老猫の50ヘルツのゴロゴロと雨の匂いを瓶詰めにする
たけしたまさこ
魔女が魔法の材料をストックしておくような感じの記述がおもしろいと思った。「平成の空気缶」(2019年発売)みたいに、見えない中身を空想するアイテム。
缶詰じゃなくて瓶詰めだし、雨の匂いも入っているなら、透明なスノードームみたいなものも想像した。なぜそういうものをストックしておくのかなど、何かもう一つそれとなくの示唆があっても、とも思った。
追憶はあまりにあわく野にありて羽ばたいていたかつての日々の
坂井亮
進化の過程で人間に依存して生きることになった「蚕」という種を詠む一連。
この歌の「追憶はあまりにあわく」は、進化の系統樹を遡る「追憶」であって、個体のそれではない。「野にありて羽ばたいていた」種としての記憶は、遺伝子のどこかにあるかなきか、というところまで薄れてしまった。このことを美しく抒情的に表している。
たはやすく苺は燃える 順番に来る一億人の誕生日
松澤もる
果物には生身(なまみ)感もあって、形状によるが特に「頭」への連想脈がある。(例えば岡本綺堂の小説『西瓜』では、西瓜と生首が入れ替わる。)そのため果物は、生体の脆弱さを暗示し得る。多少関連して、果物には「爆弾」への連想脈も淡くあって、そこから〈生身の爆発物〉というイメージ展開もあり得る。
ただし、この歌は苺を詠んでいて、苺の形状のアフォーダンスは、爆発物より炎を思わせる。そこからイメージは、誕生日ケーキのろうそくに飛び、ろうそくといえば命……と、転じながら繋がっていき、読む側はそれを追いかけながら了解する。その感じもおもしろい。
この一連では果物の〈生身の爆発物〉というアフォーダンスの投影先を、人の生身の体でなく、人間の社会の一触即発の状況へと変更している面もあると思う。
緩やかな疲れ私を覆う頃星と星とがキスをしていた
千春
一日の仕事で自分が疲れに覆われるころ、頭上に星がたのしげにきらめく美しい夜になる、という歌だと思った。天地の層がケーキみたいだ。
ただ、読み直してみて、二首前に「あなたは星の神様」というフレーズがあることに気づいた。あなたが星なら、すごく違う解釈も可能だが、いずれにしてもきれいな歌だから、どちらでもいい。
世界で一番白に近いという紙の名刺を渡す白とは何か
田中赫
経験則として、「何」と安易に問いかける歌は薄味の謎にしかならない、と思ってはいるが、この歌はその薄まり感がなくてちょっと味わいがある。
「世界で一番白に近いという紙の名刺」はうまいキャッチコピーで、突っ込みの入れ方を考えさせる程よい刺激を含んでいる。脳内でさまざまなリアクションが起こり得るわけだが、「白とは何か」という応じ方にはわずかにズレがある。脱線まではしないが、脳内の線路の分岐器がふと作動しちゃって禅問答みたいな路線にガタンと移る、その微妙な体感(体感ではないが似たもの)があっておもしろい。
ルビ:日本の女【Japanese Lady】
久保明
いまパリのオリンピック開催中。さして興味のない私でも、小柄な日本選手が勝つとあっぱれと思う。
この歌の「白人年配女性客」はきっと大柄で貫禄があるんだろう。なぜなら漢字7文字で「はくじんねんぱいじょせいきゃく」とすごく音数を使い、かたや「日本の女」は4文字で「にほんのおんな」なら七音。ルビのほうも「ジャパニーズレディ」で8音。つまり文字数のアフォーダンスで体格を伝えてきている。客あしらいの上手い小柄なスナックママを少し誇りながら見守る常連男性客。そんな視線が読み取れる。
チューリップ夜にはすぼみ昼ひらく春は花びら蕊天を刺す
江草義勝
植物は足で移動はしないけれど、積極性・能動性はある。この歌ではチューリップのそんな自然な営みを詠んでいる。
かすかに性的なニュアンスがあるけれど、それは人間の空想しがちな淫靡なイメージではぜんぜんない。そもそも花というものが植物の生殖器なのだから、性的なのは当前であり、とても健康的なさまである。
大黒千加
一連は上野公園のことを詠んでいるようなので、この歌は動物園での感想なのだと思うが、不思議な空間把握に注目した。
母の胎にはたくさんの出口があって、すべて此の世に開いている。みんなもともと母の胎という同じ場所にいたのだが、それぞれ別の出口から生まれ、ここでこうしてばったり出会っている。ーーそういう図として面白かった。
山道はいつか夕暮れ遠茜行きあう人はみな影がない
松本遊
「いつか夕暮れ遠茜」は童謡にしたいようなノリの良さ。そして、「みな影がない」には、「とおりゃんせ」の「行きは良い良い帰りは」的な怖さも漂う。
昼と夜の境目である夕暮れは、自分はもとのまま周囲が異世界になるような恐ろしさがある。そして、浮足立って帰路を急いだり、夜に向けてくり出したり、幽かな活気のようなものもある。
「行きあう人はみな」は、与謝野晶子の「清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」を遠くこだまさせ、総合してファンタジックな美しさを秘めた歌だと思う。
(それとも「案外事実」というやつだったりして。もしかして山道には実際に影がなくなる時間帯があったりします?)
邸宅の窓といふ窓見上げてゐたり滝の途中のポケットパーク
笠井烏子
ポケットパークとはチョッキのポケットみたいに小さい公園のこと。邸宅の窓をそれに見立てる明るい感性に惹かれた。たくさんポケットのある巨人の胸を光が滝のように流れ落ちるような邸宅を見上げる。そういうアングルだと思う。
このほか「理論武装もままならず狐に走る稲荷寿司つくつては窓際の席」という歌の心理的ドタバタ感も捨てがたい。凝縮度が高いのは「狐に走る」だ。「私欲に走る」等ある状況へ急激に傾くことを表す言い回しだろう。理論では勝てない何かを狐的に化かす作戦、のつもりがなぜか稲荷寿司に転じ、窓際の席に退避。そういうトホホ的な流れか。
舌出せば針を千本のまされて達磨拳万、鬼一匁
浅香由美子
「舌出せば針を千本のまされ」という、地獄でもランクの高そうな拷問もさりながら、下の句「達磨拳万、鬼一匁」に惹かれた。これは造語だろうか。意味不明だが、諺などから切り取った「達磨・拳万・鬼・一匁」が混じりあって生成されたものか? その生成の迫力はいかなる意味にも勝る気がした。
七首目に「妄執は抗えぬもの通過する電車に吾の亡霊を見ゆ」があり、裡に秘めた、妖怪のようにおどろおどろしい妄執がテーマであるらしいとわかる。一連には和風の妖怪ドラマふうの絵になる歌が並び、一見して植物が多く(山荷葉、白き大藤、蛇苺、赤き曼珠沙華、白き蓮)、それが赤と白である。その配色にも何か寓意がありそうだ。三宮またなくあはれなるものは薄暮浜風はるかなる月
佐藤元紀
「源氏物語」はほぼ忘れたので、内容的には多くを読みもらしていると思うが、景色のよい場所、失意の男性、酒、恋人らしい女性、という取り合わせの王朝風のファンタジーとして味わうことはできる。
この雰囲気を支える要素のひとつに音喩がある。掲出歌では同音の畳み掛け(継起的音喩というらしい)がそれとなく打楽器的な役割をしている。
「は」音が、上の句に一度目立たずに鳴り、下の句は「薄暮浜風はるかなる月」と「は」のつく語で3回畳み掛ける。しかも、その語の音数が3・4・7(はくぼ・はまかぜ・はるかなるつき)と増大してリズムを刻み、情感をクレッシェンドしていく。他の歌にも継起的音喩が駆使されていて、それぞれに異なるリズムにいわば作曲されていると思った。
一人暮らしの部屋の机や椅子などの家具の埃を拭き取っている
来栖啓斗
最初、それがどうしたと思いそうになったが、机や椅の埃を拭き取るだけ、ということは、ごしごし拭きとるような汚れがないということだ。
それはつまり、人が使わないということ、そして「机や椅子」は実用品でなく、そう、まるで置物の美術品みたいなものであることを示唆する。「一人暮らし」の静まり返った空気感までも、質感として描き出されていると思う。
でたらめにパズルの数字をうめていく論理のかけらもない気高さで
森野ひじき
気高さと愚かさには接点があるかもしれない。思考することを拒否してパズルをでたらめに埋める。――愚かさのせいでそうすることもあるが、無敵の無垢という気高さも、けっこう破壊的かもわからない。
今どき、「罪のない者だけが石を投げよ」と言えば、「わーい、私には罪なんかないから石投げまーす」みたいな人が押し寄せ、石を握りしめて行儀よく行列をつくりそう。
なまくらな包丁を研ぐよみがえれよみがえれよと指押し当てて
大池アザミ
「よみがえれよみがえれよ」のところ、なんだか人工呼吸みたいな真剣さ感じられるリフレインだ。
一連には、無聊の日々を思わせる歌(「三食をきちんと食べるだけの人で過ごした今日がもうすぐ終わる」等)もあり、包丁研ぎのついでに、なまくらになった自分を蘇らせたい、という気持ちも読み取れる。
ベランダに立って僕らを見下ろしている人の腰まで伸びた髪
土井礼一郎
読みながらふと、「親という字は木の上に立って見る、と覚えたっけ」と、余計なことを連想したが、あながち外れでもないだろう。実際、マンションの中庭で遊ぶ子をベランダから見おろす親の私はひとりだったことがあるし、髪はロングだし。
ただ、「見下ろす」という行為のどこかから、妖異化、永遠化(そんな言葉あったかな)に導く細い糸がでているような……。そして、見上げる側からも、高いところの人はふだんと違って見える。西洋の古い建造物の高いところから街を見下ろす彫刻みたいに、やはり少し妖異化、永遠化しないだろうか。その僅かな感覚が増幅されていると感じた。
父さんの家は母さんの家になりいつ行っても夜みたいに静かだ
小川ちとせ
「父さん」は何らかの事情(他界とか離婚とか)でいなくなり、それまで「父さんの家」と呼んでいた実家を、「母さんの家」と呼ぶようになる。
成人した子どもの側のそうした意識の変化を、この字数で無理なく伝えている。「夜みたいに静か」というのも、実家が活気をなくしたことへの喪失感と、そこに暮らす母を案ずる子の立場の心情で、それが説明抜きでわかる。
春は行き決まった答えを持っていないものばっかりが光って見える
生田亜々子
これは、春という準備期間が終わって、それが整わなかったものたちだろうか。注目したのは、そういうもの「ばっかりが光って見える」という把握だ。
「光」は圧倒的に良いイメージで詠まれるが、悲しい光りかた、虚しい光りかたも表現できる。
一般的に、「答えを持っていない」のは輝けない状況と思われるが、「決まった答え」を得た者たちは早々に去り、あとに残ったものが、散らばったガラスのかけらみたいに、痛々しく光っているのかな、と思った。
山手線の高架の影を踏みながら日暮里田端の路地裏を行く
悠山
一連全体は、山歩きの歌のような趣きのある文体で、散策中の街を目がとらえて描く臨場感がある。
だがその一方、脳内で何か思念の底流にあるものを心が辿ってもいるかのようで、(散策とはそういうものかもしれないが、)それゆえの白昼夢的なテイストも少し混じり、隠し味的にそっと効いているみたいだ。、
初夏の町屋小暗き土間の奥岐阜提灯の蒼く灯れる
入谷いずみ
昔合戦のあった地を旅している途中で見た提灯。土間の奥の暗がりに灯る青い炎は神秘的である。
時空を超えて灯り続ける歴史そのものの魂を見た気がしたのかもしれない。漢字の続く歌のなかで、三回の「の」のところは暖簾を分けて進む心地がして、そうした構造も歌の内容にマッチしている。
臍のしたに七米もの腸がゐるとてもとつてもおとなしいのよ
久保茂樹
「脳みそとはらわた」と題された一連は、「仔ひつじの茹で脳みそ」を食べて、その脳みそが消化管を下っていく過程を詠んでいる。 掲出歌には「脳みそ」と書いてないが、作者の意図としては「脳みそ」が腸に到達した感触を詠んでいるのだろう。
消化管の紆余曲折は、川下り的なアトラクションめいている。「腸がいる」の「いる」が効いて、生きた大蛇の身の中を川下りするみたいだと一瞬思う。内臓というものはなんとなく気心知れない。「おとなしい」はずが、急に暴れ出すかも、などと波乱も予感される。
さみどりは緑雨のたびに深くなる私はここで何をしている
Akira
この一連の歌は、ひとつひとつ、何か応答みたいなフレーズを求めているな、という感じを受けた。
何か添えたい……。それはたとえば「我が身一つはもとの身にして」みたいなフレーズだが、なんだろう、と考えながら読み進んだら、最後にこの歌があった。
私はここで何をしている。
これか、これだったか、と納得した。
賛成をしないくらいで恨まれるだから水田になるんだよ
藤本玲未
賛成をしないくらいで恨まれるような窮屈な状態の集団だから、水田みたいな状況になるんだよ、という歌だろう、と思う。読むうちに、稲が同じぐらいの高さに育ってひしめいて、稲たちが少し頭を下げ気味の元気のない挙手をしている水田の映像が思い浮かんでくる。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は美徳だが、目立つ稲穂はカカシが睨む、っていう七七がつくのではないかしら。水田て。
ナポリタン巻く一瞬に生む銀河 君は銀河を幾度も食べる
折田日々希
「銀河」は渦巻いているので、渦巻きや廻るものと重ねて詠む歌がときどきある。そのなかでスパゲティはかなり斬新だと思う。
また、「銀河」には、(おそらくビッグバンのイメージが手伝って)「産む」「生まれる」といった連想脈もある。そして、「生」といえば「死」がセットの対立的概念だが、ちかごろ、「生/死」じゃなくて、「生/命を食べる」という対立的セットがひそむ歌を散見するようになってきて、この歌もその仲間であるようだ。
つまりこの歌には、新しい要素が二つ含まれている。
耳鳴りが酷くて、とだけ囁いて朱色の腕時計を預けた
土居文恵
なぜか死に臨む感じが漂っている。自分の今際の言葉を(、といっても死はあまり意識はせず)誰かに語っているみたいな……、いや、死者が、自分の生の回想を語り終える最後のところ、みたいな、回想の口ぶり。
そして、「朱色の腕時計」が鮮やかで、対照的に、周囲も語り手もモノクロに翳る。戻れない夢のような生の記憶の中で誰かに託した時計が、はるかな朱色の点になり、ぽっちりと見えているような感じがする。そういうふうに絵になる。
腰掛けるときの「よいしょ」でご機嫌ははかれるミスの報告は今
ソウシ
パワハラ上司だろうか。その仕草にいちいち振り回されて過ごす、安らぎのない日々。それが如実にわかる歌だ。もう1首は「炊飯器に労られつつ一日の後悔をするまだ一ヶ月」というもので、これも「まだ一ヶ月」という部分の切実さに驚く。
にんげんは周囲の人や物のアフォーダンスの中で自らを把握していることを改めて思う。そこをストレートに描いた歌だと思う。
明日にはハクモクレンが咲きますよ『きらきら星』から始めましょうか
白糸雅樹
楽器の練習の場面のようだが、どうしてだか、これはエンドレスな夢のような日常、あるいは日常のようにエンドレスな夢の中みたいに思える。
レッスンのはじめの言葉は「明日には◯◯が◯◯ですよ」と毎回少しずつ変化するが、そのあとは毎回同じ「『きらきら星』から始めましょうか」であるような。
進むことなく、なだめられ続けていく日々。だが、恐ろしくはない。老後の施設ならこういうやさしいエンドレスが普通だろう。いやもしかすると、老後じゃなくて生後の日々も……。
側溝に光る小袋おちていて ねるねるねるねの2番目の粉
蛙鳴
「ねるねるねるね」(複数の粉などを混ぜて練って変化を楽しむ食玩。粉の順番が重要)の粉の袋など、ただのゴミである。
だが、側溝にチラッと見えただけで、いまこの食玩にはまっている子ども、そんな子ども時代を卒業したぐらいの年代の人、そして、子どもと喜怒哀楽をともにしている親なら、それが何なのかがわかる。
歌は、どの立場で読むかで内容が少し違ってくる。現役の子どもにとっては、「誰か大事な粉をなくした」という単純な情報。子ども時代を終えて大人になる段階の人は、「2番目の粉」というプロセスの喪失を深刻に感じるかもしれない。そして、親の立場の人は、「ひと目見てこれがなんだかわかる自分」に親としての誇りをおぼえる一方、自分自身の「ねるねるねるね」はどうしたかと考える可能性もある。
君が居ぬ世界で吾は生きられぬ 裸足で土を踏んでかけ出す
榎田純子
「裸足で土を踏んでかけ出す」という記述から想起される、足取りのどたどた感がポイントだ。
読者はこの場面に、「しかし、この先のその生きられぬ世界で、この人は生きねばならないんだろうな」と、歌に書いてない未来を読み取るだろう。
こういうふうに読者とやりとりしようとするアフォーダンスの歌もあるんだなあと思った。
さぷさぷさぷさぷ君が食べてるご飯の幽霊明日からもここにいてね
森村明
猫だけでなくご飯までいっしょに幽霊になっていることも含めて、これは事実を詠んだ歌である。
だって、ご存知のとおり、猫は死んでもいなくならないのだから。
うちの猫も去年の暮に二十歳で普通の生を終えたが、そこからは不可視になっただけで、今も変わりなく、ドアのすきまをすり抜けたり、音をたてて飛び降りたり、カサカサいたずらしたりしている。
(知ってた?)(思い出してる)白鍵は口に入れたら冷たいのだろう
佐々木千代
「白鍵」というのはピアノの白黒鍵盤の白いほうだろうか。ふと白骨を思い浮かべそうになった。
鍵盤は歯のように並んでいるが、実は長い棒で、ピアノの内部まで伸びており、線を叩いて音を出す仕組みになっている。そういえばグランドピアノのなかの鍵盤は、肋骨みたいに見えたが。
前半の( )の部分は、ピアノの霊みたいなものの会話だろうか。後半、白骨がアイスキャンデーみたいで、ピアノの霊がすっかり生身を忘れている雰囲気がおもしろい。
デパ地下があるデパートに救急車が曲がってくとてもしずかな月夜
小川まこと
なぜか人の気配がない。これは人間の街であるはずで、救急車が走るなら、救命士や患者が存在するのだろう。だが、人を省いて描かれた絵のように人影はない。人間を無視し、街を物体として見ると、こういうクリアな景になると思う。
そのかわりなのかどうか、「デパ地下があるデパート」というところ、なんだかデパートの「身体」を意識させられた気がして、おもしろい。
地球には一億丁のカラシニコフ ヒトをなんども滅ぼすに足る
嶋田恵一
ヒトをなんども滅ぼすに足る武器はカラシニコフだけではない。たとえば核兵器は地球を十個破壊できるほどあるそうだ。そうしたものの中からこの歌は「カラシニコフ」を選んで詠まれたのだ。試みに上の句が「地球には一万発の核爆弾」(実際には一万七千とからしい)だったらどうだろう。地球には一億丁のカラシニコフ」を比べると、迷わずカラシニコフに軍配だ。
なぜかというと人が手に持つ武器だからだ。しかも「カラシニコフ」は人名みたい。人が人を直接的に殺すという面が、核兵器よりも強いと思う。
そのほか、「カラシニコフ」はなんとなく植物名ふうで風情があり、雑草の「ヤブガラシ」などがはびこるさまが、言語野のすみに見え隠れする、という要素もあると思う。
野良の瞳にひとはどんなに巨きかな神話のごとく日々を過ごさむ
瀧川蠍
「野良」といえば普通は犬猫だろう。大きい人間たちに囲まれて共存・依存・ときに敵対して生涯を過ごす。その状態を巨人族のいる神話の世界にいるようだ、と捉えている。「神話」をこういう比喩に使うのは珍しいと思う。
さて、これは、犬猫のみならず人間にも当てはまる話だろう。毎日テレビなどのメディアでいわゆるビッグな人たちの活躍を見て暮らしている私も、神話な日々を過ごしていると言える気がしてきた。
内臓の書を持ち帰る 図書館は内臓の書の不在となりぬ
松山悠
言葉と事実が撚り合わさって面白い味わい。
事実面は、内臓について書いてある書物を借り出して持ち帰ると、その「内臓の書」は図書館の外に出て不在となる、という、まあ当たり前なことだ。が、図書館の蔵書の「蔵」は「臓」と音も字面も似ているために、図書館の内蔵を持ち出したような空想に誘われる。
さらに、図書館には少し神聖なイメージもあるため、二度三度読むうちに、「聖遺物」「仏舎利」など(聖人の身体の一部も神聖なものとして祀られる)への連想脈も刺激されてくる。
何回も何回も食べてたしかめるそれはあなたの右手のこぶし
土井みほ
一瞬タコかしらと思ったが、嬰児のしぐさを詠んだ歌。「何分の一ほど同じ遺伝子がいのちを燃やしている腕のなか」という歌もあるからわかったが、むろん単独でもピンとくる人はいると思う。
人間の子は、人生の始まりに、まずはこういうふうに自分の身体の確認し、次にその手足のできることを見つける。そのパワフルな様子(タコのような力強さ)だけをストレートに捉えている。
まよなかの闇にはなたれ電磁波の濁音ひかりオーロラとなる
歌野花
オーロラは宇宙空間の電磁波の高エネルギー電子が大気に衝突して発生するものだそうだ。
美しい現象を起こす仕組みに衝突という作用があることに着目していることがおもしろい。加えて、そのことを、「電磁波」の「で」「じ」という濁音と重ねるような書き方をしており、言葉愛もほんのり重ねられている。
切り花とわれと地球儀立つことの重たき部屋をきみはでてゆく
森山緋紗
「恋人などが部屋を出ていく」という情趣は沢田研二の昔から(源流は、暁の鶏にせかされる古典和歌か)抒情界の定番。掲出歌では、その盤石の予定調和がほどよく生かされ、ほどよくかわされてもいる。
「立つことの重たき」ものが三つあげられている。部屋にあって目に入ったものをあげたらしい臨場感を確保しつつ、タロット占いで引いたカードの三枚のように暗示的でもある。
根を断たれて自立できない「切り花」、立ち上がって「きみ」追えない「われ」。ここに「地球儀」という飛躍は想定を超えたが、地球儀は頭でっかちで物体としてでくの坊だし、これは地理の知識なんか全く役に立たない局面なんだと、じわじわ了解されてきた。
以上、たまに回ってくる前号評当番なので、最初のほうは、歌を読む時の目の付け所の一つとして、アフォーダンスというものを提示し、詳しく踏み込んでみた。そのあとは、一人一首ずつピックアップしてコメントをつける形で、力及ばぬ部分もあったが、さまざまなアプローチを試みた。
2024・9・28
「かばん」2024年7月号を読む 1 アフォーダンスの観点から
「かばん」2024年7月号を読む 2 七月号の歌のピックアップと短評 前編