2020年7月27日月曜日

青006 ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇―〇〇四四 松木秀

氷のサイコロをふるみたい

いろいろパネー!と感心しちゃう歌だ。



ゼロか死か青柳町こそかなしけれ〇四〇―〇〇四四
松木秀『RERA』


■本歌取り

「ゼロか死か」とはどういう意味かと考えさせられるけれど、その前に、お気づきと思うが、これは本歌取りをしている。
知らなくても読める歌だが、知っているほうがいい。
本歌はこれだ。
 函館の青柳町こそかなしけれ
 友の恋歌
 矢ぐるまの花         石川啄木『一握の砂』
ルビ:函館(はこだて)    青柳町(あをやぎちやう)    恋歌(こひうた)

■実在の町、本当にある郵便番号

 函館の青柳町は実在の町だ。「青柳町」という言葉自体、しっとりしてしなやかな風情が漂うし、啄木は実際そこに居住していたことがある。それとは別に、「柳」は啄木にとって、故郷への郷愁をかきたてるものだったらしい。
※啄木の故郷岩手県盛岡市に近い北上市にも青柳町があり、同じ歌集にこれまた有名な「やはらかに柳あをめる/北上(きたかみ)の岸辺(きしべ)目に見ゆ/泣けとごとくに」がある。
※「青柳町」という地名は函館だけでなく各地にあるが、松木の歌の「〇四〇―〇〇四四」は、本物の函館の青柳町の郵便番号だった。

■氷のサイコロ?

さて、「ゼロか死か」の歌、「青柳町こそかなしけれ」は啄木の本歌取りで、青柳ゆれる春の風景に郷愁を重ねる抒情として機能するはずの要素である。
ところが「ゼロか死か」と始まるこの歌では、抒情を阻む文脈を冒頭から開始しているわけで、郷愁をとっとと通り越した先で、透明な氷のサイコロを振らせるがごとき二択を迫るのだ。

■本歌との関係は対比的

「青柳」という語は、古典和歌には多く詠まれて、おもに春の景物として青春のオーラのような風情を表していたが、近代の短歌では激減。現代の短歌ではめったに見かけない。
由緒あるやさしい抒情+啄木の歌の郷愁。啄木の「悲しけれ」に対して「こそ悲しけれ」と言い、「ゼロか死か」というきびしい状況をつきつけている。

■「ゼロか死か」とは?

「ゼロか死か」は不思議な二択である。「生か死か」に似ているようで異なる。
ううむ、ゼロと死とは、始まりと終わりのことだろうか。ゼロが起点で死は終点だとすれば、ゼロクリアで再挑戦するか、リタイアして終了するか、という二択になるけれど、この歌はもっと絶望的な感じがする。

「もうこの先は、何もプラスのない『ゼロ』の日か、それが終わる『死』の日か、そのどちらかの日しか来ない。」
そういうような意味合いではなかろうか。


★事実だから歌に詠むわけではない
私の上記のような読み解き方に対して「考えすぎだ、単に事実を詠んだだけかもしれない」という意見をいただくことがある。
だが、事実だからといって安易に歌に詠むわけではない。
啄木が実際に青柳町に住んでいたとか、040-0044が本当に青柳町の郵便番号であるとか、だけでなく、歌に詠み込む要素はすべて、その歌に詠み込む価値があるから詠み込むのである。「青柳町」という地名も、この歌に詠み込む情報として価値があるから詠んだはずである。
住んでいたのがもっと無粋な名の町だったら、啄木は歌に詠み込まなかったか、詠み込んだにしても、雰囲気の異なる歌に仕上げただろう。そうなれば、この本歌取りもなされなかっただろう。

★赤柳町、黄柳町だったら?
余計なことだが、「青柳町」を「赤柳町」か「黄柳町」に替えてみたら
「ゼロか死」のニュアンスはどう変わるだろう。
  赤や黄色は、生きようとする人間の熱意に通じやすく、なんらかの〝いきさつ〟を感じさせる状況(痴情だのうらぶれだの)に、詩情の軸足が置かれやすいと思う。

 「赤柳町」だったなら、痴情のもつれの末の「ゼロか死か」みたいだし、「黄柳町」だったなら、うらぶれて「ゼロか死」の問いを枕に日々を過ごしていそうだ。
その場合、「こそかなしけれ」の「こそ」も単なる強調でしかなくなるだろう。

2020年7月17日金曜日

満54 空に骨?


〈空+骨〉の歌ピックアップ

ランボーはむかしいもうとの妻であり青空を統べる骨ひとつあり
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

仲秋のそらいちまいの群青にわが骨はみな折れてしまふよ
ルビ:群青【ぐんじやう】
永井陽子『なよたけ拾遺』

憂鬱な空と思って見てたのは、いいえ私の頭蓋骨です
松村正直 『駅へ』

空間のふちよりあらわれ健康な青を分泌する凧の骨
井辻朱美『クラウド』

孤児がうつくしいのは遺された骨組みから空が見えるからです
笹原玉子 『南風紀行』

 *   *   *

お時間ある方は以下もどうぞ

空と骨はどうして結びつくのか


短歌のなかで、「空」と「骨」は、やや付きやすい題材だ。
何らかの連想脈で結ばれていることは確かみたいなので、そのファクターを考えてみた。

へそ曲がりなので、以下、そのファクターをわかりにくい順にあげていく。


ファクター6 骨の培養

というわけで、いきなりすごくレアな例だが、骨を空で培養して新たな世界を作る、という発想が可能であると思う。

ランボーはむかしいもうとの妻であり青空を統べる骨ひとつあり
瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

「ランボーはむかしいもうとの妻であり」というぶっとんだフレーズは、何がぶっとんでいるかというと、ランボーが誰だとか血縁関係がどうだといった通常のものごとの理解に必要な要素が完全に混乱するほどに、この現実からぶっとんでいるのだ。ぶっとんでぶっとんで、はるかに遠ざかった時空の話をしていると思う。

そうでなくとも、〈青〉や〈青空〉という語には、時空を超越するイメージで用いられる歌の例が多くある

※作者たちはほとんど意図していないが、その〈青〉等のイメージの説明はけっこう複雑だ。『青じゃ青じゃ』で詳説した。

骨は、魂も血肉も失せたあとに残るものだし、また、骨といえば、アダムの骨からイブを作った、という話がある。 そのことがかすかに連想をひっぱって、青空に骨といえば、いったんほろびたものの欠片から、〈青〉や〈青空〉が培地となって、超越的なスパンで何か新たなものが培養されるイメージになりえる。

この歌の骨は、いま何かになるべく培養中であり、すでに「青空を統べる」存在であることから、新しい世界の芯になるものらしい、という方向に、想像を少しプッシュするのだ。

ファクター5 空と骨はなぜか親和性が高い

「なぜか」なのに「ファクター」と呼ぶのは変だけれども。

そもそも空と身体には複雑な連想脈があるらしい。これはデータベースで検証できる事実である。
〈空〉や〈青〉の歌を集めてみると、近年、空と身体を結びつけて詠むようになってきている。
例証は長くなるからここでは省略する。既刊『空はともだち?』に書いた。

そして、なぜか身体の中でも特に「骨」は親和性が高い。なぜか該当歌がたくさんある。多くの歌人が折に触れて詠んでいる。
後述のファクターが絡んでいるかもしれない。

仲秋のそらいちまいの群青にわが骨はみな折れてしまふよ
ルビ:群青【ぐんじやう】
永井陽子『なよたけ拾遺』

秋空は骨の触れあう音ひびき長く日本の国に棲みおり
佐伯裕子『ノスタルジア』

姥捨山へ骨をひろひにゆかむかななべてひろはむ吾は蒼穹となり
渡辺松男 『雨(ふ)る』

ガウディの仰ぎし空よ骨盤に背骨つみあげわれをこしらふ
春野りりん『ここからが空』

空はいつわたしへ降りてくるのだろう言葉の骨に眩みゆく夏
大森静佳『てのひらを燃やす』

ローリエの樹下にわが骨埋めゐる夢から覚むれば燕翔ぶ空
徳高博子『ローリエの樹下に』

ヒトラーの頭骨の穴想うとき十勝の空ののっぺらぼうめ
松木秀『5メートルほどの果てしなさ』

そらに伸べし長き頸骨ふと折れなば傷ましき白き鶴と思へり
葛原妙子

はゞたける空あるやうにひらきをる貝殻骨の ゆふかたまけて
川崎あんな 『あんなろいど』

ファクター4 フラクタル構造的な把握
 ※幾何学の概念。部分の構造が全体の構造と相似になっている。

人体と天地が相似のフラクタル構造になっているというふうになんとなく感じているらしい歌がある。
たとえば天蓋と頭蓋の相似。骨壷も天地や頭蓋とフラクタルで把握される場合がある。

憂鬱な空と思って見てたのは、いいえ私の頭蓋骨です
松村正直 『駅へ』

骨壺の空間埋めてみつるものあらば光りあふことばなるべし
尾崎左永子 『星座空間』

遺骨箱のきよき空白子の骨を呑みてしまいし母にあらずや
玉井清弘 『清漣』

ファクター3 死生観

骨は、身体から魂が去り、血肉が地に還ったあとに残る究極の姿であり、すべてお返ししましたというように空のもとにさらされる。
わりあい自然な連想だと思うので、そういう素朴な死生観から、空と骨が結びつくことがあると思う。

たたずみて人骨をみしやすらぎのいはむかたなし天の星流る
葛原妙子 『朱霊』

孤児がうつくしいのは遺された骨組みから空が見えるからです
笹原玉子 『南風紀行』

骨というのは、生物として初期化された状態とも言える。
骨を地中に埋めればさらに分解されて吸収されるが、もし空に置いたら……、という連想があり得る。前述のファクター6はそういうところから生じ得ると思う。

ファクター2 空とセットで目に入る骨

日常の場面で骨は空とセットで目に入ることがあるので、いっしょに詠まれやすい。
骨と言っても、動物の骨でなく、凧や傘の骨、建築物の鉄骨等だ。
そういう比喩的な意味の「骨」は、本物の「骨」への連想をちらっと促す。

空間のふちよりあらわれ健康な青を分泌する凧の骨
井辻朱美『クラウド』

天日干しのふしぎなさかな 骨ほそき六角凧がクリックする空
井辻朱美 『クラウド』

星まみれの空があなたを奪っても私はきっと骨のない傘
笹井宏之 『てんとろり』

いず方より援けは来るや夕空に吊りあげらるる鉄骨ひとつ
杉﨑恒夫 『パン屋のパンセ』


ファクター1 飛行機雲や稲妻を骨に見立てる

空には骨に見立てたくなる雲や稲妻がある。

空の骨ときおりみせて全域は大雨警報 闇よびよせる
青柳守音『風ノカミ』

白い骨に見える日がある雲のない空を音なくすべる飛行機
山本夏子 『空を鳴らして』

巻雲の鰈の骨の透きとおり天とはつくづく遠いところ
杉﨑恒夫パン屋のパンセ』

青空の発掘現場 翼竜のかぼそい骨を接ぐ飛行機雲
井辻朱美 『クラウド』


ファクター1はたしかに似ているし、ファクター2は事実だ。
だが、それだけではなく、それが前述のファクターのようにイメージの深層に迫る感じを伴うからこそ、〈空+骨〉はしばしば歌に詠まれるのだろうと思える。

いかがでしょうか。

追記:〈空+骨〉の縁が強いのは短歌だけ


俳句川柳でも〈空+骨〉の縁が強いのかどうか気になったので調べて表にまとめた。

以下の通り、縁が強いのは短歌だけみたいである。
短歌では、「骨」という文字を含む短歌のうち、「空」という字も含むのは4.4%だ。
約23首に1首ある。

俳句では1%にも満たないし、川柳でも1%ちょっとである。

歌人は気づいていないだろうが、〈空+骨〉のイメージは、短歌というジャンルの中でいまひそかに慈しみ深く育てられいるのである。
すごいだろすごいでしょ。

現代詩はデータがないので調べられないが、どうなのだろう。

追記2 入力と出力


短歌を詠むという行為には、入力と出力がある。
短歌はいますごく健全に入出力が盛んで、バランスもとれていると思う。

出力とは
作者の考えや心情等を出力するものである、という点で、短歌は「出力」である。

入力とは
一方、歌を詠むということは、短歌の言葉の世界に「用例」を加えることである。
ここではこのことを「入力」と呼ぶ。
「入力」については、作者は無自覚・無意識である。

いま短歌では出力だけでなく入力も盛ん
ほとんどの人は「出力」したいから詠む。つまり「出力」は、単純かつ自然な表現欲求であって世話がやけない。

重要なのは、短歌では、いま「入力」が盛んであることだ。
「入力」については、作者たちは無自覚・無意識だし、人間側の意志でどうなるものでもない。人間側が意図してムーブメント起こしたとしても、言葉の側が受け入れなければ「入力」されない。

この〝なりゆき〟というものは、人間側の意志でなく、そのジャンルの言葉側の〝意志なき意志〟のようなものである。
(意志ではないから〝なりゆき〟と呼んでいる。)

そういう〝なりゆき〟があるから「入力」が受け付けられる。言葉の側の〝意志なき意志〟が、新たな用例として意味を認め、イメージが蓄積したり成長したりするのである。

上記の〈空+骨〉のように、何かが結びついて独自ののイメージを醸成するというのは、そうした〝なりゆき〟が働いている一例である。

成果が積もらない、なんてことがあるのだろうか
他ジャンルにも、こうした〝なりゆき〟作用があるはずで、少なくとも、大勢の人が気軽に詠んで作品が大量に作られるようなジャンルのほうが効率が高いだろうから、俳句と川柳にも、〝なりゆき〟作用による成果があるだろうと思う。

〝なりゆき〟説という私の仮説が正しいなら、
そのジャンルの〝なりゆき〟がなければ、作品が書かれても書かれても、その成果は積もらない、ということにならないだろうか。(どうかなあ。)

だとしたら、これはこれで怖いことだ。

しかし、人間側の「出力」欲求だけで作品がただただ大量生産され、言葉側の〝意志なき意志〟である〝なりゆき〟がないまま何も蓄積しない、なんていう停滞状況はあり得るのだろうか。まさかね。

それに、「〝なりゆき〟がなければ、作品が書かれても成果は積もらない」と決めつけるわけにもいかないだろう。
ジャンルの維持成長には別のファクターもありえると思う。

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追加

あとから歌を見つけた場合、気まぐれに追加することがあります。



2020年7月13日月曜日

ミニ32 短歌のなかで人類は

短歌において「人類」という語にもっともくっつきやすいのは、「滅びる」じゃないだろうか。

本日の私のデータベースに「人類」という語を含む短歌は83首あるが、そのうち11首に「滅びる」が含まれている。
(うへ、自分の歌もある……。)

短歌の中の人類は7,8首に一首の率で滅びるのだ。


〈人類〉を詠む歌(〈滅び〉を除く)


あまのじゃくだから、「滅びる」と書いてない歌を先に紹介しよう。
(「滅びる」という語を使わないだけで滅びることを詠む歌は含める。)

12歳、夏、殴られる、人類の歴史のように生理はじまる
大滝和子『人類のヴァイオリン』

人類のゆめふかき半島おとづれて(わたしはそのかみ何でありしか)
井辻朱美『水晶散歩』

人類の舌が切手をなめてゐる時の彼方の寒い五月だ
魚村晋太郎『銀耳』

わがまちは夢に甍をあらそいて そう、人類をにくんでいるよ
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

一瞬のスポットライト 人類にはじめて会った朝日のように
千葉聡「かばん」新人特集号 1998年2月

人類がティッシュの箱をおりたたむ そこには愛がありましたとさ
笹井宏之『ひとさらい』

月齢はさまざまなるにいくたびも君をとおして人類を抱く
大滝和子『人類のヴァイオリン』

人類へある朝傘が降ってきてみんなとっても似合っているわ
雪舟えま『たんぽるぽる』

人類がすこしづつ入れ替はるごとくつしたなどが入れ替はりゆく
大松達知『アスタリスク』

美しくサイレンは鳴り人類の祖先を断ち切るような夕立
五島諭『緑の祠』

青いしづくこぼす地球をまたぎつつとほりがかりの人類史かも
渡辺松男『雨(ふ)る』

人類が0へと着地する冬の夕日を鳥は詩にするだろう
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』

歓楽街のカラオケボックス占拠してさよなら人類またきて明日
山階基「未来」2013年10月

しやぼんだまなる呼気のたまのぼりゆく水より人類はふたたび去らむ
ルビ:人類【ひと】
光森裕樹『うづまき管だより』

ボンドとボンド・ガール以外はみんな死ねそこから人類やり直せばよい
望月裕二郎『ひらく』


〈人類+滅び〉の歌ピックアップ

〈人類+滅び〉の歌は、けっこう軽い。

滅亡してもう惜しくない人類かと思ひてゐたりとどのつまりに
柴生田稔

人類が滅亡しても困らない困る以前にみな死んでいる
松木秀『RERA』(4)

人類が滅びるとしたらすごいおおごとなのに、気楽に突き放して詠んでいる感じを受ける。他人事のような詠みぶりだ。
悪いと言いたいわけではない。そういうスタンスもあると思う。

連作の中の一首で、一首で独立せず、なんらかのバランスをとるために、あえて気楽そうに詠む歌という位置づけで詠まれている可能性もある。

けれど、本当に滅びるとしたら、滅びは一瞬でかんたんに済むとは限らない。
滅びに至るまでの人類の最後の年月。
希望なく先細ってすさむ人類末期の年月を思うと、恐ろしくなる。
が、そういう状況の恐ろしさを詠む歌が、ちっとも見当たらないではないか。

人類の滅亡の前に凝然と懼れはせねど哀しかりけり
ルビ:滅亡(ほろび)
中島敦『和歌でない歌』

人類が滅びつつある新しい朝、いもうとのラジオ体操
吉田恭大「早稲田短歌」42号

人類は滅びたあとに目が覚めてスクランブルエッグを焼くだろう
三上春海

人類は滅ぶともよし滅ぶともゆびをもて剥ぐ白桃の皮
阿木津英『白微光』


他人事みたいなのになぜ詠むのか?


上記のように、人類が滅ぶ歌だけを集めてみると、いま滅びるという実感がなくて、他人事のような詠みぶりが目につく。

良し悪しでなく単純な疑問。
他人事感覚なのに、なぜわざわざ歌に詠むのだろう。

聴診器あてるまぶたのまなうらの宇宙映画の人類滅ぶ
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』(題詠 音)

他人の歌の動機は知るよしもない。が、
自分の歌なら、胸に手を当てれば思い出せるかもしれない。うむむ……。

この歌は「音」という題詠。たしか歌会の場で作ったのだと思う。
〈人類+滅び〉は、シリアスでかっこよく斜に構えられる題材だ。
インパクトがあり見栄えがする。そして誰にとっても実感がない。
目立つけれども無難。
要するに、歌会向きの題材なのである。

私の上記の歌は、そのように明確に考えたわけではないが、無意識に歌会ウケする題材を採用したものではないか、と思う。

シリアスな他人事……。

他の人はどういう動機でこういう題材を詠むのだろう。




2020年7月1日水曜日

青005 夏のまんなか素足は体をすこしだけほうり投げる あおびょうたーん  杉山モナミ

「たーん」は「ターン」(turn)?


夏のまんなか素足は体をすこしだけほうり投げる あおびょうたーん
杉山モナミ 『ヒドゥン・オーサーズ 』2017

足が体を「あおびょうたーん」と「ほうり投げる」。
おもしろい歌だが、特に、「あおびょうたーん」の伸ばす部分の効果がすごいと思う。
その効果について仮説を書こう。

「あおびょうたん」とは未熟なひょうたんのことだが、隠語として、痩せて顔色が悪い人のことをさすほうが多い。この歌ではひ弱な自分を鼓舞するニュアンスも含むようだ。

それがただの鼓舞にとどまらない。「あおびょうたん」は自分自身のことなのだろうが、空も「あおびょうたん」なのかな、という感じがちょっとしないだろうか。

なぜかというと、「あおびょうたーん」がオノマトペ的に働いて、体が空中で「ターン」する感じがするからだ。
体がひるがえって裏返って空になる、とでも言ったらいいのか。

このように書くと、そんなことはどこにも書いてない。と思う。
こういうふうに、明確化させずに無意識領域で、ちょっとそう思わせるにとどめておくような表現があるのだ。

空の無限が妖怪みたい


ひるがえる……、うらがえる……。

「あおびょうたーん」の「ターン」は、そういう瓢箪空間を裏返して内側をさらけ出しそうな、空間をゆがめる効果があると思う。

ひょうたんといえば、『西遊記』に、呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう恐ろしい瓢箪が出てくる。
空の無限を詠む人はいくらでもいるが、こういうふうに、空の無限を裏返された妖怪みたいに描く歌は、ものすごく珍しい。

以上




青004 コレクション 青+淋しい 

「青」と「淋しい」は好まれる組み合わせだ。


両方を含む歌はものすごくたくさんあり、まだまだいっぱい詠まれるだろう。
単独で取り上げている他にも紹介したい歌がある。
現時点で知る限りのなかから、これは、と思う歌をピックアップした。

ここより見やすい「ふれたん」にコーナーを作って随時更新することにしました。

山みちにこんなさびしい顔をして夏草のあをに照らされてゐる
前川佐美雄『植物祭』1930年

あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め
前田夕暮『水源地帯』1932年

病身の眼ばかり青き火になして空翔ける鳥のさびしさとなり
小玉朝子『黄薔薇』1932年

濫觴にかかる寂しき青ありき湖見しのちの寒き薄荷酒
ルビ:湖(うみ)
安永蕗子『魚愁』1962年

花ことば「さびしい」という青い花一輪胸に咲かせて眠る
俵万智『かぜのてのひら』1991年

舞はぬ日の扇さびしも夢に来てみづからひらくその身紺青
水原紫苑『うたうら』1992年

昭和ののちとふ無辺の青のさびしさをこゑ上げながらゆく凧
ルビ:凧(いかのぼり)
米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998年

あおぞらからひとつまみずつのさびしさを絞りだしたる桜のさかずき
井辻朱美『クラウド』2014年

耳たぶに低く唸れる青い石よなんてさびしい人なのだろう
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012年

なぜここに青いすべり台があるのだろう こんなさびしい雪の野原に
宮地しもん『f字孔』2014年

ひとりきてひとりたたずむ硝子戸の中の青磁の色のさびしさ
湯川秀樹『湯川秀樹歌文集』2016年

以上
2020・7・1