近代の人たちの歌は、いろんなところに先鞭をつけた。
でも、何もかもが追随されるわけではない。
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
石川啄木『一握の砂』1910
「昔の閉鎖的な村」のイメージで読んでいた歌だが、現代ではもっと大規模だ。
ネット上の誹謗中傷※などを見ると、人に石を投げる欲求は人々に偏在しているらしく思われる。ネットでは顔がないので、自ら石ころになってしまうのだろうか。
ネット上の誹謗中傷※などを見ると、人に石を投げる欲求は人々に偏在しているらしく思われる。ネットでは顔がないので、自ら石ころになってしまうのだろうか。
それはさておき、
啄木のこの歌のほど端的に「悪意の石投げ」を詠む短歌は少ない。
(婉曲に言うのはよくある。)
百年以上前の歌だが、今もなお啄木は先頭にいる。
百年以上前の歌だが、今もなお啄木は先頭にいる。
歌の言葉は及んでいないということは、存在を言葉が捉えていない=意識化がすすまず、共有されていない、ということだ。
もっとも短歌は全般的に世情に疎い。だから単に遅れているだけなのかもしれない。
この他の「石を投げる」とその類の歌もピックアップしておきます。
分類考察などはしていません。掲載順も見つけた順です。
一里ばかり撫でまはして来た
なつかしい石コロを
フト池に投げ込む
夢野久作『猟奇歌』
大河に投げんとしたるその石を二度みられずとよくみいる心
中原中也
中原中也
み社の鳥居の上に石投げてのりものらずもはかなき吾が戀
柳原白蓮『踏絵』
石投げし少年一人わがなかに倒れ無数の青年倒る
田井安曇『天』
テロルへの暗き情熱語り終え海の彼方へ石投げる君
道浦母都子『無援の抒情』1980
長考し長考し見ゆるものありや一石を投ずるといふことの大きさ
馬場あき子『あさげゆふげ』
投げた石の速さで返りくる痛み意地けたこころ晩夏にさらす
永井陽子『葦牙』
街灯に石投げつけて街の夜のふたりの孤独とりもどさむか
西田政史『ストロベリー・カレンダー』
投げ入れる人間あれば見えねども空井戸の底に石は増えゆく
松村正直『風のおとうと』
まっさらな心に石を投げ入れた波紋のひとつ、(ひとつ)、((ひとつ))
工藤吉生 作者ブログ「存在しない何かへの憧れ」より
まもりのための家でも石なので投げるものだつたらなんとかなる
平井弘『遣らず』2021
石を投げ鬼と一緒に踊るから賽の河原にレゲエを流せ
三田三郎『鬼と踊る』2021
※ネットに書き込まれる悪意には、〝人を傷つけていいチャンス〟を見つけた喜びがにじみ出ている。聖書に、女性が姦通の罪で石打ちの死刑になる場面がある。イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言ったところ、人々はだんだん立ち去って誰も女に石を投げなかった、という話だ。
が、いまネット上で石を投げている人にそれを言っても効果はなさそうだ。「わーい、罪がなければ石を投げていいんだね」と喜ぶんじゃないだろうか。
イエスさんならどうするだろう?
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