1 左右の目を詠む歌をピックアップ
失えばサイクロプスとはなり得るか夜は右眼へのみ早く来し
渡部洋児『屈形のウェヌス』1991
三四郎の冬嫌いより不機嫌なあなたの右眼さかさまにしたいな
杉山モナミ(出典捜索中)
父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ
十谷あとり 『ありふれた空』2003
高柳注:メガニウラは古代の巨大なトンボ
渓谷の夜の声走りひたぶるに左眼をすすぐうれひのありき
山中智恵子(出典捜索中)
射抜かれし左目西へ向かいつつひかりはひかりを呼びて鋭し
渡部洋児『ハガル=サラ・コンプレックス』2015
いかなれば左目のみに湧く涙おそらく右目は死を忿りゐむ
忿【いか】
蒔田さくら子『サイネリア考』2006
うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
笹井宏之『てんとろり』2011
何時だろう揺れる窓には右眼から左眼にとぶ野火ひとつあり
加藤治郎『マイ・ロマンサー』1991
お時間と興味がおありでしたら以下もどうぞ。
1 「右」と「左」のイメージの違い
右と左は、単に右側と左側を意味するだけではない。「右」と「左」という語はそれぞれに、特別なイメージを備えている。
たとえば慣用句に「右に出る者がない」「頼もしい右腕(部下など)」「左まえになる」「左巻き」などがある。これらを見ると、右は有能で積極的、逆に左はなんとなく不器用で消極的な語感があるようだ。
しかし、単純に優劣では語れない。
「右翼左翼」では左が侮れない第二の勢力みたいだし、少数である左利きは魅力となり得る。実際、左腕投手は大切な存在だ。
そしてさらに、詩歌のなかの「左」は、感傷的でナイーブなニュアンスを帯びているようなのだ。
2 詩歌のなかの「右」と「左」
〈右:能動的・行動的・有能〉 〈左:内面的・心情的・葛藤〉
詩歌の表現において、右か左かという位置情報は、現実世界ほどの意味を持たない。
そのかわり、「右」は能動的・行動的に前に突き進むイメージを、そして「左」は内面的・心情的に複雑で繊細な心情を暗示することが多いようだ。
しかし詩歌文脈で、
「右に曲がれば我が家」
と書いたらどうだろう。それは場所の説明ではない。
じゃあ何を表現しているのか?
この場合は、「右に曲がる」という動作を伴う体感や、すぐそこにある「我が家」の気配を表している。
そして、その体感や気配は、実際の体感等にもとづくだけでなく、言葉のイメージによる暗示も関わっている。
「右」は〈能動的・行動的・有能〉でスピード感があり、「右に曲がれば我が家」は、「ほらすぐそこだ」と屈託なく右に曲がれる。
3 右目と左目 詠まれる頻度は?
さて、左右といえば手や足をはじめ、いろいろな左右が短歌に詠まれている。
参考として俳句・川柳も探した。
「右目」「右の目」「左目」「左の目」とそれぞれの別表記(眼、瞳、かな表記など)で検索した
その結果、右目、左目、あるいは両方を詠み込んだ短歌は、短歌データ総数110,567首中37首あった。
内訳 右目11 左目15 両目11
俳句川柳も同様にカウントした。
私の手持ちデータの俳句川柳は総数が少ないので、統計としては信頼できないのだが、俳句も川柳も、右目左目の句は短歌より少なめであるようだ。
内訳 右2 左1 両方5
川柳 13302中4句 約4400句に1句
内訳 右0 左1 両方2
なお、俳句は現代俳句協会のデータベースでも探してみたが、そちらでも右目左目を詠む句は少なく、しかも私の手持ちデータとほぼ重なっていた。
川柳も、「川柳おかじょうき」のデータベースをあたってみて、私のデータにない13句をゲットできた。
その内訳 右10 左2 両方1
※「川柳おかじょうき」データベースは5万句以上を収録しているが、かなり重複がある。実際の総句数がわからないから、頻度の算出はできないが、たくさんあるようには感じられない。
4 眼が傷つくなどの異常
検索したデータをざっと見ると、目が痛むなど、何らかの痛手を受けた状態の目を詠む例がいくつもあるようなので、まずはそういう歌を拾ってみた。
いくぶん左目のほうが多いようだが、右目の例も決して少ないわけではない。
まずは右目。
乾きたる砂利道あゆみ来し夜のみぎの目蓋ひきつりやまず
ルビ:目蓋【まなぶた】
阿木津英『白微光』
痛みたる右眼もの視【み】ることなくばわが明後日の心読むべし
ルビ:明後日【あさって】
渡部洋児『屈形のウェヌス』
右目の2首。「右目」とした効果は何だろう。
歩くことや未来に関わる内容で、能動性がくじかれた、という暗示がそれとなく働いていると思う。--と、言ってのけると自分でも胡散臭いぐらいの淡い暗示だ。
次の歌はどうだろう。
父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ
十谷あとり『ありふれた空』
※メガニウラ=メガニウラは古代の巨大なトンボ。なお、目の病気で虫が飛ぶように見える飛蚊症というのがある。目の異常を「右眼」と限定した効果で、父に捨てられたことで生きる拠り所を失う、深刻な衝撃のニュアンスになっていると思う。巨大トンボ(しかも古代の)に阻まれて一歩も歩けないような。
試みに「左眼」に替え、「左眼のなかを翔ぶメガニウラ」としてみる。
深刻なんだけれども、歩けなくなるような瞬間的な衝撃でなくて、巨大トンボを内面に飛ばしたまま歩き続ける、という長引く影響のようなイメージが傾かないだろうか。
そこまでの大差はない、と言われればそうかという程度の微妙な差だが。
こんどは左目。
左目の傷がわたしに見せる虹廊下のすべての蛍光灯に
入谷いずみ『海の人形』2005
戸惑つてゐるとききみの左眼がうすむらさきになるからこはい
西田政史『ストロベリー・カレンダー』1993
左目がすこしかすんで短日をウインクばかりしてをりわれは
田村元『北二十二条西七丁目』2012
左目の損傷や異常として描かれると、内に秘めているものが少し漏れ出るような感じになる。
これらの歌の「左目」を「右目」に替えたら、その危険度がやや増して、噴出しそうに切迫しないだろうか。
次の歌もおもしろい。
射抜かれし左目西へ向かいつつひかりはひかりを呼びて鋭し
渡部洋児『ハガル=サラ・コンプレックス』2015
解釈はいろいろだが、私には、夕日が西に沈むあの劇的な様子が思い浮かぶ。「左目」は「西」の夕日にマッチし、「右目」だったら「東」から昇る朝日のほうが似つかわしい、と感じる。
さて、このように、短歌には左右の目の痛手みたいな状態を詠む例が散見されるが、俳句では、そういう題材の句が見当たらなかった。(あくまで私のデータベース内。)
ただし、目の手術を詠んだ句が同一作者で2句あった。実体験の報告だろうか。
右の目がその針を待つ手術室
杉山太郎 2004年03月 月刊おかじょうき
手術後の右目を待っていた桜
同上 2004年04月 月刊おかじょうき
もしこれが左目だったらどうだろう。
改作:手術後の左目を待っていた桜
5 涙は左目から出る?
そして涙は、左右の目のどちらからでも出る。現実世界では。
しかし、短歌に詠まれるのはなぜか左目の涙ばっかりで、右目の涙を詠む歌は、私のデータベースにはなかった。
いかなれば左目のみに湧く涙おそらく右目は死を忿りゐむ
ルビ:忿【いか】
蒔田さくら子『サイネリア考』2006
うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
笹井宏之『てんとろり』2011
次の歌と句の例でも、涙は左目から出ている。
右向きにふとんで泣けば左眼のなみだが一度右目にはいる
本多真弓『猫は踏まずに』2017
晩年や左眼の涙を右眼容れ
永田耕衣『物質』1984
左右を逆にしてみる。
改作:晩年や右眼の涙を左眼容れ
どうでしょう?
ビミョーだが、左目の涙に比べると、「右目の涙」は、感傷的ではない特殊な涙、たとえば怒りの涙など、外向きの強い感情が感じさせると思う。
ウエット系は左、と言ってもいいようで、これも右目の出番がない。
渓谷の夜の声走りひたぶるに左眼をすすぐうれひのありき
山中智恵子(出典捜索中)
句読点をどこに落としてきたんだろう 左目に差すぬるい目薬
柴田瞳(出典捜索中)
くちびる 手 痛み それだけで左目の雨はできてるよ だいじょうぶ
杉山モナミ(作者HPより)
「左目の涙」という題材は短歌では好まれるようだが、俳句川柳ではそうではない。(「右目の涙」は短歌でもない。)
右の眼に大河左の眼に騎兵
6 そのほかの左目の歌と句
短歌
左眼を閉ぢたまま歯を磨くのは気になるけれどゆるしてあげる
西田政史『ストロベリー・カレンダー』
燃え尽きず地上に落ちた流星がおれの左の目になったのさ
植松大雄(出典捜索中)
左眼のみ近視の眼鏡かけしかばわが足もとのややにかたむく
和田周三 第一歌集『微粒』1956
弱りやすい左目閉じて見つめいる遠すぎるなあ文字も画像も
東直子 「歌壇」2007・12
やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい
川野芽生 『Lilith』 「本郷短歌」創刊号
俳句
少年の左眼に映るは椿事ばかり
藤原月彦『藤原月彦全句集』2019
川柳
まだ誰も許していない左の目
八戸むさし 2001・5 おかじょうき50周年記念大会
左眼に桜秘めたままでも生きられる
西山茶花(出典捜索中)
錯覚を見続けて居たい左の目
ひとは 「月刊おかじょうき」2010・7
7 右目の歌
右目の歌は傷のところで少し取り上げたが、それ以外の右目の歌を紹介する。
なんとなく、〈能動的・行動的〉ではあるが、それをあまり力説してしまうとうさんくさくなる、という程度に微かである。
失えばサイクロプスとはなり得るか夜は右眼へのみ早く来し
渡部洋児『屈形のウェヌス』1991
琥珀石透かすいつときゆふぐれは右の眼にのみ訪れぬ
高木佳子『青雨記』2012
この2首、「右」を「左」に替えてみても、それなりにいい歌だなあと思って読めてしまう。「右」には〈優先性〉がある。それを味わうべきか……、などと考えてみたものの、あまりはっきりしない。
ただ、「左」に替えると、はりつめた感じが薄れて、歌の雰囲気がウエットになるような気がする。「右目」には世界に直に触れるような緊張感があることは確かだと思う。
その他にも、説明困難な右目の歌がたくさんある。以下、少しあげておく。
「う」と言ふ女傑、鯨面の、右目にひそむ筋彫りがシャイ
菅井正廣「かばん」(出典捜索中)
車庫入れの時はきまって曲るのは右で見るから左目で見よ
田原久美子「かばん」2004年6月
三四郎の冬嫌いより不機嫌なあなたの右眼さかさまにしたいな
杉山モナミ(出典捜索中)
あのひとが自分の写真の右の目を切ってさかさに貼ってるパライソ
杉山モナミ『ヒドゥン・オーサーズ 』(19人の作品集)Kindle
高柳注:パライソ=楽園、パラダイス(スペイン語ポルトガル語)キリシタン用語
8 左右の目の関係
右目と左目、両方を詠み込んで対比させたり関連付けたりする例がたくさんある。ここまで取り上げた中にもいくつもあったが、それ以外の歌や句をもう少し紹介しておく。
多くは説明しがたいのでもうコメントは控えるが、ふしぎな右と左の関係を味わってください。
短歌
何時だろう揺れる窓には右眼から左眼にとぶ野火ひとつあり
加藤治郎 『マイ・ロマンサー』
手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
我妻俊樹 「率」10号:我妻俊樹誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』
赤い目は左右にとおく雪降りの日には内よりかたまる兎
高橋みずほ 『フルヘッヘンド』2006
左の眼わるくなりしが右の眼もすこしあぶなし眼は大切ぞ
岡麓『雪間草』1952
変わった歌が多い中、こういう歌を見ると力が抜ける。
俳句
俳句では左右の目を対比的に詠む例が多いようだ。
右の眼に大河左の眼に騎兵
西東三鬼
右の眼に左翼左の眼に右翼
鈴木六林男
右眼には見えざる妻を左眼にて
日野草城
右眼茫とし帰雁の列を左眼に嵌め
吉田未灰
川柳
右の目と睨みあってる左の目
むさし「月刊おかじょうき」2016・1
右目より左目うまいと呟く鴉
湊圭史
藍の天 左右の眼ゆきかうクルス
渡部可奈子
いかがでしょう。右目左目の関係。
新しい歌や句が詠まれて、右と左のイメージが育っているはず。
蛇足ですが……
「右は行動的、左は内面的」等は、あまりにも微妙なニュアンスでしかなく、そうだと決めつけるのは良くない。それでも、少し踏み込んでみないと検出できないような要素がある。
作者というものはたまに、テキトーに言葉を選ぶことがあり、たとえば締切が迫って「右」とか「左」とか字数合わせで言葉を嵌めることはありえるのだが、しかし、たとえ作者が意図しなくても、「右」か「左」かに絞り込んだ表現の効果は、歌に反映しないではいない。
鑑賞は、作者の意図を汲むだけでなく、作者の意図を超えて言葉たちが表現していることも汲むほうがいい。人はたかが人間一匹にすぎず、言葉には歴史的時間をかけて積もった豊かなイメージがある。
それが作者の意図を超えて歌を支えている可能性を考えれば、「過剰な深読み」の危険をおかしてでも踏み込んだほうがいい、と私は思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿