2020年7月13日月曜日

ミニ32 短歌のなかで人類は

短歌において「人類」という語にもっともくっつきやすいのは、「滅びる」じゃないだろうか。

本日の私のデータベースに「人類」という語を含む短歌は83首あるが、そのうち11首に「滅びる」が含まれている。
(うへ、自分の歌もある……。)

短歌の中の人類は7,8首に一首の率で滅びるのだ。


〈人類〉を詠む歌(〈滅び〉を除く)


あまのじゃくだから、「滅びる」と書いてない歌を先に紹介しよう。
(「滅びる」という語を使わないだけで滅びることを詠む歌は含める。)

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる
大滝和子『人類のヴァイオリン』

人類のゆめふかき半島おとづれて(わたしはそのかみ何でありしか)
井辻朱美『水晶散歩』

人類の舌が切手をなめてゐる時の彼方の寒い五月だ
魚村晋太郎『銀耳』

わがまちは夢に甍をあらそいて そう、人類をにくんでいるよ
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

一瞬のスポットライト 人類にはじめて会った朝日のように
千葉聡「かばん」新人特集号 1998年2月

人類がティッシュの箱をおりたたむ そこには愛がありましたとさ
笹井宏之『ひとさらい』

月齢はさまざまなるにいくたびも君をとおして人類を抱く
大滝和子『人類のヴァイオリン』

人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ
雪舟えま『たんぽるぽる』

人類がすこしづつ入れ替はるごとくつしたなどが入れ替はりゆく
大松達知『アスタリスク』

美しくサイレンは鳴り人類の祖先を断ち切るような夕立
五島諭『緑の祠』

青いしづくこぼす地球をまたぎつつとほりがかりの人類史かも
渡辺松男『雨(ふ)る』

人類が0へと着地する冬の夕日を鳥は詩にするだろう
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』

歓楽街のカラオケボックス占拠してさよなら人類またきて明日
山階基「未来」2013年10月

しやぼんだまなる呼気のたまのぼりゆく水より人類はふたたび去らむ
ルビ:人類【ひと】
光森裕樹『うづまき管だより』

ボンドとボンド・ガール以外はみんな死ねそこから人類やり直せばよい
望月裕二郎『ひらく』


〈人類+滅び〉の歌ピックアップ

〈人類+滅び〉の歌は、けっこう軽い。

滅亡してもう惜しくない人類かと思ひてゐたりとどのつまりに
柴生田稔

人類が滅亡しても困らない困る以前にみな死んでいる
松木秀『RERA』(4)

人類が滅びるとしたらすごいおおごとなのに、気楽に突き放して詠んでいる感じを受ける。他人事のような詠みぶりだ。
悪いと言いたいわけではない。そういうスタンスもあると思う。

連作の中の一首で、一首で独立せず、なんらかのバランスをとるために、あえて気楽そうに詠む歌という位置づけで詠まれている可能性もある。

けれど、本当に滅びるとしたら、滅びは一瞬でかんたんに済むとは限らない。
滅びに至るまでの人類の最後の年月。
希望なく先細ってすさむ人類末期の年月を思うと、恐ろしくなる。
が、そういう状況の恐ろしさを詠む歌が、ちっとも見当たらないではないか。

人類の滅亡の前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり
ルビ:滅亡(ほろび)
中島敦『和歌でない歌』

人類が滅びつつある新しい朝、いもうとのラジオ体操
吉田恭大「早稲田短歌」42号

人類は滅びたあとに目が覚めてスクランブルエッグを焼くだろう
三上春海

人類は滅ぶともよし滅ぶともゆびをもて剥ぐ白桃の皮
阿木津英『白微光』


他人事みたいなのになぜ詠むのか?


上記のように、人類が滅ぶ歌だけを集めてみると、いま滅びるという実感がなくて、他人事のような詠みぶりが目につく。

良し悪しでなく単純な疑問。
他人事感覚なのに、なぜわざわざ歌に詠むのだろう。

聴診器あてるまぶたのまなうらの宇宙映画の人類滅ぶ
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』(題詠 音)

他人の歌の動機は知るよしもない。が、
自分の歌なら、胸に手を当てれば思い出せるかもしれない。うむむ……。

この歌は「音」という題詠。たしか歌会の場で作ったのだと思う。
〈人類+滅び〉は、シリアスでかっこよく斜に構えられる題材だ。
インパクトがあり見栄えがする。そして誰にとっても実感がない。
目立つけれども無難。
要するに、歌会向きの題材なのである。

私の上記の歌は、そのように明確に考えたわけではないが、無意識に歌会ウケする題材を採用したものではないか、と思う。

シリアスな他人事……。

他の人はどういう動機でこういう題材を詠むのだろう。




以下はロビン・D・ギルさんより狂歌の「漕ぐ」
(コメントもギルさんです。)


もし舩に恋の重荷も積むならば泪川をや漕ぎ廻るべき  方碩 1679

If I could load a small boat with Love’s burden, you’d hear
of a man rowing about for fun on his own River of Tears!

単純ながら傑作。「寄重荷恋」の最高の歌の数に入る。
「漕ぎ廻るべき」という語句は遊び心いっぱいで、もっとも愉快な「寄涙川恋」歌にもなる。とは、拙著『古狂歌 物に寄する恋』の抜粋ですが、
If Love’s burden might just be loaded upon a boat,
 I would paddle around my own River of Tears!
に脚韻を踏む尾鰭も加えた。やはり、涙の川に遊ぶという新案は偉い。
敬愚も参加したくなる。
※敬愚はギルさんの雅号
もし舩に恋の重荷も積むならば釣るべき魚はなに泪川

おもひにしこがれて沈む我が恋は小舟に過ぎた荷物なりけり   未得 1649

Are we sinking because the boat I row burns from my passion?
Or, is love’s burden just too damn heavy or unbalanced?

漕がれながら、おもひ(火)で焦がれたか、重荷が重いから沈んだかと、変わりがわりする論筋は、同音異語の掛詞のおかげで面白くなるから、良い狂訳は無理。
補う為に、重さに重荷が不均等が危ないと要素を一本加えた。やはり脚韻なければ、駄訳だ。

★『夫木抄』の神祇歌中にある「君が代」の唯一の賀歌例。
岩舟を詠む※岩舟とは神が高天原から下界に下りるときに乗る堅固な船。

神山に天の岩舟こぎ寄せて繋ぎ初めしも我が君のため  賀茂氏久

That a boulder boat from Heaven rowed to Gods’ Mountain
and moored for the first time was for you, my Sovereign!

地名で神祇となる上に「漕ぎ」の具体性を岩舟と組むが新奇だし、かの「君がため」で雪間の菜摘む古典歌も掠る。
因みに詠む人は、二条為世1250-1338の妻(1271-1299)の父だ。ひょっとしたら「我が君」が「若君」に掛けた。
★後なる『風雅和歌集1348』に賀茂遠久の「久かたの天の岩舟漕ぎよせし神代の浦や今のみ荒れ野」に地理学上の価値はあるが、山に漕ぐほど可笑しくはない。(『古狂歌ご笑納ください』2018より)

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