2024年7月30日火曜日

ちょびコレ16 聞き間違い、読み間違い、見間違い

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

2年ぐらい前に書いたものですが、内容を全面的に整理して再公開します。
2024・7・29 

1 言葉の見間違い


言葉のまちがいで、AをBと読み間違える、というような歌をあつめます。

連休が遺体に見える 連休は天気保ちそう沖縄以外
斉藤斎藤 角川短歌H24/1自選作品


さらさらをさよならと読みまちがうを春愁という 眩しき液晶
ルビ:眩【まぶ】
神﨑ハルミ(出典調査中)

人間臭いを人間魚雷と聞きまちがえて島の漁師が戦争をする
山下一路『スーパーアメフラシ』2017


エンジェルを止めてくださいエンジンの見間違いだった地下駐車場
戸田響子『煮汁』2019

シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も
内山晶太『窓、その他』2012

青の字をまたまちがへて春になるそれを塗りつぶせず二重線
山階基 (風にあたる拾遺2012-2015)

古漬が古墳にみえるくらいには疲労していた 皺皺のレシート
吉野リリカ 「かばん」2024年7月号

解説を解脱と読みて気がつかず頁に広がる文字の大河よ
武富純一『鯨の祖先』2014

蕪と無が似てゐることのかなしみももろとも煮えてゆく冬の音
荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

草かんむりを載せてこの世をわたりゆく母が苺となる夏の朝
荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』2022


■事象の見間違い

言葉だけでなく、何かを何かとまちがえる、「AとBを間違う」「AがBに見える」という歌もおもしろそうで、探したらけっこうあった。
間違いとは違うが「AがBに見えてくる」も拾った。

くしゃくしゃの紙を広げて雪山の立体地図と見間違えたい
ながや宏高2015/3「かばん新人特集号」

水滴が小さな魚に見えてくる雨の匂いにしずまる真昼
東直子『青卵』

皮を剥がれた兎がリボンに見えるまでナチ将校のダンスを思う
江田浩司(出典調査中)

オカリナの音がなければ全力で爪を噛んでるやうに見えた、と
光森裕樹『うづまき管だより』

ひとりひとりがさびしい熊に見えてくるあの頃は愉しい敵だつたのに
岡井隆『テロリズム以後の感想/草の雨』

丸めたるタオルが怪物に見えてくる怖くなったら風呂を出なさい
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

三日月がバナナの房に見えるほど乱視であった過去の日本は
中沢直人『極圏の光』

待ちあはせしたる子が裸子植物に見えてくるなりグリーンの服
寺島博子『白を着る』2008

はやく家に帰ろう街の電柱がみんなアルデンテに見えてくる
虫武一俊『羽虫群』

あなたには正装した子供に見えるサボテンが点々と門まで
我妻俊樹 本人のブログ「喜劇 眼の前旅館」2010-03-21

齧り終へし林檎の芯がエンタシスの柱の象に見えてくるとき
高木佳子『玄牝』

印画紙を滑り落ちてく酢酸が涙に見える暗室は海
柴田瞳 詩客2021年02月06日

コスモスの揺れの間に間に見えてゐし日本手拭があなたであつた
永田和宏「短歌往来」H23/7

いかがでしょう?

事物や文字の外見が似ていて見間違えること。
それがどうして、こんなにも、何か詩的な意味を感じさせるのか。

このことは、たぶん、「なぜだじゃれはなぜおもしろいのか」ということに繋がるのでしょう。
だじゃれは、別々の意味の言葉が偶然に同音であるということ。
だから、別々のものの外見が偶然似ていることは視覚のだじゃれです。

だじゃれは、言葉にしろ視覚にしろ、単なる面白さ以上の何か、感覚的かつ知的・神秘的な刺激を含んでいると思います。

2024・7・29


2024・8・10追記

虐待のギャクはヨだっけEだっけ二文字目なんで「待つ」なんだっけ
山田航『寂しさでしか殺せない最強のうさぎ』

ピアノとシューベルトの相性くらい赤ペンと青ペンを間違えたくらい
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

新緑のゴールドラッシュに沸く森で撃たれよ鹿とまちがえられて
穂村弘『シンジケート』1990

ぽっぽっぽ豆と皇潤を間違えて撒けば元気な駅前広場
谷じゃこ『ヒット・エンド・パレード』2016

秋深し「自殺す暗い人」といふ空耳はああ、ジーザス・クライスト
ルビ:空耳【そらみみ】
大塚寅彦『夢何有郷』

さもしいとしるしたはずがさみしいとよみちがえられなぐさめられて
久保芳美『金襴緞子』

ギララアとおもはず読みておどろきぬ昭和十三年の「アララギ」
窪田薫(出典調査中)

「モキチキ」とするとコンビニで売っている物のような気のする茂吉の忌
松木秀『親切な郷愁』

俳句
ひとみごくうの瞳のうごく花野かな
田島健一『鶴』(電子書籍)2011

2024年7月22日月曜日

ちょびコレ27 銀河とオーバーラップするもの

「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

■銀河とオーバーラップするものたち

形状の類似するものはオーバーラップする。
詩歌表現には欠かせない表現である。

いや口が滑った。詩歌に、と言ってしまったが、他ジャンルのことまでは口出しすまい。
少なくとも短歌にはその現象が起きている。

「銀河」というものは渦巻いているので、その渦巻きのイメージが詩的に仲介し、似通う他のもの(回転するもの、輪が重なるものなど)とオーバーラップした歌が、けっこう詠まれている。

現物に備わっているアフォーダンス
言葉に備わるアフォーダンス
みんながそれに注目すれば、アフォーダンスの力が増すこともある。

※アフォーダンス=環境のさまざまな要素が動物に影響を与え、動物はその環境に適合した行動をとること。つまり、環境(状況とかモノのたたずまいとか)が、動物(人間含む)に何かを仕向けること。
ここで言いたいのは、銀河というもののたたずまいや、「銀河」という言葉が持つイメージが、私たちになにか働きかけ、その結果として歌を詠むことがある、ということです。

とりあえず目についたものだけ拾ってみよう。


ハナミズキ巻けるしら花ひとひらのその渦のなか銀河はひかる
加藤孝男『曼茶羅華の雨』 

銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
松木秀『色の濃い川』

金色の渦のさなかに暮らしをり 小佐野家、または銀河一族
小佐野彈『銀河一族』

生まれ変はつたやうに銀河の濃き夜を子らに大きな水車が回る
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

しゅんしゅんとスプリンクラー回りだし銀河はゆるく解かれてゆく
天道なお『NR』2013

底なしの思ひ出、女、スカアトのなかのつめたき渦巻銀河
佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』

天井の木目の渦がゆっくりと銀河に溶ける 死を知りそめて
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

暁のわが腕のなか渦巻ける銀河のごとく眠る猫あり
ルビ:暁【あかとき】
成瀬しのぶ かばん1999・5

★生命を爆誕させそうな丸いものという連想脈も

渦には躍動感があるし、ビッグバンの意味合いもあるし……、渦から転じていくつかの発展もある。

乳いろの銀河はいずこ祖母たちのしずかに紡ぐ幾億の繭
岩尾淳子『岸』



★「静か」というのも注目に値する


みどりごは銀河のやうにかたはらに置かれてしづか秋の産院
喜多昭夫『青霊』2008

あさがほの黒くしづもる種のなかうづまき銀河は蔵はれてあり
春野りりん『ここからが空』

しんしんとゆめがうつつを越ゆるころしずかな叫びとして銀河あり
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』


ふゆ銀河うづまくごときじやくまくのあなうらとふをひとにみらるる
渡辺松男『雨(ふ)る』2016


「かばん」2024年7月号の評をいま書いていて、次の歌を発見した。

ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希「かばん」2024年7月号


なかなか興味深い歌である。

新しいイメージの定着は、一般的に、最初は詩的序列の高いもの(短歌では短歌に詠み慣らされて抒情性をたっぷり含むような語)と結びつくが、それが一段階進むと、より一般的な語へと広がっていく傾向があると思っている。

銀河の渦も「花」や「水車」などとのオーバーラップは、それらの既存の抒情性に頼れるわけだが、「ナポリタン」の巻き取られているさまとのペアリングは、一段階進んだ感じではなかろうか?

もう1点、「生む銀河」といえば以下の歌を思い出す。

サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい
大滝和子『銀河を産んだように』1994

さっきピックアップした中にも「繭」だとか「みどりご」だとか、
銀河を「生まれたもの」、これから育つものと把握している歌があった。
そして、かつて「生」といえば、対比的セットの概念は「死」だったと思うけれども、この「生/死」セットが詠まれすぎたか、このごろ変化して、「生/生命を食べる」という対比を見かけるようになってきた。

つまり、以前ならば、生まれた銀河は死に至る、と空想しがちだったわけだが、この歌は、
銀河の死でなく銀河を食べる、と書いている。この点はけっこう重要かもしれないと思った。

2024・7・22

2024.7.23 少し加筆修正しました。