「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
および、その仮名表記(ふくめん算など)
【旅人算】
柳谷あゆみ 『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012
光森裕樹 『鈴を産むひばり』2010
山中もとひ 『〈理想語辞典〉』2015
★俳句も発見
高柳蕗子の短歌評論ブログ「ひょーたん」です。 テーマ別短歌コレクション。短歌の評論に関わる雑メモなど。ロビン・D・ギルさんにご協力いただいた狂歌コーナーも。#短歌評論 #高柳蕗子 #ひょーたん
短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。
--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!
「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。
※伏せ字「●」は1音を表しています。
例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●
これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。
「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。
今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。
1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空
2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み
4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
c 地下は不可侵の場所・忌避感
①下水管は暗くて汚なそう。
②地下は死者の国。
③深層にはマグマ。
d マンホールの蓋は地下を封じる
忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
遮断して忘れ去る
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。
※かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
※インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説。
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
で、おじいちゃんは、無表情だがちょっと幸福で、孫の軽さを味わっているような……。花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな出羽弁『玉葉集』1312
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
a マンホールは地下領域への出入り口。b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)d マンホールの蓋で地下を封じるe 地下に封じられ存在を忘れられるf 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。
題詠イベント「塵も積もれば」に出詠して最高点をとった歌。
哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たるだろう。そのレジ袋を「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわ解凍されて来ないか。
「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせるが、その無念は粗末に捨てられたためだけではなかろう。環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだが、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれると思う。
さらに、「投身」は、人間に跳ね返って来る。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。一人ひとりは否応なくこの自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか、というふうに、環境問題としての深読みにも踏み込んでいけそうである。
故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。 まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。
短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。
--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。
「●●……」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。
※「●」の数は音数を表しています。
例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●
文字数は5ですが音数は4
■20の扉 ●●●●●
今回の虫食いワード●●●●●は、短歌においてはけっこう人気の高い語です。
以下、20首をピックアップしました。
作者名も伏せてあります。
(答えと作者名、および高柳の詳細な鑑賞が下の方にあります。)
いかがですか?
●●●●●に入る言葉はわかりましたか?
キーワードは、空・高い・ゆっくり・乗る・回る……。
回答 観覧車
以下、考察と鑑賞
2024・7月に「観覧車」を含む歌を、闇鍋(myデータベース)の短歌約129,000首から抽出した抽出したところ、84首ありました。上記20首はそこからピックアップしたものです。
ーーこの84首という数字はかなり多いと思います。遊園地の代表的乗り物で比較すると、ジェットコースターは2首しかない。回転木馬は14首で、別名メリーゴーランド9首と合わせても、観覧車には全くかないません。それだけ「歌に詠みたい」と思う〝引き〟が「観覧車」にあるということです。
※以下は、文体が書いた日によって、「ですます」だったり「であるだ」だったりします。気にしないでください。
1 観覧車極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに
川野里子『青鯨の日』
◆空深く極まる→ゆっくり戻る
観覧車が空高く極まるその高みにあるときの喜びは、深い畏れに似る。
なるほど、頂点にいるときは、高さを考えるだけでも怖いし、それを「ふかき」と言い換えたとたん、空深く「沈む」イメージも少し喚起され、(潜水艦的に)ゴンドラに閉じ込められて出られない、という、物理的・体感的な恐れを感じるだろう。
加えて、心理的にも、「畏れ」という文字が、慣れ親しんだ地上から遠いぶん、人間の領域を離れ本来いてはいけない場所に侵入しているための気後れのようなものを表している。
だから、楽しく観覧車に乗る喜びには、畏怖が混じるのだと思うが、ふつう、喜びと畏怖は反対の心の働きのように認識されていて、それがなぜかいっしょになる状況であることを捉えた、というのがこの歌のコンセプトだろう。
ところで、言葉は、あるものを別のものと区別する。「観覧車」といえば、「観覧車」でないものを除外する。すごく当たり前だけど、虫食いにしてみて、あらためて感じた。喜びと恐れが同時に高まるものは観覧車だけではない、と。
ジェットコースターでも、そのへんの児童公園のぶらんこでも、そういう体験はできる。
ただし、これらは極まりかたやそのあとが違う。
観覧車は、ゆっくり上昇し極まったあとゆっくり日常に降りてくる。
ジェットコースターはゆっくり登り、猛スピードで下降する。
ぶらんこは揺れが反復して極まりを繰り返す。
「観覧車」と書いてあるから、読者はひとりでに、観覧車の特性を踏まえて読み、楽しみといっしょに「畏怖」がゆっくり極まることだけでなく、そのあとそれがゆっくり緩んでいく体感・情感もコミで感受できる。虫食い状態だとこのあたりが難しかった。
2 観覧車ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分
大谷雅彦『大谷雅彦集 』(セレクション歌人)
闇を「ゆつくり」引き上げてくるという描写が印象的。
なんだか掛け布団をひっぱりあげるみたいな具体的な書きかたです。15分間のそのなまなましい時間感覚と体感を描くことに徹して、雑味がないゆえの迫力があると思います。
遊園地の遊具の多くはスピードがありますが、観覧車は反対で、極端に遅い部類。
あのゆっくりした、スローモーションのような時間の感覚や体感こそが、観覧車的な非日常の特性そのものである。
なので、その非日常的感覚は、このように工夫をこらして描く価値があるんだなあ、と思いました。
歌には全く書いてないことで、以下は詩心に詩心が応答した〝幻視的〟段階の感想にすぎず、「評」ではありません。
この歌の時間感覚は妙になまなましい。「闇を引き上げてくる」というところで、なぜか連想のスクリーンに、巨大なかたつむりを見た気がしました。観覧車の形状が少しかたつむりに似ているせいだろうか。さっき「掛け布団をひっぱりあげるような」と書きましたが、その掛け布団が生きているような感じがします。
3 観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
比喩の一種に〝見立て〟というワザがあります。(というか、比喩はみんな見立てと言えるかもしれないけれども、〝見立て〟とわざわざ呼ぶにふさわしいのは、視覚的に大仕掛けなものです。)
この歌も「二粒ずつの豆の莢」以下すべてが「観覧車」の見立てです。
観覧車のゴンドラを「二粒ずつの豆の莢」と捉え、それが「陽に触れては透ける」という情景を詠んでいる。「観覧車」という人工物と、豆の木のような生命感あふれる植物のイメージが重なる、大胆で斬新な設計です。
(ちなみにこの作者は〝見立てワザの巨匠〟です。)
この視覚的魅力だけでもう十分に歌は成立すると思いますが、もう1点、そも観覧車というものの姿やありかたを、このように明るく楽しげに捉える屈託なさ、という点にも価値があるのではないでしょうか。描かれているのは「観覧車」自体の存在としての喜びみたいなもの。それは作者の主観で捉えたものですが、そこに人間の心情を託そうとせず、「観覧車」の存在としての本質を見ようとする描写になっています。
短歌は、人の孤独や悲しみなどの心情を芯にして成立しがちで、観覧車を詠む歌も同じ傾向があります。それが悪いのではないけれど、このような明るい歌は、「観覧車」のイメージバランスを救っているとも思います。
4 青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく観覧車
井辻朱美『クラウド』
この歌も〝見立て〟ワザを使っています。暗い心情を反映させていない、という点でも、ひとつ前の歌と共通しています。
観覧車のゴンドラの動きを「空に〈囁き〉を差し入れて」と解釈していることにびっくり。そのあとの「ぷらぷら沈んでゆく」もなんだかかわいくて、ゴンドラたちは頑張って昇り、リラックスして降りてくる、ーーああ水車みたいだ。(「森の水車」っていう唱歌がありますね。コトコトコットン。)
この歌の観覧車は、大理石の立派な空へとたゆみなく、地上の〈囁き〉を汲んで届ける、水車みたいな装置に見立てられている。連なって空へのぼる小さなゴンドラたちはその水車の部品の桶みたいなものらしい。
(草木が地中から水分を汲み上げたり光合成したりする装置であることをちょっと連想した。観覧車をそうした装置のひとつに見立てているみたい。)
役目を果たしたゴンドラたちが「ぷらぷら沈んでいく」という描写。仕事の緊張がゆるんだ人間っぽいしぐさは、観覧車という装置に生きもののようなニュアンスを添えています。
「観覧車」という対象を、人間の心情表現の手段にしていない。ーーゴンドラの動きには人間臭さもあるけれど、心情を投影した、というほどではありません。
観覧車というもののたたずまいそのものから感じたことが描写されていて、その視点は、人間も含めて万物は、等しくこの世界に屈託なく存在する事象である、というような開放感に繋がり得ると思います。
5 「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
秋月祐一『迷子のカピバラ』
「ゆっくり」回るのは「観覧車」の個性そのもの。
そんな観覧車が、「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」と語った。
これは、「本当は早く回れるんだぞ」と、仲間のメーリーゴーラウンドたちに見栄をはった言葉でしょうか。
それか、そういうパフォーマンスに憧れがある? ーーたとえば、「ひごろニコリともしない人が、生涯にたった一度だけ微笑んだ」的なサプライズをやってみたい、的な。
(個人的にはこれに一票だ。)
あるいは、擬人化的な心情投影というセンも。
「全力でものごとに取り組むチャンスのないまま人生の後半にさしかかって『いつか一花咲かせるさ」的なことを呟いている(=叶わぬ夢フラグたちました)」
こういう感じで、つまり擬人化として受け止める人が多いかもしれないなあ・・・。
6 どうしても観覧車が動いている様に見えない春の疲れであろう
渡辺良『日のかなた』
動きがのろい、ということが観覧車という題材の重要な特徴であることは間違いないでしょう。
おもしろいのは、「春の疲れ」が、観覧車を見ている主体者の疲れか、観覧車の疲れかが渾然としていること。
一般的な比喩関係は、例える側と例えられる側という一方通行の関係だが、この歌は一般的比喩ではない。自分の気分を対象に投影しているのか、対象の姿ありように影響されて自分がそういう気分になったのか、双方向に憑依・投影しあっているような、そういう素朴なシンクロ状態が表されている。
ひとつ前の歌でも、この憑依・投影現象に触れた。
この種の双方向状態は、詩歌イメージの中だけでなく、現実にもあると思う。何らかの事情で心身が弱まったとき、意識の輪郭が緩んで、主体と対象が相互的に混ざりやすくなる。「春の疲れであろう」は、内容も口調も、そうした〝心身の弱まり〟をそれとなく感じさせる。
また、「春の疲れ」という語が抒情的で風流でさえあることに心奪われ、見落としそうになったが、景色が静止画になったかのようなこの描き方、「疲れ」の質の描写として、なんと繊細だろう。
〝心身の弱まり〟を詠む歌は多いと思われる。そのなかで、スローなものを詠み込む※ことは、なんとなく実感として納得※※できる。そのスローの究極として、景色が静止画になる(=時間が止まる)イメージもすんなり受け入れられる。
※のろい動きと心の弱まりを結びつけた歌の例で、いまパッと思いつくのはこの歌。
かたつむり枝を這ひゐる雨の日はわがこころ神のごとくに弱き(前川佐美雄)
あ、またカタツムリ! さっきも別の歌のところでカタツムリを幻視した。
カタツムリと観覧車は、直ではないが、間接的に縁があるみたいだ。
※※心身の疲労時や鬱傾向のときは、自分だけ時間が停滞し、朝やるべきことをやっと夕方に、
今日済ませるべきことが明後日に、というふうになるのはよくあること。
7 闇の彼方に観覧車青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり
佐藤通雅『予感』
◆天地シンクロ
夜に灯る遠い観覧車は、星が丸く集まったように見える。それがふと天界にある遊園地のように思われた、のだろう。
最初、死の後も人のタマシイは「遊園地」を必要とする、という、人間の本質のようなものを洞察する歌かしら、と考えそうになったが、だんだん、それは考えすぎに思えてきた。
「死者が、星になって地上を見守る」という伝承があるけれど、この空想には、「地上の生者が、天の星になった死者を思って天を仰ぐ」という鏡のような心情がセットになっている。これも、さきに書いた素朴な投影シンクロに通ずると思う。
そして、このようなシンクロ的空想は、理屈でなく、お供えもののように優しく詠み出だされるのではないか、と思う。
【メモ:なんだかメメント・モリ】
ここで脱線的に、なんとなく、「観覧車はどこかメメント・モリっぽい」と思いついてしまった。
頭蓋骨がシンボルのメメント・モリは、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というイマシメなのだが、時代によって意味合いが「だから今を楽しめ」だったり「だから現世の楽しみや贅沢は虚しい」だったりする。
「観覧車」はイマシメではない。が、概念を語るときの材料が似ているし、切実ではかない現世の希求のようなものを思い出させる。観覧車とメメントモリはカレーとハヤシぐらいに近縁のものだと思う。
8 まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に観覧車点れり
魚村晋太郎『銀耳』
これはまた、……「悪意のごとき等距離」とは何だろうか。
遠目に見る観覧車。ゴンドラの照明が等間隔で円形に点っている。ーーそこに「悪意」を感じ取っているようだが……。
解釈は人それぞれだが、その円形に灯る光を「悪意のごとき」と感じたのなら、もしかして、ガトリング砲の丸く並んだ銃口みたいなものをイメージしたのかな、と思った。
夕空はブルーとオレンジが変に混じり合うときがある。その少し気味の悪い空を背景にすると、建物やクレーンなど、巨大なものが怪獣みたいに見えることがある。
観覧車もそんなふうに、こちらにロックオンした銃口のような瞳、を思わせることがあるだろう。
ーーいや、現実が先行するとは限らない。私は、この歌を読んではじめてそのイメージがまざまざと思い浮かんだのであり、今後、もし夕空を背にした観覧車の明かりを見たら、これを思い浮かべるだろう、とも思う。
「傾いた夕空」は、陳腐なポエム的軽さが漂いそうなフレーズだが、この歌の中では、実際には傾くはずのない空が、悪意の観覧車の傾きといっしょに傾いてしまっているかのように、言葉どおりの重みを備え得ていると思う。
9 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて
久野はすみ『シネマ・ルナティック』
一読、この歌には、字数の数倍の情報が込められている、と感じた。
まずは「ゆうぐれのじゃんけんのごとく」。
ここには、じゃんけんの手元がすこし暗くなり、遊ぶ熱意にも影がさしてくる頃合いの、あの儚さが漂っている。
そこへ下の句の「観覧車」という文字が目に入るや、無意識領域の視覚効果が発動する。
ーーーじゃんけんの手、観覧車はやや形状が重なりやすい。重なる、と意識するほどではなく、歌を読んだままに思い浮かべれば、なんとなく勝手に重なる程度だ。それが、途中の「消えゆけり」の効果で、消えかかる大花火のイメージを呼びそうになるのだが、あくまで無意識化の効果、隠し味である。
(これは、視覚的に思い浮かべないタイプの読者には効かない術だけれど。)
結句の「その役目を終えて」は、観覧車が一日の役目を終える、というより少し意味が大きいような感じがして、その遊園地は閉園するのかなと、考えそうになる。このときも、消える花火を思い浮かべそうになった無意識の淡い残像が、効果を付加していると思う。
「観覧車が一日の役目を終える」から「遊園地が閉園する」へと思考が進むと、その延長線上に「観覧車が人類を喜ばせることの終わり=人類の終末」が見えてくる。歌にはそこまで書いてないが、「観覧車」はそういう連想脈を備えている。
10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大観覧車
神崎ハルミ(伊波虎英)『観覧車日和』(私家版)作者HP
◆ガラガラポン
あ、福引のガラガラポン※だ。そういえば観覧車に似てる。
※本当は「抽選器」という名称だそうです。
こうした類似の発見はただそれだけで楽しい。
無関係なものの形状の一致。視覚的だじゃれ。
だじゃれは普通、無関係の言葉の音の偶然の一致を楽しむもので、その楽しさには少し神秘性があると思う。言葉でなく、形状など視覚的な偶然の一致にも、だじゃれ的な楽しさと神秘が宿る。
「金色の玉でるまでを回りつづける」という、それが宿命であるかのような言い回しから、人類の尽きることなき希求が観覧車を発明したような、そしてそれはきりもなくただ回され続けるような、そういった空想へといつのまにか促される。
別の歌のところでも述べたが、短歌に詠まれる「観覧車」は、人類の尽きることなき希求の象徴のように使われる傾向があるようだ。
この歌では、「特等の金色の玉」という出るはずのないものを求めて、永遠に回されるのだろう、という意味が読み取れる。
11 銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
松木秀『色の濃い川』
◆誰のものでもない・誰の手にも負えない
観覧車の形はいろいろに見立てられる。さっきの歌では福引のガラガラポン(抽選器)だったが、この歌の「銀河」はおそらく最大級だろう。
「観覧車」のイメージのなかには、〝神のみわざ〟的な神秘性がひそんでいる気がする。さっきの「抽選器」、また、別の歌のところに書いた「メメント・モリ」への連想も、人間を超越している。
だから、「銀河とは誰の観覧車であろう」という問いに、「強いて言えば神かな」と答えそうになるわけだが、銀河は深く渦まいていて、神どころか何を問うても答えがなさそうな、虚無を覗き込む感がある。
なんとなく逆転的に、観覧車は銀河を模したおもちゃであるかのように思えてくる、というおまけもある。
12 遠くても観覧車だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬
北久保まりこ『音楽がおわる時』
◆支配し監視する
出口のない冬のような状況で、遠くあこがれを抱き続ける、という意味だろうか?
最初はそう思ったのだが、ニ度読んで考え直した。この歌のどこかに、見た目以上の強い絶望的な閉塞感がある。「街は観覧車の支配下にある」と言っている気がする。
この観覧車は、遠くからでも「ぼくら」を支配している。ーーというか、この観覧車が見える範囲が「ぼくらの街」なんじゃないかしら?
「ふるさとの山」など、高さのあるものや巨大なものを見ながら育てば、帰属意識が生じる。必ずしも実際に目にしなくてもいい。たとえば、富士山。日本人は(個人差はあるものの)、富士山が象徴する何かに淡い帰属意識を抱いている。
※ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木
ただし、この歌の文脈における「観覧車」には、「富士山」や「ふるさとの山」のような精神的な支えになるようなありがたみが感じられず、収容所の監視塔を思わせる抗えないニュアンスが、10%ぐらいぼかし込んであると思う。
なお、結句の「了らない」という表記は、「終わらない」に比べると、「決着がつかない」というニュアンスが強くて、この歌の重要な要素のひとつであると思う。
13 観覧車のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
ルビ:分解【ばら】
光森裕樹『うづまき管だより』
「コーヒーミル」にある「観覧車のやうなる部品」というと、ぐるぐるハンドルが轢き潰しの歯車につながっているような部品だろうか。
(これって「その部品が余ったらぜんぜんコーヒーミルになってないじゃんか」とツッコミを入れるべきなのか?)
この歌、「観覧車のやうなる部品」とカタチから入り、机の上に散らばる部品や組み立て手作業を目に浮かばせること、もうそれだけで、読む側には満足感がある、と思う。
多くの歌は心情的シナリオを芯にするが、この歌には、「心情」というほどの心情的イキサツを探す必要はなさそうだ。
そのかわり、静かな情熱がある。細かい手作業に集中し……、失敗に気付いて軽く落胆し、そしてまた集中……、みたいな、手作業特有の、純粋で持続的な静かな情熱が。
(だから歌の鑑賞も、心情抜きで、「観覧車」というものが、観念の部品として脳に届き、
そこから読み手の解釈・鑑賞という細かい作業として取り組める。)
以下、この歌のオマケ要素を考察。
何かを分解したり組み立てたり、それをやりなおしたり、という行為には、ほんのり〝神〟の気分があると言える。
余った部品を「観覧車」みたいだと思ったその一瞬、作業者の神気分は増幅する。
「コーヒーミル」だったものを組み立てなおす作業はふと、むかし滅びた人類の文明のミニチュアを組み立てるような気分なのかも。ーーそういうことをチラッと考えさせるのが、この歌のオマケ要素である。
14 観覧車の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ
吉田竜宇『ロックン・エンド・ロール』
◆走馬灯というか輪廻というか
「なんどもする同じこと」って何だろう?
最初は、観覧車のゴンドラの中で何度もキスしよう、といった軽い意味に思えたが、その程度のことだけなら、こういう言い回しはしないだろう、と考え直した。
おもしろいと思うのは、「楕円の影にかこまれて」が、八方からスポットライトをあてられている状態に似ていて、しかもこの歌では、それがライトでなく、「影」であることだ。
ーー光を浴びることの対極として、影を浴び、影に消される状態、というものを想像してみる。ーーそういう状態にあてはまることもあるような気がする。
もうひとつ、「観覧車の楕円の影にかこまれる」という言い回しには、「観覧車が醸し出す娯楽愉楽の誘惑から逃れられない」的なニュアンスも感じらる。
また、観覧車が回るものであることから、〝回る影〟という連想が派生し、わずかだが「走馬灯」への連想脈が生じそうになる。観覧車の形をした走馬灯……。
回るということからはさらに、「輪廻」への連想脈も生じ得る。観覧車の形をした輪廻……。
思い浮かべるものは人それぞれかだろう。私は、こういう〝連想の可能性〟を混ぜ合わせ、人々の人生の「観覧車」の影に囲まれ、それを影踏みのようにいくつも、踏み越えたり乗り換えたりしていくさまを見る気がした。
末尾の「しようよ」の微妙な肯定と誘い。含まれる自虐や皮肉の分量はちょっと測りかねるけれども、これは「丘を越えゆこうよ」という唱歌のノリじゃないかと思う。
「いろんな生き方に囲まれつつ、生まれてから死ぬまでを生きる、というおんなじことを、何度でもくりかえしていこうよ」
というような意味合いで読み取った。
15 無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり
鶴田伊津『百年の眠り』
最初、「一人きり+観覧車」という言葉の組み合わせから、なんとなくドラマ的な想像を促された。(ドラマでは二人で観覧車に乗るのが定番の絵ではないか?)
例えば、
「約束していた相手が来なくて(=振られた)、他人の気持ちは自由にできないと痛感し、その学びを心にきざむため、あえて、二人で乗るはずだった観覧車に一人で乗った」的なシナリオか。
いや振られたとかじゃなくても、「何かの対人的な問題に悩んで、あえて観覧車のゴンドラという地上を離れた個室に乗り込み、一人で「無力」をかみしめる」的なシナリオもありえる。
しかし、こういう〝ありがちなストーリー〟による解釈では読み砕けない要素がこの歌にはある気がする。
そもそも、「ドラマ読み」という解釈法を、私は〝要注意〟と位置づけている。
「ドラマ読み」は、その場面の前後にありがちないきさつを補うものだが、そういう形の推理は、有効な場合もあるが弊害も大きい。ーー変な喩えだが、短歌は、殺人事件の現場に似ている。現場のわずかな手がかりや印象から「これは痴情のもつれ」などと早々に決めつけると誤認逮捕をやらかしてしまう。
(ただし、「ドラマ読み」こそが妥当な読み方である場合もある。意図してドラマ性を生かすように歌が作られている場合とか。)
だからドラマを消し、言葉からニュートラルに推理できる要素のみで解釈を再構築してみる。
「無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり」という言葉を、シナリオ抜きに眺める。……すると、「あ、月みたいだな」と思った。
「空をよぎる」というフレーズは、半円の軌跡を思い浮かべさせる。それは、ちょっと「月」みたいだし、観覧車という乗り物は、ひとたび乗ったら自由に乗り降りできず、空の高みに吊り下げられ、下界を見るだけである点も「月」っぽい。この歌の「無力」は、そういう「月」っぽい「無力」じゃないだろうか。
書いてないいきさつは知りようがなく考えても無駄。それがなくても、この孤独な「無力」感を純粋に感受すれば十分だと思う。
16 観覧車まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり
工藤玲音『水中で口笛』
さっきの歌のところで、「ドラマ読みは要注意」的なことを書いた。
しかし、この歌は、「観覧車+ふたり」それも、いかにも最終回みたいな雰囲気。このあからさまなドラマっぽさは、むしろこのドラマ性を生かして読んでくれ、というサインだと思うので、身を委ねて読もう。
ーーひと夏の恋が終わる。それぞれの放棄できない持ち場(戦場のような)に戻る。ーー
「ドラマ読み」のいちばんの利点は、読者が無意識に、テレビや映画を見た映像のレトリックをあてはめて、複雑な視覚効果をかんたんに享受できる、ということだ。
「まるく晩夏を切り取る」ーー昔の写真アルバムの、丸やハートに切り抜いて写真をコラージュしたページを思い浮かべさせる。ーー思い出を観覧車の丸い輪郭で切りとる。ーーその写真を貼ったアルバム、ーーを閉じる映像。これが時の経過をあらわし、〝思い出化〟とその〝圧縮〟ができてしまう。
・ふたりで観覧車に乗っている。(ふたりだけで過ごしたひと夏を象徴する)
・カメラが後ろに引いて、その思い出の観覧車を遠くから見ている二人の後ろ姿。
・その写真の貼られたアルバムが開かれる。
・年月を経てその記憶はひもとかれる。
というふうに、「ドラマ読み」に身を任せれば、場面がつぎつぎ重なっていく。
また、「観覧車」が「まるく晩夏を切り取る」は、夕空を背景に観覧車がシルエットになる絵としての効果もある。ーーどこにも「夕空」と書いてなくて、リクツでは日中でもいいが、視覚的には夕空が最適だろう。読者の視点は後ろに引いて、二人の後ろ姿はしだいに遠く、そして小さなシルエットになっていく。
「まるく晩夏を切り取る」は、最初「観覧車」の映像であったものが、落日の赤くて丸い太陽とも重なって、しだいに太陽になってしまう、というような、思いっきりドラマ映像的な効果もあると思う。
17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく観覧車
二三川練『惑星ジンタ』2018
◆抒情的で美しい〝ぼやき〟&神仏の崩御っぽい厳かさ
「心さえ無かったならば」は何を言おうとしているのか。
錆びる大きな観覧車の姿があまりにも無惨。そこから、
「もしも『いっときの愉楽と知りつつも求めずにいられぬ人の心』というものがなかったら、遊園地は存在せず、こんな無惨がさらされることもなかっただろう。」
というふうに感じているのではないだろうか。
これは、世の中に桜がなければ春はのんびり過ごせるだろうに、というあの有名な歌と論法が似ていて、美しい抒情的な〝ぼやき〟である。
それに加えて、神仏の崩御っぽい厳かさが漂っていることにも注目。
「閉園のしずかに……」のくだりは、観覧車がすこーし「目」に似ているせいか、「閉眼する」「瞑目する」という厳かなイメージになり、錆びて朽ちていく観覧車のさまが、神仏の崩御みたいに思い浮かぶ人もけっこういると思われる。
18 吾という六十兆個の細胞を観覧車に乗せのぼりゆくなり
大滝和子『銀河を産んだように』
◆細胞レベルのリフレッシュ
「自分」というものを、細胞の塊である物体として強く意識している。
観覧車は地上を離れて高みにのぼるもの。この歌では、自分の身体を総合する感覚が細胞レベルにまで初期化され、その描写によって「上昇」の迫力を描写している。
「上昇」によって心身の感覚が平常と変わり、体感として強く意識されるかもしれず、「細胞」を意識することもあるか、という説得力(あくまでイメージのなかで)があると思う。
なお、「のぼりゆくなり」は単なる叙述に見えるが、一寸法師の歌の「京へはるばるのぼりゆく」とか、鯉の滝登りとか、力強い文脈で使われることが多くないだろうか。そういう勇ましさをそれとなく感じさせるフレーズである。
この効果で、上昇感覚は人によっては恐ろしいかもしれないものだが、この歌では、細胞レベルのリフレッシュとして描き得ているのだ。
19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
◆ヒトとモノの区別を超越する
「君は……」と振りかぶるこの言い回し。内容もさることながら、この振りかぶり方が、まずは歌の重要なコンセプトだと思う。
とにかく、「君」の本質が透けて見えるかのような臨場感がものすごい。
「君」の本質は、「観覧車のような人」(美しい胸の中に秘めた機械で駆動する、精密な大じかけで、人々を魅了するような人)であるのだろうか。
いやまて、「君」は、胸に精密な機械を秘めた「人のような観覧車」かもしれない。そんなふうに、人物またはモノの存在感にうたれた瞬間らしい臨場感がある。
私は、次の2点に注目した。
①「観覧車のような人」/「人のような観覧車」どちらともとれる
これによって、単なる比喩的な擬人化と一線を画し、「観覧車のような人/人のような観覧車」という生き物か否かを最初に区別するようなふだんの視点をなんなく越える。人は人の枠を超え、モノはモノの枠を超え、存在の特徴を理解する場に読者を立たせる。そこはもはや、人間観覧車/観覧車人間などという呼び方でさえ、余計な区別の残滓と感じるような地点である。
よく見かける短歌の批評鑑賞用語に「擬人化」というものがある。それを使う批評文のなかには、「擬人化」したから何なの? と聞き返したいような文章もある。「擬人化」の効果を語らなければ評にならない。
擬人化その他の「比喩」的表現には、大雑把にとらえるとだいなしになるような繊細複雑な用法がある。とくに、この歌のように2つのものを重ねて区別を超越するケースを、乱暴に「擬人化」と呼ぶのはいただけない。
②表現という行為の愛というか独占欲というか、がほとばしる
「君=観覧車/観覧車=君」が「胸にしまってある機械で駆動する」という絵も、語感も字面も、すべてがすごい大迫力である。
ところで、花を見て「あらきれい」とスマホで撮影する。(さらにはインスタにアップするとか。)ーーこの行為には、対象への親しみや愛があって、支配・独占は言い過ぎだが、対象を「自分のものにしよう」という素直な意図がある。
対象に何かしらの感動を覚えて、思わず言葉なり何なりで表現をする行為も、思わず花を撮影することに似ているし、この歌のようにいきなり本質を見て言い当ててしまうことは、非常に強いアプローチだと思う。
たとえば古代の人は、みだりに名前を教えなかった。名を知られると自分の魂を取られ相手に支配されると思っていたからだ。(逆に、恋人に名を告げることは相手を受け入れることを意味した。
この歌のように〝対象の本質を見抜くような表現〟は、〝名前を言い当てる〟ことに似て、すごく大胆な(相手の受け止め方によっては強引な)求愛ではないだろうか。
「君は……」と振りかぶり、「観覧車のような人/人のような観覧車」という在りかたを看破し、そう知ったことの喜びをほとばしらせている。
これは、いきなりプロポーズぐらいの迫り方である。(念のために言うが、「君」という人間の誰かへのプロポーズではない。) 表現者として、表現対象との関わりがドラマチックだという意味だ。表現方法・言葉のしぐさが、クライマックスであり、究極のものなのである。
20 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
栗木京子『水惑星』
いわゆる「イメージの飛躍」、特にいわゆる「詩的飛躍」という現象では、なんらかの特別なつながりが生じていると思う。つながりが見えないから「飛躍」と呼ぶのだろうが、そこには見えない〝赤い糸〟が生じているはず、と仮定して、それを可視化したい、というのが、私(歌読み>歌詠み)のこだわりである。
※〝赤い糸〟=別々の物事を飛躍しつつ強く結びつけるなんらかの縁。アナロジー、アレゴリー、メタファーその他、言葉の表現は赤い糸だらけだと思う。
その〝赤い糸〟の結びつきは往々にして複雑だ。ときには、風が吹くと桶屋が儲かるぐらいの紆余曲折もありえて、さっぱりお手上げのこともある。上記20首は、〝赤い糸〟が私にとって比較的見つけやすいものを選んだ。
外見の類似
さて、飛躍したイメージを結ぶ〝赤い糸〟として、もっとも多く、わかりやすいのは、「外見や形が似ている」というものだろう。全く別のものどうしで形が似ていれば、視覚的には無理なく重なるため、意味の上でのかなりの飛躍に耐えられる。
じゃあ「観覧車」に外見や形が似ているものって何だろう?
実作を見る前には次の5つを予想していた。
瞳、花火、向日葵、扇風機、地球儀
はたして、蓋をあけてみたら、予想どおりのものがあったりなかったり、そして予想できなかったものもあった。
歌にそう書いてあるもの、直接的には書かずに暗示されているもの、読んだとき私が勝手に幻視したものを含め、
銀河、福引のガラガラ、ガトリングの銃口みたいなもの、コーヒーミルの部品、かたつむり
は、予想していなかった。
観念などの類似・連想
必ずしも視覚的類似ではなく、体感や状況のアナロジーや観念のアナロジーで生じる〝赤い糸〟もあった。
空に沈む、という水中に似た体感。
高い夜空をゆっくり通過することと「月」の孤独、みたいなもの。
また、「観覧車」は、人工の遊興設備だから、現世ですごす時を愉楽で満たすものという、観念上の了解を共有しやすいとも思える。そこから、「廃園」の荒涼感などを飛び石に、滅んだ人類の夢の跡、みたいな終末感へと至るのも、比較的見つけやすい〝赤い糸〟だった。
ドラマ性と映像のレトリック
「観覧車+人がふたり」はドラマ的な連想を喚起する、といったことは、既存の〝赤い糸〟である。それらをうまく組み合わせて引き寄せることで、ドラマ等を見て刷り込み済みの映像のレトリックを喚起し、本来ならなかなか飛べない飛距離を出すこともあるようだ。
さいごに
どうでもいいことかもしれないが、当初私が観覧車に視覚的アナロジーがあると思ったもののうち、ひまわり、扇風機、地球儀に見立てた歌は見当たらなかった。
カタチはかなり似てると思えるのに、イメージの世界では結びつきにくいのだろうか。
だとしたらなぜだろう。単に、まだ類似に気づいていないだけか?
2025・1・20
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
馬の字は馬に似て見え牛の字は牛と見え来る文字のフシギ
ルビ:文字【もんじ】
奥村晃作
文字の形はときどき何かに似て見える。逆に、何かが文字に似ていると思うこともある。
そりゃあ象形文字だから、似ていて当たり前、という場合もあるが、意味などに全く無関係に似ていると感じる場合もあって、それを歌に詠むということがけっこうある。
「無関係なものに類似点を見出して、そこになんらかの意味、情趣などを見出す」というのは、人間特有の能力であり、思考の娯楽のようなものではないだろうか。
無関係なものどうしが似ている、というのは、おもしろいし、少し神秘的である。
同音異義語なら「だじゃれ」、人ならば他人の空似。文字の形なども、だじゃれのような、空似のようなおもしろさや神秘を感じさせると思う。
砂浜に残る足跡 その全てがもしももしもという字に見える
土居文恵「かばん」202410
文字盤の数字は虫に見えるけど おはようわたし おそらく朝だ
兵庫ユカ 『七月の心臓』
戀という字を分析すれば 糸し糸しと言う心
妾という字を分析すれば 家に波風立つ女
文字を分解するなどして意味を見出し、暗記や字謎のために七五調にまとめる、ということがある。上記のようなものとしては「櫻」は「木の横の二階(二貝)の下に女かな」と覚える。(「桜」なら「木の横に三本角の女かな」と覚えればいい。)
上記の例ほど厳密ではないが、文字分解を含む歌はけっこうある。
閂の門の真ん中一の字にぶらさがってまずは懸垂
久保芳美『金襴緞子』
零の字が雨かんむりであることの火葬場の上へふりそそぐもの
松木秀『RERA』
大の字に一加うれば日曜にほうけ居眠る夫となるらん
小高賢『三十一文字のパレット』より
夜の虹のかがやきわたる草のうへ文字に還るうつしみわれは
ルビ:夜【よ】 文字【もんじ】
水原紫苑『客人』
■その他の文字ネタ
蟲の字がほどけてゆくまでマブシイをしばらく感じているのはいいこと
杉山モナミ 「かばん」2016・4
美しいといふ字のかきだしはひだりうへからそれもそつとそつと
平井弘『遣らず』2021
※この歌、解釈はいろいろあると思うが、私は、うっすら人をなぶるところを連想しそうになる。
考えすぎなんだろうが、「美」という字は「人」がいて、縛られているようだ。
「ひだりうえからそっと」というのも、これまた余計な深読みだろうが、ひらがなのせいもあって、スローモーションで殴るような感じがしなくもない。
■俳句川柳
俳句
雪の朝二の字二の字の下駄のあと 田捨女
さおしかのしの字に寝たる小春哉 小林一茶
「母」の字に最も近きが「舟」よ月明 折笠美秋『北里仰臥滴々/呼辭記』
靴下がくの字に吊られクリスマス 阿波野青畝(出典調査中)
川柳
子が出来て川の字形に寝る夫婦 古川柳
鬱の字を縞馬のむれ通過中 倉本朝世
2025・6月追加
漆黒の巳の字がねむる人々の足跡ぎゅっと犇めくなかに
白糸雅樹「かばん」2025・5
減るの字と滅びるは似て口ならば減るし火なら滅びるだけだ
松木秀『Easy Livin’』
横棒は小骨だろうか罪という文字はホッケのひらきに似てる
松木秀『Easy Livin’』
むむむ、横棒といえば、私のこの歌も置かせてもらっていいだろうか。
横棒を増やして春は胸という胸に摑みかかってくる
高柳蕗子 「かばん」2014・01(私家版『未来の福耳』)
2025年12月3日追加
うがいして仰ぐ天井蜘蛛の子は∑【シグマ】の形してそこにいる
小島なお『展開図』
老猫の50ヘルツのゴロゴロと雨の匂いを瓶詰めにする
たけしたまさこ
魔女が魔法の材料をストックしておくような感じの記述がおもしろいと思った。「平成の空気缶」(2019年発売)みたいに、見えない中身を空想するアイテム。
缶詰じゃなくて瓶詰めだし、雨の匂いも入っているなら、透明なスノードームみたいなものも想像した。なぜそういうものをストックしておくのかなど、何かもう一つそれとなくの示唆があっても、とも思った。
追憶はあまりにあわく野にありて羽ばたいていたかつての日々の
坂井亮
進化の過程で人間に依存して生きることになった「蚕」という種を詠む一連。
この歌の「追憶はあまりにあわく」は、進化の系統樹を遡る「追憶」であって、個体のそれではない。「野にありて羽ばたいていた」種としての記憶は、遺伝子のどこかにあるかなきか、というところまで薄れてしまった。このことを美しく抒情的に表している。
たはやすく苺は燃える 順番に来る一億人の誕生日
松澤もる
果物には生身(なまみ)感もあって、形状によるが特に「頭」への連想脈がある。(例えば岡本綺堂の小説『西瓜』では、西瓜と生首が入れ替わる。)そのため果物は、生体の脆弱さを暗示し得る。多少関連して、果物には「爆弾」への連想脈も淡くあって、そこから〈生身の爆発物〉というイメージ展開もあり得る。
ただし、この歌は苺を詠んでいて、苺の形状のアフォーダンスは、爆発物より炎を思わせる。そこからイメージは、誕生日ケーキのろうそくに飛び、ろうそくといえば命……と、転じながら繋がっていき、読む側はそれを追いかけながら了解する。その感じもおもしろい。
この一連では果物の〈生身の爆発物〉というアフォーダンスの投影先を、人の生身の体でなく、人間の社会の一触即発の状況へと変更している面もあると思う。
緩やかな疲れ私を覆う頃星と星とがキスをしていた
千春
一日の仕事で自分が疲れに覆われるころ、頭上に星がたのしげにきらめく美しい夜になる、という歌だと思った。天地の層がケーキみたいだ。
ただ、読み直してみて、二首前に「あなたは星の神様」というフレーズがあることに気づいた。あなたが星なら、すごく違う解釈も可能だが、いずれにしてもきれいな歌だから、どちらでもいい。
世界で一番白に近いという紙の名刺を渡す白とは何か
田中赫
経験則として、「何」と安易に問いかける歌は薄味の謎にしかならない、と思ってはいるが、この歌はその薄まり感がなくてちょっと味わいがある。
「世界で一番白に近いという紙の名刺」はうまいキャッチコピーで、突っ込みの入れ方を考えさせる程よい刺激を含んでいる。脳内でさまざまなリアクションが起こり得るわけだが、「白とは何か」という応じ方にはわずかにズレがある。脱線まではしないが、脳内の線路の分岐器がふと作動しちゃって禅問答みたいな路線にガタンと移る、その微妙な体感(体感ではないが似たもの)があっておもしろい。
いまパリのオリンピック開催中。さして興味のない私でも、小柄な日本選手が勝つとあっぱれと思う。
この歌の「白人年配女性客」はきっと大柄で貫禄があるんだろう。なぜなら漢字7文字で「はくじんねんぱいじょせいきゃく」とすごく音数を使い、かたや「日本の女」は4文字で「にほんのおんな」なら七音。ルビのほうも「ジャパニーズレディ」で8音。つまり文字数のアフォーダンスで体格を伝えてきている。客あしらいの上手い小柄なスナックママを少し誇りながら見守る常連男性客。そんな視線が読み取れる。
チューリップ夜にはすぼみ昼ひらく春は花びら蕊天を刺す
江草義勝
植物は足で移動はしないけれど、積極性・能動性はある。この歌ではチューリップのそんな自然な営みを詠んでいる。
かすかに性的なニュアンスがあるけれど、それは人間の空想しがちな淫靡なイメージではぜんぜんない。そもそも花というものが植物の生殖器なのだから、性的なのは当前であり、とても健康的なさまである。
一連は上野公園のことを詠んでいるようなので、この歌は動物園での感想なのだと思うが、不思議な空間把握に注目した。
母の胎にはたくさんの出口があって、すべて此の世に開いている。みんなもともと母の胎という同じ場所にいたのだが、それぞれ別の出口から生まれ、ここでこうしてばったり出会っている。ーーそういう図として面白かった。
山道はいつか夕暮れ遠茜行きあう人はみな影がない
松本遊
「いつか夕暮れ遠茜」は童謡にしたいようなノリの良さ。そして、「みな影がない」には、「とおりゃんせ」の「行きは良い良い帰りは」的な怖さも漂う。
昼と夜の境目である夕暮れは、自分はもとのまま周囲が異世界になるような恐ろしさがある。そして、浮足立って帰路を急いだり、夜に向けてくり出したり、幽かな活気のようなものもある。
「行きあう人はみな」は、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」を遠くこだまさせ、総合してファンタジックな美しさを秘めた歌だと思う。
(それとも「案外事実」というやつだったりして。もしかして山道には実際に影がなくなる時間帯があったりします?)
邸宅の窓といふ窓見上げてゐたり滝の途中のポケットパーク
笠井烏子
ポケットパークとはチョッキのポケットみたいに小さい公園のこと。邸宅の窓をそれに見立てる明るい感性に惹かれた。たくさんポケットのある巨人の胸を光が滝のように流れ落ちるような邸宅を見上げる。そういうアングルだと思う。
このほか「理論武装もままならず狐に走る稲荷寿司つくつては窓際の席」という歌の心理的ドタバタ感も捨てがたい。凝縮度が高いのは「狐に走る」だ。「私欲に走る」等ある状況へ急激に傾くことを表す言い回しだろう。理論では勝てない何かを狐的に化かす作戦、のつもりがなぜか稲荷寿司に転じ、窓際の席に退避。そういうトホホ的な流れか。
舌出せば針を千本のまされて達磨拳万、鬼一匁
浅香由美子
「舌出せば針を千本のまされ」という、地獄でもランクの高そうな拷問もさりながら、下の句「達磨拳万、鬼一匁」に惹かれた。これは造語だろうか。意味不明だが、諺などから切り取った「達磨・拳万・鬼・一匁」が混じりあって生成されたものか? その生成の迫力はいかなる意味にも勝る気がした。
七首目に「妄執は抗えぬもの通過する電車に吾の亡霊を見ゆ」があり、裡に秘めた、妖怪のようにおどろおどろしい妄執がテーマであるらしいとわかる。一連には和風の妖怪ドラマふうの絵になる歌が並び、一見して植物が多く(山荷葉、白き大藤、蛇苺、赤き曼珠沙華、白き蓮)、それが赤と白である。その配色にも何か寓意がありそうだ。三宮またなくあはれなるものは薄暮浜風はるかなる月
佐藤元紀
「源氏物語」はほぼ忘れたので、内容的には多くを読みもらしていると思うが、景色のよい場所、失意の男性、酒、恋人らしい女性、という取り合わせの王朝風のファンタジーとして味わうことはできる。
この雰囲気を支える要素のひとつに音喩がある。掲出歌では同音の畳み掛け(継起的音喩というらしい)がそれとなく打楽器的な役割をしている。
「は」音が、上の句に一度目立たずに鳴り、下の句は「薄暮浜風はるかなる月」と「は」のつく語で3回畳み掛ける。しかも、その語の音数が3・4・7(はくぼ・はまかぜ・はるかなるつき)と増大してリズムを刻み、情感をクレッシェンドしていく。他の歌にも継起的音喩が駆使されていて、それぞれに異なるリズムにいわば作曲されていると思った。
一人暮らしの部屋の机や椅子などの家具の埃を拭き取っている
来栖啓斗
最初、それがどうしたと思いそうになったが、机や椅の埃を拭き取るだけ、ということは、ごしごし拭きとるような汚れがないということだ。
それはつまり、人が使わないということ、そして「机や椅子」は実用品でなく、そう、まるで置物の美術品みたいなものであることを示唆する。「一人暮らし」の静まり返った空気感までも、質感として描き出されていると思う。
でたらめにパズルの数字をうめていく論理のかけらもない気高さで
森野ひじき
気高さと愚かさには接点があるかもしれない。思考することを拒否してパズルをでたらめに埋める。――愚かさのせいでそうすることもあるが、無敵の無垢という気高さも、けっこう破壊的かもわからない。
今どき、「罪のない者だけが石を投げよ」と言えば、「わーい、私には罪なんかないから石投げまーす」みたいな人が押し寄せ、石を握りしめて行儀よく行列をつくりそう。
なまくらな包丁を研ぐよみがえれよみがえれよと指押し当てて
大池アザミ
「よみがえれよみがえれよ」のところ、なんだか人工呼吸みたいな真剣さ感じられるリフレインだ。
一連には、無聊の日々を思わせる歌(「三食をきちんと食べるだけの人で過ごした今日がもうすぐ終わる」等)もあり、包丁研ぎのついでに、なまくらになった自分を蘇らせたい、という気持ちも読み取れる。
ベランダに立って僕らを見下ろしている人の腰まで伸びた髪
土井礼一郎
読みながらふと、「親という字は木の上に立って見る、と覚えたっけ」と、余計なことを連想したが、あながち外れでもないだろう。実際、マンションの中庭で遊ぶ子をベランダから見おろす親の私はひとりだったことがあるし、髪はロングだし。
ただ、「見下ろす」という行為のどこかから、妖異化、永遠化(そんな言葉あったかな)に導く細い糸がでているような……。そして、見上げる側からも、高いところの人はふだんと違って見える。西洋の古い建造物の高いところから街を見下ろす彫刻みたいに、やはり少し妖異化、永遠化しないだろうか。その僅かな感覚が増幅されていると感じた。
父さんの家は母さんの家になりいつ行っても夜みたいに静かだ
小川ちとせ
「父さん」は何らかの事情(他界とか離婚とか)でいなくなり、それまで「父さんの家」と呼んでいた実家を、「母さんの家」と呼ぶようになる。
成人した子どもの側のそうした意識の変化を、この字数で無理なく伝えている。「夜みたいに静か」というのも、実家が活気をなくしたことへの喪失感と、そこに暮らす母を案ずる子の立場の心情で、それが説明抜きでわかる。
春は行き決まった答えを持っていないものばっかりが光って見える
生田亜々子
これは、春という準備期間が終わって、それが整わなかったものたちだろうか。注目したのは、そういうもの「ばっかりが光って見える」という把握だ。
「光」は圧倒的に良いイメージで詠まれるが、悲しい光りかた、虚しい光りかたも表現できる。
一般的に、「答えを持っていない」のは輝けない状況と思われるが、「決まった答え」を得た者たちは早々に去り、あとに残ったものが、散らばったガラスのかけらみたいに、痛々しく光っているのかな、と思った。
山手線の高架の影を踏みながら日暮里田端の路地裏を行く
悠山
一連全体は、山歩きの歌のような趣きのある文体で、散策中の街を目がとらえて描く臨場感がある。
だがその一方、脳内で何か思念の底流にあるものを心が辿ってもいるかのようで、(散策とはそういうものかもしれないが、)それゆえの白昼夢的なテイストも少し混じり、隠し味的にそっと効いているみたいだ。、
初夏の町屋小暗き土間の奥岐阜提灯の蒼く灯れる
入谷いずみ
昔合戦のあった地を旅している途中で見た提灯。土間の奥の暗がりに灯る青い炎は神秘的である。
時空を超えて灯り続ける歴史そのものの魂を見た気がしたのかもしれない。漢字の続く歌のなかで、三回の「の」のところは暖簾を分けて進む心地がして、そうした構造も歌の内容にマッチしている。
臍のしたに七米もの腸がゐるとてもとつてもおとなしいのよ
久保茂樹
「脳みそとはらわた」と題された一連は、「仔ひつじの茹で脳みそ」を食べて、その脳みそが消化管を下っていく過程を詠んでいる。 掲出歌には「脳みそ」と書いてないが、作者の意図としては「脳みそ」が腸に到達した感触を詠んでいるのだろう。
消化管の紆余曲折は、川下り的なアトラクションめいている。「腸がいる」の「いる」が効いて、生きた大蛇の身の中を川下りするみたいだと一瞬思う。内臓というものはなんとなく気心知れない。「おとなしい」はずが、急に暴れ出すかも、などと波乱も予感される。
さみどりは緑雨のたびに深くなる私はここで何をしている
Akira
この一連の歌は、ひとつひとつ、何か応答みたいなフレーズを求めているな、という感じを受けた。
何か添えたい……。それはたとえば「我が身一つはもとの身にして」みたいなフレーズだが、なんだろう、と考えながら読み進んだら、最後にこの歌があった。
私はここで何をしている。
これか、これだったか、と納得した。
賛成をしないくらいで恨まれるだから水田になるんだよ
藤本玲未
賛成をしないくらいで恨まれるような窮屈な状態の集団だから、水田みたいな状況になるんだよ、という歌だろう、と思う。読むうちに、稲が同じぐらいの高さに育ってひしめいて、稲たちが少し頭を下げ気味の元気のない挙手をしている水田の映像が思い浮かんでくる。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は美徳だが、目立つ稲穂はカカシが睨む、っていう七七がつくのではないかしら。水田て。
ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希
「銀河」は渦巻いているので、渦巻きや廻るものと重ねて詠む歌がときどきある。そのなかでスパゲティはかなり斬新だと思う。
また、「銀河」には、(おそらくビッグバンのイメージが手伝って)「産む」「生まれる」といった連想脈もある。そして、「生」といえば「死」がセットの対立的概念だが、ちかごろ、「生/死」じゃなくて、「生/命を食べる」という対立的セットがひそむ歌を散見するようになってきて、この歌もその仲間であるようだ。
つまりこの歌には、新しい要素が二つ含まれている。
耳鳴りが酷くて、とだけ囁いて朱色の腕時計を預けた
土居文恵
なぜか死に臨む感じが漂っている。自分の今際の言葉を(、といっても死はあまり意識はせず)誰かに語っているみたいな……、いや、死者が、自分の生の回想を語り終える最後のところ、みたいな、回想の口ぶり。
そして、「朱色の腕時計」が鮮やかで、対照的に、周囲も語り手もモノクロに翳る。戻れない夢のような生の記憶の中で誰かに託した時計が、はるかな朱色の点になり、ぽっちりと見えているような感じがする。そういうふうに絵になる。
腰掛けるときの「よいしょ」でご機嫌ははかれるミスの報告は今
ソウシ
パワハラ上司だろうか。その仕草にいちいち振り回されて過ごす、安らぎのない日々。それが如実にわかる歌だ。もう1首は「炊飯器に労られつつ一日の後悔をするまだ一ヶ月」というもので、これも「まだ一ヶ月」という部分の切実さに驚く。
にんげんは周囲の人や物のアフォーダンスの中で自らを把握していることを改めて思う。そこをストレートに描いた歌だと思う。
明日にはハクモクレンが咲きますよ『きらきら星』から始めましょうか
白糸雅樹
楽器の練習の場面のようだが、どうしてだか、これはエンドレスな夢のような日常、あるいは日常のようにエンドレスな夢の中みたいに思える。
レッスンのはじめの言葉は「明日には◯◯が◯◯ですよ」と毎回少しずつ変化するが、そのあとは毎回同じ「『きらきら星』から始めましょうか」であるような。
進むことなく、なだめられ続けていく日々。だが、恐ろしくはない。老後の施設ならこういうやさしいエンドレスが普通だろう。いやもしかすると、老後じゃなくて生後の日々も……。
側溝に光る小袋おちていて ねるねるねるねの2番目の粉
蛙鳴
「ねるねるねるね」(複数の粉などを混ぜて練って変化を楽しむ食玩。粉の順番が重要)の粉の袋など、ただのゴミである。
だが、側溝にチラッと見えただけで、いまこの食玩にはまっている子ども、そんな子ども時代を卒業したぐらいの年代の人、そして、子どもと喜怒哀楽をともにしている親なら、それが何なのかがわかる。
歌は、どの立場で読むかで内容が少し違ってくる。現役の子どもにとっては、「誰か大事な粉をなくした」という単純な情報。子ども時代を終えて大人になる段階の人は、「2番目の粉」というプロセスの喪失を深刻に感じるかもしれない。そして、親の立場の人は、「ひと目見てこれがなんだかわかる自分」に親としての誇りをおぼえる一方、自分自身の「ねるねるねるね」はどうしたかと考える可能性もある。
君が居ぬ世界で吾は生きられぬ 裸足で土を踏んでかけ出す
榎田純子
「裸足で土を踏んでかけ出す」という記述から想起される、足取りのどたどた感がポイントだ。
読者はこの場面に、「しかし、この先のその生きられぬ世界で、この人は生きねばならないんだろうな」と、歌に書いてない未来を読み取るだろう。
こういうふうに読者とやりとりしようとするアフォーダンスの歌もあるんだなあと思った。
さぷさぷさぷさぷ君が食べてるご飯の幽霊明日からもここにいてね
森村明
猫だけでなくご飯までいっしょに幽霊になっていることも含めて、これは事実を詠んだ歌である。
だって、ご存知のとおり、猫は死んでもいなくならないのだから。
うちの猫も去年の暮に二十歳で普通の生を終えたが、そこからは不可視になっただけで、今も変わりなく、ドアのすきまをすり抜けたり、音をたてて飛び降りたり、カサカサいたずらしたりしている。
(知ってた?)(思い出してる)白鍵は口に入れたら冷たいのだろう
佐々木千代
「白鍵」というのはピアノの白黒鍵盤の白いほうだろうか。ふと白骨を思い浮かべそうになった。
鍵盤は歯のように並んでいるが、実は長い棒で、ピアノの内部まで伸びており、線を叩いて音を出す仕組みになっている。そういえばグランドピアノのなかの鍵盤は、肋骨みたいに見えたが。
前半の( )の部分は、ピアノの霊みたいなものの会話だろうか。後半、白骨がアイスキャンデーみたいで、ピアノの霊がすっかり生身を忘れている雰囲気がおもしろい。
デパ地下があるデパートに救急車が曲がってくとてもしずかな月夜
小川まこと
なぜか人の気配がない。これは人間の街であるはずで、救急車が走るなら、救命士や患者が存在するのだろう。だが、人を省いて描かれた絵のように人影はない。人間を無視し、街を物体として見ると、こういうクリアな景になると思う。
そのかわりなのかどうか、「デパ地下があるデパート」というところ、なんだかデパートの「身体」を意識させられた気がして、おもしろい。
地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る
嶋田恵一
ヒトをなんども滅ぼすに足る武器はカラシニコフだけではない。たとえば核兵器は地球を十個破壊できるほどあるそうだ。そうしたものの中からこの歌は「カラシニコフ」を選んで詠まれたのだ。試みに上の句が「地球には一万発の核爆弾」(実際には一万七千とからしい)だったらどうだろう。地球には一億丁のカラシニコフ」を比べると、迷わずカラシニコフに軍配だ。
なぜかというと人が手に持つ武器だからだ。しかも「カラシニコフ」は人名みたい。人が人を直接的に殺すという面が、核兵器よりも強いと思う。
そのほか、「カラシニコフ」はなんとなく植物名ふうで風情があり、雑草の「ヤブガラシ」などがはびこるさまが、言語野のすみに見え隠れする、という要素もあると思う。
野良の瞳にひとはどんなに巨きかな神話のごとく日々を過ごさむ
瀧川蠍
「野良」といえば普通は犬猫だろう。大きい人間たちに囲まれて共存・依存・ときに敵対して生涯を過ごす。その状態を巨人族のいる神話の世界にいるようだ、と捉えている。「神話」をこういう比喩に使うのは珍しいと思う。
さて、これは、犬猫のみならず人間にも当てはまる話だろう。毎日テレビなどのメディアでいわゆるビッグな人たちの活躍を見て暮らしている私も、神話な日々を過ごしていると言える気がしてきた。
内臓の書を持ち帰る 図書館は内臓の書の不在となりぬ
松山悠
言葉と事実が撚り合わさって面白い味わい。
事実面は、内臓について書いてある書物を借り出して持ち帰ると、その「内臓の書」は図書館の外に出て不在となる、という、まあ当たり前なことだ。が、図書館の蔵書の「蔵」は「臓」と音も字面も似ているために、図書館の内蔵を持ち出したような空想に誘われる。
さらに、図書館には少し神聖なイメージもあるため、二度三度読むうちに、「聖遺物」「仏舎利」など(聖人の身体の一部も神聖なものとして祀られる)への連想脈も刺激されてくる。
何回も何回も食べてたしかめるそれはあなたの右手のこぶし
土井みほ
一瞬タコかしらと思ったが、嬰児のしぐさを詠んだ歌。「何分の一ほど同じ遺伝子がいのちを燃やしている腕のなか」という歌もあるからわかったが、むろん単独でもピンとくる人はいると思う。
人間の子は、人生の始まりに、まずはこういうふうに自分の身体の確認し、次にその手足のできることを見つける。そのパワフルな様子(タコのような力強さ)だけをストレートに捉えている。
まよなかの闇にはなたれ電磁波の濁音ひかりオーロラとなる
歌野花
オーロラは宇宙空間の電磁波の高エネルギー電子が大気に衝突して発生するものだそうだ。
美しい現象を起こす仕組みに衝突という作用があることに着目していることがおもしろい。加えて、そのことを、「電磁波」の「で」「じ」という濁音と重ねるような書き方をしており、言葉愛もほんのり重ねられている。
切り花とわれと地球儀立つことの重たき部屋をきみはでてゆく
森山緋紗
「恋人などが部屋を出ていく」という情趣は沢田研二の昔から(源流は、暁の鶏にせかされる古典和歌か)抒情界の定番。掲出歌では、その盤石の予定調和がほどよく生かされ、ほどよくかわされてもいる。
「立つことの重たき」ものが三つあげられている。部屋にあって目に入ったものをあげたらしい臨場感を確保しつつ、タロット占いで引いたカードの三枚のように暗示的でもある。
根を断たれて自立できない「切り花」、立ち上がって「きみ」追えない「われ」。ここに「地球儀」という飛躍は想定を超えたが、地球儀は頭でっかちで物体としてでくの坊だし、これは地理の知識なんか全く役に立たない局面なんだと、じわじわ了解されてきた。
以上、たまに回ってくる前号評当番なので、最初のほうは、歌を読む時の目の付け所の一つとして、アフォーダンスというものを提示し、詳しく踏み込んでみた。そのあとは、一人一首ずつピックアップしてコメントをつける形で、力及ばぬ部分もあったが、さまざまなアプローチを試みた。
2024・9・28
「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から
「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編