サブリミナル的にこっそり〝見立て〟を詠み込んでおくという方法もある。
どんなにかさびしい白い指先で置きたまいしか地球に富士を
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006
さびしい白い指が富士を置いた、というだけでも読者の詩的満足度はじゅうぶん高いが、この歌はそれで終わらない。だってこの歌、二度見せずにいられないでしょう? 「え、まさか。もしかして、富士を盛り塩に見立ててる……よね?」と。
盛り塩……魔除け……、これって?――いくつかの星での苦い失敗で傷心の実験者(神様?)の指が、今度こそはと祈りをこめてこの地球に富士を置いたのか、的なことを想像したくなる繊細な形だなあ、富士って。――という歌みたい。と思うのは考え過ぎか。
読者の多くは、サブリミナルで挿入された盛り塩の絵をなんとなく感じるにとどまるだろう。もしかしたら作者も同じで、ちっとも気づかぬまま詠んでいるかもしれない。短歌(に限らないだろうが)の作者は、勝手ににじみ出てくるイメージたちなんか、いちいち感知しきれないのだから。
意味が出ぬように?
山の形なら何でも富士に〝見立て〟可能だとわかっているつもりだったが、それでも次の「富士山を乳首に込めて」には驚いた。
あー今日もいちんち意味が(富士山を乳首に込めて)出ませんように
鈴木有機「かばん」2003.2
母乳で服を汚さぬように胸にタオルを当てて出勤した産後の一時期を思い出した。トイレで母乳を絞り捨てる。あれは自然な表出を抑制する日々だった。
それにしても、「富士山を乳首に込め」という、乳房に富士を装填するかのようなこの〝見立て〟。乳房は母乳の水鉄砲か。その武器(?)に富士の形から「意味」というパワーを見出し、しかしその武装を隠して過ごさねばならない。その暮らしを「あー今日も」とぼやくこの歌、振り回される感はあるが、わかる。
富士がこうも〝意味ありげ〟に見えるのは、私たち各自が富士に呼応するものを身のどこかに備えているからではなかろうか。富士を目にするたびに乳首とかぼんのくぼとか、どこかしらが幽かに疼く。富士に喚び起こされて、私たちのなかに小さな富士が育っている。そんな気がしてきませんか。
(続)
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