2019年10月26日土曜日

和歌のB面 狂歌を忘れていいのか?(ロビン・D・ギル)

※以下は、2019年1月来日時にロビンさんから伺ったお話を高柳がまとめたものです。
 
天明以降に狂歌の摺物(すりもの=印刷物。特に版木で印刷した書画などを指し、江戸時代後期には絵に狂歌を添えて板刻した一枚物の摺物があった。)が流行り、英米独の美術館がそれを収集し、贅沢大型本が相次いで出版された。
 だから。我が翻訳を別にすれば、翻訳されている狂歌の九割ぐらいが摺物の狂歌であり、偏っているし、質が高い歌とは限らない。
 一方、日本の国内で知られている狂歌も、狂歌全体からすればごく僅かでしかなく、これも偏っていると言えるだろう。

 このたび日の本の国に戻る途中の飛行機で、後席の大学生らしい日本人カップルに我が著書『古狂歌 気の薬のさんぷる袋』を見せたところ、妙な表情を浮かべた。
 いきなり感想を頼んだせいでない。「これはマイアミで書いた。まだ日本人に見せていない。二十年ぶりの来日で、お二人は最初になる。見ていただければ助かります」というような前置きをきちんと(?)しました。

 男の子は言った。
「あのお、実は、狂歌ってなんだかよくわからないんです」。
 二人とも知的な印象だったが、狂歌を知らないとは驚いた。そのあと成田の移民局で対応してくれた青年も、狂歌の著書への反応は、飛行機の彼と同じだった。

 狂歌は和歌のB面です。日本人が狂歌を知らないでは困ります。
 中国ではカラオケの聞きづらい酔った歌声を「狂歌」という。日本人が狂歌をこのまま忘れたら、国際的に「狂歌」はそっちの意味になってしまう。
 国文学のために戦わなくちゃと思うが、しかし、古狂歌を日本人に紹介するチャレンジの難しさを改めて思い知らされたところです。


※詩歌は高尚でマジメなものという思い込みから、笑いを見下す傾向があります。また、狂歌には、娯楽や縁起ものなどの効用が期待され、その場で目的が果たされる面もある。ーーそれで狂歌は、詩歌として軽んじられるのかもしれません。
 しかし、富士山の見立ての歌を見ただけでも、度肝を抜かれる見事さです。
 狂歌が廃れるのは本当にもったいないことだと思います。(高柳)



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