麻酔専門の女医さんの眉秀でたるまじまじ見ていしがふっと現実なくなる
加藤克巳『矩形の森』
加藤克巳『矩形の森』
照明の光の圏にメスをとる女医の指のまろきを見たり
ルビ:指(および)
明石海人 (出典調査中)
上記二首、
わざわざ「女医」と書いてあって、そこになんとなくの効果は感じられます。
しかし、うーむ、医師が男性だったらどこを見たんだろう、と、余計なことを考えてしまいます。
「女医」はそう多く詠まれるわけではないけれど、
わざわざ「女医」と書いてあることを、すんなり納得できないことがあり、詩歌としての価値を感じにくい歌さえあると思っています。
ま、好みはひとそれぞれで、良いと思う人もたくさんいらっしゃるでしょう。
もう少しピックアップします。
不摂生たまる晩夏にすずしきは二重まぶたの女医のまばたき
小林幹也(出典調査中)
一ヶ月に一度の検診、髭を剃り髪整えて女医さんの前
浜田康敬『「濱」だ』2020
聴診器あてたる女医に見られおりわがなかにあるマノン・レスコー
藤沢蛍『時間(クロノス)の矢に始まりはあるか』
藤沢蛍『時間(クロノス)の矢に始まりはあるか』
切先の鋭きメスを選ぶ女医われのうちなる朱を奪ふため
有沢蛍『朱を奪ふ』
男装となりてにほへる女医なりき「四平」にて別れその後を知らず
小見山輝『春傷歌』1979
さて、女性医師というキャラに何を期待しているのでしょう。
男性から見て異性としての刺激とか、母のようなやさしさとか、逆に女医には冷たさを感じるとか?
どれもかなりステレオタイプだと思います。
私にとってその種のステレオタイプがなぜ悪いかというと、ステレオタイプな相槌をうたされるのが嫌だからです。
ただし、協調性の強い人は、そういう相槌をうつことに幸福感を感じるみたいなので、いちがいに悪い歌とは言えないですね。
なお、ことさらに医師が「男」であることを示して、--例えばイケメンだとか、父のように頼もしいとか書いている歌は、私のデータベースにはありませんでした。
医師の多くは男性だからわざわざ断らないのか。いや、内容を見ると、あまり男性的なことを詠んでいるようにはみえません。医師は男性だったら性別を意識しないんだと思います。
以前から失言の多いことで知られる政治家が、最近、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」と言ったり、ある女性秘書を「女性と言うには、あまりにもお年」と言ったりして、問題視されていますね。
(ふっるいよなあ。
明治の終わり頃に生まれた私の祖父みたい。幼児期の記憶であいまいですが、おじいちゃんの女性観はその政治家と似ていました。)
短歌の中の言葉のイメージには、いまだに、その政治家みたいにいかにも古い感覚のまま、新たな感覚で上書きされていないものがあることに、すごくがっかりします。
古い感覚が必ずしも悪いわけではないけれど、新しい感覚で取り上げられていなければ、短歌のなかではそこに関わる認識が古いまんまで止まっていて、次の時代に引き継がれていかないわけです。
(そう思うなら自分が詠め、と思いますけどね。実はけっこう心掛けてはいるんですが。)
とにかく、
「女医」という音には濁音のノイズ感がありますが、joyとかjointとか、明るい語感にもなりえるし、これから全く新たなイメージで詠まれるようになると思います。
ついでのようですみませんが、俳句・川柳も、全部ではないけれど、同様の傾向があるようです。
少しあげておきます。
俳句
音もなく紅き蟹棲む女医個室 藤田湘子
春しんと狂院の女医もの食む刻 三谷昭
咳のノドひらけば女医の指はやき 寺山修司
女医臭う幾度花火くぐりても 八木三日女
渦で了る女医の巻尺夏至時刻 澁谷道
母に似た女医に任せている安堵 北野岸柳「おかじょうき」2012・2
人を殺して世を渡る女医者 古川柳
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