2024年9月28日土曜日

「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編






Newtonとムーが並んで見る夜空 星のラジオをそれぞれに聞く
雛河麦

 ほっといても世の中を渡っていけそうな、完成度の高い歌が並ぶ一連だが、特に面白いと感じたのはこの歌。二人で星空を見上げるのは定番の構図だけれど、人でも生き物でもない「Newtonとムー」(科学雑誌とオカルト雑誌)という取り合わせのものが仲良く並んで、それぞれ異なるチャンネルで星の言葉を聞いている、というツーショットが楽しく、平和共存の理想のような姿だとも思った。
 他に、「トンネルは抜けると消える生き物で先回りしてはわたしを飲み込む」という歌の空間把握の迫力があった。


ロキソニン二錠が溶けて全身に偽の噂が広がってゆく
萩原璋子

 鎮痛剤は痛みの伝達にかかわる中枢神経に作用し、いわば脳をごまかして痛みを和らげるらしい。
 痛みに耐えかねて鎮痛剤を飲む。「30分ぐらいで効いてきます」といわれた言葉を信じて待つ。このとき、いわば耳を澄ますように痛みを聞いていたのだろう。だから「偽の噂」を聞くかのように、効果を体感した。そんな切実さも伝わってきて、言い得て妙だと思う。


短冊に俳句を書いているときの雑談が好きそよ風が好き
藤田亜未

 一連は授業参観のことを詠んでいるので、雑談しながら短冊に俳句を書いているのは生徒たちだ。字数を整えるなどふだんと違う言葉遣いを楽しんでいる。言葉との新しい出会い、とまでいうと大げさすぎるような明るい初々しさは、「そよ風」の心地よさに通うところがあるようだ。


「聖人君子でもないし平民愚民でもない我」は宙ぶらりんだ
小鳥遊さえ

 一読、面白い、と感じた。が、相槌の打ちようがないとも思った。
 聖人君子でも平民愚民でもないことが「宙ぶらりん」の位置になるのは、どういう論理空間なのだろう。普通に考えれば、ほかに、聖人愚民、平民君子もいるし、それらすべてにあてはまらない中間領域の普通の人がいっぱいいるし、と思考がとまってしまった。


帰宅してクラッシックを聞いている「三角帽子」はわたしの気持ち
田村ひよ路

 アメリカのアニメなどで罰として三角帽子を被せられるのを見たことがある。そんなふうに晒し者にされる気持ちなのだろうか。
 クラシックの「三角帽子」を調べたところ、バレエ曲で、代官が粉屋の女房に横恋慕して恥をかく反権力の物語で、三角帽子は代官が被っているものだそうだ。
 いずれにせよ、帰宅前に何かよほど恥をかくことがあったのだろう。


悪しきことのあれやこれやを憤り大声に読む悪魔の辞典
遠野瑞香

 単純な歌だが単純におもしろい。
「悪魔の辞典」を大声で読むというのは、怒りの発散法として珍しいし、あの婉曲で皮肉な文体は、冷静を取り戻す役に立ちそうだ。
「あ」音が多く使われていることで、陰湿な感じのしない憤りを思わせる。


物件ありひと月二万六千円敷金礼金不要のアパート
雨宮司

 人助けの顛末を詠む一連。掲出歌は住居を探してあげる過程の歌。
 そのストーリーは離れるが、この歌はまるで偶然短歌のようだ。偶然短歌とは、一般の文章などが偶然に短歌の字数やリズムに当てはまったもので、内容は詩的でないものが多いが、短歌形式のリズム感だけを備えた独特の雰囲気を持つ。この歌には、ストーリーの説明で偶然に偶然短歌ふうになった、みたいなかわいいメタ感があってほほえましい。


手でめがね作ってごめんこのあとはだめなときだよ笑いばらける
柳谷あゆみ

 「このあとはだめなときだよ」と言いながらした、「手でめがね作る」という意味不明な仕草。
 このおどけたような、顔をかくすような、崩壊寸前のニュアンスが細やかである。そのあとの「笑いばらける」も、崩れかたが具体的で、スローモーションを見る心地。

 持病がある場合、実際にこういう言動があるかもしれないと思う。いや、そうした病気でなくとも、何か「だめになる」寸前と自覚したときには、手でめがね作ってごめんと言うような、わかりにくいアフォーダンスを振りまきそうな気がしてきた。


何かこう大事なときに枝に実がつくようにして心配増える
山内昌人

 「何かこう大事なときに」の部分、アフォーダンス的な情報が多い。
 この言い方には、適切な言葉がうかばなくてもとにかく話し続けるようなセラピー感がある。加えて「こう」には見えないものを探る手つきも見えて、後半の「枝に実がつくようにして心配増える」の語りの切実さを支えている。


髪きって夏の準備はととのった入道雲は背中にしょって
藤野富士子

 「夏」という季節を「人生の本番」と捉え、「いざ出陣」的に詠む歌をときどき見る。
 こういう定番テーマには独自要素が必須だ。この歌では、普通なら背景として描く入道雲を、「背負う」という想定外の構図に変更している。
 むくむくふくらむ希望をサンタの袋のように背負う。明るく愉快な絵だ。そこに真剣さもあるのは、慣用句「十字架を背負う」が隠し味になるからだろう。


一羽だけ白鳥がいる湖に行くことになる日帰り旅行
屋上エデン

 日帰りの移動範囲で行く先を選んだら、一羽だけ白鳥がいる湖に行くことになった、というか、行ったら一羽しかいなかったのだろう。――バレエでいえばオデッサ姫一人をちょっと見るだけみたいな。
 観光としては、写真をすぐ撮り終わってしまいそうな物足りなさはあるものの、それでも、「あ、白鳥がいた」「一羽だけどシッカリ見たもんね」などと言い合って、慌ただしく移動することなどにも、小規模で気楽なそこそこの楽しさがあるだろう。


死んじゃえば桜が隠してしまうからハーレクイン風キスをしようよ
天原一葉

「死んじゃえば桜が隠してしまうから」は、メメント・モリの「「死を意識することで今を大切に生きることができる」的な意味合いか。
 今を大切にハーレクインコミックみたいなキスをして、生を謳歌しよう、という歌だと思う。メメント・モリのドクロと違って、明るい色彩のきれいな絵になっている。


わかるよと云われるたびにおもしろい北極点にコンパスを置く
神丘風

 どなたかが亡くなったことに関連した連作のようなので、解釈を外すと不謹慎になってしまいそうで怖いけれども、肯定による認識世界の再構築、みたいなことを詠んでいるのかなと思った。

 誰かに「わかるよ」と肯定されるたびに、認識世界のどこかを新たな北極点として世界が再把握される。そういう種類の知的刺激ではないだろうか。コンパスの針が脳天にちくっとする体感を伴う点も印象深いと思う。


梅雨間近小学生は応援の練習だよふれーふれー
ゆすらうめのツキ

 一連の歌は、普通の家の普段着の時間、そのなかでもあえて、話の種にならない、箸にも棒にもかからない出来事を集めてある感じだ。「ただごと歌」に似ているが違う。アンチ・ドラマのような、マイナス方向への空疎さが、ただごと以上に意識されていると思う。

 最後の歌は特にそのマイナスの階層が深い。ドラマからのマイナス度ゼロの層はドラマ的感動の当事者の領域、マイナス度1の層はドラマ等を見て応援する人の領域、マイナス度2の層は応援の練習をする人の領域、マイナス度3の層は、応援の練習の声をたまたま耳にする人だ。そういう階層図を思わせる。

 結句の「フレーフレー」は応援の練習をする子どもの声である。が同時に、そんなふうにドラマから遠く、主役、脇役でもなく、まだ観客でもなく、いつか観客となるために応援を練習する、ーーそんな子どもたちに送る作者からのエールであるのかもしれない。


代わりなり絵本にお菓子にガラスペンあれこれ探す空財布なり
水野蛍

 一連は、子どもへのクリスマスプレゼントに関する親の悩みをいろいろに書き分けたもの。(「代わり」とは、別の歌に。子どもの欲しいポケカが手に入らないと詠まれていて、そのかわりという意味。)
 一連のほとんどが説明的叙述で上手な歌には見えない。が、字数制限のある「一行日記」ふうでもあり、語尾は文語にして短く切った、みたいなノリ、と思えば少し趣は感じられる。掲出歌の「……なり……なり」という構文にもそれが漂っている。


明け方にエアコン突如作動して空気清浄ですと呟く
稲上絵美

 一連の歌は、「やれやれ」とか「あーあ」とか、見えない詠嘆が末尾についている感じで、世間話的な相槌の打ちやすさがある。 掲出歌も、電気製品が思いがけないふるまいをするのはよくあるから、「あるあるー」と、しばし話が盛り上がりそうだ。
 加えてこの歌には、イメー領域のプラスアルファがある。明け方のレム睡眠を「空気清浄」という声にこじ開けられたら、その一瞬、自分が滅菌室の細菌みたいに浄化される対象か、と思ってしまう。そんなささやかな恐怖体験だと思う。


真っ白なシャツばかり着ていることで赤や黄色は笑顔に見える
百々橘

 白シャツばかり着ることと、赤や黄色が笑顔に見えることを、さりげなく「で」で連結しているが、ここには飛躍があって、いま何を飛び越えたのかと考えるのが詩的行為として楽しい。
 花嫁のウエディングドレスや白無垢、医師の白衣、死者の白装束。人生の転機、生死に関わる場面などで、シリアスな白を着る習慣がある。「真っ白なシャツ」も少しそのまじめさに通じるだろう。で、この歌を見てはじめて考えたのだが、白服を着る場面には、敬虔な緊張がありがちで、あんまりニコニコしないと思う。だから、職業などでいつも白を着ている人には、「赤や黄色」の色そのものに、白に禁じられた笑顔が見えるのかもしれない。


もしもわたしの舌に蜜があれば……雲のくぼみにぬりつけよう「消えるな」
井辻朱美

 え、なんだこりゃ?(この歌以外は、誰が読んでも「いい歌だ」と言いそうな歌ばかり。この歌だけはスペシャルだ。)
 その造形のすばらしさを維持したいと思わせるような雲はたまにある。そんな雲を、「何かで塗り固めようかしら」と想像することも、まああり得るだろう。
 だが、「自分の舌に蜜があればその窪みに塗りつけよう」という、ミツバチみたいな熱意はまず抱かないだろう。でも、蜜蝋で巣を塗り固めずにいられないかのようなこの表現は、とても緻密だ。
 短歌の評でよく耳にする「共感」というコトバ。しかしそんなに「共感」ばっかりが大事かな。こういうふうに、思ったことを詠み抜く獰猛さ。惹かれる。こういうものが必要だ。


古漬が古墳にみえるくらいには疲労していた 皺皺のレシート
吉野リリカ

 ああ、疲れのせいで似ている字を見間違ったのか、レシートの皺のせいももあるか、人もレシートもくたびれていたんだな、と納得。

 それにしても「古漬」と「古墳」は傑作な取り合わせだ。古漬けと古墳の古さは段違いで、古漬けが憂き世の時空を斜め上にすっ飛び超えてミイラ味になっちゃうぐらい、なかなか味わえないおかしみがある。


ポインタとレーザーポインタひとつずつ買って滅びに備えています
岩倉曰

 どういう滅びに備えているのかわからないが、何かがどう転んでも対応できるように、ポインタとレーザーポインタを買った。ーーこういう説明しにくいことをすることがある。そのときはちゃんと考えての行動のつもりでいる。
 こういう現象には覚えがある。デジタルとアナログのキッチンタイマーを同時に買った。もう忘れたがそのときは、何か筋の通った理由がある、つもりだった。
 こういう名もない現象を発見し、歌に詠めるものへと昇格させたことは、ひとつの手柄だと思う。


いまだれも死にませんように マスカラが乾ききるまでそっとまばたく
夏山栞

 外国の戦争のニュースでは多くの死者のあることを伝えてくる。ときには映像もあって、強く目を閉じたり見開いたりしてしまう。
 遠すぎて何もしてやれない無力さ。経緯が複雑すぎていい加減な感想も言えない。安易な同情や祈りのコトバは自己満足でしかない。
 朝の化粧中の「いまだれも死にませんように」という願いは、何もできない今の自分の立場に見合ったものであり、その状況のなかで望める最大の誠実さだ、と感じた。


降ってきたこの旋律を書き留める音符の知識も鉛筆も無い
大甘

 雨の中の樹木のように、何も自分にとどめないすがすがしさ。旋律を留めたいなど、欲求はさまざまあるだろうが。すべてが透過していき、断捨離さえ不要であるような、透明な虚無の姿を見る気がした。(尾崎放哉の「入れものがない両手で受ける」の境地もある意味越える。)
 まるでニュートリノ、と思ったら、「季語を捨て俳句をやめて残るもの 草田男という名前が好きだ」という歌もあった。人はカミオカンデ(水をたたえた施設でニュートリノを稀に捕らえる)だなと思った。


ちちちって、燃え尽きました ごめんねとありがとうをどちらも言います
田中真司

 校長先生は朝礼の訓話で、「『ごめんなさい』と『ありがとう』は魔法の言葉です」的なことを言うらしい。学校の訓話の例のほか、自治体の親子教室、生涯学習教室等で、この二語を推奨する取り組みがあるとネットで紹介されている。
 他者を尊重する大切な言葉だから必要な時に口にできるようにしておくべき、というのはわかる。だが、この二つだけのチョイスは妥当か。自分のことも尊重しなくちゃいけないのでは?
 この歌は、一見、謙譲の態度で素直に人生を全うした人の美しい最期を詠んだように見えるが、「ささやかに燃え尽きますよ。最期にもちゃんと、ご指示の通り、この二つの言葉を言いますからね。」という、ごく微量の反抗のニュアンスも読み取れる。
 ――このことを婉曲に言わねばならない世の中に、……既になっているのかも。


母さんはわけなく帰れると信じてたパンくずリストをたどっていけば
石田郁男

 グレーテルである母さんは、兄妹で家出した過去の成功体験により「パンくずリスト」をたどれば帰れると楽観して母子での家出を決行した。が、その判断は甘く、母子は困った状況に陥った。
 ――というようないきさつを空想した。実際ありそうな話だ。


ノックコン「入る(ノブガチャ)わよ」コンでもう入ってる 母は速さだ
北瀬昏

上から5757は、結句の「母は速さだ」の具体的説明。構造がよく生かされていると思った。また、上の句は「ノックコン「入る(ノブガチャ)わよ」コンで」と、「(ノブガチャ)」を割り込ませて575にしてあるのが愉快。母のスピードを臨場感たっぷりにユーモラスに伝えてくる。「母は速さだ」の「はははは」も速さを表している。


根本だけ残して細く割いたチーズ 浜木綿みたい 頭から食う
かわはら

 どの歌にも花か樹木が詠み込まれている一連。「寺の菩提樹の根元に腰掛ける 星の数ほど増えた煩悩」など、まっとうな感じの良い歌もあるが、掲出歌はやや経路が違うところを買う。
 従来「花より団子」というように、花を愛でることと食べることとは対比的だが、「浜木綿みたい 頭から食う」というのは、愛でつつ食べることに通じて、やや新感覚だ、また、具体的な調理法などを詠み込むことにもおもしろみがあると思った。


われわれのたてがみ服についており馬の毛製のブラシで落とす
深海泰史

 旧約聖書のサムソンの昔から髪は力の象徴〉である。そして鬣は、力のみならず誇りみたいなものも象徴していそうだ。
 われわれの力や誇りの象徴が抜け落ち、まだかろうじて服に残っているのを、かつては馬の体をつややかに包んでいた馬の毛のブラシで落とす。ーーともに身体から離れた毛であることをどう解釈しようかと迷った。
 同病相哀れむというセンもあるが、抜け毛ワールドの抜け毛たちの織りなす世界、というセンも悪くない。


しあわせにカタチはなくてひと工夫された夕食の甘辛煮
みおうたかふみ

 短歌には、同じ位置に同じ言葉があってその前後の関連性が似ている有名な歌と共鳴するという現象がある。この歌は「たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子)」と響き合おうとしている。
(作者が意識しているときは「本歌取り」と言うが、作者が意識せず偶然そうなったとしても共鳴効果は備わる。)
 「しあわせにカタチはなくて」を「たましひに着る服なくて」が、対句的にサポートする。そのサポートを含めて解釈すると、「たましいレベルのことはともかく、少なくとも食事という現世のしあわせは、これと定まった形はなくとも確かなものとして享受できる」という意味合いになると思う。


無宗教だと招ばれないパーティーがあるきっとある 散り花を掃く
沢茱萸

 「散り花を掃く」という静かな動作をしながら、「無宗教だと招ばれないパーティがある」という思念が湧き、「あるきっとある」と波立って増幅していく。――「散り花を掃く」行為に、そういう思念を誘発する要素があるのだろうか。

 日本は宗教をあまり意識せずに暮らせるが、無宗教は論外である国も少なくないと聞いたことがある。だがそういう現実の話ではこの歌を捉えきれない気がする。
 「散り花」は華やかに咲いて散ったものだから、「パーティーのあと」を連想させ得る。
 生き死にのある世界とは一種のパーティーシステムだ。生死は宗教の根源だから、無宗教はそもそもパーティーの参加資格がない、という考えもあるだろう。それは、「ロボットは生物じゃないからお墓はいらない」的な感覚と似ているだろう。この歌には、そういう、夢でなら納得できそうな理屈が通っているように感じた。


モーツァルトを聴かせることでエラーから回復をする未来の機械
本田葵

 「音響栽培」(農作物に音楽を聞かせるとよく育つらしい)や、「音楽療法」(音楽で心身の健康の回復・向上を図る)が思い浮かぶ。音楽は楽譜という記号に変換できるから、リペアのプログラムをモーツアルトなどの楽曲に変換して機械に聞かせる、的なことが、未来なら可能かもしれない。

 ただし、この歌にある音楽で機械をリペアするのと音響栽培等とは、決定的な違いがある。その方法を機械が喜ぶわけではない。それは、機械をメンテする人間の作業者に快適をもたらすものなのである。
 未来でも人間はそういうことに力を注ぐ、というふうにも読める歌だ。


ツーピツー 四十雀語で語り来る人間なんてほんに阿呆やん
上田亜稀羅

 鳥の声の口真似なんかしても鳥に通じやしないが、人間には自分本位の楽観性があって、勝手に親しみを持ち、口真似をして気を引こうとする。だが、鶴に向かってポッポちゃんと呼びかける人を見たことがある。相手が鳥だろうが何だろうが、相手を理解せずにお互いに勝手な解釈で好き合ったり嫌い合ったりするわけだ。

 ただ、関西の人に聞くと「阿呆」には愛があって「バカ」とは違うそうだ。「ほんに阿呆やん」には、人間的な欠点をもぬるく受け入れる優しさがある。


真夜中に不意に目覚めた爪先は死体くらいに冷え切っている
齋藤けいと

 足などが冷えて目覚めることがある。爪先の冷えが「死体くらい」という具体的・直感的な感受は、「死んだように眠る」という慣用句など、眠りと死がイメージの世界で繋がっているせいだろう。
 また、爪先と言えば、「棺桶に片足を突っ込む」という慣用句があり、その経路でも、「死に近づきすぎた」という危うさを感じたのではないだろうか。


鯊二匹瘴気の抜けた穴の中空飛ぶドローンに憧れ抱く
乗倉寿明

 全体にカタカナの人名・地名・建造物名がちりばめられ、わかりにくい歌だが、「博学な鳥が飛びながら落とした思念の断片」ふうで、味があると思った。

 タイトルの「ホィラー・ウィーラーの相対論的な?」はヒントだと思う。
 米国の物理学者ホイーラー(John Archibald Wheeler)はウィーラーと書かれることがある。「ブラックホール」の命名者で原爆の開発にも関わったそうだから、掲出歌の「瘴気の抜けた穴」はそのあたりが接点だろう。また、ハゼは「鯊」とも「沙魚」とも書く点で、「ホィラー・ウィーラー」的だし、底生魚で泥を胸鰭で歩くのは、空をとぶ「ドローン」とは対照的であり、でも「泥」は音で通じている。
 こういう縁結びで歌を紡ごうという意図はなんとかわかった。


(続く)



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