2021年3月1日月曜日

ミニ37 歩く父 歩く母


父母が歩くことを詠む歌をときどき見かけるので、集めてみました。
歌をピックアップします。

なお、父が歩く歌のほうが母が歩く歌より多い気がしたので、実数をカウントして検証。その結果を末尾に書きました。

あとから見つけた歌はときどき末尾に追加します。

1 父・母が歩く 

歌のなかの歩く主体が父・母であっても、子である自分の歩みとシンクロして詠んでいる場合があり、逆に、歩く主体が子である歌でも、記憶の父母とシンクロして歩いている場合もあるようで、線引は実のところ難しい。

女傘さし時雨をあゆむ晩年の父のこころの淋しさびしさびし
小池光『廃駅』1982

緑道を黙って歩く父だった四月の霧をほおひげに受け
中沢直人『極圏の光』2009

コルドバの牡牛の皮の靴ひずみ父あゆむうつくしき惑ひの齢
塚本邦雄『緑色研究』1965

百代の過客が通る道を行くせっかち歩きが父と似ている
田中徹尾『吟』2020

みづびたしの天を歩みてかへりゆく父の背のすぢにほふ樟の木
永井陽子『樟の木のうた』1983

フランス窓開け放ちたれば夏の庭しんと広がり父歩み来る
香川ヒサ『ヤマト・アライバル』2015
小動物が来るみたいなフシギな味わい。

暗闇を歩いていってブレイカーあげるのはお父さんの仕事よ
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』2001
父が歩く歌の中で異色のシチュエーション



母が歩く歌はやや少なめ。

歩きたる跡のひと日の秋風の中にただよふは母のまなこか
永田耕衣(出典調査中)

一輪の花を探してあるく母きがつけば手のさきがなかった
東直子(出典調査中)

膝ついて母の靴ひも結ぶときもう歩かない靴に鈴あり
佐伯裕子『感傷生活』2018

いはゆる、一人の、老人のやうに杖をつき謝るやうに母は歩み来
川野里子『歓待』2019


父母の心身の衰えを詠む歌がたくさんあるが、母のほうがその傾向が強い。
父の歌は哀れっぽさを避けるのか、かっこいい、というか、少なくともかっこ悪くない歌のほうが多い。
「歩く歌」においても、「母が歩く歌」はやや現実寄りで、「父が歩く歌」よりも衰えを詠む傾向が強いようだ。

2 父子・母子が一緒に歩く


亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ

大西民子『花溢れゐき』1971

われに何を希みし父か歩き方が静かすぎると言ひて叱りき
安立スハル 『この梅生ずべし』1964

ホスピスの通路を父と腕組んでバージンロードのように歩いた
沼尻つた子 『ウォータープルーフ』2016

父を支へて歩めば老人のにほひせり不機嫌に垂るる時間の匂ひ
米川千嘉子 『たましひに着る服なくて』1998

青白い月がゆつくりついて来る ひとりごといふ母と歩いた
新井蜜『月を見てはいけない』2014

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
ルビ:背負【せお】、軽【かろ】
石川啄木『一握の砂』1910

疵口の癒着のごとき繋がりをたもちて母と道歩くなり
堀田季何『惑亂』2015

母とふたり桜の下を歩みゆく父の癖など話しつつゆく
小島なお『サリンジャーは死んでしまった』2011



父母といっしょに歩く歌では、お子どもの頃など優しい歌が読みやすい。が、老父老母を詠む歌が多く、父の衰えも母となじぐらい詠まれている。

老いた父母に対する心情をさまざまに表そうとしていて、それはいちいちわかるが、なんだか現代の歌がまだ近代の啄木を超えないような、なんとなしにもの足りない感じが残った。


短歌の中では父のほうが歩く


父は「歩く」ことを詠む歌が母よりも多いような気がしたが、そういう歌人のカンはよく外れるので、ちゃんと調べてみた。


本日の闇鍋 短歌データ 総数112,040首


「父」という字を含む短歌総数 1,980首
 うち父が歩く18首 父子が歩く8首  計26首
 1/76首

「母」という字を含む短歌 2,605首
 うち母が歩く10首 母子が歩く12首  計22首
 1/118首

※歩く主体が子でも、父母の記憶などとシンクロして歩いているようなケースは含めました。

というわけで、

歌人のカンは大当たり。短歌の中では父のほうが母よりも歩きます。


追加分

リハビリの母の歩みはゆっくりと月の表面ゆくように見ゆ
大西淳子『さみしい檸檬』2016





2021年2月17日水曜日

レア鍋賞 2020年

2020年は出版でいそがしく、レア鍋を少ししか探しませんでした。


■すっぽかす

2020年9月20日

「すっぽかす」という語を含んだ歌は以下の1首しかなかった。


あと戻りできないフロアまで行ってそれでもすっぽかしたことがある
虫武一俊『羽虫群』


■金太郎飴

2020年3月26日

「金太郎飴」という語を含んだ短歌は以下2首しかなかった。


ぼたん園に巡査が四人自転車をひいてゆくなり金太郎飴
こずえユノ「かばん新人特集号」2010・12


金太郎飴の断面ひしゃげてる断ち切って断ち切って過去たち
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』


これ以前のレア鍋はこちらを御覧ください。

ワン鍋・ニャン鍋・レア鍋賞とは?

ワン鍋・ニャン鍋・レア鍋とは?

  データベース闇鍋を使って短歌などを検索していると、「え、こんなフツーの言葉があんまり短歌に使われていない?」と驚くことがあります。

そこで、用例が一首しかない場合を「ワン鍋賞」、二首しかない場合を「ニャン鍋賞」として讃えることにしました。

また、用例が3首以上でも、普通はよく使う語なのに、そのわりには歌にはあまり詠まれていない、という場合も、「レア鍋賞」として、ここにご紹介することにします。

ナイ鍋(または空鍋)も

ついでに、一般に使う語なのに短歌にまだ使われていないような単語をみつけたら書き留めておきます。


短歌はまだ幼くてカタコト

  短歌という定型詩は、一三〇〇年以上の伝統を背負う円熟した詩型だと思われがちですが、実は短歌はまだ幼く、日本語を使いこなせていない。実はカタコト状態なのです。  

  日本語の言語活動の現場を見渡すと、短歌はほんの一角を占めているだけであり、そこで使える語彙がかたよっているし、単語レベルで見ても、ある単語に意味がいくつもある場合に、短歌に用いられているのはその一部だけ、というふうに偏っていることが少なくないのです。

   短歌は、古典時代から少しずつ、ほんとに少しずつ、使える言葉や意味を増やしてきていていますが、まだまだ「完成された詩型」ではないのです。

安易に敬っちゃダメ! 

 それなのに、短歌という詩型は、完成されたものとして敬われてしまう面があります。

 江戸時代には「歌道」として敬われ、当時の新ジャンル、俳諧や川柳の基礎的教養と位置づけられました。(ゆえに過去を踏襲することが重視され短歌は何百年も停滞した、と学校で習った。)

 今でも、短歌に冠する言説において、伝統など、あたかも短歌には堂々とふりかぶる権威があるかのような言い回しを見かけますが、過去の成果がどんなにたくさんあったって、まだまだ足りない。過去を地固めしつつ、あくまで謙虚に、新しいことを取り入れることが大事であると思います。

2021年2月16日火曜日

ミニ36 ホッチ・キス! ホチキスの身体性


魚の腹にぎっしり詰まる卵みたいだな。

ホチキスに針を入れていて卵巣を思い浮かべた。

こういうふうに無機質のものが生体と結びつくと、ちょっと詩情をそそられる。短歌に詠まれやすいんじゃないか、と思って、データベースを検索してみた

そのなかから本日の好みで少しピックアップする。


ピックアップ


窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごときくちづけ
穂村弘『回転ドアは、順番に』2003

おとな海老ミソで壊れホチキスが針を吐くのだ五月の怒涛
和合亮一 作者ブログ2015・10・27

ためせどもやはりとほらぬホチキスの針をぬくときゆびのふかづめ
光森裕樹『鈴を産むひばり』2010

ホッチキスはづして二枚捨てたりき海を見て海に触れざりし夜
大松達知『ぶどうのことば』2017

真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ
やすたけまり『ミドリツキノワ』2012

新年の一枚きりの天と地を綴じるおおきなホチキスがある
服部真里子『行け広野へと』2014

ホチキスが紙にくひこむ感触が春立つけさの指に伝ひ来
大辻隆弘『抱擁韻』1998
※「辻」の点は一つ
ホチキスの針千本は二十連 みどりの箱に詰められてあり
大森益雄『水鳥家族』2001

あのひとがわたしの名前にルビをふるホッチキスはホッチキス語しゃべる
杉山モナミ 「かばん」2015.3

   *   *   *

ホチキスの身体性 特に注目した歌


機関銃乱射ふう


 上記のなかで、私が最初にホチキスに対して考えた「無機質のものが生体と結びつく」という着想に一番近い、というか、より過激にぶっ飛んだな感があるのはこの歌だ。

おとな海老ミソで壊れホチキスが針を吐くのだ五月の怒涛 和合亮一


 何がどうしたと散文のように読むことが出来ない歌だ。歌が冒頭からそういう読み方を拒否している。そのかわり、この文字数では通常言い切れないことが盛られているようだ。

 海老ミソは風味豊かな珍味、子どもも食べるだろうが、どちらかといえば大人の味である。
 また、海老の脳味噌みたいで(実は内臓で肝臓のような場所だが)、脳を食べるということには、ごく微かに背徳的な気味悪さや恐ろしさがないでもない。実際、人や動物の脳を食べることで感染する神経疾患があるそうだ。

 「おとな」「海老ミソ」「壊れ」まではそういう連想でつながるが、ここでいきなり出てくるのが「ホチキス」だ。生身の生き物とは対極の物体である。
 事務用品だが、その体には針がぎっしり装填され、卵巣、否、弾倉のようだ。壊れた「おとな」たちのオフィスでは、ホチキスが機関銃みたいに乱射しながらあばれまくる。

 その混乱は人の世の中に蔓延したあと、ついに地球を覆う海にまで拡大、大荒れになる。

 「五月の怒涛」の「五月」にも注目。五月晴れの明るさは絵としての歌の背景を語るし、「ごがつのどとう」の「ご、が、ど」の語感のさわがしさも効果的だ。
 併せて、冬の鍋物、春の職場、初夏の海というような時間経過もなんとなく感じ取った。病いが潜伏期間を経て拡大するような感じだ。
 まあ、その点は、気のせいとか邪推とか言われればそれまでだが。


「ホッチ」と抱き寄せ「キス」でキス


 短歌というジャンルは幸福感を詠むことが苦手である。
 そもそも「幸福」は繊細なものだ。
 ちゃちな表現、陳腐な表現では、「幸福」という大切なものを貶めかねない。下手な書き方をすると、読者がしらけたり疎外感を味わったりして、「あっそう、しあわせで良かったね」と(むろん口には出さないが、)冷たく受け止める場合さえある。

 でも、まれに幸福感を詠むことに長けた人がいる。
 穂村弘だ。
 影響を受けている歌人は多いが、彼ほどに、幸福感をさりげなく、それも極まってMAXであるような場面を詠んで、読者を魅了できてしまう歌人はそうそういない。


窓という窓から月は注がれて ホッチキスのごときくちづけ   穂村弘


 月光が祝福するかのようであり、「窓という窓」から注ぐといえば、スポットライトが集中するかのようでもある。
 月といえば古くから人々を見守ってくれる存在でもあるから、それが普通の部屋だったとしても、月という神聖な観客だけに見守られている小さな舞台みたいにステキな場所になり得る。

 「ホッチキスのごときくちづけ」は、ガチャッとくっつくような斬新なくちづけ表現だ。

 読者は月の視点からうんと小さな一室を覗き込む。フシギなアングルだ。
 それと、この歌を読んではじめて気づいたが、「ホッチキス」には「キス」が含まれているし、「ホッチキス」って掛け声みたいじゃないだろうか。
 その部屋には、小さな人形みたいな人がいて、「ホッチ」と抱き寄せ「キス」でキスする、みたいな、奇妙なノリもこの歌には仕掛けてある気がする。
 
 そのあたり、ホチキスと身体イメージの関係がすごくレアなところを狙っていると思う。

ピュアでけなげなホチキスさん


 短歌はどういう題材でも、ウエットな雰囲気とか、虚しい気分を漂わせるとか、ざっくり言えばシケ(湿気)た感じを詠む歌が多く詠まれる傾向がある。

 しかし、「ホチキス」という題材はやや新しいのか、シケ率はそんなに高くない。
 次の歌はややウエットと言い得る内容だが、捉え方が新鮮だ。

真夜中にはたらいているホチキスのつめたいせなかちいさなくしゃみ
やすたけまり

 夜更けまでホチキスを使うような事務仕事をしている人。--それはそうなんだろうが、ニュアンスに少し新しさがあって、それを見落とさないように気をつけて解釈したい。

 人が寝静まった真夜中にコビトさんが働く童話があったが、「つめたいせなかちいさなくしゃみ」というくだりは、ピュアであり、けなげであり、コビトさんふうではなかろうか。

 夜遅くまで仕事をしていると、もう人間ではなくなり精霊化する。
 ホチキスを使っていればホチキスさんになる。
 カシャっという音も言われてみれば「ちいさなくしゃみ」みたいでほほえましい。

 というわけで、ホチキスの身体性を詠む例として、この歌も注目すべき点があると思う。

  *  *  *

本日の闇鍋短歌総数 111,431首

うちホチキスを詠む歌 21首

テキスト検索

検索文字列:ホチキス・ホッチキス・ステープ(ステープル・ステープラー)

 ホチキス 14、ホッチキス 7、ステープは該当なし



2020年12月26日土曜日

満59 左目と右目の違いって?

 1 左右の目を詠む歌をピックアップ

 最初に、右目と左目を詠む短歌をピックアップします。


失えばサイクロプスとはなり得るか夜は右眼へのみ早く来し
渡部洋児『屈形のウェヌス』1991


三四郎の冬嫌いより不機嫌なあなたの右眼さかさまにしたいな
杉山モナミ(出典捜索中)


父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ
十谷あとり 『ありふれた空』2003
高柳注:メガニウラは古代の巨大なトンボ


渓谷の夜の声走りひたぶるに左眼をすすぐうれひのありき
山中智恵子(出典捜索中)


射抜かれし左目西へ向かいつつひかりはひかりを呼びて鋭し
渡部洋児『ハガル=サラ・コンプレックス』2015


いかなれば左目のみに湧く涙おそらく右目は死を忿りゐむ
忿【いか】
蒔田さくら子『サイネリア考』2006


うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
笹井宏之『てんとろり』2011


何時だろう揺れる窓には右眼から左眼にとぶ野火ひとつあり
加藤治郎『マイ・ロマンサー』1991


右目左目の歌はこういう感じです。

お忙しいかたはここまで。

お時間と興味がおありでしたら以下もどうぞ。


1 「右」と「左」のイメージの違い


 右と左は、単に右側と左側を意味するだけではない。「右」と「左」という語はそれぞれに、特別なイメージを備えている。

 たとえば慣用句に「右に出る者がない」「頼もしい右腕(部下など)」「左まえになる」「左巻き」などがある。これらを見ると、右は有能で積極的、逆に左はなんとなく不器用で消極的な語感があるようだ。

 しかし、単純に優劣では語れない。

 「右翼左翼」では左が侮れない第二の勢力みたいだし、少数である左利きは魅力となり得る。実際、左腕投手は大切な存在だ。
 そしてさらに、詩歌のなかの「左」は、感傷的でナイーブなニュアンスを帯びているようなのだ。


2 詩歌のなかの「右」と「左」


〈右:能動的・行動的・有能〉 〈左:内面的・心情的・葛藤〉 

 詩歌の表現において、右か左かという位置情報は、現実世界ほどの意味を持たない。

 そのかわり、「右」は能動的・行動的に前に突き進むイメージを、そして「左」は内面的・心情的に複雑で繊細な心情を暗示することが多いようだ。

 たとえば、現実のなかで「あの角を左に折れて少し先の」などと言う場合、「左」は具体的な位置情報である。

 しかし詩歌文脈で、

「右に曲がれば我が家」

と書いたらどうだろう。それは場所の説明ではない。

 じゃあ何を表現しているのか?

 この場合は、「右に曲がる」という動作を伴う体感や、すぐそこにある「我が家」の気配を表している。

 そして、その体感や気配は、実際の体感等にもとづくだけでなく、言葉のイメージによる暗示も関わっている。

 「右」は〈能動的・行動的・有能〉でスピード感があり、「右に曲がれば我が家」は、「ほらすぐそこだ」と屈託なく右に曲がれる。

 しかし、
「左に曲がれば我が家」
だったらどうだろう。足取りが重くなるなどの鬱屈した心情表現に適していないだろうか。

 

3 右目と左目 詠まれる頻度は?


 さて、左右といえば手や足をはじめ、いろいろな左右が短歌に詠まれている。

 が、全部を相手にすると本が一冊書けそうな大ごとになるので、今回は、右目左目を詠む短歌を集めてみた。
 参考として俳句・川柳も探した。


 検索テキスト:
「右目」「右の目」「左目」「左の目」とそれぞれの別表記(眼、瞳、かな表記など)で検索した

 その結果、右目、左目、あるいは両方を詠み込んだ短歌は、短歌データ総数110,567首中37首あった。

 詠まれる頻度は約3000首に1首である。
  内訳 右目11 左目15 両目11


 俳句川柳も同様にカウントした。

 私の手持ちデータの俳句川柳は総数が少ないので、統計としては信頼できないのだが、俳句も川柳も、右目左目の句は短歌より少なめであるようだ。


俳句 30116句中8句  約3700句に1句
 内訳 右2 左1 両方5

川柳 13302中4句  約4400句に1句
 内訳 右0 左1 両方2


 なお、俳句は現代俳句協会のデータベースでも探してみたが、そちらでも右目左目を詠む句は少なく、しかも私の手持ちデータとほぼ重なっていた。

 川柳も、「川柳おかじょうき」のデータベースをあたってみて、私のデータにない13句をゲットできた。

 その内訳 右10 左2 両方1

※「川柳おかじょうき」データベースは5万句以上を収録しているが、かなり重複がある。実際の総句数がわからないから、頻度の算出はできないが、たくさんあるようには感じられない。


4 眼が傷つくなどの異常


 検索したデータをざっと見ると、目が痛むなど、何らかの痛手を受けた状態の目を詠む例がいくつもあるようなので、まずはそういう歌を拾ってみた。

 いくぶん左目のほうが多いようだが、右目の例も決して少ないわけではない。

 まずは右目。


乾きたる砂利道あゆみ来し夜のみぎの目蓋ひきつりやまず
ルビ:目蓋【まなぶた】
阿木津英『白微光』


痛みたる右眼もの視【み】ることなくばわが明後日の心読むべし
ルビ:明後日【あさって】
渡部洋児『屈形のウェヌス』


 右目の2首。「右目」とした効果は何だろう。

 歩くことや未来に関わる内容で、能動性がくじかれた、という暗示がそれとなく働いていると思う。--と、言ってのけると自分でも胡散臭いぐらいの淡い暗示だ。

 次の歌はどうだろう。

父はわれを捨て給いきと気付くとき右眼のなかを翔ぶメガニウラ
十谷あとり『ありふれた空』

※メガニウラ=メガニウラは古代の巨大なトンボ。なお、目の病気で虫が飛ぶように見える飛蚊症というのがある。

 目の異常を「右眼」と限定した効果で、父に捨てられたことで生きる拠り所を失う、深刻な衝撃のニュアンスになっていると思う。巨大トンボ(しかも古代の)に阻まれて一歩も歩けないような。

 試みに「左眼」に替え、「左眼のなかを翔ぶメガニウラ」としてみる。

 深刻なんだけれども、歩けなくなるような瞬間的な衝撃でなくて、巨大トンボを内面に飛ばしたまま歩き続ける、という長引く影響のようなイメージが傾かないだろうか。

 そこまでの大差はない、と言われればそうかという程度の微妙な差だが。


 こんどは左目。


左目の傷がわたしに見せる虹廊下のすべての蛍光灯に
入谷いずみ『海の人形』2005


戸惑つてゐるとききみの左眼がうすむらさきになるからこはい
西田政史『ストロベリー・カレンダー』1993


左目がすこしかすんで短日をウインクばかりしてをりわれは
田村元『北二十二条西七丁目』2012


 気のせいか、という程度だが、やっぱり左目と右目とは何か違う。
 左目の損傷や異常として描かれると、内に秘めているものが少し漏れ出るような感じになる。
 これらの歌の「左目」を「右目」に替えたら、その危険度がやや増して、噴出しそうに切迫しないだろうか。

 次の歌もおもしろい。


射抜かれし左目西へ向かいつつひかりはひかりを呼びて鋭し
渡部洋児『ハガル=サラ・コンプレックス』2015


 解釈はいろいろだが、私には、夕日が西に沈むあの劇的な様子が思い浮かぶ。「左目」は「西」の夕日にマッチし、「右目」だったら「東」から昇る朝日のほうが似つかわしい、と感じる。

 さて、このように、短歌には左右の目の痛手みたいな状態を詠む例が散見されるが、俳句では、そういう題材の句が見当たらなかった。(あくまで私のデータベース内。)

 川柳も同様で、左右の目の痛手は川柳にはあまり詠まれないようだ。
 ただし、目の手術を詠んだ句が同一作者で2句あった。実体験の報告だろうか。

右の目がその針を待つ手術室
杉山太郎 2004年03月 月刊おかじょうき
手術後の右目を待っていた桜
同上 2004年04月 月刊おかじょうき

 もしこれが左目だったらどうだろう。

 実際にはどちらの目の手術でも違いはなかろうが、言葉のイメージは違う。

改作:手術後の左目を待っていた桜


 改作してみると、句の雰囲気が変わる。なんとなく退院後の生き方まで違ってきそうだ。


5 涙は左目から出る?

 目といえば涙が出るところ。
 そして涙は、左右の目のどちらからでも出る。現実世界では。

 しかし、短歌に詠まれるのはなぜか左目の涙ばっかりで、右目の涙を詠む歌は、私のデータベースにはなかった。

 

いかなれば左目のみに湧く涙おそらく右目は死を忿りゐむ
ルビ:忿【いか】
蒔田さくら子『サイネリア考』2006


うつくしいみずのこぼれる左目と遠くの森を見つめる右目
笹井宏之『てんとろり』2011


 やっぱり右目は行動的、左目は内面的というイメージが底にあって、それで涙も左目にふさわしいのではなかろうか。
 次の歌と句の例でも、涙は左目から出ている。


右向きにふとんで泣けば左眼のなみだが一度右目にはいる
本多真弓『猫は踏まずに』2017


晩年や左眼の涙を右眼容れ
永田耕衣『物質』1984


 左右を逆にしてみる。

改作:晩年や右眼の涙を左眼容れ

 どうでしょう?

 ビミョーだが、左目の涙に比べると、「右目の涙」は、感傷的ではない特殊な涙、たとえば怒りの涙など、外向きの強い感情が感じさせると思う。

 涙でなく水物との組み合わせもやっぱり「左目」だった。
 ウエット系は左、と言ってもいいようで、これも右目の出番がない。
 

渓谷の夜の声走りひたぶるに左眼をすすぐうれひのありき
山中智恵子(出典捜索中)


句読点をどこに落としてきたんだろう 左目に差すぬるい目薬
柴田瞳(出典捜索中)


くちびる 手 痛み それだけで左目の雨はできてるよ だいじょうぶ
杉山モナミ(作者HPより)

 「左目の涙」という題材は短歌では好まれるようだが、俳句川柳ではそうではない。(「右目の涙」は短歌でもない。)

 「左目の涙」短歌は4首あったが、俳句は上記の永田耕衣の1句だけで、川柳では見当たらなかったし、水物とウエットな雰囲気で組み合わせるのも短歌の発想であるようだ。

だだし、西東三鬼の

右の眼に大河左の眼に騎兵

は、右目と水物の組み合わせで、これはものすごくレアである。


6 そのほかの左目の歌と句


短歌

左眼を閉ぢたまま歯を磨くのは気になるけれどゆるしてあげる
西田政史『ストロベリー・カレンダー』


燃え尽きず地上に落ちた流星がおれの左の目になったのさ
植松大雄(出典捜索中)


左眼のみ近視の眼鏡かけしかばわが足もとのややにかたむく
和田周三 第一歌集『微粒』1956


弱りやすい左目閉じて見つめいる遠すぎるなあ文字も画像も
東直子 「歌壇」2007・12


やはやはと海面発火する午後に少女は左目をなくしたい
川野芽生 『Lilith』 「本郷短歌」創刊号


俳句


少年の左眼に映るは椿事ばかり
藤原月彦『藤原月彦全句集』2019


川柳


まだ誰も許していない左の目
八戸むさし 2001・5 おかじょうき50周年記念大会


左眼に桜秘めたままでも生きられる
西山茶花(出典捜索中)


錯覚を見続けて居たい左の目
ひとは 「月刊おかじょうき」2010・7


7 右目の歌


 右目の歌は傷のところで少し取り上げたが、それ以外の右目の歌を紹介する。

 右目の歌には、左目と涙のようにわかりやすい特徴がない。
 なんとなく、〈能動的・行動的〉ではあるが、それをあまり力説してしまうとうさんくさくなる、という程度に微かである。


失えばサイクロプスとはなり得るか夜は右眼へのみ早く来し
渡部洋児『屈形のウェヌス』1991


琥珀石透かすいつときゆふぐれは右の眼にのみ訪れぬ
高木佳子『青雨記』2012


 この2首、「右」を「左」に替えてみても、それなりにいい歌だなあと思って読めてしまう。「右」には〈優先性〉がある。それを味わうべきか……、などと考えてみたものの、あまりはっきりしない。

 ただ、「左」に替えると、はりつめた感じが薄れて、歌の雰囲気がウエットになるような気がする。「右目」には世界に直に触れるような緊張感があることは確かだと思う。

 その他にも、説明困難な右目の歌がたくさんある。以下、少しあげておく。


「う」と言ふ女傑、鯨面の、右目にひそむ筋彫りがシャイ
菅井正廣「かばん」(出典捜索中)


車庫入れの時はきまって曲るのは右で見るから左目で見よ
田原久美子「かばん」2004年6月


三四郎の冬嫌いより不機嫌なあなたの右眼さかさまにしたいな
杉山モナミ(出典捜索中)


あのひとが自分の写真の右の目を切ってさかさに貼ってるパライソ
杉山モナミ『ヒドゥン・オーサーズ 』(19人の作品集)Kindle

 高柳注:パライソ=楽園、パラダイス(スペイン語ポルトガル語)キリシタン用語

 
 杉山さんの2首に出てくる「右目のさかさ」という捉え方に惹かれる。左右という対照関係だけでなく、上下逆さという新たな対照関係で目のイメージを開拓している。


8 左右の目の関係


 右目と左目、両方を詠み込んで対比させたり関連付けたりする例がたくさんある。ここまで取り上げた中にもいくつもあったが、それ以外の歌や句をもう少し紹介しておく。

 多くは説明しがたいのでもうコメントは控えるが、ふしぎな右と左の関係を味わってください。

短歌


何時だろう揺れる窓には右眼から左眼にとぶ野火ひとつあり
加藤治郎 『マイ・ロマンサー』


手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
我妻俊樹 「率」10号:我妻俊樹誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』


赤い目は左右にとおく雪降りの日には内よりかたまる兎
高橋みずほ 『フルヘッヘンド』2006


 もうひとつ。

左の眼わるくなりしが右の眼もすこしあぶなし眼は大切ぞ
岡麓『雪間草』1952


 はいごもっともです。(笑)
 変わった歌が多い中、こういう歌を見ると力が抜ける。


俳句


俳句では左右の目を対比的に詠む例が多いようだ。

右の眼に大河左の眼に騎兵
西東三鬼


右の眼に左翼左の眼に右翼
鈴木六林男


右眼には見えざる妻を左眼にて
日野草城


右眼茫とし帰雁の列を左眼に嵌め
吉田未灰


川柳

右の目と睨みあってる左の目
むさし「月刊おかじょうき」2016・1


右目より左目うまいと呟く鴉
湊圭史


藍の天 左右の眼ゆきかうクルス
渡部可奈子


 いかがでしょう。右目左目の関係。

 おもしろい。でもまだわからない、もっともっと読みたい。10年ぐらいたったらまた集めてみよう。
 新しい歌や句が詠まれて、右と左のイメージが育っているはず。

 今日はこのへんで。


 蛇足ですが……

 「右は行動的、左は内面的」等は、あまりにも微妙なニュアンスでしかなく、そうだと決めつけるのは良くない。それでも、少し踏み込んでみないと検出できないような要素がある。

 作者というものはたまに、テキトーに言葉を選ぶことがあり、たとえば締切が迫って「右」とか「左」とか字数合わせで言葉を嵌めることはありえるのだが、しかし、たとえ作者が意図しなくても、「右」か「左」かに絞り込んだ表現の効果は、歌に反映しないではいない。

 鑑賞は、作者の意図を汲むだけでなく、作者の意図を超えて言葉たちが表現していることも汲むほうがいい。人はたかが人間一匹にすぎず、言葉には歴史的時間をかけて積もった豊かなイメージがある。

 それが作者の意図を超えて歌を支えている可能性を考えれば、「過剰な深読み」の危険をおかしてでも踏み込んだほうがいい、と私は思っている。



2020年12月24日木曜日

ミニ35 赤いポスト

郵便ポストが赤いのは……

落語で「空があんなに青いのも 電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのも みんなあたしが悪いのよ」というのを聞いたことがある。

これは、何か責められたときに「はいはい、そうですよ、どうせみんな私が悪いんでしょ」という拗ねた反応のセリフだ。

が、それはともかく、ポストの赤は、空の青と同列のベーシックなことなのだなあ。

ということ考えたついでに、ポストの赤を詠む短歌を探してみた。

空の青を詠む歌なら実にたくさんあるが、ポストの赤はどうだろう。どういう詩情を見出し得るだろうか、と。
本日のデータベースの短歌総数110,567首、うちポストを詠む歌は108首。
そのなかでポストの赤を詠む歌は以下の9首だった。

「俺は…俺は…」おれは今夜もポストなり赤く塗られてただ口あけて
加藤治郎(出典捜索中)


真夜中の赤きポストの能天気不幸の手紙何通呑みて
藤原龍一郎『19××』1997


赤きポストの傾きて立つところより残暑湧きつつとめどもあらず
小池光『日々の思い出』1988


まっぴらなまっぴるまにも立っている赤いポストはいつもの場所に
加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』2001


あきかぜの吹く無人駅市振の赤いポストは遊女のやうな
木畑紀子『歌あかり』2008

※市振駅(いちぶりえき)は、新潟県糸魚川市にある、えちごトキめき鉄道・あいの風とやま鉄道の駅

いつまでも真っ赤な小学校なわけ無いじゃないポストじゃあるまいし
我妻俊樹 作者ブログ「喜劇 眼の前旅館」2010-03-12


木造の古家多き町並みに似合う郵便ポストの赤は
ルビ:古家【ふるいえ】
松木秀『親切な郷愁』2013


波音の聞こえ始める坂道にある旧式の赤いポストは
千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』2015


澱みなく言い切るときに夕刊が至る わたしのポストが赤い
吉田恭大『光と私語』2019


見慣れた立ち姿、レトロで風情のある赤……。
おもしろい。
まだまだいけそう。
詠まれ続ければもっともっと味が出てきそう。

2020年10月2日金曜日


昔のエッセイ/短歌全集 ―アシモフ風に 



「かばん」86年2月掲載 
ホームページの古いエッセイの中にある文だが、ちょっと読んだら面白かったのでここにも掲載する。


昨年マンションを買い、約千五百万の借金を背負いこんだ。おかげで、一千万という数を、おぼろげながらも実感することができた。だがそれ以上の桁となると、遠い恒星も近い恒星も「お星様」としか見えないように、あいかわらず「大きな数」である。
わが親愛なる夫がパソコン(元祖X1)を買って三年余、彼の努力にもかかわらず、私が覚えたのはスイッチだけだ。

それでも、コンピュータで短歌を作ることは一応考えた。単語等をたくさん入力して組み合わせる方法もあるが、手間がかかりすぎる。それよりも、入力するのは五十音のカナだけにして、三十一文字でできるカナの組み合わせを網羅してしまえば(字余りは考えないものとして)、短歌のすべてを書き切ってしまうことができる、と思い至った。文字通り「短歌全集」である。それがわが家でできるのだ。

さてこの歴史に残る計画を、「ユモレスク」の出版を祝う会(みなさまありがとう) で披露したところ、小森さんが「五十音に濁音や『ぴょ』のようなものを含めると、カナは約百種あり、三十一文字それぞれが百通りだから、100の31乗首になる」と計算してくれた。今野さんが「大変な数ですヨォ」と言うのをモノともせず、「コンピュータだもの、せいぜい親子三代で取り組めば、短歌全集のできあがりヨ」と、大きく出てしまった。わが家のX1かわいさのゆえであった。

そしてそれきり、実際にうちのプリンタが100の31乗首印字するのに何年かかるのか、計算することなく何ヵ月も過ぎてしまった。誰の言葉か忘れたが、真理とは概して無愛想なものであり、こちらから話しかけなければ知らんぷりを決めこんでいるというから、早速計算してみよう。

一年は31,536,000秒。一首印字する時間を4秒と決め、100の31乗は10の62乗におきかえる。式は省略。答えは約12,700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000年となる。(もしかして少し違ってたらごめんね) 12.7×10の55乗年と書いた方が良いだろう。
この宇宙が誕生してから現在に至るまでに流れ去った歳月ですら、わずか10の11乗年かその倍ぐらいなのだから… … すごい。

では本にしてみよう。「あ」が31個の第一首ではじまり、「ん」が31個で終るこの全集は、一巻千頁、一頁百首とすると、10の57乗巻の大全集となる(注1)。一巻が1キログラムだったら10の57乗キログラムの紙が要る。どうか爪を噛まないで読んでいただきたいが、これに対して地球の重さ(?) は、ほんの5.983×10の24乗キログラムにすぎない(注2)。

これで私の全集計画はぺしゃんこになってしまったが、無限に等しい数とはいえ、短歌が有限であるという事実は動かせない。短歌は、いわば短歌の女神の巨大な卵巣の中にすべて用意され、順番を待っているのだ。この比喩を続けると、私の場合、著しく「かばん」の品を落とすかもしれないので、残念だがこのへんで話を変えよう。

次に思いついてしまったのが「短歌登録制度」である。
長い長い年月の間には、それと知らずに同じ歌を詠んでしまうケースがあるはずだ。文化的遺産として語り継がれる少数の作品以外は、作品も作者も忘れ去られて、おろかにも再び作りなおされてゆくのではなかろうか。そんな無駄を防ぎ、作者の権利を守るため、短歌をコンピュータに登録しようという提案があっても不思議ではない。

しかし、断っておくが、私はそんな必要も熱意も感じてはいない。それは、同じ作品が生まれる確率の低さ等のケチな、いや数学的な理由ではない。ある種の作品は一度生まれれば、多くの人の精神に効率良く働きかけながら生きながらえるが、忘れられるタイプの作品は、その短い一生で、ほんの数人をなぐさめるだけだ。だから何べんでもチャンスは与えられるべきだと思う。

宇宙的な時の流れの中では、それも自然な現象に見えるが、いかがなものだろう。おや、こんどは足の爪ですか?


原注1 ちなみに俳句は、総句数はたったの10の34乗句、10の29乗巻の全集ですむ。また、こういう全集が完成したあかつきには、カナの列から意味を読みとる作業が、歌人や俳人の仕事となる。

原注2 アシモフのエッセイにそう書いてあったが、その算出方法は、何回読んでもすぐわからなくなる。


2020年10月追記

冒頭に出てくる借金はぜんぶ返し終わり、離婚し、パソコンはまあまあ得意である。

そして人は変わらないもの。この文体は、何度生まれ変わっても、自分が書いたとわかると思う。

※「すけるとん」のイラストは、どういういきさつか忘れたが、「かばん」誌のこの文章の末尾に添えられていた。  この文章を書いた当事、まだ5歳ぐらいだった長男が書いたものだ。

今は、その子の息子(4歳)がよく遊びに来ている。