2020年2月20日木曜日

近・現代短歌の富士の見立て 4

そらみみの富士

 現代という時代は、言葉の「富士」に、〝意味ありげ〟な存在としてのイメージを新たに付加しつつある。

 次の歌は〝見立て〟ではない。けれども、世の中にほんのかすかに漂っている富士の気配を捉えていて、現代の富士の歌の一つのモデルとして重要だと思うので取り上げる。

お天気の日は富士山がみえますとなんどもなんどもきいたそらみみ
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

 万葉集の山部赤人の歌、「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にはじまり、富士はこれまでどれだけの言葉に咀嚼されただろうか。もはや「富士山がみえます」という「そらみみ」と化してしまっていてもよさそうなものだ。

 しかし、どうしてどうして富士はしぶとい。

非現実とこの世を接合したような薄さでかなたに立ちのぼる富士
井辻朱美『クラウド』2014

そうなんだ。
しかもその一方で、富士の現物はででんとあそこにありつづけてもいて、いつ噴火するかわからない。

終わりに

 私は比喩という修辞がキライだ。説明しにくいが、比喩は、言葉に対する人間の厚かましさが露骨になりやすい修辞だと感じる。だからみだりに使わない。

 だが、比喩の仲間らしい〝見立て〟はなぜか清々しい。かねがね不思議だったが、本稿を書く過程で、〝見立て〟が比喩でなく視覚の駄洒落だとわかった。

 また、ロビン・D・ギルさんの助けを借りて、狂歌をたくさん読み、特に見事な見立てワザに触れたこと。これも本稿の大きな収穫だった。

 でも私は不器用だ。三十年以上歌人をやっていて、見立てという修辞を、まだ一首も成功させていない。

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