインスタにアップするとか。)ーーこの行為には、対象への親しみや愛があって、支配・独占は言い過ぎだが、対象を「自分のものにしよう」という素直な意図がある。
 対象に何かしらの感動を覚えて、思わず言葉なり何なりで表現をする行為も、思わず花を撮影することに似ているし、この歌のようにいきなり本質を見て言い当ててしまうことは、非常に強いアプローチだと思う。
 たとえば古代の人は、みだりに名前を教えなかった。名を知られると自分の魂を取られ相手に支配されると思っていたからだ。(逆に、恋人に名を告げることは相手を受け入れることを意味した。
 この歌のように〝対象の本質を見抜くような表現〟は、〝名前を言い当てる〟ことに似て、すごく大胆な(相手の受け止め方によっては強引な)求愛ではないだろうか。

 「君は……」と振りかぶり、「観覧車のような人/人のような観覧車」という在りかたを看破し、そう知ったことの喜びをほとばしらせている。
 これは、いきなりプロポーズぐらいの迫り方である。(念のために言うが、「君」という人間の誰かへのプロポーズではない。) 表現者として、表現対象との関わりがドラマチックだという意味だ。表現方法・言葉のしぐさが、クライマックスであり、究極のものなのである。


20 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 栗木京子『水惑星』


◆「二人の意識のズレ」というモチーフ

 有名な歌なので、虫食い部分がすぐわかってしまうため、最後に置いた。

 「君」と「我」と「観覧車」という組み合わせは、さっき別の歌のところで書いたように、ドラマ系の想像をかきたてずにいない。
 というか、ドラマのような場面を思い浮かべずに読むのは無理だろう。

 なんらかのイキサツがあって、ーーそれは知らされないが、とにかくクライマックスの場面であるらしい、と、読者は受け止める。
 同じ時を過ごしていても「想ひ出は君には一日我には一生」という、二人の意識のズレは大きいし、そのズレを感じているのは「我」だけ(とまで書いてないが)であるようだ。 この二人、別れるにしろ、まだ続くにしろ、この意識のズレはそのままだろう、と思える。
 この意識のズレというモチーフは、びっくりするほど抒情性がある。この抒情から寸劇のようなものが思い浮かび、その場面を味わうだけで、長いドラマを見たような満足感を味わえる。
 
 このとき、ドラマの重要なシーンのように二人の顔がアップになる。おそらくどちらもおだやかだ。「我」は、意識のズレを考えていることなどおくびにも出さずにいるのだろう……。
 このとき、ガランガランと鐘(聞こえない音)が鳴り響く気がするのは、君には一日我には一生」という反復的表現の効果だと思う。
 これが名歌とされる所以は、この反復する鐘の音ではないかしら。始まりの鐘と終わりの鐘みたいに、歌のなかで鳴り響きながら、それが鼓動と重なる感じさえする。
 ドラマ的な歌だが、ドラマの視覚効果にあまり頼っていないこと、言葉の表現効果で醸し出されたドラマ性であることに驚かされいる。








短歌のなかの「観覧車」というアイテム
(まとめ的に)

 いわゆる「イメージの飛躍」、特にいわゆる「詩的飛躍」という現象では、なんらかの特別なつながりが生じていると思う。つながりが見えないから「飛躍」と呼ぶのだろうが、そこには見えない〝赤い糸〟が生じているはず、と仮定して、それを可視化したい、というのが、私(歌読み>歌詠み)のこだわりである。

〝赤い糸=別々の物事を飛躍しつつ強く結びつけるなんらかの縁。アナロジー、アレゴリー、メタファーその他、言葉の表現は赤い糸だらけだと思う。

 その〝赤い糸〟の結びつきは往々にして複雑だ。ときには、風が吹くと桶屋が儲かるぐらいの紆余曲折もありえて、さっぱりお手上げのこともある。上記20首は、〝赤い糸〟が私にとって比較的見つけやすいものを選んだ。

外見の類似
 さて、飛躍したイメージを結ぶ〝赤い糸〟として、もっとも多く、わかりやすいのは、「外見や形が似ている」というものだろう。全く別のものどうしで形が似ていれば、視覚的には無理なく重なるため、意味の上でのかなりの飛躍に耐えられる。
 
 じゃあ「観覧車」に外見や形が似ているものって何だろう?
 実作を見る前には次の5つを予想していた。
  瞳、花火、向日葵、扇風機、地球儀

 はたして、蓋をあけてみたら、予想どおりのものがあったりなかったり、そして予想できなかったものもあった。

 歌にそう書いてあるもの、直接的には書かずに暗示されているもの、読んだとき私が勝手に幻視したものを含め、
 銀河、福引のガラガラ、ガトリングの銃口みたいなもの、コーヒーミルの部品、かたつむり
は、予想していなかった。

観念などの類似・連想

 必ずしも視覚的類似ではなく、体感や状況のアナロジーや観念のアナロジーで生じる〝赤い糸〟もあった。
 空に沈む、という水中に似た体感。
 高い夜空をゆっくり通過することと「月」の孤独、みたいなもの。
 また、「観覧車」は、人工の遊興設備だから、現世ですごす時を愉楽で満たすものという、観念上の了解を共有しやすいとも思える。そこから、「廃園」の荒涼感などを飛び石に、滅んだ人類の夢の跡、みたいな終末感へと至るのも、比較的見つけやすい〝赤い糸〟だった。

ドラマ性と映像のレトリック

 「観覧車+人がふたり」はドラマ的な連想を喚起する、といったことは、既存の〝赤い糸〟である。それらをうまく組み合わせて引き寄せることで、ドラマ等を見て刷り込み済みの映像のレトリックを喚起し、本来ならなかなか飛べない飛距離を出すこともあるようだ。


さいごに

 どうでもいいことかもしれないが、当初私が観覧車に視覚的アナロジーがあると思ったもののうち、ひまわり、扇風機、地球儀に見立てた歌は見当たらなかった。

 カタチはかなり似てると思えるのに、イメージの世界では結びつきにくいのだろうか。
だとしたらなぜだろう。単に、まだ類似に気づいていないだけか?


2025・1・20