2025年6月16日月曜日

レア鍋日記2025年 (随時更新しています)

レア鍋日記とは

ごくたまに更新しています。

データベースの登録数が増えたせいで、ワン鍋ニャン鍋賞が減り、それどころか3首のレア鍋賞もなかなか見つからなくなってきました。
その日の気分で、5首ぐらいでもレア鍋賞に入れてもいい、ということにします。


※新しい順で掲載

2025年6月16日 ワン鍋賞 保母
         ニャン鍋賞 カウンセラー

 本日の闇鍋短歌総数 132,357首

いろいろな職業の詠まれる頻度を見ていたら、「保母」という語を詠む歌がたった1首しかないことに気づいた。
現実に多くの人が従事していて日常耳にすることも多いのになぜだろう。

子を保母にあずけて駅へ急ぐ朝どうしても嘘つきのようにさみしい
早川志織『クルミの中』2004

また「カウンセラー」も、保母さんほど日常接するわけではないとはいえ、2首しかないのは意外だった。

わたくしに敵なんかゐないと言ひ聞かすカウンセラーは魔女に似てゐる
浦河奈々『マトリョーシカ』
飲み込んだ言葉がきっとあるはずのカウンセラーよ 駅まで雨だ
虫武一俊『羽虫群』

ついでに、他の職業の歌数も書いておく

アナウンサー:5首
予報士 6首
スパイ:7首
キャスター:9首
芸人:9首
刑事:12 警部:3 計15首
巡査:10首 お巡りさんorおまわりさん:6 計16首 
歌手:26首
探偵:26首
俳優:11/女優;15 計26首
力士:27 お相撲さんorおすもうさん:5 計32首 
選手:33首(種目はいろいろ)
医師:76 医者51 計127首
教師:67  先生:228 計:295首




2025年4月7日 ワン鍋賞 仮縫い

ねえちょっとじっとしていて千本の仮縫いのまま生きてもいいの
藤本玲未『オーロラのお針子』2014

「仮縫」という語を含む歌は、約13万2千首のなかで、これ1首でした!!

2025年4月7日 ワン鍋賞 遣唐使

口いっぱい桃の花びら頬張らすときだけ正直癖遣唐使
鈴木有機「かばん」2002・5

「遣唐使」という語を含む歌は、約13万2千首のなかで、これ1首でした!!
「遣隋使」の歌はありませんでした。

俳句で
おんおんと遠はるせみや遣唐使
冬野虹『網目』

を見つけました。

歴史の授業で習った語、歴史上の人物名、を含む短歌のアンソロジー
そのうちやってみたい。

■レア鍋賞 幕府

ちょっと様子見で「幕府」を探してみたら!

さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく
望月裕二郎『あそこ』2013

倒置せよ波浪注意のうしみつに足利幕府濡れ濡れて来
和合亮一 作者ブログ2015・10・27

肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光『日々の思い出』

俳句も2句発見

鮟鱇の鍋の鎌倉幕府かな
大畑等 『ねじ式』2009

パンジーが幕府をひらけさうですね
土井探花 現代俳句協会HP 第40回兜太現代俳句新人賞受賞作

うん、いい手応えだ!

■2025年4月6日 レア鍋賞 ナポリタン 4首

本日の闇鍋全データ 180,432歌句
     うち短歌 131,894首
  このなかに「ナポリタン」を詠み込んだ歌は4首だけ。

ばくぜんと死を考える朝っぱら ナポリタン・スパたのむ昼過ぎ
白瀧まゆみ『自然体流行』1991

夕日色したナポリタンを食べている間は弱虫でもよいこととする
月夜野みかん 「五線譜もしくはストライプvol.1」 (2013年11月2刷)

夕焼けで炒めたようなナポリタン食う常連に猫背が似合う
鈴木ジェロニモ 「鈴木ジェロニモ自選短歌180首」(作者note 2023/3/11)

枝分かれした運命のいくつかのピーマンだけが具のナポリタン
山中千瀬『死なない猫を継ぐ』2025


 妙にシリアスですね。また、偶然でしょうが、この少ないなかで2首が、ナポリタンの色を夕焼けと結びつけているのがちょっとおもしろいと思いました。
 
 俳句も探してみました。

秋暑し演歌のようなナポリタン
石原ユキオ 作者サイト「石原ユキオ商店」

手持ちデータに「ナポリタン」を含む句はこの1句しかなかったので、ネットで探したところ、

六月のゆふぐれ色のナポリタン
草子洗 2020・6・18毎日新聞「季語刻々今昔」

永き日の病室母のナポリタン
晴田そわか 作者note 2023・2・6

の2句を見つけました。

俳句でも、この少ない数の中、「ナポリタン」と夕暮れの色が結びついていることに注目。理由はわからないけれど、意外に思いつきやすいのかもしれません。

川柳も探してみたのですが、「ナポリタン」は投稿サイトでは多く見られる題材のようです。



■2025年3月30日 レア鍋賞 木の股 3首

本日の闇鍋全データ 180,432歌句
うち短歌 131,558首

木の股に澄みつつしろき春雪の卵ほどなる玉のやさしさ
北原白秋『橡』1943

世界樹がふるえながら葉を落とす 木の股の形状きそいあい
山下一路『世界同時かなしい日に』2024

木の股から生まれて春のこどもたち味蕾ひろげて春をたべる
高柳蕗子「短歌」2023/05 (豆歌集『雑霊のシナプス』2025)


■2025年3月30日 レア鍋賞 印鑑5首

印鑑を押してください捨印を押してください捨ててください
松木秀『RERA』

牛乳からカゼインなるを取り出して固めてできた印鑑を押す
松木秀『色の濃い川』

印鑑を押して力を抜くまでのつかの間散漫の心はあらず
尾崎左永子(出典調査中)

両親が人間になる玄関の鏡台の印鑑ひとつだけ
藤本玲未『テリーヌの夢』2025

正直じいさんが足りない 吉相の印鑑たちをヒトにもどせ
高柳蕗子「かばん」202306 (豆歌集『雑霊のシナプス』2025)

★ここに自分の歌が交じるのが嬉しい感じ
■2025年3月30日レア鍋賞 PARCO 6首

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで
仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』1986

夕ぐれは109の後方にPARCO三基をしたがへて来る
松原未知子『戀人(ラバー)のあばら』1997

昭和二十三年六月十三日太宰治死す 嗚呼!夕照のPARCO
藤原龍一郎『花束で殴る』2002

はじめてのロンドン帰り秋の日に金子由香利を聞きたるPARCO
中村幸一『あふれるひかり』2016

被曝だ、と笑い男らが吉祥寺PARCOを出でて夕立の中へ
染野太朗『人魚』2016

戦場はルサンチマンのスクランブルPARCO本気で墓碑にするまで
山下一路『世界同時かなしい日に』2024

仙波の歌が「PARCO」を詠んだ最初の歌、かどうかはわからないが、少なくともある程度知られて影響力を持った歌である。
山下の歌は仙波の歌を強く意識しているのは確かだが、他も、どの程度意識したかわからないが、夕暮れの光景でなんとなく「墓」だったり死に関わるものを詠み込む例が多いようだ。


■2025年3月24日 ワン鍋賞 はっけよい

 「はっけよい」「ハッケヨイ」「八卦良い」の3種類のテキストで検索。
 これ1首しかなかった。

はっけよいのこったのこった想いはねそなたの失脚願う愛情
久保芳美『金襴緞子』
■2025年3月16日 ワン鍋賞 前売り

「前売」という語を検索してみたところ、データベース闇鍋の13万首のなかにこれ1首しかなかった。

途方もなく未来のことを託される前売り券が重たくて春
塚田千束『アスパラと潮騒』2023

***






2025年5月19日月曜日

ちょびコレ38 舌を出す

 


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、

そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


だいぶ前に、「短歌の中で舌がすること」というミニコレクションをやりました。
そのときは、「舌」としては珍しい行為などを詠む歌を集めました。

しかし、「舌」というのは、作者読者ともにそそられる題材で、行為自体が珍しくなくても、レアな名歌を詠めちゃうみたいです。
ですので、今回は「舌を出す」ということに絞って、歌を集めてみました。

※検索語句は「舌+出」「舌+[だす]の各活用形」「べろ+出」等々、舌を出すということを詠んでいそうな歌を拾えるように工夫して検索し、あとから対象外の歌を取り除きました。

※舌を出すことを詠んでいても、「舌orべろ」と「出or[だす]の各活用形」を含んでいない歌は拾えません。)


本日の闇鍋データ総数 181,243歌句
うち 短歌      132,197首
うち、「舌を出す」ことを詠み込んだ歌 32首

以下、そこから本日の好みでピックアップします。
まずは近代歌人の2首。

すつぽりと蒲団をかぶり、
足をちゞめ、
舌を出してみぬ、誰にともなしに。
石川啄木『悲しき玩具』

蠅來ればさと繰出すカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
ルビ:繰出【くりいだ】
中島敦 青空文庫(「中島敦全集2」筑摩書房「河馬」)


和歌の時代、「舌」って詠まれていなかったと思います。少なくとも、見たことないです。
 ※ただし、俳句では古典でも「牛の舌」だとかを見かけるし、また、古川柳や狂歌でも「舌」は詠まれています。

今回あらためて「舌」の歌をさがしてみたところ、近代の歌人たちはけっこうたくさん詠んでいて、「短歌」の言葉の世界では新鮮な題材だったと推測されます。

上記の啄木の歌もそうですが、詠まれているシチュエーションもかなり人間的です。(和歌の時代で人間臭いネタはほぼ恋の歌だけ。)

今まで歌に詠まなかった題材は「写生」という観点からも新鮮だったはず。上記の中島敦のカメレオンの舌の色を詠む歌には、そうした表現の喜びが感じられます。

参考例(近代の「舌」の歌。舌を出す歌ではない)

鬪はぬ女夫こそなけれ舌もてし拳をもてし靈をもてする
ルビ:女夫【めを】 靈【れい】
森鴎外『沙羅の木』

おそらく夫婦喧嘩を詠んでいるのでしょう。
「舌もて」は舌戦、「拳をもて」は文字通り。「靈をもて」はご先祖まで振りかざしての大騒ぎ、という意味でしょうか。

この坂は霧のなかより
おほいなる
舌のごとくにあらはれにけり。
宮沢賢治 ちくま文庫 宮沢賢治全集3 


近代の人の表現意欲ってすごいなと感じてしまった本日ただいまの気分で、内容というより、表現欲の強さを感じるかどうかで、以下、現在の歌人の「舌出し歌」をピックアップ。

唇がかくしてる舌ひきだして玉藻のような時がはじまる
加藤治郎 『噴水塔』2015

「玉藻のような時」って何でしょう?
「舌」といえばなまめかしいイメージ。そこにプラスして玉藻といえば……、脳内にサーチをかけると、万葉集の用例から、波間でゆれる藻のように撚り合わさるイメージ※と、「玉藻前」(九尾の狐)から妖艶なイメージも少し加わる感じ、だと思います。

※玉藻といえば万葉集によく出てくる。枕詞の「玉藻なす」は、「浮かぶ」「寄る」「なびく」にかかる。さらに思い浮かんだのが(たまたま知ってただけだが)、柿本人麻呂の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」の一節だ。
「……和田津の荒磯の上にか青なる玉藻沖つ藻朝はふる風こそ寄せめ夕はふる波こそ来寄せ波のむたか寄りかく寄る玉藻なす寄り寝し妹を……」

舌だしたまんま直滑降でゆくあれは不二家の冬のペコちゃん
穂村弘 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』


舌を出すものといえば「犬」、「貝」、「化け傘」などなどありますが、「ペコちゃん」もそのひとつです。
人物描写のおもしろい歌。外見の描写だけでなく、主体は誰かにこう話しかけていて、それがスキー場を自分たちの街にするようなニュアンスを含んでいます。
だから描写されているのは、ぺこちゃんみたいな人だけでなく、それを見ている二人の素敵な時間だと思われます。そこがこの歌の並じゃない点でしょう。

ああ、雪 と出す舌にのる古都の夜をせんねんかけて降るきらら片
光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』

「舌で雨や雪を味わう」という趣向は時々見かける気がしています。(そのように詠む短歌は実際にはそう多いわけではなく、たまに見る程度です。)
よくよく思い出してみると、教科書で西脇順三郎の「雨」という詩に出会ったのがその最初だった気がします。
 南風は柔い女神をもたらした。
 青銅をぬらした、噴水をぬらした、
 (中略)
 この静かな柔い女神の行列が
 私の舌をぬらした。

一方、「古都の雪」というと観光地を語る文脈を思わせる面がありますが、この歌の場合、「舌で味わう」ことで、主に視覚で味わう世間一般の観光のステレオタイプな体験を超えたものがある気がします。

地球の水分は太古から、雨雪やら河川や海に姿を替えて巡っているもので、その一部は生物の身体(もちろん人間も)を通り抜けます。姿によって異なるイメージを持ち、また地域ごとに歴史その他の特性による情緒も帯びます。古都の雪はその一形態で特に完成されたものでしょう。
歌はそんなことまで言っていませんが、そうした大きな把握が認識の底にある気配はします。詩歌における「雨や雪を舌であじわう」は、そうしたことをそれとなく感じさせる可能性があると思います。

 
舌先を愚者みたいにつきだせば冬のおわりのあおぞらにがい
ルビ:愚者【フール】
佐藤弓生 『薄い街』

「舌を出す」のは、相手を馬鹿にするしぐさでもありますが、「愚者みたいに」というのは、無邪気さのニュアンスでしょうか。また、「空に向かって舌を突き出したら苦かった」というのは、ちょっと「天に唾する」(人に害を与えようとして、かえって自分に災いが及ぶこと。また、自分より上位に立つ者を冒涜するような行為)おろかさにも通じそうです。
空をなめるとは、世界をなめてかかった愚かさ、という意味を含んでもいそうです。

「冬のおわり」は春の直前。季節がこれからまた最初からやり直しになる直前の空は、なるほど、だいぶ苦くなっちゃっているのでしょう。

ぐわぐわとつつじひらけり陽のもとに押し出されゆくくれないの舌
鈴木英子 『油月』


種類によって色や形は違うだろうが、この歌で思い浮かぶのは、鮮やかな紫がかったピンクのつつじ。
花はみんな世界に押し出て咲くパワフルなものですが、つつじは花の中まで同じ色で、たくさん咲くところも、パワーを感じさせます。
「ぐわぐわ」「くれないの舌」という感受には、つつじそのもののパワーと、見るものの心境の反映とが出会った相乗効果を感じさせ、それがそのまま歌のパワーにもなっているとも思います。


舌を出す、とは書いてないけれど、「舌は出島」という意味の次の歌も面白くて、ちょっと捨てがたいです。

肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光 『日々の思い出』


「肉体が幕府であれば」という着想が実におもしろいです。
なるほど、人体は混じり合わない鎖国状態で、一人ひとり、自我によって統治されています。
そして、「舌」の役割のひとつが「話すこと」ですが、「出島」と言えば、江戸時代の鎖国政策下において、日本と西欧との唯一の貿易窓口として機能していた場所ですから、この歌、言われてみればまったくその通り、というほかありません。



「舌」は実におもしろい題材です。
また、別の切り口から考察してみたいです。

2025・5・19


2025年3月25日火曜日

ちょびコレ37 特殊算(◯◯算)

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、

「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


■特殊算

今回は、旅人算、植木算などの特殊算を詠み込んだ歌のコレクション。
調べたらけっこういろいろあった。

検索語は
流水算、鶴亀算、植木算、旅人算、仕事算、和差算、売買算
時計算、集合算、日暦算、覆面算、虫食い算
および、その仮名表記(ふくめん算など)

本日の闇鍋短歌データ 総数約131,500首
うち、特殊算名を含む歌は以下の10首でした。

【旅人算】
旅人算こころみる冬の室内に思うわたしのあしの速さを
柳谷あゆみ 『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012

旅人算ノートに途中まで解かれ地球のどこかが凍えておりぬ
鶴田伊津『夜のボート』2017

思い出す旅人算のたびびとは足まっすぐな男の子たち
江戸雪『椿夜』2001

【流水算】
まづ脛より青年となる少年の真夏、流水算ひややかに
塚本邦雄『綠色研究』1965

ていねいに図を描くのみの答案に流水算の舟すれちがふ
光森裕樹 『鈴を産むひばり』2010

どの場所からでも流されてしまう生活は下りの速い流水算
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

【鶴亀算】
タートルはトータル何匹いるでしょう鶴亀算は足がいっぱい
岡田美幸『現代鳥獣戯画』2019

わからないもののひとつに鶴亀算なにことさらに脚を数える
山中もとひ 『〈理想語辞典〉』2015

【植木算】
植木算は木を描きながら解くのだと子は言う枝に葉をつけながら
広坂早苗『未明の窓』

【虫食い算】
〈虫くい算〉さわやかにわが脳葉に展がりゆける火の秋の空
永田和宏『メビウスの地平』



★俳句も発見
蝶や果つなべて旅人算の外に
ルビ:外(げ)
九堂夜想「LOTUS」(第41号)


なお、ネットで調べてみたら、トンネル算、長椅子算というのもあるようだ。

勝手に、架空の特殊算を作って一首詠む、という題詠やったらおもしろそうだなあ。
恋愛算 不倫算 風邪引き算、ダイエット算、鼻毛算、密室算、激辛算なんちゃって。

高柳蕗子 2025・3・25

2025年3月24日月曜日

ちょびコレ36 ◯、◯、◯

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

◯、◯、◯……

今回は「◯、◯、◯」というような3連以上の畳み掛けを含む歌を集めてみました。

私の近現代短歌データベース「闇鍋」に本日は短歌が約13万首入っています。
うち◯、◯、◯」のような畳み掛けを含む歌は37首ほどありました。
少しピックアップします。
・「、」を挟まないで畳み掛ける例は検索しづらいため、たまたま見つけたものを拾いました。
・「◯」は1文字としますが、2文字が交じるのも一部許容しました。
・「た、た、たいへんだ」のようなものは除外しました。
順不同です。

自然がずんずん體のなかを通過する――山、山、山
ルビ:體【からだ】
前田夕暮『水源地帯』1932

この歌が、私のデータベースの中で一番古い「◯、◯、◯」の用例です。

夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
北原白秋『海阪』1949

壁、壁、壁しづけさまさりおさへられおさへられつつつかれてゐるも
加藤克巳『螺旋階段』

家、家、家ってなんだろう電気、ガス、水道、物が詰まって、人、家族
花山周子『林立』


前を行く首、首、首に汗は照り博労町をデモは過ぎゆく
吉川宏志『石蓮花』

先波を越ゆる後波、波、波、波、無量の波が陸に迫りく
ルビ:
先波【さきなみ 後波あとなみ
高野公彦『天平の水煙』

そとはあめ、雨、雨、氷雨、皮膚に皮膚よせて樹木は情を知りそむ
佐藤弓生『薄い街』

額縁店の壁に我、我、我、我、我、我を充てよと額のひしめく
真野少『unknown』

エスカレーターにせり上がりくる顔顔顔 朝のホームは魔術師である
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
この例は「、」がありませんが、同類とみなして混ぜておきます。

空、空、空 ラウインゲンの空青く午後十時半くれてゆくなり
田中徹尾『和の青空』2025

僕たちの運ぶ辞典の頁、頁、膨らみだして港が近い
千種創一『砂丘律』2015

2回しか畳み掛けてないけどなんだか3回ぶんインパクトあり。

虹、虹、虹、送電線は彼方から彼方の虹を送りつづける
ルビ:
彼方かなた
早坂類『風の吹く日にベランダにいる』

ダウンライトに後ろをさらす首、首、首、ほの白くて折れやすそうな
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015

シャガールの青青青瞳孔を見開いたまま一生を見た
天道なお『NR』2013

尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、ねむい教室
加藤治郎『噴水塔』


全体として、特にコメントの必要はなさそうで、どれも一定の効果を出しているように思います。

加藤治郎の「尾、頭無し……」のように意外なものの畳み掛けがもっとあっていい、と思いました。(注文の多い読者)

今回はここまで。

「◯、◯」を探したら、「花鳩豆…」的な列挙型の畳み掛けの歌をたくさん見つけてしまいました。
すごく面白いけれど、多いので、分類しながら取捨選択するのが大変そうなので、今回は見送ります。
いつか機会があれば・・・。

高柳蕗子

2025年3月24日











2025年2月21日金曜日

虫食い式短歌鑑賞3

 虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。

※伏せ字「●」は1音を表しています。

  例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●

これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。

「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。


■12の扉 ●●●●●

今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。


1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空

2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴

3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み

4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる

5 蓋ひらきたる●●●●●覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば

6 一つずつ落としこみおり●●●●●をポップコーンで埋めようとして

7 ●●●●●の蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
   ルビ:鞠【まり】 載【の】

8 ●●●●●の蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる

9 ●●●●●の五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり

10 ●●●●●の模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえる●●●●●
  ルビ:anywhere out of the world 【ここでないどこかへ】

12 ●●●●●にひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった



 いかがですか? 
〝詩的飛躍〟のせいでわかりにくいところもありますが、なんとなく見当がついたのでは?
 












以下、回答、考察と鑑賞です。




回答 マンホール


Ⅰ 考察(前半) 「マンホール」の普遍的イメージは?

 

普遍的なイメージのモチーフを予想

※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。
 本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
 
 まず、歌に詠まれる「マンホール」は何を表すのか。ある程度は普遍的かと思われるイメージモチーフを予想してみる。
 「どうして? 予想などせずに、ニュートラルに読めばいいじゃないの」と思うかもしれない。
 しかしそもそも脳内環境はニュートラルではない。少なくとも私の脳はいつも、意識化できていない不審なものでどろどろ状態だ。
 そんな泥んこ脳をかき回しても、根拠の怪しい思い込みやあやふやな納得感しか得られない。
 多少なりとも確実性を高めるため、「普遍的と思われるもの」という受け皿を用意し、実際の歌にあたって検証する、という方法をとる。予測に縛られる面もあるかもしれないが、予測内容の妥当性を実際の歌を見て検証することも可能だし、足場が硬ければしっかり読み解くこともできるし、予測できなかった独自な要素も見落としにくくなるとも思う。

というわけで、「マンホール」の普遍的なイメージモチーフの予想

a マンホールは地下領域(見えない国)への出入り口。
  覗き込んでも、深さ1,2メートル程度が垣間見えるだけ。
  この地下には計り知れない国がある、という印。

b マンホールの下は複雑な迷宮 だが人は気にかけていない。
  上下水道や電気ケーブル等、人間社会の血管みたいなものが埋設されている。
  そのことを、わたしたちは知識として薄々知っている。
  知っているが見えないから存在の実感が希薄で気にかけない。  

c 地下は不可侵の場所・忌避感
  ①下水管は暗くて汚なそう。
  ②地下は死者の国。
  ③深層にはマグマ。

d マンホールの蓋は地下を封じる
  忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
  遮断して忘れ去る

e 忘れられた存在
  地下には、忘れられたものがある
   (日陰者、たとえば皆から忘れられている窓際族。)
 
f 虫が旅立った痕跡
  地面にあいた穴は、セミなど昆虫が出た痕跡。
  そこから、「時が来れば、解放や脱出が可能」というシナリオが喚起され得る。
  「5」の、地下に忘られていたものもいつか時満ちて、地上へ空へと旅立っ等。

 以上が、鑑賞に向けて用意した「受け皿」のイメージモチーフである。

  歌にはいろいろな解釈が成り立つ。私はできる深読みは積極的にする。
 「詠む」と「読む」という二種の詩心が、繊細な指相撲のように楽しく攻防するような、エキサイティングかつ精密な鑑賞をこころがける。

Ⅱ 各歌の鑑賞

 さて、掲出歌は、myデータベースにあったマンホールの歌22首から、なんとなく好みでピックアップした12首で、歌の順番はランダムである。


マンホール閉づればマンホールのうへの明るくて これ 秋の大空
  渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023

 「閉づれば」が効いている。
 マンホールの蓋をしたとたん、それより下の世界が閉ざされる。そういう決定的瞬間みたいな感じだ。
 その上にあるのは明るい地上。さらに上には秋の大空だ。(とびきりの晴天だろう。)
 そして、このように上の世界を描くことで、「反転的な対称の位置に、閉ざされて暗い地下世界があり、更にその底には闇の天蓋がある」みたいな構造を提示し得ていると思う。

 「地上に対して地下は反転的構造」という構造把握を、私はいままであまり意識化してこなかった。が、無意識領域でなら思い浮かべたことがあったような気もして、これは「普遍的イメージモチーフ」の〝なりかけ〟段階かと思う。

 ★地上地下の反転的構造……
  

マンホールみしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
  渡辺松男『雨(ふ)る』2016


 地下の秘められたパワー。これは、「地下」が持つイメジャリー(心象を喚起する作用)の一つだ。そのパワーを、この歌は実に珍しい捉え方で表現している。
 誰でもなんらかの形で地下のパワーを感知する。暗闇を流れる水の気配、地中の死者の怨念、深層にたぎるマグマ等々もあり得るが、一般的に「マンホール」という題材は水音を聞く歌になりやすいと思う。(22首中4首あった。)
 ところがこの歌では、なんと、マンホールを見たとき変な気分になり、鼻血が出て「重力」を感じている。
 この場面がもし現実なら、具合が悪くなって鼻血も出て、心身ともに不安でうろたえている状況ではないだろうか。くずおれそうになり身体は、たまたま目にしたマンホールに地下からのパワー感じ取り、「ぢゆうりよく」を意識した。
 弱った身体はセンシティブだから、身体そのものの想像力が高まることがあると思う。地球の「重力」が高濃度で(まるで放射線とかみたいに)マンホールから染み出す。それに自分の身体が応答して、同じ穴である鼻から血が流れだす。ーーそういうふうに身体が空想的に感受している生々しさが、この歌の核心であると思う。

 ★体感/地下と身体とが呼応


丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびくマンホール踏み
  佐波洋子『時のむこうへ』2012

 マンホールで地下の水音を詠む歌は少なくないので、他との違いが重要だと思う。
 この歌で他と違う要素として注目したのは、この人物がいま坂を登りながら地下の水音を聞いている、という点だ。
 夜、家路の坂道で、足下の水音響くマンホールを踏む。
 ーーそこから何を読み取ろうか、と少し迷う。
 仕事などの疲れの仕上げのように坂を登っているのだろうか。そのときこの水音はどう聞こえるのか。その手がかりになる要素は提示されて無い。
 だから、例えば「たくましい水音に励まされるかな」とか、「坂を上り下りする水と自分の生活を重ねるのかな」とか、ありがちなシナリオに踏み込んでみると、「なーんか違う」と引っ込めたくなる。
 「水」が自分と並行して坂を上り下りしている、という事実を検知したのかもしれない。それはマンホールを踏んだとき一瞬重なっただけの、〝無縁寄りの縁〟※である。
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。

 感情移入したり自分に重ねたりせず、自分と水という二つの現象が、今たまたま並行しているという淡い無縁。この世界には、さまざまなものたちがそれぞれの有りようで、同時に無縁に存在する。自分と万象との縁も〝無縁寄りの縁〟であり、それが世界の一部としての自然な在り方だ、というような、ーーいや、踏み込みすぎましたね。

 ★淡い無縁、あるいは〝無縁寄りの縁〟

午前五時 すべてのマンホールのふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
   笹井宏之『てんとろり』2011

 ぶっ飛んでるなあ。
 地下の心は地上の人間の理解を越えている。そういう感じ、新しい捉え方だし、愉快だ。
 マンホールの蓋がひゅーんと飛び交い、がっちゃんと入れ替わる。
 派手なパフォーマンスだ。地霊のフォークダンス的ないたずらか。でも、意味不明すぎるし実害がないし、人々は、目にしなかったふりで通り過ぎるかもしれない。
  さっきの歌のところでも感じたことだが、このごろの短歌は、自分との無関係さのニュアンスを精密に捉えるし、同時に「読み方」もそういう点を味わいそこねないように注意するようになってきた。つまり、「無関係さ」というものが詩的に追求するテーマの一つに昇格※したのである。この歌はその辺境を示すフラッグのひとつだと思う。
 「無関係さ」が詩的に追求されていくなかで、「地下」もその出入り口の「マンホール」も新たな意味を帯びてくるだろう。
かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
  
 ★「無関係」の辺境地帯

 

蓋ひらきたるマンホール覗き込み「レッドスネーク カモン!」と呼べば
   藤原龍一郎『19××』1997

 「レッドスネーク、カモン!」は、「東京コミックショウ」という夫婦芸人のコントで、赤青黄の蛇のパペットを使うもの。緩い芸風はほのぼのとした笑いを誘った。
インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
 知っている者には懐かしい、今はないお笑いを、記憶の地層から呼び起こそうとする。
 末尾の「呼べば」という言いさしが気になる。呼んだらどうなるの?
 「何も起こらず、虚ろに声が響くのみ」ならいいが、「思い出の亡霊が、地下で成長し、マンホールの太さのとんでもない大蛇となって出て来ちゃう」というのもあり得る。なぜなら、物語(特にホラー系)でたまに見かけるモチーフに、「安易に呼びかけたり触ったりして、とんでもないものを呼び覚ましてしまう」というのがあるからだ。※
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
 また、星新一の「おーいでてこーい」※を思い出したのは私だけではなかろう。ーー穴に向かって「おーいでてこーい」と叫ぶと、それがああなりこうなり……、とにかく良くないことが起きてしまう話だ。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説
 だが、この歌には、不吉さを中和する白魔法のようなものが働いている。あのまぬけ面のパペットが大蛇になったところで、たいして怖くない。緩い芸風への懐かしさがこの空想を安全化してくれていて、ワタシ的には、その中和感が、この歌の味わいどころだと思う。

 ★過去と現在混ぜるな危険!

一つずつ落としこみおりマンホールをポップコーンで埋めようとして
  飯田有子『林檎貫通式』2001

 穴を埋める、から連想したのが、その反転的イメージのモチーフ「空という大穴を、人間は夢や願いで埋めようとしている」をどこかで見た気がする。ーー「心の虚しさを投影して、空という虚ろを何かで埋めようとする。がそれは不可能で虚しい。」という感じのモチーフは、まだじゅうぶんに認知されていないかもしれないけれど、見たことがある。※
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。
地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
 この歌は、その「空を夢などで埋める」の「空」を「地下」に、「夢」を「ポップコーン」に反転したっぽく、うまく呼応していないだろうか。娯楽的場面に似合うポップコーンは夢がはじけたみたいな感じがしなくもない。
 そこには、地下は不要不都合なものをいれる場所(最悪は放射性廃棄物の埋設)だというイメージがほんの一滴ぐらいなくもない。が、しかし、この歌は不思議な明るさも備えていて、「最終処分」というほどの絶望には至らせない。
 ポップコーンは最終処分の汚物というほど禍々しくない。ーー天地反転の構図に重ねるなら、ちぎった白雲みたいだし。そういえばコーンは種だ。一度はじけちゃったからもう芽はでないだろうが……。そうしたことが歌をそれとなく救っていると思う。
 (さっきの「レッドスネーク」の歌にもこの種の作用があったっけ。)

 さらに深読みだが、救い要素としてもうひとつあえかなものがある。ポップコーンを穴に落とすことから、ちらりと「おむすびころりん」を想起しかかった。「食べ物を穴に落とす」のは、現実世界と違ってイメージの世界では「吉事」である。
 「おむすび」は地下のネズミたちと知り合うきっかけだったし、お爺さんのふるまいによっては結果は良くも悪くもなる……。つまり、ポップコーンはもう芽を出さないとしても、地下との新しい関係の可能性はある。

 ★イメージの世界には現実世界と違う「吉事」がある
 

マンホールの蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
  ルビ:鞠【まり】 載【の】
  小池光 『草の庭』1996

 この歌のマンホールの蓋、なぜ「くるしく」濡れているのだろう。
 現実的にいって雨だろう。マンホールの蓋には雨水を受け入れる穴アキのものと、雨水を入れないものとがあるが、どっちにしろ地上と地下の境界を守る苦労をしている。「雨にも負けず」に。
 そして、若草色の軽い鞠と、地味な色で(たまにカラフルなものもあるが)すごく重たいマンホールの蓋という対比には、なにかほほえましさがある……。
 そのさまは、なんだか、苦労人のおじいちゃんにかわいい孫がちょこんと乗っかっているような……。
 で、おじいちゃんは、無表情だがちょっと幸福で、孫の軽さを味わっているような……。
 それと、この歌になんだか「めでたさ」のようなものも感じるのは、「マンホール蓋+鞠」のカタチが、少し「鏡餅」を思わせるからかもしれない。
 他の歌にもあったが、この歌も、マンホールのイメージを救うイメージをそっとしのばせていて、苦労をねぎらっているかのようだ。

 ★苦労人マンホール
 
 
マンホールの蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる
  佐藤涼子『Midnight Sun』2016

 「世界」が主体。「春」こそはこの世界の、いわば定期リフレッシュの季節である。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」のも「世界」。「蓋を持ち上げる」「残雪を捨てる」という作業を実際にするのは人間だろうが、人間も世界の一部であり、日々の行動も世界の摂理の一部である。
 「春は定期的に来るリフレッシュの季節」というのは、歌人なら誰でも一度は詠むと言っていいほど昔からのポピュラーなモチーフだ。
 それゆえ他に紛れない要素も大切で、この歌のそれは、自然界の定期リフレッシュに、人間が人工物「マンホール」に対して行う〝定期メンテナンス〟的な行為を含めている点だと思う。これは一味違う。
 古典では春の訪れを雪の変化で表すことがよくある。雪の下から草が現れる等だ。「マンホールの蓋の雪をどかす」ことは、そういう詠み慣らされた情景を現代に合わせて描き変えたように見える。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや
藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)
雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな
出羽弁『玉葉集』1312
 そしてこれは、単に新しいモノを詠み込んだだけではない。
 私が短歌をはじめた40年前(1980年代)、短歌の言葉の世界では、「自然」と「人工物」が対立関係で捉えられ、しかも「自然」は尊く「人工物」は卑しいという詩的身分差別(?)が当たり前のようにあった。しかし、家電やパソコンが普及した今では、頼もしい人工物たちに守られて(例えば冷房がなかったら死者が出る)暮らしている。必然的に「人工物」の詩的地位は向上し、貴賤感覚はずいぶん薄れてきた。
 この歌は、そうした意識の変化を反映し、「春の訪れ」という伝統的モチーフ※においても、詩的対立も貴賤もなく共存してみせている。

※季節の訪れと人工物
 さして古典に詳しくはないが、和歌における「春の到来」は、自然界の兆候を捉えて詠むのが普通だったようだ。雪解け、野の草、鶯、梅の臭いなど。
 そのため、「季節の変化は自然の変化を捉えて詠む」と拡大して決めつけそうになった。が、たまたま見つけた「法則」的なものは、なべてあやうい。
 例えば「夏の到来」は、とっくの昔の万葉集に「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」と、人が干す洗濯物(人工物)を「夏の到来」の指標にして詠まれてるもんね。

 ★短歌の世界にも「今はそうなってんのー!」がある
  ※タイムズカーのCM(「タイムズカー」という新システムに合わせて働き方を変える場面の叫び)


マンホールの五月磨り硝子の五月卵サンドの五月は来たり
  小島なお『展開図』

 春の到来の歌に続いて、こんどは「五月」到来の歌。
 こちらは、「事象をピックアップすることで全体を表す」という換喩※。目にした「マンホール」と「磨り硝子」と「卵サンド」だけで、「五月」がまんべんなくあらゆるものに来ていることを表す。
 (この種の換喩に触れた最初は、子供の時に聞いた、サトウハチローの「ちいさい秋みつけた」だ。)
 ちょうど目に入ったものを列挙しているさりげなさ。でもそれは、少ない例のピックアップで全体を表すために、あふれかえる万象の中から適切に選ばれたものである。
 「マンホール」「磨り硝子」「卵サンド」は、「さほど景色の良くない場所、たとえば会社の裏庭で昼食をとっている」と、驚くほどに場面を絞り込んでくれることに注目。
そして、「そんな場所でさえも別け隔てなく「五月」は来てくれる」というふうに、定番の(貧しい窓にも月光はさしこむ的な)おとしどころにきれいに着地している。
 なぜ景色が悪いのか、なぜ会社の裏庭か、と思う人もいるかもしれない。
 なぜなら、「磨り硝子」は、表側の窓ではなさそうで、事務所の奥の資料部屋など、外から見えず外光を入れたくないような窓を思わせるからだ。(マンホールがあるなら水回りのものが近い。炊事場や、トイレの窓の可能性も……。)
 また、戸外でお弁当とくれば「うららかな日差しのなか、小川のほとりの草地で」というシチュエーションがステレオタイプであろうに、そこにあるのは小川でなく「マンホール」であること。ステレオタイプは無意識であることが多いから、このサジェスチョンも無意識領域で、淡く意識化されないままの、いわば隠し味になっていると思う。

※換喩(かんゆ):メトニミー(英: metonymy)は、小難しく言えば「概念の隣接性あるいは近接性に基づいて語句の意味を拡張」なんだそうだが、このウザすぎる説明が無駄に敷居を高くして、必要な人に普及しないのだ。
 換喩は「赤ずきん型の喩」と呼ばれる。「赤ずきんをかぶった子」を「赤ずきんちゃん」と呼ぶ。そういうふうに一部の特徴で全体を表すものだ。「青い目」で「西洋人」を表したり、「鳥居」で「神社」を表すようなこと。「春雨やものがたりゆく蓑と笠(蕪村」も換喩だ。「一部で全体を表す」と平たく説明できる、これを「換喩」と言うんだよぅ。ったくもう。なお、類似を接点にする「比喩」は「白雪姫型の喩」という。王妃が「肌は雪のように白く云々」と望んで生まれた子だから。
 この「換喩」とい語を、短歌の批評用語に加えたくて、この40年、折に触れて意識的に使ってきた。「換喩」を知っていればあっさり読み解ける歌があるし、換喩を普通の比喩ととりちがえると解釈がとんちかんになっちゃうからだ。ところが、この言葉、なぜか全く普及しない。私はもはや古希。これからも「換喩」という言葉の必要を感じないような短歌鑑賞が続いてくのかしらね。めでたいな古希。

 ★ステレオタイプをこっそり隠し味に
 

10 マンホールの模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
  鈴木ちはね『予言』

 天から降る水の一部は人の街や人体を巡り巡って海に至る……。
 マンホールの蓋のデザインは地域地域で異なっていて、地域地域のイメージを記号化したともいえそうだ。
 マンホールのあるところには下水管などが通っている。これは当たり前なのだが普通は意識しない。マンホールデザインとその地域性という話の最中も、水流とともに歩くという意識は希薄だったと思う。
 ところが、海に出ていきなり、この旅人(いや、ただの散歩かもしれないが、地域性の話でかすかに旅人意識が喚起され)たる歩みに地下水流のイメージがオーバーラップした。人と水管の水が同時に海に到着したかのような、いっしょに旅して来たかのような、そういうふうに少し遡って、かすかな一体感を、「感じそう」になっている。(「感じた」までは届かないぐらい。)
 ついでに、水の旅のイメージとの一体感は、話し相手との一体感にも及んで、こちらも少し遡る感じかな、などと思った。
 さっき、地下と体感でシンクロする歌があったけれども、この歌は、人が共有する観念世界と現実の地下の水管とがシンクロしかかったみたいでで、けっこう新感覚だと思う。
 
 ★足下の水の道と頭の中の観念世界が平行移動

11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえるマンホール
  ルビ:anywhere out of the world【ここでないどこかへ】
  佐藤弓生『薄い街』

 読んだとき、そういえば星マークのマンホールをよく見かける気がした。いや、それはよくかかる言葉の魔法だろう。現実のマンホールは、地域それぞれのデザインになっている。 (ちなみにうちの近所は花柄だ。)
 でもそんな事実は気にせず魔法にかかろう。ーーうんうん。マンホールには五芒星が描かれていそう。
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
 さて、五芒星は呪術的だ。何かが封印されていて、そいつが出たがって蓋を揺らしているのかもしれない。
 それだけでなく、五芒星には、封印した何かを遠く「ここでないどこかへ」と旅立たせるようなミラクルパワーがありそうな気もする。UFOとも縁がありそうな雰囲気だ。
 それとは全く別ジャンルだが「五」の仲間の「五輪塔」もちょっと連想した。
 うちのお墓は「五輪塔」というカタチ。子供の頃に住職に聞いた話では、「五輪塔は、自然界の5大要素(空、風、火、水、地)をかたどり、また人間の五体(足・胸・胸・顔・頭)の意味も兼ねていて、空と語り、発信する」とのことで、お墓がそういう装置であることに驚いた。ちょっとロケットに似てるし。
 というわけで、何物かが時満ちて、マンホールからどこか宇宙にでも旅立つのではないか。地中で幼虫時代を過ごした昆虫が羽化して飛びたつみたいな感じで、何がでてくるのかそそられる。

★神秘的な期待


12 マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった
  藤本玲未『オーロラのお針子』2014

 この歌も、地中の虫が羽化して旅立つイメージが重なっていると思う。虫の羽化を描いたのではなくて、それは隠しアレゴリーみたいに、歌を裏付けていると思う。「ぬいぐるみ置いて」は、セミが抜け殻を残すことと重なる。
 このマッチング! この味わいだけでご飯が食べられそうだ。
 隠しアレゴリーは、叙述されていることが不可解でも、何か別の他のことで脳が体験したイメージが裏から補強する。読んで意味がよくわからくても、謎のまま立体的理解感(造語です)みたいなものが生じる。(私はこの「立体的理解感」がすごく好きだがこの感覚は人による。)
 立体的理解感の説明になるかどうか、ーーグラフィックソフトには「レイヤー」を重ねる機能がある。隠しアレゴリーというのは、別レイヤーの絵を、透過度10%程度に淡く重ねている感じだ。
※レイヤー=階層。グラフィックソフト等における、絵や設計図の仮想的なシート。複数のシートを重ねたり、別々に編集したりする。透過度も調節できる。
 
 何かが星を出ていってしまうらしいSF的な味付けもいい。(これもレイヤーの一つだ。) 
 彼らは地下都市に住んでいたが、何らかの理由、たとえば自然破壊とかで、星を脱出しなければならなくなった、みたいないきさつだろうか? 「ぬいぐるみ」は、自分たちが去っても星が淋しくないように置いていく「埴輪」(副葬品)のようなものだろうか? 地下を封じる重いマンホールの蓋は墓石に通じる。
 「だいすきだった」と言って〝ここ〟を去るというのは、ちょっと胸キュン(これ死語?)なアニメみたいで、深刻になりすぎないように調節された描写だとも思う。
 そうしたいろいろを総合して、この歌で、心の儀式みたいなものを体験した気がする。
 自分はまちがった場所にいるような、故郷はここではないような、そういう違和感を宥めたり鎮めたりするらしい歌が、2000年を少し過ぎた頃からときどき目に入るようになった。「ここを去る」という心の儀式もその一つだと思う。
 

 ★レイヤーで立体的理解感
  「レイヤー」を短歌の批評用語にしようよ。レイヤーを重ねてるような歌がけっこうあるんだから。


Ⅲ 考察(後半) 「マンホール」イメージの活用

歌を詳細に読む前に、予想したイメージモチーフはざっくり以下の6つだった。

a マンホールは地下領域への出入り口。
b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。
c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)
d マンホールの蓋で地下を封じる
e 地下に封じられ存在を忘れられる
f 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。

 さて、実際に読んでみたところ、上記は、ある程度は当たっていたと思う。
 しかし重要なのは、違いを感じた点や予想を超える展開だ。
 それでこそ予想をしたかいがある。
 詳細は、各歌の鑑賞に書いたので、以下、気づいたことのみを列挙する。

● 「反転世界」という図
 地下と地上を「反転」の位置関係で捉える。
 私の予想にはなかったもので、これは収穫だ。

● 「無関係」「無縁」を詩的に追求
 現実世界では、地下への無関心は、単なるそれにすぎない。
 しかし、いくつかの歌に見られた「無関係」「無縁」という感覚は、詩的に極める方向で詠まれている。

● 忌避感を体感で
 忌避感を詠む歌があることは予想していたが、体感で捉えるのは想定していなかった。

● 「地下」へのアプローチ&新式の蘇活
 予測中は「忌避感」を重視していたのだが、これは当たらなかった。
 「地下世界への出入り口」と「地下に封じる」は、おもしろ展開し、マンホールに向かって思い出のもの(スネーク)を呼んだり、食べ物(ポップコーン)を投げ込んだり、と、地下へ能動的にアプローチする歌が印象深かった。
 また、地下を「死者の場所」として忌避するのでなく、「思い出や夢が葬られている場所」という懐かしさのほうにシフトした「地下観」が出来かかっているかもしれない。
 そして、いったん葬られたものは、何らかの新しい方式でよみがえるかもしれない。そのわずかな可能性が生じているみたいである。
(死者を呼び起こすとゾンビになるが、思い出や夢のようなものは新しい方法があれば蘇活するかもしれない。)

● 旅立ち
 予測のひとつに、蓋をされて封じられる立場というのがあったが、私が想定した日陰者めいたメンタリティの歌はなかった。
 そのかわり、昆虫の羽化のようにマンホールから旅立つらしい歌があった。
  
● いわゆる「味変(あじへん)」
 「マンホール」という比較的新しい(まだ詠み尽くされていなくてイメージ開拓中の)題材を、伝統的な題材やステレオタイプ化したモチーフと組み合わせて、新感覚へと転換する。そういう使い方をしている歌もあった。

 というわけで、
 全体として、私の予想などいくら超えてもかまわないと思えるほど、歌たちには、たくましい表現意欲の裏付けが感じられた。

 考察の前編に、「詠む」と「読む」という二種の詩心の指相撲のような鑑賞をめざすと書いた。実際、格闘するように鑑賞文を書いた。

 鑑賞は言語化をする「読む」側が有利だが、二つの詩心の指相撲は、互いに手加減せずにせめぎ合ったすえ、「詠む」が煙に巻いて勝ち逃げするのが理想だ思った。
 まだ、そういう名勝負のような鑑賞が書けない。
 

2025・2・13

2025年1月29日水曜日

ちょびコレ25 レジ袋

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

レジ袋

(この項、2024年9月に公開しましたが、加筆して
 2025年1月に公開し直しました。)


最初にいちばんのお気に入り1首

この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋

(題詠「塵も積もれば」)
山下一路 「かばん」2020.3
『世界同時かなしい日に』2024に収録

 題詠イベント「塵も積もれば」に出詠して最高点をとった歌。

 哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たるだろう。そのレジ袋を「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわ解凍されて来ないか。

 「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせるが、その無念は粗末に捨てられたためだけではなかろう。環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだが、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれると思う。

 さらに、「投身」は、人間に跳ね返って来る。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。一人ひとりは否応なくこの自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか、というふうに、環境問題としての深読みにも踏み込んでいけそうである。


 故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。  まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。


さて、では、いろいろなレジ袋の歌をみてみよう。

●レジ袋を持って

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵万智 『サラダ記念日』

レジ袋を詠む歌の中で比較的多い取り上げ方は、レジ袋を下げて歩くシチュエーションだ。それはたいてい、日々の食料や必需品を買って帰るところであって、日常の平穏、ささやかな幸福感を描く。

スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに
沖ななも『白湯』
ちょっと奮発してメロンなどを買ったかな?

スーパーの薄い袋を柑橘で充たして運ぶ春の自転車
嵯峨直樹『半地下』

二人で持つシチュエーションは、二人の関係などを表す。

感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』

さみしさを二等分してレジ袋あなたの方がわずかに重い
toron*『イマジナシオン』


こういう歌もあった。
二種類のインスリンも入るレジ袋柿の実色づく道を帰りぬ
足立晶子『はれひめ』2021

「インスリンも」の「も」には、「いつもなら夕飯の食材など楽しみなものが入っているのに」という気持ちの省略が込められている。

毛色の違う歌を見つけた。

レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015


 神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。--これも日常場面を詠む歌だが、なんだか記述以上のことを感じる。
 上の句では左右の手の動きを述べ、下の句では遠い視点からの絵に切り替わるという、ふたコマの絵になっていることがミソだと思う。  
 スーパーの袋(食料などが入っている)を下げて歩くヒト。その手が疲れたか、ちょっと持ち替えてまた歩き出す。(「右手から左手に」の字余りは、持ち替える動作を感じさせて効果的だ。)
 それは、神社の前、樹齢何百年の大樹の前だ。命を超越する神、タイムスパンの長い大楠、そしてせいぜい百年しか生きない人間、という、異質な存在の3者がたまたま重なる。
 そういういわば概念の奥行きのある構図の中で、ヒトが手の疲れというとても小さな問題を解決する。そんなささいな音もない一瞬の命の現場、という実にさりげない臨場感。
 非常に精密な歌であると思う。 

●半透明

レジ袋の多くは半透明だが、まだ「半透明」という特徴を詠む人は少ないようだ。

半透明レジ袋ゆゑうつすらと中身の見えてこれはアボガド
喜多昭夫
『青夕焼』

アボカドの濃すぎる緑とパプリカの黄に紗をかけているレジ袋
喜多昭夫『いとしい一日』2017

※「紗(しゃ)をかける」という言葉を知らなかったので調べました。
紗とは生糸の織物の一種、透過性のある細い糸で荒く織り込まれた布。レンズに被せて被写撮影し
写真のイメージをソフトにすること。


●レジ袋が生き物などに見える

兎ひとつ座れる形にレジ袋ベンチにありて夕暮れてゆく
小潟水脈『時時淡譚』

枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった
千種創『砂丘律』2015

ワタシ的あるあるは白猫。
足元に白猫がいて、踏まないように跨いだらレジ袋とか、
白猫が阿波おどりしてると驚いたがレジ袋だったとか。


●先行きの不安

レジ袋が生き物にみえることに関係すると思うが、風に翻弄されてふと命を帯び、舞い踊りながら飛ばされていく姿は、先行きの不安を感じさせることもある。

風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか
従順なレジ袋たち河口まで運ばれふいに惑いはじめる
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015

秋の道ひかりを抱いてぱるぽるとレジ袋ひとつ転がりてゆく
千葉弓子@ちば湯「かばん」2025年1月号新春題詠「袋」
※作者名は1月号にはなく、後日明かされた。

 この歌は、一見幸福感を詠んでいるように見える。が、今は期待に膨らんで「ぱるぽる」と楽しげに転がっていくレジ袋には、悲しい末路しかない。じきに希望の光は消えて残酷な未来が来てしまう。つまり、現在の「明」のみを書いて、未来の「暗」を暗示するというレとリカルな歌であると思う。
 未来のわからなさはときにトリックかとさえ思えるが、この歌のレトリックはそのトリックを体現しているようにも思える。

●レジ袋の要不要を告げる

レジ袋いりませんってつぶやいて今日の役目を終えた声帯
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013

世界とのあいだにいつも「あ」を挟む あ レジ袋つけてください
まるやま(『短歌ください 君の抜け殻篇』2016より)

レジ袋断り牛乳素手で握る2020を生きているきみ
伊藤紺 (「短歌「いま」」2020年7・8月 特集:癒やしながら より)


●レジ袋有料化

レジ袋は2020年7月1日有料化された。
時事ネタのためか、世間話のような感じ。

ともかくも今の幸せ享受するレジ袋代五円を払って
蒼井杏『瀬戸際レモン』

西友のレジ袋(M)2円なり買うとき今日は怒りが湧いた
染野太朗 「詩客」2013-02-22



 レジ袋の歌は今のところこんな感じ。
 数年後にまた様子をみたい。


2025年1月29日


2025年1月20日月曜日

虫食い式短歌鑑賞2

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

「●●……」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 
 例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●

    文字数は5ですが音数は4


20●●●●●

今回の虫食いワード●●●●●は、短歌においてはけっこう人気の高い語です。
以下、20首をピックアップしました。
作者名も伏せてあります。
(答えと作者名、および高柳の詳細な鑑賞が下の方にあります。)


1 ●●●●●極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに


2 ●●●●●ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分


3 ●●●●●は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり


4 青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく●●●●●


5 「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」★★★★★★(談)


6 どうしても●●●●●が動いている様に見えない春の疲れであろう


7 闇の彼方に●●●●●青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり


8 まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に●●●●●点れり


9 ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり●●●●●その役目を終えて


10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大●●●●●


11  銀河とは誰の●●●●●であろう回転をして止むことのなし


12 遠くても●●●●●だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬


13 ●●●●●のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】


14 ●●●●●の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ


15 無力なることを知るため一人きり●●●●●にて空をよぎれり


16 ●●●●●まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく●●●●●


18 吾という六十兆個の細胞を●●●●●に乗せのぼりゆくなり


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する●●●●●


20 ●●●●●回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 



いかがですか?
●●●●●に入る言葉はわかりましたか?


キーワードは、空・高い・ゆっくり・乗る・回る……。







回答 観覧車



以下、考察と鑑賞

 2024・7月に「観覧車」を含む歌を、闇鍋(myデータベース)の短歌約129,000首から抽出した抽出したところ、84首ありました。上記20首はそこからピックアップしたものです。

 ーーこの84首という数字はかなり多いと思います。遊園地の代表的乗り物で比較すると、ジェットコースターは2首しかない。回転木馬は14首で、別名メリーゴーランド9首と合わせても、観覧車には全くかないません。それだけ「歌に詠みたい」と思う〝引き〟が「観覧車」にあるということです。

※以下は、文体が書いた日によって、「ですます」だったり「であるだ」だったりします。気にしないでください。


 

1 観覧車極まりて空に高きとき歓びは似るふかき畏れに
 川野里子『青鯨の日』

◆空深く極まる→ゆっくり戻る

 観覧車が空高く極まるその高みにあるときの喜びは、深い畏れに似る。
 なるほど、頂点にいるときは、高さを考えるだけでも怖いし、それを「ふかき」と言い換えたとたん、空深く「沈む」イメージも少し喚起され、(潜水艦的に)ゴンドラに閉じ込められて出られない、という物理的・体感的な恐れを感じるだろう。
 加えて、心理的にも、「畏れ」という文字が、慣れ親しんだ地上から遠いぶん、人間の領域を離れ本来いてはいけない場所に侵入しているための気後れのようなものを表している。

 だから、楽しく観覧車に乗る喜びには、畏怖が混じるのだと思うが、ふつう、喜びと畏怖は反対の心の働きのように認識されていて、それがなぜかいっしょになる状況であることを捉えた、というのがこの歌のコンセプトだろう。

 ところで、言葉は、あるものを別のものと区別する。「観覧車」といえば、「観覧車」でないものを除外する。すごく当たり前だけど、虫食いにしてみて、あらためて感じた。喜びと恐れが同時に高まるものは観覧車だけではない、と。

 ジェットコースターでも、そのへんの児童公園のぶらんこでも、そういう体験はできる。
 ただし、これらは極まりかたやそのあとが違う。
  観覧車は、ゆっくり上昇し極まったあとゆっくり日常に降りてくる。
  ジェットコースターはゆっくり登り、猛スピードで下降する。
  ぶらんこは揺れが反復して極まりを繰り返す。

 「観覧車」と書いてあるから、読者はひとりでに、観覧車の特性を踏まえて読み、楽しみといっしょに「畏怖」がゆっくり極まることだけでなく、そのあとそれがゆっくり緩んでいく体感・情感もコミで感受できる。虫食い状態だとこのあたりが難しかった。

  

2 観覧車ゆつくりとわが視界まで闇を引き上げてくる十五分
 大谷雅彦『大谷雅彦集 』(セレクション歌人)

◆非日常の時間感覚と体感

 闇を「ゆつくり」引き上げてくるという描写が印象的。

 なんだか掛け布団をひっぱりあげるみたいな具体的な書きかたです。15分間のそのなまなましい時間感覚と体感を描くことに徹して、雑味がないゆえの迫力があると思います。

 遊園地の遊具の多くはスピードがありますが、観覧車は反対で、極端に遅い部類。
 あのゆっくりした、スローモーションのような時間の感覚や体感こそが、観覧車的な非日常の特性そのものである。
 なので、その非日常的感覚は、このように工夫をこらして描く価値があるんだなあ、と思いました。

 歌には全く書いてないことで、以下は詩心に詩心が応答した〝幻視的〟段階の感想にすぎず、「評」ではありません。
 この歌の時間感覚は妙になまなましい。「闇を引き上げてくる」というところで、なぜか連想のスクリーンに、巨大なかたつむりを見た気がしました。観覧車の形状が少しかたつむりに似ているせいだろうか。さっき「掛け布団をひっぱりあげるような」と書きましたが、その掛け布団が生きているような感じがします。

 

3 観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』 

◆屈託なく楽しげなたたずまいの観覧車

 比喩の一種に〝見立て〟というワザがあります。(というか、比喩はみんな見立てと言えるかもしれないけれども、〝見立て〟とわざわざ呼ぶにふさわしいのは、視覚的に大仕掛けなものです。)

 この歌も「二粒ずつの豆の莢」以下すべてが「観覧車」の見立てです。
 観覧車のゴンドラを「二粒ずつの豆の莢」と捉え、それが「陽に触れては透ける」という情景を詠んでいる。「観覧車」という人工物と、豆の木のような生命感あふれる植物のイメージが重なる、大胆で斬新な設計です。
 (ちなみにこの作者は〝見立てワザの巨匠です。)


 この視覚的魅力だけでもう十分に歌は成立すると思いますが、もう1点、そも観覧車というものの姿やありかたを、このように明るく楽しげに捉える屈託なさ、という点にも価値があるのではないでしょうか。描かれているのは「観覧車」自体の存在としての喜びみたいなもの。それは作者の主観で捉えたものですが、そこに人間の心情を託そうとせず、「観覧車」の存在としての本質を見ようとする描写になっています。

 短歌は、人の孤独や悲しみなどの心情を芯にして成立しがちで、観覧車を詠む歌も同じ傾向があります。それが悪いのではないけれど、このような明るい歌は、「観覧車」のイメージバランスを救っているとも思います。


青大理石の空に〈囁き〉を差し入れてぷらぷら沈んでゆく観覧車
 井辻朱美『クラウド』

◆水車のような装置

 この歌も〝見立て〟ワザを使っています。暗い心情を反映させていない、という点でも、ひとつ前の歌と共通しています。

 観覧車のゴンドラの動きを「空に〈囁き〉を差し入れて」と解釈していることにびっくり。そのあとの「ぷらぷら沈んでゆく」もなんだかかわいくて、ゴンドラたちは頑張って昇り、リラックスして降りてくる、ーーああ水車みたいだ。(「森の水車」っていう唱歌がありますね。コトコトコットン。)

 この歌の観覧車は、大理石の立派な空へとたゆみなく、地上の〈囁き〉を汲んで届ける、水車みたいな装置に見立てられている。連なって空へのぼる小さなゴンドラたちはその水車の部品の桶みたいなものらしい。
 (草木が地中から水分を汲み上げたり光合成したりする装置であることをちょっと連想した。観覧車をそうした装置のひとつに見立てているみたい。)

 役目を果たしたゴンドラたちが「ぷらぷら沈んでいく」という描写。仕事の緊張がゆるんだ人間っぽいしぐさは、観覧車という装置に生きもののようなニュアンスを添えています。

 「観覧車」という対象を、人間の心情表現の手段にしていない。ーーゴンドラの動きには人間臭さもあるけれど、心情を投影した、というほどではありません。
 観覧車というもののたたずまいそのものから感じたことが描写されていて、その視点は、人間も含めて万物は、等しくこの世界に屈託なく存在する事象である、というような開放感に繋がり得ると思います。


「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」観覧車(談)
秋月祐一『迷子のカピバラ』

◆擬人化・憑依・投影

 「ゆっくり」回るのは「観覧車」の個性そのもの。
 そんな観覧車が、「生涯にいちどだけ全速力でまはる日がある」と語った。
 これは、「本当は早く回れるんだぞ」と、仲間のメーリーゴーラウンドたちに見栄をはった言葉でしょうか。

 それか、そういうパフォーマンスに憧れがある? ーーたとえば、「ひごろニコリともしない人が、生涯にたった一度だけ微笑んだ」的なサプライズをやってみたい、的な。
 (個人的にはこれに一票だ。)

 あるいは、擬人化的な心情投影というセンも。
「全力でものごとに取り組むチャンスのないまま人生の後半にさしかかって『いつか一花咲かせるさ」的なことを呟いている(=叶わぬ夢フラグたちました)」

 こういう感じで、つまり擬人化として受け止める人が多いかもしれないなあ・・・。

 

どうしても観覧車が動いている様に見えない春の疲れであろう
 渡辺良『日のかなた』

◆景色が静止画に

 動きがのろい、ということが観覧車という題材の重要な特徴であることは間違いないでしょう。

 おもしろいのは、「春の疲れ」が、観覧車を見ている主体者の疲れか、観覧車の疲れかが渾然としていること。
一般的な比喩関係は、例える側と例えられる側という一方通行の関係だが、この歌は一般的比喩ではない。自分の気分を対象に投影しているのか、対象の姿ありように影響されて自分がそういう気分になったのか、双方向に憑依・投影しあっているような、そういう素朴なシンクロ状態が表されている。

 
 ひとつ前の歌でも、この憑依・投影現象に触れた。
 この種の双方向状態は、詩歌イメージの中だけでなく、現実にもあると思う。何らかの事情で心身が弱まったとき、意識の輪郭が緩んで、主体と対象が相互的に混ざりやすくなる。「春の疲れであろう」は、内容も口調も、そうした〝心身の弱まり〟をそれとなく感じさせる。
 また、「春の疲れ」という語が抒情的で風流でさえあることに心奪われ、見落としそうになったが、景色が静止画になったかのようなこの描き方、「疲れ」の質の描写として、なんと繊細だろう。

 〝心身の弱まり〟を詠む歌は多いと思われる。そのなかで、スローなものを詠み込むことは、なんとなく実感として納得※※できる。そのスローの究極として、景色が静止画になる(=時間が止まる)イメージもすんなり受け入れられる。
  のろい動きと心の弱まりを結びつけた歌の例で、いまパッと思いつくのはこの歌。
   かたつむり枝を這ひゐる雨の日はわがこころ神のごとくに弱き(前川佐美雄)
  
 あ、またカタツムリ! さっきも別の歌のところでカタツムリを幻視した。
   カタツムリと観覧車は、直ではないが、間接的に縁があるみたいだ。

  ※※心身の疲労時や鬱傾向のときは、自分だけ時間が停滞し、朝やるべきことをやっと夕方に、
   今日済ませるべきことが明後日に、というふうになるのはよくあること。   


闇の彼方に観覧車青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり
 佐藤通雅『予感』

◆天地シンクロ

 夜に灯る遠い観覧車は、星が丸く集まったように見える。それがふと天界にある遊園地のように思われた、のだろう。

 最初、死の後も人のタマシイは「遊園地」を必要とする、という、人間の本質のようなものを洞察する歌かしら、と考えそうになったが、だんだん、それは考えすぎに思えてきた。

 「死者が、星になって地上を見守る」という伝承があるけれど、この空想には、「地上の生者が、天の星になった死者を思って天を仰ぐ」という鏡のような心情がセットになっている。これも、さきに書いた素朴な投影シンクロに通ずると思う。

 そして、このようなシンクロ的空想は、理屈でなく、お供えもののように優しく詠み出だされるのではないか、と思う。

【メモ:なんだかメメント・モリ】
 ここで脱線的に、なんとなく、「観覧車はどこかメメント・モリっぽい」と思いついてしまった。
 頭蓋骨がシンボルのメメント・モリは、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」というイマシメなのだが、時代によって意味合いが「だから今を楽しめ」だったり「だから現世の楽しみや贅沢は虚しい」だったりする。

 「観覧車」はイマシメではない。が、概念を語るときの材料が似ているし、切実ではかない現世の希求のようなものを思い出させる。観覧車とメメントモリはカレーとハヤシぐらいに近縁のものだと思う。


まるで悪意のごとき等距離 傾いた夕空に観覧車点れり
 魚村晋太郎『銀耳』

◆ガトリング砲の銃口のような瞳

 これはまた、……「悪意のごとき等距離」とは何だろうか。
 遠目に見る観覧車。ゴンドラの照明が等間隔で円形に点っている。ーーそこに「悪意」を感じ取っているようだが……。

 解釈は人それぞれだが、その円形に灯る光を「悪意のごとき」と感じたのなら、もしかして、ガトリング砲の丸く並んだ銃口みたいなものをイメージしたのかな、と思った。
 夕空はブルーとオレンジが変に混じり合うときがある。その少し気味の悪い空を背景にすると、建物やクレーンなど、巨大なものが怪獣みたいに見えることがある。
 観覧車もそんなふうに、こちらにロックオンした銃口のような瞳、を思わせることがあるだろう。
 ーーいや、現実が先行するとは限らない。私は、この歌を読んではじめてそのイメージがまざまざと思い浮かんだのであり、今後、もし夕空を背にした観覧車の明かりを見たら、これを思い浮かべるだろう、とも思う。

 「傾いた夕空」は、陳腐なポエム的軽さが漂いそうなフレーズだが、この歌の中では、実際には傾くはずのない空が、悪意の観覧車の傾きといっしょに傾いてしまっているかのように、言葉どおりの重みを備え得ていると思う。

 

ゆうぐれのじゃんけんのごとく消えゆけり観覧車その役目を終えて
 久野はすみ『シネマ・ルナティック』

◆じゃんけんのパー、消える花火、その残像


 一読、この歌には、字数の数倍の情報が込められている、と感じた。 
 まずは「ゆうぐれのじゃんけんのごとく」。
 ここには、じゃんけんの手元がすこし暗くなり、遊ぶ熱意にも影がさしてくる頃合いの、あの儚さが漂っている。

 そこへ下の句の「観覧車」という文字が目に入るや、無意識領域の視覚効果が発動する。
ーーーじゃんけんの手、観覧車はやや形状が重なりやすい。重なる、と意識するほどではなく、歌を読んだままに思い浮かべれば、なんとなく勝手に重なる程度だ。それが、途中の「消えゆけり」の効果で、消えかかる大花火のイメージを呼びそうになるのだが、あくまで無意識化の効果、隠し味である。

  (これは、視覚的に思い浮かべないタイプの読者には効かない術だけれど。)

 結句の「その役目を終えて」は、観覧車が一日の役目を終える、というより少し意味が大きいような感じがして、その遊園地は閉園するのかなと、考えそうになる。このときも、消える花火を思い浮かべそうになった無意識の淡い残像が、効果を付加していると思う。

 「観覧車が一日の役目を終える」から「遊園地が閉園する」へと思考が進むと、その延長線上に「観覧車が人類を喜ばせることの終わり=人類の終末」が見えてくる。歌にはそこまで書いてないが、「観覧車」はそういう連想脈を備えている。 

10 特等の金色の玉でるまでを回りつづける大観覧車
 神崎ハルミ(伊波虎英)『観覧車日和』(私家版)作者HP

◆ガラガラポン

 あ、福引のガラガラポンだ。そういえば観覧車に似てる。
  ※本当は「抽選器」という名称だそうです。

 こうした類似の発見はただそれだけで楽しい。
 無関係なものの形状の一致。視覚的だじゃれ。
 だじゃれは普通、無関係の言葉の音の偶然の一致を楽しむもので、その楽しさには少し神秘性があると思う。言葉でなく、形状など視覚的な偶然の一致にも、だじゃれ的な楽しさと神秘が宿る。
 「金色の玉でるまでを回りつづける」という、それが宿命であるかのような言い回しから、人類の尽きることなき希求が観覧車を発明したような、そしてそれはきりもなくただ回され続けるような、そういった空想へといつのまにか促される。

 別の歌のところでも述べたが、短歌に詠まれる「観覧車」は、人類の尽きることなき希求の象徴のように使われる傾向があるようだ。
 この歌では、「特等の金色の玉」という出るはずのないものを求めて、永遠に回されるのだろう、という意味が読み取れる。


11  銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
 松木秀『色の濃い川』


◆誰のものでもない・誰の手にも負えない

 観覧車の形はいろいろに見立てられる。さっきの歌では福引のガラガラポン(抽選器)だったが、この歌の「銀河」はおそらく最大級だろう。

 「観覧車」のイメージのなかには、〝神のみわざ〟的な神秘性がひそんでいる気がする。さっきの「抽選器」、また、別の歌のところに書いた「メメント・モリ」への連想も、人間を超越している。
 だから、「銀河とは誰の観覧車であろう」という問いに、「強いて言えば神かな」と答えそうになるわけだが、銀河は深く渦まいていて、神どころか何を問うても答えがなさそうな、虚無を覗き込む感がある。
 なんとなく逆転的に、観覧車は銀河を模したおもちゃであるかのように思えてくる、というおまけもある。

 

12 遠くても観覧車だけは見えるんだぼくらの街の了らない冬
 北久保まりこ『音楽がおわる時』

◆支配し監視する

 出口のない冬のような状況で、遠くあこがれを抱き続ける、という意味だろうか?

 最初はそう思ったのだが、ニ度読んで考え直した。この歌のどこかに、見た目以上の強い絶望的な閉塞感がある。「街は観覧車の支配下にある」と言っている気がする。

 この観覧車は、遠くからでも「ぼくら」を支配している。ーーというか、この観覧車が見える範囲が「ぼくらの街」なんじゃないかしら?
 「ふるさとの山」など、高さのあるものや巨大なものを見ながら育てば、帰属意識が生じる。必ずしも実際に目にしなくてもいい。たとえば、富士山。日本人は(個人差はあるものの)、富士山が象徴する何かに淡い帰属意識を抱いている。
 ※ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木

 ただし、この歌の文脈における「観覧車」には、「富士山」や「ふるさとの山」のような精神的な支えになるようなありがたみが感じられず、収容所の監視塔を思わせる抗えないニュアンスが、10%ぐらいぼかし込んであると思う。

 なお、結句の「了らない」という表記は、「終わらない」に比べると、「決着がつかない」というニュアンスが強くて、この歌の重要な要素のひとつであると思う。


13 観覧車のやうなる部品があまるからコーヒーミルをふたたび分解す
  ルビ:分解【ばら】
 光森裕樹『うづまき管だより』

◆人類の文明を偲ぶ?

 「コーヒーミル」にある「観覧車のやうなる部品」というと、ぐるぐるハンドルが轢き潰しの歯車につながっているような部品だろうか。
 (これって「その部品が余ったらぜんぜんコーヒーミルになってないじゃんか」とツッコミを入れるべきなのか?)

 この歌、「観覧車のやうなる部品」とカタチから入り、机の上に散らばる部品や組み立て手作業を目に浮かばせること、もうそれだけで、読む側には満足感がある、と思う。
 多くの歌は心情的シナリオを芯にするが、この歌には、「心情」というほどの心情的イキサツを探す必要はなさそうだ。
 そのかわり、静かな情熱がある。細かい手作業に集中し……、失敗に気付いて軽く落胆し、そしてまた集中……、みたいな、手作業特有の、純粋で持続的な静かな情熱が。

  (だから歌の鑑賞も、心情抜きで、「観覧車」というものが、観念の部品として脳に届き、
   そこから読み手の解釈・鑑賞という細かい作業として取り組める。)

  以下、この歌のオマケ要素を考察。
  何かを分解したり組み立てたり、それをやりなおしたり、という行為には、ほんのり〝神〟の気分があると言える。
  余った部品を「観覧車」みたいだと思ったその一瞬、作業者の神気分は増幅する。
 「コーヒーミル」だったものを組み立てなおす作業はふと、むかし滅びた人類の文明のミニチュアを組み立てるような気分なのかも。ーーそういうことをチラッと考えさせるのが、この歌のオマケ要素である。


14 観覧車の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ
 吉田竜宇『ロックン・エンド・ロール』

◆走馬灯というか輪廻というか

 「なんどもする同じこと」って何だろう?
 最初は、観覧車のゴンドラの中で何度もキスしよう、といった軽い意味に思えたが、その程度のことだけなら、こういう言い回しはしないだろう、と考え直した。

 おもしろいと思うのは、「楕円の影にかこまれて」が、八方からスポットライトをあてられている状態に似ていて、しかもこの歌では、それがライトでなく、「影」であることだ。
 ーー光を浴びることの対極として、影を浴び、影に消される状態、というものを想像してみる。ーーそういう状態にあてはまることもあるような気がする。

 もうひとつ、「観覧車の楕円の影にかこまれる」という言い回しには、「観覧車が醸し出す娯楽愉楽の誘惑から逃れられない」的なニュアンスも感じらる。

 また、観覧車が回るものであることから、〝回る影〟という連想が派生し、わずかだが「走馬灯」への連想脈が生じそうになる。観覧車の形をした走馬灯……。
 回るということからはさらに、「輪廻」への連想脈も生じ得る。観覧車の形をした輪廻……。
 思い浮かべるものは人それぞれかだろう。私は、こういう〝連想の可能性〟を混ぜ合わせ、人々の人生の「観覧車」の影に囲まれ、それを影踏みのようにいくつも、踏み越えたり乗り換えたりしていくさまを見る気がした。

 末尾の「しようよ」の微妙な肯定と誘い。含まれる自虐や皮肉の分量はちょっと測りかねるけれども、これは「丘を越えゆこうよ」という唱歌のノリじゃないかと思う。

「いろんな生き方に囲まれつつ、生まれてから死ぬまでを生きる、というおんなじことを、何度でもくりかえしていこうよ」
というような意味合いで読み取った感じた。


15 無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり
 鶴田伊津『百年の眠り』

◆月みたいな無力

 最初、「一人きり+観覧車」という言葉の組み合わせから、なんとなくドラマ的な想像を促された。(ドラマでは二人で観覧車に乗るのが定番の絵ではないか?)
 例えば、
「約束していた相手が来なくて(=振られた)、他人の気持ちは自由にできないと痛感し、その学びを心にきざむため、あえて、二人で乗るはずだった観覧車に一人で乗った」的なシナリオか。
 いや振られたとかじゃなくても、「何かの対人的な問題に悩んで、あえて観覧車のゴンドラという地上を離れた個室に乗り込み、一人で「無力」をかみしめる」的なシナリオもありえる。

 しかし、こういう〝ありがちなストーリー〟による解釈では読み砕けない要素がこの歌にはある気がする。

  そもそも、「ドラマ読み」という解釈法を、私は〝要注意〟と位置づけている。
 「ドラマ読み」は、その場面の前後にありがちないきさつを補うものだが、そういう形の推理は、有効な場合もあるが弊害も大きい。ーー変な喩えだが、短歌は、
殺人事件の現場に似ている。現場のわずかな手がかりや印象から「これは痴情のもつれ」などと早々に決めつけると誤認逮捕をやらかしてしまう。
ただし、「ドラマ読み」こそが妥当な読み方である場合もある。意図してドラマ性を生かすように歌が作られている場合とか。)

 だからドラマを消し、言葉からニュートラルに推理できる要素のみで解釈を再構築してみる。
 「無力なることを知るため一人きり観覧車にて空をよぎれり」という言葉を、シナリオ抜きに眺める。……すると、「あ、月みたいだな」と思った。

 「空をよぎる」というフレーズは、半円の軌跡を思い浮かべさせる。それは、ちょっと「月」みたいだし、観覧車という乗り物は、ひとたび乗ったら自由に乗り降りできず、空の高みに吊り下げられ、下界を見るだけである点も「月」っぽい。この歌の「無力」は、そういう「月」っぽい「無力」じゃないだろうか。

 「月」はやさしく地上を見守るものとして親しまれているが、しかし、人が月になって天にただひとり浮かんだら、とても孤独を感じるだろう。

 書いてないいきさつは知りようがなく考えても無駄。それがなくても、この孤独な「無力」感を純粋に感受すれば十分だと思う。

   

16 観覧車まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり
 工藤玲音『水中で口笛』


映像のレトリック・思い出化&時間圧縮

 さっきの歌のところで、「ドラマ読みは要注意」的なことを書いた。
 しかし、この歌は、「観覧車+ふたり」それも、いかにも最終回みたいな雰囲気。このあからさまなドラマっぽさは、むしろこのドラマ性を生かして読んでくれ、というサインだと思うので、身を委ねて読もう。

 ーーひと夏の恋が終わる。それぞれの放棄できない持ち場(戦場のような)に戻る。ーー

 「ドラマ読み」のいちばんの利点は、読者が無意識に、テレビや映画を見た映像のレトリックをあてはめて、複雑な視覚効果をかんたんに享受できる、ということだ。

 「まるく晩夏を切り取る」ーー昔の写真アルバムの、丸やハートに切り抜いて写真をコラージュしたページを思い浮かべさせる。ーー思い出を観覧車の丸い輪郭で切りとる。ーーその写真を貼ったアルバム、ーーを閉じる映像。これが時の経過をあらわし、〝思い出化〟とその〝圧縮〟ができてしまう。

・ふたりで観覧車に乗っている。(ふたりだけで過ごしたひと夏を象徴する)
・カメラが後ろに引いて、その思い出の観覧車を遠くから見ている二人の後ろ姿。
・その写真の貼られたアルバムが開かれる。
・年月を経てその記憶はひもとかれる。

 というふうに、「ドラマ読み」に身を任せれば、場面がつぎつぎ重なっていく。

 また、「観覧車」が「まるく晩夏を切り取る」は、夕空を背景に観覧車がシルエットになる絵としての効果もある。ーーどこにも「夕空」と書いてなくて、リクツでは日中でもいいが、視覚的には夕空が最適だろう。読者の視点は後ろに引いて、二人の後ろ姿はしだいに遠く、そして小さなシルエットになっていく。

 「まるく晩夏を切り取る」は、最初「観覧車」の映像であったものが、落日の赤くて丸い太陽とも重なって、しだいに太陽になってしまう、というような、思いっきりドラマ映像的な効果もあると思う。


17 心さえ無かったならば閉園のしずかに錆びてゆく観覧車
 二三川練『惑星ジンタ』2018

 
◆抒情的で美しい〝ぼやき〟&神仏の崩御っぽい厳かさ

 「心さえ無かったならば」は何を言おうとしているのか。

 錆びる大きな観覧車の姿があまりにも無惨。そこから、
「もしも『いっときの愉楽と知りつつも求めずにいられぬ人の心』というものがなかったら、遊園地は存在せず、こんな無惨がさらされることもなかっただろう。」

というふうに感じているのではないだろうか。

 これは、世の中に桜がなければ春はのんびり過ごせるだろうに、というあの有名な歌と論法が似ていて、美しい抒情的な〝ぼやき〟である。

 それに加えて、神仏の崩御っぽい厳かさが漂っていることにも注目。
 「閉園のしずかに……」のくだりは、観覧車がすこーし「目」に似ているせいか、「閉眼する」「瞑目する」という厳かなイメージになり、錆びて朽ちていく観覧車のさまが、神仏の崩御みたいに思い浮かぶ人もけっこういると思われる。

 

18 吾という六十兆個の細胞を観覧車に乗せのぼりゆくなり
 大滝和子『銀河を産んだように』


細胞レベルのリフレッシュ

 「自分」というものを、細胞の塊である物体として強く意識している。
 観覧車は地上を離れて高みにのぼるもの。この歌では、自分の身体を総合する感覚が細胞レベルにまで初期化され、その描写によって「上昇」の迫力を描写している。
「上昇」によって心身の感覚が平常と変わり、体感として強く意識されるかもしれず、「細胞」を意識することもあるか、という説得力(あくまでイメージのなかで)があると思う。

 なお、「のぼりゆくなり」は単なる叙述に見えるが、一寸法師の歌の「京へはるばるのぼりゆく」とか、鯉の滝登りとか、力強い文脈で使われることが多くないだろうか。そういう勇ましさをそれとなく感じさせるフレーズである。
 この効果で、上昇感覚は人によっては恐ろしいかもしれないものだが、この歌では、細胞レベルのリフレッシュとして描き得ているのだ。


19 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車
 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

◆ヒトとモノの区別を超越する

 「君は……」と振りかぶるこの言い回し。内容もさることながら、この振りかぶり方が、まずは歌の重要なコンセプトだと思う。

 とにかく、「君」の本質が透けて見えるかのような臨場感がものすごい。
 「君」の本質は、「観覧車のような人」(美しい胸の中に秘めた機械で駆動する、精密な大じかけで、人々を魅了するような人)であるのだろうか。
 いやまて、「君」は、胸に精密な機械を秘めた「人のような観覧車」かもしれない。そんなふうに、人物またはモノの存在感にうたれた瞬間らしい臨場感がある。
 私は、次の2点に注目した。

①「観覧車のような人」/「人のような観覧車」どちらともとれる

 これによって、単なる比喩的な擬人化と一線を画し、「観覧車のような人/人のような観覧車」という生き物か否かを最初に区別するようなふだんの視点をなんなく越える。人は人の枠を超え、モノはモノの枠を超え、存在の特徴を理解する場に読者を立たせる。そこはもはや、人間観覧車/観覧車人間などという呼び方でさえ、余計な区別の残滓と感じるような地点である。

 よく見かける短歌の批評鑑賞用語に「擬人化」というものがある。それを使う批評文のなかには、「擬人化」したから何なの? と聞き返したいような文章もある。「擬人化」の効果を語らなければ評にならない。
 擬人化その他の「比喩」的表現には、大雑把にとらえるとだいなしになるような繊細複雑な用法がある。とくに、この歌のように2つのものを重ねて
区別を超越するケースを、乱暴に「擬人化」と呼ぶのはいただけない。 

②表現という行為の愛というか独占欲というか、がほとばしる

 「君=観覧車/観覧車=君」が「胸にしまってある機械で駆動する」という絵も、語感も字面も、すべてがすごい大迫力である。 

 ところで、花を見て「あらきれい」とスマホで撮影する。(さらにはインスタにアップするとか。)ーーこの行為には、対象への親しみや愛があって、支配・独占は言い過ぎだが、対象を「自分のものにしよう」という素直な意図がある。
 対象に何かしらの感動を覚えて、思わず言葉なり何なりで表現をする行為も、思わず花を撮影することに似ているし、この歌のようにいきなり本質を見て言い当ててしまうことは、非常に強いアプローチだと思う。
 たとえば古代の人は、みだりに名前を教えなかった。名を知られると自分の魂を取られ相手に支配されると思っていたからだ。(逆に、恋人に名を告げることは相手を受け入れることを意味した。
 この歌のように〝対象の本質を見抜くような表現〟は、〝名前を言い当てる〟ことに似て、すごく大胆な(相手の受け止め方によっては強引な)求愛ではないだろうか。

 「君は……」と振りかぶり、「観覧車のような人/人のような観覧車」という在りかたを看破し、そう知ったことの喜びをほとばしらせている。
 これは、いきなりプロポーズぐらいの迫り方である。(念のために言うが、「君」という人間の誰かへのプロポーズではない。) 表現者として、表現対象との関わりがドラマチックだという意味だ。表現方法・言葉のしぐさが、クライマックスであり、究極のものなのである。


20 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
  ルビ:一日【ひとひ】 一生【ひとよ】
 栗木京子『水惑星』


◆「二人の意識のズレ」というモチーフ

 有名な歌なので、虫食い部分がすぐわかってしまうため、最後に置いた。

 「君」と「我」と「観覧車」という組み合わせは、さっき別の歌のところで書いたように、ドラマ系の想像をかきたてずにいない。
 というか、ドラマのような場面を思い浮かべずに読むのは無理だろう。

 なんらかのイキサツがあって、ーーそれは知らされないが、とにかくクライマックスの場面であるらしい、と、読者は受け止める。
 同じ時を過ごしていても「想ひ出は君には一日我には一生」という、二人の意識のズレは大きいし、そのズレを感じているのは「我」だけ(とまで書いてないが)であるようだ。 この二人、別れるにしろ、まだ続くにしろ、この意識のズレはそのままだろう、と思える。
 この意識のズレというモチーフは、びっくりするほど抒情性がある。この抒情から寸劇のようなものが思い浮かび、その場面を味わうだけで、長いドラマを見たような満足感を味わえる。
 
 このとき、ドラマの重要なシーンのように二人の顔がアップになる。おそらくどちらもおだやかだ。「我」は、意識のズレを考えていることなどおくびにも出さずにいるのだろう……。
 このとき、ガランガランと鐘(聞こえない音)が鳴り響く気がするのは、君には一日我には一生」という反復的表現の効果だと思う。
 これが名歌とされる所以は、この反復する鐘の音ではないかしら。始まりの鐘と終わりの鐘みたいに、歌のなかで鳴り響きながら、それが鼓動と重なる感じさえする。
 ドラマ的な歌だが、ドラマの視覚効果にあまり頼っていないこと、言葉の表現効果で醸し出されたドラマ性であることに驚かされいる。








短歌のなかの「観覧車」というアイテム
(まとめ的に)

 いわゆる「イメージの飛躍」、特にいわゆる「詩的飛躍」という現象では、なんらかの特別なつながりが生じていると思う。つながりが見えないから「飛躍」と呼ぶのだろうが、そこには見えない〝赤い糸〟が生じているはず、と仮定して、それを可視化したい、というのが、私(歌読み>歌詠み)のこだわりである。

〝赤い糸=別々の物事を飛躍しつつ強く結びつけるなんらかの縁。アナロジー、アレゴリー、メタファーその他、言葉の表現は赤い糸だらけだと思う。

 その〝赤い糸〟の結びつきは往々にして複雑だ。ときには、風が吹くと桶屋が儲かるぐらいの紆余曲折もありえて、さっぱりお手上げのこともある。上記20首は、〝赤い糸〟が私にとって比較的見つけやすいものを選んだ。

外見の類似
 さて、飛躍したイメージを結ぶ〝赤い糸〟として、もっとも多く、わかりやすいのは、「外見や形が似ている」というものだろう。全く別のものどうしで形が似ていれば、視覚的には無理なく重なるため、意味の上でのかなりの飛躍に耐えられる。
 
 じゃあ「観覧車」に外見や形が似ているものって何だろう?
 実作を見る前には次の5つを予想していた。
  瞳、花火、向日葵、扇風機、地球儀

 はたして、蓋をあけてみたら、予想どおりのものがあったりなかったり、そして予想できなかったものもあった。

 歌にそう書いてあるもの、直接的には書かずに暗示されているもの、読んだとき私が勝手に幻視したものを含め、
 銀河、福引のガラガラ、ガトリングの銃口みたいなもの、コーヒーミルの部品、かたつむり
は、予想していなかった。

観念などの類似・連想

 必ずしも視覚的類似ではなく、体感や状況のアナロジーや観念のアナロジーで生じる〝赤い糸〟もあった。
 空に沈む、という水中に似た体感。
 高い夜空をゆっくり通過することと「月」の孤独、みたいなもの。
 また、「観覧車」は、人工の遊興設備だから、現世ですごす時を愉楽で満たすものという、観念上の了解を共有しやすいとも思える。そこから、「廃園」の荒涼感などを飛び石に、滅んだ人類の夢の跡、みたいな終末感へと至るのも、比較的見つけやすい〝赤い糸〟だった。

ドラマ性と映像のレトリック

 「観覧車+人がふたり」はドラマ的な連想を喚起する、といったことは、既存の〝赤い糸〟である。それらをうまく組み合わせて引き寄せることで、ドラマ等を見て刷り込み済みの映像のレトリックを喚起し、本来ならなかなか飛べない飛距離を出すこともあるようだ。


さいごに

 どうでもいいことかもしれないが、当初私が観覧車に視覚的アナロジーがあると思ったもののうち、ひまわり、扇風機、地球儀に見立てた歌は見当たらなかった。

 カタチはかなり似てると思えるのに、イメージの世界では結びつきにくいのだろうか。
だとしたらなぜだろう。単に、まだ類似に気づいていないだけか?


2025・1・20