2024年6月24日月曜日

雑件摘録4★語感の素敵2


1★ZINE(ジン)

お酒かと思ったら、小冊子のことだという。マガジンのジン、らしい。

検索してみると、個人やグループが自由な手法、好きなテーマで制作した冊子のこと。
文フリで見かけるあれかあ、と思ったが、驚いたのは、それを「新しい表現方法」と紹介していることだ。

なるほど、ネットなら珍しくないが、紙媒体でそれをやるのは、「新しい」ことなのね。


2★ゴリラ鯨雨

「ゲリラ豪雨」というのがあって、ちかごろの雨は風情がない。

ただひとつ面白いのは、しょっちゅう「ゲリラ」を「ゴリラ」と言い間違えること。
間違えずに踏みとどまれても、もう脳裏でゴリラと鯨が相撲をとっている。

※「ゲリラ雷雨」という言葉もあり、なぜかこちらはあまり言い間違えない。


3★筆記の擦過音をなにかに〝聞きなす〟

〝聞きなし〟の代表例は、鳥の声を「チョットコイ」などと人の言葉のように聞くことだ。

筆記のときの、スラスラ、サッサッという擦過音。
そのリズムや強弱を、何かに〝聞きなし〟てしまう動画があった。
究極の空耳アワー。気のせいだろ、と言いたいぐらいに微妙。

しかし、「何かが別の何かに聞こえてしまうと、もうそうとしか聞こえなくなる」という、言葉の現象は、けっこう強力なもので、しかもなんだか愛らしい。

 この人間の言語能力って、猫が動くものにじゃれるのと同じく、きっと本能なんだろうな。
こういう動画、たまにあるので、ぜひ探してみてほしい。


4★何にでもつく言葉

「それにつけても金の欲しさよ」

これは何にでも付けられるフレーズとして知られている。
よく知られた百人一首のこの歌にくっつけてみよう。


花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに
  それにつけても金の欲しさよ

おお、けっこう馴染むじゃないの。
人生の儚さを詠む歌から風情をかき消して、
高齢者の貧困問題を詠んだ歌になる。


牧水のこれはどうだ?

 白鳥は哀しからずや
  空の青海のあをにも染まずただよふ
   それにつけても金の欲しさよ

 白鳥が空を漂いながら、お金でも落ちていないかと下界を見ているみたい。
 花より団子的、ポエジーより現金という感じ。


で、最近おもしろいと思っているのが、「知らんけど」だ。
「真偽はわからないよ」と免責を得ようという意思表示なのだろう。

関西弁の「知らんけど」という5音は、免責というか、軽くおどけてフェイクを楽しむニュアンスもあるみたいに聞こえる。

(私が言っても、あの関西弁の味が出ない。)


さっきの歌に付けてみると、ううむ。

花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに 知らんけど

いきなり現実に引き戻すところは、「それにつけても・・」と共通している。

白鳥は哀しからずや
 空の青海のあをにも染まずただよふ 知らんけど

イメージを書くのが歌の言葉だが、白鳥の気持ちなどわかるもんか、と免責的に付け加えるところがおもしろい。

 短歌を膝カックンしてるみたい。


2024/6/24



2024年6月4日火曜日

ちょびコレ26 ~のまにまに(随に)

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


2024年4月18日 ~のまにまに(随に)


「波のまにまに漂う」などと使われる「まにまに」は、
死語ではないが、文語っぽくて、普段着のコトバとしては気取った感じになる。
そういえば、百人一首に
 このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき神のまにまに
 菅原道真
というのがあったっけ。
この歌の「まにまに」には、「神のご意思のままに」という意味に加えて、多くの紅葉が揺れるの擬態語のような効果もあるようだ。

こういう有名な用例もあることだし、短歌の言葉の領域なら、文語っぽさはもとよりあまり気にならない。さりげなく上品なこの響きは、歌人ならほっとかない魅力があると思う。
(あらやだ、私ったらまだ使ったことがない!)

myデータベースで検索してみたら、128672首のなかの32首に使われている。
これはまあまあ多いと思う。
(ちなみに俳句は1句、川柳はナシだった。俳句川柳は短歌より総収録数が少ないとはいえこの差は大きい。)

「まにまに」の意味や用例
 もし試験で「まにまに」を使った例文を作りなさいという問題が出たら、
「流されたボールが波のまにまに漂う」
と書くだろう。
ネット検索してみると、「波のまにまに」「風のまにまに」は歌詞にしばしば使われているようだ。なるほど、風まかせ波まかせという気分は歌になりそう。

 念のため辞書を見た。知ってるつもりでも以外な意味があるかもしれない。
●デジタル大辞泉
 1 他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
 2 ある事柄が、他の事柄の進行とともに行われるさま。…につれて。…とともに。
●学研全訳古語辞典
 ①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。
 ②…とともに。▽物事が進むにつれての意。

なるほど。私の解釈はほぼこんな感じではあったが、ちょっと足りないとも思った。
の辞書の説明をはみだす用例もあると思いませんか。
●見え隠れするような感じ。
つまり「間に間に」のような感じで使っていることがあると思う。

 本来の意味にないとしても、そういう使い方をする理由はわかる。
 例えば、「ボールが波のまにまに漂う」には、波まかせという意味に加えて、擬態語的な効果もある。波の意のままにゆらゆら漂う感じや、波の間に見え隠れするかのような視覚効果が。
 だから、軸足をこの視覚効果のほうに移して用いるケースがあっても違和感は少ない。

いろんなもののまにまに?

 では、私のデータベースのなかにあった「まにまに」短歌は、何のまにまにを詠んでいるだろう。
カウントしてみた。

1 10首 風
2 4首 霧(靄含む) 
3 3首 生(命含む)/波(潮含む)
4 2首 揺れ
5 1首 雲/指示/皺/負け/成り/まばたき/群れ/医師/君/鳥

「風」が圧倒的に多かったが、珍しいもののまにまにもあった。
内容を見ると、「風」のような順当なものもちょっとひねりが効いていたりして、おもしろかった。
以下、少しピックアップしておく。


鳥のため樹は立つことを選びしと野はわれに告ぐ風のまにまに
大塚寅彦 『ガウディの月』2003

右岸左岸ひとしく今日を捨てていく風のまにまに 元気をだして
北山あさひ 「詩客」2013年9月27日

そよろそよろと風のまにまにゆれやまぬ池の辺三本小杉の穂先
加藤克巳『游魂』

村道の靄のまにまにかたむいて杭はかがやく乗物を待つ
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』 (現代短歌クラシックス04)

霧のまにまに釣り人みえしぬまべりに霧晴れたれば釣り人をらず
渡辺松男 『時間の神の蝸牛』2023

うつせみの生のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ
斎藤茂吉『ともしび』

海月らが波のまにまに愛し合う氷菓窓辺でくずれる夕べ
天道なお『NR』2013

この大地震避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る
北原白秋『風隠集』1944

つひに還らず空の神兵、銀蝿を連れておほきみの負けのまにまに
塚本邦雄「短歌研究」平成8年11月

まばたきのまにまにこの身に冬の陽の黄なる光の入り溜まるかも
稲葉京子(出典調査中)

山川の成りのまにまに険しきを踏み通りつつ狭霧に濡れぬ
ルビ:険(こご)
斎藤茂吉『あらたま』

 飼猫をとぢこめしかどいつしかや葬のまにまに猫の居りけり
森岡貞香 『百乳文』

 冬山の寺の木ぬれになつめの實はつかに殘り鳥のまにまに
ルビ:冬山(ふゆやま) 木(こ)
斎藤茂吉 『連山』 

気づけばアバの♪マニマニマニー(ABBA:Money Money Money)を鼻歌で歌ってた。


2024・6・4


ちょびコレ25 レジ袋

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

レジ袋


短歌的には、「レジ袋」という5音の呼び名が使いやすいように思うが、他に「買い物袋」「スーパーの袋」といった表現も採用されている。

最初にいちばんのお気に入り1首

この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
山下一路 「かばん」2020.3(題詠「塵も積もれば」)

私のデータベースの短歌中、もっとも美しく悲しく詠まれたレジ袋である。
また、こういう捉え方で詠んだ歌は、今のところこの歌だけ。
この歌は、「かばん」恒例の新春題詠イベントで、「塵も積もれば」という題に対して詠まれたもので、そこも鑑賞ポイントにプラスアルファしたい。
(イベントでは54首出詠された中で1位の得票だった。)


●レジ袋を下げてあるく

レジ袋を詠む歌の中で比較的多い取り上げ方は、レジ袋を下げて歩くシチュエーションで、さまざまな心情的な機微を描き出す、というもの。

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵万智 『サラダ記念日』

感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』

レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015

3首目。神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。
ひとりでに遠く引いた視点からの絵になる。
なんだか記述以上のことを感じる。
小さな人間が、スーパの袋(おそらく食料が入っている)を下げて歩いている。
その手が疲れたか痛くなったか、ちょっと持ち替えて(小さな問題を解決)また歩き出す。
神の前で、普通でまっとうな、日々の命のふるまい、っていう感じだからかなあ?

●レジ袋が他のものに見える

兎ひとつ座れる形にレジ袋ベンチにありて夕暮れてゆく
小潟水脈 『時時淡譚』

枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった
千種創一 『砂丘律』2015

これはあるなあ。
風に飛ばされていく姿は、いろんな生き物に見える。

●その他の捉え方

風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015

レジ袋いりませんってつぶやいて今日の役目を終えた声帯
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013

●レジ袋は2020年7月1日有料化された。
 そのことを詠む歌もあったが、いまのところ読んでそのままの世間話という感じ。



2024年6月4日


ちょびコレ24 海岸線という線

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


2024年5月1日 海岸線という線

 すごく詠まれていそうだと思って探してみたら意外に少ない感じがした。本日の「闇鍋」短歌データ128,830首中13首だった。
 いろんな捉え方があるのが楽しい。少しピックアップ。


美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を
ルビ:忠敬【ただたか
吉野亜矢『滴る木』2004

 見ている地図に伊能忠敬が生じ、いきいきと旅をするような感じ。そして、RPG等のゲーム画面で、地図上を移動するキャラを見るような視点がおもしろい。
 ゲームでは、攻略した場所だけ地図がはっきり表示されるし、達成することでキャラが成長する。伊能忠敬が地形を攻略していく能動的な明るさが感じられる。

神の手が海岸線をなぞるように男鹿半島はやさしく走れ
柴田瞳(出典調査中)

 こちらの歌では、主体は海岸線にそって車で走っているらしい。
 つまり実際の地形のなかにいて、鳥瞰した地形を思い浮かべながら、いわば、神の指先になって、体感として海岸線をなぞっている。この点に注目した。
 
ひるがほがまひるの海岸線となり輝りぬればうみへうみへ死者たち
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

 「ひるがほ」が連なって咲き輝いて「海岸線」のように見える。その光景は美しいけれど、線を引くということは、何かと何かを隔てることだ。生命感あふれる「ひるがほ」たちの連なりは、「死者」を海の側へ追い立てる。--というふうに私は読んだ。

あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

  「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
 そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
 この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
 (そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
 そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。 
 そういう光景だと思われるが、いかが?

トンネルを数へつつゆく海岸線途中から海を数へてしまふ
小林真代『Turf』2020

 列車に乗っていて、トンネルと海が交互に目に入るような体験を、いつかどこかでしたことがある。トンネルだトンネルだとはしゃいでいたのが、いつのまにか海だ海だになっている。関心の対象が変わる。そういうふうに心境は往々にして、自然に変化・逆転することがある。
 楽しい歌であると同時に、こういうふうにいつのまにか目的を取り違えて突き進んでいることがあるなあという深読みも可能な歌だと思う。

海岸線長しかぎりもなく長し少年素手もて迎え撃たむとき
岡井隆『眼底紀行』

 さまざまに解釈ができる歌だが、「少年」という言葉について、少し絞り込んでみよう。
 「少年」という語には、セットとなるイメージがあって、排除しない限り寄り添っている。
 例えば、「父」や「大人の男」はセットである。少年はこれから、それら手強いものに立ち向かいながら成長せねばならない。
 それとは別に、「少女」というのも、これから出会って関係を構築していくべき存在として、セットイメージとして機能する。
 だから、普通はどちらかに絞り込む詠みかたをするわけで、この歌の「少年」が「素手にて迎え撃」つのは前者のほうか、と、いちおう思う。
 相手は「迎え撃」たねばならないほど攻撃的みたいだし、同じ歌集に「父」が多く登場するからでもある。たとえばこれ。
  父親がそびえて空をかくすときおさなき舌は歌詞を忘れて
 しかし、この歌は、「少女」のほうにもかすかに連想の〝引き〟がある気がする。脳内を探ると、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」がチラっと浮かんだ。この歌も解釈は多様だが、私は、「手を広げる」のは海の大きさを示す動作を思わせると同時に、「少女」への対応に不慣れで戸惑いがある雰囲気も含まれていると感じている。
 掲出歌、「少年」との代表的セットイメージの2つが融合する歌、というふうに捉えると、私の中で価値を増す気がする。

春休み関節外し放しにて地図の海岸線を旅する
ルビ:外【はづ ぱな
高野公彦『水苑』2000

現実には関節を外したら旅どころか動くこともできないが、観念上ならば、それに似た状態があるだろう。
 学校の「春休み」は、学年の境目の何年生でもない期間で、身分の〝タガ〟が外れている状態である。その解放感を少し身体感覚にスライドしたのが「関節外し放し」だろう。その開放的脱力的な観念の身体感覚で、「海岸線」という海と陸の境目を、地図上で旅する。そういうことを詠んでいると思われる。

灰色の画面のなかに横たわる海岸線が病だという
木村友 第35回(2023)歌壇賞候補作「記念日」より

 病院で何かの検査を受けてモニターを見ているのか。「灰色の画面」に表示されたグラフの線を、健康と病気の海岸線と捉えているらしい。まるで、足もとの不確かな夜の海岸線のようで、不安を伝えてくる表現である。
 病気の海岸線が「横たわる」というのも、動かない障壁のように重い語感として効果的。
 また、末尾の「だという」も重要だと思う。今まさにそのように説明されていること、心のリアクションがない段階、どころか、意味を理解する手前の段階の、実感のない事実である、ということが、この結句から推定されるからだ。
 なお、現在はあまり〝縁語〟は重視されていないようだが、「横たわる」は病気の〝縁語〟であり、目立たないけれど、語感の調和効果(あるいは不調和がない効果)があると思う。

 上記にあげた歌のどれもが、単なる景色の描写を超えて感覚的な刺激を含んでいると思う。「海岸線」という言葉にそれを可能にする力が潜んでいるのだろう。

 「海岸線」という言葉

 1 視覚:海岸線と聞いて思い浮かぶのは美しい景色である。

 2 体感:車窓から海岸線を見ながら走ると、目だけでなく体感でも感じ取れる。

 3 抽象的な刺激

:海岸線は海と陸の境目である海岸線は、そういう観念としての感覚も認識をくすぐる。観念上の刺激は、現実に海岸線を見たり、沿って移動したりする場合だけでなく、思い浮かべるだけでも、無意識な脳内に微妙な影響を及ぼす。

 4 本能的な刺激 

:また、海岸線は、海と陸との自然のなりゆきから生じただけのものだが、人間にはカタチに意味を感じる性質がある。(猫が動くものを追わずにいられぬような、本能に近い反応ではないだろうか。)線状のものに特別に惹かれ、想像をかきたてられ、ことさらに抽象化する傾向もあるとも思う。

 
2024・6・4


2024年6月1日土曜日

随時更新中 ちょびコレ マッチング 並べて読みたい歌2024

まったく別々に詠まれた2首に、

もしかして本歌取り?と気になった、
歌合せだったらいい勝負じゃんと思えたり、
時を超えて応答しているみたいだったり、
歌人の個性の違いを感じておもしろかったり、
同じ作者の作なら進化や変化を感じたり、

することがあります。

とにかく並べて読むだけで〝批評マインド〟が刺激される。
そういうセットがときどきあるので、見つけたらとりあえずここに書きとめます。

ただし、私は、
優劣には興味がない。
歌を並べて優劣を決めたいわけではない。
そこのところ、よろしくおねがいします。




2024/5/31
■死を感じたときの血管の反応

現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
斎藤茂吉『赤光』

干網黒くはげしく臭ひわがうちにしんしんと網目ちぢめゐる肺
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

本歌取りかどうか知らないけれど、似通った要素を多く含みあう歌どうし。

前者:墓地(死者がいる場)で、生きている自分の血脈がしんしんと細る、という感覚。
後者:黒い干網がはげしく臭うのを見て、(それが腐乱死体の肺を連想させるのか)自分の身の内で、肺の網目が縮む、という感覚。

ね、響き合ってますよね。

▼2024/4/7
■ぴゅーんとすべる石鹸

掌を滑りタイルを打ちて己れ跳び身を隠したり固き石鹸
ルビ:掌【て】 己【おの】
奥村晃作『鴇色の足』

石鹸がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

「石鹸」を詠む歌はmyデータベースに80首ほどある。「泡」や「洗うこと」、そして「香」を詠む歌が圧倒的に多い。滑ってぴゅーんと走るところを詠むのは珍しい。
短歌は悲しいこととか深刻なこととかを詠む傾向があって、日常にあるこういう明るい出来事は歌に詠まれにくいようだ。

★剥く石鹸
ついでに、やや珍しいシチュエーションは、包み紙を剥きながら何か考える、というもの。4首あった。

アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜
穂村弘『ラインマーカーズ』

石鹸の紙を破れば或る島の或る安宿へ記憶は帰る
千種創一『千夜曳獏』

あの紅い職場に戻されたくはない十年前の石鹸を剥く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

石鹸を覆ふ薄紙破りつつ(ささやかに)きのふは消ゆるもの
田口綾子「詩客」2011年11月


なお、もともと珍しい行為(石鹸を食べるとか)を詠む歌は、少なくて当たり前だから
ここでは拾わず、別の機会に譲る。

★石鹸+心臓
もうひとつついでに、「石鹸+心臓」という取合せの歌が2首あったので書いておく。

首に掛けた紐付き石鹸弾むのを奪う心臓奪うみたいに
穂村弘『ドライ ドライ アイス』

心臓をさわってみたいあたらしい牛乳石鹸おろす夕刻
田丸まひる『ピース降る』

「石鹸+心臓」が2首あるなら、形状の類似から「たまご」に結びつける歌がけっこうあるだろう、と思ったが、それは1首しかなかった。

鳥の絵のゑがかれてゐる石鹸を使ひへらして棄つその鳥卵を
西王燦『バードランドの子守歌』

▼2024/3/16
■床屋の椅子に座った姿


理髪店の椅子に乗っている人の姿は、ちょっと独特で、シルエットにしたら何か別のものに見えそうだ。
そういうことを詠む歌はないかな、と思って探したところ(ゆきあたりばったりで探しただけですが、)以下2首を発見。

理髪師に髭そられつつうとうとと意識は妙義山の奇岩へとびぬ
ルビ:妙義山【めうぎ】
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

確かに! 
床屋の椅子に人が乗った姿は、シルエットが妙義山の奇岩(にょきにょきと大きな岩が生えている)に似ている気がします。

理髪屋の夏の白布につつまれてわたしは王のミイラであった
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

これも、ただただすごくわかる、って感じ。

★ポイントが2つ
①すごくありきたりな驚きですが、同じ床屋の椅子でも、人によって連想や見立てかたが違うもんだなあ、と感心した。
②どちらも、かすかながら厳かな連想で「死」のイメージを含んでいる。
たった2首見つけた段階で、たんなる偶然だと思いますが。
※杉崎の歌はミイラだし、渡辺のほうは直接的でなはないけれど、石といえばお墓っぽいし、にょきにょきの奇岩たちは石にされた人か、強い思いをいだく魂が石化したか、みたいな連想を促しますから。

■動物の移動

移動が当たり前の生物は多い。渡り鳥はその代表で、本能にプログラミングされているが、そうでない動物も、餌場など何かを求めて、ぞろぞろ移動することがあるようだ。
たまたま見かじったテレビで、ゾウの家族が季節で移動しているところを見たことがある。たぶん餌のためだろうけど、じっとしているのは退屈だから、という動機もあるのではなかろうか。

それはともかく、さっきの歌のついでに目に入ったこれも、おもしろいと思った。

ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び通過するとき富士透けてみゆ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

「ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び」というフレーズ。
人が雁の列を夢想しているのだろうか。でも、雁たちの夢のなかの飛行みたいにも思える。

先日、別のコーナーでとりあげたこの歌も
ちょっと共通点がありそうだ。

牛たちの立ち泳ぎのような 窓外の真夏の雲がギリシアへわたる
井辻朱美「かばん」2023・12

牛たちが立ち泳ぎしていく姿もおもしろいし、「ギリシアへわたる」という部分にもくすぐられる。そういえばギリシャ神話にはミノタウロスが出てくるなあとか、牛にしてみたら観光とか聖地巡礼とかしたくなるのではないかしら、とか。

 動物の移動には何らかの危険があるけれど(動かなくてもあるけれど)、
いつも何らかの理由・動機みたいなものを見つけては、何かを目指して移動しようとするサガというか、生きているということがイコールそれなのか、
みたいなことを感じた。

▼2024/03/06
■自分用の雲が一つ

桐咲きてわれのみに訃であるやうな雲とおもひぬひとつ浮雲
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけで、
言いたいことは特にないのですが、

ふと、
雲を詠む歌には「我」が詠み込まれやすい気がして、
(それもほぼ確信に近い感じで)
でも、念の為に調べてみたら……。

本日の闇鍋 短歌データ 127,830首
うち、「雲」という字を含む短歌 2,117首
「雲」と「我」(わたし、吾などの別表記に、僕、俺を加えた)を含む短歌は188首。
てことは、「雲」を詠む歌の8.9%に「我」が詠み込まれている。

一方、全短歌127,830首のうち「我」を含むのは15,174首。
てことは、全短歌のうち「我」は11.9%に含まれている! 
こっちのほうが多いじゃないの!!!

調べてみてよかった。くわばらくわばら。
結局、カンは、当てずっぽより多少マシ、程度のものなんですね。
どなたさまも気をつけよう。

■自分を産んだ母について

ひたすらに雪融かす肩 母よ 僕など産んでかなしくはないか
吉田隼人「早稲田短歌」43号 2014・3

母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした
伊舎堂仁『トントングラム』2014

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけですが、好対照。
このテーマの歌集めてみよう。おいおい。