所属誌「かばん」は会員持ち回りで本誌評を書くことになっていて、数年に一度のその役目が巡ってきて今年の7月号評を担当した。はりきりすぎて想定を超えた大作業だったが、なんとかやりとげ原稿を送った。
掲載号である忘9月号が届いて、掲載された自分の「7月号評」を見て、誤字脱字の多さに驚いた。言い訳にならないが、最後は慌てて送ったことを思い出した。
「アフォーダンス」という観点を歌評に持ち込むことを提唱している点など、多くの人に見てもらいたい要素もあるのだが、いかんせん誤字脱字はよろしくない。意味の伝わりにくい部分もあって、こちらに気になる部分を修正した全文を掲載する。 高柳蕗子
「かばん」2024年7月号を読む 目次
1 アフォーダンスの観点から
短歌とアフォーダンス
短歌は人が詠むもの。――それはそうだ。が、詠まれているさまざまな事象や使われている言葉たちは、詠まれるがままでいるのだろうか?
事象は、なんらかの意味を態度で表している。たとえば、バラのトゲは「触るな」というアフォーダンス※を発している。そこにたまたまある木箱は、そこに腰掛けるのにちょうどよい体躯の生物に対して、「どうぞ腰掛けて」という誘いのアフォーダンスを漂わせる。
言葉というものも、外見や語感という情報を備えているという点では事象の仲間だ。歌人や俳人が重視する字数という要素は、まさに、言葉の物体としての要素である。「韻律に情趣がある」「リズム感が心地よい」というのは、短歌という詩型のボディが発するアフォーダンスである。つまり定型詩は、自由詩に比べると、アフォーダンス意識が強いと言えるだろう。
人間用の椅子をデザインする場合は、人間に適したアフォーダンスを持つ椅子を作るだろう。短歌もしかり。歌人は無意識にも、日本語を解する人間が読む、ということを前提にし、内容のみならず言葉の配置や語感など、読者へのアフォーダンス的な効果も配慮して歌を整えているだろう。
★★
※アフォーダンス(英: affordance)とは
①afford(与える、もたらす)という動詞の名詞形として作られた造語。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが生んだ言葉で、環境が動物に対して与える意味や価値という意味がある。生態光学、生態心理学の基底的概念であるが、近年では、生態心理学の文脈だけでなく、広く一般に用いられるようになってきている。(ウィキペディアより抜粋一部要約)
②アフォーダンスとは、デザイン心理学の用語。ある物体や環境が持つ機能性や可能性を指し、その物体が使用者にどのような行動を促すか、どのような利用方法を提供するかという観点から考える。例えば、椅子は「座る」という行動を促すaffordanceを持つ。これは、椅子の形状が人間の体を支え、安定した座位を提供することから来る。(Weblio辞書 :実用日本語表現辞典より抜粋一部要約)
作者が歌を詠む段階のアフォーダンス
歌人は事象や言葉のアフォーダンスに触発されて歌を詠むことがよくある。それを一歩進めて、人間には形状等が似ているものどうしを無意識に結びつける習性があるため、例えば「渦巻く銀河と肉まんのヘソがオーバーラップする」というような現象も起き、そこに端を発する短歌も多く存在する。
歌人なら、ふと目に入った言葉を歌に使いたくなることがあるだろう。「2句目あたりか、いや、シメの結句にどーんと置くか」などと楽しく悩む。つまり、作者が歌を詠むとき、事象や言葉のアフォーダンスは大いに関与しているはずである。歌を詠む過程でも、今まさに自分が並べていく言葉たちのアフォーダンスと交信し、協力することもあると思う。
読者が歌を読む段階のアフォーダンス
ややこしいのは、作者段階と読者段階を区別する必要があることだ。
読者は、作者の意図を汲もうとし、その歌の詠まれた状況や過程も想像しながら歌に臨む。アフォーダンスの面でいえば、例えば「作者は黒ぐろと迫る雨雲に、時代の危機感を重ねて詠んだのかな」みたいな想像をする。こういう想像は、鑑賞として自然だし、好きなだけしていい。
しかし、作歌動機や過程は実のところ誰にもわからない、ということも了解しておくべきである。作歌中の脳内にはブラックボックスがある。作者も、自身の歌を把握しきれない。詩歌という領域には正解がない。
そして、最も重要なことは、読者が歌から感じることはすべて、作品としての短歌が備えたアフォーダンスであるということだ。むろん歌には作者の気配が残っており、読者は、作者の意図などを推測するけれど、それらはあくまで、その歌のアフォーダンスがもたらした結果であると割り切るべきだ。
というわけで、作者が題材や言葉から受け取るアフォーダンスと、読者が歌から受け取るアフォーダンスは、区別して語られるべきである。
アフォーダンス・ミックス
アフォーダンスはミックスで効果を出すことがある。
事象や言葉一つ一つのアフォーダンスは、たいてい淡いものでしかない。が、ミックス効果を発揮しているケースがある。これは、柔道において「技あり」二回で「一本」になるようなものだ。しかし、これを歌評で説明するのは難しい。淡い効果を一つ一つ取り上げると長くなるし、「微細なことを大げさに言って状況証拠だけで無理に立件したがっている」と思われがちだ。
「短歌のアフォーダンスにはミックス効果というものがある」ということ。本稿は、それだけでも伝えたいと思っている。
このあと数例、アフォーダンスの効果に注目する形で鑑賞を試みる。そのあとは、ほぼ7月号掲載順に歌をピックアップし、必ずしもアフォーダンスにこだわらずコメントする。
1 いろいろなアフォーダンスとミックス効果
冷えた壁に三つの果実の絵のかかるさびしい話をするにふさわしい
とみいえひろこ
なるほど、冷えた壁に果実三個の静物画、という環境には、「さびしい話をするにふさわしい」と感じさせるアフォーダンスがありそうだ。加えて、果実が三個あるたたずまいも、「さびしい話をする」のに最適感がある。一個なら孤独、二個なら親密、四個以上は賑やかすぎ、と思いませんか?さらには「3」という数そのものにも、微弱なアフォーダンスがある気がする。
歌に持ち込まれる要素は、作者のなかでありとある事象から選ばれたものだが、私という読者に見えるのは結果としての歌である。作者段階でどういうふうに歌が成立したのかは、想像するのみである。
一方、読者には、歌のあとの世界が拓ける。この歌を読んだとき、偶然にも果実の絵のついた冷たいペットボトルを手にしていた私は、自分がいまボトルの外という冷えた壁際にいることに気づいた。
指さきをヌルヌルにして果てのない憎悪を溶かすカヌレ食べます
ユノこず枝
ものすごく具体的な描写で「憎悪」を詠んでいるが、経緯を示唆する要素が全くない。歌の動機を実生活の出来事などに求めるよりも、各語のアフォーダンスから読み解くほうが良いタイプの歌だと思う。
強いアフォーダンスを発している語はなんといっても「カヌレ」だ。それとなく形状が火山に似ていることも手伝い、「憎悪を溶かす」とのタッグで、溢れ出す溶岩に通じそうになり、カヌレに火山のイメージがこっそりオーバーラップしそうになっているのだ。
もうひとつ、カヌレは表面を蜜蝋で固めてある。ぬるぬるしてはいないのだが、「カヌレ」という名称が「濡れ」「ぬるぬる」に少し通じて、蜜蝋が溶けるイメージを呼び寄せそうになる。そうしたいろんなアファーダンスがいい具合に混ざっていると思う。
心臓の上にスマホを置いてみる私は死んだ人の末裔
木村友
死と睡眠はセットのイメージだ。で、「死は永遠の眠り」というアフォーダンスを帯びているが、これを逆転させた「睡眠は永遠でない死」も、さして違和感なく受け入れられるアフォーダンスになり得るだろう。
こう書きながら気づいたのだが、この歌のどこにも寝ているとは書いてない。「心臓の上に置く」「死」といった単語とフレーズのアフォーダンスが、仰向けに寝た状態を想起するよう仕向けてくるのだ。そして、仰向けの胸の上に何かを置く図は、棺の死者の胸に花束などを置くことを連想させやすいものだが、下の句で出てくる「死」でそれが強まる。
下の句「私は死んだ人の末裔」は、当たり前のことをことさらに感受している。当たり前のようでも、まだあまり辿られたことのない連想脈だと思う。また、そのことを「心臓の上にスマホを置く」ことで意識した、という経緯にも、ニューロンが喜びそうな新しさがある。しかも、「スマホを副葬品のごとくに胸に乗せて寝ると、動いている自分の心音がご先祖たちの止まった心臓と通信しそうだ」ということを、暗示しすぎないよう寸前で止めてある。
我が傘を出がけにへし折る強風と電車の遅延ほんといらない
小野とし也
内容は単純だが、冒頭の「我が傘」から結句「ほんといらない」に至るまで、表現のギャップを練り込んだ構造になっている。
まずは出だし、文語脈「我が」を「へし折る」という乱暴な日常語に連結させている。傘を「へし折る」ほどの風の威力を、やや芝居がかった大げさな言葉の身振りで強調している。そのあと、「電車の遅延」という情趣皆無の語を経由し、結句の「ほんといらない」という個人的なつぶやきのくだけた口調に至る。この部分は、意味上は拒否感を表しつつ、それでも良くあることとして、なんとか受け入れようとしているように見える。
つまり、この文語から口語までのギャップを含んだ歌のボディには、出勤時の強風・電車の遅延というワンツーパンチに見舞われて心折られながらも出勤しなくちゃならないという、心の対処過程の機微が練り込まれている。
たまに「文語と口語混ぜるな危険」という教条的言説を耳にするが、詩歌は原則に当てはまるかどうかよりも、いかに素敵な例外たりうるかが味わいどころではないだろうか。
水無月の訪問者あり玄関の硝子戸越しに細くうつむく
千葉弓子@ちば湯
この歌も、言葉のアフォーダンス、歌のアフォーダンスという観点を念頭に置かないと、良さを語りにくいと思う。
語られているのは、実質、六月に訪ねてきた誰かのガラス戸越しの印象で、それを述べるならさまざまな言い換えが可能だが、この歌は、この歌にしかない絶対的な詩的効果を備えている。それは、この言葉たちをまとめた歌のボディからあふれるアフォーダンスの効果である。
むろん感じ方は人それぞれではあるが、例えば、万葉集まで遡れる語「水無月」には和風の風情がある。旧暦では現在の六月下旬~八月上旬をさす。「訪問者」「硝子戸」「細くうつむく」という言葉たちにも淡いアフォーダンスがあって、ミックスすると、私の場合は、水無月といえばお中元の時期だし、風呂敷包を携えた和装で控えめなたたずまいの人を思い浮かべそうになった。
そこには、ほんの隠し味的に正体不明感(微妖怪風味)も加味されている気もする。このごろ和装の人物は現在あまり見かけないし、「細くうつむく」という曖昧な気配描写が空想を促すからだろうか。さらにこの場面全体に、細かい縦の効果線(たぶん雨のイメージ)も見える気がして、出どころの曖昧な緊張感がみなぎる。
ドラマで、なんでもない場面をBGMで緊張を高めるというテクニックがあるが、この歌は言葉のアフォーダンスがそれをやっている、と思った。
誰かひとり喜ぶ人が居ればいい此の世の隅に七角箸は
前田宏
世相や戦争に言及する歌を含んだ「遠くまで」という一連。この歌は、「さまざま問題をかかえた世界の一角に『誰かひとり喜ぶ人が居ればいい』というスタンスのものがある」と提示して締めくくっている。
アフォーダンスの観点から注目したのは、その内容を「七角箸」が担っていることだ。「此の世の隅に」は、この世は隅へと窮まるという空間把握を感じさせる。此の世の隅々にさまざまなものの究極があり、その一つである「誰かひとり喜ぶ人が居ればいい」という究極には、〝標〟として、「七角箸」が立てられている。そういう不思議な図が思い浮かびそうになる。
自分だけが使う食器である箸には、職人が一本一本削って作る一生モノの高級品がある。六角・八角は縁起が良いとか、三本の指で持つから奇数の三角・五角が良いとか、諸説はあるが、「七角箸」は特別であるらしい。現物のすらっとした見た目。「七角箸」という字面。そして「七」という数字の神秘性。このアフォーダンス、なんだか神々しくもある。
研ぎをへて片手にもてる包丁がつわんつわんとひかりをはなつ
飯島章友
言葉のアフォーダンスといえば、オノマトペを真っ先にいうべきだったかもしれない。なかでも、雰囲気や心情のように見えず聞こえずのものを表す擬態語というものはすばらしい。自分の感覚で手作りできるし、その手作りがけっこう通じる。これは日本語特有のことであるらしい。
掲出歌の「つわんつわん」は手作りオノマトペ。日本語を使って育った人ならだいたいは、この光り方の雰囲気を受け止めてくれるだろう。その期待と信頼によって、この歌は成立したはずだ。
既存の擬態語で光るさまを表すものというと「きらきら」「ぎらぎら」「つやつや」があるけれど、それでは物足りなかったのだろう。鋭さとして「つ」、力強さを「わ」、響を付加する「ん」の三つを合成。「つわんつわん」というひかり方は、包丁自身が周囲に切れ味を誇るかのような光りかただと思う。
「瞬発力ってなくていいのよ」雨ごとに耕されてく空気は言った
杉山モナミ
「空気」が「雨ごとに耕されてく」という把握が新感覚だ。「雨降って地固まる」という慣用句からの、あるかなきかのワンクッション・フォロー。雨で地面は固まるが、空気は耕されるのね、となんとなく受け入れる。
アフォーダンスの観点から注目したのは、「瞬発力ってなくていいのよ」という部分だ。雨に耕される空気の感触みたいなものをセリフにしている。つまり、雨の中の空気のアフォーダンスをセリフ化して表現しているのだ。
実際の環境やモノは、セリフこそ言わないけれど、アフォーダンスを発したり漂わせたりしている。そういうものに無意識に反応している私たちは、アフォーダンスと会話することもある、とも思った。
以上、アフォーダンスという観点に立つと説明しやすくなる要素を含んでいる歌をピックアップした。歌を構成する要素はいろいろあって、アフォーダンスを活かすテクニックはその一つにすぎない。したがって、ここに掲出したことやコメントの長さなどは、歌の評価に直結しないし、そもそも歌の良し悪しをいうことが目的の評ではない。念の為おことわりしておく。
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