2024年9月28日土曜日

「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から

 所属誌「かばん」は会員持ち回りで本誌評を書くことになっていて、数年に一度のその役目が巡ってきて今年の7月号評を担当した。はりきりすぎて想定を超えた大作業だったが、なんとかやりとげ原稿を送った。

 掲載号である忘9月号が届いて、掲載された自分の「7月号評」を見て、誤字脱字の多さに驚いた。言い訳にならないが、最後は慌てて送ったことを思い出した。

 「アフォーダンス」という観点を歌評に持ち込むことを提唱している点など、多くの人に見てもらいたい要素もあるのだが、いかんせん誤字脱字はよろしくない。意味の伝わりにくい部分もあって、こちらに気になる部分を修正した全文を掲載する。  高柳蕗子



「かばん」2024年7月号を読む 目次

  1 アフォーダンスの観点から

  2 七月号の歌のピックアップと短評 前編

  3 七月号の歌のピックアップと短評 後編



短歌とアフォーダンス

 短歌は人が詠むもの。――それはそうだ。が、詠まれているさまざまな事象や使われている言葉たちは、詠まれるがままでいるのだろうか?

 事象は、なんらかの意味を態度で表している。たとえば、バラのトゲは「触るな」というアフォーダンス※を発している。そこにたまたまある木箱は、そこに腰掛けるのにちょうどよい体躯の生物に対して、「どうぞ腰掛けて」という誘いのアフォーダンスを漂わせる。

 言葉というものも、外見や語感という情報を備えているという点では事象の仲間だ。歌人や俳人が重視する字数という要素は、まさに、言葉の物体としての要素である。「韻律に情趣がある」「リズム感が心地よい」というのは、短歌という詩型のボディが発するアフォーダンスである。つまり定型詩は、自由詩に比べると、アフォーダンス意識が強いと言えるだろう。

 人間用の椅子をデザインする場合は、人間に適したアフォーダンスを持つ椅子を作るだろう。短歌もしかり。歌人は無意識にも、日本語を解する人間が読む、ということを前提にし、内容のみならず言葉の配置や語感など、読者へのアフォーダンス的な効果も配慮して歌を整えているだろう。

★★

※アフォーダンス(英: affordance)とは

①afford(与える、もたらす)という動詞の名詞形として作られた造語。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが生んだ言葉で、環境が動物に対して与える意味や価値という意味がある。生態光学、生態心理学の基底的概念であるが、近年では、生態心理学の文脈だけでなく、広く一般に用いられるようになってきている。(ウィキペディアより抜粋一部要約)

②アフォーダンスとは、デザイン心理学の用語。ある物体や環境が持つ機能性や可能性を指し、その物体が使用者にどのような行動を促すか、どのような利用方法を提供するかという観点から考える。例えば、椅子は「座る」という行動を促すaffordanceを持つ。これは、椅子の形状が人間の体を支え、安定した座位を提供することから来る。(Weblio辞書 :実用日本語表現辞典より抜粋一部要約)


作者が歌を詠む段階のアフォーダンス

 歌人は事象や言葉のアフォーダンスに触発されて歌を詠むことがよくある。それを一歩進めて、人間には形状等が似ているものどうしを無意識に結びつける習性があるため、例えば「渦巻く銀河と肉まんのヘソがオーバーラップする」というような現象も起き、そこに端を発する短歌も多く存在する。
 歌人なら、ふと目に入った言葉を歌に使いたくなることがあるだろう。「2句目あたりか、いや、シメの結句にどーんと置くか」などと楽しく悩む。つまり、作者が歌を詠むとき、事象や言葉のアフォーダンスは大いに関与しているはずである。歌を詠む過程でも、今まさに自分が並べていく言葉たちのアフォーダンスと交信し、協力することもあると思う。

読者が歌を読む段階のアフォーダンス

 ややこしいのは、作者段階と読者段階を区別する必要があることだ。

 読者は、作者の意図を汲もうとし、その歌の詠まれた状況や過程も想像しながら歌に臨む。アフォーダンスの面でいえば、例えば「作者は黒ぐろと迫る雨雲に、時代の危機感を重ねて詠んだのかな」みたいな想像をする。こういう想像は、鑑賞として自然だし、好きなだけしていい。

 しかし、作歌動機や過程は実のところ誰にもわからない、ということも了解しておくべきである。作歌中の脳内にはブラックボックスがある。作者も、自身の歌を把握しきれない。詩歌という領域には正解がない。

 そして、最も重要なことは、読者が歌から感じることはすべて、作品としての短歌が備えたアフォーダンスであるということだ。むろん歌には作者の気配が残っており、読者は、作者の意図などを推測するけれど、それらはあくまで、その歌のアフォーダンスがもたらした結果であると割り切るべきだ。

 というわけで、作者が題材や言葉から受け取るアフォーダンスと、読者が歌から受け取るアフォーダンスは、区別して語られるべきである。

アフォーダンス・ミックス

 アフォーダンスはミックスで効果を出すことがある。

 事象や言葉一つ一つのアフォーダンスは、たいてい淡いものでしかない。が、ミックス効果を発揮しているケースがある。これは、柔道において「技あり」二回で「一本」になるようなものだ。しかし、これを歌評で説明するのは難しい。淡い効果を一つ一つ取り上げると長くなるし、「微細なことを大げさに言って状況証拠だけで無理に立件したがっている」と思われがちだ。

 「短歌のアフォーダンスにはミックス効果というものがある」ということ。本稿は、それだけでも伝えたいと思っている。

 このあと数例、アフォーダンスの効果に注目する形で鑑賞を試みる。そのあとは、ほぼ7月号掲載順に歌をピックアップし、必ずしもアフォーダンスにこだわらずコメントする。


1 いろいろなアフォーダンスとミックス効果


冷えた壁に三つの果実の絵のかかるさびしい話をするにふさわしい
とみいえひろこ

 なるほど、冷えた壁に果実三個の静物画、という環境には、「さびしい話をするにふさわしい」と感じさせるアフォーダンスがありそうだ。加えて、果実が三個あるたたずまいも、「さびしい話をする」のに最適感がある。一個なら孤独、二個なら親密、四個以上は賑やかすぎ、と思いませんか?さらには「3」という数そのものにも、微弱なアフォーダンスがある気がする。

 歌に持ち込まれる要素は、作者のなかでありとある事象から選ばれたものだが、私という読者に見えるのは結果としての歌である。作者段階でどういうふうに歌が成立したのかは、想像するのみである。
 一方、読者には、歌のあとの世界が拓ける。この歌を読んだとき、偶然にも果実の絵のついた冷たいペットボトルを手にしていた私は、自分がいまボトルの外という冷えた壁際にいることに気づいた。


指さきをヌルヌルにして果てのない憎悪を溶かすカヌレ食べます
ユノこず枝

 ものすごく具体的な描写で「憎悪」を詠んでいるが、経緯を示唆する要素が全くない。歌の動機を実生活の出来事などに求めるよりも、各語のアフォーダンスから読み解くほうが良いタイプの歌だと思う。

 強いアフォーダンスを発している語はなんといっても「カヌレ」だ。それとなく形状が火山に似ていることも手伝い、「憎悪を溶かす」とのタッグで、溢れ出す溶岩に通じそうになり、カヌレに火山のイメージがこっそりオーバーラップしそうになっているのだ。

 もうひとつ、カヌレは表面を蜜蝋で固めてある。ぬるぬるしてはいないのだが、「カヌレ」という名称が「濡れ」「ぬるぬる」に少し通じて、蜜蝋が溶けるイメージを呼び寄せそうになる。そうしたいろんなアファーダンスがいい具合に混ざっていると思う。


心臓の上にスマホを置いてみる私は死んだ人の末裔
木村友

 死と睡眠はセットのイメージだ。で、「死は永遠の眠り」というアフォーダンスを帯びているが、これを逆転させた「睡眠は永遠でない死」も、さして違和感なく受け入れられるアフォーダンスになり得るだろう。

 こう書きながら気づいたのだが、この歌のどこにも寝ているとは書いてない。「心臓の上に置く」「死」といった単語とフレーズのアフォーダンスが、仰向けに寝た状態を想起するよう仕向けてくるのだ。そして、仰向けの胸の上に何かを置く図は、棺の死者の胸に花束などを置くことを連想させやすいものだが、下の句で出てくる「死」でそれが強まる。

 下の句「私は死んだ人の末裔」は、当たり前のことをことさらに感受している。当たり前のようでも、まだあまり辿られたことのない連想脈だと思う。また、そのことを「心臓の上にスマホを置く」ことで意識した、という経緯にも、ニューロンが喜びそうな新しさがある。しかも、「スマホを副葬品のごとくに胸に乗せて寝ると、動いている自分の心音がご先祖たちの止まった心臓と通信しそうだ」ということを、暗示しすぎないよう寸前で止めてある。


我が傘を出がけにへし折る強風と電車の遅延ほんといらない
小野とし也

 内容は単純だが、冒頭の「我が傘」から結句「ほんといらない」に至るまで、表現のギャップを練り込んだ構造になっている。

 まずは出だし、文語脈「我が」を「へし折る」という乱暴な日常語に連結させている。傘を「へし折る」ほどの風の威力を、やや芝居がかった大げさな言葉の身振りで強調している。そのあと、「電車の遅延」という情趣皆無の語を経由し、結句の「ほんといらない」という個人的なつぶやきのくだけた口調に至る。この部分は、意味上は拒否感を表しつつ、それでも良くあることとして、なんとか受け入れようとしているように見える。

 つまり、この文語から口語までのギャップを含んだ歌のボディには、出勤時の強風・電車の遅延というワンツーパンチに見舞われて心折られながらも出勤しなくちゃならないという、心の対処過程の機微が練り込まれている。

 たまに「文語と口語混ぜるな危険」という教条的言説を耳にするが、詩歌は原則に当てはまるかどうかよりも、いかに素敵な例外たりうるかが味わいどころではないだろうか。


水無月の訪問者あり玄関の硝子戸越しに細くうつむく
千葉弓子@ちば湯

 この歌も、言葉のアフォーダンス、歌のアフォーダンスという観点を念頭に置かないと、良さを語りにくいと思う。

 語られているのは、実質、六月に訪ねてきた誰かのガラス戸越しの印象で、それを述べるならさまざまな言い換えが可能だが、この歌は、この歌にしかない絶対的な詩的効果を備えている。それは、この言葉たちをまとめた歌のボディからあふれるアフォーダンスの効果である。

 むろん感じ方は人それぞれではあるが、例えば、万葉集まで遡れる語「水無月」には和風の風情がある。旧暦では現在の六月下旬~八月上旬をさす。「訪問者」「硝子戸」「細くうつむく」という言葉たちにも淡いアフォーダンスがあって、ミックスすると、私の場合は、水無月といえばお中元の時期だし、風呂敷包を携えた和装で控えめなたたずまいの人を思い浮かべそうになった。
 そこには、ほんの隠し味的に正体不明感(微妖怪風味)も加味されている気もする。このごろ和装の人物は現在あまり見かけないし、「細くうつむく」という曖昧な気配描写が空想を促すからだろうか。さらにこの場面全体に、細かい縦の効果線(たぶん雨のイメージ)も見える気がして、出どころの曖昧な緊張感がみなぎる。

 ドラマで、なんでもない場面をBGMで緊張を高めるというテクニックがあるが、この歌は言葉のアフォーダンスがそれをやっている、と思った。


誰かひとり喜ぶ人が居ればいい此の世の隅に七角箸は
前田宏

 世相や戦争に言及する歌を含んだ「遠くまで」という一連。この歌は、「さまざま問題をかかえた世界の一角に『誰かひとり喜ぶ人が居ればいい』というスタンスのものがある」と提示して締めくくっている。

 アフォーダンスの観点から注目したのは、その内容を「七角箸」が担っていることだ。「此の世の隅に」は、この世は隅へと窮まるという空間把握を感じさせる。此の世の隅々にさまざまなものの究極があり、その一つである「誰かひとり喜ぶ人が居ればいい」という究極には、〝標〟として、「七角箸」が立てられている。そういう不思議な図が思い浮かびそうになる。

 自分だけが使う食器である箸には、職人が一本一本削って作る一生モノの高級品がある。六角・八角は縁起が良いとか、三本の指で持つから奇数の三角・五角が良いとか、諸説はあるが、「七角箸」は特別であるらしい。現物のすらっとした見た目。「七角箸」という字面。そして「七」という数字の神秘性。このアフォーダンス、なんだか神々しくもある。


研ぎをへて片手にもてる包丁がつわんつわんとひかりをはなつ
飯島章友

 言葉のアフォーダンスといえば、オノマトペを真っ先にいうべきだったかもしれない。なかでも、雰囲気や心情のように見えず聞こえずのものを表す擬態語というものはすばらしい。自分の感覚で手作りできるし、その手作りがけっこう通じる。これは日本語特有のことであるらしい。

 掲出歌の「つわんつわん」は手作りオノマトペ。日本語を使って育った人ならだいたいは、この光り方の雰囲気を受け止めてくれるだろう。その期待と信頼によって、この歌は成立したはずだ。
 既存の擬態語で光るさまを表すものというと「きらきら」「ぎらぎら」「つやつや」があるけれど、それでは物足りなかったのだろう。鋭さとして「つ」、力強さを「わ」、響を付加する「ん」の三つを合成。「つわんつわん」というひかり方は、包丁自身が周囲に切れ味を誇るかのような光りかただと思う。


「瞬発力ってなくていいのよ」雨ごとに耕されてく空気は言った
杉山モナミ

 「空気」が「雨ごとに耕されてく」という把握が新感覚だ。「雨降って地固まる」という慣用句からの、あるかなきかのワンクッション・フォロー。雨で地面は固まるが、空気は耕されるのね、となんとなく受け入れる。

 アフォーダンスの観点から注目したのは、「瞬発力ってなくていいのよ」という部分だ。雨に耕される空気の感触みたいなものをセリフにしている。つまり、雨の中の空気のアフォーダンスをセリフ化して表現しているのだ。

 実際の環境やモノは、セリフこそ言わないけれど、アフォーダンスを発したり漂わせたりしている。そういうものに無意識に反応している私たちは、アフォーダンスと会話することもある、とも思った。


 以上、アフォーダンスという観点に立つと説明しやすくなる要素を含んでいる歌をピックアップした。歌を構成する要素はいろいろあって、アフォーダンスを活かすテクニックはその一つにすぎない。したがって、ここに掲出したことやコメントの長さなどは、歌の評価に直結しないし、そもそも歌の良し悪しをいうことが目的の評ではない。念の為おことわりしておく。


 3 七月号の歌のピックアップと短評 後編





2024年9月20日金曜日

ちょびコレ35 空とウソ


「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。
(以前は「随時更新」として、いくつかまとめていましたが、
いま、1テーマ1ページの方式に移行しています。)


短歌の中で、「空」と相性が良いもののひとつに「ウソ」がある。
「空+ウソ」で思い浮かぶのはこの3首。


これからもさみしいうそをついていく東西南北一枚の空
兵庫ユカ 作者ブログ「.bypass」2010/7/18

清潔なハンカチのような嘘をつく この青空をなくさないため
浅羽佐和子『いつも空をみて』2014

しんぷるな青杉としんぷるな空 とてつもなく大きい嘘のしずけさ
渡辺松男『歩く仏像』


こういう感じで、実に相性が良い。
「空」のなんでも吸収してしまいそうな虚無的なところが、なんとなく「ウソ」にマッチするのだろうか。
なんて言ってみても、そうかもな、という程度にしか納得できないが、しかし、実際に、「空+ウソ」歌はたくさんある。
(気をつけなければ、と思う。)


どこまでが優しい嘘になるのだろう青空にただ触れていたいよ
本多忠義『禁忌色』

海の嘘気付かぬままに釣り糸を空へと垂らす老人の群れ
木下龍也『つむじ風、ここにあります』

嘘をつく電話はなるべく屋外で空に向かって声を放てよ」
ふらみらり「かばん新人特集号」2015/3

夕空はひらたくなって嘘泣きの子供の声が節おびていく
ルビ:節【ふし】
花山周子『風とマルス』

痛きまで青き冬空逢ふためについて来し嘘どこまで容るや
本多稜「詩客」2013-10-04

葡萄蔓空に泳げばゆふひ色の少女の嘘に見惚れてありぬ
ルビ:惚【と】
浜田到『架橋』

嘘さえもつきたくなくて揚雲雀空は端から端までの檻
大橋弘『既視感製造機械』

死者の息貼り付く空の青白し時間が解決するといふ嘘
本田一弘『磐梯』



なんとなく傾向はわかる気がする。
こんなに詠まれてきているなら、この先はもう少し迫ってくるだろう。

2024・09・20

ちょびコレ34 空を畳む

「ちょびコレ」とは、
「ミニアンソロジー」というほどの歌数はなく、
「レア鍋賞」ほど少なくもない……、
そんな、ちょっとした短歌コレクションです。


「空を畳む」というイメージは、かなり奇抜だと思う。

が、奇抜さにも〝レア度〟があって、大勢の歌人が才能を傾けて詠み合う状況では、「まれにある」というランクであるようだ。

(だから悪いの良いのという話ではない。
 レア度は各ランクごとに使い道があり、歌によって程よいレア度を使い分けることが望ましい、と思う。)


おりたたみしき空を鞄につめこみて軍のときは逃げる覚悟だ
渡辺松男『歩く仏像』

またすこしふるくなるからいちまいの空をたいせつに折りたたむ
村上きわみ(出典調査中)

夕空は折り畳まれてきみの目に入つて涙にも火にもなる
藪内亮輔『海蛇と珊瑚』


 上記3首、三者三様の踏み込みがたのもしい。
「まれにある」というレア度のモチーフの歌は、並べると特に読み応えが増す。


以下は、空そのものを畳むわけではないが、空を畳む感に少し近い感覚、通じる要素を感じる歌。参考としてあげておく。

初春や夢に眠りて夢を見る空にタオルをたたみ続ける
東直子 『春原さんのリコーダー』

 テーブルの上に散らばる空論をしつこく畳む人の両の手
増田達郎「早稲田短歌」44号

冬空のたったひとりの理解者として雨傘をたたむ老人
笹井宏之『てんとろり』2011

(俳句) 空の箱たたむと見ゆる冬の橋
鳴戸奈菜(出典調査中)



2024・09・20


青空の畳まれた海で革命のない七月・十二月の窓を閉める
山下一路『世界同時かなしい日に』

2025・3・25 追加

2024年9月19日木曜日

レア鍋日記2024年 (随時更新しています)

→レア鍋日記とは

こちらはたまに更新しています。

■2024・9・19 ニャン鍋
足ツボ

ないだろうと思いながら「足ツボ」を検索したら、なんと2首もあった。

足ツボに点字ブロックが気持ちいい※良い子は真似してはいけません
柴田瞳(出典調査中)

足ツボが効かないところが面白い辛いもの好きなのも愛おしい
yuki 作者ブログ(note)「作業用 50首」

「足ツボ」でなく「ツボ」で検索してみたところ、以下の2首を発見した。

「お仕事中すみませんけど馬の耳のツボに関する本ありますか」
石川美南『裏島』

ヤクルトを運ぶ女性に尻尾振る貴方のツボはそこだったのね
ゆすらうめのツキ「かばん 新人特集号」2010・12

上記「yuki」という作者の歌をざっと見ていて、レア鍋賞的な単語が多い気がして(感覚でしかないけれど)、しかもそれらが、他の語との組み合わせ方もレアである気もする。
たまたま目に入った「現在進行形」を見てみよう。

現在進行形

吾も少し関わっている 少女らの現在進行形の思い出
俵万智『かぜのてのひら』

現在進行形のことばかりだしきっとどうにかなっているんだ
辻井竜一『遊泳前夜の歌』2013 

連写するシャッターの音で出来た顔は現在進行形の神話
作者ブログ(note)「作業用 50首」

「連写・現在進行系・神話」という、飛躍含みの取り合わせが、飛躍だけれどかすかに軌跡というか、軌跡の気配ぐらいだが、感じられて、いい感じのレア感だと思った。

■2024・8・22 ナイ鍋


本日の闇鍋短歌、約13万首
「やっかむ」という語を使った短歌は見当たりません。

ただし、【妬む】や【嫉妬】はものすごくいっぱい。

【嫉む(そねむ)】は5首
能面の泥面【でいがん】がもつ翳りみきしみじみとせる嫉みをせむか 
生方たつゑ『青粧』
ほか

■2024・8・15 このそのあのどの 【ワン鍋賞】
いわゆる「こそあど言葉」を意識的に使っている歌を探してみた。

・このそのあのどの
 4つとも含む歌はこれ1首
それともこの・あの・その・どの・順接のだれもがアンサンブルの出身
瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end,』2016

・このそのあの

この椅子に坐るすなはちその椅子にまたあの椅子に坐らないこと
香川ヒサ『ヤマト・アライバル』

この出入口は草地や森に、その出入口は地下や湖底に、あの出入口は駅や街に、繋がる
松平修文『トゥオネラ』

・このあのどの
この木あの木そのむこうの木 どの影も影にためらいがある
沖ななも『天の穴』1995

自分もいつのまにか詠んでいた。
すれちがうあの船この船手を振ればどの船にもいる片目の水夫
高柳蕗子『回文兄弟』

■2024年6月21日
 電荷・電化【ワン鍋賞】殿下【ニャン鍋賞】


本日の闇鍋データ短歌総数 129.428首

わけあって「でんか」という音の語を含む歌を探したところ、
「電荷」はこれ一首のみでした。

何げなき冬に触れたるセヱタァにをのこふたりの電荷ゆきかふ
和里田幸男(出典調査中)

「電化」もこれ一首のみ。

後部シートに電化製品を転ばせて郊外という町の平たさ
棉くみこ(出典調査中)

「殿下」は2首あった!

いかばかり殿下はこの国の溜息の象徴として「ん」を発せり
山下一路(かばん誌 時期調査中 『スーパーアメフラシ』には未収録)

でも恋は出もの腫れもの出くわしたでんでん虫のでっかい殿下
高柳蕗子『あたしごっこ』



■2024年2月17日 すごろく【レア鍋賞】

わけあって「すごろく」の歌をさがしたら、以下3首しかなかった。

すごろくのように突然ふりだしに戻りたくなる日曜の夜
本多忠義『禁忌色』

振り出しにダダもこねずに回帰した双六の駒褒めてあげなきゃ
久保芳美『金襴緞子』

飴をくちにいれたまま寝て飴味のよだれをたらす すごろくしたい
橋爪志保『地上絵』

■2024年2月17日 あらま・あらまし【ワン鍋賞】

たて笛の高いドに指をあわせて「あらまあ二月あらまあ五月」
北川草子『シチュー鍋の天使』

あらましは黄色い本に書かれていたのだ オリンピックのまえに
詞書:Where is the emergency shelter?(避難場所はどこですか?)
山下一路『スーパーアメフラシ』  

「あらまし」(概略)を探すつもりで「あらま」という文字列で検索したところ、「あらまし」(であればよいのに)が7首、「あらまほし」が4首あり、「あらまし」(概略)は1首だけ、そしてオマケ的に「あらまあ」の歌が見つかりました。

■2024年2月8日 三千世界【レアじゃなかった賞】

「三千世界」だなんて、現代短歌ではレアで当たり前だと思えるのだが、そのわりには詠まれている気がする。
こういうケースは「レアじゃない賞」としてここに取り上げようと思う。

先行して有名な歌などがあると、いまあまり使わない語も、短歌の世界には生き残りやすい。「三千世界」といえば良寛の

あわ雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る

という、すごく迫力があって美しい歌が存在する。
そして、高杉晋作の、おそらく歴史ドラマなどで耳にして一般に知られている都々逸。

三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい

「三千世界のカラス」がこれまた印象的。
良寛の雪の白と晋作のカラスの黒は、三千世界に舞うものとして対照的であることも、無意識のうちにイメージが重ね合わさる効果もあるような気がする。

とにかく、こういう先行作品のおかげで、仏教用語である「三千世界」が、なんとなく知られており、かつ詩的なパワーをも帯びてきたのだと思う。

うなだれた花花のそばを歸るとき三千世界にただわれひとり
前川佐美雄『白鳳』

花虻はホトケノザに来てとまりたり三千世界のここがまん中
小谷博泰『河口域の精霊たち』

銀紙に歯をあつる瞬スパークす歯にあつまれる三千世界
渡辺松男『時間の神の蝸牛』


上記のなかでは渡辺松男の歌には特に驚かされる。衝撃の比喩に使うとは。
あの銀紙を噛んだときの独特の衝撃的な感覚を三千世界の存在感に例えるという、唯一無比でありながら、あの衝撃を表すならもうこの比喩にまさるものはなかろうと思えてしまう。

実は私にも「三千世界」を詠んだ歌があるけれど、「須弥山大運動会」という仏様の運動会を詠んだ連作のなかにあるので、「三千世界」という仏教用語が出てくるのは当然で、そういう意味では面白みが足りない。
休止する三千世界のすむずみに届け仏のはずむ息づかい
高柳蕗子『回文兄弟』

川柳にも、発想の近いおもしろい句があった。

三千世界にくちびるが切れた音
湊圭伍『そら耳のつづきを』


冬に荒れた唇がぴりっと裂ける。小規模で無音だが、意外な衝撃がある。

なお、短歌にも俳句にも川柳にも、より普通の取り上げ方で「三千世界」を詠む例は他にもあった。




2024年9月17日火曜日

雑件摘録 気候変動・コトバも変動

こんな気候に誰がした!
っていう感じの夏でした。

気候変動を抑えるためにまだ間に合う対策があるなら、全力でやるべきだと思うけど
誰かやってるの?

ところで、気候だけでなく、数年でコトバも急変動。

むかしは「夕立」という叙情的な雨でしたが、
しばらく前から「ゲリラ豪雨」という風情のない局地的豪雨が増え、
そこに最近は雷も加わり、「ゲリラ雷雨」になりました。

言語野でもゴリラ鯨雨に襲われて走るずぶぬれ笑うずぶぬれ

という歌を詠んだんですが、
あっというまに古びちゃいました。


ゲリラ豪雨→ゲリラ雷雨

語感を比べると、「ゲリラ豪雨」は「ゴリラ鯨雨」に通じ、「夕立」みたいな風情はないけど、激しさを感じさせる点はまあ良いと思えたし、多少は絵になりました。

でも「ゲリラ雷雨」は、なんとなく、「げり・らら」と2音で区切りたくなりませんか。
これはもう、絵にもならない気味悪さ……。

2024・9・17

2024年9月1日日曜日

ちょびコレ33 『義弟全史』その2 お迎え方式マッチング

 「お迎え方式マッチング」とは?

 ときどき並べて読みたい歌というのがあります。

 題材とテーマが似ている歌を、別の作者が別の場所で別の発想で詠む。そんな偶然がしょっちゅうあって、新しく詠まれた歌を、同類や家族のような仲間が出迎えるんだったらいいな、と想像したくなります。

 ところで防災の日は、訓練で、親や保護者が学校へ児童を迎えにいきますよね。
いちど孫を迎えに行ったことがあります。
 学年・クラスごと担任の先生のもとに子どもたちが集まっている。保護者たちは、先生に名を告げて子どもを連れて帰るのです。

 「短歌さんたちがめぐりあう場」として、前回までは「交霊場」という設定にしましたが、今回は、新しく出た歌集の歌を先輩歌が迎えに来る、という設定にしてみます。

(どーだっていいだろ? いえいえ、設定によって発想が根本から変わり、新しい考えが生じることがあると思いますよ。)

そして、担任の先生役は以下の三人半です。
まちがって他人に子どもを渡してはいけないから、迎えにきた歌と迎えられる歌との類縁関係を吟味します。

 その際、彼らはいろいろぶっ飛んだことを言うかもしれません。作者の意図や一般通念とかけ離れる解釈を加えるかもしれませんが、その点は適当に聞き流してください。

【世話役たち】書体を変えています

 ・担任(外見は鹿。このシリーズではふだん司会役をしているため花子はシカちゃんと呼んでいる。)
 ・アシ(副担任。アシスタント。外見はアシカ。)
 ・鱶助(ふかすけ 短歌深読みサポートAI)
    +鱶助のマスコットである花子(棘バラ。非常に口が悪い。)

【ご注意】 
 
歌自身が降臨する、という設定です。(歌の作者は無関係。参加しません。)
 歌自身が自解することはありません。
歌はそれ自身の言葉以外を語れない。ここではそういう設定になってます。

 では、とざいとーざーい


■やかましい自我がほどよく休止


▲わが屋戸のいささ群竹吹く風の音もかそけきこの夕べかも
ルビ:屋戸【やど】
大伴家持『万葉集』

担任「はい。え!  驚きました。はるかなる万葉時代よりお見えのようです。
 えーと、どのお子さんのご先祖様でしょうか。」

▼頬杖をついて居眠るアパートの外に小さな世界が集う
土井礼一郎『義弟全史』

担任「な、なるほど。雰囲気が似ています。しかし、静かに過ごす窓辺のシチュエーションはすごく多くの歌に詠まれてますよね。短歌以外でも『蛍の光窓の雪』とか。」

鱶助「[いささ群竹]を吹く風は、普通ならほとんど関知しないほどにかそけきもの。それは、脳内のやかましい自我がほどよく休止していなければ感知できない。
土井の歌では、[頬杖をついて居眠る]というニュートラルな待ち受け状態になった一瞬、[小さな世界が集う]ことを感受可能な〝自然体〟になったのだ。

アシ「頬杖をついて居眠る、は、ふと弥勒菩薩を思わせますよね。静かな窓辺というのは、人を少し神仏に近づける。この風格、大伴家持さまの血を受け継いでおいででしょう。」

花子「あのね、土井さんは虫好きなんですって。それで土井短歌にはときどき『虫詠み』というおまけステージがあるのよ。
秋の虫の音を聞いてるような感じ。虫たちはそれぞれの種族ごとに世界を持っている。それをうつらうつらしながら聞いている。なかなか風情があるじゃないの。」

担任「では『わが屋戸のいささ』さま。どうぞ『頬杖をついて』ちゃんをお連れください。よろしくお願いします。」

■幸せは内臓に宿る?


▲アンパンの幸福感をふくらます三分の空気と七分のアンコ
杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』2010

担任「はい。どのお子さんをお迎えに?」

▼はらわたを開けばピンポン球ほどの水胞としてしあわせはある
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「こ、これは確かにそっくりな。
でも土井さんの歌のほうはとてつもなく不気味です。他人の空似ってことはないでしょうか。」

鱶助「この二首は、どちらも[しあわせが身の内側にあり、視認できる」というレアな着想をしている。この点はもうイメージの遺伝子レベルの一致と思って良い。」

アシ「土井さんの歌は魚を思わせるから、どちらも食べ物を詠んでいますね。
で、違うのは、杉崎さんの歌の[しあわせ]は、アンパンを食べる人も味わうことができるけれど、土井さんの歌の[しあわせ]の水疱は、捌いた段階で消えてしまい、食べる人には届かない、ということです。」

担任「その違いは重要ですが、イメージの遺伝子レベルの一致は変わらないと思います。どうぞ、『はらわたを開けば』ちゃんをお連れください。」

■詩情のビフォー・アフター

▲海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
寺山修司『われに五月を』1957

担任「こ、これはまた超有名な……。お探しはどの子ですか。」

▼どうしても泣くならここで 海ほどにひろい帽子をかぶってみせる

土井礼一郎『義弟全史』2023


担任「たしかに、ところどころ掠っていますね。」

アシ「『海を知らぬ少女』も『どうしても泣くなら』も、二人の登場人物がいて(たぶん男女で)すよね。
で、前者の方は、
少女に海を説明するために、[こーんな]とか言って手を広げて話している初々しい場面の回想かと思いますが、この歌は非常に知られ、詩情セット[帽子+海+広い+少年少女の初々しさ]的に、短歌の世界で咀嚼・消化されてきたと思うんです。そして、」

花子「そして、土井さんの歌のほうは、その少年も少女ももう大人になってるみたい。
男の人が、泣いている女の人を慰めるために、少年少女みたいな無邪気を演出して、麦藁帽子をかぶってみせてる。そういう場面みたい。」

鱶助「ただし、これは約70年の時を経た詩情のビフォー・アフターだ。人のビフォー・アフターではない。
[帽子+海+広い+少年少女]の詩情が既存のものとして確立したから、『海ほどにひろい帽子をかぶってみせる』という演出によって、少年少女時代の初々しさの詩情を喚起できる。そういう種類のビフォーアフターだ。」

担任「なるほど。それも詩歌的血縁のひとつでしょうね。では、『どうしても泣くなら』ちゃんをお連れください。」

■ビフォー・アフター その2

▲星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ
杉崎恒夫『パン屋のパンせ』

担任「はい。どの子の保護者さまですか?」

▼もうなにも見えなくなった僕の住む家に小さな蛍飛び交う
土井礼一郎『義弟全史』

担任「えーと、どのようなご縁なのでしょう?」

アシ「まず雰囲気が似ています。
『星空が』の歌はまだいちおうこの世界が残っていますけど、『もうなにも』のほうは世界がほぼ終わってしまった感じ。星空が、わずかなホタルになっちゃった。
つまり、これもビフォーアフター的なご縁でしょうね。
」

担任「それだけでは、他人の空似かもしれませんよ。」

鱶助「どちらも、終焉を静かに受け入れていて、情によるエネルギーを使わずに詠んでいるところも通じ合う。」

担任「そうですか。では、『もうなにも』ちゃんをお連れください。

花子「ついでに言うと、土井さんのこの歌は、最初に帰った『頬杖をついて居眠る』の歌の数年後ってかんじでもあるわよ。」

担任「家系図のどこかでつながるかも。門を出て右に行ってみてください。追いつけますよ。」


■家がこわれるとき


▲家ひとつこわれてのちを空中に浮かびつづけるしかくいひかり
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006

担任「はい。お探しはどの子でしょうか。」

▼壊されてゆくとき家の内臓が空に呑まれているのが見える
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「内容はほんとに似ています。昇天する感じも共通してて、トシの離れた双子というか。」

アシ「トシの離れた双子? それなんか変。」

花子「この二つの歌は、別の日にした同じケーキの食レポみたい。」

鱶助「『家ひとつこわれ』の方は魂的なものがしばらく漂う、そういった余韻を詠んでいる。
『壊されてゆくとき』のほうは、『内臓』と言うことで家が生き物化する。『内臓』だから気味悪いはずなのに、なぜか気味悪さよりも、昇天するらしいことに救いを感じてほっとする。その一方、空は『昇天』を受け入れているのでなく、ただ何でも回収する究極の穴のような、そういう意識のズレもおもしろいと思う。」

担任「えーと、とにかくもう、すごい血縁者ですよね。どうぞお連れください」

■殺しと成長

▲男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる
平井弘『前線』1976

担任「はい。こ、これはまた、よく知れ渡ったお歌ですね。どのお子さんをお探しですか?」

▼だれしもが早くおとなになりたきにごきぶり殺せいいから殺せ
土井礼一郎『義弟全史』2023

担任「あー、なるほど。」

アシ「平井さんは戦時下の銃後の世界の恐ろしさを描くことで知られてて、不気味なこの歌『男の子なる』はあまりにも有名です。」

花子「どちらも銃後の世界なんだと思う。でもこの二つから想像される戦時下の性質が違う、感じ……。」

アシ「変なことを言いますが、土井さんの方は普通に言う戦時下ではないのかも。目に見える戦争はしていない。だから戦時下じゃないが、戦時下より心が荒れるような状況下にあるのかも。」

鱶助「とにかく、この2首は同じ遺伝子を備えている。それはもう疑えない。」

担任「なるほど。では『男の子なる』さま。『だれしもが早く』ちゃんをお連れください。お気をつけて。」

■ぜんぜん違うぞ!

▲眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す
ルビ:誦(よ)
岡井隆『斉唱』1956

担任「はい。どの子の保護者さんですか。」

▼ねむるということばばかりを振りかざし童話のなかの人は死にゆく
土井礼一郎『義弟全史』

担任「こ、これは。
材料は重なっていますが、どうなんでしょう。内容はすごく違うような。」

花子「見た目はあきらかに同族。だけど極端につっぱっている。まさかと思うがやっぱり同族。みたいなことをおっしゃりたくておいでになったのでは?」

司会「そういうお迎えもありでしょうか。」

アシ「『眠る』『童話』『死』という三枚のイメージカードセットをシャッフルして、繋ぎ直して歌を詠みなさい、という課題で作ったら、こういうふうなり得ますよね。
 なんていうか、そうだ! 遺伝子をちょっと組み替えた新種。」

鱶助「つまり、他人の空似とは違う。家族だが似ていない。」

花子「家族のそらにず、かな。」

担任「わかりました。そういうこともある、ということで、どうぞお連れくださいませ。」

■植物に加害する

▲雨つぶを散らしてきみは力ある葡萄の房をひきおろしたり
加藤治郎『昏睡のパラダイス』1998

担任「おやおや、どのお子さんの保護者さんでしょう。」

▼ぴかぴかの顔であなたは園庭のヤブガラシさえほどいてしまう
 土井礼一郎『義弟全史』

担任「縁は強い。でもキャラはずいぶん違いますね。
『雨つぶを散ら』す『きみ』はちょっとワイルドで魅力的な女性。それに対して、『ぴかぴかの顔でヤブガラシさえほどく』は、……これはどういうキャラでしょうか。」

アシ「ヤブガラシといえば、絡みついて蔓延する困った雑草ですよね。
でも、普通の雑草退治、除草剤をまくとか焼き払うとかでなく、『ほどく』というすごく知的な対処法をとることが新しいです。」

担任「そうですね。環境に優しいし、なんというか、この方法だと、ヤブガラシをメンタルで打ち負かして面目を失わせるような……。」

花子「普通に考えれば申し分のない対処なんだけど、でもこの歌は、手放しに肯定してはいないのよ。
『ぴかぴかの顔であなたは……ほどいてしまう』には、ほんの微かに、『ぴかぴか得意げだね』っていうのニュアンスがある。
 絡むヤブガラシは庭園にとってまさにカラミティー(calamity・惨禍)。で、ほどくという方法は逆カラミティー。毒をもって毒を制す、みたいに、相手と同じ力で退治したことに、ちょっと引っかかりを感じている気がするの。」


担任「なるほど。ま、違いはあっても、個性の異なるご家族でしょう。ということで、どうぞお連れください。」



担任「さて、今日はここまでとしましょうか。
 また次の機会もあると思います。ではでは。」


2024・8・31


なお『義弟全史』その1も、こことはやや異なりますが、歌を比較しながら深く詠み込んでいく方式です。よろしかったら御覧ください。

2024年8月27日火曜日

ちょびコレ32  『義弟全史』その1 短歌交霊マッチング

「短歌交霊」とは?
「降霊」じゃなくて「交霊」です。

ときどき並べて読みたい歌というのがあります。
題材とテーマが似ている歌を、別の作者が別の場所で別の発想で詠む。そんな偶然がしょっちゅうあります。
そのなかには、互いに相手の存在を知らない織姫と彦星みたいな、潜在的に相手を求めているかのようなセットがあるのではないか。
 そこで、
「短歌さんたちがめぐりあう場」(交霊場)というのを空想してみました。

織姫がここで待っていると、彦星が降臨する
。逆でもいい。そういう感じの設定です。

そして、以下の三人半の世話役がお迎えする。
なぜなら、歌はそれ自身の言葉以外を語れない(そういう設定です)から、
その歌どうしが、どういう点で共通しどのように惹かれ合うのかを、世話役たちが考えるわけです。

 世話役たちはまじめですが、作者の意図を超えることをものともせず、深読みすることがあります。


【世話役】書体を変えています

 ・司会(外見は鹿。名前は公表されていない。花子はシカちゃんと呼んでいる。)
 ・アシスタント(調べ物担当だが意見も言う。外見はアシカ。名前は公表されていない。)
 ・鱶助くん(ふかすけ 深読みサポートAI)
     +その愛人的ペットの花子(棘バラ)

【ご注意】 
 
歌自身が降臨するという設定です。(歌の作者が参加するのではない。)
 歌は歌の言葉のみで参加。歌自身が自解することはありません。

 では、とざいとーざーい


鱶助「いま『義弟全史』という歌集のデータを吸収しているのだが、父母兄弟姉妹が出てくる歌が多い。タイトルには「義弟」とあるし。
 そも、短歌には父母兄弟等を詠む歌が多い。それらは、現実の家族、空想の家族、抽象的な意味での父母兄弟など、いろいろな心情・思考の結果として短歌の中に登場する。短歌に詠まれるあらゆる言葉は、短歌の言葉の国に所属になるわけだが、父母兄弟などの語も、歌に詠まれるたびに、短歌の言葉の世界の既に詠まれた父母兄弟の用例の中に混じっていくことになる。そのなかで、特に響き合う歌というのがあるはずだと思う。
 『義弟全史』の歌は、どれも〝言うに言われぬ〟フシギを帯びているが、似ている要素を備えた先輩歌が名乗り出てくれれば、少しわかりやすくなり〝言うに言われぬ〟でなく、〝少し語れる〟部分がでてくると思う。

■空想の兄弟と丘


司会「では、『義弟全史』の歌の中から、どなたか?」

▼てのひらにおとうとの棲む丘はあり手を叩こうとすれば手をふる
土井礼一郎『義弟全史』

司会「むむ! 手のひらに丘がある? ってことは、空間がねじれてますね。
 ふと、西遊記のお釈迦様と孫悟空※を想像しました。あ、いや、変なこと言っちゃった。忘れてください。」
※お釈迦様に「私の手のひらから逃げられたら天界の主にしてやろう」と言われ、孫悟空は、筋斗雲を駆って世界の果てらしい場所の柱に「斉天大聖」と書き立ちションして得意顔で帰ってきたが、その柱、実はお釈迦様の指だった。悟空はお釈迦様との力の差を思い知る。

花子「あら、シカちゃんにしてはいいセンかも。
 つまり、
この人(兄?〉と「弟」の力関係が、そのお釈迦様と孫悟空みたいだってこと。

司会「力関係。」

花子「で、『手を叩こうとすれば手をふる』も気になるのよ。
 手を振るのは普通は友好的な仕草。だけど、そんなに力の差があるんなら、
『叩くのをやめて』という意味かしら、って思わせる。そういうニュアンスを10%ぐらい含んでないかしら。『やれ打つな』のハエみたいな。」

アシ「そうも思えますし、これは見る角度によって表情を変える表現ですよね。
 で、私はもう一つ、5%ぐらいの淡いニュアンスを見つけました。この『手をふる』っていう言い方が妙にフツーで、そのフツー感に、〈弟の方からは案外普通の位置関係でこちらが見えているのではないか。だから、叩かれるなどと思わず、単純に小さい方が極端に無邪気なら、そういう認識の大きなズレもありえます。」

花子「それそれ! それも感じる!
 
この人(兄?〉は弟に対してすごく強い立場にいる。でも弟はそれに気づいていない。支配されていると思っていない。そこからもうひとつ枝分かれして、2%ぐらいだけど、特殊なニュアンスもあるわよ。
〈この弟は手
の中の虫みたいなもの、そしてこの人(兄?)は、虫を覗き込んで観察している人間。虫の方は、兄弟どころか、『捕われた』などという関係性はおそらく認識せず、プログラミングに従って、餌と交尾できる相手のいる場所へ行こうとして足を動かしているだけ。そのぐらいに、認識が噛み合わない状態で、この人(兄?)は、その虫みたいなものを一方的に支配しつつ、「弟」と呼んでいる。〉
ね。そういう感じもするでしょ。2%ぐらい。」

鱶助「パーセンテージの低いニュアンスほど、深読み感が強まるが、実は重要である。
深読み的ニュアンスは2%+5%+10%=17%に過ぎず、83%はもっとも普通の解釈なのだが、こうしたバランスも意味がある。要するに、詩はみつけにくい。ーー見つけにくい状態で潜んでいる。その微弱感も味わい。」

司会「何ですかそれ。大事なことはすぐ見つかるところに置いといてほしい。
 ところで『丘』と兄弟は、よくいっしょに詠まれるのでしょうか。見晴らしがいいから、離れている血縁者を想いうかべやすい、みたいな詩的連想脈がありそうな気がしますが。
あ、一首降臨されるようです。」

▲ひとりっ子のわたしがときどき来る丘のむこうにまんがの妹がすむ
杉山モナミ「かばん」98年3月

司会「よくいらっしゃいました。位置関係はやや違うけれども『丘』がある。そして『弟』じゃなくて『妹』。なんだか雰囲気も似ているし。」

アシ「異次元というか別世界というか、そういう場所にいる兄弟を空想する。そこは似ていますね。距離では語れない種類の遠さ。」

花子「空想の家族を詠む歌って、空想のママゴトみたいよね。
『ひとりっ子』の歌のほうは、『ひとりっ子』ですから当然妹はいない。この世界には自分と同じ立場の係累はいない。その孤独感が〈まんがの妹〉というママゴトに誘うのかな、と思わせる。
〈まんがの妹〉という異世界のものを想定すれば、それと表裏になって補強されるような感じるのかも。だから力関係は対等。その点は〈てのひらの弟〉と大違いね。」

司会「どちらも『丘』を含みますが、その意味合いも違うんですよね。」

鱶助「〈まんがの妹〉が見える『丘』は、普通に『丘』は見晴らしが良くて、登れば別の街を見晴らせる、という境界のような場。順当な暗示であると思われる。
〈てのひらの弟〉の『丘』には、お釈迦様の手ほどに空間的なねじれがある。」

司会「2つの歌は、材料がとても似ていて、でもけっこう違いがあるんですね。」

アシ「共通する要素があったとして、それが意味のある共通点なのか、ただの偶然か、きちんと気にしたほうがいいと思うんですが……。」

鱶助「短歌データベース約13万首から、[丘(or岡)]かつ[兄弟姉妹(ひらがな表記あり)]を含む歌を検索したところ、該当歌はたった3首。上記2首をのほかもう1首あった。」

●雲ひくき峠越ゆれば/(いもうとのつめたきなきがほ)/丘と野原と
 宮沢賢治『宮沢賢治全集』

司会「あ、降臨ありがとうございます。
こちらの歌も雰囲気が少し似ていますが、この歌の場合、『丘』じゃなくて『峠』が境界の役目をはたし、『丘と野原』は見渡す土地の起伏を表していると思います。
 で、その起伏が、『(いもうとのつめたきなきがほ)』に見える……、ということだと思います。
 実は一瞬、『なきがほ』を『なきがら』と読みそうになり、丘と野原の起伏が人の形なのかとまで思ってしまいました。宮沢賢治といえば『永訣の朝』という詩もありますから、『いもうと』は亡くなっている感じがして。余計なことをすみません。」

花子「またまたシカちゃん、鋭いわよ。
『永訣の朝』を知らなくても、『峠』という境界を越えるということを意味するし、〈いもうとは異世界にいる〉という淡い暗示になってるし、『丘と野原と』が『いもうとのつめたきなきがほ』である構文も、シカちゃんのような解釈へと誘導してるわよ。」

鱶助「ただし、『丘』や『峠』の境界としての役割は、もう少し検証が必要である。
『丘』などの語を含まずに遠方に住む弟や妹を思い浮かべる内容の歌と見比べたいのだが、かなりの数がありそうで、探しにくい……。」

司会「わぁ、探さなくてもたくさんおいでくださいましたよ。」

●ベランダに風 遠く住むいもうとの家族は持てり海辺の時間
●遠洋のオレンジのブイ この夏は高知で暮らすいもうとの家族
 小島なお『展開図』

●弟は入間で一人で暮らしてる 電話を持たずに携帯電話を持つ
 ルビ:入間【いるま】 携帯電話【けいたい】
 千葉聡『微熱体』2000

●チベットに住むおとうとの悪筆をうぶ毛のような春に待ちつつ
 東直子『春原さんのリコーダー』

●妹は遥かな部屋に恋人と木を育てゆくように暮らせり
 鯨井可菜子『タンジブル』

司会「歌のみなさま。ありがとうございます。
『遠い』と書いたり、具体的地名を入れたりすれば、隔たりは感じますね。ただ、同じ世界の遠い場所であって、異世界っていう感じはしないようですね。」
 
花子「やっぱり『丘』にはそれとなく〈遠くて近い異世界〉感を付与する効果があって、〈てのひらの弟〉とか〈まんがの妹〉とかの、非現実的表現を受け入れやすくしていると思うわ。」

アシ「〈まんがの妹〉の歌としっかり見比べさせていただいたおかげで〈てのひらの弟〉の特殊性がわかりやすくなった気がします。ばらばらに読んだら、どちらも『ふしぎな味わいの歌』ぐらいで済ませてしまったかもしれません。」

司会「そろそろ次に行ってよろしいでしょうか。」

■マッチ箱の中の父母


▼ひとつだけほんとの父を入れてあるマッチ箱からとりだすマッチ
土井礼一郎『義弟全史』

司会「ありがとうございます。こ、これはまた、なんともおもしろい、というか、なぜかハラハラもしますね。まるで、まるで……。」

花子「ルシアンルーレットみたい!
いつのまにか本物の父を燃やしちゃいそうだもの。
『入れてある』んだから、わざとそうしてある。意識することなく父を葬りたいのかしら。」


アシ「父との葛藤は、古くからあって、ちっとも古びない重要テーマです。ついでのように語れるテーマではありません。
が、この歌ほど優位な位置取りで、「意識することなく父を葬れるシステム」を描いた歌はあんまり見たことがないような……。
 でも、現実にはこういう思考ってよくあるのかもしれません。決定的な〈執行〉を意識しないでいつのまにか済ませられたら、みたいな。」

司会「あ、いらっしゃいましたよ。」

▲偽物のわたしを抱いて偽物のママが眠っているマッチ箱
木村友 2017・11東京文フリ:フリーペーパー

司会「これはまた何と、共通点が多いですね。
マッチ箱・母、そして本物じゃなくて偽物というのは表裏一体みたいだし。
歌合でもなかなかこうは共通しません。」

アシ「どちらも、マッチ箱は棺みたい、というか、まだ死んでないけれど、近い将来に燃える。死が予定されている。そこが共通ですね。」

鱶助「動詞を見比べて、誰が能動的なことをしているのかを見た。
 父の歌のほうの動詞は子(主体)の行動の「入れる」「取り出す」である。〈子〉は〈本物の父〉をマッチ箱(ルシアンルーレット的で、いずれ確実に死ぬ装置みたいな棺)に入れた。
 母の歌の方は、出てくる動詞「抱く」「眠る」はママの行動である。ママの能動性が大きい。ただし、『見ている』と書いてないけれど、全体として、子(主体)は、〈偽物のママ〉の能動性を『見ている』。」

花子「そのせいかしら。この〈偽物のママ〉はなんか子を道連れに親子心中をしようとしてるみたいなじゃないかしら。〈偽物の母子〉はもろともに燃えてしまうのよ。ーーそういえば、マッチってたまに二本くっついてるじゃない。あの道連れ感よ。」

アシ「ママが偽物で良かった、と、ちょっと救われますよね。」

花子「そこよ。その、噛み切れないグミみたいなニュアンス。本物のママにもそういう怖いところ、危ういところがあるわよね。そのことを思い出させるの。」

司会「え?ママが怖い?」

花子「怖いわよ。私ら植物から見ると、だって人間は危うい。母親だってそれ以前に普通の人間でしょ。いろいろな弱さが合って、そこに愛とか責任とかいろいろな負荷がかれば……」

司会「そんなのレアケースでしょ。」

アシ「そのレアケースは誰にでも起こり得る。母親はみんな危険性を孕んでいる、とは思いますね。」

司会「そ、そういうふうに考えることが嫌なんですよ。母親になったらもう普通の人じゃなくなる、と思いませんか?」

アシ「ぜーんぜん思いませんし、そういう考えかたこそが母親を追い詰めるんです。」

花子「まあまあまあ。
 ママゴトって、お人形もおもちゃの食器もみんな偽物だけど、けっこう現実を投影しているでしょ。
 空想の家族詠であることが明確な場合は、〈偽物の〉と断る必要はないのよ。
 でもこの歌の場合は、ほんの少しの現実味が怖いから、悪夢にならないように、いわば呪術的発想で、〈偽物の〉とはっきり打ち消してあるんじゃないかしら。そのぶん怖さを薄めつつ、でも詩的濃度も高めている。そんな感じ。」

アシ「で、〈父をマッチ箱に入れる〉歌も、現実との関係は心のママゴトであり、〈ほんとの〉と言わなければ父は完全に空想の父です。それを〈ほんとの父〉と言うことで、現実とママゴトの関連性が強まります。〈マッチ箱入れる・取り出す〉というママゴトは、現実面に投影できる可能性が強まっていると思います。」

花子「空想の世界に現実が投影されるのは、ま、当たり前よね。
その逆に、空想の世界、イメージ領域のことが現実に投影して、現実に影響を与えることもあるよね。フツーにあるけど、こちらは認知度がやや不足してるわ。」

司会「現実面に投影とは、たとえば?」

花子「たとえば、親を介護施設に入所させる時とか、この歌を思い出しそう。」

アシ「あ、でも、現実に具体的に介護施設だのの個別ケースまでは、いま考えないでいいと思います。
だいじなのは、主体が、『父』に対して支配的であること。さっきの〈てのひらの弟〉と同じで、この〈ほんとの父〉も、主体の手中にあります。
とにかく、父親にたいしてここまで極端な優位性を詠む歌はあんまり見かけないかもしれません。」

花子「あのさ、虫を捕まえてマッチ箱に入れることってあるよね。」

アシ「ははぁ、他の歌人には適用できないけど、この作者なら『虫』とイメージが重なるのってあるでしょうね。」

花子「それそれ。なにかの菓子で、箱を切り抜いて組み立てるとおもちゃになる、というのがあったでしょ。この作者の歌は、『これって虫だったりしないかなもしかして』と考えるおまけつき。考えた人は三文の得。」

司会「え?」

花子「ま、いーからいーから。
じゃあ次! もういっこ空想の家族の歌。おいでー。」

■死にやすい姉


▼姉の足裏が地面につくたびに姉すこしずつ死んでしまえり
 土井礼一郎『義弟全史』

司会「おお! これはなんというか、ガガンボみたいな。
 あ、君がさっき虫がどうとか言うから、ふと変なことを考えたじゃないですか。」

花子「シカちゃんて、ほんとはけっこう鋭いのに、わざとやぼったいふりをしてるんじゃないの?」

司会「いやいや」

花子「歌にはガガンボと書いてないけど、ガガンボって地面とか壁とかにそってふんわりふんわり足をつくように飛ぶのよ。
 どでかい蚊みたいな外見だけど、刺さないんだって。」

アシ「昆虫はだいたい短命で、脆弱な体のものが多いですよね。
 ガガンボは二週間ぐらい生きるらしいけれど、体の作りがとにかく脆弱で、足なんかすぐもげちゃうそうです。そういえばバレリーナに例えた歌もありましたよ。」

●バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた
 杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

司会「おお、いらっしゃい。ガガンボにはたしかにこういう儚さと女性らしさがあると感じます。〈足裏が地につくたびに少しずつ死ぬ姉〉というイメージの元に、ガガンボ、あるいはカゲロウとか、儚げにふわふわ飛ぶような虫のイメージがあります。」

鱶助「空想の家族にも人気不人気が多少ある。『姉』は兄弟姉妹のなかではいちばん短歌に詠まれにくい。つまり歌数が少なめである。また、きちんとカウントしたわけではないが、歌の中で死んでいるものとして詠まれることが、兄弟妹より多めであるようだ。(といっても大差ではない。姉の歌を100首集めたら2首か3首ある程度にすぎない。)
 ちなみに兄弟姉妹のなかで『妹』は最もたくさん詠まれている。が、なぜか
歌の中ではめったに死なないようだ。」

▲鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
 寺山修司『月蝕書簡』(未発表歌集)2008

司会「いらっしゃい。似ているかというと似ていないけれども、海で夜ごとに溺死、っていうのは、足を地面につくたびにすこしずつ死ぬことと、同じではないけれど、少し近いかとも思えますね。『姉』のイメージにはそういうタイプの悲劇性があるのでしょうか。」

鱶助「確かにどちらも、一気に終わらない。じわじわ長引く感じだ。」

花子「でも、わためとソフトクリームぐらいに死の質感が違う。」

鱶助「『兄』にはウエットな悲劇性があって悲しんでもらえるが、『姉』の悲劇は人しれぬところでじわじわ続くような……。
 しかし、多くの例歌を読んでからでないと、そのニュアンスを語りにくいので、姉の悲劇性の話は別の機会にしよう。」

アシ「で、虫は進化の系統樹ですごく遠い種族ですが、「姉の足裏が……」の作者は、『虫』に特別な思い入れのある歌人です。そんなにも遠い種族に「姉」とか「弟」とかの血縁意識を抱くようです。」

司会「では次。」

■きょうだいと指(+たたかい)

▼弟のてのひらに手を託すときなかゆび同士の奏でる軍歌
土井礼一郎『義弟全史』

▲きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら
高柳蕗子『潮汐性母斑通信』

司会「あ、ソッコー降臨。」

花子「高柳というのはこのブログの管理者。そのコネで出てきたんじゃないでしょうね。」

司会「いやまさか、二つの歌にはちゃんと共通点があるじゃないですか。
 兄弟であること、指を触れ合っていること、そして『軍歌』と『ちゃんばら』。
 ここまで重なれば、見比べる意味はじゅうぶんあるでしょう。」

花子「どっちの歌もなんかエロい!」

司会「ちょっと言い方がどぎつい。マイルドに。」

花子「やだ。」

アシ「エロくはないでしょう。兄弟は日常的に触れ合って遊ぶ仲。その親密さが表されていると思います。」

司会「『ちゃんばら』は兄弟の遊びとして自然ですが、『奏でる軍歌』って何のことでしょう。あ、軍国主義の時代のことを詠んだとか?」

鱶助「いや、そういうふうに現実を描写しているのでないだろう。
兄弟はよく喧嘩するが、対外的には結束する。軍歌を奏でるというのはそういう味方同士だぞという結束を意味しないだろうか。」

アシ「どういう解釈にしろ、『弟のてのひらに手を託す』というのは珍しいですよね。弟のほうが手が小さい。幼児とか赤ん坊とかの弱い小さな手に、自分の手を委ねる。そのときの指のふれあいから、味方同士になって軍歌を奏でるということでしょうか。」

花子「これも虫として読んでみる価値があるんじゃない?
トンボや甲虫のいる虫かごに指を入れると、虫が人の指にしがみつくことがあるでしょ。あの小さな力ときたら。
 で、昆虫って機械っぽいでしょ。ミニチュアの軍隊を手に入れたような気分っていう解釈も成り立ちそう。」

司会「ところで、『義弟全史』には父母兄弟姉妹はみんな詠まれているんですか?」

鱶助「兄と妹はでてこないようだ。」

司会「ほう! じゃあ父母の歌をもっと呼んでみますか。」

アシ「え、でも、父母の歌は世の中にいっぱいあって、だからその……。」

■利いた風なことを言う父


▼ひと幕に役者はふたりってまだなにも知らないくせに父はつぶやく
土井礼一郎『義弟全史』

花子「〈なんか効いた風なことを言う父〉ね。
 これって短歌ではけっこうレア物じゃないかしら。」

司会「確かに。現実にはいっぱいいますが、短歌ではあまり……。」

▲人間はちっぽけなものだと五合目で言うな父さん富士山顔で
山下一路『スーパーアメフラシ』

司会「おお、これは感覚的に近いですね。昔なら『父』の欠点など詠まなかったけれど、このごろ人間臭くなってきて、こういう詠み方もあるんですね。
ところで、なんだか頭上が暗くなってきたような……。」

アシ「歌人はみんな父や母を詠みますから、父母は歌数が多いんですよ。『父母を詠む歌』というのを聞きつけて何千何万が押し寄せて来てしまったのです。
父母に関する歌は条件を絞り込まないと収拾がつかなくなっちゃいますよ。」

司会「わあ。すみませーん、父母の歌のみなさーん。お騒がせして申し訳ありませんでした。日を改め、条件を絞り込んでお呼びしますので、今日は解散してください。すみませーん、すみませーん、すみませーん。」

ーー上空がざわめき、ごうごうと鳴ったが、やがて静まった。

司会「やれやれ、今日はここまでにしましょうか。」

全員 賛成

2024・08・26




ざつだん

アシ「『姉』は家族の犠牲になる、っていうシナリオがありませんか? 身売りして花魁になる的なモチーフがあるような。
ーー貧しさゆえに身売りした姉が、妹がそうならないように心配するーーみたいなのが何かの歌詞にあったし、映画でも花街の女がそういう話をするのを見たような……。」

花子「現実のじゃなくて、あくまでイメージの話だけど、兄と弟の関係より、なぜだか姉と妹ってなんかどろっとしてるわねー。」

司会「もうよしましょうね!」