2021年6月2日水曜日

神社の切り株

近所の小さな稲荷神社。
大きな樹があったのにいつのまにか斬られていた。
敷地のわりに大きすぎて近所に迷惑だったのか。
それとも老木で倒れる危険でもあったのか。

神社は神聖な場所とされている。そこの古木を切ったのに、注連縄でなく工事のコーンかい、と想ってしまう。

植物が声をたてないでいてくれるので、
あるいは人間には聞こえない声はたてているのかもしれないが、
とにかく静かで人間は助かっている。

この巨木が斬られるときにギャーっとすごい叫び声をあげたら?
近隣の神社の樹木たちが共鳴して、狼みたいに叫び交わしたら?
そういうものなら安易に切り倒せはしなかっただろう。
(そういうものだとしたら、人間は樹木用の麻酔を発明して、「安楽死」させるだろうな。)


人間が対象物に抱くイメージというのものの多くは、人間の身勝手な思いでしかない。
そういう意味で〝詩情〟は身勝手の最たるものだ。

詩歌は、人間が、芸術表現だ、高尚なんだぞとふりかぶって対象物やそれを表す言葉を使いがちである。
もしも対象物が言い返せるものなら、
「なんだよ、ひでえ比喩につかいやがって、何が芸術だ。おまえが気取ってイメージ操作を楽しんだ娯楽じゃんか」
とか言わないだろうか。

幸いにも、多くの事象は人間に何を言われているかなど気にしていないし、気にしたとしても言い返さないが。

私が言いたいのは内容のことではない。切実かどうか、真面目かどうか、ではない。
対象物やそれを表す言葉に対して、そもそも歌に詠んで引き合いに出すのが人間の当然の権利なのだろうか。
そういう究極の謙虚さの有無だ。
作品にそういうことは書いていないけれども、その種の〝非謙虚〟はなんとなくわかることがある。

注連縄を歌の数だけどこかへ奉納しろ、とは言わないが、食事の前後に「いただきます」「ごちそうさま」と言う程度の感謝(その食物が自分の糧になるまでのもろもろ=天地のめぐみや関係者などのすべてに感謝)に似たような、小さな謝意ぐらいあってしかるべきではないか。

以下、神社の切り株とは関係ないが、切り株を詠む歌句を集めてみた。

本日の感性にまかせ(つまり線引は説明できない)、対象にたいして礼を失していない、となんとなく感じられた好印象のものだけを置いてみた。

※後日切り株は撤去されました。下の方に写真があります。


短歌

あッあッとかすかなるこゑ切株の銀河にのまれゆける蜻蛉の
ルビ:蜻蛉(あきつ)
渡辺松男『きなげつの魚』

神話ひとつ倒れて青き空のもとさしあたりわれは切株に座す
山田富士郎

切り株のはじっこあたりから生えてしまった女学生をひきぬく
笹井宏之『てんとろり』2011

切り株につまづきたればくらがりに無数の耳のごとき木の葉ら
大西民子『無数の耳』

一人死なば一つ空席われら得む ひしめきて菊の切株癒ゆる
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

池の底に深く沈める切り株の浮かばぬはうがよいと思へり
楠誓英『青昏抄』2014

春山の切株に來てやすみゐるこころに灰色の獨樂まはり出す
松本良三『飛行毛氈』 1935

俳句


切株に 人語は遠くなりにけり
富澤赤黄男

切株はじいんじいんと ひびくなり
富澤赤黄男

切株やあるくぎんなんぎんのよる
加藤郁乎



川柳


切株に鴉を描きらんらんたり
定金冬二『無双』

台風はぼくの切り株だったのか
我妻俊樹 作者ブログ


2021年6月19日追記

■ついに切り株が撤去されました。


■在りし日の樹、および、その他の神社の写真





■さらについでですが、近所の木




2021年12月追記 ついにこの木も切り倒されました。



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