2020年2月20日木曜日

近・現代短歌の富士の見立て 1

〝見立て〟は視覚の駄洒落だ

 近現代の話に行く前に、本章における〝見立て〟の私なりの定義を示しておこう。

〝見立て〟は比喩の一種に見えるが、掛詞や駄洒落に近い性質を持っている。掛詞や駄洒落は、全く別の言葉が同音の縁で重なり、どこでもドアのようにイメージが飛躍する。

同じように〝見立て〟も、全く別の具体物が形状の一致で重なるのを利用する修辞だ。ゆえに、〝見立て〟は視覚の駄洒落なのである。

近代歌人は富士を見立てなかった?

 まずは近代歌人の富士の歌を探してみた。
 はたして、近代歌人はせっせと富士を詠んではいたのだが、どうしてなのか、(すべての歌を知るわけではないが)富士の〝見立て〟が見あたらなかった。

凪ぎし日や虚の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士恋ひて行く
若山牧水『海の声』1908

ひたぶるに汽車走りつつ富士が根のすでに小(ちひさ)きをふりさけにけり
斎藤茂吉『あらたま』1921

目測千米(メートル)にあまる横雲の速度烈しくして富士を移動せしむ
前田夕暮『富士を歌ふ』1943

 牧水の歌の「雲」が「富士恋ひて行く」は、雲のふるまいを「ああ富士恋ひて行くんだな」と感受した心情を暗示する。茂吉の歌は汽車で富士を通り過ぎるスピード感を描き、また、夕暮の歌は、抒情的な語を排除して雲の激しい速さが「富士を移動せしむ」とまで言ってのけている。
 これらはいずれも視覚的に印象深い富士だが、どれも〝見立て〟ではない。

 なるほど。これは憶測だが、近代では、富士の姿を自分の目で見て描写するだけでも近世以前の和歌とは異なる斬新な表現になり得た。だから〝見立て〟のような技工を使う段階に至らなかったのではなかろうか。
(続)

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