2022年3月16日水曜日

満65 カモメに呼びかける?


■カモメの歌をピックアップ

本日の好みで選びました。

あやまりにゆくとき地図にある橋は鷗の声にまみれてゐたり
魚村晋太郎『銀耳』2004

追憶の岸辺はかもめで充ち続けひかりのあぶら揺れてかなしい
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013

寄せては返す人恋しさよ 上をゆくカモメの腹にへそを探せり
石川美南『裏島』2011

人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
寺山修司『寺山修司青春歌集』2005(未完歌集『テーブルの上の荒野』)

灯台の白い破片が飛びちっているのではない風のかもめら
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010

流星が尾をふる音がきこえます ゆりかもめ、そちらはどうですか
笹井宏之『てんとろり』2011

鷗らがいだける趾の紅色に恥しきことを吾は思へる
ルビ:趾【あし】 恥【やさ】
近藤芳美『早春歌』1948

★海猫
(カモメはカモメ科の鳥の総称でたいてい渡り鳥。
 ウミネコもカモメ科で見た目も似ているが通年棲息する留鳥。)

海猫は雛はぐくみて粥のごと半消化せる魚を吐き出す
佐藤佐太郎『形影』1970

荒磯にわれと写りしうみねこの翼がはんぶん食み出している
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010


以下の長文はカモメが出てくる歌の考察です。
お時間がありましたらご覧ください。
引用歌は上記と一部重複します。

■呼びかけて何か頼みたくなる?

 
カモメは歌詞によく出てくる。
そして、「かもめよ……してくれ」と、何か頼むことが多いと思う。
実際、「かもめよ」と呼びかけてなにか依頼する歌詞は、ネット検索でざっと探しただけで19曲も見つけた。
「かもめよ」でなく「かもめ」と呼びかける歌も少なからずあったが、絞り込みがめんどうなので検索しなかった。

歌詞の引用はいろいろめんどうなことがあるからここに引用はしないが、

飛んでくれーの、鳴いてくれーの、答えてくれーの、
便りを運んでくれーの、思いを誰かに伝えてくれーの……。

と、ずいぶん気安い。
また、「かもめよ」もしくは「かもめ」に続けて自分の心情を吐露する歌も多く、聞いてくれ」という依頼を省略したように見えるケースもある。

カモメに呼びかけるのは、カモメが知らんぷりだとわかっていて気楽だからだろうか。
  (金魚に話しかけるという短歌もよくある。おそらく同じ理由だろう。)
知らんぷりだけでなく、カモメそのものや語のイメージに、心情の吐露を促すような要素があるとも思える。

■ソーラン節のカモメ

そういえば、あの「ソーラン節」にもカモメが出てくる。

 ♪にしん来たかと鴎に問えば……

 ♪沖の鴎が物言うものいうならば たより聞いたり聞かせたり……

この歌詞にも、カモメに対する期待が込められている。
鰊の情報を教えてくれないかなぁ、便りを届けてくれたりしないかなぁ、という期待だ。
(カモメは餌の魚を追って移動するので、実際、漁場を教えてくれている。便りのほうは期待はずれだろうが。

民謡の歌詞にもあるのでは、カモメはそうとう昔からこの種の期待を託されやすい鳥だったのかもしれない。

おお、そういえば、あの、教科書に出てきたあの話も……。


■『伊勢物語』の都鳥

鳥に「情報をもたらす」「思いを伝える」ことを期待する、といえば、『伊勢物語』(9「東下り」)の船旅の場面を思い浮かべる人もいるだろう。

白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ〈略〉、これなん宮こどりといふをききて、

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

(「都」という名を持つなら(都の事情に詳しいだろうから)私が大切に思うあの人は無事かと尋ねよう。ーーこの歌を聞いて旅の一行は泣いたという。)

通信手段のない古代の旅は、家族や恋人と遠く離れて互いに生死もわからなかった。

で、この「都鳥」というのは、「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ」と記されていて、どうやらユリカモメであったらしい。
(実は「ミヤコドリ」という名のチドリの仲間の鳥がいて、昔からユリカモメと混同されている。伊勢物語の「都鳥」は魚を食べるとあるのでユリカモメだと言われている。なお、ユリカモメの声が「ミヤ、ミヤ」と聞こえるところから「都鳥」という名で呼ばれた、という説も-ー真偽は知らない-ー聞いたことがある。ちなみにミヤコドリはチュピーみたいな鳴き声。)

カモメは古代から、こういう種類の詩情を喚起する鳥だったようだ。
上記は有名なエピソードであり、この詩情は後世に受け継がれてきていると思う。
例えばこちらの詩はどうだろう。

かもめ 室生犀星(初期詩集「叙情小曲集」)

かもめかもめ
去りゆくかもめ
かくもさみしく口ずさみ
渚はてなくつたひゆく
(中略)
あはれみやこをのがれきて
海のなぎさをつたひゆく

 「あはれみやこをのがれきて」とカモメに感情移入しているあたり。この糸をたぐれば『伊勢物語』の「東下り」に行きつきそうだ。

言葉に蓄積しているイメージは、必ずしも意識されているわけではないが、次の歌のように意識的に使う例もある。


ゆりかもめ 東京特許許可局は音には聞けど何処にあらむ
田村元『北二十二条西七丁目』2012

■短歌のカモメの頻度

カモメの歌をもっと検証してみたくなった。(私のデータベースの範囲でしかないが。)
近現代の短歌にカモメはどれぐらい詠まれているのだろう。

 本日の闇鍋 近現代短歌データ総数 120,979首
 うち、「かもめ」(別表記:カモメ、鴎、鷗含む)を詠んだ歌 123首
 (それとは別に「海猫(ウミネコ等の別表記含む)」が15首ある。 合計138首)※

※カモメとウミネコは同じカモメ科の鳥で、カモメは渡り鳥、ウミネコは留鳥という違いがあり、生息域も少し違うが、見た目や声も似ていて混同される。「ウミネコ」は固有の種の名称だが「カモメ」はカモメ類の総称としても使われることもある歌に詠まれる場合、カモメの種類を厳密に区別して鑑賞すべき歌は少ない。

比較のため、白鳥とツバメ(色や渡りの生態が少し共通)も詠まれる頻度を調べた。

 「白鳥」(しらとり含む)は146首
 「燕」(ツバメ、つばめ含む)は141首

カモメが詠まれる頻度は、白鳥やツバメと大差なくやや少なめといったところである。

■「かもめよ」の歌

では、どのように詠まれているのだろう。

歌詞ではよくみかけた「かもめよ」だが、探してみたら近現代短歌では少なかった。
 (手がまわらなくて古典は調べていません。)

「かもめよ」(別表記含む)というフレーズを含む歌は123首中4首だけ。

うち3首は、何か依頼するのでなく、「かもめよ」が詠嘆のきっかけとして機能している。

あなつひに啼くか鴎よ静けさの権化と青の空にうかびて
若山牧水『海の声』1908

発泡スチロールの胸もて天の風にのるカモメよ奇跡の自動人形
井辻朱美(出典調査中 2010年以前)

江戸川の杭にとまつて吹かれつつ帽子がほしい冬のかもめよ
高野公彦『水苑』2000

どんな事象、どんな言葉にも、詩歌のなかで人の心情を引き出す力があるけれど、カモメ、及びカモメという言葉には、人を素直にして人恋しさのような気持ちをかきたてる作用があると思う。

が、音曲つきで耳で聞く歌詞とほぼ目で読む短歌とでは、言葉のアピールのしかたが違う。

耳で聞くための歌詞は、音曲にのせて「カモメよ」と呼びかけ、何度もたたみかけることで、その情感を増幅し効果的に伝えることができる。短歌でもリフレインは使えるが、音曲にはかなわない。
そのかわり目で読む短歌は、豊富な語彙(同音異義語など耳ではわかりにくい語もok)が使える。耳で聞き取るのはほぼフレーズ単位だが、目が読むものなら一字一句で繊細な表現ができる、という強みがある。

呼びかけて何か依頼するタイプの「かもめよ」はたった1首だった。

ひかりなき朝のかもめよ悄々とわれに抱かれて清くけがれよ
中川昭『百代』2004

依頼というより命令形。強い心理的屈折がある。

この命令形は、〝望んでいない負の予想をあえて命令形で言う〟という用法※だろう。
※望んでいない負の予想をあえて命令形で言う用法の例
 息子を勘当するとき「ろくでなし、出ていけ、どこかでのたれ死ね」

 

また、カモメの一般的イメージには、「何か依頼したくなる気安さ」のほかに「元気」「自由」もあると思うが、それらに対してあえてアンチの詠み方をしてみせている。
その結果、
「自分の胸の内側で希望を清いまま飼い殺しにして結局ダメにしてしまう」
というような心理状況が暗に示されていると思う。

■カモメを見るとナイーブに

さっきも言ったが、理由はともかく、カモメという題材は、素直な心情を引き出すらしい。
「なぜか普段より素直になる、ふと本心を吐露したくなる」的な心のシチュエーションを感じさせる歌がよくあるので、少し拾ってみる。

鷗らがいだける趾の紅色に恥しきことを吾は思へる
ルビ:趾【あし】 恥【やさ】
近藤芳美『早春歌』

寄せては返す人恋しさよ 上をゆくカモメの腹にへそを探せり
石川美南『裏島』2011


詩歌表現においては、さまざまなものに心情を託す。
ときに〝無遠慮〟すぎると思うほど託してしまっている例もあるが、ここでは論じない。

対象によって託し方は異なる。
はるかな高みから下界を見守ってくれるかのような月や星、実に愛想のない石ころなど無機質系、無心の植物、人になつく動物、懐かないものたちなど千差万別だ。

鳥も、白鳥、カラス、ツバメ、スズメなど、それぞれのイメージが微妙に異なっている。(同じ白い鳥でも白鳥はお上品、カモメはやんちゃっぽい等。)
作者は往々にして無意識だが、カモメを詠んだ歌は、カモメという題材にふさわしく詠まれたもの、あるいはその歌にカモメがふさわしいから詠み込まれたもの、そのいずれかであるはずで、鑑賞はその前提でなされるべきである。

■牧水の白鳥とカモメ

白鳥とカモメは、白い色※と渡り鳥である点が共通しているが、雰囲気が違う。
※カモメは背から見ると灰色の面積が多いけれど、腹が白いので、飛んでいるのを見上げるときは白い鳥である。

白鳥といえば若山牧水。牧水の次の2首を見比べてみたい。

①白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
ルビ:白鳥【しらとり】

②あなつひに啼くか鴎よ静けさの権化と青の空にうかびて

①②とも若山牧水『海の声』1908


①は超有名な歌。
白い鳥が、空と海という圧倒的な青に染まらないでいる孤高の姿である。
この歌の「白鳥」は「しらとり」と読むので、白鳥(はくちょう)とは限らないのかもしれないが、孤高で少し悲壮感もあるこの歌には、きゃしゃな姿の鳥が似つかわしく、小柄で元気に群れてやかましいカモメはふさわしくない。
(小さな白vs大きな青、鳥vs空。かすかな対抗の構図、およびこのバリエーションらしい構図の歌は、近現代短歌にたくさん採用されて詠まれ、そのわりに意識されていないのが不思議なほど、もはや鉄板のシチュエーションである。)

②の歌のカモメも青い空に浮かび、絵としては①の歌と似通っている。
だが、カモメはいつまでも「静けさの権化」でいられず、ついに「啼く」というアクションを起こす。

①も②も、海や空の圧倒的な青のなかに小さな白い鳥が浮かぶ図である。
はっきり書いてあるわけではないが、どちらの鳥も「青」との〝力関係〟に耐えているような把握がなされいないか。
 ①の「白鳥」 空や海の青に染まらないという抵抗
 ②の「鷗」  鳴いて青の静寂を破る

■カモメの特徴

いまさらだが、カモメの特徴を箇条書きにしてみたほうが、考察しやすくなるかもしれない。
 (一部、サントリー愛鳥活動 日本の鳥百科やWikipediaを参考にしました。)

カモメという鳥そのものの特徴

・全長45cm
・翼開張110 - 125cm
・成鳥では灰色の背・翼の上面、白色の腹・尾、翼の先に黒っぽい斑点模様
・日本には冬鳥として全国の海岸、河口、港などで見られる
・体型がころんとしている(白鳥みたいに首が長くない)
・飛行力がある(たくましく筋力がありそう)
・群れる
・海辺・水辺(陸と空と海の境界)に生息
・声が猫みたい(赤ちゃんみたいにも聞こえる)
・騒がしく鳴く
・雑食性(動物の死がいやゴミまで食べるので、海の掃除屋とも言われる)
・目つきが鋭い(黄色い目に赤い隈取の独特の目つきはウミネコの特徴)
・飛ぶ姿が「3」の横倒し(カモメ眉など、印象的)

カモメという語そのものの感触

・「カモメ」という語のひびきに、明るさ、甘え感、平俗感がある
(語感というものには個人差があるが、「カ」にはカ行の強さとア段の開放感、「モメ」はマ行のかすかな粘りがあってちょっと甘え感覚。また「メ」はエ段だが、エ段はなんとなく平俗なひびきでは?)

カモメの言い伝えなど

・海と航海を象徴する鳥
・おぼれ死んだ水夫の魂が姿をかえたもの
・むやみに殺すことは不吉
 家の窓にカモメがぶつかると良くないことが起こるとされる


言語活動によって蓄積するイメージ

「カモメ」という言葉には、上記のカモメという鳥そのものの特徴や語感に加えて、歌に詠まれるなどの言語活動によって、事実を超えて蓄えられるイメージがある。

・気軽に問いかけたくなる
・人恋しさをかきたてる
・さびしい
・自由気ままに生きる、生き抜いていく感じ

実物のカモメは背が灰色なのに、白い鳥として詠まれることが多い。
理由のひとつは、見上げると白い腹が見えるからだが、言葉の世界、特に詩歌系の言葉の領域では、「白い鳥」に特別な意味が添ってくる、という理由もあると思う。

歌に詠まれるなどの言語活動のなかで獲得してきたイメージは、あまり意識化されていないけれども、言語表現はさまざまな事象の共通点・相違点・特徴を無意識に選り分けながら咀嚼する。これは言葉の現象である。
それぞれの鳥に固有のイメージが蓄積するし、また、ジャンルによっても異なるイメージが蓄積する、という面もあるようだ。

 

■カモメ群なす遣隋使

受験勉強で「カモメ群なす遣隋使」(群な→607年)と覚えた人がいると思う。

語呂合わせで記憶しやすいのは、語呂がよく無理がないものだろう。逆に少々無理で意外性があるものもそれはそれで覚えやすい。そして、詩的に優れている、というのも心にとまるのではなかろうか。
「カモメ群なす遣隋使」は、語呂がよく無理がないレベルでなく、5音足して俳句にしたくなるような、完成度の高いフレーズだと思う。(俳人でもないのにテキトーに言ってます。)

カモメといえば群れるもの。これは定番イメージである。
青い海にカモメが群れ飛ぶといった文言を、ヒット曲などで聞いたことがあるのでは?

短歌でも、カモメが群れる姿を詠む歌は少なくない。

決死連合鴎とべとべ陽に向かい統一を欠く隊伍のままに
依田仁美『異端陣』2005

圧倒的空の広さに驚けりばら撒かれたようにカモメが飛ぶよ
花山周子『林立』2018

灯台の白い破片が飛びちっているのではない風のかもめら
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010

海原をとおく漂うかもめらはまるめて捨てた手紙の数だけ
植松大雄『鳥のない鳥籠』2000


カモメは群れて当たり前なので、短歌ではふつう、ことさら「群」と言いたいとき以外は「群」と言わない。(一羽のときは「一羽」と書く。)

次の歌はことさらの例。
「鷗ら」の「ら」に「群」を重ね、大群で視界を遮っていることを強調している。

水平線にきえてゆくますとをみうしなふ 眼鏡をよぎる雲は 眼鏡をくもらす 鷗らの群
美木行雄(サイト「bellaestate’s diary」モダニズム短歌 より)

■カモメと孤独

カモメは、見る人に人恋しさなどの心情をかきたてるだけでなく、カモメ自体もさびしそうな感じがする場合があると思う。
ふだんは群れているぶん、たまに一羽でいると、さびしそうに見える。

集団から孤立したのか、北へ渡る仲間からおいてけぼりにされたか、などと、人間は勝手な空想をしやすく、たぶんそういうところからカモメと「さびしさ」は結びついただろう。

そして今や、「さびしい」と言わなくても、「一羽のカモメ」と言うだけで孤独感を暗示できるところまで、イメージは蓄積していると思う。

キリストと夢の階層旅すれば無人島には一羽のかもめ
堀田季何『惑亂』2015

結句が「群れ飛ぶカモメ」だったら、違う心理状況の歌になるなあ、と思う。 


■かもめと死

カモメといえば、この追悼の歌はよく知られていると思う。

あおぞらにトレンチコート羽撃けよ寺山修司さびしきかもめ
福島泰樹『望郷』1984

「寺山修司」と「さびしき」と「かもめ」。
私は、寺山修司の歌集を熱心に読んだことがあるだけで、その他の膨大な著作や映像当の活動には詳しくない。その程度の私でも、この3つの組み合わせを見た瞬間になんとなく納得した。

どうして納得するのだろう。知識や事実によって推理できるのは次の3点だ。

①寺山修司の著作等には「かもめ」を含むものがいくつも※ある。
※今たまたま思いつく例をあげる。 
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ(未完歌集『テーブルの上の荒野』)
ことばで/一羽の鴎を/撃ち落すことができるか」(「けむり」という詩の冒頭

②寺山のトレンチコート姿の映像をよく見かけるため、コートを翼に見立てていることに納得しやすい。
 
③白い鳥は追悼
 ヤマトタケルノミコトは死んで白鳥になった(古事記)。
 悲壮感を伴う死に白い鳥は似つかわしい。
 カモメは死んだ水夫の魂という俗信がある。
寺山作品には独特の悲壮感が漂っているし、寺山修司は47歳で病死しているが、若いときから持病に苦しめられながら、膨大な著作その他の実績を残していることがいたいたしい。

上記②翼とコート、③白い鳥と追悼については、カモメ以外の鳥でもあてはまるけれども、いろいろ総合して、「寺山修司」と「さびしき」と「かもめ」という結びつきは最適なのだろうと思う。 
 
この他にも、カモメと死を結びつける歌がたまにある。

後ろ姿ばかりが映る鏡です かもめのような青年の死です
江田浩司(出典調査中)

「かもめのような青年」+「の死」なのか「かもめのような」+「青年の死」なのか迷うが、とにかく、かもめにはやや若者っぽさがある。女性的でなく、また老成はそぐわない。

■カモメは白い

さっきちょっと書いたことだが、
カモメは背が灰色っぽいにもかかわらず、ほぼ白い鳥として詠まれる。

海は手をかえしてすいと放ちたり白あたらしきかもめ一羽を
藤田千鶴『白へ』2013

もしかして鴎のメモか一枚の紙片が宙を舞い降りてくる
田島邦彦『人間漂流』2003
(白いとは書いてないが紙片は白と思うのが普通)

腹が白いので、見上げると白い鳥に見えるためだろうが、詩歌の言葉のなかでは、さっき書いたように「白い鳥」は特別な役割を果たす。
上記の2首には、「死者の魂」への連想とか、「便りを託す」という期待とか、そういった詩情を、すごく淡い隠し味みたいに含まれていると思う。

■自由に飛ぶ

カモメには「自由」というイメージもある。

海近き大橋すずし海のうへに遊魂のごと鷗飛ぶ見ゆ
高野公彦『河骨川』2012

だいぶ前の話題だが、『かもめのジョナサン』(リチャード・バック)の影響がちょっとあるかもしれない。ジョナサンというカモメがひとり信念を貫いて飛ぶ話だが、一時期は「かもめの○さん」という言葉遊びも流行ったほどの人気だった。

でも、そもそもカモメがそうした役柄にふさわしいからその小説が書かれた、とも言える。結局なぜだかわからないが、ともかく、カモメには
「自分の意志で自由にはばたく」
というイメージがあると思う。

そこから転じたのだろうか、
「カモメは自由に飛び立てるが、自分はここを離れられない」
といった対比的な文脈をたまに見る。
(具体的にどこで見たと言えないのだが、よくある気がする。)

カモメに限らず鳥というものは自由に飛べるが、カモメは海だけでなく内陸の川ぞいにもいる身近な鳥で、身近な鳥のなかでは飛行能力が高い。
そういうところから、「カモメは自由でいいな」と思い、比べて自分の人生のしがらみ感じるというような、そんな場面に日常で遭遇しやすい、のかもしれない。

しかし、短歌でそういう、自由と不自由の対比のような文脈を探してみたらめったに無いようだった。
「カモメは自由でいいな、それにひきかえ自分は……」という心のリアクションは、短歌の表現の中では単純すぎる。短歌は、繊細に展開して心の機微に触れないと気がすまない。

年改まりわれ改まらず川に来て海に引きゆくかもめみてゐる
馬場あき子 『あかゑあをゑ』2013
 
橋の上は風がつよくてきこえない かたむいたまま遠のくカモメ
笠木拓『はるかカーテンコールまで』2019

もうダメだおれはこれから海へ行くそしてカモメを見る人になる
瀧音幸司「短歌ヴァーサス」第十号 2006・12

めったに無いが、自由と不自由の対比関係といえば、さきにあげたこの歌があてはまるのかもしれない。

ひかりなき朝のかもめよ悄々とわれに抱かれて清くけがれよ
中川昭『百代』2004

すごいアレンジだが、気ままで自由なカモメのイメージと、自分の胸で清いまま飼い殺しにする希望とを対比的に重ねている。

■あるがままを受容

カモメみたいに飛べない自分を憐れむのでなく、カモメはカモメ、私は私で生きている、という、あるがままを受容する、という表現もある。

柳橋から河見ればしょんがいな鷗が一羽飛んでゐるよの
ルビ:河【かは】 鷗【かもめ】 
吉井勇『東京紅燈集』紅燈=花街


柳橋は神田川が隅田川に注ぐところに架かる橋でそのあたりは江戸時代からの花街。
花街の芸妓は座敷で芸をみせるタレントで、吉原の花魁のように身売りされた不自由な身ではない。
「しょんがいな」は花街で歌われるしょんがえ節※の囃子詞で、深い意味はない。
※梅は咲いたか 桜はまだかいな/柳ャなよなよ風次第/山吹や浮気で 色ばっかり/しょんがいな 浅蜊とれたか 蛤ャまだかいな/鮑くよくよ片想い/さざえは悋気で角ばっかり/しょんがいな
柳橋から小船を急がせ/舟はゆらゆら波しだい/舟から上がって土手八丁/吉原へご案内


この歌の「しょんがいな」は、「梅は咲いたか、桜はまだかいな、柳ャなよなよ風次第」と、あるがままを楽しんで日々を過ごしていく受容的な感覚を表しており、嘆いたり気負ったり達観したりなど、ことさらな心の意味付けはしていない。

橋という場所※やカモメとの位置関係から自然に、「自分はここでこうしている、カモメで空でああやっている」という境地へと着地していると思う。

※「橋からカモメを見上げる」という場面の活かし方がそれとなく優れているのだ。

「橋」というものはこちら側とあちら側という別領域を行き来する場で、短歌のなかではしばしば領域移動感覚をそれとなく喚起する役目を果たしている。この歌では、その移動を、橋のこちらとあちらという平面移動でなく、陸と空という縦方向の領域移動へと転換している。

その効果で認識のアングルが広がることで、ひとりでに、自分もカモメもそれぞれの領域でそれぞれあるがままに生きている、というような受容感覚になる。

■カモメの声

カモメの声を詠む歌もわりあい多い。
猫のような、赤ちゃんのような、特徴のある声だからだろう。

東京の水渡りゆくゆりかもめこの日も一生と墨いろに啼く
ルビ:一生(ひとよ)
鈴木英子『月光葬』 2014

赤ちゃんといえばこんな歌もあった。

ふさわしき喃語なきまま塔に立ち鴎のかざす小手に手を振る
依田仁美 『異端陣』2005
※喃語 アーアー、ウマウマなど赤ちゃんが発する声。

カモメの声に応ずるにふさわしい喃語がなくて手を振る。

-ー先に書いたようにカモメに呼びかけるのは詩歌的な自然の欲求だが、「喃語」という語の効果で、「自分はすでに言葉を覚えてしまったゆえに無邪気なカモメとじかに話せない」という意味合いが加わり、「手を振る」というありふれた行為にも手話を試みるみたい意味が生じかけている。

カモメの声については万葉集にも、
舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも
大伴家持『万葉集』巻20-4462番
という歌がある。

また、牧水には、さっき引用した歌のほかにこういう歌もある。
(牧水の歌のすべてを知るわけではない。他にもあるかもしれない。)

人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く声
若山牧水『海の声』1908

海猫も含めればこういうのも。

ぎやをと啼きまた声継がずどしやぶりの実のあかき木に海猫はゐる
北原白秋『海阪』1949

■ふりそそぐ罵声とフン

カモメの声は良いイメージばかりではない。
鳴き騒ぐ声は、やかましく空から降ってくる。

あやまりにゆくとき地図にある橋は鷗の声にまみれてゐたり
魚村晋太郎『銀耳』2004

なんらかの事情があって「あやまりに行」かねばならなくなった。
まず地図で相手先までの道順を確かめ、途中の橋を目印のように思っただろう。
そして、実際に歩いてその橋にさしかかったら、やかましいカモメに心がすくんだ。

「橋を渡る=別領域への移動」※である。
  ※さっき書いた「柳橋から……(吉井勇)」の歌の注を参照してください。
「あやまる」という気鬱なことをするためにいよいよ相手の領域に入ろうという地点で、責め立てる罵声のごときカモメの声が降りそそぎ、見れば橋はカモメのフンまみれだ。

降りそそぐ声=降りそそぐフン。足も心もすくんでしまうことだろう。
(そういえばカモメの声はM音やN音系で、ちょっと粘り感がある。)

■言葉でスキンシップ?

カモメの「胸」「腹」など身体部位に言及する歌が、多いわけではないがたまにある。ここまで引用したなかにもあった。

私の思い入れゆえの過剰反応かもしれないが、カモメの身体に言及する歌では、言葉がカモメという言葉に触れるような、イメージのカモメに対するスキンシップみたいな感覚がある。「カモメ」という語を使うとき、猫や赤ちゃん触れるのに似た快感が脳に生ずる気がするのだ。

カモメは猫みたいな赤ちゃんみたいな声で鳴くけれど、猫とちがって飼えないし赤ちゃんのようにあやせない。
でも、あるいはだから、言葉で触れたくなる。
用もないのにカモメを歌に詠みたくなることがあったら、脳が言葉のスキンシップを欲したのかもしれない。

鷗らがいだける趾の紅色に恥しきことを吾は思へる
ルビ:趾【あし】 恥【やさ】
近藤芳美『早春歌』

抜歯後の痺れた空にこの冬の鷗はかたい翼をはこぶ
魚村晋太郎『銀耳』2004

砂糖衣でつくられたその胸のままカモメは橋より空へのがれる
井辻朱美『水晶散歩』2001

寄せては返す人恋しさよ 上をゆくカモメの腹にへそを探せり
石川美南『裏島』2011

■そのほか気づいたこと

●カモメの目つき

カモメの目は、実物を見たわけではなく、画像で一度見ただけだが、意外に鋭い、という強い印象がある。

あかときの青の汀の沙鴎 ふりむく一羽まなこするどき
ルビ:汀【みぎわ】 沙鴎【すなかもめ】
加藤克巳『石は抒情す』1983

以下の歌のカモメの目は、どういう目でしょうね。
深く考えず思い浮かぶものを見ればいいか。

テーブルの下に手を置くあなただけ離島でくらす海鳥のひとみ
ルビ:海鳥【かもめ】
東直子『春原さんのリコーダー』1996

春の雪 雪の中洲に目を瞑りユリカモメらは風に梳かるる
永田和宏『夏・二〇一〇』2012

●風に吹かれて寒そうに

ゆりかもめの尻一列に吹かれおり欄干を雪は横ざまに越ゆ
永田和宏『荒神』2001

江戸川の杭にとまつて吹かれつつ帽子がほしい冬のかもめよ
高野公彦『水苑』2000

ふと笠地蔵を連想するのは私だけ?
だけですね。はい。

●「海猫」にはナマの生活感?


気のせいかという程度だが、「カモメ」より「海猫」といった場合のほうが、ナマの生活感が強まると思う。

海猫は雛はぐくみて粥のごと半消化せる魚を吐き出す
佐藤佐太郎『形影』1970

荒磯にわれと写りしうみねこの翼がはんぶん食み出している
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010

●いろいろなカモメの歌

引用しきれなくてなんとなく余っちゃった歌。

ああ橋に支えられねば朝空は初心なかもめのたましいに耐ええぬ
井辻朱美『クラウド』2014

ゆきかえるカモメとヘリと――横浜の空おおらかに傷つきやまぬ
佐藤弓生『薄い街』2010

しばらくを付ききてふいに逸れてゆくカモメをわれの未来と思ふ
黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』2021

履歴書の写真のような顔をして飛んでいるのにかもめはきれい
北山あさひ 『崖にて』2020

さくらメール出して返事のかもめーるお互い急ぐ恋にはあらず
浜名理香『流流』2012


■おまけのツバメ

鳥に思いを託すというような形の詩情は「かもめ」以外の鳥も対象になるだろうか。

ツバメは身近な渡り鳥である点でカモメに似ている点があると思う。
すぐ思いつくのは、中島みゆきの有名な歌で、「つばめよ」という呼び掛けを含むものがありますよね。

短歌にもけっこうありそうなので、見つけた歌だけちょっと書いて終わりにする。

●「ツバメよ」の歌

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
寺山修司『田園に死す』

青海原に浮寝をすれど危ふからず燕よわれらかたみに若し 
春日井建『行け帰ることなく』

硝子戸にぶつかる燕 忽ちにインクにもどりそうなつばめよ
雪舟えま『たんぽるぽる』2011



●ツバメの姿。

鳥は追悼に詠まれることがある。それとなく死の場面に登場することもある※。
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり (斎藤茂吉)

 また死者が鳥になるというのはかなり共有されているイメージだ。

白鳥、カモメなど白い鳥がベターなはずだが(白くても、飛べないニワトリ等はダメ。)、ツバメもよく追悼のような詩歌に登場する。
機会があれば歌を集めて比較してみたいが、ここでは、死との関係で特にツバメがふさわしいと思った次の歌を紹介するだけにする。

朝露の消ぬ水無月のなかぞらに反るあをつばめ去年の夭者
ルビ:去年(こぞ) 夭者(わかもの)
須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

「夭」は若死にすることだが、「なかぞらに反るあをつばめ去年の」と来て末尾「夭者」の「わかもの」というふりがなを見た瞬間、「夭」の字面が天に相似で、ツバメの形にも似ていて、わかものが手足をひろげた姿で天に向かって落ちていく絵が思いうかんだ。

というわけで、興味は尽きないが今回はこのへんでやめなければ。

スマートで燕尾服姿のツバメの詩的イメージ領域もいつか探索したいと思う。


とりあえずおしまい。2022.3.15

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