2023年8月26日土曜日

短歌による座談会4 鶴

同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 そこで、
「短歌さんたちに自発的に参加していただき、
 以下の三人半でお迎えする」
という実験的な趣向
で、この場を開設いたしました。

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない)
 ・アシスタント(外見はアシカ。名前は公表されていない)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

♦ご注意

 歌自身が降臨して参加するという設定です。(作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加し、自解はしません。
 上記三人半が、
歌が降臨した意味を受け止め、歌を解釈して座談会を運営する、
  という設定です。

では、とざいとーざーい


■今回のお題 [鶴]


司会「ああ、なんたる暑さでしょう。

しかし、暑さにもめげず、上空には、短歌のみなさまがお集まりくださっているようです。今回のテーマは、[鶴]といたしました。」

(上空がざわめき、出番がないと思った短歌さんたちが去っていく気配。)

「鶴」には、美しくて理屈抜きで絵になるところにも惹かれます。
 どちらかといえば冬のイメージですが、だからなのか、ふと目にした鶴の画像になんとなく癒やされました。
 この暑さに、鶴はマッチするんじゃないでしょうか。」


■鶴は絵になる

司会「さて、鶴は短歌に詠まれたとき、いかにも絵になるという感じになりやすくないですか。
 鶴を詠んで、すごく絵になっているお歌はいらっしゃいませんか。」

▶真白羽を空につらねてしんしんと雪降らしこよ天の鶴群
 岡野弘彦『天の鶴群』1987

司会「早速にありがとうございます。ほんとうに、美しい動画を見るようなお歌ですね。」

アシ「鶴は日本に冬の訪れを告げる鳥。寒いシベリアなどから大群で飛来し、日本で冬を越すんだそうです。」

司会「[雪降らしこよ]はすごく絵になると思いましたが、なるほど、見た目の話だけではなくて、雪の季節を告げるという事実を述べてもいるんですね。」

▶根釧原野の霧の渦よりこぼれくる赤い鶴の頭泪のごとし
 ルビ:根釧【こんせん】 頭【づ】
 日高堯子『野の扉』 1988 

司会「こ、これはまたなんて美しい。
大群の鶴の飛来。その鶴の頭の赤が、霧の中から血の涙が湧き出て降るかのように描かれている。
これは実景の描写でしょうか。それとも心象が混じっているのでしょうか。」

アシ「結論から言って、心象だと思います。
鶴といえば代表は丹頂鶴。その名の通り、頭頂の赤は美しくて目立つ特徴です。
しかし、飛来する時に赤い涙がこぼれるように見えるほどかというと、動画をいくつか見てみたところ、頭頂の赤はそこまで目立たないようです。
遠目のせいもありますし、飛ぶときも舞い降りるときも、頭頂は天に向けているから、赤い部分は見えづらいんです。」

花子「事実かどうかじゃなくてさ、表現として、頭頂の赤が見える、と描写するのは、頭を下にしていることをそれとなく意味して、墜落を暗示してないかしら。
 つまり絶望感が付加されている。[こぼれくる]という言い方にもそれがうかがえる。」
 その一方でただならぬ美しさもあって、この美しさに釣り合う悲惨を思い浮かべたくなっちゃう。空襲とか特攻隊とか。
 --ま、あたしの空想よ。作者の意図は知らない。」

司会「ただならぬ美しさと悲壮感。
 たしかに、血の涙が降り注ぐ、というイメージから、地上に大きな災害があったのかな、と、ちょっと想像しました。」

鱶助「短歌は主体者(作者など)の心情を対象物に投影して詠むことが多い。
この歌では、泪のごとく鶴がこぼれてきている。自分ひとりにとどまらず、地上の多数の悲しみを投影したのだろう。」

司会「泪の数だけ悲しみがある、ですか?」

花子「それってへんに軽くない?」

鱶助「鶴は定期的に訪問する渡り鳥。なじみの地に何らかの悲惨な状況になっていって、飛来した鶴たちが悲しんでくれている、ーーそういう慰めの要素もあるだろう。」

■鶴に同情を期待する?


アシ「そういう歌では有名なのがあります。鶴じゃなく雁だったような。えーと……。」

▶このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね
 ルビ:雨夜【あまよ】
 斎藤茂吉『小園』1949

アシ「降臨ありがとうございます。
そう!! こういうふうに、地上の辛い状況を渡り鳥が悲しんでくれるんじゃないか、と期待する。そういう心理ってありますね。」

▶旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
 ルビ:鶴群【たづむら】
 遣唐使の母『万葉集』歌番1791

司会「わ!万葉集……奈良時代後半……。1200年以上前ですね。
そんな時空のかなたから、この座談会に聞き耳をたててくださっていたとは。ありがとうございます。」

アシ「地上のものに対する慈悲を鶴に期待した例、としておいでくださったんですね。
 旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の子を羽で守ってください、と空の鶴たちに願っている。
 遣唐使となって旅立つ息子の無事を祈る母の歌で、長歌とこの短歌とセットになってて、
万葉集の人気歌のひとつです。」

鱶助「[天の鶴群]というフレーズは、万葉集以来使われてきて、伝統的詩情をたっぷり含んでいる。
 [鶴の慈悲]という詩情は、現代にもかすかに受け継がれているのだろう。さっきの、鶴が赤い涙となってこぼれてくる、という歌にも、それが少しあるのかもしれない。」

■鶴の頭は悲しい?


司会「さて、鶴の頭の赤は目立つ特徴ですよね。
ただ、「鶴の頭が悲しい」という超有名な歌がありますよね。
それがなんだかとっても気になる歌で……。」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「ありがとうございます。そうです、この歌です。
でも、よく見たら、この歌には赤いなどとはちっとも書いてなかった……。」

アシ「この歌を含む一連は、動物園の場面で、いろいろな動物を詠んでいます。[くれなゐの鶴のあたま]が云々という歌もあり、鶴の出てこない歌にも[赤]が多く詠み込まれているので、[赤]にこだわった一連のようです。」

司会「ああ、だから、この歌に赤と書いてなくても赤い頭が思い浮かぶんですね。
 それにしても、不思議な歌です。鶴の頭を見て涙を流しているのは、いったいぜんたいなぜなのでしょう。」

アシ「一連には[くれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守【きやうじんもり】をかなしみにけり]という歌もあり、斎藤茂吉は精神科医だということが補足要素にはなりそうです。
 でも、それでもわからない要素が残るし、それこそがこの歌の価値だという気がします。」

花子「赤には痛々しさみたいな方面のイメージがあるとは思う。けど、鶴の頭の赤って、見た人が涙をながすようなもの?」

司会「それです。この歌を初めて読んだときからずっと、心ひそかに抱えている謎です。
 [わが目より涙ながれて]という他人事のような言い回しも気になるというか、ヒントかもしれないですが、とにかくみんなが名歌だといいますから、疑問は言いにくくて……。」

アシ「この歌は、なぜ悲しいのかをへたに説明をすると、矮小化してしまいそうです。だからみんな、無理に説明しないでおくんでしょうね。」

花子「この歌には何かあるとおもう。
 けど、近代の人って二言目には[かなしかりけり]とか言うじゃん。あれって軽くない? ぶっちゃけウザ、うぐぐ……。」

司会「君はひとこと多い。」(と花子の口を押さえる。)

▶腰高に頸ぶす鶴のあはれさよ紅き頭に雪すこしつけて
 ルビ:頸【うな】 紅【あか】
 ぶす=伏す?

 北原白秋『雀の卵』1921

司会「腰高に体から伸ばした首の先に赤い頭があって、そこに雪がついていて、その姿の描写とか寒さとか、繊細に描写されていますね。
 こちらの歌も[あはれさよ]と言っています。花子さんが変なことを言うから、安易に[あはれさよ]と付けたわけじゃない、という意味で降臨されたみたいですよ。」

花子「わかったわかった。その話はもう忘れて。
 で、この歌の[あはれさよ]は、寒さへの同情と美意識の混ざったような、ちゃんと納得のいく
[あはれさよ]なのよ。
 でも、さっきの歌の、涙がながれちゃうほど[鶴のあたまは悲しきものを]は、そういうふうに納得させてくれない。つーまーりー、ぜーんぜん、ちがう!」

▶動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
 伊藤一彦 『月語抄』

司会「[悲しいという人もいるが、自分には、鶴は怒っているように見えるよ]
という意味あいで、来てくださったようですね。」

アシ「先発の歌に対して、後発の歌が、本歌取りや意図的な応答をする場合もありますし、作者が意図しなくても、ひとりでにそうなっていることがありますね」

司会「この鶴は、動物園にとじこめられているから怒っているのでしょうか?」

鱶助「高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩(動物園の狭い場所に閉じ込められた駝鳥を哀れんでいる)を想起しないでもない。
 しかし、この歌は、閉じ込める等でなくて、[鶴のものごしや表情などの全体に[怒り]を感じる。動物園にいくたびにその印象が強まった]と言っているように見える。。
 この歌は頭の赤に言及してないけれど、[やかん頭]という言葉もあるし、頭頂の赤は[怒り]のイメージに通じるだろう。」

アシ「ちょっと話を戻します。花子さんはさっき[何でも悲しがる]的なことを言いかけました。[かなし]は、一般に言う[悲しみ]とは限らなくて、昔から日本の詩歌の重要な情趣ですよね。」

▶奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
 猿丸大夫「小倉百人一首」(古今集では詠み人知らず)

アシ「ほら、こういう種類の情趣だと思うわけです。
 あ、でも、[声]といえば、鹿は発情期に甲高い声で鳴くことがあるんだった。
その点では鶴も、[鶴の一声]というやつで、けっこう大きい声で叫ぶらしいから、本当に悲しげに聞こえる場合もあるのかもですよねえ。
ですから、さっきの茂吉さまの歌は、悲しげに叫ぶ鶴の頭が赤いという意味合いも含むでしょうか?」

司会「なるほど。そういう意味を含むかどうかはわからないけれど、鶴の声も気になりますね。鶴の声の歌にもあとで触れましょうか。」

■血が透けてる色だって!!


アシ「脱線すみません。では頭の赤に戻って重大発表です。
 丹頂鶴の頭の赤い色は、羽毛じゃありません。
 あの赤は、皮下血管内の血液が透けて見えているんです。」

司会「えー!!」
鱶助「ほう!」
花子「ガラス蓋の鍋料理みたいね。」

▶丹頂の頭の赤は皮膚ですといふ表示ありてかなしみは来つ
 花鳥佰『しづかに逆立をする』2013

アシ「これは! まさにそのことを詠んだ歌ですね。」
鱶助「これはあきらかに、[わが目より涙ながれて]の歌を意識している歌だろう。
 鶴は頭頂に羽毛がなく赤く透けて無防備だから悲しいのかな、と。」

司会「脳内が文字通り赤裸々に透けちゃったらほんとに悲しいですね。」

■磁気レーダーを備えている


▶海わたる丹頂の頭にみちびきの地磁気影さす花のごとけむ
 小池光『廃駅』1982

司会「こ、これはまた、ぜんぜん違う着眼ですね。
ところで、地磁気って何でしたっけ?」

アシ「ざっくり言って地球により生じる磁場です。北極がN極、南極がS極。
鳥にはその地磁気が見えていて、遠距離をあやまたずに渡りができるんだそうです。」

司会「なるほど、この歌は、丹頂の頭の赤を、磁気レーダーっぽく見立ていて、そこに浮かびあがる地磁気の図を[花のごとけむ]と言っているんですね。」

花子「すごいじゃないの!鍋料理を超えたわ。」

司会「斎藤茂吉の歌の影響で、鶴の頭といえば[かなしい]って思っていましたが、こちらの歌はぜんぜん違う。
[かなし]という古来の情趣を離れ、高度な能力を備えた[たくましさ]みたいなものを見出している。かっこいいですね。」

アシ「あのー、水を差すようで申し訳ないんですが。
 さっきから、鶴は渡り鳥、と言っていますが、鶴の生態は種類によって異なり、渡りをしないこともあるそうです。
 映像などでよく目にする北海道の丹頂鶴は、なんとほとんどが北海道暮らし。道内での移動はするけれど、外国への渡りはしないそうです。」

花子「詩は必要とあらば遠慮なく事実を超えちゃう、っていうことね。」

■いつから鶴の頭が気になりだした??

アシ「なお、勅撰集のデータをざっと検索してみただけですが、」鶴の頭がどうこういう歌は、21代集の時代までは見当たらない気がします。頭の赤に触れた歌も同じです。
でも[絶対にない]と断言はできません。」

司会「じゃあ[鶴の頭]に詩情を見出したのは、近代歌人なのでしょうか?」

アシ「いえ、正直言うと、近代の前に、[近世]というよくわからない時代がありましてね。
あ、いや、わからないというのは、入手しやすいデータがないから自力ではわからない、調べにくい、という意味です。専門家ならわかるでしょう。」

▶千とせふる鶴のよはひにあやからんわれもあたまが赤うなるから
 養老館路芳

司会「おお! 
 って、えーと、こちらさまは?」

アシ「ちょ、ちょっとお待ち下さい。
 えーと、はい、こちらは、江戸時代の狂歌さまです。(汗)
 作者の養老館路芳という方は、「早よみの路芳」と称された狂歌師(1737~90)で、『狂歌言葉海』などの著書があるそうです。
 つまり、[少なくとも江戸時代の狂歌では、鶴の赤い頭は詠まれていたよ]と告げに来てくださったんですね。」

司会「はるばるのご参加ありがとうございます。
[酔っ払って頭が赤くなる自分は、千年生きるという鶴にあやかりたい]っていう歌でしょうか。飲み過ぎは体に悪いと注意されてこじつけで言い訳している。そんな場面ですね。」

アシ「江戸時代の前には戦国時代という混沌とした時代があります。
 鶴の頭を詠む例はもっと前からあったのかも。うわあ、上空がなんか混雑しすぎて怖い感じになってきましたが……。」

■ところで鶴が絵になるのは、既に絵になっていたから?

司会「さてさて、[鶴を詠む歌は絵になる]から出発したんですが、横道にそれてきました。話を[絵になる]に戻しましょうか?」

アシ「ぜひ。(って私が話をそらしたかもしれませんが)[絵になる]の件では、以前からすごく気になっていることがあるんです。」

司会「ほう!」

アシ「鶴は、中国書画や日本画でときどき見かける題材です。ですから、鶴は[絵になる]というか、本当に[昔から絵になってきた]ものなのです。(いつからかははっきりしませんが。)」

司会「そういえば花鳥画ってありますよね。紅梅と白鶴、みたいな絵をどこかで見たことがあるような。」

アシ「それです。
 で、短歌の鶴が[絵になる]と感じるケースには、次の二通りが有り得ると思うんです。

 ①その歌の視覚表現がすぐれていて、絵になる、と読者が感じる。
 ②どこかで見た花鳥画の既存イメージを読者に思い浮かばせる。

司会「なーるほど。」

アシ「和歌には、漢詩など中国の影響がある、とよく聞きます。しかし、いつ何がどう影響したか、まして花鳥画の鶴が和歌に反映した時期は、とうてい調べきれません。
 梅とのセットについては、二十一代集までの和歌にはどうも見当たらないので、少なくとも多くはなかったようですが、松とのセットは古くから見かけます。
 要するに、題材ごとに違うみたいで、調べきれませんから、コマカイことは軽く流してくださいね。」

花子「調べなくたって、該当する歌があれば、降臨してくださるのでは?」

司会「花子さん、そこは大人の事情ってことで了解してください。上空は混み合っていて、なかなか思うように降りてこられないんですからね。
 では、時代等にはあんまり深入りしないことにしましょう。
 そのうえで、花鳥画を思わせるような歌を、少し見てみたいですね。」

■梅と鶴 絵にかけないことを言葉が書く

▶春さむき梅の疎林をゆく鶴のたかくあゆみて枝をくぐらず
 中村憲吉『軽雷集』1931

司会「あ、近代のお歌ですね。
 たしかに花鳥画ふうです。本当にこういう絵があるのかどうかはわからないけれど。
 それと、[たかくあゆみて枝をくぐらず]という気品ただよう動作は、動画を見るようですね。」

花子「動く花鳥画。」

鱶助「絵にかけないことを言葉が描いている。
 たとえば[くぐる]は絵に描けるが、[くぐらず]は絵に描けない。」

▶白き羽の鶴のひとむら先づ過ぎぬ梅に夜ゆく神のおはすよ
 与謝野鉄幹『むらさき』

司会「こちらは、[白き羽の鶴のひとむら]というフレーズに少し花鳥画の雰囲気があると思えます。
 絵から出たような神々しい鶴がそばを通りすぎ、続いて神様も過ぎる気配がする。--そういうものたちとすれ違いながら散歩しているような……、思いうかべるとすごく不思議というか素敵というか、ものすごく風流でファンタジックな散歩ですね。」

花子「ぜいたくに風流しちゃってるー。風流にそぞろ歩くすてきなデートかもよ。
[犬も歩けば棒に当たる]ぐらい風流なものにい出会えそう。
与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」に通じる感じ。」

■言葉で描く〈赤白黒〉の配色


▶紅梅にみぞれ雪降りてゐたりしが苑のなか丹頂の鶴にも降れる
 ルビ:苑【その】
 前川佐美雄『捜神』1964

司会「絵になる歌は配色がきれいだと感じます。
 丹頂鶴は赤白黒。そこに[雪][紅梅]。鶴の美しい配色が背景に溶けこみますよね。」

花子「目で見る赤白黒もきれいだけど、言葉から思い浮かべる赤白黒には、目で見る以上にきれいだったりしない?」

アシ「赤白黒って、認識上で、何かベーシックな取り合わせ、だったりするでしょうか。
例えば白雪姫は、王妃が『雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように黒い髪をした子がほしいわ』と望んで生まれたんですよね。」

鱶助「実は、鶴と関係なくても赤白黒の配色のものを詠んだ歌は名歌になりやすい気がしていて、いま研究中。ここでは発表できないが。」

司会「では、今日は[赤白黒の配色はとにかく美しい]ってことで先へ進みましょう。
で、この歌は、[丹頂]の赤、[紅梅]の赤が、[みぞれ雪]のなかでフェイドアウトしながら幽かに見えているっていう、言葉の動画みたいな面もありますよね。」

鱶助「それと、生き物がそこにいてフェイドアウトしていく、という意味も加わる。
雪は、紅梅の赤も、そこにいる鶴の姿も、等しくそっとかき消していく。
[丹頂の鶴にも降れる]は、[この雪景色のなかに、生き物の鶴もいるんだよ]とそれとなくワンプッシュしている。
そう意識したとたん、生き物の体温のフェイドアウトも少し感じられる。」

司会「なるほど、体温。[みぞれ雪]は普通の雪より寒そうだし、色も体温もフェイドアウトって儚げな風情ですね。」

■松と鶴


アシ「あのう、鶴の絵といえば、花札の一月札など、[松と白鶴]の組み合わせも定番のひとつじゃないでしょうか。」

▶妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
 聖武天皇『万葉集』歌番1030

(待ってましたとばかりに降臨。)

司会「なんと!聖武天皇の御歌さまであらせられますか?」

アシ「万葉集の鶴の歌には、松とのセットがけっこうありそうです。
(カウントしていませんが、ざっと見ていくつか目に入りました。)」

鱶助「こちらの歌、メインは[妹に恋ひ](あの子が恋しくなって)という素朴な心情である。その思いにマッチする情景として、松原に鶴という美しくて絵になる情景を持ち出しているのであって、松と鶴は素敵でおしゃれな表現だったかもしれないが、花鳥画という感じで描いている雰囲気ではない。」

花子「鶴と松なんて、すっごく古くさ……うぐぐ。」
(司会が花子の口を押さえている)

アシ「松と鶴というと、現代では長寿のお祝いを連想しますが、聖武天皇といえば奈良時代。なんたって西暦が三桁。
 当時はきっと、新鮮で素敵な表現だったと思いますよ。」


■動く花鳥画

▶香青なる松の末葉に白妙の羽うちつけて鶴舞ひめぐる
 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』1878

司会「あ、橘曙覧さんのお歌。曙覧さんは近世の終わり頃の歌人ですね。
 さっきの聖武天皇のお歌から約千年を経て、こちらはいかにも松と鶴のめでたい図です。
 襖絵とか緞帳とか……、昔の結婚式の引出物のお茶碗でも見た気がします。」

鱶助「しかし、そういったおめでたい絵を、ただ描写しただけの歌ではない。
 [羽うちつけて鶴舞ひめぐる]という表現には、力強さと躍動感がある。
 つまり、[動く花鳥画]になっていると思う。」

司会「芸術作品を別の芸術ジャンルの表現で描写する場合、そういった何らかのプラスアルファが必要でしょうね。」

▶日盛りの光みなぎり松の梢の鶴の行ひけざやかに見ゆ
 木下利玄『紅玉』1919

司会「こちらの歌でも、[鶴の行ひけざやかに見ゆ]がひじょうに生き生きしていますね。
 一つ前の歌は、襖絵か屏風絵かを見てみごとさに感動しているような感じがしましたが、こちらは、そういう定番の絵柄でありながら、実景を双眼鏡でみているみたいな口ぶりで描いて臨場感を出していませんか。
 定番の絵をリフレッシュしてみせたんでしょうか。
 それとも、これってまさか実景だったりします?」

アシ「どうでしょうね。タンチョウは江戸時代までは日本各地で見られたそうですが、明治時代には激減したそうですよ。
 この歌を含む歌集は大正8年の出版ですから、もしかしたら、たまには見られたのかもしれません。あるいは、作者が子供のときに見たとか。」

鱶助「実景を見たかどうかは関係ない。
 この歌は屏風絵的なものを意識していることは確かであり、絵の鶴が動き出して実景になるような描き方をしている。
 つまり、実態を離れて絵として定番化したイメージに、臨場感ある動きをさせている。
 しかし、それをリフレッシュと言っていいかどうか……。」

花子「リフレッシュ……。でも、ナマに戻すのではない感じ。
人形に紐をつけて動かすような、次の段階への新たな変化ではあるけど。」

▶夏掛けに鶴乱れ飛ぶあかつきのいんふるえんざは外国の風邪
 穂村弘『回転ドアは、順番に』

司会「むむ、これは、えー、どう受け止めましょう?」

花子「あのさー、いま動く絵の話をしてるよね。
 で、この鶴、動いてると思わない?」

司会「え、動いてますか?」

花子「インフルエンザで高熱で寝てたら、布団の図柄の鶴たちが乱れ飛び始めちゃった、みたいな。」

司会「ふうむ。」

花子「布団の布地はけっこう和柄が多くて、全体に図柄を繰り返して散りばめる感じよね。この夏掛けには、小さい鶴がいっぱい飛んでるんじゃないかしら。
 で、さっき[定番]っていう話が出たけど、布団の柄ともなれば、定番化、図案化・記号化のレベルでしょ。
 それでね、ワザアリなのは、[鶴が乱れ飛ぶ]と[いんふるえんざ]の取り合わせじゃないかと思う。」

鱶助「なるほど、[乱れ飛ぶ]は、鶴の表現として常套的すぎて、もはや臨場感を添えられそうもないフレーズだ。
 ところが、[インフルエンザのせいで図柄の鶴たちが乱れ飛びはじめちゃった]という使い方なら、熱に浮かされた実感の叙述だから、ある意味、言葉としてややナマの状態によみがえる。
 これは興味深い歌だ。言葉やイメージに対する根源的な批評性を備えた愛を感じる。」

花子「すごいわ。干し椎茸は水で戻す。ひからびた言葉は実感で戻す。」

司会「(あんたたち、またなんか面倒なことを言ってるな。)
 じゃあ、[外国の風邪]っていうのは、どういう着地ですかね?」

鱶助「和柄の鶴を外国の風邪(風とかけてあり)が吹き乱している、という含みがあって、これも視覚的によく出来ている。
 なお、余計な深読みになるが、高熱状態の思考ですよ、という冗談めかした演出は、批評性の照れ隠しみたいなものではないだろうか。」

司会「なんで批評性を照れるんですか? さっぱりわかりませんけど。」

鱶助「批評に照れはデフォルトである。」

司会「ご勝手に。」

■夜の鶴は子煩悩


アシ「あのー、話を替えていいですか。
 古典和歌の定番モチーフのひとつに[夜の鶴=子を思う]というのがあるそうです。
 聞きかじった情報ですが、それは、白居易の『五絃弾(ごげんたん)』という詩のこのフレーズから来ているんだそうです。
   夜鶴憶子籠中鳴
    〈夜鶴(やかく)子を憶(おも)ひて籠(こ)の中(うち)に鳴く〉」

司会「子を思うのは、子育てをする動物なら普通のことでは? 鶴にかぎらず。」

アシ「そうですが、詩歌の世界では、白居易の詩を発端に、ことさらに鶴の子育てを詠むようになったらしいです。子を思う歌といえば、他の動物でなく鶴を引き合いに出す。そういう約束事になる。--詩歌の世界には、そういう現象がありますよね。」

司会「あー、そういうことですね。」

▶夜の鶴都の内にこめられて 子をこひつゝもなき明かすかな
 高階貴子
(通称、高内侍。儀同三司母とも)『詞花和歌集』 歌番340

アシ「このお歌、籠の夜鶴が鳴くように私も都から出られず我が子を思って泣き明かす、っていう悲しい内容です。」

司会「どういった事情で?」

アシ「作者は中関白藤原道隆の奥様。
 息子の伊周さんは道長さんとの政争に破れ、左遷されて明石に行っていた。母である貴子さんはそれを嘆いているのです。
伊周さんは翌年都に戻れることになりました。が、そのときにはもう彼女は亡くなっていたんですって。」

司会「それはまたお気の毒に。」

鱶助「[都]の[こ]と[籠]、そして[明かす]が[明石]にかけてある。心情表現にも技巧をこらす時代の歌だ。
 こういうふうに鶴に託して何かを詠む例はさぞや多いことだろう。」

アシ「うわー、なんか上空が暗くなった。
 千年以上いろいろ託されて詠まれた鶴の和歌のみなさんが、われもわれもと、すごい数で旋回してます。一気に降りてきちゃったら大変なことに……。」

司会「こ、古典和歌のみなさま、鶴と子の話題はここでおしまい。申し訳ありません。
それと、この先はなるべく、近現代の歌に絞らせていただきたく……。」

(しかし、上空の気配が収まらない。あきらめきれないように、無音のブーイングが渦巻いている。)

■鶴の声

アシ(声を落として目配せ)「いきなり古典をやめてしまわず、やんわりテーマに切り替えて絞込めば、対象が減りますよ。そこからやんわり近現代へと絞り込みましょうか。」

(司会--うんうんと頷く。)


アシ「えー、話変わって、[鶴が鳴く]っていう歌、近現代には少ないみたいですが、『万葉集』時代から、鶴が鳴くということを詠む歌があります。さっきの聖武天皇のお歌、
妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
も該当しますね。」

▶若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺を指して 鶴鳴き渡る
 山部赤人『万葉集』歌番919

司会「おお、山部赤人さんのお歌。こちらも、ご先祖様感がすごいです。

なるほど、何かの故事に基づくとか、いきさつがあるんでしょうが、古典の調べものは時間がかかりますから、そこは考えないこととしますね。
で、実のところ、鶴って鳴きながら渡るんでしょうか?」

アシ「ネットで軽く調べただけですが、飛びながら鳴くようです。つがいの相手と鳴き交わしながら飛ぶこともあるそうです。」

司会「では、[鳴き渡る]というフレーズのニュアンスは、仲間などへの情愛を感じ取っているわけですね。」

アシ「きっとそうですね。聖武天皇の歌も[妹(いも)]を思う歌でした。」

司会「近現代でも[鶴の声]って読まれていますか。」

(上空に動きがある。タメイキがいっぱい降ってくるが、待ってましたという気配もある。)

▶涯しなき草生の旅をかさねきて倦みし心に鶴鳴きわたる
 ルビ:倦【う】 鶴【たづ】
 岡野弘彦『石打てば石』1976

司会「こちらは現代の歌ですね。ただし、雰囲気は和歌を踏襲しているようです。
 [旅]といえば人の一生をさすことがありますが、この歌のいう[旅]には、ふつうの一生に、和歌の言葉の世界を旅したイメージが添ってもいる気がします。--人は死ぬけれど、歌は死なない。そこに不老の鶴のイメージが重なっている。
 鶴の声の人恋しさも、個人としての人恋しさに加えて、時空を超えた和歌の世界における人恋しさなのかもしれませんね。」

▶黙示とは凍てうつくしき鶴にして海の蒼さに染まりたる声
 江田浩司『メランコリック・エンブリオ』

司会「あ、こちらには全く古典っぽさがありませんね。山部赤人さんの歌と同じく、鶴が海を鳴き渡る光景なのに。
 古典と近現代。同じことを詠んでも違う。その雰囲気を分ける要素って何なのでしょうね。
 いや、気になりますが、それはいま論じきれない。また今度にしましょう。」

▶今さっき鶴が鳴いたと告げられて夢のつづきのように抱かれる
 大田美和『きらい』

司会「ぎょ! こ、これは斬新。
 声だけ。いや、その声も間接的に伝えられるのみ。
 なのに、[鶴]と書いてあるだけで、鶴の姿がなくて、でも、なんだかゴージャスな美しい気配はあるような。」

▶鶴の息遠くまで飛ぶ明け方の夢のなかにはわたくしひとり
 加藤治郎『しんきろう』

司会「夢つながり。こちらは声ですらない。[息]だけでも[鳴き渡る]感じですね。鶴の存在感の強さに驚かされます。
孤独感は、さっきの[涯しなき草生の旅を]の歌に通じるものが感じられて、ひそかに古典を踏襲しているのかもしれません。」

▶昔日本に幻音ありきいつせいに鶴は楽音のごとく立ちにき
 葛原妙子『鷹の井戸』1977

司会「[幻音]! この歌では、[鳴く]とも[息]とも言っていない。
[鶴は楽音のごとく立ちにき]とはすてきですね。
これは独創的でありつつ、でも、伝統的なものの発展形でもあるわけですね。

……って、あれれ?
さっきから、私ばっかりしゃべっていますね。
みなさん、お疲れですか。勝手に休憩しちゃってます?」

鱶助「私はちょっと充電。(君のタフさにはAIのわたしも驚かされる。)
 充電しながら聞いていた。
 この歌は前から知っていたが、[鶴が鳴く]というテーマで読み比べたおかげで、この歌の[幻音]が、ただの個人的な独自イメージにとどまらないものだとわかった。
 歴史深くに根ざす重要なイメージは、歌人というニンゲンを使って発展することがある。ニンゲン(作者)が意図してもしなくても。」

■鶴の頸


花子「ちょっと脱線しちゃうかなあ。
 昔は知らないけど、現代の短歌には[鶴の首]を詠む歌がよくあると思わない? それがたいていか弱そうに描かれてる。
 で、首の脆弱性も鶴のイメージのひとつだと思うの。この機会に
ちょっとは触れておくべきじゃないかな。」

司会「そういえば、私も、鶴の首は私もちょっと気にはなっていました。
 実は、[鶴の頭が悲しい]という話のとき、ちらっと[首じゃなくて頭なのか]と気になったんですよ。細い首なら悲しいのもわかるけど、って。」

▶はろばろと空ゆく鶴の細き首あはれいづくに降りむとすらむ
 岡野弘彦『天の鶴群』

司会「この[あはれ]は、遠距離を飛ぶのは大変という意味でしょうか。あの細長い首をだらんとせずに飛び続けるなんて。
 え? わたしなんか間の抜けた感想をいってしまいましたか。」

花子「渡り鳥は長旅ができるよう、すごい筋肉を備えているんでしょうね。
 短歌は同情的に[あはれ]って詠むことが多いけど、鶴は
[あっぱれ]と言ってほしいかも。」

鱶助「鶴は短歌を読まない。作者もそれは知っている。こうした詩情はニンゲンのものであり、対象の(鶴の)意見は求めていない。」

アシ「そうだけど、それを言ったらみもふたも……。」

花子「相手が読まないからって、好き放題にネクラなことばっか書いていいの? 
 悪意はなくとも
ニンゲンは、他の生き物への敬意を根っから欠いてるから、その口から言葉の出る綺麗事の同情は、植物の私から見たら〝あだ花〟ってやつよ。」

司会「それは言い過ぎだし、短歌鑑賞そのものができなくなりますよ。
 とにかく次にいきましょう次に。」

▶蹴ろくろのまわりて秋陽のうずのなか壺の鶴首ふいに細るも
 ルビ:蹴【け】
 蹴ろくろ=足で蹴って回転運動を起こす方式のろくろ

 玉井清弘 『久露』

司会「壺を作っているところですね。口が鶴の首のように細長い壺。
 ふいに細くなることに季節感を見出しているのはめずらしい捉え方。繊細な指の加減とか、心の集中とか、いろいろなことが読み取れて素敵です。」

アシ「細い部分だから、ちょっとした力の加減を誤れば、くにゃくにゃってなってしまいそうに危ういですね。」

▶誰もみな悪くないのというひとも鶴の首なら折ったはずです
 藤本玲未 『オーロラのお針子』

司会「え? あ、折り鶴でしょうね、これは。」

花子「誰も悪人ではない、的なことを言うような善人も、折り鶴の首を折るというかすかな暴力には自ら気づかずに実行するだろう、という意味かしらね。」

司会「結句の「はずです」という、主張のような弁明のような抗弁のような口調が気になります。」

花子「自分が善人であることに安心している人にも危険因子はあるのよ、ってことさらに言わなきゃならないシチュエーションを描いていると思うわよ。」
(棘で司会をつんつんする。)

司会「えーと、それはもしかして、私を皮肉ってます?」

花子「やだー、シカちゃんたら。その通りよー。笑」

▶春の鶴の首打ちかはす鈍き音こころ死ねよとひたすらに聴く
 米川千嘉子『夏空の櫂』1988

司会「こ、これはまた。さっきの[声]や[音]の話にも関係あるのかどうか、でも、はるかに恐ろしいです。
 [首]は細くて弱そうだから逆に、暴力とか残虐とか、そういった方面の連想を引き寄せるんでしょうか。」

アシ「その意味では[春]も、普通は新しい命の芽生える明るい季節です。だから真逆の[死]にも連想が働くんじゃないでしょうか。」

▶春はもうやさしく 鶴もこまやかに折りて最後に頸そっとねじり
 石井浩「かばん」新人特集号2010・12

司会「やはり春と鶴の首には残酷さへの連想脈があるようですね。
[もうやさしく]が怖い。きびしい冬のあとに来る春が、繊細に仕上げをするみたいな口ぶりです。」

▶春の日はしずかなりけりつぎつぎと鰌は鶴の喉くだりゆく
 山崎方代『右左口』

司会「こちらの残酷はちょっと違いますね。鶴でなく鶴に飲まれる魚にとっての残酷。鶴の細長い首が、テーマパークの絶叫アトラクションみたいです。」

▶遠くから飛び来て遠く去るものの一つか恋も首細き鶴も
 松平盟子『うさはらし』


司会「こちらの歌は、残酷というか、喪失の悲しみでしょうか。
 恋は渡り鳥みたいにいっとき訪れて去ってしまうものだ、という意味で、[首細き鶴=恋]ですよね。細い首は、恋における繊細な心の紆余曲折を指していると思われます。
 [めくるめく恋]なら、さっきの歌のアトラクションにも少し重なるような……。」

■古典的美意識をはなれる

司会「あれ? さっきからまた私だけしゃべってますよね。みなさんお疲れですか?
 花鳥画的な美意識を含む歌とそうでない歌とがありますね。それと、古典ふうの詩情を継承する歌とそうでない歌。
 いちど定番化したイメージをどのように離れるのか。過渡的な歌はあるのかどうか。そういったことを知りたいんですが。」

▶秋晴れに野を飛びわたる鶴むらのいつまでも見ゆる空のさやけさ
 正岡子規

司会「近代のはじめの頃のお歌ですね。
 [飛びわたる]鶴を見るシチュエーションは古典の歌に通じますね。でも、松や梅がない。」

鱶助「古典に通じるシチュエーションだが、野原で見かけたそのへんの鳥みたいに描写している。古典和歌的情景のワンマイル化とでも言うべきか。」

▶一輪とよぶべく立てる鶴にして夕闇の中に莟のごとし 
 佐佐木幸綱『金色の獅子』

司会「[一輪とよぶべく立てる]は日本画ふうな鶴の立ち姿を思わせますが、花鳥画ではないですね。」

花子「花鳥画の花と鳥が一体化しちゃったみたい。花鳥画の脱却、というか内包しちゃった、消化しちゃったみたいな。」

▶ゆくりなく枯野へと鶴まひおりて風景が鶴一羽へちぢむ
 渡辺松男『きなげつの魚』2014

司会「こ、これもまた斬新で美しい。
 この鶴一羽が風景の主役。鶴めがけて収束してくる、という迫力ある存在感。どうしようもなく美しくて絵になっちゃってますね。」

アシ「[風景がちぢむ]のところは、劇画みたいなコマカイ線が思い浮かびますね。
 これはもう、歌を読む私の側に花鳥画の残像があるだけかもしれませんが、花鳥画の鶴を違う理論と画材で描きなおしたか、っていうぐらいのかすかな痕跡を感じます。」

■美意識の飛び火

▶しののめのさくらが描く円環のなかを一羽の鶴の身が燃えのぼる
 ルビ:円環【わ】
 永井陽子
『樟の木のうた』

司会「花鳥画では梅と鶴がありましたが、桜と鶴の組み合わせは、あんまり見かけない気がしますが、どうなんでしょ。
それに鶴が燃えるっていうのに、なぜかあまり残酷さを感じない。
私は、不老不死のイメージから不死鳥のイメージへと、連想脈が開通しちゃいました。」

鱶助「言われてみれば、鶴には不老不死のイメージがあるのに、なぜいままで不死鳥のイメージと繋がっていなかったのだろう。」

花子「ワタシ的には、この歌を読んでも、[鶴]と[不死鳥]が結びつかないなあ。
[不老不死の鶴]と[不死鳥]のイメージは、理屈の上では似てるけど、なんだが異質な気がする。
つまり、この歌の鶴は
[不死鳥]として燃えてるんではない気がするのよ。」

鱶助「鶴に限らず[美しく燃えるもの]を詠む歌は案外多い。人々が意識していないだけで、[何かが美しく燃える]は、けっこう人気のモチーフなのだ。
(その話もいつか機会があればしたいが)で、そのモチーフが鶴にも飛び火してきたのではないだろうか。[美意識]はしばしばこういうパフォーマンスをする。」

花子「なんにしても、焼き鳥のイメージじゃなくて良かったわね。」

■言葉やイメージになった鶴の終末ケア


▶夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
 塚本邦雄『閑雅空間』1977

鱶助「[ことばとはいのちを思ひ出づるよすが]とは、[ことば]がもとは[実在のもの]だったということだろう。
 [夢の沖に鶴立ちまよふ]は、鶴舞う不老不死の[めでたい]イメージを遠景に見るステージを思わせる。それはつまり〝いのちの劇場〟ではないだろうか。」

司会「劇場といえば、こどものとき、舞台の緞帳に描かれた鶴を見たことがありますよ。」

▶今宵、月にシルバーベッドの影が見え老いたる鶴がひとりづつ臥す
 日高堯子 『振りむく人』2014

司会「シルバーベッドって何でしょう。」

鱶助「月光はよく銀色と言われるし、銀色と言えばシルバー、シルバーといえばシルバーシートなど高齢者関連に冠する語。
 つまり、この歌は、千年生きるという長命の鶴(のイメージ)をねぎらい、看取るためのベッドが月にある、ということを詠んでいると思われる。」

花子「言葉もターミナルケアか。」

▶千年のよはひをかさねて松も青しすでにいつしか鶴飼ひにける
 前川佐美雄『大和』

司会「あ、わかった。こちらの歌は、松に鶴はつきものということをもはや常識として、松が鶴を飼う、と言っている。レトリックですね。」

アシ「鮫が一人前に大きくなるとパイロットフィッシュを従える。そういうノリで、松も千年で一人前の[老松]になって鶴を飼う、みたいな。
定番化していることを更に覚めて受け止めている。」

花子「鶴の飼育! [シニアにイチオシの趣味]っていう題詠ならイチオシよ。」

司会「し!」

■〝はきだめに鶴〟効果


司会「[はきだめに鶴]という言葉がありますよね。それもなんだか美しい。
 花鳥画は背景も美しいわけですが、あえて背景が美しくない場所に鶴を置いて絵にしちゃう、っていうのもありだったりしませんか?」

▶日曜の工事現場はさみしくて大きな鶴と空を見ている
 吉野裕之『空間和音』

司会「おお! これはまさしく。
 背景は工事現場。工事のクレーンは鶴という意味で(crane=鶴)、そこから発想した歌でしょう。工事現場のクレーンが巨大な鶴に差し替わっている。絵としておもしろいです。」

花子「でもさ、他のものでも巨大化して場違いなところに置けば、絵になっちゃうんじゃないかな?
 鶴が特別[絵になる]のかどうか、その点をちゃんとあばいちゃってね。」

司会「あばいちゃって、ってなんだかなあ。
 でも確かに、この絵の鶴をダチョウに置き換えても、絵にはなると思えます。生き物ならみんなキングコングっぽく絵になりそうですね。
 いや、生き物じゃなくてもいい。例えばバナナでも、ボールペンでも、何であれ場違いなものを巨大化してここに置けば、なんかシュールな絵にはなるでしょう。」

アシ「でも、鶴は巨大化しても、キングコング的モンスターとは違うと思いませんか。シュールではあるけれど、他の物にはない高貴さが絵を支配すると思います。
 花鳥画に美しく描かれてきた経歴と、不老不死の神聖なイメージは、工事現場にすごくミスマッチ。[工事現場に鶴]は[はきだめに鶴]そのものですよ。」

▶夕暮れの皮膚科に鶴が舞ひ降りてピアスをしてといひにけるかも
 池田はるみ『ガーゼ』

司会「むむむ、これはまたシュールな。
 夕暮れの白昼夢っていう色合いなど、とても美しいし、皮膚科・鶴・ピアスという取り合わせのでたらめ感もなんだかおもしろい……、いや、どう鑑賞したらいいのか。」

アシ「蕁麻疹の痒みで白昼夢を見ちゃったとか? いや、それは無理な解釈だし、鶴にはピアスをつけるような耳がないし……。」

花子「ブブーー! 
 この白昼夢みたいな歌は、実はまともな理由があるにちがいないわ。
 
皮膚科の待合に居る人は、命に別状はないけど何か辛い症状(痛みやカイカイ)で鬱屈してるのが普通。そこへピアス用の穴あけに来た人(若い女性でしょうね)がいたら?
 ほら、皮膚科ならピアス用に耳に穴をあけに来る人もいるでしょ。
雰囲気が明るくて、服装も皮膚の露出が多いとか、とにかくすごく場違いな人。
 その
違和感をこういうふうに捉えて詠んだ、っていう解釈に一票。」

司会「そう言われたら、もうそうとしか……。
 その解釈ならこの歌も[はきだめに鶴]系になりますね。
 [はきだめに鶴]系はだいたいシュールな感じになるようですね。」

▶荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし
 小島ゆかり『憂春』

司会「こちらも、なんかすごくシュールな絵になっちゃってますよね。
 梅雨の終わりの豪雨の夜、バスから降りる[わたし]に鶴の嘴が??
 けっこう衝撃的な絵です。夢に見そう……。
 だけど[はきだめに鶴]っていうわけではなさそうな……。」

鱶助「絵として面白いだけではなく、この歌は理が通ってもいる。鶴の嘴は[ツルハシ]の語源だ。どしゃ降り→災害という連想脈があるだろう……、」

司会「え、さ、災害?」

鱶助「いや、バスが動いてるから、実際は災害っていうほどではないのだろう。
しかし、豪雨のなかでバスを降りるとなれば、誰しも〝それなりの覚悟〟をもつだろう。
その〝それなりの覚悟〟のことを、こういうふうに表現しているのではなかろうか。
だから、[はきだめに鶴]という状況ではない。」

司会「災害に立ち向かうぐらいの覚悟で豪雨の中へ出ていく。その覚悟の心象が[鶴のくちばし]だと……。
 そう言われたら、そう思えてきてしまいましたが。
 結局のところ、[はきだめに鶴]に限らず、鶴をコラージュしちゃえば、勝手にシュールな絵になっちゃう、ってことですかね。」

アシ「それはちょっと決めつけすぎ……。司会さん、だいぶお疲れですね。」

■鶴を詠んで絵にならない歌は?


司会「[鶴]を詠めば絵になりやすい。シュールな絵になることもある、ということですね。
 では最後の最後、鶴を詠んで絵にならない歌、なんてあるでしょうか。
 絵にならないという自信のあるお歌さん、いらっしゃいませんか?」

(しーん)

司会「なるほどー。いませんよねー。
 ではそろそろ、このへんで今回は終わりにします。
 みなさま、ごきげ……」

▶わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
 斎藤茂吉『赤光』

司会「え、 ええ?」

花子「言われてみればこの歌は、鶴を詠んでいる割には、あんまり[絵になる]っていう感じの満足感がないわね……。」

アシ「美意識が積極的に働く感じはしません。--でも美しくなくはない。
 頭の赤い鶴と並んで泣いている人、という図もおもしろいし、〝シュールな絵〟と言って言えなくはない、と思えますが、どうなんでしょう?」

司会「さっきの、[荒梅雨の夜のバスより降りんとしわたくしにある鶴のくちばし]は、シュールな絵になると思いました。こちらも同じぐらいシュールな絵として楽しめます。両方とも読後に[謎]が残るところも共通してますし。」

鱶助「いやいや、微妙に違う。
[荒梅雨]の歌は、[絵になる]というか、[わたくしにある鶴のくちばし]という結句で視覚的にぎょっとさせる構造になっている。視覚に訴えるパフォーマンス性が強く、[謎]も、その視覚パフォーマンスから直接生じている。
 それに比べると、こちらの[わが目より]の歌は、鶴の頭や涙という絵になる可能性を帯びた具象的視覚情報を含むにもかかわらず、[悲しきものを]という、視覚情報がどう関わるのかわからない結句に至り、[この悲しさは何だろう]と探らせ続ける。
 つまり、この歌は絵になって読者の気が済んだらだいなしになる。この[絵にならない]は、単にならないのではなくて、あえての手法である。」

花子「やっぱ、へんな歌だー。うぐっ。」


司会「そ、そうなのかな。(わかった気がしないけど)いろんな意味で特別な歌だったんですね。
 この歌については、これだという解釈ができないままでしたが、最後の最後にこの特別さが判明しましたね。いや判明というほどわかっていないけれど、……。」

アシ「この歌の特別さについては、まだ解明が必要な気がします。」

司会「期限のない宿題といたします。
 では、あらためて、みなさま、さようなら。」





  *  *  *

アシ「個人的には、[折り鶴]の歌にもっともっと触れたかったんです。
今回ちょっと出てきただけですが、[折り鶴]には[鶴]と違う独自な面もあると思うんです。」

司会「[折り鶴]ですか。近いうちにやりたいですね。」

2023年7月21日金曜日

ちょびコレ18 黒い靴

   「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、

「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


■黒い靴

赤い靴は詠まれていそうだが、黒い靴も多少ありそうだと思って探してみた。

多少あった。
本日の闇鍋短歌総数125320首
うち黒い靴に言及している歌は、以下の7首。

ただし、「靴」という語を使わず「黒いパンプス」などと書いてある場合は抽出されていない。

一足の黒靴がならぶ真上より大きな足が下りて来たる
山崎方代『こんなもんじゃ』

旧臘ふたり明けて三たりの弔いに行きし黒靴かぜに当ておく
※旧臘=前年の十二月
久々湊盈子『鬼龍子』2007

芭蕉の墓割れて接着されてをり黒き革靴にてわれは立ちをり
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

湖にこれから入るかのようにあなたは黒い靴を脱ぎ、寝る
千種創一『千夜曳獏』

カブトの靴クハガタの靴黒と茶のおほき革靴荷をはみ出しぬ
米川千嘉子『吹雪の水族館』

アカシアの木下に待っている父の海石のごとき黒い革靴
ルビ:海石【いくり】
小島なお『展開図』

父は老いをしずかに踏みぬ黒き靴光らせながら曲がる踊り場
中山洋祐「詩客」2012-09-07


それぞれに良さは感じる。

しかし、
「黒靴」のイメージ(あまり意識化していなかったが漠然とある既存のイメージ)を、
「思いっきりつゆだく」に感じさせたり、「超えた!」と驚かしたり、のどちらも見当たらない。

「そこそこ良い」っていうのは、私が詩歌に求めるものではないけれど。むろん「良い」ほうに位置づけられるだろう。

ファッションの通販の冊子をみていたら、「きれいめ」という言葉に遭遇した。
この社会には「きれいめ」程度の服装がふさわしい場面があるだろう。
で、短歌にも「良いめ」程度の歌がふさわしい場面が、たぶんあるのだろう。


なお、赤い靴も、思ったほどには詠まれていないようだ。
「靴」と言わずスニーカーなどと言っているケースは抽出されない。

赤い靴の丸いつまさき海を向く深くにごりてブイの浮く海
東直子『青卵』

人身御供にされた少女の赤い靴葬るように靴を包んだ
東直子「短歌研究」2015・3

脱ぎ散らす赤いミュールの靴底に貼りついていた蝶の片羽
入谷いずみ『海の人形』

どろんこの水はねあげる長靴はツヤツヤ赤くお気に入りなの
榎田純子『リズムみそひと』

切り捨てて憧れだけが遠ざかる二本の脚よ赤き靴履け
有沢螢『致死量の芥子』

赤い靴が傘をはみ出し前へ出る濡れながら出るわたしの靴が
中津昌子『むかれなかった林檎のために』

赤イ靴ノオトコ入要アリタリア桜ノ季節ニチルドデ送レ
蔦きうい「レ・パピエ・シアン」75号2005.4

赤と青の子供の靴が落ちてゐる旧き館の格子のまへに
服部崇『ドードー鳥の骨』2017

おんぶしてやれば膝から下だけではね回る魔法の赤い靴
原浩輝「かばん」2000・6


なお、青い靴を詠んだ歌はこれ一首だった。

イタリイといふうす青き長靴のもう片方を片手に提げて
紀野恵『フムフムランドの四季』

2023・7・21

2023年7月2日日曜日

お知らせ 豆歌集販売中 2023/7更新

2023・7更新
豆歌集 現在のラインナップ
で販売しています。
(送料込440円)

東京文フリ350円/ネット通販440円(送料込)

B8サイズ(トレーディングカードぐらい)
1ページ1首で50首収録。

■友人豆歌集

平井 弘  ねえむうみん new
既刊歌集より童話童謡にモチーフを借りた寓意歌を50首抽出。
一部ヒントつきの特別版。

杉山モナミ 蝶は迷子 new
著者のお気に入りと編者のお気に入りを合わせた珠玉の50首。

山下一路  よりぬき スーパーアメフラシ
『スーパーアメフラシ』(2017年)より50首厳選。

■高柳蕗子豆歌集

 [ご注意] 
 高柳の豆歌集の歌はほぼホームページで読めます。
 雰囲気を楽しみながら読みたい方におすすめ。

■『未来の福耳』高柳蕗子(2007年の全歌集より後の作品から50首厳選)
■『よりぬき 潮汐性母斑通信』高柳蕗子
 (2000年刊行の『潮汐性母斑通信』から49首、その直後の歌から1首。計50首)
■『あいうえおごっこ』高柳蕗子
(1994年刊行の『あたしごっこ』よりアリタレーション歌連作「あいうえおごっこ」を全歌収録。おまけ:「あなたごっこ」=「あたし」を詠み込んだ連作「あたしごっこ」から抄出し「あたし」を「あなた」に置換えたものも収録。

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2022・12・5
豆歌集を作ってみました。

手乗りでカワイイ!
歌は50首と読みやすく、
しかもお手頃価格。

お菓子で言えば駄菓子みたいな感じ。

ただし、中身は、お気に入りだけを厳選した、マイブランドとしては最高のクオリティです。




■『未来の福耳』
(2007年の全歌集より後の作品)

■『よりぬき 潮汐性母斑通信』

(2000年刊行の『潮汐性母斑通信』から49首、その後の歌として2007年の全歌集に収録したなかから1首選びました。)

B8サイズ(トレーディングカードぐらい)

1ページ1首で50首収録。
350円

とりあえず、こんどの東京文フリ(2022年11月20日)で販売します。

場所は【かー45】

なお、「かばん」の正会員は、お申し出くだされば、〝友人割引〟いたします。


売れるようなら、他にも作ろうかと思います。

ネプリ初体験 「かばんネプリ2023夏」

ネットプリントという発信手段があることは、

うすうす知ってはしたが手にしたことはなかった。

所属誌「かばん」では、
6月号「短歌とネットプリント」という特集に連動し、かばん会員の題詠「紙」をネプリで発行しました。

(私も1首参加してます。)
(画像は読めない程度にぼかしました。)

今回は内輪感があふれた内容ですが、 全国のコンビニ(セブンイレブン・ローソン・ファミマ)で安価で受け取れる、 というのはずいぶんと便利じゃないでしょうか。

ちなみに今回のネプリは A4モノクロ1枚もので、たったの20円でした。


★ところで私はネプリ初心者。
コンビニでオタオタしながら取得しました。
隣にATMがあって、年配者がスマホもってオタオタしたら良くない展開も予想されるよね。焦った。

コンビニの取得画面(セブンイレブンの例) こんなの見なくてもわかりますが、
見ておけば、おたおたの時間を多少短縮できます。


2023年6月28日水曜日

ちょびコレ17 家を壊す+空

昨年暮れから休止していた「随時更新のちょびコレ」
ひさしぶりに再開です。

なんとなく見つけたちょっとした短歌コレクション。
ミニアンソロジーほどの歌数はない。
レア鍋賞ほど少なくもない……。
そんな感じのときここに書いておきます。





■家を壊す+空
2023・6・28

 家を壊す場面って、なんか空を意識しないかな。
 ふとそんな気がして、探してみたところ以下4首を見つけました。

家ひとつこわれてのちを空中に浮かびつづけるしかくいひかり
佐藤弓生 『眼鏡屋は夕ぐれのため』

壊されてゆくとき家の内臓が空に呑まれているのが見える
土井礼一郎 『義弟全史』

わが家を壊す朝に散りたまる玻璃あり青き空を映して
佐伯裕子 (出典調査中)

壊さるる空き家のなかの落書きの麒麟があふぐ初めての空
渡辺南央子 『天空のかすみ草』


あと、これも、「空」とは言ってないけれど「雲」が出てきてる。

雲の崖ゆ風なだれ来よ家毀す犯意にわれの革るべし
ルビ:革【あらたま】る
春日井建『青葦』


屋根や天井がなくなるから、空が見える。
今まで屋内にあったものが空にさらされる。
家は生き物に準ずる感じ。魂が昇天する。

とりまとめると、そういう感じであるようです。

「空」と言っていないけれど、次の2首もその仲間。


はじめてのそして最後の夕日浴び解体家屋はからだを開く
勺禰子『月に射されたままのからだで』

空き屋なる家を毀てるふる雨に昭和残像の便器がのぞく
池田裕美子 『時間グラス』


そうなると気になるのは、家を壊す歌で「空」が出て来ない歌です。
どんなことを書くんでしょう?


路地奥の家なれば機械入れられず解体は人の手もて行う
奥村晃作『キケンの水位』


どつしりと大樹のやうに建つ家を壊さむとする重機に礼す
ルビ:礼【ゐや】
大西久美子『イーハトーブの数式』


家ひとつ取り毀された夕べにはちひさき土地に春雨くだる
小池光『日々の思い出』


け‌ふ‌に‌か‌け‌て‌と‌り‌毀‌す‌家‌か‌ら‌忘‌れ‌ず‌に‌も‌ち‌だ‌さ‌れ‌る‌死‌者‌の‌も‌の
平井弘『振りまはした花のやうに』


壊れたる家を素手もてなほ壊すあの日の父の怖ろしかりき
逢坂みずき『まぶしい海』


なるほど。いろいろある。

「家」を壊すことに「加害」であるような感じは、なんとなく全体として共通している気がします。

2023・6・28


2023・07・07 追加

においごと家屋は解体されてゆく記録されない巣穴の記憶
雛河麦「かばん」202306

*****



2023年6月17日土曜日

短歌による座談会3 おっぱい

  同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 そこで、
「短歌さんたちに自発的に参加していただき、
 以下の三人半でお迎えする」
という実験的な趣向
で、この場を開設いたしました。

 ・司会
 ・アシスタント
 ・鱶助くん
(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの
花子

ご注意

 歌自身が参加するという設定です。(作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加し、自解はしません。
 解釈は上記三人半が添える、というスタンスで運営いたします。

では、とざいとーざーい


◆お題 おっぱい 


司会「えー、今回のお題は、[おっぱい]といたします。
 なぜかというと、ふと目にした歌がそのとき印象深かったのに、一晩寝たらすっかり忘れてしまい、あの歌と再会できないか、との期待からです。」

アシ「ちぃっと確認。
 [おっぱい]という語を含む歌が対象なんですね。
 [乳房][乳首]などはどうします?」

司会「ここは[おっぱい]に限定させてください。上空が混み合っちゃうので。」

(上空より落胆のタメイキ)

司会「では、さしあたって、[おっぱい]をベーシックに詠んだ歌、いかがでしょうか?」

『動物のおつぱい』といふ児童書にヒトの乳房も描かれてゐる
田中教子『乳房雲』2010


司会「なるほど、確かにヒトも動物。すごくベーシックな事実に気付かされますね。」

おむつ替えおっぱいをやり寝かせ抱く 母が私にしてくれたこと
俵万智『プーさんの鼻』2005

司会「これもベーシック。[ボインは赤ちゃんが吸う為にあるんやで]っていう歌がありましたっけ。」

アシ「月亭可朝の「嘆きのボイン」というコミックソングで1969年発売。作詞作曲も可朝さん。ところで司会さん、あなた何歳ですか?」

司会「古すぎましたかね。」

もし僕が死んだときには棺桶におっぱいを敷き詰めてください
谷じゃこ 題詠blog2012 

司会「ほぇ? なんかいきなりぶっ飛んだ……。ベーシックって言ったのに。」

アシ「遺骨とか、母の胸に抱かれて、っていいますよね。」

司会「むむ、なるほど、この場合、棺そのものが母の胸。それならベーシックですね。すごく奇抜ではありますが。」

おっぱいの役割は〈やわらかい〉だけでいい 夏服のしろのやさしさ
山中千瀬 「早稲田短歌」40号

司会「[おっぱい]の役割としてやわらかさだけを期待する、ですか。
うーむ、赤ちゃんはどうしたらいい?
あ、そうか。逆ベーシック。
[だけを期待する]とは、他のことを拒絶することであり、つまり、[おっぱい]のベーシックイメージである母性を拒否する歌なのかな。
だとすると[夏服のしろ]はいろんなものをリセットした無垢の白かな。」

おつぱいといふ権力がなつふくの女子らによつて語られてゐる
吉田隼人『忘却のための試論』

司会「これは、ひとつ前の歌への応答でしょうか。 
 えーと、[なつふくの女子ら]が[おっぱい]について語っている場面ですね。
 [権力]って何のことでしょう?
[女子ら]ということは、中学生か高校生か、とにかく若い人だろうから、その[おっぱい]に[権力]とやらが備わるのはもう少し先。
で、[なつふく]といえば薄地で風通しの良い服で、その襟やら袖口やらの隙間から、そのぅ[権力]の兆しが、漂い出てきてる、かな?
うーん、[なつふく]のせいでなまめかしくなって、どう転んでも[おっぱい]には何か権力だかなんだかありそう。鱶助くん、フォローよろしく。」

鱶助「[おつぱいの権力]については、私よりも、他の歌の意見を聞けばいい。」

司会「他に[おっぱいの権力]を詠んだ歌なんてありますかね?」

鱶助「[おっぱい]という題材を詠む歌は、直接的には言っていなくても、イメージをたぐればなんらかの[権力的なもの]に言及しそうになる。作者は意識していなくてもね。」

「ぜんぶ好き」以外出口のない問いに「おっぱいです」で勝負して散れ
佐々木あらら『モテる体位』

司会「ええっと、この歌にも[おっぱい権力]へのつながりがあるんでしょうか?
 私には読み解けないです。
 そもそも、これはどういうシチュエーションでしょう?」

鱶助「[「ぜんぶ好き」以外出口のない問い]とは、たぶん[あたしのどこが好き?]みたいな、強引に支配しようとする類いの問いだと思う。」

司会「支配ですか。」

鱶助「決まりきった答えを言わせる。そこに抵抗して、[おっぱいです]と意表をついたつもりの勝負に出たら、失敗した。--そういう場面だろう。」

司会「失敗? [おっぱいです]の何がいけないかなあ。
 --あ、そうか、最初の歌に「動物のおっぱい」があったっけ。
 女性が男性に[どこが好き]と聞いて[おっぱいが好き]と返ってきたら、人としてでなく、哺乳動物レベルで好きと言われた気がする。そんな彼氏はクビになる……。」

花子「それもある。でも[権力]の話だったらら、その解釈では足りないわよ。
[ぜんぶ好きです]と答えねばならない問いは、要するに[お手]だからよ。
[お手]と言われて[ぜんぶ好きです]と手を載せる、そういう犬は、ごほうびとしておっぱいにありつける。
この人はその暗黙のシナリオに従わなかった。だからおっぱいにありつけなかったの。」

司会「[お手]だの[ありつける]だの、花子さん、感じ悪すぎ。
 この歌はそこまでうがった見方はしなくていいのでは?」

花子「司会のくせに何いってんの。
確かに、この歌は[おっぱいの権力]について直接には言ってない。でも、
ここは「短歌による座談会」なんでしょ。
歌は歌自身の言葉しか使えないけど、[おっぱい権力]に関係のある要素を含んでいるから、話に加わってくれた。(そういう設定でしょ。)」

司会「(憎らしいが)おっしゃるとおり。
歌は歌自身の言葉しか使えない。だから繋がりは僕らが見つけ出す、っていうコンセプトでしたっけね。」

人間としてより哺乳類としておっぱい嫌いは問題である
松木秀『親切な郷愁』2013

司会「[おっぱい嫌い]? そりゃ確かに哺乳類として問題でしょうが、そのことがここまでの話にどうつながるのでしょう? 」

花子「[おっぱいが好き]より[おっぱい嫌い]のほうがもっと嫌われる、という繋がりでは? それって[おっぱい権力]よね。」

アシ「そういえば、男は全員[おっぱい]好き、と思われているけれど、実は嫌いな人もいる、と聞いたことがあります。
ほんとうは気味が悪くて触りたくないけど、それは口が裂けても言っちゃいけないことなんだって。」

司会「なるほど、[おっぱい]を嫌うことは許されない。確かに、口が裂けても言わないほうが良さそう。……その抑圧感、何らかの[権力]なのか。」

花子「ふふん。」

司会「えーー、まあ、いろんな意味で[おっぱい]は絶対のもの。抗いにくい。
でも、だけど、攻撃的な強さではなくて……。」

携帯を投げつけたことありますか母はおっぱいを揺らすだけです
染野太朗 短歌WAVE 第1回北溟短歌賞発表号

司会「[母]はそういう衝撃を[おっぱい]で吸収しちゃいます。
[揺らすだけ]という表現もすごいですねえ。いかにも無力そうな悲しみも感じさせつつ、子どもを抱いて揺らしてあやすイメージと、暖簾に腕押しのイメージがまじりあってて……。」

アシ「そういえば、川柳に、
どうするか見よとおふくろどうもせず
という句があると思います。
調べても見つからないので、落語で聞いたのかもしれません。」

花子「けけけ、わかってないわね。それは、息子娘族を手なづけるときの、おふくろ族の手口なのよ。」

司会「え?」

花子「そして、息子娘族も逆に、そういう扱いやすいおふくろ像をおふくろに押し付けようとたくらんでいる。
いいこと? 哺乳類は、生まれたとたん授乳という[おっぱい]による支配がはじまるのよ。
自覚してないでしょうけど、生まれつき[権力]のキヅナで結びつく種族なの。
そのキヅナの確認として[お手]ごっこをお互いにやってて、それを愛と呼んでるのよ。」

司会「母や親子のイメージを汚さないでほしいな。鱶助くん、君のペットはひどくひねくれてますね。」

鱶助「花子ちゃん、私の愛くるしいサブキャラちゃん。はいお手!」
花子「鱶助ちゃんも、お手!」

司会「あーもう、おまえら哺乳類じゃないだろうが。次行こ、次。」

おっぱいのこと考えて一日が終わる今日は何曜日だっけ
俵万智『プーさんの鼻』2005

司会「はて? 一日中考えて曜日も忘れるほどおっぱいが好きな人なんでしょうか?」

アシ「いやいや、この歌単独ではわかりにくいけど、これは母親。出産後の授乳にあけくれる時期を詠んでいると思いますよ。昼夜なく2,3時間おきに授乳しなきゃならない。曜日もカンケーない。
 子は乳を求め、母は授乳という役割に拘束される。--このことは、花子さんの言う相互的支配の絆にあてはまりそうです。
 なお、同じ歌集にこういう歌もあります。
おむつ替えおっぱいをやり寝かせ抱く 母が私にしてくれたこと
俵万智『プーさんの鼻』

司会(アシさんて、もしかして女性? 聞かないほうがよさそうだが。)

花子「だからさー、そういうふうに、ほにゅる、おふっ、うぐぐ……」
(司会が花子の口を押さえている。)

司会「では、次の歌。」

真昼のような青い夜空だ あの人にそうだなおっぱいをあげたいな
雪舟えま『たんぽるぽる』2011

花子「ほらきた。これは完全に[お手]で、うぐぐ……」
(司会が花子の口を押さえている。)

司会「言われてみれば、支配と愛は紙一重。[おっぱいをあげたい]っていうのは、[あの人]を母性的に愛すという意味でしょうか。
[真昼のような青い夜空]っていうのは、夜だけど、普通の暗い夜じゃなくて、明るくてさわやかで、鱶助くんを真似れば、秋空のように健全、っていう隠し味じゃないかな。
あ、だから、恋人っていう気分じゃなくなって、[そうだな]と、空と心で会話するようなワンクッションがあり、[おっぱいをあげたいな]と思ったんでしょうか。
これは単なる母性の歌じゃないですね。」

どこにでも火は点くことをおっぱいに大の字書いて大文字山
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

司会「うーむ、[おっぱい]は山に似ていますね。
で、大の字を書けば大文字山になる。→大文字焼きみたい。
と、そこまではつながったんですが、[どこにでも火は点く]っていう飛躍は追いきれません。」

鱶助「それについては、最近ちょっと気に入っている鑑賞術、アンドゥ・リドゥ(undo・redo)を試してみたいのだが。」

司会「なにそれ。」

鱶助「私が名付けた読解術だ。
 歌を、完成状態になる前の、イメージがちらかった状態までアンドゥし、リドゥしてみる。」

司会「まあお手並み拝見。」

鱶助「では、[どこにでも火は点く]に至る前までの歌の思考を辿ってみる。
・[おっぱいに字を書く](この時点ではいたずらだったかも)
  →[山に字を書く]→[大文字焼き]→[点火]
 この過程で、
・[身体のどこにでも字が書ける]という連想脈が派生する。
  また、隠し味的に、呪術系イメージも強まる。
  呪術系=耳なし芳一(体に呪文を書いて怨霊から身を守ろうとする。)
           (送り火である大文字焼きもそういえば呪術。)
・そこからさらに[どこにでも火は点く]と発展。
  ここには少し性的イメージも加わる。」

司会「なんだか騙されたような気がするなあ。まあ性的イメージはわかります。
 けど、呪術系はあんまりピンと来なかったなあ。」

鱶助「性的イメージの隠し味といえば、ホラーと神聖は定番スパイスだが、まあお好みで。
 この歌を[権力]の話につなげるなら、[おっぱい]に字を書く行為に、[おっぱい]の力を[呪術で封印する]という連想脈が少しありそうなことかなあ。」

司会「はいはい、降参でございます。」

天心のあれは失くしたおっぱい、と虚にささめく声ある月夜
ルビ:虚【うろ】
佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』

司会「天心(空のまんなか)の月。なるほど、[おっぱい]は月にも似ていますね。手術等で失くした人が見上げているのでしょうか?」

アシ「乳がんで亡くなった中城ふみ子に、([おっぱい]ではないけれど)失った[乳房]を詠む歌がありましたね。関係ないかもですが。
失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ
中城ふみ子『乳房喪失』」

鱶助「中城の歌は、乳がんで乳房を失った「われ」の立場で詠まれているが、佐藤の歌は必ずしもそうと決められない。違う解釈もしてみたくなるように、それとなく誘っている。」

司会「え? どこが?」

鱶助「[天心]という言葉の大きさだ。そのため、スケールの大きい歌になって、[天と地で身体を分けた]かとも思えてくる。
「身体の一部を失うということ」を「天と地に身を分けること」のように感じる。そういう鑑賞の可能性が歌に隠してある。」

司会「そんなの、私はぜんぜん感じなかったけどなあ。」

鱶助「これは深読みだからね、感じなくて当然。
[虚にささめく声ある]の[虚]は、乳房を手術で切除した[虚]でもありつつ、乳房を天に差し出した跡の[虚]としての窪地を、一瞬想像しそうになる。
[ささめく声]という言い方にはちょっと秋の虫っぽさがあって、窪地に集まった声みたいなニュアンスをこっそり添えている。」

司会「ふーん。」

鱶助「[おっぱい]を失うことは、何らかの力を失うことだ。ゼロになるのでなく、マイナス感があるほどの喪失感だ。
この歌の「虚」はそのマイナス分ではないだろうか。」

司会「確かに喪失感は強いでしょうね。
ただ細かい点の鑑賞は、ひとそれぞれっていうレベルの話じゃないでしょうか。」

鱶助「もちろんだ。私は深読みAI(artificial intelligence)の一人であるにすぎない。他の深読みAIは違うことを言う。それは、artificialじゃない人間の知能も同じことだ。

司会「あ、そう。」

鱶助「なお、この歌、[おっぱい権力]の話からは離れるが、[天には地上の起伏と反対の起伏がある]という図で天地の関係を想像しなおしそうになる点が新鮮だ。
 そして話は戻る。
 --[おっぱい]がどうこう言っても、みんなで共有しているイメージの[おっぱい権力]みたいなものにはぜんぜん勝てない。
 認識の背景までアンドゥして、次に大勢が、リドゥじゃなくて、そのテーマをゼロから詠みなおす歌を読み重ねないと、いったん備わった権力は消えない、と思う。
これ、AIのカン!

司会「へー。」

ねがいから鼻をとおしてなあ牛よおっぱいはここであっているのか
望月裕二郎 『あそこ』2013

司会「わ、なんだろ。鼻をとおして? おもしろいけどわからない。」

アシ「鼻からする胃カメラじゃないでしょうか。管を鼻から通す方法(経鼻胃内視鏡)がありますよね。」

鱶助「全部は視覚化しきれない歌だとは思うが、鼻胃カメラ(経鼻胃内視鏡)のイメージはあると思う。
・[願い]から出発した何か、があった。
・それは(はじめ姿がなかったかもしれないが)にょろにょろの姿を得る。
・これを[擬人化]という語に習い、ここでは[擬身化]と呼ぼう。
・そして、これまた[牛]に[擬身化]している何かの中へと入る。
・[鼻]から入って(鼻胃カメラ的に)身体を内側から探り、
・[おっぱい]はここかと聞く。
そういうことではないだろうか。」

司会「鼻胃カメラは胃を見るカメラでしょ。どうして[おっぱい]を探すんですか?」

鱶助「こういう歌では作者の意図は測りきれないわけで、だからここは怖めず臆せず、我が短歌読解術で深淵覗きをしようじゃないか。
・まずは[願い]。これは欲求に似てると思う。
・欲求が[胃カメラ]になるといえば、男性の性欲。
  身体の一部位が棒状になって膣に入るという点が似ている。
・しかし、膣は行き止まりだ。おもしろくない。がっかりだ。
・そこで、鼻胃カメラのイメージが採用され、もっともっと、と内側を探る。
っていう感じを詠んでいる、かもね。」

司会「じゃ、じゃあなぜ、[おっぱい]を内側から探すんですか。」

鱶助「膣のみならず[おっぱい]にも、がっかりさせられるから、かな。
外から触るだけではなんだか達成感がないし、隔靴掻痒的に物足りなくないかな。
でもそれは、例の[口が裂けても言っちゃいけないこと]なんだよ。」

花子「[おっぱい]は、よく言えばやわらか、悪く言えばぶーよぶよ、うぐっ」
(司会が花子の口を押さえている。)

司会「じゃあなぜ[牛]なんですか。」

鱶助「イメージ空間で抽象的おっぱいを探っているからだ。その場合は、人間の中途半端な[おっぱい]じゃ、ダイナミックさに欠けるからじゃないかな。牛といえば鼻輪、っていう連想脈がうまい具合に混線して、思い描けば素敵な抽象画、っていう感じ。」

司会「うーむ、まあ素敵な抽象画はわかります。
 (その他は、勝手に言ってろですよまったく。)
 ところで、[権力]の話は、最初のほうの[おっぱいの役割は〈やわらかい〉だけでいい]という歌を受けるようにして始まったんですよね。
 やれやれ思えば遠くへ来たものだなあ……。
 なんだかおっぱいでお腹いっぱい。眠くなってきました。」

花子「だから哺乳類っていうのは……うぐぐ」
(司会が花子の口を押さえる。)

司会「ああもうだめだ。本日はこれまで。さよなら。またね。」

アシ「最初に言っていた歌は思い出したんですか。」

司会「もういらない……。」

花子「みなさーん、植物はおっぱいがないから、とっても自由よー。」

司会「おっぱいじゃなくて、トゲがある……。」

花子「あら言うじゃないの。じゃーねー。」

2023・6・17









2023年5月5日金曜日

短歌による座談会2 お相撲さん

 同じ題材の短歌を集めてみると、いろんな人がバラバラに詠んだ歌たちが集まって雑談をしているように見えてきます。

 司会
 アシスタント
 鱶助くん
(ふかすけ 深読みサポートAI)
という架空の三人を置き、
「短歌和歌たちが自発的に参加する座談会」
というコンセプトで編成してみました。

作者の歌人が参加するのでなく、歌自身が参加するという、ちょっと変わった趣向です。

追記:今回については、「スタッフが喋りすぎて、短歌の座談会になってない」とのご批判を短歌のみなさまよりいただきました。次回から改善いたします。

では、
とざいとーざーい


◆お題 お相撲さん 

司会「[お相撲さん]って短歌にときどき詠まれていますよね。すごくいっぱい、というほどではないけれど、ああ、見たことある、と思いませんか。そしてそれは、けっこう印象深い歌ではありませんか。

というわけで、来たれ お相撲さんの歌!」


■身体の存在感(肉感・質感・体積・重量など)


司会「お相撲さんといえば、なんといっても身体の大きさ、重量感。」

エレベーターに乗らむとすれば現身の相撲取りひとりが先に乗りゐる
ルビ:現身【げんしん】
小池光『時のめぐりに』

司会「おお早速にありがとうございます。
 そう! お相撲さんの体積は何人分の空間を占めるか、重量はだいじょうぶか。エレベーターにあとから乗る者としてはいろいろ気になります。
 現身を[げんしん]と読ませるのも、体積感と重量感の強調表現でしょうか。[うつしみ]じゃなんだかひょろひょろ弱々しいからあえてこう読むんだな、と思いました。」

お相撲さんとすれちがう度にんげんについてハッと考えてきた
杉山モナミ「かばん」2003・1

司会「むむむ。わかる気がします。でも、私は何をわかったんだろう……。」

鱶助「肉体感の強さによって、通常の[にんげん]イメージがハッとリセットされ、把握し直すのではなかろうか。[にんげん]というひらがな表記は、漢字よりも裸な感じがするし、[にんげん]というものを一字一字確認するような心の課程に添ってもいる。
 この歌の飛躍はそういうものを足下に見ながら一気に飛び越すものであり、読者はそれをうすうす感じる。
その[うすうす]効果が、[わかる気がするけれど、何をわかったかわからない]なのである。歌のタイプのひとつだ。」

司会「うすうす効果。歌のタイプのひとつ……。じゃあ、つまり、わかった気がする、という感想は適切なんですね。」

淡雪をあるけば臍があたらしい 空と抱きあう力士に出会う
ルビ:臍【ほぞ】
東直子『青卵』2001

司会「あ、この歌も、何かを勝手にわかってしまった気がして、でもそれが何なのかわからない、っていう感じ。さっきと同じタイプでしょうか。」

鱶助「ほぼ似ている。
 まずは上の句の[淡雪をあるく]。なんとなくリフレッシュ感がある。
 淡雪の日の空気感、踏んだ感触、ほんのりつく足跡などに対する、人間のベーシックな感覚としてのリフレッシュ感だろう。これは主に身体が、呼吸器や肌で感知するものだが、[淡雪]という言葉の語感やイメージも加わっている。
[淡雪]=[雪](世界を塗り替えるイメージ)
        +[淡](そのかすかな始まりのイメージ)
 この歌の非凡な点は、そのリフレッシュ感を、呼吸器や肌でなく[臍]で感受したとしたことだ。[臍]は母体とつながるものだから、身体がゼロの部位から新鮮な世界と繋がり直す、という方向にイメージを誘導する効果がある。読者はそれを明確に意識化しなくても、[うすうす]受け取ることができる。」

司会「うわー、上の句だけでそんなに長い説明が……。」

鱶助「さよう。短歌は奥が深い。
 さて、下の句。[空と抱きあう力士]は、そんな感じの力士と実際に出会ったのか、はたまた[淡雪]から生じたまぼろしなのか、わからないがいずれにせよ重要なのは、[空と抱きあう力士]というフレーズが、以下2点でイメージを適切に増幅した心象表現であることだ。
 ①力士といえば腹(臍)を突き出す独特の体型だが、それを[空と抱きあう]と表現することで、[身体が、臍というゼロの部位で、新鮮な世界と繋がり直す]というイメージで捉えられている。
 ②また、相撲は[四つに組んで格闘する]ものだが、それを[抱き合う]と言い換えることで、[臍]イメージとも合わさって、母子のイメージも重なってくる。
 この歌全体の構造を見ると、上の句は自身の(あるいは普通の人の)体が感じることを書き、下の句は、それを言葉の力で増幅して味わっている、といえる。」

アシ「増幅にもいろいろタイプがあると思うんです。淡雪のリフレッシュ感を力士の身体で味わう、というこの増幅は、ーー人間にとってもおいしいおかかご飯だけど、真のおいしさは猫になって味わわなきゃ、ーーみたいなタイプですよね。」

司会「は? おかかご飯、にゃんだそれは。ちゅーるじゃにゃいのか?」

アシ「だめにゃん。ちゅーるはにゃんげんのたべものじゃにゃいからにゃ。」

司会「(うう……。短歌のヘソの奥で変な猫に遭っちゃったよ。どうか早く次の歌、来てください。)」

雨あがりの茸のやうにぬきぬきとならぶ力士らももいろの四股
日高堯子『雲の塔』2011

司会「(ほっ。)お次の歌が来てくださいました。
 こちらは素肌感・肉体の質感がすごい。[にょきにょき]でなく[ぬきぬき]にしてあり、その語感の微妙な違いも、感覚的に、すごくよくわかります。説明の必要な含みとかはなさそうで、(鱶助くんはちょうど充電に入ったし、)素直に受け止めて読めばいい歌でしょう。すなおーに、すとれーとに。」

晩秋の光のなかに街をゆく力士がつくる影のしづけさ
前川佐重郎『孟宗庵の記』2013

司会「いらっしゃい。おや、お相撲さんの歌といえば肉体の力強さを詠むことが多いと思っていましたが、こちらの歌は[影のしづけさ]を詠んでいる。レアですね。ポジとネガが連れ立っているような捉え方も珍しい味わいがあると思います。」

しらじらと力士らの肉たゆたふをテレビはうつすひとなき部屋に
坂野信彦『銀河系』1982

司会「人のいない部屋のテレビに力士が映っている。ーーテレビの中には力士の肉体があって、こちら側には人がいない。
 質量のアンバランス。天秤だったら思いっきり傾くような感じ。ーーそういうふうに不在感を詠んでいるのでしょうか。
 あ、もしかしたら、どなたか相撲が好きだった方が亡くなったのかな。その不在感の強調、だったらわかりやすいんだけれど。」

鱶助「(充電中だが薄目を開き)
 [天秤だったら思いっきり傾くような感じ]は言い得て妙だと思う。テレビのむこうは肉体MAXでこちら側はゼロ。そういうアンバランスが詠まれている、と思う。アンバランスというのは、普通なら危ういわけで、たとえばイカダなら転覆する。けれども、テレビごしの別世界どうしのアンバランスでは何も起きない。そういう境界の特質みたいなことも味わえると思う。
 ただ、そういう抽象的な感覚のみで歌が成立すると思う読者と、それでは物足りない読者とがいる。後者なら、誰かが亡くなった不在、というシナリオを補って鑑賞する。それでもいいと思う。
 それに、これが連作のなかの歌なら、本当にそういう事情である可能性もある。もとの歌集を見ないとわからない。要確認だが、アシさんはどこへ行った?」
 
司会「アシさんは休憩みたいでいないんですよ。
なるほど。自分としては、後者の解釈のほうが好きかな。」

洋傘の黒きかさなりが埋みゐるテレヴィジョンに力士輝きてゐき
田谷鋭『乳鏡』1957

司会「あ、こちらの歌も、テレビの中の力士を詠んでいます。テレビの内と外の世界が接していて、そのコントラストなのかしら。テレビという憧れの家電を通して輝く力士を見ていた、っていう。?? 当時をよーく思い出してみよう。
 えーと、テレビ放送の開始は1953年。この歌を含む歌集が出版されたのは1957年。
そのころ私は4歳でした。相撲は大人気でしたが、テレビが家にあるのはお金持ちだけで、街頭テレビの相撲放送には人が群がっていました。
 雨ふりの灰色の街で人々は、黒傘のすきまから、遠い小さなテレビ画面の力士を見ている。(……黒傘だからほとんど男性か。)で、かたや画面の中は、肌色かがやくお相撲さん???
ーーじゃないよ! 違う! だって当時のテレビは白黒だったんだ!
 (カラー放送の本格化は1960年。)
 いや危ない危ない。作者がこの歌を詠んだ頃ならば、雨ふりの灰色の街とテレビの中とは、同じ色調だった。色はコントラストじゃなかった。そういや画像も荒くて、白い線が入って、雨降りっぽかった!
 現実にはそういうシンクロ要素もあったはずだけれど、それでも、憧れの家電だから、力士が輝いて見えたんでしょうね。」

下町の鉄塔からの波に乗りうすもも色の力士が届く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

司会「え? ええ? なにこれー。うすももいろのお相撲さんがひらーんと飛んでくる? なんだかモモンガみたいでおもしろいけど……。
(鱶助くんは充電中、アシさんは……まだ離席中か。)
あ、わかったー! これって、電波に乗って力士の映像が届くことじゃないですか? そうだ、そうに違いない!!」

多様性いわれるなかに今どきの力士らほぼほぼ鮟鱇形なり
fuu031937
(Instagramのアカウント 気ままに短歌を詠む86歳との自己紹介あり)

司会「お相撲さんはカタチも独特。よく聞くアンコ型のアンコは鮟鱇だったんですね。「アンコ型」と耳にするたび、アンコがずっしり詰まった大福餅を思い浮かべそうになっていました。」

アシ「(手を拭きながら戻ってきた)ちなみに、筋肉質の体型はソップ型と言いまして、ソップはスープ。出汁をとった鶏ガラのイメージらしいです。」

司会「ソップ。聞いたことがあります。そういう意味でしたか。」

器用なる小兵力士の感じして佐賀は九州の腋の下なり
松木秀『親切な郷愁』2013


司会「おお! こちらもカタチですが、なんとも珍しい着眼です。地図を見たらピンときました。佐賀県が[小兵力士]に見えてきたし、[九州の腋の下]というのもおもしろい見立てですね。」


■お相撲さんのイメージを活用する

司会「ところで、さっきの[淡雪]の歌のときに思ったのですが、お相撲さんの描写に言葉を多くさいたとしても、必ずしもお相撲さんを詠んでいるわけではないですよね。お相撲さんを何かの比喩として使うことがある。思いがお相撲さんの姿をとる、みたいなのもありますよね。」

とうめいな力士を押して戸を開き今年の春をごうごうと行く
東直子「短歌研究」2016・3

司会「むむむ、何か閉じこもるような状況だったけれど、春がきて、今年こそはと[戸を開]いて歩きはじめる。それは[とうめいな力士を押]すかのような心のエネルギーを要することなのでしょう。
 [ごうごう]というと強風の擬音みたいですね。春のごうごう吹く強風を、こちらも強い決意でごうごうと押し戻していく。そういう歌でしょうか。」

加速するお相撲さんを抱きとめてああああわたしあああかなしい
笹井宏之『ひとさらい』2011

司会「こちらは逆方向。押すんじゃなくて抱きとめている。どすっと悲しみが来て、それは[加速するお相撲さんを抱きとめ]たような衝撃だった。[ああああ]は、持ちこたえられずにだんだん土俵際へ押されていく悲鳴でしょうか。」

悲しみに似た関取があらわれてひたすら塩を舐めている夜
笹井宏之『てんとろり』2011

司会「こちらも同じ作者で、お相撲さんのイメージを使って[悲しみ]を詠んでいますが、全く種類の違う悲しみみたいです。
 この歌では、[関取]が巨大な妖怪アカナメみたいに塩(傷口に塗られた塩?)を舐めている。水木しげるの絵で思い浮かべてしまうような心象で、この絵の迫力に釣り合うような悲しみの質や量を想像させられます。」

おすもうさん、トイおすもうさん、ティーカップおすもうさんで三連勝や
谷じゃこ『クリーン・ナップ・クラブ』2020

司会「あちゃー、難しい。私の苦手分野です。鱶助くんはこういうの好きなんだけど、まだ充電中ですか。じゃあ頑張ってみます。
 えーと、三段跳びっぽい構造ですね。ひょっと、ゲームキャラの進化で見かける[R・SR・SSR]が思い浮かびました。おすもうさんのイメージが三段跳び的に進化していく?うーん……どうなんだろ。私には歯が立ちません。」

アシ「それそれ、その進化論、大当たりかもしれないですよ。
[トイおすもうさん]とはたぶんカプセルトイの小さなおすもうさん、そして[ティーカップおすもうさん]とは、カップにプリントされたおすもうさんの絵とか、そういうのあるじゃないですか。
(カップじゃなくて、ティーパックにお相撲さんの絵がついているのを見たことがありますよ。カップにセットしてお湯を注ぐと、お相撲さんがお風呂に浸かっているように見える、という趣向でした。)
 で、鱶助くんならたぶんこう言うと思います。
[この三段跳びは、本物のお相撲さん→人形の→絵の、と、イメージが実物を離れて進化していくものである。]って。
(さっきのおかかご飯とは別のタイプの増幅ですよ。)」

鱶助 (充電中)

司会「な、なるほど。現物からイメージへの三段跳び変化。それはわかりました。
でも、だとして、結句の[三連勝や]はどう解釈しましょうか。」

(アシさんは、両ヒレで「さあね」のポーズをして、また席を立ってしまった。)

司会「えー、末尾の「や」は関西弁らしい。
 (ーー関西弁はよく知らないですけど、思い切って深読みしちゃいます。)
 おそらくこれは、商魂たくましくイメージ進化させながら賞品化していくことを言っている。関西弁には、明るく世間を勝ち進む感じがありますからね。えーい、当たるも八卦や!」

リリィ、リリィ、ビキニ力士に意味必死 ビキニ力士に意味必死
ナイス害「うたつかい」2015年秋号

司会「ひー!! またまたこういう歌だ。参ったな。
さっきと同じ三段跳び構造だけど、うーむ。」

(アシさんの席には、すぐ戻りますとのメモが置いてある。)

司会「えー、まずは[リリィ、リリィ]。
 リフレイン。ーー[リリィ]といえば百合だから、おそらく女性ファッションみたいな方向にイメージ展開をすべく、リフレインで力を溜めた。(闘牛の牛の前足が2回地面を掻くみたいにね。)
 →だのになぜだか、ビキニ姿の力士という変なものを作ってしまった。
 →それは、なんでこうなった? と誰もが突っ込みたくなるたぐいの変異であり、
 →だから意味付けが必至であり、
 →その意味付けはおそらく必死のこじつけになるだろう。
 と、そういったドタバタが凝縮されているんじゃないでしょうか。
 展開がスピーディで、どんどんやったれという業界のやぶれかぶれ感みたいなものも感じ取れ、ますよね。どうかな。ぜーはー、ちょっと休憩。」

*
**
***

■紙相撲のお相撲さん

(司会は元気回復。鱶助くんはまだ充電中、アシさんまだ不在。)

司会「さあ続いていきますよ。
 紙相撲ってありますよね。紙のお相撲さんは実際のお相撲さんと質感が違うから、詠まれ方も違うのではないでしょうか。」

お互いの鋭利なつま先ながめつつ横たわっている紙の力士ら
佐佐木定綱 『月を食う』2019

司会「そうか、紙の力士は勝った方も倒れることが多い。勝っても負けても、[お互いの鋭利なつま先]を[ながめつつ横たわ]ることになる。お互い苦い思いでしょうね。
 私は教訓的に解釈する傾向があって、鱶助くんに[あんたイソップかい]とよく言われちゃうんですけどね。(とカマをかけてみた。)」

鱶助(タヌキ充電)

また負けてきたる力士は名を変へて戦はすのみ紙相撲ゆゑ
吉岡生夫『続・草食獣』1983

司会「なるほど、紙の力士は遊びの中で使いまわしをしますから、何度でもいろんなものに憑依され得ますね。
 えー、憑依といえば、流し雛って紙人形に病気や災難を負わせて流す、みたいな、人間の身勝手というか、紙人形の宿命というか、チラっと連想しちゃいました。
 それと、[紙相撲ゆえ]ってところも気になります。紙相撲だからいいけれど、っていう含みははないでしょうか。たとえば、不祥事を起こした政府の団体が、名称を変えて存続する、みたいなこと。
ーーそんなことまでは言っていませんかね。

さて、アシさんも鱶助くんも今日はもう駄目みたいです。読者のみなさんもお疲れでしょうし、そろそろ終わりにしたいと思います。」

(すると、ななめ上空に、がっかりしてためいきをつく気配が。)

司会「出番を待っていた短歌のみなさま、ごめんなさい、またこんど。」

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司会「ねえ、ふたりとも、終わりましたよ。起きて。」

アシさん 鱶助くん(……)

司会「実はもうひとつだけ気になることがあるんですよ。横綱など、地位の名称を詠み込むケースってどういうふうに詠まれているのかなあって。」

(と、小声で言ったにもかかわらず、すかさず歌が飛来した。)

大関も関脇もゐる天の雲われら地上の前頭なり
伊藤一彦『遠音よし遠見よし』2017

司会「えっ、わっ、ほらほら歌が来てくれましたよ。
 これはおもしろい見立てじゃないですか。人が天地に所属する感じをあらわす歌は、実にさまざまありますが、相撲の番付に対応させるなんて珍しい。[大関]や[関脇]のような雲といえば、入道雲でしょうね。」

アシ(うんとかすんとか曖昧に返事。)
鱶助(ランプをチカチカ点滅)

司会「それって同意ですよね?
 世界の天地。人間は[前頭]という位置づけで、地上にどっしり足をつけて立つ。この身体感覚、新鮮ですよねー。」

(そこに歌の一団がどどっと舞い降りた!!)

夢に来て金の乳首のちからびと清めの塩を撒きにけるかも
「前頭九枚目より五枚目をただちに前線へ派遣せよ」
降りそそぐ清めの塩のきらきらと横綱戦場派遣審議委員会
「前頭四枚目より筆頭をただちに前線へ派遣せよ」
清めの塩を回し喰いする天使たち、式守伊之助、木村庄之助
「小結及び関脇及び大関をただちに前線へ派遣せよ」
雲龍型、不知火型のミサイルを担いで金剛力士は吠えよ
「外国籍の横綱の髷切り落とし所属の部屋に幽閉すべし」
二階級特進により横綱となりて煌めく不知火型は
戦場にいま燃えあがる天使たち、式守伊之助、木村庄之助

以上10首 穂村弘『ラインマーカーズ』(手紙魔まみ イッツ・ア・スモー・ワールド)より

司会「え? うわー、これは……。
 むろんフィクションでしょうが、なんだか、なぜか、生々しくて……。
 どこかの戦争。その戦況が悪くて、力士をどんどん前線に送っているらしい。そんな内容にも驚きますし、相撲番付で戦況の逼迫度合を表現していて、これってかなり珍しい使いかたではないですか。
 ねえ、私一人じゃだめです。アシさん、起きて情報くださいよ。鱶助くんも、何か言いたいんじゃないの? 」

アシ「うるさいなあ。ほんとにもうこれで最後ですからね。
 これらの歌は[手紙魔まみ イッツ・ア・スモー・ワールド]という一連にあります。このタイトルは言うまでもなく、ディズニーランドのアトラクション[イッツ・ア・スモール・ワールド]から1字消したものです。
 この10首は一連の後半にありますが、前半は相撲や戦争には直接的には関わらない内容です。そして、この10首は、次の2首に挟まれているのです。
嘗めかけの飴をティッシュの箱に置き眠ってしまう、世界のなかで
嘗めかけの飴がティッシュの箱にある世界へもどる道をおしえて
 つまり、一連の主人公的存在である[まみ]が眠って、こういう夢にワープした、という設定です。」

司会「えーと、じゃあ、一連全部を意識しないといけないですね。」

鱶助「ディズニーランドの[イッツ・ア・スモール・ワールド]というアトラクションは、いろいろなワールドを楽しく巡るものだ。そして、この連作にもそれとなく、世界間を行き来するとか、同じ場所にいても別の存在へと変化して所属が変わるとか、そういうことが書いてある。例えば一連最初はこの歌だ。
天国から電話がかかってきたように眠ってるのに震える兎
 最初は気づかないが、次第に、[天国]も存在が移行する先のひとつなのだと思えてくる。
摘み取られたことにこの子は気づかない、まだ夢みてる苺を囓る
 この[苺]は、摘み取られたことで植物から食物へと転じたが、そのことに気づかず夢をみたまま食べられていて、そのまま誰かの体内で更なる変化をとげるのだろう。
つけものたちは生の野菜が想像もつかない世界へゆくのでしょうね
[生の野菜]が[つけもの]になる変化も、同じ場所にいながら所属する世界が変化する、という把握である。
 また、一連の前半には、ウサギが出てくる歌が多い。ウサギといえば『不思議の国のアリス』への連想脈があって、これも別世界を巡るイメージをそれとなく支えていると思う。この流れから考えて、一連後半に出てくる[スモー・ワールド]の夢も、別領域への移行の一つのかたちとして位置づけていいと思う。
 この10首だけを見ると、戦争が強く意識されていて反戦歌かとも思えるが、それはそれで重要な要素として、連作全体の世界観のなかで捉えておくべきでもある。」

司会「この一連に描かれている並行世界は、アトラクション的である一方で、現実世界のシビアなところにも通じる気がしますね。」

アシ「[スモー・ワールド]には、かつて実際に行われた徴兵検査を想起させる面もありますよ。(今は徴兵制度がないからやっていませんね。)男性たちはまっぱだかで身体を計測され、甲乙丙丁の格付けがなされたんだそうです。[男性だけ][裸][格付け]という3点が[相撲]と重なります。」

司会「それは気づきませんでした。
 なにしろ、戦況の逼迫を相撲の番付で暗示する、という独創だけで驚いちゃって。
 例えば、登山の行程単位の[合目]を[プロジェクトは五合目にさしかかった]みたいに使いますが、この歌では[前頭○枚目]などの番付を使っている。それだけでぶっとんじゃいました。」

鱶助「注目点はもっともっとある。
[スモー・ワールド]は主に、銃後の世界の心理を描いている、ということ。
それと、最初の方で君は、何か生々しい、と言ったが、表現自体は生々しくない方法をとっているのにそう感じさせるということも、[生々しさとは何か]と考えさせられる。
[戦争]といえば普通思い浮かぶのは戦闘だが、この一連には戦闘の描写は少ししかないし、それは全く生々しくない歌だ。
雲龍型、不知火型のミサイルを担いで金剛力士は吠えよ
これには、ガンダムみたいなかっこよさがある。軍国主義時代の[国威発揚のための愛国詩]、あるいは、銃後から戦地を空想して詠む[戦火想望]作品みたいなもの。あえてそういう種類の[現実離れ]ふうに書いてある。それがある意味生々しい、と言えないだろうか。
 むろん解釈はひとそれぞれだが、少なくともステレオタイプの戦争ではなく、安易に[戦争を詠んでいる]と決めてかかれば、本意から外れるかもしれない。
 [銃後]は[戦争]だけにあるわけではない。[戦争のような何か深刻な状況]にも[銃後]はある。そういうものも包含し、て、ぴぴーー……。」

司会「ううー、聞いてて私も充電したくなってきた。」

鱶助「ぴきぴー、[まみ]は、夢見る頭のなかのピューロンのぴと粒で……ピたしたちも、ここのピカイをピキピキ生きるピューロンで、ピーヒャラピーヒャラ、ぴきーーーーーーー。」

司会「うわあ、もういい、どうか安らかに充電して。」

アシ「(窓から逃げようとしている。なんと、すぐそこまで海が迎えに来ているのだ。) 
 関係ないと思いますが、最後に、いちおう補足しておきます。
 力士はいかにも強そうですが、身体が大きすぎて、太平洋戦争当時の徴兵検査では[丙種合格]という最低ランクになることが多かったとか。招集される可能性が高いのはふつうなら最高ランク[甲種合格]の人なのでしたが、戦況悪化に伴い、ランクの低い人も招集されるようになり、戦士した力士もいたそうです。
 それと、戦時中、野球や競馬は中止されても大相撲は継続していて、召集中の力士の番付地位は守られていたそうです。
(海……もう海に帰るんだ……さいなら。ちゃぽん)」

司会「わ、わかりました。私も限界です。
まだまだ考えたいことがいっぱいあるけれど、本日はこれにて打ち止めー打ち止めー。
短歌のみなさん、人間のみなさん、このへんでさようなら。」

(2023・5・4)

※短歌による座談会の第一回は、会話に加わるのが作者なのか短歌たちなのか、という点があいまいでした。
今回は、作者の参加でなく、短歌たちが自主的に飛んでくる、と、明確にしました。