ひょーたん
高柳蕗子の短歌評論ブログ「ひょーたん」です。 テーマ別短歌コレクション。短歌の評論に関わる雑メモなど。ロビン・D・ギルさんにご協力いただいた狂歌コーナーも。#短歌評論 #高柳蕗子 #ひょーたん
2025年8月13日水曜日
2025年8月1日金曜日
レア鍋日記2025年 (随時更新しています)
その日の気分で、5首ぐらいでもレア鍋賞に入れてもいい、ということにします。
というか、「職業」といって思い浮かぶ職業が少なくて、
ワン鍋賞 ユーチューバー
前田康子『キンノエノコロ』
舞台で死ねいま蘇生して明日も死ねわがパフォーマー首くくり栲象
橘夏生『セルロイドの夜』
パティシエが三人がかりででも何も作らなくって夕日をみている
※ただし、他に「シェフ」3首、「コック」3首、「料理人」4首がありました。
塚本邦雄
あおむけに靴紐むすび起きるとき昔旅芸人だった気がした
鈴木ジェロニモ「鈴木ジェロニモ自選短歌180首」作者ブログnote2023/3/11
齋藤芳生『花の渦』2019
現実に多くの人が従事していて日常耳にすることも多いのになぜだろう。
早川志織『クルミの中』2004
浦河奈々『マトリョーシカ』
虫武一俊『羽虫群』
藤本玲未『オーロラのお針子』2014
■2025年4月7日 ワン鍋賞 遣唐使
「遣唐使」という語を含む歌は、約13万2千首のなかで、これ1首でした!!
歴史の授業で習った語、歴史上の人物名、を含む短歌のアンソロジー
そのうちやってみたい。
ちょっと様子見で「幕府」を探してみたら!
鮟鱇の鍋の鎌倉幕府かな
大畑等 『ねじ式』2009
ばくぜんと死を考える朝っぱら ナポリタン・スパたのむ昼過ぎ
白瀧まゆみ『自然体流行』1991
夕日色したナポリタンを食べている間は弱虫でもよいこととする
月夜野みかん 「五線譜もしくはストライプvol.1」 (2013年11月2刷)
夕焼けで炒めたようなナポリタン食う常連に猫背が似合う
鈴木ジェロニモ 「鈴木ジェロニモ自選短歌180首」(作者note 2023/3/11)
枝分かれした運命のいくつかのピーマンだけが具のナポリタン
山中千瀬『死なない猫を継ぐ』2025
川柳も探してみたのですが、「ナポリタン」は投稿サイトでは多く見られる題材のようです。
うち短歌 131,558首
■2025年3月30日レア鍋賞 PARCO 6首
山下の歌は仙波の歌を強く意識しているのは確かだが、他も、どの程度意識したかわからないが、夕暮れの光景でなんとなく「墓」だったり死に関わるものを詠み込む例が多いようだ。
途方もなく未来のことを託される前売り券が重たくて春
2025年5月19日月曜日
ちょびコレ38 舌を出す
「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
だいぶ前に、「短歌の中で舌がすること」というミニコレクションをやりました。
そのときは、「舌」としては珍しい行為などを詠む歌を集めました。
しかし、「舌」というのは、作者読者ともにそそられる題材で、行為自体が珍しくなくても、レアな名歌を詠めちゃうみたいです。
ですので、今回は「舌を出す」ということに絞って、歌を集めてみました。
※検索語句は「舌+出」「舌+[だす]の各活用形」「べろ+出」等々、舌を出すということを詠んでいそうな歌を拾えるように工夫して検索し、あとから対象外の歌を取り除きました。
※舌を出すことを詠んでいても、「舌orべろ」と「出or[だす]の各活用形」を含んでいない歌は拾えません。)
本日の闇鍋データ総数 181,243歌句
うち 短歌 132,197首
うち、「舌を出す」ことを詠み込んだ歌 32首
以下、そこから本日の好みでピックアップします。
まずは近代歌人の2首。
すつぽりと蒲団をかぶり、
足をちゞめ、
舌を出してみぬ、誰にともなしに。
石川啄木『悲しき玩具』
蠅來ればさと繰出すカメレオンの舌の肉色瞬間に見つ
ルビ:繰出【くりいだ】
中島敦 青空文庫(「中島敦全集2」筑摩書房「河馬」)
和歌の時代、「舌」って詠まれていなかったと思います。少なくとも、見たことないです。
※ただし、俳句では古典でも「牛の舌」だとかを見かけるし、また、古川柳や狂歌でも「舌」は詠まれています。
今回あらためて「舌」の歌をさがしてみたところ、近代の歌人たちはけっこうたくさん詠んでいて、「短歌」の言葉の世界では新鮮な題材だったと推測されます。
上記の啄木の歌もそうですが、詠まれているシチュエーションもかなり人間的です。(和歌の時代で人間臭いネタはほぼ恋の歌だけ。)
今まで歌に詠まなかった題材は「写生」という観点からも新鮮だったはず。上記の中島敦のカメレオンの舌の色を詠む歌には、そうした表現の喜びが感じられます。
参考例(近代の「舌」の歌。舌を出す歌ではない)
鬪はぬ女夫こそなけれ舌もてし拳をもてし靈をもてする
ルビ:女夫【めを】 靈【れい】
森鴎外『沙羅の木』
おそらく夫婦喧嘩を詠んでいるのでしょう。
「舌もて」は舌戦、「拳をもて」は文字通り。「靈をもて」はご先祖まで振りかざしての大騒ぎ、という意味でしょうか。
この坂は霧のなかより
おほいなる
舌のごとくにあらはれにけり。
宮沢賢治 ちくま文庫 宮沢賢治全集3
近代の人の表現意欲ってすごいなと感じてしまった本日ただいまの気分で、内容というより、表現欲の強さを感じるかどうかで、以下、現在の歌人の「舌出し歌」をピックアップ。
唇がかくしてる舌ひきだして玉藻のような時がはじまる
加藤治郎 『噴水塔』2015
「玉藻のような時」って何でしょう?
「舌」といえばなまめかしいイメージ。そこにプラスして玉藻といえば……、脳内にサーチをかけると、万葉集の用例から、波間でゆれる藻のように撚り合わさるイメージ※と、「玉藻前」(九尾の狐)から妖艶なイメージも少し加わる感じ、だと思います。
※玉藻といえば万葉集によく出てくる。枕詞の「玉藻なす」は、「浮かぶ」「寄る」「なびく」にかかる。さらに思い浮かんだのが(たまたま知ってただけだが)、柿本人麻呂の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」の一節だ。
「……和田津の荒磯の上にか青なる玉藻沖つ藻朝はふる風こそ寄せめ夕はふる波こそ来寄せ波のむたか寄りかく寄る玉藻なす寄り寝し妹を……」
穂村弘 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
舌を出すものといえば「犬」、「貝」、「化け傘」などなどありますが、「ペコちゃん」もそのひとつです。
人物描写のおもしろい歌。外見の描写だけでなく、主体は誰かにこう話しかけていて、それがスキー場を自分たちの街にするようなニュアンスを含んでいます。
だから描写されているのは、ぺこちゃんみたいな人だけでなく、それを見ている二人の素敵な時間だと思われます。そこがこの歌の並じゃない点でしょう。
光森裕樹 『山椒魚が飛んだ日』
よくよく思い出してみると、教科書で西脇順三郎の「雨」という詩に出会ったのがその最初だった気がします。
(中略)
この静かな柔い女神の行列が
歌はそんなことまで言っていませんが、そうした大きな把握が認識の底にある気配はします。詩歌における「雨や雪を舌であじわう」は、そうしたことをそれとなく感じさせる可能性があると思います。
ルビ:愚者【フール】
佐藤弓生 『薄い街』
空をなめるとは、世界をなめてかかった愚かさ、という意味を含んでもいそうです。
「冬のおわり」は春の直前。季節がこれからまた最初からやり直しになる直前の空は、なるほど、だいぶ苦くなっちゃっているのでしょう。
鈴木英子 『油月』
種類によって色や形は違うだろうが、この歌で思い浮かぶのは、鮮やかな紫がかったピンクのつつじ。
花はみんな世界に押し出て咲くパワフルなものですが、つつじは花の中まで同じ色で、たくさん咲くところも、パワーを感じさせます。
「ぐわぐわ」「くれないの舌」という感受には、つつじそのもののパワーと、見るものの心境の反映とが出会った相乗効果を感じさせ、それがそのまま歌のパワーにもなっているとも思います。
舌を出す、とは書いてないけれど、「舌は出島」という意味の次の歌も面白くて、ちょっと捨てがたいです。
肉体が幕府であれば刺激もとめやまざる舌はさながら出島
小池光 『日々の思い出』
「肉体が幕府であれば」という着想が実におもしろいです。
なるほど、人体は混じり合わない鎖国状態で、一人ひとり、自我によって統治されています。
そして、「舌」の役割のひとつが「話すこと」ですが、「出島」と言えば、江戸時代の鎖国政策下において、日本と西欧との唯一の貿易窓口として機能していた場所ですから、この歌、言われてみればまったくその通り、というほかありません。
また、別の切り口から考察してみたいです。
2025年3月25日火曜日
ちょびコレ37 特殊算(◯◯算)
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
および、その仮名表記(ふくめん算など)
【旅人算】
柳谷あゆみ 『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012
光森裕樹 『鈴を産むひばり』2010
山中もとひ 『〈理想語辞典〉』2015
★俳句も発見
2025年3月24日月曜日
ちょびコレ36 ◯、◯、◯
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
■◯、◯、◯……
私の近現代短歌データベース「闇鍋」に本日は短歌が約13万首入っています。うち「◯、◯、◯」のような畳み掛けを含む歌は37首ほどありました。少しピックアップします。・「、」を挟まないで畳み掛ける例は検索しづらいため、たまたま見つけたものを拾いました。
・「◯」は1文字としますが、2文字が交じるのも一部許容しました。
・「た、た、たいへんだ」のようなものは除外しました。・順不同です。
自然がずんずん體のなかを通過する――山、山、山ルビ:體【からだ】前田夕暮『水源地帯』1932
・「◯」は1文字としますが、2文字が交じるのも一部許容しました。
・「た、た、たいへんだ」のようなものは除外しました。
この歌が、私のデータベースの中で一番古い「◯、◯、◯」の用例です。
夏、夏、夏、露西亜ざかひの黄の蕋の花じやがいもの大ぶりの雨
北原白秋『海阪』1949
壁、壁、壁しづけさまさりおさへられおさへられつつつかれてゐるも
加藤克巳『螺旋階段』
家、家、家ってなんだろう電気、ガス、水道、物が詰まって、人、家族
花山周子『林立』
前を行く首、首、首に汗は照り博労町をデモは過ぎゆく
吉川宏志『石蓮花』
先波を越ゆる後波、波、波、波、無量の波が陸に迫りく
ルビ:先波【さきなみ】 後波【あとなみ】
高野公彦『天平の水煙』
そとはあめ、雨、雨、氷雨、皮膚に皮膚よせて樹木は情を知りそむ佐藤弓生『薄い街』
額縁店の壁に我、我、我、我、我、我を充てよと額のひしめく
真野少『unknown』
エスカレーターにせり上がりくる顔顔顔 朝のホームは魔術師である
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
この例は「、」がありませんが、同類とみなして混ぜておきます。
空、空、空 ラウインゲンの空青く午後十時半くれてゆくなり田中徹尾『和の青空』2025
僕たちの運ぶ辞典の頁、頁、膨らみだして港が近い
千種創一『砂丘律』2015
2回しか畳み掛けてないけどなんだか3回ぶんインパクトあり。
虹、虹、虹、送電線は彼方から彼方の虹を送りつづける
ルビ:彼方【かなた】
早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
ダウンライトに後ろをさらす首、首、首、ほの白くて折れやすそうな
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015
シャガールの青青青瞳孔を見開いたまま一生を見た
天道なお『NR』2013
尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、尾、頭無し、ねむい教室
加藤治郎『噴水塔』
全体として、特にコメントの必要はなさそうで、どれも一定の効果を出しているように思います。
加藤治郎の「尾、頭無し……」のように意外なものの畳み掛けがもっとあっていい、と思いました。(注文の多い読者)
今回はここまで。
「◯、◯」を探したら、「花鳩豆…」的な列挙型の畳み掛けの歌をたくさん見つけてしまいました。
すごく面白いけれど、多いので、分類しながら取捨選択するのが大変そうなので、今回は見送ります。
いつか機会があれば・・・。
高柳蕗子
2025年3月24日
北原白秋『海阪』1949
加藤克巳『螺旋階段』
花山周子『林立』
吉川宏志『石蓮花』
ルビ:先波【さきなみ】 後波【あとなみ】
高野公彦『天平の水煙』
真野少『unknown』
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』
この例は「、」がありませんが、同類とみなして混ぜておきます。
千種創一『砂丘律』2015
2回しか畳み掛けてないけどなんだか3回ぶんインパクトあり。
ルビ:彼方【かなた】
早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
法橋ひらく『それはとても速くて永い』2015
天道なお『NR』2013
加藤治郎『噴水塔』
全体として、特にコメントの必要はなさそうで、どれも一定の効果を出しているように思います。
加藤治郎の「尾、頭無し……」のように意外なものの畳み掛けがもっとあっていい、と思いました。(注文の多い読者)
すごく面白いけれど、多いので、分類しながら取捨選択するのが大変そうなので、今回は見送ります。
いつか機会があれば・・・。
2025年2月21日金曜日
虫食い式短歌鑑賞3
短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。
--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!
「12の扉」の伏せ字「●●……」には同じ語が入ります。
※伏せ字「●」は1音を表しています。
例:自動車⇨じどうしゃ(4音)⇨●●●●
これはクイズではなくて、歌を鑑賞する手段のひとつと思ってください。
短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後からは推理しにくくなります。その飛躍を味わうための遊びです。
「そんなのめんどくさい、普通に読みたい」という方は、スクロールしてください。
「各歌の鑑賞」のところに、虫食いナシ、鑑賞付きでアップしてあります。
■12の扉 ●●●●●
今回の虫食いワードは「●●●●●」。
5音の言葉を伏せ字にし、作者名も伏せて並べました。
1 ●●●●●閉づれば●●●●●のうへの明るくて これ 秋の大空
2 ●●●●●みしときへんなきぶんして鼻ぢたれたりぢゆうりよくの穴
3 丘の上の家までかえる夜の坂水音ひびく●●●●●踏み
4 午前五時 すべての●●●●●のふたが吹き飛んでとなりと入れ替わる
6 一つずつ落としこみおり●●●●●をポップコーンで埋めようとして
7 ●●●●●の蓋はくるしく濡れながら若草いろの鞠ひとつ載す
8 ●●●●●の蓋を持ち上げ残雪を捨てて世界はまた春になる
10 ●●●●●の模様に地域性が出るみたいな話をしていたら 海
11 anywhere out of the world ...... 蓋に五芒星きざまれてふるえる●●●●●
〝詩的飛躍〟のせいでわかりにくいところもありますが、なんとなく見当がついたのでは?
回答 マンホール
Ⅰ 考察(前半) 「マンホール」の普遍的イメージは?
普遍的なイメージのモチーフを予想
※「モチーフ」は広義には「物語などを構成する要素」だが、狭義では「シンボル化・主題化され得るほど認知されている要素」を指すこともある。本稿では、狭義の「モチーフ」の定義で、まだ認知度が微妙で、モチーフに「なりかけ」だったり「候補」だったりする段階のものも含める。
まず、歌に詠まれる「マンホール」は何を表すのか。ある程度は普遍的かと思われるイメージモチーフを予想してみる。
「どうして? 予想などせずに、ニュートラルに読めばいいじゃないの」と思うかもしれない。
この地下には計り知れない国がある、という印。
b マンホールの下は複雑な迷宮 だが人は気にかけていない。
上下水道や電気ケーブル等、人間社会の血管みたいなものが埋設されている。
知っているが見えないから存在の実感が希薄で気にかけない。
c 地下は不可侵の場所・忌避感
①下水管は暗くて汚なそう。
②地下は死者の国。
③深層にはマグマ。
d マンホールの蓋は地下を封じる
忌避感⇨「触らぬ神に祟り無し」「臭いものに蓋」
遮断して忘れ去る
地下には、忘れられたものがある
そこから、「時が来れば、解放や脱出が可能」というシナリオが喚起され得る。
「詠む」と「読む」という二種の詩心が、繊細な指相撲のように楽しく攻防するような、エキサイティングかつ精密な鑑賞をこころがける。
Ⅱ 各歌の鑑賞
渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023
マンホールの蓋をしたとたん、それより下の世界が閉ざされる。そういう決定的瞬間みたいな感じだ。
そして、このように上の世界を描くことで、「反転的な対称の位置に、閉ざされて暗い地下世界があり、更にその底には闇の天蓋がある」みたいな構造を提示し得ていると思う。
渡辺松男『雨(ふ)る』2016
この場面がもし現実なら、具合が悪くなって鼻血も出て、心身ともに不安でうろたえている状況ではないだろうか。くずおれそうになり身体は、たまたま目にしたマンホールに地下からのパワー感じ取り、「ぢゆうりよく」を意識した。
ーーそこから何を読み取ろうか、と少し迷う。
仕事などの疲れの仕上げのように坂を登っているのだろうか。そのときこの水音はどう聞こえるのか。その手がかりになる要素は提示されて無い。
だから、例えば「たくましい水音に励まされるかな」とか、「坂を上り下りする水と自分の生活を重ねるのかな」とか、ありがちなシナリオに踏み込んでみると、「なーんか違う」と引っ込めたくなる。
「水」が自分と並行して坂を上り下りしている、という事実を検知したのかもしれない。それはマンホールを踏んだとき一瞬重なっただけの、〝無縁寄りの縁〟※である。
※このごろ「有り寄りの無し」というフレーズを耳にする。そういう濃淡の微妙さにこだわる時代だ。
感情移入したり自分に重ねたりせず、自分と水という二つの現象が、今たまたま並行しているという淡い無縁。この世界には、さまざまなものたちがそれぞれの有りようで、同時に無縁に存在する。自分と万象との縁も〝無縁寄りの縁〟であり、それが世界の一部としての自然な在り方だ、というような、ーーいや、踏み込みすぎましたね。
地下の心は地上の人間の理解を越えている。そういう感じ、新しい捉え方だし、愉快だ。
派手なパフォーマンスだ。地霊のフォークダンス的ないたずらか。でも、意味不明すぎるし実害がないし、人々は、目にしなかったふりで通り過ぎるかもしれない。
※かつては。万象と自分との「関係の発見」が自己確認でもあるような歌がたくさんあり、それがの歌の有力な成立要因の一つだった。しかし、いまは、「無関係の発見」も、同じぐらい重要な歌の成立要因になりうるモチーフに昇格していると思う。
「レッドスネーク、カモン!」は、「東京コミックショウ」という夫婦芸人のコントで、赤青黄の蛇のパペットを使うもの。緩い芸風はほのぼのとした笑いを誘った。
※インドふうの衣装の男性が、赤青黄の3つの箱に笛を吹いたり話しかけたりする。台の下にかくれた妻が蛇のパペットに手を入れ、箱から蛇の頭を出して動かす。仕掛けはまるわかりで、観客はその緩い演技を面白がっていた。
「何も起こらず、虚ろに声が響くのみ」ならいいが、「思い出の亡霊が、地下で成長し、マンホールの太さのとんでもない大蛇となって出て来ちゃう」というのもあり得る。なぜなら、物語(特にホラー系)でたまに見かけるモチーフに、「安易に呼びかけたり触ったりして、とんでもないものを呼び覚ましてしまう」というのがあるからだ。※
※たとえばイザナギのミコトが妻を迎えに、黄泉の国に行ってさんざんな目に遭う話。一度滅んだものを安易に生き返らせると良くない結果になる。
※「おーいでてこーい」は教科書に載り漫画やアニメにもなったりしてる星新一の短編SF小説。
※探したらこういう歌があった。一つ見つかるなら十はあるだろう。地上までを見上げるほどの空洞に注ぎ込まうとした夢だもの 山階基「早稲田短歌」42号
現実的にいって雨だろう。マンホールの蓋には雨水を受け入れる穴アキのものと、雨水を入れないものとがあるが、どっちにしろ地上と地下の境界を守る苦労をしている。「雨にも負けず」に。
そして、若草色の軽い鞠と、地味な色で(たまにカラフルなものもあるが)すごく重たいマンホールの蓋という対比には、なにかほほえましさがある……。

それと、この歌になんだか「めでたさ」のようなものも感じるのは、「マンホール蓋+鞠」のカタチが、少し「鏡餅」を思わせるからかもしれない。
★苦労人マンホール
「春は定期的に来るリフレッシュの季節」というのは、歌人なら誰でも一度は詠むと言っていいほど昔からのポピュラーなモチーフだ。
それゆえ他に紛れない要素も大切で、この歌のそれは、自然界の定期リフレッシュに、人間が人工物「マンホール」に対して行う〝定期メンテナンス〟的な行為を含めている点だと思う。これは一味違う。
花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや藤原家隆『壬二集』1245頃 (六百番歌合)雪まぜにむらむら見えし若草のなべて翠みどりになりにけるかな出羽弁『玉葉集』1312
私が短歌をはじめた40年前(1980年代)、短歌の言葉の世界では、「自然」と「人工物」が対立関係で捉えられ、しかも「自然」は尊く「人工物」は卑しいという詩的身分差別(?)が当たり前のようにあった。しかし、家電やパソコンが普及した今では、頼もしい人工物たちに守られて(例えば冷房がなかったら死者が出る)暮らしている。必然的に「人工物」の詩的地位は向上し、貴賤感覚はずいぶん薄れてきた。
さして古典に詳しくはないが、和歌における「春の到来」は、自然界の兆候を捉えて詠むのが普通だったようだ。雪解け、野の草、鶯、梅の臭いなど。
例えば「夏の到来」は、とっくの昔の万葉集に「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」と、人が干す洗濯物(人工物)を「夏の到来」の指標にして詠まれてるもんね。
こちらは、「事象をピックアップすることで全体を表す」という換喩※。目にした「マンホール」と「磨り硝子」と「卵サンド」だけで、「五月」がまんべんなくあらゆるものに来ていることを表す。
なぜなら、「磨り硝子」は、表側の窓ではなさそうで、事務所の奥の資料部屋など、外から見えず外光を入れたくないような窓を思わせるからだ。(マンホールがあるなら水回りのものが近い。炊事場や、トイレの窓の可能性も……。)
※換喩(かんゆ):メトニミー(英: metonymy)は、小難しく言えば「概念の隣接性あるいは近接性に基づいて語句の意味を拡張」なんだそうだが、このウザすぎる説明が無駄に敷居を高くして、必要な人に普及しないのだ。
この「換喩」とい語を、短歌の批評用語に加えたくて、この40年、折に触れて意識的に使ってきた。「換喩」を知っていればあっさり読み解ける歌があるし、換喩を普通の比喩ととりちがえると解釈がとんちかんになっちゃうからだ。ところが、この言葉、なぜか全く普及しない。私はもはや古希。これからも「換喩」という言葉の必要を感じないような短歌鑑賞が続いてくのかしらね。めでたいな古希。
天から降る水の一部は人の街や人体を巡り巡って海に至る……。
マンホールのあるところには下水管などが通っている。これは当たり前なのだが普通は意識しない。マンホールデザインとその地域性という話の最中も、水流とともに歩くという意識は希薄だったと思う。
ところが、海に出ていきなり、この旅人(いや、ただの散歩かもしれないが、地域性の話でかすかに旅人意識が喚起され)たる歩みに地下水流のイメージがオーバーラップした。人と水管の水が同時に海に到着したかのような、いっしょに旅して来たかのような、そういうふうに少し遡って、かすかな一体感を、「感じそう」になっている。(「感じた」までは届かないぐらい。)
※歌に直接の関係はないと思うが、調べたところ長崎市は市のマークが五芒星のデザインなのでマンホールにもそれが描かれているそうだ。なお、陰陽師の安倍晴明の紋は「晴明桔梗」という五芒星だったそうだ。
それだけでなく、五芒星には、封印した何かを遠く「ここでないどこかへ」と旅立たせるようなミラクルパワーがありそうな気もする。UFOとも縁がありそうな雰囲気だ。
彼らは地下都市に住んでいたが、何らかの理由、たとえば自然破壊とかで、星を脱出しなければならなくなった、みたいないきさつだろうか? 「ぬいぐるみ」は、自分たちが去っても星が淋しくないように置いていく「埴輪」(副葬品)のようなものだろうか? 地下を封じる重いマンホールの蓋は墓石に通じる。
そうしたいろいろを総合して、この歌で、心の儀式みたいなものを体験した気がする。
自分はまちがった場所にいるような、故郷はここではないような、そういう違和感を宥めたり鎮めたりするらしい歌が、2000年を少し過ぎた頃からときどき目に入るようになった。「ここを去る」という心の儀式もその一つだと思う。
★レイヤーで立体的理解感
Ⅲ 考察(後半) 「マンホール」イメージの活用
a マンホールは地下領域への出入り口。b 人は地下のものを少し知っているが、気にかけない。c 地下は不可侵の場所。忌避感がある(死者の国、マグマ)d マンホールの蓋で地下を封じるe 地下に封じられ存在を忘れられるf 虫が旅立った痕跡 「時が来れば解放・脱出」というシナリオ。
詳細は、各歌の鑑賞に書いたので、以下、気づいたことのみを列挙する。
私の予想にはなかったもので、これは収穫だ。
しかし、いくつかの歌に見られた「無関係」「無縁」という感覚は、詩的に極める方向で詠まれている。
(死者を呼び起こすとゾンビになるが、思い出や夢のようなものは新しい方法があれば蘇活するかもしれない。)
● 旅立ち
そのかわり、昆虫の羽化のようにマンホールから旅立つらしい歌があった。
「マンホール」という比較的新しい(まだ詠み尽くされていなくてイメージ開拓中の)題材を、伝統的な題材やステレオタイプ化したモチーフと組み合わせて、新感覚へと転換する。そういう使い方をしている歌もあった。
まだ、そういう名勝負のような鑑賞が書けない。
2025年1月29日水曜日
ちょびコレ25 レジ袋
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)
レジ袋
最初にいちばんのお気に入り1首
この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
(題詠「塵も積もれば」)
山下一路 「かばん」2020.3『世界同時かなしい日に』2024に収録
題詠イベント「塵も積もれば」に出詠して最高点をとった歌。
哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たるだろう。そのレジ袋を「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわ解凍されて来ないか。
「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせるが、その無念は粗末に捨てられたためだけではなかろう。環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだが、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれると思う。
さらに、「投身」は、人間に跳ね返って来る。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。一人ひとりは否応なくこの自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか、というふうに、環境問題としての深読みにも踏み込んでいけそうである。
故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。 まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。
さて、では、いろいろなレジ袋の歌をみてみよう。
●レジ袋を持って
大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋
俵万智 『サラダ記念日』
レジ袋を詠む歌の中で比較的多い取り上げ方は、レジ袋を下げて歩くシチュエーションだ。それはたいてい、日々の食料や必需品を買って帰るところであって、日常の平穏、ささやかな幸福感を描く。
スーパーの袋をさげて歩み来る敵将の首を下ぐるごとくに沖ななも『白湯』ちょっと奮発してメロンなどを買ったかな?
スーパーの薄い袋を柑橘で充たして運ぶ春の自転車嵯峨直樹『半地下』
二人で持つシチュエーションは、二人の関係などを表す。
感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』
さみしさを二等分してレジ袋あなたの方がわずかに重い
toron*『イマジナシオン』
こういう歌もあった。二種類のインスリンも入るレジ袋柿の実色づく道を帰りぬ
足立晶子『はれひめ』2021
「インスリンも」の「も」には、「いつもなら夕飯の食材など楽しみなものが入っているのに」という気持ちの省略が込められている。
毛色の違う歌を見つけた。
レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015
神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。--これも日常場面を詠む歌だが、なんだか記述以上のことを感じる。 上の句では左右の手の動きを述べ、下の句では遠い視点からの絵に切り替わるという、ふたコマの絵になっていることがミソだと思う。 スーパーの袋(食料などが入っている)を下げて歩くヒト。その手が疲れたか、ちょっと持ち替えてまた歩き出す。(「右手から左手に」の字余りは、持ち替える動作を感じさせて効果的だ。) それは、神社の前、樹齢何百年の大樹の前だ。命を超越する神、タイムスパンの長い大楠、そしてせいぜい百年しか生きない人間、という、異質な存在の3者がたまたま重なる。 そういういわば概念の奥行きのある構図の中で、ヒトが手の疲れというとても小さな問題を解決する。そんなささいな音もない一瞬の命の現場、という実にさりげない臨場感。
非常に精密な歌であると思う。
●半透明
レジ袋の多くは半透明だが、まだ「半透明」という特徴を詠む人は少ないようだ。
半透明レジ袋ゆゑうつすらと中身の見えてこれはアボガド
喜多昭夫『青夕焼』
アボカドの濃すぎる緑とパプリカの黄に紗をかけているレジ袋喜多昭夫『いとしい一日』2017
※「紗(しゃ)をかける」という言葉を知らなかったので調べました。
紗とは生糸の織物の一種、透過性のある細い糸で荒く織り込まれた布。レンズに被せて被写撮影し写真のイメージをソフトにすること。
●レジ袋が生き物などに見える
兎ひとつ座れる形にレジ袋ベンチにありて夕暮れてゆく
小潟水脈『時時淡譚』
枯れ枝にはためく白い木蓮はずっと前からレジ袋だった千種創『砂丘律』2015
ワタシ的あるあるは白猫。
足元に白猫がいて、踏まないように跨いだらレジ袋とか、
白猫が阿波おどりしてると驚いたがレジ袋だったとか。
●先行きの不安
レジ袋が生き物にみえることに関係すると思うが、風に翻弄されてふと命を帯び、舞い踊りながら飛ばされていく姿は、先行きの不安を感じさせることもある。
風に舞うレジ袋たちこの先を僕は上手に生きられますか
従順なレジ袋たち河口まで運ばれふいに惑いはじめる
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015
秋の道ひかりを抱いてぱるぽるとレジ袋ひとつ転がりてゆく
千葉弓子@ちば湯「かばん」2025年1月号新春題詠「袋」※作者名は1月号にはなく、後日明かされた。
この歌は、一見幸福感を詠んでいるように見える。が、今は期待に膨らんで「ぱるぽる」と楽しげに転がっていくレジ袋には、悲しい末路しかない。じきに希望の光は消えて残酷な未来が来てしまう。つまり、現在の「明」のみを書いて、未来の「暗」を暗示するというレとリカルな歌であると思う。
未来のわからなさはときにトリックかとさえ思えるが、この歌のレトリックはそのトリックを体現しているようにも思える。
●レジ袋の要不要を告げる
レジ袋いりませんってつぶやいて今日の役目を終えた声帯
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013
世界とのあいだにいつも「あ」を挟む あ レジ袋つけてください
まるやま(『短歌ください 君の抜け殻篇』2016より)
レジ袋断り牛乳素手で握る2020を生きているきみ
伊藤紺 (「短歌「いま」」2020年7・8月 特集:癒やしながら より)
●レジ袋有料化
レジ袋は2020年7月1日有料化された。時事ネタのためか、世間話のような感じ。
ともかくも今の幸せ享受するレジ袋代五円を払って蒼井杏『瀬戸際レモン』
西友のレジ袋(M)2円なり買うとき今日は怒りが湧いた
染野太朗 「詩客」2013-02-22
山下一路 「かばん」2020.3『世界同時かなしい日に』2024に収録
題詠イベント「塵も積もれば」に出詠して最高点をとった歌。
哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たるだろう。そのレジ袋を「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわ解凍されて来ないか。
「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせるが、その無念は粗末に捨てられたためだけではなかろう。環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだが、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれると思う。
さらに、「投身」は、人間に跳ね返って来る。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。一人ひとりは否応なくこの自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか、というふうに、環境問題としての深読みにも踏み込んでいけそうである。
故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい皮肉を見出すことができる。 まじめに深刻な事態を訴える社会派の「手の込んだ皮肉」。 -- 一般的に社会的な問題を詠む場合、その「まじめな意図」を詠みおおせることがメインの目的で、表現の詩性はわかりにくさを回避するために抑えめになりがちだ。が、山下の歌では、皮肉表現の詩的価値が高い。このことに何度となく驚かされた。
俵万智 『サラダ記念日』
二人で持つシチュエーションは、二人の関係などを表す。
感情の作り置きってできないと言いあいながら持つレジ袋
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』
さみしさを二等分してレジ袋あなたの方がわずかに重い
toron*『イマジナシオン』
こういう歌もあった。
「インスリンも」の「も」には、「いつもなら夕飯の食材など楽しみなものが入っているのに」という気持ちの省略が込められている。
毛色の違う歌を見つけた。
レジ袋右手から左手にもちかえる木幡神社の大楠の手前
谷口純子 『ねずみ糯』2015
非常に精密な歌であると思う。
●半透明
喜多昭夫『青夕焼』
紗とは生糸の織物の一種、透過性のある細い糸で荒く織り込まれた布。レンズに被せて被写撮影し写真のイメージをソフトにすること。
小潟水脈『時時淡譚』
ワタシ的あるあるは白猫。
足元に白猫がいて、踏まないように跨いだらレジ袋とか、
白猫が阿波おどりしてると驚いたがレジ袋だったとか。
従順なレジ袋たち河口まで運ばれふいに惑いはじめる
法橋ひらく 『それはとても速くて永い』2015
秋の道ひかりを抱いてぱるぽるとレジ袋ひとつ転がりてゆく
千葉弓子@ちば湯「かばん」2025年1月号新春題詠「袋」
未来のわからなさはときにトリックかとさえ思えるが、この歌のレトリックはそのトリックを体現しているようにも思える。
木下龍也 『つむじ風、ここにあります』2013
世界とのあいだにいつも「あ」を挟む あ レジ袋つけてください
まるやま(『短歌ください 君の抜け殻篇』2016より)
レジ袋断り牛乳素手で握る2020を生きているきみ
伊藤紺 (「短歌「いま」」2020年7・8月 特集:癒やしながら より)
ともかくも今の幸せ享受するレジ袋代五円を払って
染野太朗 「詩客」2013-02-22
2025年1月29日