なお、父が歩く歌のほうが母が歩く歌より多い気がしたので、実数をカウントして検証。その結果を末尾に書きました。
あとから見つけた歌はときどき末尾に追加します。
1 父・母が歩く
歌のなかの歩く主体が父・母であっても、子である自分の歩みとシンクロして詠んでいる場合があり、逆に、歩く主体が子である歌でも、記憶の父母とシンクロして歩いている場合もあるようで、線引は実のところ難しい。
女傘さし時雨をあゆむ晩年の父のこころの淋しさびしさびし
小池光『廃駅』1982
小池光『廃駅』1982
緑道を黙って歩く父だった四月の霧をほおひげに受け
中沢直人『極圏の光』2009
コルドバの牡牛の皮の靴ひずみ父あゆむうつくしき惑ひの齢
塚本邦雄『緑色研究』1965
百代の過客が通る道を行くせっかち歩きが父と似ている
田中徹尾『吟』2020
みづびたしの天を歩みてかへりゆく父の背のすぢにほふ樟の木
永井陽子『樟の木のうた』1983
フランス窓開け放ちたれば夏の庭しんと広がり父歩み来る
香川ヒサ『ヤマト・アライバル』2015
小動物が来るみたいなフシギな味わい。
暗闇を歩いていってブレイカーあげるのはお父さんの仕事よ
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001
父が歩く歌の中で異色のシチュエーション
歩きたる跡のひと日の秋風の中にただよふは母のまなこか
永田耕衣(出典調査中)
一輪の花を探してあるく母きがつけば手のさきがなかった
東直子(出典調査中)
膝ついて母の靴ひも結ぶときもう歩かない靴に鈴あり
佐伯裕子『感傷生活』2018
いはゆる、一人の、老人のやうに杖をつき謝るやうに母は歩み来
川野里子『歓待』2019
父母の心身の衰えを詠む歌がたくさんあるが、母のほうがその傾向が強い。
父の歌は哀れっぽさを避けるのか、かっこいい、というか、少なくともかっこ悪くない歌のほうが多い。
「歩く歌」においても、「母が歩く歌」はやや現実寄りで、「父が歩く歌」よりも衰えを詠む傾向が強いようだ。
2 父子・母子が一緒に歩く
亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
大西民子『花溢れゐき』1971
われに何を希みし父か歩き方が静かすぎると言ひて叱りき
安立スハル 『この梅生ずべし』1964
ホスピスの通路を父と腕組んでバージンロードのように歩いた
沼尻つた子 『ウォータープルーフ』2016
父を支へて歩めば老人のにほひせり不機嫌に垂るる時間の匂ひ
米川千嘉子 『たましひに着る服なくて』1998
米川千嘉子 『たましひに着る服なくて』1998
青白い月がゆつくりついて来る ひとりごといふ母と歩いた
新井蜜『月を見てはいけない』2014
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
ルビ:背負【せお】、軽【かろ】
石川啄木『一握の砂』1910
疵口の癒着のごとき繋がりをたもちて母と道歩くなり
堀田季何『惑亂』2015
母とふたり桜の下を歩みゆく父の癖など話しつつゆく
小島なお『サリンジャーは死んでしまった』2011
老いた父母に対する心情をさまざまに表そうとしていて、それはいちいちわかるが、なんだか現代の歌がまだ近代の啄木を超えないような、なんとなしにもの足りない感じが残った。
短歌の中では父のほうが歩く
父は「歩く」ことを詠む歌が母よりも多いような気がしたが、そういう歌人のカンはよく外れるので、ちゃんと調べてみた。
本日の闇鍋 短歌データ 総数112,040首
「父」という字を含む短歌総数 1,980首
うち父が歩く18首 父子が歩く8首 計26首
1/76首
「母」という字を含む短歌 2,605首
うち母が歩く10首 母子が歩く12首 計22首
1/118首
※歩く主体が子でも、父母の記憶などとシンクロして歩いているようなケースは含めました。
というわけで、
歌人のカンは大当たり。短歌の中では父のほうが母よりも歩きます。
追加分
リハビリの母の歩みはゆっくりと月の表面ゆくように見ゆ
大西淳子『さみしい檸檬』2016
大西淳子『さみしい檸檬』2016
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