2020年2月20日木曜日

近・現代短歌の富士の見立て 2

どうも気になる現代の富士

 現代人にとって富士は、なぜか気になる存在である。

冬晴れやビルの谷間に富士山が見えれば人の立ち止まる国
田村元『北二十二条西七丁目』2012

 富士が見えたらそれはちょっとした吉事で、微かに癒やされるし、SNSにそれを書き込めば「いいね」が集まる。昔のような信仰はもはや薄れた今、富士がなぜ、どのように心の拠り所となり得るのか。心は得体の知れないものだから正直いってわからないけれど、とにかく富士の姿は意味ありげに見えないか。

 現代の短歌が富士を詠むときは、この〝意味ありげ〟な感じを詠むことが多いようだ。現代のみんながうすうす共有しているイメージは、歌ににじみ出ようとする。歌人は、そこに無意識であっても、ちゃんとその依代(よりしろ)となって歌を詠んでいるのだ。

大根おろしのひとりあそび?

というわけで、近代なら叙景で満足できた富士の歌だが、現代短歌の富士は〝意味ありげ〟をきちんとにじませねばならない。そのため、何らかの尋常ならざる表現の工夫が必要になり、その一つの手段として〝見立て〟が使われることがあるようだ。

富士となりそびゆとみれば崩れゆくひとりあそびの大根おろし
坂井修一『青眼白眼』2017

 大根おろしの富士。これは、江戸狂歌でお灸の艾などを富士に〝見立て〟たことと似ているが、なんとこの歌の大根おろしは、いったん富士になってそびえ、やがて崩れてしまう。

 かつて富士は不変だった。不二、不尽などと表記され、歌にもその前提で詠まれたものだった。だが、現代の人は、どんな富士も不変ではいられないほどの大きな時間を知っている。富士の勇姿もいっときでしかない。そのことを「ひとりあそびの大根おろし」と、事象の気まぐれのように捉えたのは、なんともものすごい〝見立て〟ではないか。
(続)

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