2022年5月23日月曜日

満68 ~までが~だろうか

「どこまでが空だろう」というような 、
「~までが~だろうか」という構文の歌に興味を持った。
興味といっても、漠然とおもしろそうだと感じただけだが。
「○○までが△△だろうか」的な構文※を含む歌をテキスト検索した。

結果、87首発見。
※「○○まで△△」など、「だろう」と詠嘆しないものも含めていろいろ検索し、集まった結果から無関係なものを取り除いた。

(なお、川柳はそれなり見つけたが俳句は1句しか見つけられなかった。もともと手持ちデータが少ないせいかもしれないが。)

以下分類して歌を少しずつ例示します。 


■1 境界が不明確 15首

「○○までが△△だろうか」的な構文を含む歌には、境界が不明確であるという意味の歌がたくさんあった。

どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である
奥村晃作『空と自動車』2005※既刊歌集から自選された歌集。もと歌集は調査中

改札を出てから雨にぬれるまで駅はどこから終わるのだろう
吉田恭大『光と私語』2019

何時まで放課後だろう春の夜の水田(みずた)に揺れるジャスコの灯り
笹公人『真砂集』2017(1975年生まれ短歌アンソロジー)
※この歌は発表済みの作品からの自選されたもので、もと歌集調査中

どこまでがフードコートか僕たちの別れ話はのっぺりとして
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』2018

いつからが秋 いつまでが秋 部活終え夕闇を踏んで帰ろう
千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』2015

蝉声のどこまでがこの世であるか肩かけかばんよつと持ち上ぐ
ルビ:蝉声【せんせい】
澤村斉美「朝日新聞」夕刊2012/8/14

どこまでが空地か国の河川敷か 雪はひといろ闇もひといろ
ルビ:空地【あきち】
齋藤史(出典調査中)

どこまでがここなのだろうゑのころが笑つてゐて話はそこまで
平井弘『遣らず』2021


■2 自分の境界が不明確 10首


自分の境界が不明確であるような歌が10首もあった。
さっきの境界が不明確であるという歌は15首とは別カウントにした。

子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る
河野裕子『桜森』1980

これはよく知られた歌。
「○○までが△△だろうか」という構文とは少し違うが、近いと思う。
他にもこういう感じの歌がある。

わたしの顔はどこまでものびるみじかいのは水彩画家のかいた虹だろ
望月裕二郎『ひらく』2009

走りながら飲み干す水ののみにくさ いつまでおれはおれなんだろう
虫武一俊『羽虫群』2016

爪までが私の城 宇宙中に冷えつつぞあるわが体温は
依田仁美『異端陣』2005

そんななか、やや気になるのが、「どこまでが私」(われ、ぼく、おれ)でで始まる歌だ。「自分の境界の不明確」を詠む10首中なんと6首もある。

どこまでがぼくなのだろう燻されたスーツのままでバスに揺られて
堀合昇平『提案前夜』2013 

この歌には「燻されたスーツのままでバスに揺られ」という具体的、個人的なことを入れてあり、スーツにしみこんだタバコ臭さが、身体の境界を思わせたり、夜通し他者とつきあったことも暗示するゆえに、どういう種類の不明確なのか、ほどよい曖昧さで絞り込んである。

だからこの歌は成功例だと思うが、「どこまでが私」は、多くの人がひとりでに思いついてしまうフレーズであるようだ。「耳どおりの良い普遍性」の気配もあるので要注意だと思った。(「耳どおりの良い普遍性」は末尾に詳述。)


■3 時間系(期限) 15首

「まで」が期限や時間の範囲を表すケース。個人的にお気に入りの歌が多い。
後述の地理的な「まで」に比べて少ないのは、この構文を時間に用いることが短歌の中では比較的の中では比較的新しいからではないかと思う。

いつまでが新婚だろう雪靴のように重たい一日の過ぐ
吉川宏志『夜光』2000

いま点けし蛍光灯の地震にゆれいつまでゆれているわれなのか
藤原龍一郎『19××』1997

朝刊が濡れないように包まれて届く世界の明日までが雨
𠮷田恭大『光と私語』2019

体感として猫は十人間は三十三歳までが不老だ
山川藍『いらっしゃい』2018

バス停はいつまでバスを待つのだろう茂みの中に半ば埋もれて
松村正直『風のおとうと』2017

鳥を飼うことのなかったいままでが切符だらけのひきだしにある
佐藤弓生『薄い街』2010

かすむ瞳の 否、此れまでが見えすぎてゐただけ ならば僕は黙るよ
光森裕樹『うづまき管だより』2012

一九八〇年から今までが範囲の時間かくれんぼです
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越しウサギ連れ』2001

上記の穂村の歌を見て以下のことを思った。
数学の公式と変数の関係を短歌にあてはめてみるなら、構文が公式、そこに嵌めてある単語が変数だ。
穂村の歌はデビュー当初から斬新さに魅了される人が多かった。
 
その新しさは、公式(言い回し)の新しさ、変数(詠み込む要素・語彙)にの新しさ、にとどまらなかったと思う。 
この歌を見ると、新しくないものの〝使い方〟〝組み合わせ方〟にも新しい面があったと思われてくる。
短歌では見かけないが「○○までが範囲」はごく普通の言い回しだし、「時間」は短歌では人気語である。「かくれんぼ」はややレアだが、寺山修司の「かくれんぼの鬼……」という超有名歌があり、短歌としてそう目新しい語ではない。
つまり、そのへんにあるものだけで、新しい歌を作ってみせたわけだ。
上記の歌は、「○○までが」を2022年現在の時点で集めたなかでも毛色が変わっているし、この踏み込み方はいまだにレアなままだ。追随を待ってそよぐフラッグみたいである。


■4 地理系(到達点・終着点・範囲など) 47首


「まで」を到達点や終着点のような意味で詠む歌がたくさんあり、実はこれがいちばん多かった。

ただし、多いのは分類が難しいせいともいえる。

ほぼ物理的地理的な意味だが例外もあるし、起点があれば範囲のニュアンスを帯びるとか、到達点でなくそこまでの距離や経過のほうが重要だとか、微妙な違いがあって線引しにくいのだ。

数は多いが印象に残る歌はなんとなく少ない印象。

歌が悪いわけでなく、詠み重なることで結果として値崩れするようにありふれてしまったのかもしれない。そういう現象もある。

以下は、そんな中で値崩れしない要素があると個人的に感じた歌。

いっぽんの紐が歩いて恋をして滅びるまでが文明である
松木秀『親切な郷愁』2013

星座全部うらがえるほど旅をして別れたまでが掛軸になる
我妻俊樹 (Twitter)@agtm_botより

水際に立ちつくすとき名を呼ばれ振り向くまでがたったひとりだ
虫武一俊『羽虫群』2016

(原形をたとえ留めていなくとも)おうちに帰るまでが遠足
龍翔『Delikatessen/Young,Cute』(発行所・年月不明)

ナースサンダルでどこまで行けるだろう会社を抜けだした日の夕闇
柴田瞳(出典調査中)

フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう
加藤治郎『マイ・ロマンサー』

すでに吾の非在なる世か目のまへのたんぽぽまでが無限に遠い
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

罰という電車を待ったこの罪はどこまで行ける切符だろうか
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016

以上


★耳どおりの良い普遍性

・短歌には独自と普遍の取り合わせが重要な場合が多い。
「ひとりでに思いついたこと」は、自分の独自な思いだと錯覚しがちだが、ちっとも独自でなくて普遍的なものである場合があって、これを取り違えるとバランスがおかしくなる。

・また、普遍性は本来良いものだが、「どこまでが私」には、〝耳通りの良い普遍性〟に陥りそうな気配がある。

「耳通りの良い普遍性」の欠点は、見た目かっこいいけれど実は本質に迫らずに、何か深遠なことを言った気分を味わえることだ。

(本質に迫れば必ずどこか角がたつ。世界は矛盾に満ちていてみんな多かれ少なかれその矛盾に順応して生きているわけで、本質に迫ると必ず自他、誰かの足元が危うくなる。「耳通りの良い普遍性」なら、その危険を冒さずに済む。)

「耳通りの良い普遍性」をプラシーボで終わらせないために、個別のこと、具体的なこと、独自なことと組み合わせるなどして、何らかの踏み込みが必要だと思った。

なお、「耳通りの良い普遍性」が好きな人も多い。また、それが必要な場面もある。「何らかの踏み込み」をうんとさりげなくしておくことで、平場でも、本音を言いにくい場面でも通用するよう汎用性が高まる。


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