2024年7月30日火曜日

ちょびコレ16 聞き間違い、読み間違い、見間違い

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

2年ぐらい前に書いたものですが、内容を全面的に整理して再公開します。
2024・7・29 

1 言葉の見間違い


言葉のまちがいで、AをBと読み間違える、というような歌をあつめます。

連休が遺体に見える 連休は天気保ちそう沖縄以外
斉藤斎藤 角川短歌H24/1自選作品


さらさらをさよならと読みまちがうを春愁という 眩しき液晶
ルビ:眩【まぶ】
神﨑ハルミ(出典調査中)

人間臭いを人間魚雷と聞きまちがえて島の漁師が戦争をする
山下一路『スーパーアメフラシ』2017


エンジェルを止めてくださいエンジンの見間違いだった地下駐車場
戸田響子『煮汁』2019

シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も
内山晶太『窓、その他』2012

青の字をまたまちがへて春になるそれを塗りつぶせず二重線
山階基 (風にあたる拾遺2012-2015)

古漬が古墳にみえるくらいには疲労していた 皺皺のレシート
吉野リリカ 「かばん」2024年7月号

解説を解脱と読みて気がつかず頁に広がる文字の大河よ
武富純一『鯨の祖先』2014

蕪と無が似てゐることのかなしみももろとも煮えてゆく冬の音
荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

草かんむりを載せてこの世をわたりゆく母が苺となる夏の朝
荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』2022


■事象の見間違い

言葉だけでなく、何かを何かとまちがえる、「AとBを間違う」「AがBに見える」という歌もおもしろそうで、探したらけっこうあった。
間違いとは違うが「AがBに見えてくる」も拾った。

くしゃくしゃの紙を広げて雪山の立体地図と見間違えたい
ながや宏高2015/3「かばん新人特集号」

水滴が小さな魚に見えてくる雨の匂いにしずまる真昼
東直子『青卵』

皮を剥がれた兎がリボンに見えるまでナチ将校のダンスを思う
江田浩司(出典調査中)

オカリナの音がなければ全力で爪を噛んでるやうに見えた、と
光森裕樹『うづまき管だより』

ひとりひとりがさびしい熊に見えてくるあの頃は愉しい敵だつたのに
岡井隆『テロリズム以後の感想/草の雨』

丸めたるタオルが怪物に見えてくる怖くなったら風呂を出なさい
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

三日月がバナナの房に見えるほど乱視であった過去の日本は
中沢直人『極圏の光』

待ちあはせしたる子が裸子植物に見えてくるなりグリーンの服
寺島博子『白を着る』2008

はやく家に帰ろう街の電柱がみんなアルデンテに見えてくる
虫武一俊『羽虫群』

あなたには正装した子供に見えるサボテンが点々と門まで
我妻俊樹 本人のブログ「喜劇 眼の前旅館」2010-03-21

齧り終へし林檎の芯がエンタシスの柱の象に見えてくるとき
高木佳子『玄牝』

印画紙を滑り落ちてく酢酸が涙に見える暗室は海
柴田瞳 詩客2021年02月06日

コスモスの揺れの間に間に見えてゐし日本手拭があなたであつた
永田和宏「短歌往来」H23/7

いかがでしょう?

事物や文字の外見が似ていて見間違えること。
それがどうして、こんなにも、何か詩的な意味を感じさせるのか。

このことは、たぶん、「なぜだじゃれはなぜおもしろいのか」ということに繋がるのでしょう。
だじゃれは、別々の意味の言葉が偶然に同音であるということ。
だから、別々のものの外見が偶然似ていることは視覚のだじゃれです。

だじゃれは、言葉にしろ視覚にしろ、単なる面白さ以上の何か、感覚的かつ知的・神秘的な刺激を含んでいると思います。

2024・7・29


2024・8・10追記

虐待のギャクはヨだっけEだっけ二文字目なんで「待つ」なんだっけ
山田航『寂しさでしか殺せない最強のうさぎ』

ピアノとシューベルトの相性くらい赤ペンと青ペンを間違えたくらい
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

新緑のゴールドラッシュに沸く森で撃たれよ鹿とまちがえられて
穂村弘『シンジケート』1990

ぽっぽっぽ豆と皇潤を間違えて撒けば元気な駅前広場
谷じゃこ『ヒット・エンド・パレード』2016

秋深し「自殺す暗い人」といふ空耳はああ、ジーザス・クライスト
ルビ:空耳【そらみみ】
大塚寅彦『夢何有郷』

さもしいとしるしたはずがさみしいとよみちがえられなぐさめられて
久保芳美『金襴緞子』

ギララアとおもはず読みておどろきぬ昭和十三年の「アララギ」
窪田薫(出典調査中)

「モキチキ」とするとコンビニで売っている物のような気のする茂吉の忌
松木秀『親切な郷愁』

俳句
ひとみごくうの瞳のうごく花野かな
田島健一『鶴』(電子書籍)2011

2024年7月22日月曜日

ちょびコレ27 銀河とオーバーラップするもの

「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)

■銀河とオーバーラップするものたち

形状の類似するものはオーバーラップする。
詩歌表現には欠かせない表現である。

いや口が滑った。詩歌に、と言ってしまったが、他ジャンルのことまでは口出しすまい。
少なくとも短歌にはその現象が起きている。

「銀河」というものは渦巻いているので、その渦巻きのイメージが詩的に仲介し、似通う他のもの(回転するもの、輪が重なるものなど)とオーバーラップした歌が、けっこう詠まれている。

現物に備わっているアフォーダンス
言葉に備わるアフォーダンス
みんながそれに注目すれば、アフォーダンスの力が増すこともある。

※アフォーダンス=環境のさまざまな要素が動物に影響を与え、動物はその環境に適合した行動をとること。つまり、環境(状況とかモノのたたずまいとか)が、動物(人間含む)に何かを仕向けること。
ここで言いたいのは、銀河というもののたたずまいや、「銀河」という言葉が持つイメージが、私たちになにか働きかけ、その結果として歌を詠むことがある、ということです。

とりあえず目についたものだけ拾ってみよう。


ハナミズキ巻けるしら花ひとひらのその渦のなか銀河はひかる
加藤孝男『曼茶羅華の雨』 

銀河とは誰の観覧車であろう回転をして止むことのなし
松木秀『色の濃い川』

金色の渦のさなかに暮らしをり 小佐野家、または銀河一族
小佐野彈『銀河一族』

生まれ変はつたやうに銀河の濃き夜を子らに大きな水車が回る
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

しゅんしゅんとスプリンクラー回りだし銀河はゆるく解かれてゆく
天道なお『NR』2013

底なしの思ひ出、女、スカアトのなかのつめたき渦巻銀河
佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』

天井の木目の渦がゆっくりと銀河に溶ける 死を知りそめて
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

暁のわが腕のなか渦巻ける銀河のごとく眠る猫あり
ルビ:暁【あかとき】
成瀬しのぶ かばん1999・5

★生命を爆誕させそうな丸いものという連想脈も

渦には躍動感があるし、ビッグバンの意味合いもあるし……、渦から転じていくつかの発展もある。

乳いろの銀河はいずこ祖母たちのしずかに紡ぐ幾億の繭
岩尾淳子『岸』



★「静か」というのも注目に値する


みどりごは銀河のやうにかたはらに置かれてしづか秋の産院
喜多昭夫『青霊』2008

あさがほの黒くしづもる種のなかうづまき銀河は蔵はれてあり
春野りりん『ここからが空』

しんしんとゆめがうつつを越ゆるころしずかな叫びとして銀河あり
中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』


ふゆ銀河うづまくごときじやくまくのあなうらとふをひとにみらるる
渡辺松男『雨(ふ)る』2016


「かばん」2024年7月号の評をいま書いていて、次の歌を発見した。

ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希「かばん」2024年7月号


なかなか興味深い歌である。

新しいイメージの定着は、一般的に、最初は詩的序列の高いもの(短歌では短歌に詠み慣らされて抒情性をたっぷり含むような語)と結びつくが、それが一段階進むと、より一般的な語へと広がっていく傾向があると思っている。

銀河の渦も「花」や「水車」などとのオーバーラップは、それらの既存の抒情性に頼れるわけだが、「ナポリタン」の巻き取られているさまとのペアリングは、一段階進んだ感じではなかろうか?

もう1点、「生む銀河」といえば以下の歌を思い出す。

サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように涼しい
大滝和子『銀河を産んだように』1994

さっきピックアップした中にも「繭」だとか「みどりご」だとか、
銀河を「生まれたもの」、これから育つものと把握している歌があった。
そして、かつて「生」といえば、対比的セットの概念は「死」だったと思うけれども、この「生/死」セットが詠まれすぎたか、このごろ変化して、「生/生命を食べる」という対比を見かけるようになってきた。

つまり、以前ならば、生まれた銀河は死に至る、と空想しがちだったわけだが、この歌は、
銀河の死でなく銀河を食べる、と書いている。この点はけっこう重要かもしれないと思った。

2024・7・22

2024.7.23 少し加筆修正しました。

2024年6月24日月曜日

雑件摘録4★語感の素敵2


1★ZINE(ジン)

お酒かと思ったら、小冊子のことだという。マガジンのジン、らしい。

検索してみると、個人やグループが自由な手法、好きなテーマで制作した冊子のこと。
文フリで見かけるあれかあ、と思ったが、驚いたのは、それを「新しい表現方法」と紹介していることだ。

なるほど、ネットなら珍しくないが、紙媒体でそれをやるのは、「新しい」ことなのね。


2★ゴリラ鯨雨

「ゲリラ豪雨」というのがあって、ちかごろの雨は風情がない。

ただひとつ面白いのは、しょっちゅう「ゲリラ」を「ゴリラ」と言い間違えること。
間違えずに踏みとどまれても、もう脳裏でゴリラと鯨が相撲をとっている。

※「ゲリラ雷雨」という言葉もあり、なぜかこちらはあまり言い間違えない。


3★筆記の擦過音をなにかに〝聞きなす〟

〝聞きなし〟の代表例は、鳥の声を「チョットコイ」などと人の言葉のように聞くことだ。

筆記のときの、スラスラ、サッサッという擦過音。
そのリズムや強弱を、何かに〝聞きなし〟てしまう動画があった。
究極の空耳アワー。気のせいだろ、と言いたいぐらいに微妙。

しかし、「何かが別の何かに聞こえてしまうと、もうそうとしか聞こえなくなる」という、言葉の現象は、けっこう強力なもので、しかもなんだか愛らしい。

 この人間の言語能力って、猫が動くものにじゃれるのと同じく、きっと本能なんだろうな。
こういう動画、たまにあるので、ぜひ探してみてほしい。


4★何にでもつく言葉

「それにつけても金の欲しさよ」

これは何にでも付けられるフレーズとして知られている。
よく知られた百人一首のこの歌にくっつけてみよう。


花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに
  それにつけても金の欲しさよ

おお、けっこう馴染むじゃないの。
人生の儚さを詠む歌から風情をかき消して、
高齢者の貧困問題を詠んだ歌になる。


牧水のこれはどうだ?

 白鳥は哀しからずや
  空の青海のあをにも染まずただよふ
   それにつけても金の欲しさよ

 白鳥が空を漂いながら、お金でも落ちていないかと下界を見ているみたい。
 花より団子的、ポエジーより現金という感じ。


で、最近おもしろいと思っているのが、「知らんけど」だ。
「真偽はわからないよ」と免責を得ようという意思表示なのだろう。

関西弁の「知らんけど」という5音は、免責というか、軽くおどけてフェイクを楽しむニュアンスもあるみたいに聞こえる。

(私が言っても、あの関西弁の味が出ない。)


さっきの歌に付けてみると、ううむ。

花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに 知らんけど

いきなり現実に引き戻すところは、「それにつけても・・」と共通している。

白鳥は哀しからずや
 空の青海のあをにも染まずただよふ 知らんけど

イメージを書くのが歌の言葉だが、白鳥の気持ちなどわかるもんか、と免責的に付け加えるところがおもしろい。

 短歌を膝カックンしてるみたい。


2024/6/24



2024年6月4日火曜日

ちょびコレ26 ~のまにまに(随に)

  「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


2024年4月18日 ~のまにまに(随に)


「波のまにまに漂う」などと使われる「まにまに」は、
死語ではないが、文語っぽくて、普段着のコトバとしては気取った感じになる。
そういえば、百人一首に
 このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢのにしき神のまにまに
 菅原道真
というのがあったっけ。
この歌の「まにまに」には、「神のご意思のままに」という意味に加えて、多くの紅葉が揺れるの擬態語のような効果もあるようだ。

こういう有名な用例もあることだし、短歌の言葉の領域なら、文語っぽさはもとよりあまり気にならない。さりげなく上品なこの響きは、歌人ならほっとかない魅力があると思う。
(あらやだ、私ったらまだ使ったことがない!)

myデータベースで検索してみたら、128672首のなかの32首に使われている。
これはまあまあ多いと思う。
(ちなみに俳句は1句、川柳はナシだった。俳句川柳は短歌より総収録数が少ないとはいえこの差は大きい。)

「まにまに」の意味や用例
 もし試験で「まにまに」を使った例文を作りなさいという問題が出たら、
「流されたボールが波のまにまに漂う」
と書くだろう。
ネット検索してみると、「波のまにまに」「風のまにまに」は歌詞にしばしば使われているようだ。なるほど、風まかせ波まかせという気分は歌になりそう。

 念のため辞書を見た。知ってるつもりでも以外な意味があるかもしれない。
●デジタル大辞泉
 1 他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
 2 ある事柄が、他の事柄の進行とともに行われるさま。…につれて。…とともに。
●学研全訳古語辞典
 ①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。
 ②…とともに。▽物事が進むにつれての意。

なるほど。私の解釈はほぼこんな感じではあったが、ちょっと足りないとも思った。
の辞書の説明をはみだす用例もあると思いませんか。
●見え隠れするような感じ。
つまり「間に間に」のような感じで使っていることがあると思う。

 本来の意味にないとしても、そういう使い方をする理由はわかる。
 例えば、「ボールが波のまにまに漂う」には、波まかせという意味に加えて、擬態語的な効果もある。波の意のままにゆらゆら漂う感じや、波の間に見え隠れするかのような視覚効果が。
 だから、軸足をこの視覚効果のほうに移して用いるケースがあっても違和感は少ない。

いろんなもののまにまに?

 では、私のデータベースのなかにあった「まにまに」短歌は、何のまにまにを詠んでいるだろう。
カウントしてみた。

1 10首 風
2 4首 霧(靄含む) 
3 3首 生(命含む)/波(潮含む)
4 2首 揺れ
5 1首 雲/指示/皺/負け/成り/まばたき/群れ/医師/君/鳥

「風」が圧倒的に多かったが、珍しいもののまにまにもあった。
内容を見ると、「風」のような順当なものもちょっとひねりが効いていたりして、おもしろかった。
以下、少しピックアップしておく。


鳥のため樹は立つことを選びしと野はわれに告ぐ風のまにまに
大塚寅彦 『ガウディの月』2003

右岸左岸ひとしく今日を捨てていく風のまにまに 元気をだして
北山あさひ 「詩客」2013年9月27日

そよろそよろと風のまにまにゆれやまぬ池の辺三本小杉の穂先
加藤克巳『游魂』

村道の靄のまにまにかたむいて杭はかがやく乗物を待つ
佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』 (現代短歌クラシックス04)

霧のまにまに釣り人みえしぬまべりに霧晴れたれば釣り人をらず
渡辺松男 『時間の神の蝸牛』2023

うつせみの生のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ
斎藤茂吉『ともしび』

海月らが波のまにまに愛し合う氷菓窓辺でくずれる夕べ
天道なお『NR』2013

この大地震避くるすべなしひれ伏して揺りのまにまにまかせてぞ居る
北原白秋『風隠集』1944

つひに還らず空の神兵、銀蝿を連れておほきみの負けのまにまに
塚本邦雄「短歌研究」平成8年11月

まばたきのまにまにこの身に冬の陽の黄なる光の入り溜まるかも
稲葉京子(出典調査中)

山川の成りのまにまに険しきを踏み通りつつ狭霧に濡れぬ
ルビ:険(こご)
斎藤茂吉『あらたま』

 飼猫をとぢこめしかどいつしかや葬のまにまに猫の居りけり
森岡貞香 『百乳文』

 冬山の寺の木ぬれになつめの實はつかに殘り鳥のまにまに
ルビ:冬山(ふゆやま) 木(こ)
斎藤茂吉 『連山』 

気づけばアバの♪マニマニマニー(ABBA:Money Money Money)を鼻歌で歌ってた。


2024・6・4


ちょびコレ24 海岸線という線

 「ちょびコレ」とは、

「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。

(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


2024年5月1日 海岸線という線

 すごく詠まれていそうだと思って探してみたら意外に少ない感じがした。本日の「闇鍋」短歌データ128,830首中13首だった。
 いろんな捉え方があるのが楽しい。少しピックアップ。


美しきかたちと思う忠敬の結びあげたる海岸線を
ルビ:忠敬【ただたか】
吉野亜矢『滴る木』2004

 見ている地図に伊能忠敬が生じ、いきいきと旅をするような感じ。そして、RPG等のゲーム画面で、地図上を移動するキャラを見るような視点がおもしろい。
 ゲームでは、攻略した場所だけ地図がはっきり表示されるし、達成することでキャラが成長する。伊能忠敬が地形を攻略していく能動的な明るさが感じられる。

神の手が海岸線をなぞるように男鹿半島はやさしく走れ
柴田瞳(出典調査中)

 こちらの歌では、主体は海岸線にそって車で走っているらしい。
 つまり実際の地形のなかにいて、鳥瞰した地形を思い浮かべながら、いわば、神の指先になって、体感として海岸線をなぞっている。この点に注目した。
 
ひるがほがまひるの海岸線となり輝りぬればうみへうみへ死者たち
渡辺松男『雨(ふ)る』2016

 「ひるがほ」が連なって咲き輝いて「海岸線」のように見える。その光景は美しいけれど、線を引くということは、何かと何かを隔てることだ。生命感あふれる「ひるがほ」たちの連なりは、「死者」を海の側へ追い立てる。--というふうに私は読んだ。

あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
山下一路『スーパーアメフラシ』2017

  「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
 そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
 この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
 (そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
 そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。 
 そういう光景だと思われるが、いかが?

トンネルを数へつつゆく海岸線途中から海を数へてしまふ
小林真代『Turf』2020

 列車に乗っていて、トンネルと海が交互に目に入るような体験を、いつかどこかでしたことがある。トンネルだトンネルだとはしゃいでいたのが、いつのまにか海だ海だになっている。関心の対象が変わる。そういうふうに心境は往々にして、自然に変化・逆転することがある。
 楽しい歌であると同時に、こういうふうにいつのまにか目的を取り違えて突き進んでいることがあるなあという深読みも可能な歌だと思う。

海岸線長しかぎりもなく長し少年素手もて迎え撃たむとき
岡井隆『眼底紀行』

 さまざまに解釈ができる歌だが、「少年」という言葉について、少し絞り込んでみよう。
 「少年」という語には、セットとなるイメージがあって、排除しない限り寄り添っている。
 例えば、「父」や「大人の男」はセットである。少年はこれから、それら手強いものに立ち向かいながら成長せねばならない。
 それとは別に、「少女」というのも、これから出会って関係を構築していくべき存在として、セットイメージとして機能する。
 だから、普通はどちらかに絞り込む詠みかたをするわけで、この歌の「少年」が「素手にて迎え撃」つのは前者のほうか、と、いちおう思う。
 相手は「迎え撃」たねばならないほど攻撃的みたいだし、同じ歌集に「父」が多く登場するからでもある。たとえばこれ。
  父親がそびえて空をかくすときおさなき舌は歌詞を忘れて
 しかし、この歌は、「少女」のほうにもかすかに連想の〝引き〟がある気がする。脳内を探ると、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」がチラっと浮かんだ。この歌も解釈は多様だが、私は、「手を広げる」のは海の大きさを示す動作を思わせると同時に、「少女」への対応に不慣れで戸惑いがある雰囲気も含まれていると感じている。
 掲出歌、「少年」との代表的セットイメージの2つが融合する歌、というふうに捉えると、私の中で価値を増す気がする。

春休み関節外し放しにて地図の海岸線を旅する
ルビ:外【はづ】 放【ぱな】
高野公彦『水苑』2000

現実には関節を外したら旅どころか動くこともできないが、観念上ならば、それに似た状態があるだろう。
 学校の「春休み」は、学年の境目の何年生でもない期間で、身分の〝タガ〟が外れている状態である。その解放感を少し身体感覚にスライドしたのが「関節外し放し」だろう。その開放的脱力的な観念の身体感覚で、「海岸線」という海と陸の境目を、地図上で旅する。そういうことを詠んでいると思われる。

灰色の画面のなかに横たわる海岸線が病だという
木村友 第35回(2023)歌壇賞候補作「記念日」より

 病院で何かの検査を受けてモニターを見ているのか。「灰色の画面」に表示されたグラフの線を、健康と病気の海岸線と捉えているらしい。まるで、足もとの不確かな夜の海岸線のようで、不安を伝えてくる表現である。
 病気の海岸線が「横たわる」というのも、動かない障壁のように重い語感として効果的。
 また、末尾の「だという」も重要だと思う。今まさにそのように説明されていること、心のリアクションがない段階、どころか、意味を理解する手前の段階の、実感のない事実である、ということが、この結句から推定されるからだ。
 なお、現在はあまり〝縁語〟は重視されていないようだが、「横たわる」は病気の〝縁語〟であり、目立たないけれど、語感の調和効果(あるいは不調和がない効果)があると思う。

 上記にあげた歌のどれもが、単なる景色の描写を超えて感覚的な刺激を含んでいると思う。「海岸線」という言葉にそれを可能にする力が潜んでいるのだろう。

 「海岸線」という言葉

 1 視覚:海岸線と聞いて思い浮かぶのは美しい景色である。

 2 体感:車窓から海岸線を見ながら走ると、目だけでなく体感でも感じ取れる。

 3 抽象的な刺激

:海岸線は海と陸の境目である。海岸線は、そういう観念としての感覚も認識をくすぐる。観念上の刺激は、現実に海岸線を見たり、沿って移動したりする場合だけでなく、思い浮かべるだけでも、無意識な脳内に微妙な影響を及ぼす。

 4 本能的な刺激 

:また、海岸線は、海と陸との自然のなりゆきから生じただけのものだが、人間にはカタチに意味を感じる性質がある。(猫が動くものを追わずにいられぬような、本能に近い反応ではないだろうか。)線状のものに特別に惹かれ、想像をかきたてられ、ことさらに抽象化する傾向もあるとも思う。

 
2024・6・4


2024年6月1日土曜日

随時更新中 ちょびコレ マッチング 並べて読みたい歌2024

まったく別々に詠まれた2首に、

もしかして本歌取り?と気になった、
歌合せだったらいい勝負じゃんと思えたり、
時を超えて応答しているみたいだったり、
歌人の個性の違いを感じておもしろかったり、
同じ作者の作なら進化や変化を感じたり、

することがあります。

とにかく並べて読むだけで〝批評マインド〟が刺激される。
そういうセットがときどきあるので、見つけたらとりあえずここに書きとめます。

ただし、私は、
優劣には興味がない。
歌を並べて優劣を決めたいわけではない。
そこのところ、よろしくおねがいします。




▼2024/5/31
■死を感じたときの血管の反応

現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
斎藤茂吉『赤光』

干網黒くはげしく臭ひわがうちにしんしんと網目ちぢめゐる肺
塚本邦雄『日本人靈歌』1958

本歌取りかどうか知らないけれど、似通った要素を多く含みあう歌どうし。

前者:墓地(死者がいる場)で、生きている自分の血脈がしんしんと細る、という感覚。
後者:黒い干網がはげしく臭うのを見て、(それが腐乱死体の肺を連想させるのか)自分の身の内で、肺の網目が縮む、という感覚。

ね、響き合ってますよね。

▼2024/4/7
■ぴゅーんとすべる石鹸

掌を滑りタイルを打ちて己れ跳び身を隠したり固き石鹸
ルビ:掌【て】 己【おの】
奥村晃作『鴇色の足』

石鹸がタイルを走りト短調40番に火のつくわたし
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

「石鹸」を詠む歌はmyデータベースに80首ほどある。「泡」や「洗うこと」、そして「香」を詠む歌が圧倒的に多い。滑ってぴゅーんと走るところを詠むのは珍しい。
短歌は悲しいこととか深刻なこととかを詠む傾向があって、日常にあるこういう明るい出来事は歌に詠まれにくいようだ。

★剥く石鹸
ついでに、やや珍しいシチュエーションは、包み紙を剥きながら何か考える、というもの。4首あった。

アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜
穂村弘『ラインマーカーズ』

石鹸の紙を破れば或る島の或る安宿へ記憶は帰る
千種創一『千夜曳獏』

あの紅い職場に戻されたくはない十年前の石鹸を剥く
小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

石鹸を覆ふ薄紙破りつつ(ささやかに)きのふは消ゆるもの
田口綾子「詩客」2011年11月


なお、もともと珍しい行為(石鹸を食べるとか)を詠む歌は、少なくて当たり前だから
ここでは拾わず、別の機会に譲る。

★石鹸+心臓
もうひとつついでに、「石鹸+心臓」という取合せの歌が2首あったので書いておく。

首に掛けた紐付き石鹸弾むのを奪う心臓奪うみたいに
穂村弘『ドライ ドライ アイス』

心臓をさわってみたいあたらしい牛乳石鹸おろす夕刻
田丸まひる『ピース降る』

「石鹸+心臓」が2首あるなら、形状の類似から「たまご」に結びつける歌がけっこうあるだろう、と思ったが、それは1首しかなかった。

鳥の絵のゑがかれてゐる石鹸を使ひへらして棄つその鳥卵を
西王燦『バードランドの子守歌』

▼2024/3/16
■床屋の椅子に座った姿


理髪店の椅子に乗っている人の姿は、ちょっと独特で、シルエットにしたら何か別のものに見えそうだ。
そういうことを詠む歌はないかな、と思って探したところ(ゆきあたりばったりで探しただけですが、)以下2首を発見。

理髪師に髭そられつつうとうとと意識は妙義山の奇岩へとびぬ
ルビ:妙義山【めうぎ】
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

確かに! 
床屋の椅子に人が乗った姿は、シルエットが妙義山の奇岩(にょきにょきと大きな岩が生えている)に似ている気がします。

理髪屋の夏の白布につつまれてわたしは王のミイラであった
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

これも、ただただすごくわかる、って感じ。

★ポイントが2つ
①すごくありきたりな驚きですが、同じ床屋の椅子でも、人によって連想や見立てかたが違うもんだなあ、と感心した。
②どちらも、かすかながら厳かな連想で「死」のイメージを含んでいる。
たった2首見つけた段階で、たんなる偶然だと思いますが。
※杉崎の歌はミイラだし、渡辺のほうは直接的でなはないけれど、石といえばお墓っぽいし、にょきにょきの奇岩たちは石にされた人か、強い思いをいだく魂が石化したか、みたいな連想を促しますから。

■動物の移動

移動が当たり前の生物は多い。渡り鳥はその代表で、本能にプログラミングされているが、そうでない動物も、餌場など何かを求めて、ぞろぞろ移動することがあるようだ。
たまたま見かじったテレビで、ゾウの家族が季節で移動しているところを見たことがある。たぶん餌のためだろうけど、じっとしているのは退屈だから、という動機もあるのではなかろうか。

それはともかく、さっきの歌のついでに目に入ったこれも、おもしろいと思った。

ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び通過するとき富士透けてみゆ
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

「ゆく雁のゆめなる列は富士へ飛び」というフレーズ。
人が雁の列を夢想しているのだろうか。でも、雁たちの夢のなかの飛行みたいにも思える。

先日、別のコーナーでとりあげたこの歌も
ちょっと共通点がありそうだ。

牛たちの立ち泳ぎのような 窓外の真夏の雲がギリシアへわたる
井辻朱美「かばん」2023・12

牛たちが立ち泳ぎしていく姿もおもしろいし、「ギリシアへわたる」という部分にもくすぐられる。そういえばギリシャ神話にはミノタウロスが出てくるなあとか、牛にしてみたら観光とか聖地巡礼とかしたくなるのではないかしら、とか。

 動物の移動には何らかの危険があるけれど(動かなくてもあるけれど)、
いつも何らかの理由・動機みたいなものを見つけては、何かを目指して移動しようとするサガというか、生きているということがイコールそれなのか、
みたいなことを感じた。

▼2024/03/06
■自分用の雲が一つ

桐咲きてわれのみに訃であるやうな雲とおもひぬひとつ浮雲
渡辺松男『時間の神の蝸牛』

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される
杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけで、
言いたいことは特にないのですが、

ふと、
雲を詠む歌には「我」が詠み込まれやすい気がして、
(それもほぼ確信に近い感じで)
でも、念の為に調べてみたら……。

本日の闇鍋 短歌データ 127,830首
うち、「雲」という字を含む短歌 2,117首
「雲」と「我」(わたし、吾などの別表記に、僕、俺を加えた)を含む短歌は188首。
てことは、「雲」を詠む歌の8.9%に「我」が詠み込まれている。

一方、全短歌127,830首のうち「我」を含むのは15,174首。
てことは、全短歌のうち「我」は11.9%に含まれている! 
こっちのほうが多いじゃないの!!!

調べてみてよかった。くわばらくわばら。
結局、カンは、当てずっぽより多少マシ、程度のものなんですね。
どなたさまも気をつけよう。

■自分を産んだ母について

ひたすらに雪融かす肩 母よ 僕など産んでかなしくはないか
吉田隼人「早稲田短歌」43号 2014・3

母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした
伊舎堂仁『トントングラム』2014

性格の違う人が同じようなことを詠んでいるな、と、ただそれだけですが、好対照。
このテーマの歌集めてみよう。おいおい。




2024年5月25日土曜日

虫食い式短歌鑑賞 第1回

虫食い鑑賞 どんな言葉が入る?

短歌鑑賞の遊びというか、一語隠してそこに何が入るか想像しながら読む、っていう方法はいかがでしょう。

--名付けて、虫食い式短歌鑑賞!

短歌の中の言葉には、いわゆる〝詩的飛躍〟があり、その飛躍が大きいと、前後の言葉からは全く推理できなくなります。

自分ならここにどんな言葉を使うだろうか、というふうに、普通の読み方より積極的に歌に参加できるかもしれません。
(歌を探してきて用意する私は、「虫食い鑑賞」を体験できないので、どんな感じかわからないのですが。)

以下の歌で「●●●」と示した部分には同じ語が入ります。
何が入るのか想像しながら読んでみてください。

※「●」の数は音数を表しています。
 該当の語をひらがなで書いた文字数とは
拗音がある場合一致しません。


■以下7首の虫食い部分には
 どんな言葉が用いられているのでしょうか?

以下の虫食い歌は、同じ意味の3音or5音の語のいずれかを含んでいます。

虫食いでなく普通の状態で今すぐ読みたい方は、下の方へスクロールしてしてください。

 

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の●●●で話してるだけ

2 しろき糸ひいて●●●はわたしたちみな液体と思ひ出させる


3 たましいに●●●はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう


4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ●●●擦れあふ


5 なめくじのつどい闌なる庭に●●●●●ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】


6 冷え症の足をさすって物語る●●●の宇宙でのあたたかさ


7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを●●●に変えた










以下ネタバレ




いかがでしたか。
答えは「性器」「生殖器」です。


考察:「総称」の使いかた


 「性器」「生殖器」という語は、使いにくいような、でも使いやすいような、ちょっとフクザツな使用感だと思われます。
 myデータベースの短歌は本日約12900首
 うち、「性器」or「生殖器」という語を含む歌は37首
 これはけっこう多いほうです。

 他の「◯◯器」を探したら、「循環器」「消化器」「呼吸器」は、ほとんど短歌に使われていないようです。
 (myデータベースの短歌に「循環器」という語を用いた歌はありませんでした。
  「消化器」は1首あったけれど「消火器」の入力ミスみたいです。
  「呼吸器」は「人工呼吸器」を詠む歌しかなく、臓器の総称としての用例はありませんでした。)
 とにかく、「性器」or「生殖器」が37首もあるのはすごい。
 短歌って言語活動の場としてはお上品志向だと思うけれど、どうしちゃった?

仮説
 歌を見ると、循環器・消化器・呼吸器は、そういう総称は詠まないが、心臓、血管、胃、腸、肺などの具体的部位名を詠み込んでいる。
だから「循環器」「消化器」「呼吸器」は総称を用いる必要を感じない。
一方、「性器・生殖器」は具体的部位の名称使用を忌避する婉曲表現として総称を用いるのではないだろうか。

 この仮説は、まことしやかだが、いかにもリクツだけで考えたようなマヌケ感あり。
 じじつ、みるからに実作と違う。むらむらと反論がわきおこる。

反論1 総称には総称として、具体的部位名とは異なる使い道がある
 循環器・消化器等の総称が使われないのは、具体的名称を使えるから、でなく、まだ総称の使い道を歌人が見つけていないから、とも考えられる。

反論2
 「性器・生殖器」は具体的名称の婉曲表現とは限らず、総称として使いこなされている
 具体的部位の名称が使いにくいゆえに「性器・生殖器」と言い換えている歌もあるだろうが、実作を見ると、総称としての「性器・生殖器」という語が活かされ、具体的な部位を詠む必要のない歌がけっこうある。

ゆえに、「性器・生殖器」は「循環器」「消化器」よりも先んじて、短歌の中で総称としての用途を開拓しているのでは? つまり、言葉の「性器・生殖器」は、短歌の言葉の世界ではある意味〝すすんでる〟といえないか?

 それに、本気で具体的名称を詠みたければ、歌人たるもの、がんばって詠むと思う。じっさい、探してみたら、けっこうありました。少しだけピックアップしておく。

わが睾丸つよくつかまば死ぬべきか訊けば心がこけ笑ひする
ルビ:睾丸【ふぐり】 訊【き】
北原白秋
キッチンにココアを練れば不覚にもふぐりは揺れてをとこでありぬ
斎藤寛『アルゴン』2015
おれの亀頭とおまえの陰唇は運命的に出会ってそのあと心がちょっと出会った
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015
クリトリスほどのゆめありベランダで麻のバッグをがしがし洗う
雪舟えま『たんぽるぽる』
思い出の一つにダリの絵を語り馬の首出る陰唇を言う
江田浩司(出典調査中)
すいません。わたしもあるよ!
長考の父よあたしは宙ぶらりん 膣に小さな蝶うかばせる
高柳蕗子『あたしごっこ』

それぞれの歌の鑑賞


ま、そういうことを考えながら、以下、各歌を見てみます。

1 海を見たいとか孤独とかコンビニの灯とか別の性器で話してるだけ
 白野
  2024/5 東京文フリ38フリーペーパー(「ひねもす創刊号」宣伝用)より

 これこれ。この「別の性器」という言い方は、まさに総称として機能していると思う。
 この「別の」は「別腹」に似ていると思う。「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」のような話をすることを、別腹の性交渉、的に捉えているらしい。
 じゃあ、「海を見たいとか……とか……」のどういう要素を「別腹の性交渉的なこと」に分類しているのか。
 以下、私の解釈。
 「海を見たいとか孤独とかコンビニの灯」
 これらに共通するのは人恋しさ的な文脈でベタに使われやすい感じであることだ。
では、「別の性器で話す」ことは、人恋しい気分を人と共有しようとすること、なのか。
いや、人恋しい気分を人とベタな言葉で共有しようとすることなのか。
 後者に1票。(性行為ってかなりベタですからね。)

(末尾の「だけ」を書いたとき、性器によらない会話を想ったはずですが、多くのことはベタですから、めったに実現しないかも……。)


2 しろき糸ひいて性器はわたしたちみな液体と思ひ出させる
 吉田隼人
『忘却のための試論』2015

 まず、「しろき糸ひいて性器は」。ここには2つの連想脈が共存していると思う。
 ひとつは、かたつむりやなめくじ。実際に白い糸を引くものらのなかで形状や質感が性器っぽいもの、という連想脈で。
 もうひとつは父系の繋がり。観念の連想脈。「しろき」と言われて、「白い糸というと、赤い血縁の絆ではなく、父系の繋がりか」と考えそうになること。
 しかし、その2つの連想脈は、すぐに、「わたしたちみな液体」という難所に行き当たる。ここはいわゆる〝詩的飛躍〟で、かなりのロングジャンプを覚悟しなければ。
 でも、そこには幽かな連想脈のあるかなきかの淡い虹がかかっている気がする。それをたぐって飛べと促されている気がする。読者各自が独自に蓄えているイメージを、その淡いところにあてがいながら、どうにか渡れるようにと。

 で、以下は私の個人的深読み。
 「しろき糸」から男性器と父系の絆を連想。(女系の絆は観念上血の絆だし、具体的にも、女性器の奥の子宮には、卵の着床のために毎月赤いベッドが設えられるのだし。)
 そして形状などから、「かたつむり」っぽい「白い墨壺」(すみつぼ=材木に直線を引くなどする建築用工具。普通は黒い墨だが。)を連想。つまり、「しろき糸」を出すのはほとんど水モノ。水の源を考えると海か、もっと遡って空か……という連想も、しないけれどありえる感じ。
 一般的通念では「生殖といえば赤い血縁」⇒ふつう「白い縁は忘れられている」が、白い糸がそれを「思ひ出させる」
 そういうふうに、私のなかではつながった。

3 たましいに性器はなくて天国の子はもうどんな服でも似あう
 佐藤弓生    『薄い街』2010

 なるほど、この歌で重要なのは、たましいに「性別はない」①とせず、「性器はない」②としたことだ。似たようなことに見えるが、①と②では「どんな服でも似あう」の意味合いがものすごく違ってしまうと思う。

 「性別はない」だと観念的ニュアンスになり、「ユニセックスファッション」のように、「男女の区別という固定観念を覆す」というようなアンチとしての意味が濃くなるだろう。
 一方、「性器はない」は即物的で観念以前のベーシックなニュアンス※だ。余計なでっぱりやくぼみがない(つるつるみたいでかわいいし)、という単純な意味でどんな服でも着られると受け止め、天国の子どもの無垢な解放感も感じ取れる。

※即物的でベーシック、といえば、古事記のイザナギとイザナミの有名な場面。(伊邪那伎の命が伊邪那美の命に、「我が身は成り成りて、成り余れる処一処在り。故 此の吾が身の成り余れる処を以ち、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむ」と提案した。)
★たましひに着る服なくて醒めぎはに父は怯えぬ梅雨寒のいへ(米川千嘉子『たましひに着る服なくて』1998
)の出だしを少しかすっていることは、当然意識して詠んだはずだが、本歌取り的なものでなく、似た言い回しから全く別のことを詠むおもしろさがあると思う。

4 亜細亜とふ思案の底のゆふやみに数知れぬ性器擦れあふ
 西田政史
『スウィート・ホーム』

 「亜細亜とふ思案」については、人によって思いうかべるものがだいぶ違うだろう。なにしろアジアは広い。気候いろいろ、宗教いろいろ。(なにしろヨーロッパを除くユーラシア大陸全般)
 しかし、
この歌に関連しそうなイメージは、以下の通り。
・古代には文明が栄えたが、現在はそうでもない。
・貧富の差が大きくて、貧しい人がひしめいている映像をよく見かける気がする。
・都市と田舎の暮らしの違いも大きい感じがしている。
・気候はさまざまなはずだが、なぜかじめじめっとした熱帯雨林で多様な命(虫とか蛇とか)が湧きやまぬイメージがある。(熱帯はアジアに限らないわけで、南米やアフリカにも熱帯雨林はある、と知っているのに。)
・加えて、私には、「亜細亜」(アジア)という字面や語感も重要に思える。
 字面も音も、底を打つ感じを体現していて、「思案の底」の「底」感がすんなりわかる。

 総合すると、「思案の底」で、夕闇の熱帯雨林の葉擦れのように性器が擦れ合い、人というか命というか、いろんなものが生じやまない、なんだかものすごいイメージになる。

5 なめくじのつどい闌なる庭に生殖器ってみんな寒そう
 ルビ:闌【たけなわ】
 佐藤弓生 『薄い街』

 2番の歌でも少し触れたが、生殖器は、形状や質感が、かたつむりやなめくじに似てる気がする。人前でそういうことは口に出さないから共通認識にはなっていないのだが、多くの人がひとりでに連想しやすいのではないだろうか。
 この歌はふと感じたことをそのまま述べる、という詠みぶりであり、確かになめくじははだかんぼだから寒そうだ。
 加えて、「寒そう」には、「性」そのもの、「生殖」そのもの、--行為でなく〝仕組みそのもの〟の雰囲気も凝縮されている気がする。ーー倫理や宗教など社会的な抑圧感は、湿った裏庭にひっそり集まる感じ、とまでは歌に書いてないが、「陰部」という表現もあるし、たしかに、暖かい陽のあたらない日陰のイメージだ。
 更に言うと、性は、暴力性とか苦しみとかの面もあるし、性欲に翻弄されて愚かしいことをしでかすことも多いにもかかわらず、その欲がないと世の中が成り立たない……という矛盾をはらんでいる。総合すると、「生殖器」は矛盾のなかで秘匿され、寒そうというか、冷遇されていると思う。
 循環器も消化器も、自動で働く仕組みであって、世話がやけない。それに対して性器は特殊である。なにしろ相手のある行為だ。欲求や意志には個人差があって調整が難しい。(なんてめんどくさいんだ!)無理を通せば暴力になるし、そうでなくとも、行為自体に変な激しさがあるし、そのうえ出産には危険と苦痛が伴う。(神とかがこのシステムを作ったんなら、大いに文句を言いたいよ。へたくそ! 責任をもって改善しろと。)

6 冷え症の足をさすって物語る性器の宇宙でのあたたかさ
 雪舟えま 『たんぽるぽる』2011

 あたたかい? やっとコメントを書き終えた4番の歌と真逆ではありませんか。
 しかし、この歌の性器が暖かかったのは宇宙でのこと、ですよね。

 冷え性の人(冷え性はたいてい女性)が冷えた足をさすりながら、「宇宙にいる時は性器が暖かい」と物語っている。--いやいやいや、その読み方だと、「宇宙飛行士だった女性の老後の昔語り」みたいな、なんか不自然ないきさつを用意しなければならなくなる。

 ここが地球だとかそういう小さい視点じゃなくて、地球だって宇宙、という視点にたってみようか。
 それなら、この宇宙においては、血液の循環する身体の仕組みも、生殖という繁殖方法もユニークである、という考え方ができる。そういうスタンスならば、冷えた足をさすりながら性器というものの温かさについて物語る、という地球の日常っぽいシチュエーションが生きてくる。だから、私はこの解釈を採用する。
 

7 突風にあなたはくずれて是と答え左手ばかりを性器に変えた
 瀬戸夏子
『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

 こういう歌は、人それぞれの解釈がすごく違ってて、人の解釈が自分と違うと不快に思えるほど読者が入れ込んでしまうこともある。だからみだりに解釈をほどこさずにだまって読んでおくほうがいい、ーーと思いますか?
 そんなの嫌だ。
 人それぞれ解釈のあるなかの私のそれ、という位置づけで書いておく。
(ぜんぜん違うと感じて腹がたったら、「けっ、勝手に言ってろ」とツバをはいて通り過ぎてください。私はいつもそうしています。ツバは冗談ですが。)
  • 突風にくずれて是と答える:これは性行為の承諾の形のひとつだと思う。
  • 左手ばかりを:片手だけであること。それは左手で右手ではないことに、幽かに意味がある。右と左には、様々な用例から、「右は能動的・合理的・強い/左は消極的・情緒的・弱い」といった対比的イメージが蓄積している。
    よって、「左手ばかりを」は、この「是」が消極的・情緒的で弱いた態度であること、「右」的な能動的合理的な強さがくずれてしまったことを暗示している、と思う。
  • 性器に変える:身体の一部を交接用に変化させるのはフィナーレではないだろうか。何かの生物の不思議な生態、みたいな感じ。そういえば、交尾しながらメスに食われるオスだとか、昆虫には生殖がフィナーレになるものがある。
  • この歌には、そういう究極の変身を読み取るのが妥当だと思う。
    性器以外は塵に帰るという、なんかものすごい諸行無常感も備えている。
    「左手ばかり」の「ばかり」に、そうか、手が何本もあって性器がいっぱい、などと考えてみるのもありだろう。
    こういうものを読むと、煩悩の八割ぐらいから解脱できてしまう。

 いかがでしたか。