2022年7月1日金曜日

随時更新 並べて読みたい歌 2022

 まったく別々に詠まれた2首に、批評マインド〟が刺激されることがあります。

もしかして偶然に本歌取り?とか、
歌合せだったらいい勝負じゃんとか、
時を超えて応答しているみたいとか、
歌人の個性の違いがおもしろいとか、
同じ作者の作なら進化や変化を感じるとか。

「並べて読みたい歌」セット。
そういうものを見つけたらとりあえずここに書きとめます。

ただし、私は、優劣には興味がない。歌を並べて優劣を決めたいわけではない。
そこのところ、よろしくおねがいします。

▼2022/7/1 鳥・人・言葉


人が鳥になるとかならないとかを詠む短歌はときどき見かけるのだが、次の歌はそのなかでも少し特殊だ。
重なる感じで捉えている。

ねむりゆく私の上に始祖鳥の化石のかたち重ねてみたり
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

眠ることと死は少し似ている。
始祖鳥の化石といえば太古の鳥の死骸。
そして、見た目が老化の姿にも少し通じてもいる。
眠るたびに始祖鳥の化石に近づいていく、というようなことを歌から感じ取る。

化石は、死骸が石化したもの。死後に長く残るものに変質したものだ。
骨だらけでなんだか文字みたい。

そして、この歌をみるたび脳の片隅に次の句がうかぶ。

タソガレドリは言葉の鳥か我も言葉
山川蝉夫(『山川蝉夫句集』以後)

私の中では上記2つの作品がしっかり結びついている。

もうひとつ、
とぶ鳥はすべてことばの影となれわれは目つむる萱草に寝て
寺山修司『月蝕書簡』(未発表歌集)2008
というのを発見しました。

▼2022/5/15 蝿が手を揉む

まもりゐの縁の入り日に飛びきたり蠅が手をもむに笑ひけるかも
斎藤茂吉『赤光』1913

ひさしぶりに、
ふと声を出して笑ひてみぬ―
蠅の両手を揉むが可笑しさに。
石川啄木『悲しき玩具』1912

茂吉と啄木。
ほぼ同じ時期に似たような歌を詠んでいる。

蝿が手を揉むといえば、
多くの人は、一茶の、
やれ打つな蠅が手をすり足をする
を想起すると思う。
近代のこのふたりもそうだと思うが、そのうえでこういう歌を詠むだろうか。


▼2022/5/13
 2021年の記事と分離し、ついでに表記等を修正しました。

▼2022/5/13 他流試合 じいんじいんと滝の上

(このタイトル俳句みたい 笑)

■じいんじいん

切株はじいんじいんと ひびくなり
富澤赤黄男『蛇の笛』1952

花もてる夏樹の上をああ「時」がじいんじいんと過ぎてゆくなり
香川進『氷原』1980


なるほど、「じいんじいん」は時間が流れる音みたいな感じだ。
どちらも樹に関係がある。
富澤のほうは「時間」と書いてないけれども、「切株」には年輪があって自然に「時」への連想を促す。じんわりじんわり「時間」が地に深く響くような感じ。
かすかだが痛みが疼くような語感もある。

香川の歌では暗示でなく、「時」が「過ぎてゆくなり」とはっきり書いている。
「時」が樹上を過ぎるといえば、鳴き過ぎる鳥や葉をざわめかす風を思わせることで、「時」の流れに速さを感じさせる。
「夏」といえば、人々が欲求をかなえたり目的を果たしたりするためにがんばる季節で、その虚しさはすでに詩歌に定着している(「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡 芭蕉」とか)こともあり、この歌の「じいんじいん」の語感にも、そうした痛みのようなニュアンスが少し含まれると思う。

他流試合、っていうか他人の空似っていうか、もう一組。

■滝の上

瀧の上に水現れて落ちにけり
後藤夜半『翠黛』
1940

瀧の水は空のくぼみにあらはれて空引き下ろしざまに落下す
上田三四二『遊行』1982


▼2022/5/12 材料が同じ料理みたい


同じ材料から作ってぱっと見似ているけれど味が少し異なる料理、みたいだ。

テーブルに滴と蝿と向きあってまた永遠が見つかったの?
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』2001

八月のテーブルの角に蝿は黙りいま永遠にあなたのMより
杉山モナミ(杉山美紀)『短歌パラダイス』1997

▼2022/5/11 同一作者が時を経て……


同一作者が同じ題材を、時を経て別の言葉で詠み重ねる、というこちがあると思う。

身をそらす虹の
絶巓
処刑台
  高柳重信『蕗子』
※絶巓 ( ぜってん ) =てっぺん)

魏は
はるかにて
持衰を殺す
旅いくつ
※持衰(じさい)=祈祷師

A 虹のあの形を、「反っている」と見るのは珍しい見立てだ。また、身を反らすのは、前に屈むのに比べたら、背筋のこわばる苦しい姿勢である。一方、虹といえば一般に美しいものとして描かれ、どこか遠い国への架け橋の比喩として使われることが多く、普通はそんなに緊張感を孕む語ではない。ところがこの句では、虹の頂点に処刑台があるという見立てだ。だとすれば、遠い国へのあこがれは、見かけは美しくとも、我が身を辛い姿勢に保って橋となそうとするものであり、その絶頂に、ひどく恐ろしいものが待っていて中断させられた、と読めるだろう。
大昔の日本人は、当時の文明国である魏の国をめざして海を渡った。古代の船は小さくて、嵐にあえば半分ぐらい沈んでしまうのに、人々が死を覚悟で新しい知識を求めた。「持衰」=祈祷師は、嵐があると神様に怒りを静めてくれるように祈る役目であり、祈りが通じないときは、その祈祷師は殺されたのだそうだ。
(「持衰」の説明は作者に聞いた。奇跡的偶然でこの作者は父だ。)

当初私は、この句を、「人類がたくさんの犠牲を払いながら、高い目標のために努力してきた、ということへの感慨を表したもの」と思っていたが、だいぶあとになって、犠牲といっても祈祷師のいたましさは特殊だと気づいた。
みんなのために真剣に役目を務めたにもかかわらず、失敗だったからといって仲間の手で殺されてしまった。
この句はそういう種類の犠牲者に特に手向けられた鎮魂句なのだと今は思うし、Aの句もこのB句と併せ読んでみて損はないだろう。

書かれた順序は、虹の句の方がずっと早く、結核で挫折したうんと若いときのものだ。かつて、「自分の努力には処刑台が待っていた」という形で提示されたテーマが、後年視点が変わることで、「魏ははるかにて」の句になったのではないかと思われる。


▼2022/5/12 非生物だが生身感のあるものを揉む感触

 同一作者が時を経て……

元旦に明るい色の胴体を揉めばぶよぶよするヤマト糊
穂村弘『水中翼船炎上中』2018

この人はかつてこういう歌を詠んだ。

B
孵るものなしと知ってもほおずきの混沌を揉めば暗き海鳴り
穂村弘『シンジケート』1990

題材は違うが内容は通じていて、新しいAのほうが「混沌」だの「暗き」だの「海鳴り」だの、詩歌的に意味ありげな言葉を使わないぶん、手作りであり鮮度が高く、つまり洗練されている。

「揉む」は短歌俳句で好まれるのかよく使われる。肩揉みに関するものや、草木を風が揉むさまに試練に耐える心情を重ねる、などをよく見かけるが、上記のような「非生命の手触り」を詠むものは少ないようなので、時間があったら集めてみたい。

残る世の人形揉めば泣きにけり 攝津幸彦 『鹿々集』

「非生命の手触り」とは少し違うが、この句にも注目した。


▼2022・4・17追記
 ■そのとき青いものがこぼれる……(2021/12/22)に、
  青いもの、赤いもの、黄色いものがこぼれる歌を追記しました。


▼2022/4/3 生きてることが・・・になる

作者はまったく意図しなくても、言葉の世界で勝手に歌たちが響き合うということがある。
それを読んだ人たちの脳内で意識しないまま響き合い、結果として言葉の世界のなかでうっすら関わり合い、なんらかの形でイメージを強め合ったり深め合ったりする可能性がある。

以下2首、「になる」の意味あいがやや違うので、本歌取りではなさそうだが、響き合いそうな感じ。

こんなにもふたりで空を見上げてる  生きてることがおいのりになる
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001

似合う、ってきみが笑ったものを買う 生きてることが冗談になる
平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』2021


なお「○○と君が言うので、その結果XXする」という構造、これは当然よくあるものだが、その源流には、こういう有名な歌がある。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智『サラダ記念日』1987

この歌がこの言い方の最初っていうわけではなかろう。
が、人口に膾炙し、この言い回しの〝詩的ステータス〟がアップしたんじゃないかしら。爆発的に。



1~3月ナシ



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