2025年5月19日月曜日

ちょびコレ38 舌を出す

 


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、

そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


だいぶ前に、「短歌の中で舌がすること」というミニコレクションをやりました。
そのときは、「舌」としては珍しい行為などを詠む歌を集めました。

しかし、「舌」というのは、作者読者ともにそそられる題材で、行為自体が珍しくなくても、レアな名歌を詠めちゃうみたいです。
ですので、今回は「舌を出す」ということに絞って、歌を集めてみました。

※検索語句は「舌+出」「舌+[だす]の各活用形」「べろ+出」等々、舌を出すということを詠んでいそうな歌を拾えるように工夫して検索し、あとから対象外の歌を取り除きました。

※舌を出すことを詠んでいても、「舌orべろ」と「出or[だす]の各活用形」を含んでいない歌は拾えません。)


本日の闇鍋データ総数 181,243歌句
うち 短歌      132,197首
うち、「舌を出す」ことを詠み込んだ歌 32首

以下、そこから本日の好みでピックアップします。
まずは近代歌人の2首。

すつぽりと蒲団をかぶり、
足をちゞめ、
舌を出してみぬ、誰にともなしに。
石川啄木『悲しき玩具』

蠅來ればさと繰出すカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
ルビ:繰出【くりいだ】
中島敦 青空文庫(「中島敦全集2」筑摩書房「河馬」)


和歌の時代、「舌」って詠まれていなかったと思います。少なくとも、見たことないです。
 ※ただし、俳句では古典でも「牛の舌」だとかを見かけるし、また、古川柳や狂歌でも「舌」は詠まれています。

今回あらためて「舌」の歌をさがしてみたところ、近代の歌人たちはけっこうたくさん詠んでいて、「短歌」の言葉の世界では新鮮な題材だったと推測されます。

上記の啄木の歌もそうですが、詠まれているシチュエーションもかなり人間的です。(和歌の時代で人間臭いネタはほぼ恋の歌だけ。)

今まで歌に詠まなかった題材は「写生」という観点からも新鮮だったはず。上記の中島敦のカメレオンの舌の色を詠む歌には、そうした表現の喜びが感じられます。

参考例(近代の「舌」の歌。舌を出す歌ではない)

鬪はぬ女夫こそなけれ舌もてし拳をもてし靈をもてする
ルビ:女夫【めを】 靈【れい】
森鴎外『沙羅の木』

おそらく夫婦喧嘩を詠んでいるのでしょう。
「舌もて」は舌戦、「拳をもて」は文字通り。「靈をもて」はご先祖まで振りかざしての大騒ぎ、という意味でしょうか。

この坂は霧のなかより
おほいなる
舌のごとくにあらはれにけり。
宮沢賢治 ちくま文庫 宮沢賢治全集3 


近代の人の表現意欲ってすごいなと感じてしまった本日ただいまの気分で、内容というより、表現欲の強さを感じるかどうかで、以下、現在の歌人の「舌出し歌」をピックアップ。

唇がかくしてる舌ひきだして玉藻のような時がはじまる
加藤治郎 『噴水塔』2015

「玉藻のような時」って何でしょう?
「舌」といえばなまめかしいイメージ。そこにプラスして玉藻といえば……、脳内にサーチをかけると、万葉集の用例から、波間でゆれる藻のように撚り合わさるイメージ※と、「玉藻前」(九尾の狐)から妖艶なイメージも少し加わる感じ、だと思います。

※玉藻といえば万葉集によく出てくる。枕詞の「玉藻なす」は、「浮かぶ」「寄る」「なびく」にかかる。さらに思い浮かんだのが(たまたま知ってただけだが)、柿本人麻呂の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」の一節だ。
「……和田津の荒磯の上にか青なる玉藻沖つ藻朝はふる風こそ寄せめ夕はふる波こそ来寄せ波のむたか寄りかく寄る玉藻なす寄り寝し妹を……」

舌だしたまんま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん
穂村弘 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』


舌を出すものといえば「犬」、「貝」、「化け傘」などなどありますが、「ペコちゃん」もそのひとつです。
人物描写のおもしろい歌。外見の描写だけでなく、主体は誰かにこう話しかけていて、それがスキー場を自分たちの街にするようなニュアンスを含んでいます。
だから描写されているのは、ぺこちゃんみたいな人だけでなく、それを見ている二人の素敵な時間だと思われます。そこがこの歌の並じゃない点でしょう。

ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片
光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』

「舌で雨や雪を味わう」という趣向は時々見かける気がしています。(そのように詠む短歌は実際にはそう多いわけではなく、たまに見る程度です。)
よくよく思い出してみると、教科書で西脇順三郎の「雨」という詩に出会ったのがその最初だった気がします。
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 (中略)
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

一方、「古都の雪」というと観光地を語る文脈を思わせる面がありますが、この歌の場合、「舌で味わう」ことで、主に視覚で味わう世間一般の観光のステレオタイプな体験を超えたものがある気がします。

地球の水分は太古から、雨雪やら河川や海に姿を替えて巡っているもので、その一部は生物の身体(もちろん人間も)を通り抜けます。姿によって異なるイメージを持ち、また地域ごとに歴史その他の特性による情緒も帯びます。古都の雪はその一形態で特に完成されたものでしょう。
歌はそんなことまで言っていませんが、そうした大きな把握が認識の底にある気配はします。詩歌における「雨や雪を舌であじわう」は、そうしたことをそれとなく感じさせる可能性があると思います。

 
舌先を愚者みたいにつきだせば冬のおわりのあおぞらにがい
ルビ:愚者【フール】
佐藤弓生 『薄い街』

「舌を出す」のは、相手を馬鹿にするしぐさでもありますが、「愚者みたいに」というのは、無邪気さのニュアンスでしょうか。また、「空に向かって舌を突き出したら苦かった」というのは、ちょっと「天に唾する」(人に害を与えようとして、かえって自分に災いが及ぶこと。また、自分より上位に立つ者を冒涜するような行為)おろかさにも通じそうです。
空をなめるとは、世界をなめてかかった愚かさ、という意味を含んでもいそうです。

「冬のおわり」は春の直前。季節がこれからまた最初からやり直しになる直前の空は、なるほど、だいぶ苦くなっちゃっているのでしょう。

ぐわぐわとつつじひらけり陽のもとに押し出されゆくくれないの舌
鈴木英子 『油月』


種類によって色や形は違うだろうが、この歌で思い浮かぶのは、鮮やかな紫がかったピンクのつつじ。
花はみんな世界に押し出て咲くパワフルなものですが、つつじは花の中まで同じ色で、たくさん咲くところも、パワーを感じさせます。
「ぐわぐわ」「くれないの舌」という感受には、つつじそのもののパワーと、見るものの心境の反映とが出会った相乗効果を感じさせ、それがそのまま歌のパワーにもなっているとも思います。


舌を出す、とは書いてないけれど、「舌は出島」という意味の次の歌も面白くて、ちょっと捨てがたいです。

肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光 『日々の思い出』


「肉体が幕府であれば」という着想が実におもしろいです。
なるほど、人体は混じり合わない鎖国状態で、一人ひとり、自我によって統治されています。
そして、「舌」の役割のひとつが「話すこと」ですが、「出島」と言えば、江戸時代の鎖国政策下において、日本と西欧との唯一の貿易窓口として機能していた場所ですから、この歌、言われてみればまったくその通り、というほかありません。



「舌」は実におもしろい題材です。
また、別の切り口から考察してみたいです。

2025・5・19


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