2024年10月27日日曜日

ちょびコレ36 △△という字が◯◯に見える など

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

のつもりなのですが、今回、歌数がすごく多くなってしまいました。


馬の字は馬に似て見え牛の字は牛と見え来る文字のフシギ
ルビ:文字【もんじ】
奥村晃作

■◯◯が△△という字に見える/△△という字が◯◯に見える


文字の形はときどき何かに似て見える。逆に、何かが文字に似ていると思うこともある。

そりゃあ象形文字だから、似ていて当たり前、という場合もあるが、意味などに全く無関係に似ていると感じる場合もあって、それを歌に詠むということがけっこうある。

「無関係なものに類似点を見出して、そこになんらかの意味、情趣などを見出す」というのは、人間特有の能力であり、思考の娯楽のようなものではないだろうか。


砂浜に残る足跡 その全てがもしももしもという字に見える
土居文恵「かばん」202410


溶けだしてしまったソフトクリームは舌を@の字に動かして食う
千葉聡『微熱体』

文字盤の数字は虫に見えるけど おはようわたし おそらく朝だ
兵庫ユカ 『七月の心臓』

長距離を走り終えたる少年のひざVの字をさかさまにして
俵万智『かぜのてのひら』

きれいなものからきりはなされてあたしYの字ぱちんこどこへやったろう
飯田有子『林檎貫通式』

土壁の「キ」と「サ」と「キ」など月影に静かな蜥蜴写字生に似て
雨谷忠彦「かばん」200112

雀のようなタイの文字よいっせいに飛び立つときを待っているのか
ルビ:文字【もんじ】
俵万智『チョコレート革命』

人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに
香川ヒサ 『テクネ―』

四季を知りプールの底のⅠの字が魚影に見えなくなって それから
櫻井朋子『ねむりたりない』

山といふ字を書けば山が見えて來る故郷の山の白いかなしさ
前川佐美雄 『白鳳』

火の色の虹を見ていた『戦争と平和』の「と」の字のようにしゃがんで
千葉聡「かばん」200112

安寧はひとになじまずほのぐらい空にくの字の雁になりたい
井辻朱美『クラウド』

モノリスを脱いでもYMCAのYの字の人似のポーズです
鈴木有機「かばん」200112

パソコンに打ち出されたるQの字が風船にしか見えない 眠い
松木秀『色の濃い川』

コバルトのとかげ現れ陽を返すÇのお前のシッポセ セディーユ
杉崎恒夫『パン屋のパンセ一』

NZNZNZN(風に吹かれて転がってます)
龍翔 『Delikatessen/Young,Cute』

いじめには原因はないと友が言うのの字のロールケーキわけつつ
江戸雪『百合オイル』

行く春の固定電話がなつかしいコードをのの字のの字に巻いて
田村元『北二十二条西七丁目』2

しまいには四百四病にも死にも飽きシーツの皺も「し」の字の寝台
高柳蕗子『あたしごっこ』あいうえおごっこ



★特設 川の字

川の字の家族をつつむ梅雨ふかし水に流せぬくらしのくらし
三枝昻之 『太郎次郎の東歌』

川の字で眠ればそこが故郷か遠くの角で鳴るクラクション
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』

ほの昏き昭和の森でちちははと川の字になり寝ねし日々あり
笹原玉子『われらみな神話の住人』

子と我と「り」の字に眠る秋の夜のりりりるりりりあれは蟋蟀
俵万智『オレがマリオ』

たどりつく岸辺はしらねどわたしたち川の字に寝る。遠くまでゆく
笹原玉子『われらみな神話の住人』



戀という字を分析すれば 糸し糸しと言う心

妾という字を分析すれば 家に波風立つ女

■分解系

文字を分解するなどして意味を見出し、暗記や字謎のために七五調にまとめる、ということがある。上記のようなものとしては「櫻」は「木の横の二階(二貝)の下に女かな」と覚える。(「桜」なら「木の横に三本角の女かな」と覚えればいい。)

上記の例ほど厳密ではないが、文字分解を含む歌はけっこうある。

閂の門の真ん中一の字にぶらさがってまずは懸垂
久保芳美『金襴緞子』

鰆きて夏はどうした鰍きて夏はどうした鮗がきた
吉岡生夫『草食獣 第八篇』

木の下にあれば杳たり木の上にあれば杲たりめぐる日輪
吉岡生夫『草食獣・第四篇』

草かんむりを載せてこの世をわたりゆく母が苺となる夏の朝
荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』

取るの字は耳を取るの意 月光のしじまの中に耳取られたり
伊藤一彦『月の夜声』

冷タイダケノ弁当ヲ食フ 父トイフ字ヲ冠ツタヲノヲ樹ニサシタママ
小笠原和幸 『馬の骨』

目と耳と口失ひし王様が『聖』といふ字になった物語
九螺ささら 『神様の住所』

毒といふ文字のなかに母があり岩盤浴をしつつ思へる
春日井建『井泉』

零の字が雨かんむりであることの火葬場の上へふりそそぐもの
松木秀『RERA』

大の字に一加うれば日曜にほうけ居眠る夫となるらん
小高賢『三十一文字のパレット』より

君の口うばいし癌の文字にくし三つの口をみせびらかして
関根和美『三十一文字のパレット』より

さびしくて絵本を膝にひろげれば斧といふ字に父をみつけた
大村陽子『砂はこぼれて』

いつにても切り岸こころ緩むなと凶を抱かせて胸の字ありや
蒔田さくら子『標のゆりの樹』

<愛>といふ文字の心の位置にあるハンバーガーのハンバーグ食む
大塚寅彦『夢何有郷』

「盥」とは両手で水を掬ふ皿その字思ひぬ人を待つとき
高野公彦『天平の水煙』

「胸」という字の中の×を書くときに力を込めてしまう日もある
島本ちひろ 『あめつち分の一』

「愛」の字の中にたくさんヽがある 書き続ければいつか芽が出る
ルビ:ヽ【タネ】
詞書 この世で一番みじかい愛の詩は/愛/と一字書くだけです 寺山修司
千葉聡『微熱体』

夜の虹のかがやきわたる草のうへ文字に還るうつしみわれは
ルビ:夜【よ】 文字【もんじ】
水原紫苑『客人』

片仮名のトの字に一の引きようで上になったり下になったり
落語/蕎麦の殿様

■その他の文字ネタ


蟲の字がほどけてゆくまでマブシイをしばらく感じているのはいいこと
杉山モナミ 「かばん」2016・4

鬯鬯鬯鬯と不思議なものを街路にて感じつづけてゐる春である
荻原裕幸『あるまじろん』

秘密めく昼の読書は鍵穴がまなかにみえる壺の一字に
野田かおり 『風を待つ日の』

選択肢二つ抱えて大の字になれば左右対称の我
俵万智『サラダ記念日』

青春という字を書いて横線の多いことのみなぜか気になる
俵万智『サラダ記念日』

整然と並ぶ机の隙間には無数の十字架(僕には見える)
山田航『水に沈む羊』

丈たかき斥候のやうな貌をしてfが杉に凭れてゐるぞ
ルビ:斥候【ものみ】 貌【かほ】 f【フォルテ】 凭【もた】
永井陽子『ふしぎな楽器』

小の字になって眠れば父よ母よ2003年宇宙の旅ぞ
穂村弘『水中翼船炎上中』

而而而而而泣いているのは私?いえ二〇三のリビングルーム
天道なお『NR』

指の字はひょうめんせきがひろいだけ心の字よりはやく冷えてけ
鈴木有機「かばん」200406

午前中のんびりしていた文字たちはとつぜんたたみいわしとなりぬ
杉山モナミ ブログ「b軟骨」2011/9

記帳して「吉岡生夫」その生はシンメトリーをはつか乱しぬ
吉岡生夫『草食獣・第四篇』

漢字を知らぬ人の前にて腕を組むわれは漢字のごと見えるらし
惟任将彦 『灰色の図書館』

仮名文字に似る雨と聞くこの国の文字【もんじ】は千の象の隊列
天道なお『NR』

ゆっくりと浮力をつけてゆく凧に龍の字が見ゆ字は生きて見ゆ
岡井隆『鵞卵亭』

みらみらと梵字ながれてゐたりけりすきとほるここはいづこのきしべ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

まるで蚯蚓のやうな字体にも孫が見え隠れして揺るるこころよ
田中富夫『曠野の柘榴』

パズルにはpuzzleの綴り まんなかのふたつのzに腰かけてゐる
小田桐夕『ドッグイヤー』

のぎへんのノの字をひだりから書いてそれでも秋のことだとわかる
山階基『風にあたる』

ねねねねねねねねねねねねね っていう文字が段々 ぬ に見えてくる
龍翔 『Delikatessen/Young,Cute』(発行所・年月不明)

コンビニまでペンだこのある者同士へんつくりになって歩いた
傍点:へん つくり
千葉聡『微熱体』

いろは坂君は器用にカーブして「り」の字あたりで見つめ合いたい
柴田瞳「かばん」200212

いの字からろの字を書きて歩きをり酔つてはをらぬとまたろの字書く
椎木英輔『らんぱんうん』

Vの字をみてるとすべりおちたくなる挟まれたくなる なぜ、からだなの?
杉山モナミ  作者HP

Vの字が頭上に解けて降り始む鶴らは夕べの空戻り来て
三平忠宏『出向』

むの字には○がありますその○をのぞくと見えるえんどう畑
坪内稔典『豆ごはんまで』

Sの字のするりと解けて光りつつ青い蜥蜴は草むらの中 (井の頭公園 )
入谷いずみ『海の人形』

「どう元気? こっちは凹を見間違い♡と思うほどに順調」
伊舎堂仁『トントングラム』

〈終〉の字がせり出して来る小津映画〈冬〉の最後の点が上向き
大松達知『ゆりかごのうた』

美しいといふ字のかきだしはひだりうへからそれもそつとそつと
平井弘『遣らず』2021

※この歌、解釈はいろいろあると思うが、私は、うっすら人をなぶるところを連想しそうになる。「美」という字には「人」がいて、縛られているようだし、「ひだりうえからそっと」というところが、ひらがなのせいもあって、スローモーションで殴るような感じがするためだ。


■俳句川柳


俳句

雪の朝二の字二の字の下駄のあと 田捨女

さおしかのしの字に寝たる小春哉 小林一茶

「母」の字に最も近きが「舟」よ月明 折笠美秋『北里仰臥滴々/呼辭記』

靴下がくの字に吊られクリスマス 阿波野青畝(出典調査中)

クローバが鬱の字ほどに込み合える 佐藤成之『超新撰21』

Vの字の先頭重く雁帰る ドゥーグル・J・リンズィー 『超新撰21』

川柳

子が出来て川の字形に寝る夫婦 古川柳

子沢山州の字なりに寝る夫婦 古川柳

燕は梵字のやうに飛んで行 古川柳 『誹風柳多留』

鬱の字を縞馬のむれ通過中 倉本朝世

白夜行 百物語 自傷の樹 吉澤久良 短詩ウェブサイト「S/C』




2024年9月28日土曜日

「かばん」2024年7月号を読む 3 七月号の歌のピックアップと短評 後編







老猫の50ヘルツのゴロゴロと雨の匂いを瓶詰めにする
たけしたまさこ

 魔女が魔法の材料をストックしておくような感じの記述がおもしろいと思った。「平成の空気缶」(2019年発売)みたいに、見えない中身を空想するアイテム。
 缶詰じゃなくて瓶詰めだし、雨の匂いも入っているなら、透明なスノードームみたいなものも想像した。なぜそういうものをストックしておくのかなど、何かもう一つそれとなくの示唆があっても、とも思った。


追憶はあまりにあわく野にありて羽ばたいていたかつての日々の
坂井亮

 進化の過程で人間に依存して生きることになった「蚕」という種を詠む一連。
 この歌の「追憶はあまりにあわく」は、進化の系統樹を遡る「追憶」であって、個体のそれではない。「野にありて羽ばたいていた」種としての記憶は、遺伝子のどこかにあるかなきか、というところまで薄れてしまった。このことを美しく抒情的に表している。


たはやすく苺は燃える 順番に来る一億人の誕生日
松澤もる

 果物には生身(なまみ)感もあって、形状によるが特に「頭」への連想脈がある。(例えば岡本綺堂の小説『西瓜』では、西瓜と生首が入れ替わる。)そのため果物は、生体の脆弱さを暗示し得る。多少関連して、果物には「爆弾」への連想脈も淡くあって、そこから〈生身の爆発物〉というイメージ展開もあり得る。

 ただし、この歌は苺を詠んでいて、苺の形状のアフォーダンスは、爆発物より炎を思わせる。そこからイメージは、誕生日ケーキのろうそくに飛び、ろうそくといえば命……と、転じながら繋がっていき、読む側はそれを追いかけながら了解する。その感じもおもしろい。

 この一連では果物の〈生身の爆発物〉というアフォーダンスの投影先を、人の生身の体でなく、人間の社会の一触即発の状況へと変更している面もあると思う。


緩やかな疲れ私を覆う頃星と星とがキスをしていた
千春

 一日の仕事で自分が疲れに覆われるころ、頭上に星がたのしげにきらめく美しい夜になる、という歌だと思った。天地の層がケーキみたいだ。

 ただ、読み直してみて、二首前に「あなたは星の神様」というフレーズがあることに気づいた。あなたが星なら、すごく違う解釈も可能だが、いずれにしてもきれいな歌だから、どちらでもいい。


世界で一番白に近いという紙の名刺を渡す白とは何か
田中赫

 経験則として、「何」と安易に問いかける歌は薄味の謎にしかならない、と思ってはいるが、この歌はその薄まり感がなくてちょっと味わいがある。

 「世界で一番白に近いという紙の名刺」はうまいキャッチコピーで、突っ込みの入れ方を考えさせる程よい刺激を含んでいる。脳内でさまざまなリアクションが起こり得るわけだが、「白とは何か」という応じ方にはわずかにズレがある。脱線まではしないが、脳内の線路の分岐器がふと作動しちゃって禅問答みたいな路線にガタンと移る、その微妙な体感(体感ではないが似たもの)があっておもしろい。


この店に白人年配女性客!…巧みに操る日本の女…
ルビ:日本の女【Japanese Lady】
久保明

 いまパリのオリンピック開催中。さして興味のない私でも、小柄な日本選手が勝つとあっぱれと思う。
 この歌の「白人年配女性客」はきっと大柄で貫禄があるんだろう。なぜなら漢字7文字で「はくじんねんぱいじょせいきゃく」とすごく音数を使い、かたや「日本の女」は4文字で「にほんのおんな」なら七音。ルビのほうも「ジャパニーズレディ」で8音。つまり文字数のアフォーダンスで体格を伝えてきている。客あしらいの上手い小柄なスナックママを少し誇りながら見守る常連男性客。そんな視線が読み取れる。


チューリップ夜にはすぼみ昼ひらく春は花びら蕊天を刺す
江草義勝

 植物は足で移動はしないけれど、積極性・能動性はある。この歌ではチューリップのそんな自然な営みを詠んでいる。

 かすかに性的なニュアンスがあるけれど、それは人間の空想しがちな淫靡なイメージではぜんぜんない。そもそも花というものが植物の生殖器なのだから、性的なのは当前であり、とても健康的なさまである。


みな母の胎から生まれ今ここにゐる観る方も観られる方も
大黒千加

 一連は上野公園のことを詠んでいるようなので、この歌は動物園での感想なのだと思うが、不思議な空間把握に注目した。
 母の胎にはたくさんの出口があって、すべて此の世に開いている。みんなもともと母の胎という同じ場所にいたのだが、それぞれ別の出口から生まれ、ここでこうしてばったり出会っている。ーーそういう図として面白かった。


山道はいつか夕暮れ遠茜行きあう人はみな影がない
松本遊

 「いつか夕暮れ遠茜」は童謡にしたいようなノリの良さ。そして、「みな影がない」には、「とおりゃんせ」の「行きは良い良い帰りは」的な怖さも漂う。
 昼と夜の境目である夕暮れは、自分はもとのまま周囲が異世界になるような恐ろしさがある。そして、浮足立って帰路を急いだり、夜に向けてくり出したり、幽かな活気のようなものもある。
 「行きあう人はみな」は、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」を遠くこだまさせ、総合してファンタジックな美しさを秘めた歌だと思う。
(それとも「案外事実」というやつだったりして。もしかして山道には実際に影がなくなる時間帯があったりします?)


邸宅の窓といふ窓見上げてゐたり滝の途中のポケットパーク
笠井烏子

 ポケットパークとはチョッキのポケットみたいに小さい公園のこと。邸宅の窓をそれに見立てる明るい感性に惹かれた。たくさんポケットのある巨人の胸を光が滝のように流れ落ちるような邸宅を見上げる。そういうアングルだと思う。

 このほか「理論武装もままならず狐に走る稲荷寿司つくつては窓際の席」という歌の心理的ドタバタ感も捨てがたい。凝縮度が高いのは「狐に走る」だ。「私欲に走る」等ある状況へ急激に傾くことを表す言い回しだろう。理論では勝てない何かを狐的に化かす作戦、のつもりがなぜか稲荷寿司に転じ、窓際の席に退避。そういうトホホ的な流れか。


舌出せば針を千本のまされて達磨拳万、鬼一匁
浅香由美子

 「舌出せば針を千本のまされ」という、地獄でもランクの高そうな拷問もさりながら、下の句「達磨拳万、鬼一匁」に惹かれた。これは造語だろうか。意味不明だが、諺などから切り取った「達磨・拳万・鬼・一匁」が混じりあって生成されたものか? その生成の迫力はいかなる意味にも勝る気がした。

 七首目に「妄執は抗えぬもの通過する電車に吾の亡霊を見ゆ」があり、裡に秘めた、妖怪のようにおどろおどろしい妄執がテーマであるらしいとわかる。一連には和風の妖怪ドラマふうの絵になる歌が並び、一見して植物が多く(山荷葉、白き大藤、蛇苺、赤き曼珠沙華、白き蓮)、それが赤と白である。その配色にも何か寓意がありそうだ。


三宮またなくあはれなるものは薄暮浜風はるかなる月
佐藤元紀

 「源氏物語」はほぼ忘れたので、内容的には多くを読みもらしていると思うが、景色のよい場所、失意の男性、酒、恋人らしい女性、という取り合わせの王朝風のファンタジーとして味わうことはできる。

 この雰囲気を支える要素のひとつに音喩がある。掲出歌では同音の畳み掛け(継起的音喩というらしい)がそれとなく打楽器的な役割をしている。
 「は」音が、上の句に一度目立たずに鳴り、下の句は「薄暮浜風はるかなる月」と「は」のつく語で3回畳み掛ける。しかも、その語の音数が3・4・7(はくぼ・はまかぜ・はるかなるつき)と増大してリズムを刻み、情感をクレッシェンドしていく。他の歌にも継起的音喩が駆使されていて、それぞれに異なるリズムにいわば作曲されていると思った。


一人暮らしの部屋の机や椅子などの家具の埃を拭き取っている
来栖啓斗

 最初、それがどうしたと思いそうになったが、机や椅の埃を拭き取るだけ、ということは、ごしごし拭きとるような汚れがないということだ。
 それはつまり、人が使わないということ、そして「机や椅子」は実用品でなく、そう、まるで置物の美術品みたいなものであることを示唆する。「一人暮らし」の静まり返った空気感までも、質感として描き出されていると思う。


でたらめにパズルの数字をうめていく論理のかけらもない気高さで
森野ひじき

 気高さと愚かさには接点があるかもしれない。思考することを拒否してパズルをでたらめに埋める。――愚かさのせいでそうすることもあるが、無敵の無垢という気高さも、けっこう破壊的かもわからない。

 今どき、「罪のない者だけが石を投げよ」と言えば、「わーい、私には罪なんかないから石投げまーす」みたいな人が押し寄せ、石を握りしめて行儀よく行列をつくりそう。


なまくらな包丁を研ぐよみがえれよみがえれよと指押し当てて
大池アザミ

 「よみがえれよみがえれよ」のところ、なんだか人工呼吸みたいな真剣さ感じられるリフレインだ。
 一連には、無聊の日々を思わせる歌(「三食をきちんと食べるだけの人で過ごした今日がもうすぐ終わる」等)もあり、包丁研ぎのついでに、なまくらになった自分を蘇らせたい、という気持ちも読み取れる。


ベランダに立って僕らを見下ろしている人の腰まで伸びた髪
土井礼一郎

 読みながらふと、「親という字は木の上に立って見る、と覚えたっけ」と、余計なことを連想したが、あながち外れでもないだろう。実際、マンションの中庭で遊ぶ子をベランダから見おろす親の私はひとりだったことがあるし、髪はロングだし。

 ただ、「見下ろす」という行為のどこかから、妖異化、永遠化(そんな言葉あったかな)に導く細い糸がでているような……。そして、見上げる側からも、高いところの人はふだんと違って見える。西洋の古い建造物の高いところから街を見下ろす彫刻みたいに、やはり少し妖異化、永遠化しないだろうか。その僅かな感覚が増幅されていると感じた。


父さんの家は母さんの家になりいつ行っても夜みたいに静かだ
小川ちとせ

 「父さん」は何らかの事情(他界とか離婚とか)でいなくなり、それまで「父さんの家」と呼んでいた実家を、「母さんの家」と呼ぶようになる。
 成人した子どもの側のそうした意識の変化を、この字数で無理なく伝えている。「夜みたいに静か」というのも、実家が活気をなくしたことへの喪失感と、そこに暮らす母を案ずる子の立場の心情で、それが説明抜きでわかる。


春は行き決まった答えを持っていないものばっかりが光って見える
生田亜々子

 これは、春という準備期間が終わって、それが整わなかったものたちだろうか。注目したのは、そういうもの「ばっかりが光って見える」という把握だ。
「光」は圧倒的に良いイメージで詠まれるが、悲しい光りかた、虚しい光りかたも表現できる。
 一般的に、「答えを持っていない」のは輝けない状況と思われるが、「決まった答え」を得た者たちは早々に去り、あとに残ったものが、散らばったガラスのかけらみたいに、痛々しく光っているのかな、と思った。 


山手線の高架の影を踏みながら日暮里田端の路地裏を行く
悠山

 一連全体は、山歩きの歌のような趣きのある文体で、散策中の街を目がとらえて描く臨場感がある。
 だがその一方、脳内で何か思念の底流にあるものを心が辿ってもいるかのようで、(散策とはそういうものかもしれないが、)それゆえの白昼夢的なテイストも少し混じり、隠し味的にそっと効いているみたいだ。、


初夏の町屋小暗き土間の奥岐阜提灯の蒼く灯れる
入谷いずみ

 昔合戦のあった地を旅している途中で見た提灯。土間の奥の暗がりに灯る青い炎は神秘的である。
 時空を超えて灯り続ける歴史そのものの魂を見た気がしたのかもしれない。漢字の続く歌のなかで、三回の「の」のところは暖簾を分けて進む心地がして、そうした構造も歌の内容にマッチしている。


臍のしたに七米もの腸がゐるとてもとつてもおとなしいのよ
久保茂樹

 「脳みそとはらわた」と題された一連は、「仔ひつじの茹で脳みそ」を食べて、その脳みそが消化管を下っていく過程を詠んでいる。 掲出歌には「脳みそ」と書いてないが、作者の意図としては「脳みそ」が腸に到達した感触を詠んでいるのだろう。
 消化管の紆余曲折は、川下り的なアトラクションめいている。「腸がいる」の「いる」が効いて、生きた大蛇の身の中を川下りするみたいだと一瞬思う。内臓というものはなんとなく気心知れない。「おとなしい」はずが、急に暴れ出すかも、などと波乱も予感される。


さみどりは緑雨のたびに深くなる私はここで何をしている
Akira

 この一連の歌は、ひとつひとつ、何か応答みたいなフレーズを求めているな、という感じを受けた。
 何か添えたい……。それはたとえば「我が身一つはもとの身にして」みたいなフレーズだが、なんだろう、と考えながら読み進んだら、最後にこの歌があった。
 私はここで何をしている。
 これか、これだったか、と納得した。


賛成をしないくらいで恨まれるだから水田になるんだよ
藤本玲未

 賛成をしないくらいで恨まれるような窮屈な状態の集団だから、水田みたいな状況になるんだよ、という歌だろう、と思う。読むうちに、稲が同じぐらいの高さに育ってひしめいて、稲たちが少し頭を下げ気味の元気のない挙手をしている水田の映像が思い浮かんでくる。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は美徳だが、目立つ稲穂はカカシが睨む、っていう七七がつくのではないかしら。水田て。


ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希

 「銀河」は渦巻いているので、渦巻きや廻るものと重ねて詠む歌がときどきある。そのなかでスパゲティはかなり斬新だと思う。
 また、「銀河」には、(おそらくビッグバンのイメージが手伝って)「産む」「生まれる」といった連想脈もある。そして、「生」といえば「死」がセットの対立的概念だが、ちかごろ、「生/死」じゃなくて、「生/命を食べる」という対立的セットがひそむ歌を散見するようになってきて、この歌もその仲間であるようだ。
 つまりこの歌には、新しい要素が二つ含まれている。


耳鳴りが酷くて、とだけ囁いて朱色の腕時計を預けた
土居文恵

 なぜか死に臨む感じが漂っている。自分の今際の言葉を(、といっても死はあまり意識はせず)誰かに語っているみたいな……、いや、死者が、自分の生の回想を語り終える最後のところ、みたいな、回想の口ぶり。

 そして、「朱色の腕時計」が鮮やかで、対照的に、周囲も語り手もモノクロに翳る。戻れない夢のような生の記憶の中で誰かに託した時計が、はるかな朱色の点になり、ぽっちりと見えているような感じがする。そういうふうに絵になる。


腰掛けるときの「よいしょ」でご機嫌ははかれるミスの報告は今
ソウシ

 パワハラ上司だろうか。その仕草にいちいち振り回されて過ごす、安らぎのない日々。それが如実にわかる歌だ。もう1首は「炊飯器に労られつつ一日の後悔をするまだ一ヶ月」というもので、これも「まだ一ヶ月」という部分の切実さに驚く。

 にんげんは周囲の人や物のアフォーダンスの中で自らを把握していることを改めて思う。そこをストレートに描いた歌だと思う。


明日にはハクモクレンが咲きますよ『きらきら星』から始めましょうか
白糸雅樹

 楽器の練習の場面のようだが、どうしてだか、これはエンドレスな夢のような日常、あるいは日常のようにエンドレスな夢の中みたいに思える。

 レッスンのはじめの言葉は「明日には◯◯が◯◯ですよ」と毎回少しずつ変化するが、そのあとは毎回同じ「『きらきら星』から始めましょうか」であるような。

 進むことなく、なだめられ続けていく日々。だが、恐ろしくはない。老後の施設ならこういうやさしいエンドレスが普通だろう。いやもしかすると、老後じゃなくて生後の日々も……。


側溝に光る小袋おちていて ねるねるねるねの2番目の粉
蛙鳴

 「ねるねるねるね」(複数の粉などを混ぜて練って変化を楽しむ食玩。粉の順番が重要)の粉の袋など、ただのゴミである。
 だが、側溝にチラッと見えただけで、いまこの食玩にはまっている子ども、そんな子ども時代を卒業したぐらいの年代の人、そして、子どもと喜怒哀楽をともにしている親なら、それが何なのかがわかる。

 歌は、どの立場で読むかで内容が少し違ってくる。現役の子どもにとっては、「誰か大事な粉をなくした」という単純な情報。子ども時代を終えて大人になる段階の人は、「2番目の粉」というプロセスの喪失を深刻に感じるかもしれない。そして、親の立場の人は、「ひと目見てこれがなんだかわかる自分」に親としての誇りをおぼえる一方、自分自身の「ねるねるねるね」はどうしたかと考える可能性もある。


君が居ぬ世界で吾は生きられぬ 裸足で土を踏んでかけ出す
榎田純子

 「裸足で土を踏んでかけ出す」という記述から想起される、足取りのどたどた感がポイントだ。
 読者はこの場面に、「しかし、この先のその生きられぬ世界で、この人は生きねばならないんだろうな」と、歌に書いてない未来を読み取るだろう。
 こういうふうに読者とやりとりしようとするアフォーダンスの歌もあるんだなあと思った。


さぷさぷさぷさぷ君が食べてるご飯の幽霊明日からもここにいてね
森村明

 猫だけでなくご飯までいっしょに幽霊になっていることも含めて、これは事実を詠んだ歌である。
 だって、ご存知のとおり、猫は死んでもいなくならないのだから。
 うちの猫も去年の暮に二十歳で普通の生を終えたが、そこからは不可視になっただけで、今も変わりなく、ドアのすきまをすり抜けたり、音をたてて飛び降りたり、カサカサいたずらしたりしている。


(知ってた?)(思い出してる)白鍵は口に入れたら冷たいのだろう
佐々木千代

 「白鍵」というのはピアノの白黒鍵盤の白いほうだろうか。ふと白骨を思い浮かべそうになった。
 鍵盤は歯のように並んでいるが、実は長い棒で、ピアノの内部まで伸びており、線を叩いて音を出す仕組みになっている。そういえばグランドピアノのなかの鍵盤は、肋骨みたいに見えたが。

 前半の( )の部分は、ピアノの霊みたいなものの会話だろうか。後半、白骨がアイスキャンデーみたいで、ピアノの霊がすっかり生身を忘れている雰囲気がおもしろい。


デパ地下があるデパートに救急車が曲がってくとてもしずかな月夜
小川まこと

 なぜか人の気配がない。これは人間の街であるはずで、救急車が走るなら、救命士や患者が存在するのだろう。だが、人を省いて描かれた絵のように人影はない。人間を無視し、街を物体として見ると、こういうクリアな景になると思う。

 そのかわりなのかどうか、「デパ地下があるデパート」というところ、なんだかデパートの「身体」を意識させられた気がして、おもしろい。


地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る
嶋田恵一

 ヒトをなんども滅ぼすに足る武器はカラシニコフだけではない。たとえば核兵器は地球を十個破壊できるほどあるそうだ。そうしたものの中からこの歌は「カラシニコフ」を選んで詠まれたのだ。試みに上の句が「地球には一万発の核爆弾」(実際には一万七千とからしい)だったらどうだろう。地球には一億丁のカラシニコフ」を比べると、迷わずカラシニコフに軍配だ。
 なぜかというと人が手に持つ武器だからだ。しかも「カラシニコフ」は人名みたい。人が人を直接的に殺すという面が、核兵器よりも強いと思う。
 そのほか、「カラシニコフ」はなんとなく植物名ふうで風情があり、雑草の「ヤブガラシ」などがはびこるさまが、言語野のすみに見え隠れする、という要素もあると思う。


野良の瞳にひとはどんなに巨きかな神話のごとく日々を過ごさむ
瀧川蠍

 「野良」といえば普通は犬猫だろう。大きい人間たちに囲まれて共存・依存・ときに敵対して生涯を過ごす。その状態を巨人族のいる神話の世界にいるようだ、と捉えている。「神話」をこういう比喩に使うのは珍しいと思う。

 さて、これは、犬猫のみならず人間にも当てはまる話だろう。毎日テレビなどのメディアでいわゆるビッグな人たちの活躍を見て暮らしている私も、神話な日々を過ごしていると言える気がしてきた。


内臓の書を持ち帰る 図書館は内臓の書の不在となりぬ
松山悠

 言葉と事実が撚り合わさって面白い味わい。
 事実面は、内臓について書いてある書物を借り出して持ち帰ると、その「内臓の書」は図書館の外に出て不在となる、という、まあ当たり前なことだ。が、図書館の蔵書の「蔵」は「臓」と音も字面も似ているために、図書館の内蔵を持ち出したような空想に誘われる。
 さらに、図書館には少し神聖なイメージもあるため、二度三度読むうちに、「聖遺物」「仏舎利」など(聖人の身体の一部も神聖なものとして祀られる)への連想脈も刺激されてくる。


何回も何回も食べてたしかめるそれはあなたの右手のこぶし
土井みほ

 一瞬タコかしらと思ったが、嬰児のしぐさを詠んだ歌。「何分の一ほど同じ遺伝子がいのちを燃やしている腕のなか」という歌もあるからわかったが、むろん単独でもピンとくる人はいると思う。

 人間の子は、人生の始まりに、まずはこういうふうに自分の身体の確認し、次にその手足のできることを見つける。そのパワフルな様子(タコのような力強さ)だけをストレートに捉えている。


まよなかの闇にはなたれ電磁波の濁音ひかりオーロラとなる
歌野花

 オーロラは宇宙空間の電磁波の高エネルギー電子が大気に衝突して発生するものだそうだ。
 美しい現象を起こす仕組みに衝突という作用があることに着目していることがおもしろい。加えて、そのことを、「電磁波」の「で」「じ」という濁音と重ねるような書き方をしており、言葉愛もほんのり重ねられている。


切り花とわれと地球儀立つことの重たき部屋をきみはでてゆく
森山緋紗

 「恋人などが部屋を出ていく」という情趣は沢田研二の昔から(源流は、暁の鶏にせかされる古典和歌か)抒情界の定番。掲出歌では、その盤石の予定調和がほどよく生かされ、ほどよくかわされてもいる。

 「立つことの重たき」ものが三つあげられている。部屋にあって目に入ったものをあげたらしい臨場感を確保しつつ、タロット占いで引いたカードの三枚のように暗示的でもある。
 根を断たれて自立できない「切り花」、立ち上がって「きみ」追えない「われ」。ここに「地球儀」という飛躍は想定を超えたが、地球儀は頭でっかちで物体としてでくの坊だし、これは地理の知識なんか全く役に立たない局面なんだと、じわじわ了解されてきた。


 以上、たまに回ってくる前号評当番なので、最初のほうは、歌を読む時の目の付け所の一つとして、アフォーダンスというものを提示し、詳しく踏み込んでみた。そのあとは、一人一首ずつピックアップしてコメントをつける形で、力及ばぬ部分もあったが、さまざまなアプローチを試みた。


2024・9・28


「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から

「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編


「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編






Newtonとムーが並んで見る夜空 星のラジオをそれぞれに聞く
雛河麦

 ほっといても世の中を渡っていけそうな、完成度の高い歌が並ぶ一連だが、特に面白いと感じたのはこの歌。二人で星空を見上げるのは定番の構図だけれど、人でも生き物でもない「Newtonとムー」(科学雑誌とオカルト雑誌)という取り合わせのものが仲良く並んで、それぞれ異なるチャンネルで星の言葉を聞いている、というツーショットが楽しく、平和共存の理想のような姿だとも思った。
 他に、「トンネルは抜けると消える生き物で先回りしてはわたしを飲み込む」という歌の空間把握の迫力があった。


ロキソニン二錠が溶けて全身に偽の噂が広がってゆく
萩原璋子

 鎮痛剤は痛みの伝達にかかわる中枢神経に作用し、いわば脳をごまかして痛みを和らげるらしい。
 痛みに耐えかねて鎮痛剤を飲む。「30分ぐらいで効いてきます」といわれた言葉を信じて待つ。このとき、いわば耳を澄ますように痛みを聞いていたのだろう。だから「偽の噂」を聞くかのように、効果を体感した。そんな切実さも伝わってきて、言い得て妙だと思う。


短冊に俳句を書いているときの雑談が好きそよ風が好き
藤田亜未

 一連は授業参観のことを詠んでいるので、雑談しながら短冊に俳句を書いているのは生徒たちだ。字数を整えるなどふだんと違う言葉遣いを楽しんでいる。言葉との新しい出会い、とまでいうと大げさすぎるような明るい初々しさは、「そよ風」の心地よさに通うところがあるようだ。


「聖人君子でもないし平民愚民でもない我」は宙ぶらりんだ
小鳥遊さえ

 一読、面白い、と感じた。が、相槌の打ちようがないとも思った。
 聖人君子でも平民愚民でもないことが「宙ぶらりん」の位置になるのは、どういう論理空間なのだろう。普通に考えれば、ほかに、聖人愚民、平民君子もいるし、それらすべてにあてはまらない中間領域の普通の人がいっぱいいるし、と思考がとまってしまった。


帰宅してクラッシックを聞いている「三角帽子」はわたしの気持ち
田村ひよ路

 アメリカのアニメなどで罰として三角帽子を被せられるのを見たことがある。そんなふうに晒し者にされる気持ちなのだろうか。
 クラシックの「三角帽子」を調べたところ、バレエ曲で、代官が粉屋の女房に横恋慕して恥をかく反権力の物語で、三角帽子は代官が被っているものだそうだ。
 いずれにせよ、帰宅前に何かよほど恥をかくことがあったのだろう。


悪しきことのあれやこれやを憤り大声に読む悪魔の辞典
遠野瑞香

 単純な歌だが単純におもしろい。
「悪魔の辞典」を大声で読むというのは、怒りの発散法として珍しいし、あの婉曲で皮肉な文体は、冷静を取り戻す役に立ちそうだ。
「あ」音が多く使われていることで、陰湿な感じのしない憤りを思わせる。


物件ありひと月二万六千円敷金礼金不要のアパート
雨宮司

 人助けの顛末を詠む一連。掲出歌は住居を探してあげる過程の歌。
 そのストーリーは離れるが、この歌はまるで偶然短歌のようだ。偶然短歌とは、一般の文章などが偶然に短歌の字数やリズムに当てはまったもので、内容は詩的でないものが多いが、短歌形式のリズム感だけを備えた独特の雰囲気を持つ。この歌には、ストーリーの説明で偶然に偶然短歌ふうになった、みたいなかわいいメタ感があってほほえましい。


手でめがね作ってごめんこのあとはだめなときだよ笑いばらける
柳谷あゆみ

 「このあとはだめなときだよ」と言いながらした、「手でめがね作る」という意味不明な仕草。
 このおどけたような、顔をかくすような、崩壊寸前のニュアンスが細やかである。そのあとの「笑いばらける」も、崩れかたが具体的で、スローモーションを見る心地。

 持病がある場合、実際にこういう言動があるかもしれないと思う。いや、そうした病気でなくとも、何か「だめになる」寸前と自覚したときには、手でめがね作ってごめんと言うような、わかりにくいアフォーダンスを振りまきそうな気がしてきた。


何かこう大事なときに枝に実がつくようにして心配増える
山内昌人

 「何かこう大事なときに」の部分、アフォーダンス的な情報が多い。
 この言い方には、適切な言葉がうかばなくてもとにかく話し続けるようなセラピー感がある。加えて「こう」には見えないものを探る手つきも見えて、後半の「枝に実がつくようにして心配増える」の語りの切実さを支えている。


髪きって夏の準備はととのった入道雲は背中にしょって
藤野富士子

 「夏」という季節を「人生の本番」と捉え、「いざ出陣」的に詠む歌をときどき見る。
 こういう定番テーマには独自要素が必須だ。この歌では、普通なら背景として描く入道雲を、「背負う」という想定外の構図に変更している。
 むくむくふくらむ希望をサンタの袋のように背負う。明るく愉快な絵だ。そこに真剣さもあるのは、慣用句「十字架を背負う」が隠し味になるからだろう。


一羽だけ白鳥がいる湖に行くことになる日帰り旅行
屋上エデン

 日帰りの移動範囲で行く先を選んだら、一羽だけ白鳥がいる湖に行くことになった、というか、行ったら一羽しかいなかったのだろう。――バレエでいえばオデッサ姫一人をちょっと見るだけみたいな。
 観光としては、写真をすぐ撮り終わってしまいそうな物足りなさはあるものの、それでも、「あ、白鳥がいた」「一羽だけどシッカリ見たもんね」などと言い合って、慌ただしく移動することなどにも、小規模で気楽なそこそこの楽しさがあるだろう。


死んじゃえば桜が隠してしまうからハーレクイン風キスをしようよ
天原一葉

「死んじゃえば桜が隠してしまうから」は、メメント・モリの「「死を意識することで今を大切に生きることができる」的な意味合いか。
 今を大切にハーレクインコミックみたいなキスをして、生を謳歌しよう、という歌だと思う。メメント・モリのドクロと違って、明るい色彩のきれいな絵になっている。


わかるよと云われるたびにおもしろい北極点にコンパスを置く
神丘風

 どなたかが亡くなったことに関連した連作のようなので、解釈を外すと不謹慎になってしまいそうで怖いけれども、肯定による認識世界の再構築、みたいなことを詠んでいるのかなと思った。

 誰かに「わかるよ」と肯定されるたびに、認識世界のどこかを新たな北極点として世界が再把握される。そういう種類の知的刺激ではないだろうか。コンパスの針が脳天にちくっとする体感を伴う点も印象深いと思う。


梅雨間近小学生は応援の練習だよふれーふれー
ゆすらうめのツキ

 一連の歌は、普通の家の普段着の時間、そのなかでもあえて、話の種にならない、箸にも棒にもかからない出来事を集めてある感じだ。「ただごと歌」に似ているが違う。アンチ・ドラマのような、マイナス方向への空疎さが、ただごと以上に意識されていると思う。

 最後の歌は特にそのマイナスの階層が深い。ドラマからのマイナス度ゼロの層はドラマ的感動の当事者の領域、マイナス度1の層はドラマ等を見て応援する人の領域、マイナス度2の層は応援の練習をする人の領域、マイナス度3の層は、応援の練習の声をたまたま耳にする人だ。そういう階層図を思わせる。

 結句の「フレーフレー」は応援の練習をする子どもの声である。が同時に、そんなふうにドラマから遠く、主役、脇役でもなく、まだ観客でもなく、いつか観客となるために応援を練習する、ーーそんな子どもたちに送る作者からのエールであるのかもしれない。


代わりなり絵本にお菓子にガラスペンあれこれ探す空財布なり
水野蛍

 一連は、子どもへのクリスマスプレゼントに関する親の悩みをいろいろに書き分けたもの。(「代わり」とは、別の歌に。子どもの欲しいポケカが手に入らないと詠まれていて、そのかわりという意味。)
 一連のほとんどが説明的叙述で上手な歌には見えない。が、字数制限のある「一行日記」ふうでもあり、語尾は文語にして短く切った、みたいなノリ、と思えば少し趣は感じられる。掲出歌の「……なり……なり」という構文にもそれが漂っている。


明け方にエアコン突如作動して空気清浄ですと呟く
稲上絵美

 一連の歌は、「やれやれ」とか「あーあ」とか、見えない詠嘆が末尾についている感じで、世間話的な相槌の打ちやすさがある。 掲出歌も、電気製品が思いがけないふるまいをするのはよくあるから、「あるあるー」と、しばし話が盛り上がりそうだ。
 加えてこの歌には、イメー領域のプラスアルファがある。明け方のレム睡眠を「空気清浄」という声にこじ開けられたら、その一瞬、自分が滅菌室の細菌みたいに浄化される対象か、と思ってしまう。そんなささやかな恐怖体験だと思う。


真っ白なシャツばかり着ていることで赤や黄色は笑顔に見える
百々橘

 白シャツばかり着ることと、赤や黄色が笑顔に見えることを、さりげなく「で」で連結しているが、ここには飛躍があって、いま何を飛び越えたのかと考えるのが詩的行為として楽しい。
 花嫁のウエディングドレスや白無垢、医師の白衣、死者の白装束。人生の転機、生死に関わる場面などで、シリアスな白を着る習慣がある。「真っ白なシャツ」も少しそのまじめさに通じるだろう。で、この歌を見てはじめて考えたのだが、白服を着る場面には、敬虔な緊張がありがちで、あんまりニコニコしないと思う。だから、職業などでいつも白を着ている人には、「赤や黄色」の色そのものに、白に禁じられた笑顔が見えるのかもしれない。


もしもわたしの舌に蜜があれば……雲のくぼみにぬりつけよう「消えるな」
井辻朱美

 え、なんだこりゃ?(この歌以外は、誰が読んでも「いい歌だ」と言いそうな歌ばかり。この歌だけはスペシャルだ。)
 その造形のすばらしさを維持したいと思わせるような雲はたまにある。そんな雲を、「何かで塗り固めようかしら」と想像することも、まああり得るだろう。
 だが、「自分の舌に蜜があればその窪みに塗りつけよう」という、ミツバチみたいな熱意はまず抱かないだろう。でも、蜜蝋で巣を塗り固めずにいられないかのようなこの表現は、とても緻密だ。
 短歌の評でよく耳にする「共感」というコトバ。しかしそんなに「共感」ばっかりが大事かな。こういうふうに、思ったことを詠み抜く獰猛さ。惹かれる。こういうものが必要だ。


古漬が古墳にみえるくらいには疲労していた 皺皺のレシート
吉野リリカ

 ああ、疲れのせいで似ている字を見間違ったのか、レシートの皺のせいももあるか、人もレシートもくたびれていたんだな、と納得。

 それにしても「古漬」と「古墳」は傑作な取り合わせだ。古漬けと古墳の古さは段違いで、古漬けが憂き世の時空を斜め上にすっ飛び超えてミイラ味になっちゃうぐらい、なかなか味わえないおかしみがある。


ポインタとレーザーポインタひとつずつ買って滅びに備えています
岩倉曰

 どういう滅びに備えているのかわからないが、何かがどう転んでも対応できるように、ポインタとレーザーポインタを買った。ーーこういう説明しにくいことをすることがある。そのときはちゃんと考えての行動のつもりでいる。
 こういう現象には覚えがある。デジタルとアナログのキッチンタイマーを同時に買った。もう忘れたがそのときは、何か筋の通った理由がある、つもりだった。
 こういう名もない現象を発見し、歌に詠めるものへと昇格させたことは、ひとつの手柄だと思う。


いまだれも死にませんように マスカラが乾ききるまでそっとまばたく
夏山栞

 外国の戦争のニュースでは多くの死者のあることを伝えてくる。ときには映像もあって、強く目を閉じたり見開いたりしてしまう。
 遠すぎて何もしてやれない無力さ。経緯が複雑すぎていい加減な感想も言えない。安易な同情や祈りのコトバは自己満足でしかない。
 朝の化粧中の「いまだれも死にませんように」という願いは、何もできない今の自分の立場に見合ったものであり、その状況のなかで望める最大の誠実さだ、と感じた。


降ってきたこの旋律を書き留める音符の知識も鉛筆も無い
大甘

 雨の中の樹木のように、何も自分にとどめないすがすがしさ。旋律を留めたいなど、欲求はさまざまあるだろうが。すべてが透過していき、断捨離さえ不要であるような、透明な虚無の姿を見る気がした。(尾崎放哉の「入れものがない両手で受ける」の境地もある意味越える。)
 まるでニュートリノ、と思ったら、「季語を捨て俳句をやめて残るもの 草田男という名前が好きだ」という歌もあった。人はカミオカンデ(水をたたえた施設でニュートリノを稀に捕らえる)だなと思った。


ちちちって、燃え尽きました ごめんねとありがとうをどちらも言います
田中真司

 校長先生は朝礼の訓話で、「『ごめんなさい』と『ありがとう』は魔法の言葉です」的なことを言うらしい。学校の訓話の例のほか、自治体の親子教室、生涯学習教室等で、この二語を推奨する取り組みがあるとネットで紹介されている。
 他者を尊重する大切な言葉だから必要な時に口にできるようにしておくべき、というのはわかる。だが、この二つだけのチョイスは妥当か。自分のことも尊重しなくちゃいけないのでは?
 この歌は、一見、謙譲の態度で素直に人生を全うした人の美しい最期を詠んだように見えるが、「ささやかに燃え尽きますよ。最期にもちゃんと、ご指示の通り、この二つの言葉を言いますからね。」という、ごく微量の反抗のニュアンスも読み取れる。
 ――このことを婉曲に言わねばならない世の中に、……既になっているのかも。


母さんはわけなく帰れると信じてたパンくずリストをたどっていけば
石田郁男

 グレーテルである母さんは、兄妹で家出した過去の成功体験により「パンくずリスト」をたどれば帰れると楽観して母子での家出を決行した。が、その判断は甘く、母子は困った状況に陥った。
 ――というようないきさつを空想した。実際ありそうな話だ。


ノックコン「入る(ノブガチャ)わよ」コンでもう入ってる 母は速さだ
北瀬昏

上から5757は、結句の「母は速さだ」の具体的説明。構造がよく生かされていると思った。また、上の句は「ノックコン「入る(ノブガチャ)わよ」コンで」と、「(ノブガチャ)」を割り込ませて575にしてあるのが愉快。母のスピードを臨場感たっぷりにユーモラスに伝えてくる。「母は速さだ」の「はははは」も速さを表している。


根本だけ残して細く割いたチーズ 浜木綿みたい 頭から食う
かわはら

 どの歌にも花か樹木が詠み込まれている一連。「寺の菩提樹の根元に腰掛ける 星の数ほど増えた煩悩」など、まっとうな感じの良い歌もあるが、掲出歌はやや経路が違うところを買う。
 従来「花より団子」というように、花を愛でることと食べることとは対比的だが、「浜木綿みたい 頭から食う」というのは、愛でつつ食べることに通じて、やや新感覚だ、また、具体的な調理法などを詠み込むことにもおもしろみがあると思った。


われわれのたてがみ服についており馬の毛製のブラシで落とす
深海泰史

 旧約聖書のサムソンの昔から髪は力の象徴〉である。そして鬣は、力のみならず誇りみたいなものも象徴していそうだ。
 われわれの力や誇りの象徴が抜け落ち、まだかろうじて服に残っているのを、かつては馬の体をつややかに包んでいた馬の毛のブラシで落とす。ーーともに身体から離れた毛であることをどう解釈しようかと迷った。
 同病相哀れむというセンもあるが、抜け毛ワールドの抜け毛たちの織りなす世界、というセンも悪くない。


しあわせにカタチはなくてひと工夫された夕食の甘辛煮
みおうたかふみ

 短歌には、同じ位置に同じ言葉があってその前後の関連性が似ている有名な歌と共鳴するという現象がある。この歌は「たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子)」と響き合おうとしている。
(作者が意識しているときは「本歌取り」と言うが、作者が意識せず偶然そうなったとしても共鳴効果は備わる。)
 「しあわせにカタチはなくて」を「たましひに着る服なくて」が、対句的にサポートする。そのサポートを含めて解釈すると、「たましいレベルのことはともかく、少なくとも食事という現世のしあわせは、これと定まった形はなくとも確かなものとして享受できる」という意味合いになると思う。


無宗教だと招ばれないパーティーがあるきっとある 散り花を掃く
沢茱萸

 「散り花を掃く」という静かな動作をしながら、「無宗教だと招ばれないパーティがある」という思念が湧き、「あるきっとある」と波立って増幅していく。――「散り花を掃く」行為に、そういう思念を誘発する要素があるのだろうか。

 日本は宗教をあまり意識せずに暮らせるが、無宗教は論外である国も少なくないと聞いたことがある。だがそういう現実の話ではこの歌を捉えきれない気がする。
 「散り花」は華やかに咲いて散ったものだから、「パーティーのあと」を連想させ得る。
 生き死にのある世界とは一種のパーティーシステムだ。生死は宗教の根源だから、無宗教はそもそもパーティーの参加資格がない、という考えもあるだろう。それは、「ロボットは生物じゃないからお墓はいらない」的な感覚と似ているだろう。この歌には、そういう、夢でなら納得できそうな理屈が通っているように感じた。


モーツァルトを聴かせることでエラーから回復をする未来の機械
本田葵

 「音響栽培」(農作物に音楽を聞かせるとよく育つらしい)や、「音楽療法」(音楽で心身の健康の回復・向上を図る)が思い浮かぶ。音楽は楽譜という記号に変換できるから、リペアのプログラムをモーツアルトなどの楽曲に変換して機械に聞かせる、的なことが、未来なら可能かもしれない。

 ただし、この歌にある音楽で機械をリペアするのと音響栽培等とは、決定的な違いがある。その方法を機械が喜ぶわけではない。それは、機械をメンテする人間の作業者に快適をもたらすものなのである。
 未来でも人間はそういうことに力を注ぐ、というふうにも読める歌だ。


ツーピツー 四十雀語で語り来る人間なんてほんに阿呆やん
上田亜稀羅

 鳥の声の口真似なんかしても鳥に通じやしないが、人間には自分本位の楽観性があって、勝手に親しみを持ち、口真似をして気を引こうとする。だが、鶴に向かってポッポちゃんと呼びかける人を見たことがある。相手が鳥だろうが何だろうが、相手を理解せずにお互いに勝手な解釈で好き合ったり嫌い合ったりするわけだ。

 ただ、関西の人に聞くと「阿呆」には愛があって「バカ」とは違うそうだ。「ほんに阿呆やん」には、人間的な欠点をもぬるく受け入れる優しさがある。


真夜中に不意に目覚めた爪先は死体くらいに冷え切っている
齋藤けいと

 足などが冷えて目覚めることがある。爪先の冷えが「死体くらい」という具体的・直感的な感受は、「死んだように眠る」という慣用句など、眠りと死がイメージの世界で繋がっているせいだろう。
 また、爪先と言えば、「棺桶に片足を突っ込む」という慣用句があり、その経路でも、「死に近づきすぎた」という危うさを感じたのではないだろうか。


鯊二匹瘴気の抜けた穴の中空飛ぶドローンに憧れ抱く
乗倉寿明

 全体にカタカナの人名・地名・建造物名がちりばめられ、わかりにくい歌だが、「博学な鳥が飛びながら落とした思念の断片」ふうで、味があると思った。

 タイトルの「ホィラー・ウィーラーの相対論的な?」はヒントだと思う。
 米国の物理学者ホイーラー(John Archibald Wheeler)はウィーラーと書かれることがある。「ブラックホール」の命名者で原爆の開発にも関わったそうだから、掲出歌の「瘴気の抜けた穴」はそのあたりが接点だろう。また、ハゼは「鯊」とも「沙魚」とも書く点で、「ホィラー・ウィーラー」的だし、底生魚で泥を胸鰭で歩くのは、空をとぶ「ドローン」とは対照的であり、でも「泥」は音で通じている。
 こういう縁結びで歌を紡ごうという意図はなんとかわかった。


(続く)



「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から

 所属誌「かばん」は会員持ち回りで本誌評を書くことになっていて、数年に一度のその役目が巡ってきて今年の7月号評を担当した。はりきりすぎて想定を超えた大作業だったが、なんとかやりとげ原稿を送った。

 掲載号である忘9月号が届いて、掲載された自分の「7月号評」を見て、誤字脱字の多さに驚いた。言い訳にならないが、最後は慌てて送ったことを思い出した。

 「アフォーダンス」という観点を歌評に持ち込むことを提唱している点など、多くの人に見てもらいたい要素もあるのだが、いかんせん誤字脱字はよろしくない。意味の伝わりにくい部分もあって、こちらに気になる部分を修正した全文を掲載する。  高柳蕗子



「かばん」2024年7月号を読む 目次

  1 アフォーダンスの観点から

  2 七月号の歌のピックアップと短評 前編

  3 七月号の歌のピックアップと短評 後編



短歌とアフォーダンス

 短歌は人が詠むもの。――それはそうだ。が、詠まれているさまざまな事象や使われている言葉たちは、詠まれるがままでいるのだろうか?

 事象は、なんらかの意味を態度で表している。たとえば、バラのトゲは「触るな」というアフォーダンス※を発している。そこにたまたまある木箱は、そこに腰掛けるのにちょうどよい体躯の生物に対して、「どうぞ腰掛けて」という誘いのアフォーダンスを漂わせる。

 言葉というものも、外見や語感という情報を備えているという点では事象の仲間だ。歌人や俳人が重視する字数という要素は、まさに、言葉の物体としての要素である。「韻律に情趣がある」「リズム感が心地よい」というのは、短歌という詩型のボディが発するアフォーダンスである。つまり定型詩は、自由詩に比べると、アフォーダンス意識が強いと言えるだろう。

 人間用の椅子をデザインする場合は、人間に適したアフォーダンスを持つ椅子を作るだろう。短歌もしかり。歌人は無意識にも、日本語を解する人間が読む、ということを前提にし、内容のみならず言葉の配置や語感など、読者へのアフォーダンス的な効果も配慮して歌を整えているだろう。

★★

※アフォーダンス(英: affordance)とは

①afford(与える、もたらす)という動詞の名詞形として作られた造語。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが生んだ言葉で、環境が動物に対して与える意味や価値という意味がある。生態光学、生態心理学の基底的概念であるが、近年では、生態心理学の文脈だけでなく、広く一般に用いられるようになってきている。(ウィキペディアより抜粋一部要約)

②アフォーダンスとは、デザイン心理学の用語。ある物体や環境が持つ機能性や可能性を指し、その物体が使用者にどのような行動を促すか、どのような利用方法を提供するかという観点から考える。例えば、椅子は「座る」という行動を促すaffordanceを持つ。これは、椅子の形状が人間の体を支え、安定した座位を提供することから来る。(Weblio辞書 :実用日本語表現辞典より抜粋一部要約)


作者が歌を詠む段階のアフォーダンス

 歌人は事象や言葉のアフォーダンスに触発されて歌を詠むことがよくある。それを一歩進めて、人間には形状等が似ているものどうしを無意識に結びつける習性があるため、例えば「渦巻く銀河と肉まんのヘソがオーバーラップする」というような現象も起き、そこに端を発する短歌も多く存在する。
 歌人なら、ふと目に入った言葉を歌に使いたくなることがあるだろう。「2句目あたりか、いや、シメの結句にどーんと置くか」などと楽しく悩む。つまり、作者が歌を詠むとき、事象や言葉のアフォーダンスは大いに関与しているはずである。歌を詠む過程でも、今まさに自分が並べていく言葉たちのアフォーダンスと交信し、協力することもあると思う。

読者が歌を読む段階のアフォーダンス

 ややこしいのは、作者段階と読者段階を区別する必要があることだ。

 読者は、作者の意図を汲もうとし、その歌の詠まれた状況や過程も想像しながら歌に臨む。アフォーダンスの面でいえば、例えば「作者は黒ぐろと迫る雨雲に、時代の危機感を重ねて詠んだのかな」みたいな想像をする。こういう想像は、鑑賞として自然だし、好きなだけしていい。

 しかし、作歌動機や過程は実のところ誰にもわからない、ということも了解しておくべきである。作歌中の脳内にはブラックボックスがある。作者も、自身の歌を把握しきれない。詩歌という領域には正解がない。

 そして、最も重要なことは、読者が歌から感じることはすべて、作品としての短歌が備えたアフォーダンスであるということだ。むろん歌には作者の気配が残っており、読者は、作者の意図などを推測するけれど、それらはあくまで、その歌のアフォーダンスがもたらした結果であると割り切るべきだ。

 というわけで、作者が題材や言葉から受け取るアフォーダンスと、読者が歌から受け取るアフォーダンスは、区別して語られるべきである。

アフォーダンス・ミックス

 アフォーダンスはミックスで効果を出すことがある。

 事象や言葉一つ一つのアフォーダンスは、たいてい淡いものでしかない。が、ミックス効果を発揮しているケースがある。これは、柔道において「技あり」二回で「一本」になるようなものだ。しかし、これを歌評で説明するのは難しい。淡い効果を一つ一つ取り上げると長くなるし、「微細なことを大げさに言って状況証拠だけで無理に立件したがっている」と思われがちだ。

 「短歌のアフォーダンスにはミックス効果というものがある」ということ。本稿は、それだけでも伝えたいと思っている。

 このあと数例、アフォーダンスの効果に注目する形で鑑賞を試みる。そのあとは、ほぼ7月号掲載順に歌をピックアップし、必ずしもアフォーダンスにこだわらずコメントする。


1 いろいろなアフォーダンスとミックス効果


冷えた壁に三つの果実の絵のかかるさびしい話をするにふさわしい
とみいえひろこ

 なるほど、冷えた壁に果実三個の静物画、という環境には、「さびしい話をするにふさわしい」と感じさせるアフォーダンスがありそうだ。加えて、果実が三個あるたたずまいも、「さびしい話をする」のに最適感がある。一個なら孤独、二個なら親密、四個以上は賑やかすぎ、と思いませんか?さらには「3」という数そのものにも、微弱なアフォーダンスがある気がする。

 歌に持ち込まれる要素は、作者のなかでありとある事象から選ばれたものだが、私という読者に見えるのは結果としての歌である。作者段階でどういうふうに歌が成立したのかは、想像するのみである。
 一方、読者には、歌のあとの世界が拓ける。この歌を読んだとき、偶然にも果実の絵のついた冷たいペットボトルを手にしていた私は、自分がいまボトルの外という冷えた壁際にいることに気づいた。


指さきをヌルヌルにして果てのない憎悪を溶かすカヌレ食べます
ユノこず枝

 ものすごく具体的な描写で「憎悪」を詠んでいるが、経緯を示唆する要素が全くない。歌の動機を実生活の出来事などに求めるよりも、各語のアフォーダンスから読み解くほうが良いタイプの歌だと思う。

 強いアフォーダンスを発している語はなんといっても「カヌレ」だ。それとなく形状が火山に似ていることも手伝い、「憎悪を溶かす」とのタッグで、溢れ出す溶岩に通じそうになり、カヌレに火山のイメージがこっそりオーバーラップしそうになっているのだ。

 もうひとつ、カヌレは表面を蜜蝋で固めてある。ぬるぬるしてはいないのだが、「カヌレ」という名称が「濡れ」「ぬるぬる」に少し通じて、蜜蝋が溶けるイメージを呼び寄せそうになる。そうしたいろんなアファーダンスがいい具合に混ざっていると思う。


心臓の上にスマホを置いてみる私は死んだ人の末裔
木村友

 死と睡眠はセットのイメージだ。で、「死は永遠の眠り」というアフォーダンスを帯びているが、これを逆転させた「睡眠は永遠でない死」も、さして違和感なく受け入れられるアフォーダンスになり得るだろう。

 こう書きながら気づいたのだが、この歌のどこにも寝ているとは書いてない。「心臓の上に置く」「死」といった単語とフレーズのアフォーダンスが、仰向けに寝た状態を想起するよう仕向けてくるのだ。そして、仰向けの胸の上に何かを置く図は、棺の死者の胸に花束などを置くことを連想させやすいものだが、下の句で出てくる「死」でそれが強まる。

 下の句「私は死んだ人の末裔」は、当たり前のことをことさらに感受している。当たり前のようでも、まだあまり辿られたことのない連想脈だと思う。また、そのことを「心臓の上にスマホを置く」ことで意識した、という経緯にも、ニューロンが喜びそうな新しさがある。しかも、「スマホを副葬品のごとくに胸に乗せて寝ると、動いている自分の心音がご先祖たちの止まった心臓と通信しそうだ」ということを、暗示しすぎないよう寸前で止めてある。


我が傘を出がけにへし折る強風と電車の遅延ほんといらない
小野とし也

 内容は単純だが、冒頭の「我が傘」から結句「ほんといらない」に至るまで、表現のギャップを練り込んだ構造になっている。

 まずは出だし、文語脈「我が」を「へし折る」という乱暴な日常語に連結させている。傘を「へし折る」ほどの風の威力を、やや芝居がかった大げさな言葉の身振りで強調している。そのあと、「電車の遅延」という情趣皆無の語を経由し、結句の「ほんといらない」という個人的なつぶやきのくだけた口調に至る。この部分は、意味上は拒否感を表しつつ、それでも良くあることとして、なんとか受け入れようとしているように見える。

 つまり、この文語から口語までのギャップを含んだ歌のボディには、出勤時の強風・電車の遅延というワンツーパンチに見舞われて心折られながらも出勤しなくちゃならないという、心の対処過程の機微が練り込まれている。

 たまに「文語と口語混ぜるな危険」という教条的言説を耳にするが、詩歌は原則に当てはまるかどうかよりも、いかに素敵な例外たりうるかが味わいどころではないだろうか。


水無月の訪問者あり玄関の硝子戸越しに細くうつむく
千葉弓子@ちば湯

 この歌も、言葉のアフォーダンス、歌のアフォーダンスという観点を念頭に置かないと、良さを語りにくいと思う。

 語られているのは、実質、六月に訪ねてきた誰かのガラス戸越しの印象で、それを述べるならさまざまな言い換えが可能だが、この歌は、この歌にしかない絶対的な詩的効果を備えている。それは、この言葉たちをまとめた歌のボディからあふれるアフォーダンスの効果である。

 むろん感じ方は人それぞれではあるが、例えば、万葉集まで遡れる語「水無月」には和風の風情がある。旧暦では現在の六月下旬~八月上旬をさす。「訪問者」「硝子戸」「細くうつむく」という言葉たちにも淡いアフォーダンスがあって、ミックスすると、私の場合は、水無月といえばお中元の時期だし、風呂敷包を携えた和装で控えめなたたずまいの人を思い浮かべそうになった。
 そこには、ほんの隠し味的に正体不明感(微妖怪風味)も加味されている気もする。このごろ和装の人物は現在あまり見かけないし、「細くうつむく」という曖昧な気配描写が空想を促すからだろうか。さらにこの場面全体に、細かい縦の効果線(たぶん雨のイメージ)も見える気がして、出どころの曖昧な緊張感がみなぎる。

 ドラマで、なんでもない場面をBGMで緊張を高めるというテクニックがあるが、この歌は言葉のアフォーダンスがそれをやっている、と思った。


誰かひとり喜ぶ人が居ればいい此の世の隅に七角箸は
前田宏

 世相や戦争に言及する歌を含んだ「遠くまで」という一連。この歌は、「さまざま問題をかかえた世界の一角に『誰かひとり喜ぶ人が居ればいい』というスタンスのものがある」と提示して締めくくっている。

 アフォーダンスの観点から注目したのは、その内容を「七角箸」が担っていることだ。「此の世の隅に」は、この世は隅へと窮まるという空間把握を感じさせる。此の世の隅々にさまざまなものの究極があり、その一つである「誰かひとり喜ぶ人が居ればいい」という究極には、〝標〟として、「七角箸」が立てられている。そういう不思議な図が思い浮かびそうになる。

 自分だけが使う食器である箸には、職人が一本一本削って作る一生モノの高級品がある。六角・八角は縁起が良いとか、三本の指で持つから奇数の三角・五角が良いとか、諸説はあるが、「七角箸」は特別であるらしい。現物のすらっとした見た目。「七角箸」という字面。そして「七」という数字の神秘性。このアフォーダンス、なんだか神々しくもある。


研ぎをへて片手にもてる包丁がつわんつわんとひかりをはなつ
飯島章友

 言葉のアフォーダンスといえば、オノマトペを真っ先にいうべきだったかもしれない。なかでも、雰囲気や心情のように見えず聞こえずのものを表す擬態語というものはすばらしい。自分の感覚で手作りできるし、その手作りがけっこう通じる。これは日本語特有のことであるらしい。

 掲出歌の「つわんつわん」は手作りオノマトペ。日本語を使って育った人ならだいたいは、この光り方の雰囲気を受け止めてくれるだろう。その期待と信頼によって、この歌は成立したはずだ。
 既存の擬態語で光るさまを表すものというと「きらきら」「ぎらぎら」「つやつや」があるけれど、それでは物足りなかったのだろう。鋭さとして「つ」、力強さを「わ」、響を付加する「ん」の三つを合成。「つわんつわん」というひかり方は、包丁自身が周囲に切れ味を誇るかのような光りかただと思う。


「瞬発力ってなくていいのよ」雨ごとに耕されてく空気は言った
杉山モナミ

 「空気」が「雨ごとに耕されてく」という把握が新感覚だ。「雨降って地固まる」という慣用句からの、あるかなきかのワンクッション・フォロー。雨で地面は固まるが、空気は耕されるのね、となんとなく受け入れる。

 アフォーダンスの観点から注目したのは、「瞬発力ってなくていいのよ」という部分だ。雨に耕される空気の感触みたいなものをセリフにしている。つまり、雨の中の空気のアフォーダンスをセリフ化して表現しているのだ。

 実際の環境やモノは、セリフこそ言わないけれど、アフォーダンスを発したり漂わせたりしている。そういうものに無意識に反応している私たちは、アフォーダンスと会話することもある、とも思った。


 以上、アフォーダンスという観点に立つと説明しやすくなる要素を含んでいる歌をピックアップした。歌を構成する要素はいろいろあって、アフォーダンスを活かすテクニックはその一つにすぎない。したがって、ここに掲出したことやコメントの長さなどは、歌の評価に直結しないし、そもそも歌の良し悪しをいうことが目的の評ではない。念の為おことわりしておく。


 3 七月号の歌のピックアップと短評 後編





2024年9月20日金曜日

ちょびコレ35 空とウソ


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


短歌の中で、「空」と相性が良いもののひとつに「ウソ」がある。
「空+ウソ」で思い浮かぶのはこの3首。


これからもさみしいうそをついていく東西南北一枚の空
兵庫ユカ 作者ブログ「.bypass」2010/7/18

清潔なハンカチのような嘘をつく この青空をなくさないため
浅羽佐和子『いつも空をみて』2014

しんぷるな青杉としんぷるな空 とてつもなく大きい嘘のしずけさ
渡辺松男『歩く仏像』


こういう感じで、実に相性が良い。
「空」のなんでも吸収してしまいそうな虚無的なところが、なんとなく「ウソ」にマッチするのだろうか。
なんて言ってみても、そうかもな、という程度にしか納得できないが、しかし、実際に、「空+ウソ」歌はたくさんある。
(気をつけなければ、と思う。)


どこまでが優しい嘘になるのだろう青空にただ触れていたいよ
本多忠義『禁忌色』

海の嘘気付かぬままに釣り糸を空へと垂らす老人の群れ
木下龍也『つむじ風、ここにあります』

嘘をつく電話はなるべく屋外で空に向かって声を放てよ」
ふらみらり「かばん新人特集号」2015/3

夕空はひらたくなって嘘泣きの子供の声が節おびていく
ルビ:節【ふし】
花山周子『風とマルス』

痛きまで青き冬空逢ふためについて来し嘘どこまで容るや
本多稜「詩客」2013-10-04

葡萄蔓空に泳げばゆふひ色の少女の嘘に見惚れてありぬ
ルビ:惚【と】
浜田到『架橋』

嘘さえもつきたくなくて揚雲雀空は端から端までの檻
大橋弘『既視感製造機械』

死者の息貼り付く空の青白し時間が解決するといふ嘘
本田一弘『磐梯』



なんとなく傾向はわかる気がする。
こんなに詠まれてきているなら、この先はもう少し迫ってくるだろう。

2024・09・20

ちょびコレ34 空を畳む

「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


「空を畳む」というイメージは、かなり奇抜だと思う。

が、奇抜さにも〝レア度〟があって、大勢の歌人が才能を傾けて詠み合う状況では、「まれにある」というランクであるようだ。

(だから悪いの良いのという話ではない。
 レア度は各ランクごとに使い道があり、歌によって程よいレア度を使い分けることが望ましい、と思う。)


おりたたみしき空を鞄につめこみて軍のときは逃げる覚悟だ
渡辺松男『歩く仏像』

またすこしふるくなるからいちまいの空をたいせつに折りたたむ
村上きわみ(出典調査中)

夕空は折り畳まれてきみの目に入つて涙にも火にもなる
藪内亮輔『海蛇と珊瑚』


 上記3首、三者三様の踏み込みがたのもしい。
「まれにある」というレア度のモチーフの歌は、並べると特に読み応えが増す。


以下は、空そのものを畳むわけではないが、空を畳む感に少し近い感覚、通じる要素を感じる歌。参考としてあげておく。

初春や夢に眠りて夢を見る空にタオルをたたみ続ける
東直子 『春原さんのリコーダー』

 テーブルの上に散らばる空論をしつこく畳む人の両の手
増田達郎「早稲田短歌」44号

冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人
笹井宏之『てんとろり』2011

(俳句) 空の箱たたむと見ゆる冬の橋
鳴戸奈菜(出典調査中)



2024・09・20

2024年9月19日木曜日

レア鍋日記2024年 (随時更新しています)

レア鍋日記とは

こちらはたまに更新しています。

■2024・9・19 ニャン鍋
足ツボ

ないだろうと思いながら「足ツボ」を検索したら、なんと2首もあった。

足ツボに点字ブロックが気持ちいい※良い子は真似してはいけません
柴田瞳(出典調査中)

足ツボが効かないところが面白い辛いもの好きなのも愛おしい
yuki 作者ブログ(note)「作業用 50首」

「足ツボ」でなく「ツボ」で検索してみたところ、以下の2首を発見した。

「お仕事中すみませんけど馬の耳のツボに関する本ありますか」
石川美南『裏島』

ヤクルトを運ぶ女性に尻尾振る貴方のツボはそこだったのね
ゆすらうめのツキ「かばん 新人特集号」2010・12

上記「yuki」という作者の歌をざっと見ていて、レア鍋賞的な単語が多い気がして(感覚でしかないけれど)、しかもそれらが、他の語との組み合わせ方もレアである気もする。
たまたま目に入った「現在進行形」を見てみよう。

現在進行形

吾も少し関わっている 少女らの現在進行形の思い出
俵万智『かぜのてのひら』

現在進行形のことばかりだしきっとどうにかなっているんだ
辻井竜一『遊泳前夜の歌』2013 

連写するシャッターの音で出来た顔は現在進行形の神話
作者ブログ(note)「作業用 50首」

「連写・現在進行系・神話」という、飛躍含みの取り合わせが、飛躍だけれどかすかに軌跡というか、軌跡の気配ぐらいだが、感じられて、いい感じのレア感だと思った。

■2024・8・22 ナイ鍋


本日の闇鍋短歌、約13万首
「やっかむ」という語を使った短歌は見当たりません。

ただし、【妬む】や【嫉妬】はものすごくいっぱい。

【嫉む(そねむ)】は5首
能面の泥面【でいがん】がもつ翳りみきしみじみとせる嫉みをせむか 
生方たつゑ『青粧』
ほか

■2024・8・15 このそのあのどの 【ワン鍋賞】
いわゆる「こそあど言葉」を意識的に使っている歌を探してみた。

・このそのあのどの
 4つとも含む歌はこれ1首
それともこの・あの・その・どの・順接のだれもがアンサンブルの出身
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

・このそのあの

この椅子に坐るすなはちその椅子にまたあの椅子に坐らないこと
香川ヒサ『ヤマト・アライバル』

この出入口は草地や森に、その出入口は地下や湖底に、あの出入口は駅や街に、繋がる
松平修文『トゥオネラ』

・このあのどの
この木あの木そのむこうの木 どの影も影にためらいがある
沖ななも『天の穴』1995

自分もいつのまにか詠んでいた。
すれちがうあの船この船手を振ればどの船にもいる片目の水夫
高柳蕗子『回文兄弟』

■2024年6月21日
 電荷・電化【ワン鍋賞】殿下【ニャン鍋賞】


本日の闇鍋データ短歌総数 129.428首

わけあって「でんか」という音の語を含む歌を探したところ、
「電荷」はこれ一首のみでした。

何げなき冬に触れたるセヱタァにをのこふたりの電荷ゆきかふ
和里田幸男(出典調査中)

「電化」もこれ一首のみ。

後部シートに電化製品を転ばせて郊外という町の平たさ
棉くみこ(出典調査中)

「殿下」は2首あった!

いかばかり殿下はこの国の溜息の象徴として「ん」を発せり
山下一路(かばん誌 時期調査中 『スーパーアメフラシ』には未収録)

でも恋は出もの腫れもの出くわしたでんでん虫のでっかい殿下
高柳蕗子『あたしごっこ』



■2024年2月17日 すごろく【レア鍋賞】

わけあって「すごろく」の歌をさがしたら、以下3首しかなかった。

すごろくのように突然ふりだしに戻りたくなる日曜の夜
本多忠義『禁忌色』

振り出しにダダもこねずに回帰した双六の駒褒めてあげなきゃ
久保芳美『金襴緞子』

飴をくちにいれたまま寝て飴味のよだれをたらす すごろくしたい
橋爪志保『地上絵』

■2024年2月17日 あらま・あらまし【ワン鍋賞】

たて笛の高いドに指をあわせて「あらまあ二月あらまあ五月」
北川草子『シチュー鍋の天使』

あらましは黄色い本に書かれていたのだ オリンピックのまえに
詞書:Where is the emergency shelter?(避難場所はどこですか?)
山下一路『スーパーアメフラシ』  

「あらまし」(概略)を探すつもりで「あらま」という文字列で検索したところ、「あらまし」(であればよいのに)が7首、「あらまほし」が4首あり、「あらまし」(概略)は1首だけ、そしてオマケ的に「あらまあ」の歌が見つかりました。

■2024年2月8日 三千世界【レアじゃなかった賞

「三千世界」だなんて、現代短歌ではレアで当たり前だと思えるのだが、そのわりには詠まれている気がする。
こういうケースは「レアじゃない賞」としてここに取り上げようと思う。

先行して有名な歌などがあると、いまあまり使わない語も、短歌の世界には生き残りやすい。「三千世界」といえば良寛の

あわ雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

という、すごく迫力があって美しい歌が存在する。
そして、高杉晋作の、おそらく歴史ドラマなどで耳にして一般に知られている都々逸。

三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい

「三千世界のカラス」がこれまた印象的。
良寛の雪の白と晋作のカラスの黒は、三千世界に舞うものとして対照的であることも、無意識のうちにイメージが重ね合わさる効果もあるような気がする。

とにかく、こういう先行作品のおかげで、仏教用語である「三千世界」が、なんとなく知られており、かつ詩的なパワーをも帯びてきたのだと思う。

うなだれた花花のそばを歸るとき三千世界にただわれひとり
前川佐美雄『白鳳』

花虻はホトケノザに来てとまりたり三千世界のここがまん中
小谷博泰『河口域の精霊たち』

銀紙に歯をあつる瞬スパークす歯にあつまれる三千世界
渡辺松男『時間の神の蝸牛』


上記のなかでは渡辺松男の歌には特に驚かされる。衝撃の比喩に使うとは。
あの銀紙を噛んだときの独特の衝撃的な感覚を三千世界の存在感に例えるという、唯一無比でありながら、あの衝撃を表すならもうこの比喩にまさるものはなかろうと思えてしまう。

実は私にも「三千世界」を詠んだ歌があるけれど、「須弥山大運動会」という仏様の運動会を詠んだ連作のなかにあるので、「三千世界」という仏教用語が出てくるのは当然で、そういう意味では面白みが足りない。
休止する三千世界のすむずみに届け仏のはずむ息づかい
高柳蕗子『回文兄弟』

川柳にも、発想の近いおもしろい句があった。

三千世界にくちびるが切れた音
湊圭伍『そら耳のつづきを』


冬に荒れた唇がぴりっと裂ける。小規模で無音だが、意外な衝撃がある。

なお、短歌にも俳句にも川柳にも、より普通の取り上げ方で「三千世界」を詠む例は他にもあった。