2024年8月27日火曜日

ちょびコレ32  『義弟全史』その1 短歌交霊マッチング

「短歌交霊」とは?
「降霊」じゃなくて「交霊」です。

ときどき並べて読みたい歌というのがあります。
題材とテーマが似ている歌を、別の作者が別の場所で別の発想で詠む。そんな偶然がしょっちゅうあります。
そのなかには、互いに相手の存在を知らない織姫と彦星みたいな、潜在的に相手を求めているかのようなセットがあるのではないか。
 そこで、
「短歌さんたちがめぐりあう場」(交霊場)というのを空想してみました。

織姫がここで待っていると、彦星が降臨する
逆でもいい。そういう感じの設定です。

そして、以下の三人半の世話役がお迎えする。
なぜなら、歌はそれ自身の言葉以外を語れない(そういう設定です)から、
その歌どうしが、どういう点で共通しどのように惹かれ合うのかを、世話役たちが考えるわけです。

 世話役たちはまじめですが、作者の意図を超えることをものともせず、深読みすることがあります。


【世話役】書体を変えています

 司会(外見は鹿。名前は公表されていない。花子はシカちゃんと呼んでいる。)
 ・アシスタント(調べ物担当だが意見も言う。外見はアシカ。名前は公表されていない。)
 鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

【ご注意】 
 
歌自身が降臨するという設定です。(歌の作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加。歌自身が自解することはありません。

 では、とざいとーざーい


鱶助「いま『義弟全史』という歌集のデータを吸収しているのだが、父母兄弟姉妹が出てくる歌が多い。タイトルには「義弟」とあるし。
 そも、短歌には父母兄弟等を詠む歌が多い。それらは、現実の家族、空想の家族、抽象的な意味での父母兄弟など、いろいろな心情・思考の結果として短歌の中に登場する。短歌に詠まれるあらゆる言葉は、短歌の言葉の国に所属になるわけだが、父母兄弟などの語も、歌に詠まれるたびに、短歌の言葉の世界の既に詠まれた父母兄弟の用例の中に混じっていくことになる。そのなかで、特に響き合う歌というのがあるはずだと思う。
 『義弟全史』の歌は、どれも〝言うに言われぬ〟フシギを帯びているが、似ている要素を備えた先輩歌が名乗り出てくれれば、少しわかりやすくなり〝言うに言われぬ〟でなく、〝少し語れる〟部分がでてくると思う。

■空想の兄弟と丘


司会「では、『義弟全史』の歌の中から、どなたか?」

▼てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる
土井礼一郎『義弟全史』

司会「むむ! 手のひらに丘がある? ってことは、空間がねじれてますね。
 ふと、西遊記のお釈迦様と孫悟空を想像しました。あ、いや、変なこと言っちゃった。忘れてください。」
※お釈迦様に「私の手のひらから逃げられたら天界の主にしてやろう」と言われ、孫悟空は、筋斗雲を駆って世界の果てらしい場所の柱に「斉天大聖」と書き立ちションして得意顔で帰ってきたが、その柱、実はお釈迦様の指だった。悟空はお釈迦様との力の差を思い知る。

花子「あら、シカちゃんにしてはいいセンかも。
 つまり、
この人(兄?〉と「弟」の力関係が、そのお釈迦様と孫悟空みたいだってこと。

司会「力関係。」

花子「で、『手を叩こうとすれば手をふる』も気になるのよ。
 手を振るのは普通は友好的な仕草。だけど、そんなに力の差があるんなら、
『叩くのをやめて』という意味かしら、って思わせる。そういうニュアンスを10%ぐらい含んでないかしら。『やれ打つな』のハエみたいな。」

アシ「そうも思えますし、これは見る角度によって表情を変える表現ですよね。
 で、私はもう一つ、5%ぐらいの淡いニュアンスを見つけました。この『手をふる』っていう言い方が妙にフツーで、そのフツー感に、〈弟の方からは案外普通の位置関係でこちらが見えているのではないか。だから、叩かれるなどと思わず、単純に小さい方が極端に無邪気なら、そういう認識の大きなズレもありえます。」

花子「それそれ! それも感じる!
 
この人(兄?〉は弟に対してすごく強い立場にいる。でも弟はそれに気づいていない。支配されていると思っていない。そこからもうひとつ枝分かれして、2%ぐらいだけど、特殊なニュアンスもあるわよ。
〈この弟は手
の中の虫みたいなもの、そしてこの人(兄?)は、虫を覗き込んで観察している人間。虫の方は、兄弟どころか、『捕われた』などという関係性はおそらく認識せず、プログラミングに従って、餌と交尾できる相手のいる場所へ行こうとして足を動かしているだけ。そのぐらいに、認識が噛み合わない状態で、この人(兄?)は、その虫みたいなものを一方的に支配しつつ、「弟」と呼んでいる。〉
ね。そういう感じもするでしょ。2%ぐらい。

鱶助「パーセンテージの低いニュアンスほど、深読み感が強まるが、実は重要である。
深読み的ニュアンスは2%+5%+10%=17%に過ぎず、83%はもっとも普通の解釈なのだが、こうしたバランスも意味がある。要するに、詩はみつけにくい。ーー見つけにくい状態で潜んでいる。その微弱感も味わい。」

司会「何ですかそれ。大事なことはすぐ見つかるところに置いといてほしい。
 ところで『丘』と兄弟は、よくいっしょに詠まれるのでしょうか。見晴らしがいいから、離れている血縁者を想いうかべやすい、みたいな詩的連想脈がありそうな気がしますが。
あ、一首降臨されるようです。」

▲ひとりっ子のわたしがときどき来る丘のむこうにまんがの妹がすむ
杉山モナミ「かばん」98年3月

司会「よくいらっしゃいました。位置関係はやや違うけれども『丘』がある。そして『弟』じゃなくて『妹』。なんだか雰囲気も似ているし。」

アシ「異次元というか別世界というか、そういう場所にいる兄弟を空想する。そこは似ていますね。距離では語れない種類の遠さ。」

花子「空想の家族を詠む歌って、空想のママゴトみたいよね。
『ひとりっ子』の歌のほうは、『ひとりっ子』ですから当然妹はいない。この世界には自分と同じ立場の係累はいない。その孤独感が〈まんがの妹〉というママゴトに誘うのかな、と思わせる。
〈まんがの妹〉という異世界のものを想定すれば、それと表裏になって補強されるような感じるのかも。だから力関係は対等。その点は〈てのひらの弟〉と大違いね。」

司会「どちらも『丘』を含みますが、その意味合いも違うんですよね。

鱶助「〈まんがの妹〉が見える『丘』は、普通に『丘』は見晴らしが良くて、登れば別の街を見晴らせる、という境界のような場。順当な暗示であると思われる。
〈てのひらの弟〉の『丘』には、お釈迦様の手ほどに空間的なねじれがある。」

司会「2つの歌は、材料がとても似ていて、でもけっこう違いがあるんですね。」

アシ「共通する要素があったとして、それが意味のある共通点なのか、ただの偶然か、きちんと気にしたほうがいいと思うんですが……。」

鱶助「短歌データベース約13万首から、[丘(or岡)]かつ[兄弟姉妹(ひらがな表記あり)]を含む歌を検索したところ、該当歌はたった3首。上記2首をのほかもう1首あった。」

●雲ひくき峠越ゆれば/(いもうとのつめたきなきがほ)/丘と野原と
 宮沢賢治『宮沢賢治全集』

司会「あ、降臨ありがとうございます。
こちらの歌も雰囲気が少し似ていますが、この歌の場合、『丘』じゃなくて『峠』が境界の役目をはたし、『丘と野原』は見渡す土地の起伏を表していると思います。
 で、その起伏が、『(いもうとのつめたきなきがほ)』に見える……、ということだと思います。
 実は一瞬、『なきがほ』を『なきがら』と読みそうになり、丘と野原の起伏が人の形なのかとまで思ってしまいました。宮沢賢治といえば『永訣の朝』という詩もありますから、『いもうと』は亡くなっている感じがして。余計なことをすみません。」

花子「またまたシカちゃん、鋭いわよ。
『永訣の朝』を知らなくても、『峠』という境界を越えるということを意味するし、〈いもうとは異世界にいる〉という淡い暗示になってるし、『丘と野原と』が『いもうとのつめたきなきがほ』である構文も、シカちゃんのような解釈へと誘導してるわよ。」

鱶助「ただし、『丘』や『峠』の境界としての役割は、もう少し検証が必要である。
『丘』などの語を含まずに遠方に住む弟や妹を思い浮かべる内容の歌と見比べたいのだが、かなりの数がありそうで、探しにくい……。」

司会「わぁ、探さなくてもたくさんおいでくださいましたよ。」

●ベランダに風 遠く住むいもうとの家族は持てり海辺の時間
●遠洋のオレンジのブイ この夏は高知で暮らすいもうとの家族
 小島なお『展開図』

●弟は入間で一人で暮らしてる 電話を持たずに携帯電話を持つ
 ルビ:入間【いるま】 携帯電話【けいたい】
 千葉聡『微熱体』2000

●チベットに住むおとうとの悪筆をうぶ毛のような春に待ちつつ
 東直子『春原さんのリコーダー』

●妹は遥かな部屋に恋人と木を育てゆくように暮らせり
 鯨井可菜子『タンジブル』

司会「歌のみなさま。ありがとうございます。
『遠い』と書いたり、具体的地名を入れたりすれば、隔たりは感じますね。ただ、同じ世界の遠い場所であって、異世界っていう感じはしないようですね。」
 
花子「やっぱり『丘』にはそれとなく〈遠くて近い異世界〉感を付与する効果があって、〈てのひらの弟とかまんがの妹〉とかの、非現実的表現を受け入れやすくしていると思うわ。

アシ「〈まんがの妹〉の歌としっかり見比べさせていただいたおかげで〈てのひらの弟〉の特殊性がわかりやすくなった気がします。ばらばらに読んだら、どちらも『ふしぎな味わいの歌』ぐらいで済ませてしまったかもしれません。」

司会「そろそろ次に行ってよろしいでしょうか。」

■マッチ箱の中の父母


▼ひとつだけほんとの父を入れてあるマッチ箱からとりだすマッチ
土井礼一郎『義弟全史』

司会「ありがとうございます。こ、これはまた、なんともおもしろい、というか、なぜかハラハラもしますね。まるで、まるで……。」

花子「ルシアンルーレットみたい!
いつのまにか本物の父を燃やしちゃいそうだもの。
『入れてある』んだから、わざとそうしてある。意識することなく父を葬りたいのかしら。」


アシ「父との葛藤は、古くからあって、ちっとも古びない重要テーマです。ついでのように語れるテーマではありません。
が、この歌ほど優位な位置取りで、「意識することなく父を葬れるシステム」を描いた歌はあんまり見たことがないような……。
 でも、現実にはこういう思考ってよくあるのかもしれません。決定的な〈執行〉を意識しないでいつのまにか済ませられたら、みたいな。」

司会「あ、いらっしゃいましたよ。」

▲偽物のわたしを抱いて偽物のママが眠っているマッチ箱
木村友 2017・11東京文フリ:フリーペーパー

司会「これはまた何と、共通点が多いですね。
マッチ箱・母、そして本物じゃなくて偽物というのは表裏一体みたいだし。
歌合でもなかなかこうは共通しません。」

アシ「どちらも、マッチ箱は棺みたい、というか、まだ死んでないけれど、近い将来に燃える。死が予定されている。そこが共通ですね。」

鱶助「動詞を見比べて、誰が能動的なことをしているのかを見た。
 父の歌のほうの動詞は子(主体)の行動の「入れる」「取り出す」である。〈子〉は〈本物の父〉をマッチ箱(ルシアンルーレット的で、いずれ確実に死ぬ装置みたいな棺)に入れた。
 母の歌の方は、出てくる動詞「抱く」「眠る」はママの行動である。ママの能動性が大きい。ただし、『見ている』と書いてないけれど、全体として、子(主体)は、〈偽物のママの能動性『見ている』。」

花子「そのせいかしら。この〈偽物のママ〉はなんか子を道連れに親子心中をしようとしてるみたいなじゃないかしら。〈偽物の母子〉はもろともに燃えてしまうのよ。ーーそういえば、マッチってたまに二本くっついてるじゃない。あの道連れ感よ。

アシ「ママが偽物で良かった、と、ちょっと救われますよね。」

花子「そこよ。その、噛み切れないグミみたいなニュアンス。本物のママにもそういう怖いところ、危ういところがあるわよね。そのことを思い出させるの。」

司会「え?ママが怖い?」

花子「怖いわよ。私ら植物から見ると、だって人間は危うい。母親だってそれ以前に普通の人間でしょ。いろいろな弱さが合って、そこに愛とか責任とかいろいろな負荷がかれば……」

司会「そんなのレアケースでしょ。」

アシ「そのレアケースは誰にでも起こり得る。母親はみんな危険性を孕んでいる、とは思いますね。」

司会「そ、そういうふうに考えることが嫌なんですよ。母親になったらもう普通の人じゃなくなる、と思いませんか?」

アシ「ぜーんぜん思いませんし、そういう考えかたこそが母親を追い詰めるんです。」

花子「まあまあまあ。
 ママゴトって、お人形もおもちゃの食器もみんな偽物だけど、けっこう現実を投影しているでしょ。
 空想の家族詠であることが明確な場合は、〈偽物の〉と断る必要はないのよ。
 でもこの歌の場合は、ほんの少しの現実味が怖いから、悪夢にならないように、いわば呪術的発想で、偽物の〉とはっきり打ち消してあるんじゃないかしら。そのぶん怖さを薄めつつ、でも詩的濃度も高めている。そんな感じ。

アシ「で、〈父をマッチ箱に入れる〉歌も、現実との関係は心のママゴトであり、〈ほんとの〉と言わなければ父は完全に空想の父です。それを〈ほんとの父〉と言うことで、現実とママゴトの関連性が強まります。〈マッチ箱入れる・取り出す〉というママゴトは、現実面に投影できる可能性が強まっていると思います。」

花子「空想の世界に現実が投影されるのは、ま、当たり前よね。
その逆に、空想の世界、イメージ領域のことが現実に投影して、現実に影響を与えることもあるよね。フツーにあるけど、こちらは認知度がやや不足してるわ。」

司会「現実面に投影とは、たとえば?」

花子「たとえば、親を介護施設に入所させる時とか、この歌を思い出しそう。」

アシ「あ、でも、現実に具体的に介護施設だのの個別ケースまでは、いま考えないでいいと思います。
だいじなのは、主体が、『父』に対して支配的であること。さっきの〈てのひらの弟〉と同じで、この〈ほんとの父〉も、主体の手中にあります。
とにかく、父親にたいしてここまで極端な優位性を詠む歌はあんまり見かけないかもしれません。」

花子「あのさ、虫を捕まえてマッチ箱に入れることってあるよね。」

アシ「ははぁ、他の歌人には適用できないけど、この作者なら『虫』とイメージが重なるのってあるでしょうね。」

花子「それそれ。なにかの菓子で、箱を切り抜いて組み立てるとおもちゃになる、というのがあったでしょ。この作者の歌は、『これって虫だったりしないかなもしかして』と考えるおまけつき。考えた人は三文の得。」

司会「え?」

花子「ま、いーからいーから。
じゃあ次! もういっこ空想の家族の歌。おいでー。」

■死にやすい姉


姉の足裏が地面につくたびに姉すこしずつ死んでしまえり
 土井礼一郎『義弟全史』

司会「おお! これはなんというか、ガガンボみたいな。
 あ、君がさっき虫がどうとか言うから、ふと変なことを考えたじゃないですか。」

花子「シカちゃんて、ほんとはけっこう鋭いのに、わざとやぼったいふりをしてるんじゃないの?

司会「いやいや」

花子「歌にはガガンボと書いてないけど、ガガンボって地面とか壁とかにそってふんわりふんわり足をつくように飛ぶのよ。
 どでかい蚊みたいな外見だけど、刺さないんだって。」

アシ「昆虫はだいたい短命で、脆弱な体のものが多いですよね。
 ガガンボは二週間ぐらい生きるらしいけれど、体の作りがとにかく脆弱で、足なんかすぐもげちゃうそうです。そういえばバレリーナに例えた歌もありましたよ。」

●バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

司会「おお、いらっしゃい。ガガンボにはたしかにこういう儚さと女性らしさがあると感じます。〈足裏が地につくたびに少しずつ死ぬ姉〉というイメージの元に、ガガンボ、あるいはカゲロウとか、儚げにふわふわ飛ぶような虫のイメージがあります。」

鱶助「空想の家族にも人気不人気が多少ある。『姉』は兄弟姉妹のなかではいちばん短歌に詠まれにくい。つまり歌数が少なめである。また、きちんとカウントしたわけではないが、歌の中で死んでいるものとして詠まれることが、兄弟妹より多めであるようだ。(といっても大差ではない。姉の歌を100首集めたら2首か3首ある程度にすぎない。)
 ちなみに兄弟姉妹のなかで『妹』は最もたくさん詠まれている。が、なぜか
歌の中ではめったに死なないようだ。」

鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
 寺山修司『月蝕書簡』(未発表歌集)2008

司会「いらっしゃい。似ているかというと似ていないけれども、海で夜ごとに溺死、っていうのは、足を地面につくたびにすこしずつ死ぬことと、同じではないけれど、少し近いかとも思えますね。『姉』のイメージにはそういうタイプの悲劇性があるのでしょうか。」

鱶助「確かにどちらも、一気に終わらない。じわじわ長引く感じだ。」

花子「でも、わためとソフトクリームぐらいに死の質感が違う。」

鱶助「『兄』にはウエットな悲劇性があって悲しんでもらえるが、『姉』の悲劇は人しれぬところでじわじわ続くような……。
 しかし、多くの例歌を読んでからでないと、そのニュアンスを語りにくいので、姉の悲劇性の話は別の機会にしよう。」

アシ「で、虫は進化の系統樹ですごく遠い種族ですが、「姉の足裏が……」の作者は、『虫』に特別な思い入れのある歌人です。そんなにも遠い種族に「姉」とか「弟」とかの血縁意識を抱くようです。」

司会「では次。」

■きょうだいと指(+たたかい)

▼弟のてのひらに手を託すときなかゆび同士の奏でる軍歌
土井礼一郎『義弟全史』

▲きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』

司会「あ、ソッコー降臨。」

花子「高柳というのはこのブログの管理者。そのコネで出てきたんじゃないでしょうね。」

司会「いやまさか、二つの歌にはちゃんと共通点があるじゃないですか。
 兄弟であること、指を触れ合っていること、そして『軍歌』と『ちゃんばら』。
 ここまで重なれば、見比べる意味はじゅうぶんあるでしょう。」

花子「どっちの歌もなんかエロい!」

司会「ちょっと言い方がどぎつい。マイルドに。」

花子「やだ。」

アシ「エロくはないでしょう。兄弟は日常的に触れ合って遊ぶ仲。その親密さが表されていると思います。」

司会「『ちゃんばら』は兄弟の遊びとして自然ですが、『奏でる軍歌』って何のことでしょう。あ、軍国主義の時代のことを詠んだとか?」

鱶助「いや、そういうふうに現実を描写しているのでないだろう。
兄弟はよく喧嘩するが、対外的には結束する。軍歌を奏でるというのはそういう味方同士だぞという結束を意味しないだろうか。」

アシ「どういう解釈にしろ、『弟のてのひらに手を託す』というのは珍しいですよね。弟のほうが手が小さい。幼児とか赤ん坊とかの弱い小さな手に、自分の手を委ねる。そのときの指のふれあいから、味方同士になって軍歌を奏でるということでしょうか。」

花子「これも虫として読んでみる価値があるんじゃない?
トンボや甲虫のいる虫かごに指を入れると、虫が人の指にしがみつくことがあるでしょ。あの小さな力ときたら。
 で、昆虫って機械っぽいでしょ。ミニチュアの軍隊を手に入れたような気分っていう解釈も成り立ちそう。」

司会「ところで、『義弟全史』には父母兄弟姉妹はみんな詠まれているんですか?」

鱶助「兄と妹はでてこないようだ。」

司会「ほう! じゃあ父母の歌をもっと呼んでみますか。」

アシ「え、でも、父母の歌は世の中にいっぱいあって、だからその……。」

■利いた風なことを言う父


▼ひと幕に役者はふたりってまだなにも知らないくせに父はつぶやく
土井礼一郎『義弟全史』

花子「〈なんか効いた風なことを言う父〉ね。
 これって短歌ではけっこうレア物じゃないかしら。

司会「確かに。現実にはいっぱいいますが、短歌ではあまり……。」

▲人間はちっぽけなものだと五合目で言うな父さん富士山顔で
山下一路『スーパーアメフラシ』

司会「おお、これは感覚的に近いですね。昔なら『父』の欠点など詠まなかったけれど、このごろ人間臭くなってきて、こういう詠み方もあるんですね。
ところで、なんだか頭上が暗くなってきたような……。」

アシ「歌人はみんな父や母を詠みますから、父母は歌数が多いんですよ。『父母を詠む歌』というのを聞きつけて何千何万が押し寄せて来てしまったのです。
父母に関する歌は条件を絞り込まないと収拾がつかなくなっちゃいますよ。」

司会「わあ。すみませーん、父母の歌のみなさーん。お騒がせして申し訳ありませんでした。日を改め、条件を絞り込んでお呼びしますので、今日は解散してください。すみませーん、すみませーん、すみませーん。」

ーー上空がざわめき、ごうごうと鳴ったが、やがて静まった。

司会「やれやれ、今日はここまでにしましょうか。」

全員 賛成

2024・08・26




ざつだん

アシ「『姉』は家族の犠牲になる、っていうシナリオがありませんか? 身売りして花魁になる的なモチーフがあるような。
ーー貧しさゆえに身売りした姉が、妹がそうならないように心配するーーみたいなのが何かの歌詞にあったし、映画でも花街の女がそういう話をするのを見たような……。」

花子「現実のじゃなくて、あくまでイメージの話だけど、兄と弟の関係より、なぜだか姉と妹ってなんかどろっとしてるわねー。」

司会「もうよしましょうね!」

2024年8月22日木曜日

ちょびコレ31 カラシニコフ

 「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、

そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


砂は降る みひらく秋の瞳孔に一億丁のカラシニコフに
佐藤弓生『薄い街』

カラシニコフのやうなれんこんの重さいやかんがへさせてもらはう
平井弘『遣らず』2021

辛子がらみのふまじめはれんこんの重さがカラシニコフのやうで
平井弘『遣らず』2021

内戦の国にかならずカラシニコフありて九十四歳に死す
松木秀『色の濃い川』

地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る
嶋田恵一「かばん」2024・8

 瞳孔、れんこん(カラシ〉。
 カラシニコフはそういう連想脈を持っている。

 最後の嶋田の歌を見て考えたのだが、ヒトをなんども滅ぼすに足る武器はカラシニコフだけではない。たとえば核兵器は地球を十個破壊できるほどあるそうだ。
 つまり、殺傷力から言えば核兵器のほうが大きい。が、試みに上の句が「地球には一万発の核爆弾」(実際には一万七千とからしい)だったらどうだろう。

仮に置き換えて比べてみる
地球には一万発の核爆弾 ヒトをなんども滅ぼすに足る
地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る

 これは迷わずカラシニコフに軍配だ。
 一万より一億のほうが多いし、人が手に持って使う「殺し合い」の生々しいむなしさがあるし、そういえば人名みたい。カラシニコフを手にした人に憑依して、みんなカラシニコフさんになってしまいそうだ。

 しかも、その一方、「カラシニコフ」はなんとなく植物名ふうで風情もある。雑草の「ヤブガラシ」などがはびこるさまが、言語野のすみに見え隠れする。

 もっと変な名称(日本語的に発音しにくくて風情がないような〉だったら、歌にこんなに詠まないだろうと思う。

 (NHKの「映像の世紀」で2024年5月20日に「一億丁のカラシニコフ史上最悪の殺人兵器」を放送した。時期的に嶋田の歌はそれを見て詠んだ歌かもしれないが、そうでないかもしれないし、それはどうでもよくなるだろう。〉

2024/8/22

2024年8月15日木曜日

ちょびコレ30 ぼろぼろ聖

 「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
ぼろぼろ聖の絵


そんな、ちょっとした短歌コレクション、
……でしたが、
このごろは、ちょっとでないコレクションもここに分類しています。

今回は、ホームページ「ふれたん」のほうに掲載したものですが、
それも「ちょびコレ」としてリンクしておくことにしました。


■ぼろぼろ聖

短歌に詠まれた「ぼろぼろ」という語を読み比べながら鑑賞しました。

ぜひリンク先ぼろぼろ聖を御覧ください。

以下の歌をコメント付きで紹介。
そのほかにも「ぼろぼろ」を含む歌をコレクションしています。

※忙しい方は、以下だけでも御覧ください


年寄や子らの手をひきてあてどなく春はぼろぼろになりて去ぬらむ
前川佐美雄『大和』

やさしさの扇の人を想うときぼろぼろこぼれゆくふるさとは
三好のぶ子 「かばん」2001

倒された怪獣たちの骨のため都会にしずむぼろぼろの雪
井辻朱美 『クラウド』

空白の多いアルバム ぼろぼろの家族を螺旋の金具が綴じる
田中槐 『退屈な器』

ぶだうぼろぼろぼろぼろこぼれ東北の膨大なかなしみをどうする
小島ゆかり「短歌」2012・1自選作品

エアコンのスイッチ押せば冷風のかはりに出づるぼろぼろの蝶
嶋田恵一 「かばん新人特集号」2015

1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン
永井祐 『日本の中でたのしく暮らす』

髭もじゃのだるまに口づけぼろぼろになるまでわたしを使ってみたい
雪舟えま 『たんぽるぽる』

ニーソックス片足立ちで脱ぎながらいつかわたしはぼろぼろになる
田丸まひる 『硝子のボレット』

だるまさんがころんだあとの世界へとむかいましょう ぼろぼろのタイヤで
笹井宏之『てんとろり』

つむじから風は螺旋に身をくだり足にはぼろぼろのコンバース
山田航 「かばん」(新人特集)2010


2024年8月4日日曜日

ちょびコレ29 戦争と空・青


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、

「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


■戦争と空・青


かの夏の空の青きを言ひ継ぎしのみに果てたるらしも「戦後」は
成瀬有『流されスワン』1982


私は戦後生まれですが、言われてみれば確かに、戦争を詠む歌で青空をよく見かける気がします。

戦争に限らず言葉に尽くせないような悲惨な出来事があると、それでも何事もなく澄んだ空の真っ青というものを言葉にする、という心理が働くのでしょうか。
また、追悼歌に空が詠み込まれる傾向もあります。こちらは、死者を清い空へと見送りたいからなのかもしれません。多くの人命の失われた戦争を詠むとき、この心理も関わって来るでしょう。

テキスト検索で探せる範囲ですが、少し探してみたところ、「戦+空」だけでなく「戦+青」の歌がけっこうあるようでした。

ただし、「空」も「青」も、何にでも使える万能の人気語。何にでもくっつくから、戦争との組み合わせも多くてあたりまえ。
ですから、多いだけでなく、ここになぜ「空」が(「青」が)必要かという必然性を検証しなくちゃいけないかなあ、と思いつつ、いやいやいや、それはちょっと荷が重いから、とりあえず、いくつか目についたものを拾いあげておくだけにします。

大きなる鏡には蒼穹全体をうつして鏡の奥に特攻 渡辺松男
ルビ:蒼穹【そら】
短歌ムック「ねむらない樹」2022・8

敗戦日 空また晴れて日晒しの青姦のやうな日本も見ゆ
ルビ:青姦【あをかん】
日高堯子 『睡蓮記』2008

なにごともなかった空に無数の風船そして戦争は終わったの?
吉田竜宇「率」2号

戦争を知る人はみな老人の 空がこんなにうすい夏です
東直子「短歌往来」201409

人も猿も戦い疲れ死ににけり無音の空に昼の月泛く
ルビ:泛【う】
谷岡亜紀『ひどいどしゃぶり』

青きミルク卓にこぼれて妹が反戦をいう不可思議な朝
大野道夫『秋階段』1995

2024,8,4

2024年8月3日土曜日

ちょびコレ28 星になる・星になれない

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、

「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

■星になる・星になれない


高度4メートルの空にぶらさがり背広着しゆゑ星ともなれず
寺山修司『寺山修司青春歌集』

コレクションの発端は、上記の歌を見て、「星にならない・なれない」と詠む歌がときどきあると思ったこと。

びかびかの星にもなれぬ水煙をあげて来たりし象は倒れき
山下一路『あふりかへ』1976

霜は花と咲きて凍れる冬の詩を星とならざる射手にささげむ
三枝昻之『やさしき志士たちの世界へ』

春の星座になりそこなった白熊が眠るよ春の星座の下で
ひぐらしひなつ『きりんのうた。』2003

笑い上戸は星になりそびれるんだ親知らずなんか抜かなくていい
瀬戸夏子『ずぶ濡れのクリスマスツリーを』 

次の歌は「星」でなくて「星間物質」。

にんげんは爆発しないで死んでいく星間物質になれない理由
ルビ;星間物質【ダークマター】
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

南の島で父の落とした勲章をボクが拾う死んでも星は増えないのに
山下一路『世界同時かなしい日に』(第3歌集2024年12月刊行予定)



ここでハタと、
「星にならない・なれない」というのは例外であり、「星になる」がモトであると気づきました。

「星にならない・なれない」を理解するには「星になる」を理解しなくちゃ、ですよね。
というわけで、順序がおかしいけれど「星になる」も探してみました。

このうへもなき行のただしさいつか空にゆきて星となりたる
ルビ:行【おこなひ】
前川佐美雄『植物祭』

人間が死んだら星になるのなら夜でも空は明るいはずだ
松木秀『RERA』

洗いすぎてちぢんだ青いカーディガン着たままつめたい星になるの
北川草子『シチュー鍋の天使』

星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の聲
与謝野晶子『みだれ髪』

想われているかも知れぬわがからだ星となり極北の空よぎり飛ぶ
高安国世『北極飛行』1960

沈黙が金になるまで真夜中の長距離バスが星になるまで
植松大雄(出典調査中)

君とゐて日本語の星空となるわが口蓋のプラネタリウム
小川真理子『母音梯形』2002

舞いあがるいちょうの黄が星になる都会の空も僕もだまし絵
るび:黄【きい】
神﨑ハルミ(作者hp)

流星となりて銀河を渡らんと彦星俺は酒をあおりいつ
ルビ:酒【しゅ】
依田仁美『異端陣』2005




うーむ、なんだかまだ考察を加えるほどではないかなあ。
変に中途半端に納得して読んじゃってる気がして、
その理由がわからない……。


2024・8・3


いかがでしょ。